通でがんす

いろんな広島を知って、ひろしま通になりましょう!
(旧ブログタイトル:通じゃのう)

宮島検定、自己採点結果は!?

2009年11月30日 | 日記

昨日(11月29日)、第4回宮島検定を受験してきたんじゃが、自己採点の結果は68点!じゃった。

「認定カード」を発行してもらえるのは、70点以上の人だけ。

まあ、解答が「?」のものは点数に入れとらんが、それにしても70点あるかどうか、ギリギリというところじゃのう…。
(「?」をつけた問題が7問ある)

まあ、結果発表を楽しみにしときましょう。


宮島検定は1~2週間休んだあと再開する予定ですけえ、その時はまた、読んでみてくださいや。


ほいじゃあ、またの。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平和大通りの東西方向の長さは?

2009年11月29日 | 広島の話題

広島市を東西に貫く、緑豊かな平和大通り。


【問題】
日本の道100選にも選ばれている平和大通りの幅員は、通称「百メートル道路」のとおり100mですが、東西方向の長さは?

1.約2キロメートル  2.約4キロメートル  3.約6キロメートル  4.約8キロメートル


【ヒント】
平和大通りは、鶴見橋(つるみばし)西詰めから新己斐(こい)橋東詰めの間、といえばだいたいの距離がわかりますかの?



ひろしま通認定試験は2009(平成21)年12月6日(日)実施です。



【解答】
2.約4キロメートル


【解説】
平和大通りは、広島市を東西4キロメートルに渡って貫く通りの名称で、「100メートル道路」とも呼ばれ、平和記念公園の南側を通っとるんじゃ。
東端が比治山下の鶴見橋(京橋川)で、ここから西へ平和大橋(元安川)、西平和大橋(本川・太田川)、緑大橋(天満川)と渡って、新己斐橋(太田川放水路)が西端になるんよ。
猿候川(えんこうがわ)まで伸びとったら、市内の川を完全制覇しとったんじゃがのう。


平和大通りの大まかな歴史は、以下のとおりじゃ。


戦争末期、空襲による延焼を防ぐ目的の防火帯を作るべく、幅100mの防火帯を作る計画が立てられた。
この作業に動員された市民や学生の頭上で原子爆弾が炸裂し、数万名が死亡したといわれる。


1946(昭和21)年の復興計画では、爆心地の中島地区を緑地とし、東西に延びる2本の百メートル道路をつくる、とあった。
「なぜ広い緑地や道路がいるのか」。
戦後間もない時期で、なんとかその日の生活をしのいでいた市民たちは冷ややかに見ていた。
その後、百メートル道路は1本となるが、整地が進んでも舗装が進まないという状態だった。
1957(昭和32)年ころから道路として形を整え始め、また、供木運動が始まり、県内はもとより、日本・世界からも苗木が贈られた。
1965(昭和40)年、己斐まで全通し、今のような形になった。

ヒロシマの記録 平和大通り 中国新聞


1975(昭和50)年、広島東洋カープがセ・リーグ初優勝を達成。
平和大通りで優勝記念パレードを行う。
これが、フラワーフェスティバル開催の契機になったといわれる。


1996(平成8)年からスタートした全国都道府県対抗男子駅伝競走大会では、平和公園がスタート&ゴール地点となっており、ランナーたちはこの通りを駆けぬける。
前身の中国駅伝でも、ゴールは平和公園だった。
(中国駅伝は、福山-広島間、全8区間107.5キロメートルで争われていた駅伝大会)


2002(平成14)年からは、冬の広島の街をライトアップするひろしまドリミネーションが行われている。
今年は11月6日から、来年(2010年)1月3日までで、点灯時間は17時30分から23時まで。
ひろしまドリミネーション2009


2005(平成17)年には、土谷病院前に平和の門が設置された。
フランスの建築家たちが被爆60年を記念して制作、寄付したもの。
高さ約9メートルの門が10基あり、ダンテの神曲の九つの地獄にちなみ、被爆を10番目の地獄として、平和な未来への希望を表現している。


今日は、平和大通りについて勉強をさせてもらいました。
供木運動で、世界からも苗木が贈られたというのは、今回はじめて知りました。
現在、約150種2,200本の樹木が植えられているんじゃそうな。
今日もひとつ勉強になったでがんす。


今回は、「ひろしまファンクラブ 第167号 平成20年11月27日(木)発行」から出題させてもらいました。感謝!


