通でがんす

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(旧ブログタイトル:通じゃのう)

日本電気計器検定所中国支社(旧電気試験所広島出張所) 広島市西区三篠町

2011年08月30日 | 広島の話題
「三篠町(みささちょう)にある旧電気試験所が、10月から解体されるんじゃと」

「電気試験所?」



日本電気計器検定所中国支社(旧電気試験所広島出張所)
(三篠町1丁目交差点西側から南東方向を写す)



正門



社名が取り外された看板



「この建物は1937年(昭和12)2月、逓信省(ていしんしょう)が電気計器の検定を行う全国で5番目の施設として、鉄筋コンクリート2階建てで建てたんじゃそうな」

「逓信省いうたら、郵便や電話の仕事をしよったはずじゃろ。なんで電気の仕事をされとったんかね?」

「わしも知らんかったんじゃが、逓信省は郵便・電信・電話から電気まで管轄されとったそうじゃ。ほいじゃけぇ、電気機器や配線の安全検査は逓信省の業務じゃったんよ」

「へぇ…」

「コンセントやプラグなんかに「〒(郵便記号)」のマークがついとったのは、覚えとるかいの?」



蛍光灯に取りつけられた〒マーク


「あぁ、そういわれりゃついとったね。逓信省じゃけぇ、「〒」のマークがついとったん?」

「ほうじゃの。逓信省の電気試験所が電気の試験を行っとった、ということの名残りじゃそうな」

「へぇ~。ほいで今はどこがこの業務を受け継いどるん?」

「今は日本電気計器検定所が受け継いどるんじゃ」

「あぁ、そうか。そこの中国支社として使われとったんじゃったね」





「で、この建物を設計されたのが山田守(やまだ まもる)氏じゃ。有名なところでは、日本武道館や京都タワービル、NTT門司電気通信レトロ館(旧:門司郵便局電話課)なんかが有名じゃのう」

「門司電気通信レトロ館いうたら、JR門司港駅や九州鉄道記念館なんかの古い建物がある門司港レトロにあるよね」

「個人的には、神奈川県川崎市にある長沢浄水場の設計者としても有名なんじゃ」

「長沢浄水場? そんな有名なものなん?」

「ここは『ウルトラQ』や『ウルトラマン』、『仮面ライダー』などのロケ地として使われとったんよ」

「はいはい。わかったけぇ、この建物について話をしてちょうだいね」

「北側外壁のタイルは、現在あまり使われていない釉(ゆう)かけモザイクタイルが使われとるそうじゃ」

「北側のタイルが残っとる…?」

「この建物のほぼ真南の方向が爆心地になるけぇ、北側のタイルが残っとるんじゃないんかの」



建物北側





「この建物は、被爆建物になるんじゃね。被害はどんなかったん?」



1945年(昭和20年)8月6日広島市への原子爆弾投下により被爆、爆心地から約1.79kmに位置した。
爆風により爆心地方向である南側窓は破損したが建物自体は倒壊をまぬがれた。
計測器など精密機器は予め疎開させていたため無事だった。
当時構内に置かれていた西分局横川従局は、木造のため全壊した。
職員のみならず学徒動員で来ていた県立広島工業学校(現広島県立広島工業高等学校)生徒も被爆し、職員2人学徒2人が死亡、職員18人学徒6人が重軽傷を負う。

「日本電気計器検定所中国支社」ウィキペディア




「この建物は鉄筋コンクリート造りじゃったけぇ、建物の倒壊はまぬがれたそうじゃ。構内にあった木造の建物は全壊じゃったそうじゃがの」

「県工(けんこう。県立広島工業高校)の生徒がここで被爆されとってんじゃね」

「白い外壁が空襲の目標になるということで、戦争中は外壁を灰色に塗られとったそうじゃ」

「大変な時代もあったんじゃね」

「終戦後、焼けた検定台を補修したり、他から測定機器の提供を受けたりして、業務を再開されたんよ。建物は、原爆投下の翌年の1946年(昭和21)と1949年(昭和24)に改修が行われたそうじゃ」

「跡地はどうしてん?」

「スーパーが建つ予定じゃそうな」



↓日本電気計器検定所については、こちら↓

JEMIC 日本電気計器検定所




↓山田守については、こちら↓

山田守建築事務所



↓日本武道館については、こちら↓

財団法人 日本武道館



↓京都タワービルについては、こちら↓

京都タワー



↓門司電気通信レトロ館については、こちら↓

門司電気通信レトロ館 NTT西日本 北九州支店

門司港レトロ・観光情報サイト




↓被爆建物については、こちら↓

「被爆建物リスト」広島市





「今日は、西区三篠にある日本電気計器検定所中国支社(旧電気試験所広島出張所)について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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あこがれの国産車 マツダDAY 広島市交通科学館(その2)

