通でがんす

いろんな広島を知って、ひろしま通になりましょう!
(旧ブログタイトル:通じゃのう)

サッカー天皇杯と東洋工業

2022年10月16日 | スポーツ

(「サンフレ頂点へ万全 今日天皇杯決勝・甲府戦」中国新聞 2022年10月16日)

第102回サッカー天皇杯全日本選手権は、
今日10月16日(日)午後2時から、
日産スタジアムで決勝が行われる。

J1サンフレッチェ広島と
J2のヴァンフォーレ甲府の、
ともに初優勝を狙うチーム同士の対戦。

サンフレッチェは今までに5度、
決勝に駒を進めながら
優勝はまだないんじゃの。

準優勝ばかりなんで、
「シルバー(銀メダル)コレクター」
という有り難くない呼び名を
つけられているうえに、決勝では
一度として相手ゴールのネットを
揺らしたことがないという有様。

天皇杯での優勝は、
サンフレッチェの前身である
東洋工業サッカー部時代の
1969年までさかのぼるんじゃ。

…なに、
東洋工業を知らん?

東洋工業いうたら、
自動車メーカー
マツダ(MAZDA)のことじゃ。

サンフレッチェのユニフォームで
背中の肩部分に
「MAZDA」と入っとるじゃろ?

あと、プロ野球・カープの正式名称、
広島東洋カープの「東洋」は
東洋工業から、
また、本拠地の
マツダ ズームズーム スタジアム広島も
マツダからきとるんじゃの。



↓サッカー天皇杯については、こちら↓

天皇杯 JFA 第102回全日本サッカー選手権大会(2022)



今日は、
サッカー天皇杯と東洋工業
についての話でがんす。



今から101年前の1921(大正10)年9月、
大日本蹴球協会
(現:日本サッカー協会)が設立された。

蹴球(しゅうきゅう)とは、
サッカーのこと。

同じ年に天皇杯が始まったが、
最初の大会名は
ア式蹴球全国優勝競技会だった。

ア式の「ア」とは、
アソシエーションの略。

天皇杯は最初、
大学やOB混成チームが優勢だった。


戦前の1938(昭和13)年に創部した
東洋工業サッカー部は、
戦後の1949(昭和24)年、
実業団チームとして初めて天皇杯に出場。

1954年、実業団チームとして初めて
決勝戦に進出するも、
残念ながら準優勝に終わる。

この決勝戦については
あと(さらに余談)で
触れることにしよう。


実業団チームとして初めて
天皇杯で優勝したのは、
1960年の古河電工(ふるかわでんこう。
現:ジェフユナイテッド千葉)。

1965年、東洋工業サッカー部は
天皇杯で初優勝を飾る。

続く1967・69年と、
天皇杯では計3回優勝した。

東洋工業サッカー部は
このころが黄金期だった。


1965年、
日本サッカーリーグ(JSL)が
設立される。

JSLは、アマチュアスポーツでは
日本初の全国リーグだった。

JSLに第1回から参加した
東洋工業サッカー部は、
1965年から68年までの4年間、
JSLで4連覇を果たした。

1970年もJSLで優勝、
計5度の優勝は
JSLで最多優勝回数だという。


この間にあったのが、
メキシコオリンピック。

そう、日本サッカーが
オリンピックで初めて
メダル(銅メダル)を獲った大会である。

このときのメンバー18人のうち、
広島県出身者が5人もいた。

小城得達(おぎ ありたつ。
1942年生まれ。広島市出身)、
桑原楽之(くわはら やすゆき。
1942年生まれ。広島市出身)、
宮本輝紀(みやもと てるき。
1940年生まれ。広島市出身)、
森 孝慈(もり たかじ。
1943年生まれ。福山市出身)、
渡辺 正(わたなべ まさし。
1936年生まれ。広島市出身)の5人。