「ひろしま通」の過去問は、「ひろしまファンクラブ」というメールマガジンに出とります。


ほいじゃあ、またの。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宮島の歴史(後編)

2009年11月28日 | 広島の話題
えっ、まだ読んでくれるの?
ありがとうございます。

ここから後編、明治以降の歴史です。


1868(明治元)年
3月、仏具を神体とすることを禁止し、社前の仏像・仏具を取り除かせる(神仏分離令(しんぶつぶんりれい))。
廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動がおこり、厳島の寺院は主要な7ヶ寺を除いてすべて廃寺となった。
厳島神社や千畳閣などに安置されていた仏像等も寺院へ移されたり、一部が失われたりした。

1872(明治5)年
6月、広島県、千畳閣で博覧会を開催する。
11月、棚守など厳島神社の従来の神職名が廃止され、新たに宮司(ぐうじ)などの神職が設けられた。

1874(明治7)年
2月、厳島神社本殿の屋根の修理を始める。
この修理で、従来はなかった千木・勝男木を上げる
9月、広島県は厳島神社周辺地域を「厳島公園」として、公園取扱条例を定める。

1875(明治8)年
7月、大鳥居の再建落成を行う。(現在の大鳥居)

1879(明治12)年
1月、鹿保護のため、県令で全島禁猟となる。

1880(明治13)年
この年から、神仏分離令後廃止されていた延年祭(えんねんさい)が、現在の玉取祭として復活。以後、毎年行われるようになる。

1885(明治18)年
7月、明治天皇、厳島神社参拝。(山口・広島・岡山の3県を巡幸)

1889(明治22)年
4月、町村制施行により、厳島町となる。

1892(明治25)年
4月、厳島神社御鎮座1300年祭が行われる。

1893(明治26)年
8月、大阪商船赤馬関(あかまがせき。現・下関)線、尼崎汽船、厳島に定期寄港を始める。

1895(明治28)年
5月、広島賛同協会の事業の一環として、厳島神社裏(現在の社務所)に厳島神社宝物陳列館ができる。
7月、広島予備病院厳島転地療養所が開設され、千畳閣・光明院・大願寺などに戦傷者が収容される。
1894(明治27)年に日清戦争が勃発。兵隊たちは宇品港(現広島港)から出兵し、広島には大本営が設置され、明治天皇を迎えて帝国議会も開かれた。
広島から大陸に向かう将兵は厳島神社で戦勝祈願を行った。帰還報告にも宮島を訪れ杓子を土産に持ち帰ったことで、宮島杓子が全国に知られるようになったという。


1897(明治30)年
9月、山陽鉄道が徳山まで開通し、宮島駅(現宮島口)が設けられる。
12月、平家納経が国宝に認定される。

1898(明治31)年
3月、鷹ノ巣浦が要塞地となり、砲台が建設される。これにより鷹之巣浦神社が入浜に移転する。
5月、千畳閣で豊太閤300年祭を行う。

1899(明治32)年
2月、岡倉天心ら古社寺保存のため来島し、厳島神社・大願寺・光明院で調査する。
3月、室浜砲台竣工する。
4月、厳島神社本社・大鳥居以下一連の社殿が特別保護建造物となる。
8月、厳島神社・大願寺・光明院の絵画・美術工芸品など35点が国宝に指定される。
同月、要塞地帯法により、宮島周辺の測量・撮影・漁業が制限される。

1900(明治33)年
10月、宮島渡航会社が開業する。

1901(明治34)年
1月、厳島神社、本社本殿・幣殿・拝殿・祓殿の解体修理が始まる。(明治大正大修理)
この修理で、明治7年に上げられた千木・勝男木を取り除き、旧来の形に復元する

1903(明治36)年
3月、山陽鉄道、宮島渡航会社宮島口-厳島航路を買収し、厳島桟橋が営業を開始する。

1905(明治38)年
4月、御笠浜に石の大鳥居が落成する。

1906(明治39)年
3月、広島の藤谷□○堂、絵葉書「宮島名勝」を発売する。
11月、伊藤博文らの尽力により、弥山登山道の大修繕工事が竣工する。
これを記念して「弥山登山道改修碑」が、大聖院の仁王門前に建てられた。