2011年08月29日 | 広島の話題
「9月4日(日)まで、広島市交通科学館で「あこがれの国産車 ~昭和40年代の名車たち~」いうのをやっとるんじゃ」

「お父さん、この間も行ってきたじゃん」

「今日は「マツダDAY」いうことで、ロータリー車を中心にマツダ車が展示されとったんよ。いや、今日も楽しめたのう」

「今日は、車の年式が新しい順に紹介しとりますけぇね」






サバンナRX-7 SA後期GTターボ 1983年式






サバンナRX-7 SA前期GT 1978年式






サバンナGT 1977年式




コスモAP Limited 1976年式






コスモAP CustomSpecial 1976年式








コスモスポーツ L10A 1970年式



コスモスポーツ勢揃い!






ファミリア1000 Deluxe 1967年式







R360クーペ 1963年式






↓広島市交通科学館については、こちら↓

広島市交通科学館





↓広島市交通科学館についての関連記事は、こちら↓

あこがれの国産車 ~昭和40年代の名車たち~ 広島市交通科学館


あこがれの国産車 マツダDAY 広島市交通科学館(その1)


『帰ってきたウルトラマン』で、マットビハイクルとして使われたマツダ車は?






「今日は、広島市交通科学館の企画展「あこがれの国産車 ~昭和40年代の名車たち~」で展示されているマツダ車を紹介させてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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牛の首と牛の首観音堂 広島市安芸区矢野町

2011年08月28日 | 広島の話題
「この間、矢野町(やのちょう)にある牛の首という所を見に行ってきたんじゃ」

「「牛の首」って、すごい名前じゃね」

「牛といえば、「宇品」という地名も、この島が牛が伏(ふ)せとる形に似とるけぇ、「牛の島(うしのしま)」から「宇品(うじな)」というようになったという説もあるんじゃ」

「宇品も、明治の初めまでは島じゃったよね」

「矢野町のも、牛の首に似とるけぇ「牛の首」って名前を付けたんじゃろうの」

「ほいで、どこにあるん?」

「フジグラン安芸の東側の道を北側に入って行って、済生会広島病院の東側に牛の首があるんじゃ」



国道31号線
(坂町北新地2丁目付近)



「フジグラン安芸いうたら、国道31号線を呉から広島に向かって行くと、左側にあるよね」

「今は埋め立てて東部流通団地になっとるが、むかしは海じゃったんよの」

「ほうじゃったね。埋め立てたのはいつごろじゃったっけ?」

「1979年(昭和54)に工事を始めて、1984年(昭和59)に完成しとるけぇ、27年前か…。それまでは、夏は海水浴客でにぎわっとったそうじゃ」

「そこに観音堂もあったんじゃね」



御縁起



御縁起

往古よりこの岬は牛の首といわれ風光松涛(しょうとう)の景勝地である。
沖を行交う漁舟廻舷の息吹き、見渡される村や町の進展する姿はおのずと人々をして今昔の感にうたれるものがある。

そもそも牛の首観音堂は、昭和二十三年郷土出身の政治家木原七郎氏がこの地をトして創建されたものである。
ご本尊は馬頭観音のお像である。
旧広島藩主四世浅野光晃侯の正室は、加賀藩主前田中納言利長侯の息女にして徳川三代将軍家光公の養女として浅野家へ入輿せらるる際に持参せられたる由緒深いものである。

昭和二十三年木原氏は浅野長武元侯爵より贈与せられ昭和二十五年春の頃ここに勧請したものである。

年を経ること三十年修復に当りては郷党相倚り相扶けてここに工成りて落慶の佛典を挙ぐるを得て歓喜の至りである。


  昭和五十四年九月
    牛の首景勝保存会
      矢野町史跡顕彰 発喜会建之




「この縁起によると、1948年(昭和23)、地元出身の政治家・木原七郎(きはら しちろう)氏が観音堂を作った。1950年(昭和25)の春に馬頭観音像を勧請(かんじょう)してきた、ということじゃろうの」

「「景勝(けいしょう)」ということは、このあたりは景色のええかった所なんじゃったんじゃろうね。写真を見る限り、今はかなりさびれた感じがするけど…」

「今では階段の途中にフェンスを張って、登れんようにしとってんじゃけぇの」



階段の途中にある入口のフェンス



観音堂のあった場所?