そのせいか、メンバー間の共通語が
広島弁であったとも、
日本チームを率いたドイツ人監督
デットマール・クラマーは
広島弁で選手を怒鳴ったともいわれる。



以下、余談。


日本にサッカーが伝えられてから、
サッカーが盛んな地域のひとつが
広島じゃった。

戦前、天皇杯で優勝した
広島県のチームがふたつあるそうじゃ。

ひとつは
1924年の広島一中鯉城クラブ、
もうひとつは
1925年の鯉城蹴球団。

ウィキペディアによると、
どちらも広島第一中学校
(現:広島国泰寺高校)の
OBによるチームじゃそうな。

広島の高校サッカーでいうと、
観音、瀬戸内、広大附属、皆実、山陽
などの強豪校があるが、
中でも名門といわれるのが
国泰寺なんじゃの。


1922年に準優勝したのが、
広島高等師範学校。

師範(しはん)とは、
人の手本となることの意味で
先生のことをいうんじゃ。

今の広島大学教育学部の前身で、
広大附属のサッカーが強いのも
その流れなんじゃろうの。



以下、さらに余談。


先に話たとおり、
1954年、実業団チームとして初めて
天皇杯の決勝戦に進出したのが
東洋工業サッカー部なんじゃの。

相手は、
天皇杯で計9度の優勝を遂げた
慶応BRB(けいおう
ブルー・レッド・ブルー)。

この戦いは、
歴史に残る名勝負という。


1-0でリードした東洋工業が、
1点差を守り切って優勝かと思われたが、
慶応BRBが後半終了間際に
同点ゴールを決めて、1-1で延長へ。

最初の延長では、
前後半とも両チームが1点ずつ取り、
3-3のままさらに延長へ。

2・3回目の延長では、
両チームとも無得点で
3-3のままさらに延長へ。

4回目の延長では、
慶応BRBが前後半とも各1点ずつをあげ、
5-3で優勝を遂げた。

試合時間の90分に、
前後半各10分、計20分の延長戦が4回で、
90+80=170分(3時間弱)の
大熱戦が繰り広げられたんじゃの。



↓慶応BRBについては、こちら↓

慶應BRB 慶應義塾体育会ソッカー部



以下、もひとつだけ余談。


今回は、
サンフレッチェ広島と
ヴァンフォーレ甲府の対戦なんじゃが、
両チームのチーム名の由来を調べてみた。


サンフレッチェは、
日本語の「三(サン)」と、
「矢」を意味するイタリア語
「フレッチェ」を合わせたもの。

サン+フレッチェ=サンフレッチェ

広島の戦国大名
毛利元就(もうり もとなり。
1497年から1571年)の
「三本の矢」の故事にちなむ。


一方のヴァンフォーレは、
「風」を意味するフランス語
「ヴァン」に、
「林」を意味するフランス語
「フォレ」を合わせたもの。

ヴァン+フォレ=ヴァンフォーレ

甲斐(かい。現:山梨県)の戦国大名
武田信玄(たけだ しんげん。
1521年から1573年)が掲げた旗印
「風林火山(ふうりんかざん)」
にちなむ。


そう考えると、今回の決勝戦は
地域的に対峙することのなかった
毛利元就と武田信玄の直接対決
と考えることもできるんじゃの。

強引なこじつけじゃが…。



(「戦国大名の勢力変遷マップ」『歴史人』2022年10月号 ABCアーク 27ページ)

武田信玄が病没した
天正元(1573)年から
天正3(1575)年ころの
戦国大名の勢力図。

こうやって見ると
京都の織田信長を挟んで、
西の毛利、東の武田
と読めんこともない。



↓サンフレッチェ広島については、こちら↓

サンフレッチェ広島 オフィシャルサイト SANFRECCE HIROSHIMA



↓ヴァンフォーレ甲府については、こちら↓

ヴァンフォーレ甲府公式サイトVENTFORET KOFU OFFICIAL WEBSITE



【参考文献】

日本サッカー協会、日本サッカーライターズ協議会/編『最新 サッカー百科大事典』大修館書店 2002年 266、332ページ

「つかむぞ二つの頂点」中国新聞 スポーツ面 2022年10月12日




今日は、
サッカー天皇杯と東洋工業
について話をさせてもろうたでがんす。


天皇杯は、日産スタジアムで
今日の午後2時キックオフじゃ!