1917(大正6)年
7月、宮島ホテル新館が落成する。
設計者のヤン・レツルは、原爆ドーム(開館当時は「広島県物産陳列館」)も設計した。

1923(大正12)年
3月、史蹟名勝天然記念物保存法により、史蹟・名勝「厳島」に指定される。

1926(昭和元)年
7月、広島瓦斯電軌(現・広島電鉄)宮島線西広島-新宮島(現阿品)間が開通する。

1929(昭和4)年
12月、弥山北麓・厳島神社の後背地一帯が、史跡名勝天然記念物保存法により、天然記念物「弥山原始林」に指定される。

1931(昭和6)年
1月、松大旅客運送(現松大観光汽船)、定期航路による運行を始める。
2月、広島瓦斯電軌宮島線、新宮島-宮島口開通する。(現在の広島電鉄宮島線全面開通)

1937(昭和12)年
9月、誓真大徳頌徳碑(せいしんだいとくしょうとくひ)ができる。

1940(昭和15)年
10月、駅弁、尾道の鯛飯・宮島のかき飯が廃止される。

1941(昭和16)年
3月、毛利元就上陸碑が包ケ浦に建てられた。
12月、厳島神社などで、米英宣戦布告奉告、戦勝祈願の臨時大祭が行われる。
太平洋戦争勃発。

1945(昭和20)年
8月6日、広島に原爆が投下される。
8月8日、島内各所に、戦災避難者収容所ができる。
9月、枕崎台風来襲で、紅葉谷川に土石流が発生し、厳島神社に被害を与える。
この復旧工事を契機に、昭和24年からの昭和の大修理工事始まる。

1947(昭和22)年
12月、昭和天皇行幸。

1950(昭和25)年
5月、宮島全島、瀬戸内海国立公園に編入される。
8月、文化財保護法の施行により、従来の国宝はすべて重要文化財となる。
11月、厳島町が、宮島町と改名される。

1952(昭和27)年
3月、清盛祭始まる。
8月、大元公園の宮島ホテルが火災により焼失する。
11月、宮島全島、文化財保護法による特別史跡及び特別名勝「厳島」に指定される。

1954(昭和29)年
3月、清盛神社が西松原に創建される。

1955(昭和30)年
4月、弥山山頂に旧展望台が建設される。

1959(昭和34)年
3月、宮島ロープウエイ竣工する。
5月、大元公園に広島県立宮島水族館が開館する。

1962(昭和37)年
8月、小豆島よりニホンザル47頭を移入し、獅子岩に日本モンキーセンター宮島支所が開設される。
11月、宮島ホテル跡に、国民宿舎宮島ロッジが開館する(現・国民宿舎みやじま杜の宿)。

1964(昭和39)年
7月、旧室浜砲台跡地に、広島大学大学院理学研究所附属宮島自然植物実験所が発足する。
9月、東京オリンピックの聖火、宮島口を通過し広島市に入る。