牛の首の先端部






「ところで、木原七郎さんってどんなことをされた方かいね?」

「安芸郡矢野町(現:広島市安芸区矢野町)出身の政治家で、原爆投下直後の1945(昭和20)10月から広島市長を務められた方なんじゃ」

「ほんま!? 戦後すぐの市長は、「原爆市長」と呼ばれた浜井信三(はまい しんぞう)さんじゃと思うとったけど?」

「1947年(昭和22)3月、木原氏は公職追放で市長を辞任されちゃったんよ。ほいで、その年の4月に浜井氏が市長になられたんよ」

「公職追放って、何じゃったっけ?」

「太平洋戦争後、戦争犯罪者や職業軍人、戦争に協力した人たちが、GHQによって公(おおやけ)だけでなく、特定の民間会社の職につくことを禁止されたんじゃ」

「木原さんは何をされたん?」

「戦時中、大政翼賛会の代議士じゃったけぇ公職追放になったんそうじゃ」



終戦直後の1945年(昭和20)10月広島市長に就任。
被爆者への食糧・衣料の確保、配給に努めた。
翌1946年、地元各界代表で構成する広島市復興審議会を設け、都市計画の策定に着手。
市内旧軍用地の無償譲与により市財政の立て直しを決意した。

(略)

市長も戦時中の大政翼賛会推薦代議士であったことが占領政策に牴触し公職追放。
挫折した旧軍用地問題は、浜井信三助役の市長就任後、広島平和記念都市建設法の制定で開花した。

(木原七郎「広島県大百科事典 上」中国新聞社 1982年)




木原七郎先生頌徳碑






↓東部流通団地については、こちら↓

東部流通団地協議会





↓フジグランについては、こちら↓

フジのホームページ このまちが好き。the-fuji.com





↓済生会広島病院については、こちら↓

済生会広島病院





「今日は、牛の首と牛の首観音堂、政治家・木原七郎について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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月と海と太陽の神話 旧日本銀行広島支店

2011年08月26日 | 広島の話題
「昨日は、『月と海と太陽の神話』という展示会に行ってきたんじゃ」

「何それ?」

「神話をモチーフに、切り絵とアニメーションの展示されとってんよ」

「切り絵いうたら、お父さんがむかしやっとったよね」

「切り絵はふつう、額に入れて飾ってあって、それを鑑賞するんじゃが、この展示はちょっと違うんよの。懐中電灯を手に、作品を鑑賞するんじゃ」

「懐中電灯って…。えぇ!? こんな薄暗い中で展示しとってん?」




旧日本銀行広島支店 地下金庫入口



「まず、入口で懐中電灯を渡されるんよ。切り絵に懐中電灯の光をあてることで、壁に切り絵の影が映って影絵にすることができるというわけじゃ。しかも懐中電灯を上下左右に動かせば、影絵も一緒に動くんじゃの」

「お客さん自身が楽しみ方を選べるというわけじゃね。こりゃ面白そうじゃん」

「じゃろ? 今ままで考えもつかんかった見せ方じゃったのう」

「切り絵って平面じゃけど、光を当てると立体的な感じがするよね」

「切り絵をこんな風に楽しんだのは、わしゃ初めてじゃったで」




壁に映ってできた影絵



「この切り絵を作られたのは、誰?」

「グラフィックデザイナーの山本理子(やまもと りこ)さんという方なんじゃ。神奈川の方なんじゃが、広島でやりたいということで、旧日銀広島支店の地下金庫で展示会を開かれとってんよ。隣の部屋では、映像ディレクターの早川貴泰(はやかわ たかひろ)さんが、アニメーション作品を上映しとってんじゃの」

「へぇ」




山本理子さん



「最初に「神話をモチーフにした」と言うたんじゃが、お2人とも日本神話の「天の岩戸(あまのいわと)」の話をモチーフに制作されとってんじゃ」

「天の岩戸って、スサノヲの乱暴に怒ったアマテラスが天の岩戸に篭(こも)って入口を大きな岩で塞(ふさ)いでしもうたけぇ、この世が真っ暗になったという話よね?」

「そのおかげで、世の中にはいろいろな禍(わざわ)いが生まれるんじゃ。そこで、天の岩戸の前でアメノウズメが胸をはだけて舞い踊ると、八百万(やおよろず)の神がそれを楽しんで笑うたんよの」