NHK総合で
テレビ中継もありますけぇの。


----------
天皇杯決勝は、
1-1の同点のまま
延長でも決着がつかず、
PK戦の末、5-4で
ヴァンフォーレ甲府が初優勝を飾った。

ヴァンフォーレ甲府の選手の皆さん、
おめでとうございます。

サンフレッチェ広島の選手の皆さん、
良い試合を見せてもらいました、
ありがとうございます。


今度の土曜日、10月22日は
ルヴァン杯(Jリーグカップ)の決勝が、
セレッソ大阪相手に
国立競技場で行われる。

サンフレッチェ広島は過去2回、
決勝に進出しているが、
こちらもまだ優勝がない。

気持ちを切り替えて、
次の戦いに挑みましょう。


(天皇杯決勝後に追記)
----------


ほいじゃあ、またの。
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広島クリテリウム2022

2022年07月10日 | スポーツ


今日(2022年7月10日)、
広島市で開催されたのが、
自転車ロードレースの
広島クリテリウム。

1周1.7kmの周回コースなので、
ほぼ3分に1回、
日本トップクラスのプロ選手たちが
目の前を猛スピードで走り抜けていく、
手に汗握るロードレース!

今年で第5目となるこのレースは、
ふだんはたくさんの車が行き交う
広島市西区商工センターで、
交通規制をして行われる。



↓広島クリテリウムについては、こちら↓

ジャパンサイクルリーグ広島大会 2022 2022年7月開催





今日は、
広島クリテリウム2022
についての話でがんす。







このレースを見に来たのは、
昨年に次いで2回目。

姪の知り合いがレースに出とるけぇ、
孫に近い年齢の子ども2人の
面倒を見ながらの観戦じゃ。

昨年に比べて、
今年は風が強いように感じられた。

あと、人出も昨年より多かったように
感じられたの。




1.7km×30周=51kmの
ラスト1周。




トップを走るのは、
トマルバ(KINAN Racing Team)選手。

ここは第2集団を引き離しての
余裕の走りじゃったと思う。




第2集団は、
2位:阿部嵩之(宇都宮ブリッツェン)、
3位:孫崎大樹(Sparkle Oita Racing Team)、
4位:武山晃輔(Team UKYO SAGAMIHARA)、
5位:山本大喜(KINAN Racing Team)、
6位:小森亮平(マトリックスパワータグ)
の各選手。

入賞を狙っての
駆け引きが行われとった。




第3集団を一人で走り抜けたのが
ヴィクトワール広島の
久保田 悠介選手。

この走りを見よると、
写真を撮っているどころじゃのうて、
「頑張れ!」と声をかけとうなるの。




応援いうたら、
今年はこういうものを配っとった。

左上の「ALLEZ!!」は、「頑張れ!」
という意味のフランス語らしいの。




裏面は、選手紹介になっとった。




これを折りたたむとこんな感じになって、
ボコボコ叩くことで
選手を応援する道具になる。

コロナ禍の中では
大きな声を出すのが憚(はばか)られるけぇ、
こうやって音を出せるもの(=道具)は
ええと思うで。







レースが終わった後は、
インタビューや選手の写真撮影
なんかもあって…、




メイン会場では、ヴィクトワール広島の
選手の紹介もあったようじゃ。
(終わった後を写真を撮っただけで、
どんな話があったかは分からんが…)




今日は、
広島クリテリウム2022
について話をさせてもろうたでがんす。


ほいじゃあ、またの。
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補給食は桐葉菓

2022年05月12日 | スポーツ

「生地が餅粉100%で消化によく、すぐエネルギーに変わる。あんこも、べちゃってした感じがなく、口の中に残らない。運動中の補給食としてパーフェクト」阿曽圭佑(あそ けいすけ)
(「桐葉菓で元気を補給」勝利をつかめヴィクトワール広島 中国新聞セレクト 2022年2月)


少し古い話で申し訳ないが、
ヴィクトワール広島の選手が、
やまだ屋の桐葉菓(とうようか)を
ロードレース中の補給食にしている
という話が載っていた。


↓やまだ屋の桐葉菓については、こちら↓

「桐葉菓 / 宮島の老舗 もみじ饅頭・桐葉菓(とうようか)」やまだ屋



今日は、
エネルギー補給食としての桐葉菓
についての話でがんす。



マラソンや自転車ロードレースなど、
長時間にわたって行われる競技では、
競技中のエネルギー補給が
重要になってくる。
プロのアスリートの中には、
羊羹(ようかん)やあんパンなどで
あんこを摂取する人も多い。
あんこは、低カロリーで糖質も高く、
糖質は摂取してから
最も早くエネルギーに変わる
即効性のある栄養素なのだ。