1967(昭和42)年
4月、宮島水族館が町営となる。
8月、塔の岡トンネルが開通する。

1972(昭和47)年
NHK大河ドラマ『新平家物語』(仲代達矢主演)が放映される。

1973(昭和48)年
6月、マツクイムシ防除のため薬剤を空中散布する。

1974(昭和49)年
4月、町立宮島歴史民俗資料館が開館する。

1976(昭和51)年
2月、港町・胡町沖を埋め立てて、国鉄・松大汽船の桟橋を統合した宮島桟橋が竣工する。

1978(昭和53)年
7月、皇太子ご夫妻が来島され、第20回自然公園大会が包ケ浦で開催される。

1980(昭和55)年
7月、都市公園法により、厳島公園は宮島公園となる。

1985(昭和60)年
10月、宮島水族館のラッコ館が完成し、ラッコの公開が始まる。

1987(昭和62)年
「日本の白砂青松100選」に「包ヶ浦海岸」が選定される。

1988(昭和63)年
9月、電線類の地中化工事が始まり、以後町内から電線が見えなくなる。

1989(平成元)年
4月、宮島町民憲章、町の花「アセビ」、町の木「モミジ」、町の鳥「ヤマガラ」を制定する。

1991(平成3)年
9月、台風19号が襲来し、弥山山中の諸堂社・樹木が倒壊し、厳島神社能舞台・左楽房が全壊する。

1994(平成6)年
10月、厳島神社御鎮座1400年大祭が行われる。

1996(平成8)年
12月、メキシコのメリダ市で開かれたユネスコの第20回世界遺産委員会で、「原爆ドーム」と「厳島神社」の世界遺産登録が決定される。

1997(平成9)年
1月、NHK大河ドラマ『毛利元就』(中村橋之助主演)の放送が始まる。
4月、宮島町、過疎地域に指定される。

1998(平成10)年
8月、1960年に発見された小惑星が、厳島神社が世界遺産に登録されたことにちなんで「イツクシマ」と命名される。

1999(平成11)年
9月、台風18号が襲来し、厳島神社門客神社が全壊する。

2000(平成12)年
11月、「厳島神社」世界遺産登録記念碑が宮島桟橋前に建てられた。

2001(平成13)年
3月、芸予地震で厳島神社石燈籠・玉垣などが倒壊する。
8月、杉之浦の宮島国有林、厳島神社の修復に必要な桧皮・木材などを供給するため、「世界文化遺産貢献の森林」に認定される。
10月、環境省の「かおり風景百選」に、「厳島神社潮のかおり」が選定される。

2003(平成15)年
4月、大鳥居の材料となる楠を育成するために、包ケ浦に「悠久の森」を設定する。

2004(平成16)年
9月、台風18号が襲来し、厳島神社の左楽房が全壊、祓殿屋根などが被害を受ける。
「美しい日本の歩きたくなるみち500選」に、「世界文化遺産・宮島厳島神社へのみち」が選定される。

2005(平成17)年
1月、NHK大河ドラマ『義経』(滝沢秀明主演)の放送が始まる。
5月、霊火堂が焼失する。
11月、宮島町、大野町とともに廿日市市に合併する。

2006(平成18)年
7月、霊火堂が再建される。

2007(平成19)年
10月、大相撲宮島場所が開催される。

2008(平成20)年
12月、宮島水族館がリニューアルのため休館。
(2011年8月にリニューアルオープン予定)

2009(平成21)年
5月、廿日市市とモン・サン・ミシェルが観光友好都市提携を結ぶ


今日は宮島の歴史について復習させてもらいました。
今日も勉強になったでがんす。

つたない文章を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


いよいよ明日(11月29日)は試験です。
皆さんのご健闘をお祈りいたします。
試験会場でお会いしましょう。


ほいじゃあ、またの。
コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宮島の歴史(前編)

2009年11月28日 | 広島の話題

試験前なので、今回は宮島の歴史をざっとおさらいしてみましょう。
個人的に興味があるところを抜き書きしただけで、試験のヤマを張った訳ではありません。
また、ボリュームがあるので、2回に分けました。
前編が有史以前から江戸時代まで、後半が明治以降となります。
そのことを、あらかじめご了承ください。


約6000年前
宮島が対岸と分離して島になる。

593(推古(すいこ)天皇元)年
厳島神社の社殿が創建されたと伝えられる。
佐伯鞍職(さえきのくらもと)が、船に乗ってやってきた市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を先導し、現在地に鎮座された
厳島神社では、市杵島姫命、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たきつひめのみこと)の三女神(宗像三女神)を祀る。

806(大同元)年
弘法大師・空海が弥山を開基したと伝えられる。

811(弘仁(こうにん)2)年
日本後記』(840年成立)に「安芸国佐伯郡速谷神、伊都岐嶋神(いつきしましん)」(811年7月)とあり、宮島が歴史書に初めて記された
「伊都岐嶋」という名前は、「斎き祀る(いつきまつる)」という意味からきたといわれる。
速谷神は、現・広島県廿日市市にある速谷神社(はやたにじんじゃ)で、交通安全祈願の神社として知られる。

927(延長5)年
延喜式(えんぎしき)』の神名帳(じんみょうちょう。全国の神社一覧)に、佐伯郡・速谷神社と伊都岐嶋神社、安芸郡・多家(たけ)神社が名神大社(みょうじんたいしゃ)と記される。
多家神社は、現・広島県安芸郡府中町にある神社。埃宮(えのみや)とも呼ばれる。