「この笑い声を聞いたアマテラスが、「うちが隠れたけぇ、みんな困っとるはずじゃろ。それなのに、なんであんたらはそんな楽しそうに笑うとれるん?」と思うて、入口を塞いどった岩を少し開けてみるんよね」

「天の岩戸の横でひかえとったタヂカラオが、岩を取りのぞいてアマテラスを引き出すんじゃ。こうして世の中は以前のような明るさを取り戻し、禍いもおこらなくなって、めでたしめでたし、という話じゃの」

「ということは、天の岩戸の前でアメノウズメが踊って、八百万の神たちが笑っているところを切り絵で表現しとってん?」

「全員が天の岩戸の前で踊っとる、という設定なんじゃ。しかも、踊っとるのは神様だけじゃのうて、鳥や魚、虫を含めた生き物が100種類。しかも1種類で踊りのパターンが3つあるけぇ、全部で300個あるんじゃ」

「300も!?」

「生き物たちの踊りがパターン化されとらんのには、驚かされたのう」

「似た形の踊りが少ないということ?」

「どの生き物も心の底から楽しそうに踊っとるけぇ、似た形の踊りが少ないんじゃろうの」




踊る!


踊る!!


踊る!!!




「ところで、なんで「天の岩戸」をモチーフにしちゃったんかね?」



(略)

このお話もとても好きです。
力ずくでもなく、呪文でもなく、アマテラスが自ら出てこられるようにするため、笑いの力を借りるのです。

ただ、笑いが必要だったのは八百万の神々ではなかったのかとも思います。
「困った、どうしよう!」と焦り、余裕を失うと身体が緊張してしまいます。
身体が硬くなると受け止める力がなくなってかえってはねのけてしまうこともあります。
傷ついたアマテラスをしっかり受け止め、ちゃんと繋(つな)がるためにも踊り、大きな声で笑い身体も心も開き、力を抜いてアマテラスを柔軟に受け止める必要が神々にあったのではないかと思えてくるのです。

傷ついた人をしっかり受け止め、新たな扉を開く。

戦争で、災害で、そして日常の中でも傷つき、つらい思いをしている方が多くいらっしゃいます。

しかし人は前に進む力を持っています。
そして受け止める力も持っています。

その力を信じ、今回神話の中でも「天の岩戸」を主軸にしました。
大きな声で笑い、踊り、目の前の岩戸を開き、豊かな力が生まれることを願って。

     山本理子

(チラシより)




「そういう思いを込めて作られた切り絵が、それぞれ高さ70センチから150センチの柱状の台座に乗せて飾ってあるんじゃ。この台座は1個1個、紙を折って作っとってんよ」

「へぇ~。切り絵だけじゃのうて、台座も300個作っとってんじゃ」

「台座もそうじゃが、床に置いてある照明具の飾りも紙を折って作っとられるんよの」




台座




照明具と飾り




「ところで、これらを作るのにどのくらいの期間かかったんかね?」

「6月末に広島に来られて制作を始められたそうじゃけぇ、1ヶ月半くらいじゃそうな」

「1ヶ月半で、これだけの量を作っちゃったんじゃ。すごいね!」



「あと、山本さんのホームページも必見じゃ!」

「おぉ、トップページで切り絵が動くんじゃね。NHK教育テレビの「プチプチ・アニメ」のような動きじゃね」

「コマ撮りされたクレイ(粘土)アニメのような動きじゃのう。動く切り絵というのも、わしゃ初めて見たで」





月と海と太陽の神話

■場所/旧日本銀行広島支店 地下1階
      広島市中区袋町5-16

■会期/2011年(平成23)8月15日(月)~27日(土)

■時間/11:00~19:00






↓山本理子さんについては、こちら↓

Riko





↓早川貴泰さんについては、こちら↓

TakahiroHayakawa





↓旧日本銀行広島支店については、こちら↓

建築マップ 日本銀行旧広島支店




↓切り絵についての関連記事は、こちら↓

広島市中区在住の切り絵作家は誰?