ヴィクトワール広島の
中山卓士(なかやま たかし)監督は
現役時代、補給食として
あんパンをよく食べていたことから、
あんこを使った補給食を考えた。


↓ヴィクトワール広島については、こちら↓

JAPAN CYCLE LEAGUE VICTOIRE広島


広島であんこを使ったお菓子といえば、
もみじ饅頭があるが、そのままでは
水分が足りないため食べづらい。
そこで、あんこを使いながらも
口当たりがしっとりした
やまだ屋の桐葉菓に目をつける。
猛プッシュの末、補給食として
桐葉菓を提供してもらうことになった。


↓補給食としての桐葉菓については、こちら↓

「スポンサー 2018.4.27」VICTOIRE広島



以下、余談。



(『TJ Hiroshima タウン情報広島』2022年1月号)

ヴィクトワール広島は
昨年(2021年)11月6日、
栃木県で行われた
大田原ロードレースで、
最終のスプリント勝負を制した
阿曽選手がトップでフィニッシュ。
チームとしても
JCL(ジャパンサイクルリーグ)で
シーズン初優勝を果たした。



以下、さらに余談。


わしは最近、古代山陽道を歩いとるが、
歩いて、メモをとって、写真を撮ってで、
1回あたり4~6時間くらい歩くんじゃ。
当然、途中で腹も減ってきますわいの。
今まで愛用してきたのが、
森永のキャラメルや、
一口サイズの羊羹、
そしてコンビニのおむすび。


この記事を読んでからは、
広島駅北口2階にあるエキエおみやげ館で
桐葉菓を買ってから、
出かけることが増えたんじゃの。


↓エキエおみやげ館については、こちら↓

「ショップガイド」ekie(エキエ)広島駅



↓やまだ屋についての関連記事は、こちら↓

やまだ屋おおのファクトリー



今日は、
エネルギー補給食としての桐葉菓
について話をさせてもろうたでがんす。


ほいじゃあ、またの。
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古葉人形、復活!

2022年03月21日 | スポーツ
今日、3月21日午後2時から、
「カープレジェンドゲーム」が
マツダスタジアムで行われ、
広島テレビで放送がある。

OBによる紅白戦や
歴代4番バッターによるホームラン競争、
そして、夢のレジェンド対決
(江夏 豊 対 山本浩二
黒田博樹 対 新井貴浩)など、
手に汗握る対決が予定されている。


↓カープレジェンドゲームについては、こちら↓

Carp Legend Game -共に立ち上がろう。広島は屈しない-


このゲームで、
伝説の古葉人形が復活するという。





今日は、
古葉人形と古葉監督
についての話でがんす。





「古葉人形」とは、
昨年11月に亡くなった
古葉竹識(こば たけし)
元監督の顔に似せて、
私設応援団が作ったかぶりもの。

縦60センチ、横40センチ、
奥行き45センチの発泡スチロール製。

カープが初優勝した1975年から10年間、
私設応援団のメンバーがかぶって、
三塁側スタンドから応援していた。

往年のファンの方なら、
「あぁ、あれか」と思い出して
いただけるはず。




背番号72のユニフォームを着て、
手を叩いているのが古葉人形

(津田一男:編集『赤ヘル激闘譜 1975 広島東洋カープ優勝までの全試合』中国新聞社 1975年10月25日)



↓古葉人形については、こちら↓

「カープ「古葉人形」復活 21日のレジェンドゲームに登場」YouTube





古葉さんは1936年、
熊本市生まれ。

野球で専修大学に入学するが、
家庭の事情で中退。
日鉄二瀬を経て、
1958年にカープに入団。

プロ6年目の1963年は
開幕から打撃が好調、
オールスター戦に初めて選ばれる。
後半戦も安打を量産し、
同じ1958年に入団した大スター
長嶋茂雄(ながしま しげお)さんと
首位打者争いを演じた。
が、残り13試合となった
10月12日の大洋戦で、
あごに死球を受け骨折。
長島さんの打率.341、
古葉さんの打率.339と、
わずか.002(2厘(りん))差で
タイトルを奪われた。