940年
2月、藤原純友(すみとも)の乱の平定にあたり、追捕(ついぶ)祈願が行われる。

1146(久安(きゅうあん)2)年
2月、平清盛(たいらのきよもり)が安芸守に補任される。

1160(永暦(えいりゃく)元)年
8月、平清盛が初めて厳島神社に参詣する。

1164(長寛(ちょうかん)2)年
9月、平清盛と一族が厳島神社に「平家納経」を奉納する
平家納経は、法華経・無量義経(むりょうぎきょう)・観普賢経(かんふげんきょう)・般若心経・阿弥陀経と清盛署名の願文からなる。

1168(仁安(にんあん)3)年
平清盛が、本宮(ほんぐう。宮島)37棟、外宮(げぐう。対岸の地御前(じごぜん))19棟の堂社寺を造営し、現在のような海上社殿が完成した
清盛の狙いは日宋貿易で、瀬戸内海航路を掌握しようとしていた。
宮島は畿内へと通じる航路の守護神ともいえる重要性をもつようになった。
広島県呉市にある音戸の瀬戸(おんどのせと)には、一日で工事を完了させるため、清盛が夕日を招き返したという伝説がある。


1174(承安(じょうあん)年
3月、後白河法皇が平清盛と厳島神社に参詣する。

1185(寿永(じゅえい)4)年
3月、壇ノ浦(だんのうら)の合戦。
平家の滅亡後、政情が不安定になる中で厳島神社は徐々に衰退。
神主家を世襲していた佐伯氏は、1221年の承久(じょうきゅう)の乱で後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)側についたために神主家の座を奪われた。
代わって御家人の藤原親実(ちかざね)が厳島神主家となった。


1287(弘安(こうあん)10)年
一遍(いっぺん)2度目の参拝。
この時の様子が「一遍聖絵(ひじりえ)」に描かれている。
「一遍聖絵」は厳島神社を描いた最初の絵画。

1200年くらいまで、島内には神に奉仕する内侍(ないし。巫女)だけが住んでいた。
祭祀に仕える社寺や供僧(ぐそう)は対岸の地御前に居住していたが、参詣人や商人たちが島に集まるようになった1300年代に島内に居を移すようになった。
こうして交易・商業都市として発達した反面、神聖な島の俗化を進めることになった。


1366(正平(しょうへい)21)年
3月、筑前博多の商人ら、鋳銅製釣灯篭を厳島神社に寄進する。

1407(応永(おうえい)14)年
7月、五重塔が建立される。

1508(永正(えいしょう)5)年
神主・藤原興親(おきちか)が没し、藤原神主家は断絶。

1515(永正12)年
神領衆、東西に分かれて神領の支配権を争う。

1518(永正15)年
大内義興(よしおき。周防の戦国大名)が、京都より帰国して神領の争論を裁決する。
神主を定めず、神領に直臣を配置する。

1523(大永(だいえい)3)年
6月、多宝塔を建立する。

1539(天文8)年
大願寺の道本(どうほん)の使者として、尊海(そんかい)が一切経を求めて大内義隆(よしたか。義興の嫡男)の書を携えて、朝鮮半島に渡る。
この時の旅日記は「尊海渡海日記」として、「瀟湘八景(しょうしょうはっけい)」屏風の裏面に記録され、当時の朝鮮半島の様子を記したものとして貴重な記録とされている。

1546(天文15)年
6月、棚守房顕(たなもり ふさあき)が高舞台の擬宝球を奉納する。

1551(天文20)年
8月、陶晴賢(すえ はるかた)が神領及び厳島を掌中におさめる。

1554(天文23)年
5月、毛利元就(もうり もとなり)、防州と断絶し神領へ出陣し、厳島の陶氏の番衆を追う。

1555(弘治元)年
10月、毛利元就が陶晴賢を宮島で破る(厳島合戦
戦国時代、安芸を本拠に勢力を伸ばしていた毛利氏と、衰退しつつあったが周防・長門を領有していた大内氏(陶晴賢は大内氏の家臣だった)が対立。
安芸・周防国境に近い宮島はその最前線にあった。
元就は合戦の後、宮島の保護・復興につとめた。
元就は以後、中国地方8ケ国を支配する大大名となった。