「今日は、旧日本銀行広島支店の地下金庫で開かれている「月と海と太陽の神話」について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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パンプキン 模擬原爆が落とされた街

2011年08月25日 | 日記
「この間、『パンプキン! ~模擬原爆の夏~』という本を読んだんじゃ。子供向けの本じゃったが、読みがいがあったで」





(『パンプキン! ~模擬原爆の夏~』アマゾンより)



「模擬原爆? 聞いたことがないけど、どんなもんなん?」

「1945年(昭和20)、アメリカが原爆3発の原爆を作ったのは知っとるよの。1発は広島に投下された魚雷のような形をしたウラン原爆。あとの2発は長崎に投下された球状のプルトニウム原爆じゃ」

「それぞれ、「リトルボーイ」「ファットマン」という名前がつけられとったよね」

「ウラン原爆は確実に爆発することができるけぇ、そのまま広島に投下したんよ。それに対して、プルトニウム原爆の方は投下する前に実際に爆発させてみる必要があったんじゃ。B29から日本に原爆を投下したはええが、爆発せんかったり、日本軍が解体して原爆の秘密がばれてしもうたら困るけぇの」

「あんなもん、爆発せんほうがえかったんじゃけどね…」

「今さらそれを言うても仕方ないんじゃがの…。とにかく、1945年の7月16日に、アメリカのニューメキシコ州で実験を行ったんじゃ」

「これが人類最初の核実験になったんよね」

「アメリカは原爆の開発に成功したんよの。そうなると次は、投下目標に対して、B29から原爆を正確に投下するための予行演習が必要になってくる、というわけじゃ。原爆は通常の爆弾より重いけぇ、それなりの練習が必要なんじゃそうな。しかも、原爆を落とした後は、熱線や爆風から逃れるために、すぐに反転して全力で逃げんにゃいけんしの」

「そういう理由で模擬原爆を日本に投下したんじゃね」

「模擬原爆「パンプキン」は、長さ約3メートル、直径約1・5メートル、重さは約4・5トン。外観や重さをファットマンそっくりに作った通常爆弾なんじゃ。通常爆弾じゃけぇ、投下すると、爆発する。爆発すると、人が死んだりケガをしたりするんよの」

「この爆弾が、日本に何発ぐらい落とされたんかね?」

「東京や名古屋、大阪など、全国の30都市に49発が投下されて、死者約400人、負傷者約1200人の被害を出したそうじゃ。原爆を投下するデータを集めるためだけにの」

「戦争って恐いねぇ。こんな実験や訓練を、平気でやるんじゃもん」

「原爆の投下が目視で行われたのは知っとるかいの?」

「もちろんよ。8月9日も、ほんまは福岡県小倉市(現:北九州市)に投下するはずじゃったんよね。それが目視での投下目標の確認に失敗しけぇ、第2目標の長崎県長崎市に変更したんじゃろ」

「ほうじゃの。原爆は昼間に、視界のよい状態で、人間の目で目標を確認して投下する、というのが条件じゃったんよ。この本では、7月26日に大阪市東住吉区田辺に投下された模擬原爆を取り上げとるんじゃ。この日も、ほんまは富山市にある軍需工場に投下する予定じゃったんじゃが、富山の天気が悪かったけぇ、第2目標の大阪市街地に投下したそうじゃ」

「市街地?」

「目視による投下を優先しとったけぇ、大阪は軍需工場じゃのうて、それとはまったく関係のない市街地に投下したんじゃ」

「う~ん、恐いねぇ…」

「もっと恐いのは、広島・長崎に原爆が投下されたあとの8月14日にも、愛知県で模擬原爆を投下しとることじゃ」

「えぇ~!? なんで?」

「このころ、アメリカは戦後のことを考えとったんよ。ソ連に対するアメリカの優位を守るために、原爆の投下を急いだしの。この模擬原爆も戦後、通常兵器として使うつもりじゃったらしいんじゃが、生産コストが合わんけぇ不採用になったそうじゃ」

「うちは模擬原爆って言葉を知らんかったけど、このことはアメリカ軍が伏せとったんかね?」

「もちろん。米軍の資料からこの爆弾の存在がわかったのが、20年ほど前じゃそうな。B29の基地となったテニアン島に残されとった模擬原爆66発も、機密保持のために海に破棄されたんじゃと」





↓模擬原爆については、こちら↓

「パンプキン爆弾」ウィキペディア





↓大阪市東住吉区田辺に投下された模擬原爆については、こちら↓

「模擬原爆投下跡地 碑」大阪市教 城北支部





↓模擬原爆の被害については、こちら↓

第509混成群団による模擬原爆・パンプキン被弾地一覧表





↓原爆についての関連記事は、こちら↓

戸坂の供養塔 広島市中区戸坂

映画『一枚のハガキ』 八丁座

映画『二重被爆~語り部 山口彊の遺言』 八丁座






「今日は、模擬原爆「パンプキン」について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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