翌1964年は、死球の後遺症から
打席で腰が引けてしまい、打撃不振に。
悩んだ末に盗塁に活路を求め、
自己最多の57盗塁で
盗塁王のタイトルを獲得。
1968年にも39盗塁で
2度目の盗塁王を獲得し、
カープも球団創設以来、
初のAクラス入りを果たす。
この時の経験が、古葉野球の代名詞である
「走る野球」の礎となった。

1970年、トレードで
パ・リーグの南海へ。
当時の南海は、
野村克也(のむら かつや)さんが
選手兼任監督で、それを
コーチのドン・ブレイザーさんが支える
という形をとっていた。
ブレイザーさんは、日本に
「シンキング・ベースボール」
を持ち込んだ人。

野球は右の耳と左の耳との中間でするものだ。

これがブレイザーさんの口ぐせだった。
のちに野村さんが提唱した
「ID(アイディー)野球」は
彼から受けた影響が大きい。
現役を引退した後の1972年、
南海のコーチとなった古葉さんは、
監督となった後の1978年、
一軍守備兼ヘッドコーチとして
ブレイザーさんをカープに招いている。

3年連続セ・リーグ最下位に終わった
カープは、翌1975年、
日本球界初の大リーグ出身監督として
ジョー・ルーツさんを招く。
ルーツ監督は、
チームの帽子の色をそれまでの紺色から
燃える闘志を表す赤色に変えた。
が、開幕からわずか15試合目、
4月27日の阪神戦で
判定を巡るトラブルから辞任・帰国。
彼は次のような言葉を残した。

可能性があれば失敗を恐れず最後まで全力を尽くせ

ルーツの後を継いで監督に就任したのが、
前年の1974年に古巣・カープに復帰した、
当時39歳の古葉さんだった。
その年齢から「青年監督」
という呼び方もされた。

「カープが元気がいいのは
鯉のぼりの季節(5月の節句)まで」
と言われていたが、5月17日に首位に立ち、
その後も快進撃を続ける。
この年のオールスター戦でも、
カープの主軸2人、
山本浩二(やまもと こうじ)さん
衣笠祥雄(きぬがさ さちお)さんが、
第1打席・第2打席と続けて
アベックホームランを打つ。
こういったカープの活躍は、
カープの赤いヘルメットにちなんで
「赤ヘル旋風」と呼ばれた。

そして10月15日、後楽園での巨人戦に勝ち、
球団初のリーグ優勝に輝いた。
中国新聞の記者・津田一男さんは、
次のようなコラムを書いた。

真っ赤な、真っ赤な、炎と燃える真っ赤な花が、いま、まぎれもなく開いた。
(略)
苦節二十六年、開くことのなかったつぼみが、ついに大輪の真っ赤な花となって開いたのだ。



(同上 1ページ)



あぁ、古葉監督の胴上げシーンは
いつ見てもええのう。





以下、余談。


かぶりもの関係でいうと、
広島市内の本通り商店街で行われた、
カープ優勝パレードの1シーン。



(同上 77ページ)

各選手に似せたかぶりものの
カープ選手が練り歩くところに、
本物の古葉監督が飛び入り参加したところ。





以下、さらに余談。


次は、かぶり物でなく
着ぐるみ。



(同上 53ページ)

「なんじゃ、こりゃ!?」
と思われた方も多いと思います。

写真に写っているのは、1970年代、
広島県比婆郡(ひばぐん)で目撃された
「ヒバゴン」と呼ばれる謎の類人猿。

身長は約1.6メートル、
逆三角形の顔で、
ゴリラに似た体つきをしている。


「ヒバゴンは、いざなみのみことが眠る比婆山の守護神、必ず勝つ」
(略)
ご利益あってか、7-4で広島の快勝。
ヒバゴンは意気揚々と引き揚げていった。



うーん、こんな形で
カープを応援していたんですね。
知らんかった。

10月5日、広島市民球場で行われた
巨人戦でのヒトコマでした。


↓ヒバゴンについては、こちら↓

「ヒバゴン~実在した、謎の類人猿~」庄原観光ナビ 【公式】広島県庄原市観光情報サイト






【参考文献】

「生きて(再録)プロ野球広島東洋カープ元監督 古葉竹識さん」中国新聞セレクト 2021年10月9日から27日

「古葉人形「再登板」」中国新聞 2022年3月16日






今日は、
古葉人形と古葉監督について
話をさせてもろうたでがんす。



ほいじゃあ、またの。
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ゴールデンタイムで生中継! 広島ドラゴンフライズ