1587(天正(てんしょう)15)年
3月、豊臣秀吉が社参。安国寺恵瓊(あんこくじえけい)に命じて大経堂(千畳閣)を造営させる。

1591(天正19)年
4月、広島城が完成し、毛利輝元(てるもと。元就の孫にあたる)が入城する。

1600(慶長(けいちょう)5)年
9月、関が原の戦い。

1601(慶長(けいちょう)6)年
3月、福島正則が広島に入城する。
5月、正則、従来の厳島社領を没収し、代わって祭料・扶持米1350石を支給することとする。
8月、正則、宮島に参拝する。

1602(慶長7)年
福島正則、平家納経を補修する。この時、俵屋宗達(たわらや そうたつ)によって手を加えられたという。

1605(慶長10)年
福島正則、能舞台を建立する。

1619(元和(げんな)5)年
8月、浅野長晟(ながあきら)が広島に入城する。
9月、長晟、祭料・扶持米など1090石を支給することとする。
厳島神の領主権は喪失。江戸時代、社家を代表する棚守、供僧を統括する座主(ざす。大聖院)、造営にあたる大願寺の三者によって経営された。
10月、長晟、宮島に参拝する。

1625(寛永(かんえい)2)年
広島・中島材木町の娼家を宮島に移す

1632(寛永9)年
4月、浅野家、宮島春市で黒羅紗(らしゃ)・虎皮・白砂糖など外国貿易品を購入する。
祭礼市は春・夏・秋の三季に催され、瀬戸内沿岸のみならず、京都・堺・九州など遠方からも商人が集まった。

1635(寛永12)年
宮島が町方(まちかた)支配となり、奉行所が置かれる

1643(寛永20)年
林鵞峰(がほう)が『日本国事跡考(こくじせきこう)』を著す。
この中に、松島・天橋立・厳島が「三処の奇観」と記される。
日本三景の始まりといわれる。

1680(延宝(えんぽう)8)年
11月、第4代藩主・浅野綱長(つななが)が能舞台(現存の能舞台)を造立する。

1701(元禄(げんろく)14)年
台風の襲来で、管弦祭の御座船が遭難する。広島・江波と呉・阿賀の船が助けたと伝えられる。
以後、江波と阿賀が宮島の管絃船を曳航するようになった。

1715(正徳(しょうとく)5)年
5月、光明院の僧・恕信(じょしん)ら「厳島八景」を選ぶ。
厳島八景は、以下のとおり
厳島明燈(いつくしまめいとう)
大元櫻花(おおもとさくらばな)
瀧宮水螢(たきのみやのほたる)
鏡池秋月(かがみいけのあきのつき)
谷原麋鹿(やつがはらびろく)
御笠濱鋪雪(みかさのはまほせつ)
有浦客舩(ありのうらのかくせん)
彌山神鴉(みせんのしんあ)

1740(元文(げんぶん)5)年
宮島での富くじ興行を禁止する。

1743(寛保(かんぽう)3)年
広島・中島町の町人4人が厳島神社前に新堤50余丈を築出し、108基の石灯篭と1基の大石灯籠を寄進する。
西松原の原形ができる

1784(天明4)年
光明院の誓真、幸町に井戸を掘る。以後、各地に井戸を掘り、「誓真釣井(せいしんつるい)」として今も残る。

1791(寛政(かんせい)3)年
6月、誓真が藩から表彰される。

1794(寛政6)年
長沢盧雪(ろせつ)が「厳島八景図」を描く。

1806(文化3)年 3月、伊能忠敬(いのうただたか)ら、測量のため来島。大願寺を本陣として、浦々を調査する。
伊能の手がけた「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」は、1821(文政(ぶんせい)4)年に完成した。

1853(嘉永(かえい)6)年
2月、吉田松陰(しょういん)が来島する。
この年、黒船が来航する。

1862(文久(ぶんきゅう)2)年
広島藩士、飯浦(いいうら。現在の入浜)に砲台を築く。

1866(慶応2)年
9月、勝海舟(かいしゅう)、大願寺で長州藩使者・広沢真臣(さねおみ)らと第2次長州戦争の休戦会談をする。


以下、後編に続きます。

コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

次のうち被爆建造物でないのはどれでしょう?