2020年10月12日 | スポーツ
先週金曜日(10月9日)、
用事があって定時退社。

8時すぎテレビを見ると、
プロバスケットボール
広島ドラゴンフライズの試合を
NHK総合テレビで生中継しとった。

しかも、午後7時30分から
8時45分までという、いわゆる
「ゴールデンタイム」で。

わしが記憶する限り、
バスケットの試合を
地上波のゴールデンタイムで
放送するのは初めて
じゃったんじゃないんかの?





(中国新聞 2020年10月9日)





今日は、広島ドラゴンフライズ
についてでがんす。





広島ドラゴンフライズ
(以下、「ドラフラ」と略す)は、
広島に本拠地を置く
プロバスケットボールチーム。

ドラフラは、
日本男子プロバスケットボールリーグの
B(ビー)リーグに所属。

それまでB2(2部)の西地区じゃったが、
昨年の地区優勝に伴い、
今年からB1(1部)に昇格した。





↓広島ドラゴンフライズについては、こちら↓

広島ドラゴンフライズ





この日の試合は、ドラフラにとって
記念すべきB1初のホームゲーム。

場所は、ホームアリーナ(本拠地)の
広島サンプラザ。

相手は、2018、19年と
Bリーグ連覇のアルバルク東京。

ドラフラはBリーグ覇者を相手に、
第2クォーターまでリードを奪い
健闘したものの、
第3クォーターの最後でリードを許すと、
そのまま71対80で敗れた。





わしゃ、漫画家
井上雄彦(いのうえ たけひこ)先生の
『SLAM DUNK(スラムダンク)』
『リアル』を読んで、
ちぃたぁ(=少しは)バスケットの
ことを知っとるつもりじゃったが、
ルールがちーとも頭に入っとらん
ことが分かった。

それでも、テレビの画面に釘付けになり
手に汗に握って見入ってしもうて、
面白かったのなんの。

ちんたらした野球よりは、
スピーディな展開のバスケットの方が
今の時代に合うとるんじゃないんかの。

ちなみにこの日の同じ時間帯、
5位のカープ対最下位のヤクルト戦を
広島テレビで生中継しとった。

が、先発の床田、
中継ぎの中田・菊池(保)が打ち込まれ
12対7で負けたこともあって、
安心して(?)バスケットに
集中することができたんじゃの。





以下、余談…。



広島ドラゴンフライズの
「ドラゴンフライ(dragonfly)」は、
安芸の宮島に生息する絶滅危惧種
「ミヤジマトンボ」に由来する。





宮島には、固有の植物(ミヤジマシモツケ・ミヤジマカエデ)や昆虫(ミヤジマトンボ)が生息しています。

「自然・動物」一般社団法人宮島観光協会






西洋でいう「ドラゴン」は、
東洋で「竜(龍。りゅう)」に相当し、
西洋で「不吉」とされるドラゴンは、
東洋では「吉」をもたらす竜にたとえられる。



たとえば、「登竜門(とうりゅうもん)」
ということわざがある。

これは、中国を流れる黄河(こうが)の
上流にある「竜門」という大きな滝を
登ることができた鯉は、
竜になって空を舞うという故事からきたもの。



文部省唱歌の「鯉のぼり」にも
次のような歌詞がある。





百瀬(ももせ)の滝を 登りなば
忽(たちま)ち竜に なりぬべき
わが身に似(に)よや 男子(おのこご)と
空に躍(おど)るや 鯉のぼり






鯉(カープ)を始まりとする
広島のプロスポーツが、
竜門を登り切ったあと
竜となって空を飛ぶ。

竜が飛ぶ
=ドラゴンフライ

そう考えると、
「ドラゴンフライ」いう名前は、
広島らしい、とてもおめでたい名前
というてええんじゃないかの。



がんばれ、
広島ドラゴンフライズ!

今後の活躍を期待しております。





今日は、広島ドラゴンフライズ
について話をさせてもろうたでがんす。



ほいじゃあ、またの。

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