2009年11月27日 | 広島の話題
原爆の投下された広島には、「被爆建物」がいくつか保存されています。


【問題】
次のうち被爆建造物でないのはどれでしょう?

1.福屋百貨店(八丁堀本店)  2.旧日本銀行広島支店  3.広島アンデルセン  4.広島銀行本店


【ヒント】
写真がついないのでわかりにくいが、戦前の建物はレンガ造りか、ヨーロッパ風建築が多かった。(ような気がする…)



ひろしま通認定試験は2009(平成21)年12月6日(日)実施です。



【解答】
4.広島銀行本店


【解説】
広島市では1993(平成5)年に「被爆建物等保存・継承実施要綱」を定め、爆心地から5キロメートル以内に現存する建物などを被爆建物台帳に登録し、所有者に保存・継承の協力を呼びかけている。
平成19年3月1日現在、原爆ドームをはじめとする91件の被爆建物が残っている。

被爆建物・樹木・橋梁について 広島市


福屋は、今から80年前の1929年(昭和4年)に開店。
1938年(昭和13年)に開館した本館は、外壁にテラコッタ(素焼きの陶器)を張り付けているところから「白亜の殿堂」と呼ばれていた。
被爆直前は軍事関係に接収され、外壁には黒褐色の塗料が塗られた。
爆心地から710メートルの距離にあり、内部は全焼したものの、倒壊はまぬがれた。
1972(昭和47)年の増改修工事で、外壁を当初のテラコッタに復元して現在に至る。


旧日本銀行広島支店は、1936(昭和11)年に建てられた。
ギリシャ建築・ローマ建築風の古典様式で、広島における昭和初期を代表する建築物の一つ。
日銀支店ということから堅牢に造られていたため、爆心地からわずか380メートルという近距離であったが、大破はまぬがれた。
被爆当日は負傷者の収容所となったが、翌々日の8月8日には、早くも銀行の支払い業務が開始された。
現在では、ギャラリーや音楽ホールなどとしても利用されている。


広島アンデルセンの建物は1925(大正14)年、三井銀行(現在の三井住友銀行)の広島支店として建てられ、被爆時は帝国銀行広島支店として使用されていた。
爆心地から360メートルという近距離にあったため、屋根のほとんどが落ち、内部も崩壊、北西部の外壁が吹き飛ぶなど大破した。
戦後、修理され、1950(昭和25)年に営業を再開した。
1967(昭和42)年にタカキベーカリーが建物を買い取り、レストランなどを併設したパンと洋菓子の店「広島アンデルセン」としてオープンした。
建て替えも検討されていたが、元のヨーロッパの古い建物を生かして改装を行った。

広島銀行本店は1965(昭和40)年に完成した建物。
広島銀行自体は、1945(昭和20)5月、5つの銀行が合併してできた。


わしが小さいころ「買い物」というと、福屋八丁堀本店か、中央通りを隔てて東側にある天満屋広島八丁堀店か、本通り商店街に行きよったもんじゃ。
そごう広島店も広島三越もなかったけえの。

♪あふれる夢 ふくらむ夢 ふたりの夢 ララ 福屋~
♪歩いて楽し 本通り

なんて歌、今でも歌えるで。
そういや昔、中央通りで日曜日ごとに歩行者天国があったよのう。
くわしいことを覚えとる人がおったら、教えてください。

日本銀行の活用の仕方は、ようわからん。
時々、思い出したように催し物をしとるくらいじゃ。
広島市はどう活用するつもりなんですかのう?

広島アンデルセンは、時々、寄らせてもらいます。
石窯で焼いたパンが、うまい。
大きい窓と、落ち着いた雰囲気がええですのう。

広島アンデルセン 建物の歴史 アンデルセン



今日は、被爆建造物について勉強をさせてもらいました。
広島アンデルセンの建物が、元々、銀行の建物だったというのは、今回はじめて知りました。
今日もひとつ勉強になったでがんす。


「ひろしま通」の過去問は、「ひろしまファンクラブ」というメールマガジンに出とります。


ほいじゃあ、またの。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする