通でがんす

いろんな広島を知って、ひろしま通になりましょう!
(旧ブログタイトル:通じゃのう)

仁義なき引き抜き合戦 関西代理戦争

2023年11月21日 | まんが・テレビ・映画
NHK連続ドラマ小説『ブギウギ』は、
「ブギの女王」といわれた歌手
笠置シヅ子をモデルにした、
花田鈴子=福来スズ子(演:趣里)
の活躍を描く物語。



↓『ブギウギ』については、こちら↓

「ブギウギ」NHK



第7週「義理と恋とワテ」で、
スズ子は松永(演:新納慎也)から
梅丸のライバル会社である日宝への
移籍話を持ち掛けられる。

史実としては、1939(昭和14)年、
松竹楽劇団の笠置シヅ子を
東宝が引き抜こうとした。

このころ、松竹対東宝・吉本という
関西の会社の間で
芸人の引き抜きが行われていたのだ。





今日は、
仁義なき引き抜き合戦 関西代理戦争
についての話でがんす。





この引き抜き合戦には
前史があって…。

1927(昭和2)年、
吉本は道頓堀弁天座で
全国萬才(=漫才)座長大会を開催し、
成功を収める。

道頓堀弁天座は、松竹が所有する
1500人収容の一流劇場。

目の前で吉本の力を見せつけられた松竹は、
自ら演芸の興業に乗り出すため
吉本の芸人を引き抜こうとした。

2017年のNHK連続ドラマ小説
『わろてんか』の主人公・吉本せい
の弟・林正之助が松竹に乗り込んで直談判。

以後、
松竹は演劇(レビューやショー)、
吉本は演芸(寄席の興行)
の住み分けができた。


それから10年後の1937(昭和12)年。

松竹の人気俳優だった
林長二郎(長谷川一夫)が
東宝に引き抜かれるが、
その年の暮れに
林が撮影所の前で暴漢に襲われ、
その顔を切られるという事件が起こった。

1939(昭和14)年、
吉本と東宝は映画製作で提携関係を結び、
吉本の林正之助が東宝の重役に就任する。

これに危機感を抱いた松竹は
系列会社の新興キネマに演芸部を新設、
実弾(=現金)攻撃による
吉本芸人引き抜きにかかった。

たとえば、ミスワカナ・玉松一郎は、
「月給は吉本の10倍払う」
の条件に誘われて新興キネマに移籍する。

エンタツ・アチャコのところには、
10円札が詰まった餅箱が送られてきて…、


「これを見たときは、体がふるえた」というのは、のちになっての花菱アチャコの述懐だが

(『新版 女興行師 吉本せい─浪花演藝史譚』ちくま文庫 2017年 245ページ)



エンタツ・アチャコは、
吉本への義理もあって
移籍はしなかったかった。

この件について
吉本は法的手段に出るなどしたが、
最終的には警察が調停に乗り出してきた。

先に書いたとおり、人気俳優が襲われ
顔を切られるという事件が
あったばかりだったからだ。

今後、吉本の芸人を引き抜かない代わりに、
前述のミスワカナ・玉松一郎のほか
あきれたぼういず(川田義夫は除く)、
平和ラッパ・浅田家日佐丸
などの移籍を認めることで
両者和解、手打ちとなった。





以下、余談。


今回の事件の背景には、
映画興行の環境変化があげられる。

1937(昭和12)年の日中戦争以来、
映画の製作・上映が厳しくなっていた。

外国映画の輸入が制限されたり、
映画を撮影するための
フィルムが統制されたりして、
上映できる映画の本数が減ったからだ。

映画の上映だけで
プログラムを組めなくなった映画館は、
上映の間に演芸やレビューなどの
アトラクションをする必要に迫られる。

そこで目をつけたのが
300人を超える芸人を抱えていた
吉本だった。





以下、さらに余談。


吉本から芸人を引き抜いた
新興キネマ演芸部は、
間もなく消滅。

1941(昭和16)年12月から
日本は太平洋戦争へ突入。

翌1942(昭和17)年、
戦時統制の一環として、
新興キネマは日活などと合併して
大日本映画製作株式会社(大映)となり、
松竹、東宝、大映の3社体制となる。





【参考文献】

笹山敬輔『興行師列伝 愛と裏切りの近代芸能史』新潮新書 2020年






今日は、
仁義なき引き抜き合戦 関西代理戦争
について話をさせてもろうたでがんす。



ほいじゃあ、またの。

(文中、敬称略)
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センチメンタル・ダイナ

2023年11月19日 | 音楽
NHK連続ドラマ小説『ブギウギ』は、
「ブギの女王」といわれた歌手
笠置シヅ子をモデルにした、
花田鈴子=福来スズ子(演:趣里)
の活躍を描く物語。

第7週「義理と恋とワテ」の最後で、
スズ子は
「センチメンタル・ダイナ」を歌う。



↓『ブギウギ』については、こちら↓

「ブギウギ」NHK





今日は、
「センチメンタル・ダイナ」
についての話でがんす。





第7週「義理と恋とワテ」では、
大阪から東京へ出てきて
梅丸楽劇団(UGD)に所属するスズ子が、
松永(演:新納慎也)から
ライバルである日宝への
移籍話を持ちかけられた。

松永に恋心を抱いていたスズ子は
UGDへの義理と松永への恋の間で揺れ動く。

「ワテ、松永さんのことが好きです」
と告白するスズ子に、松永は
愛する人がアメリカにいると告げる。

落ち込んで下宿に戻ってきたスズ子に、
羽鳥(演:草なぎ剛)と
藤村(演:宮本亞門)は
新曲を用意して待っていた。

今回の移籍話で迷惑をかけ、
この曲を歌う資格はないというスズ子に、
「僕が聴きたいんだよ」と羽鳥はいう。

スズ子が受け取った楽譜には
「センチメンタル・ダイナ」
と書かれていた。

同じころ、スズ子と同じく大阪から出てきて
UGDに所属していた
秋山(演:伊原六花)は、
中山(演:小栗基裕)のプロポーズを断り、
大阪でもう一度男役として出直すと決めた。

スズ子は羽鳥の歌を歌うため、
日宝への移籍話を断り
UGDに残ることを決意する。

そして迎えた本番の舞台で
「センチメンタル・ダイナ」を歌い踊る。


「ほほえみは消えて 溜息ばかり」
「歌を忘れた 踊りも忘れた」
スズ子に対して、
「ほほえめよ」「歌えよ」「踊れよ」と、
当て書きともいえる歌詞が
盛り込まれている。

自らの決断で次のステップへと進んだ
スズ子と秋山への応援歌ともとれる、
力強い希望の歌。

テレビでは、
舞台で生き生きと歌い踊るスズ子と、
汽車の中でタップを踏む
秋山の踊りがシンクロし、
ふたりの新たな旅立ちを
祝っているかのようだった。



↓「センチメンタル・ダイナ」については、こちら↓

「[ブギウギ]『センチメンタル・ダイナ』フルバージョン オンステージ | 朝ドラ | 連続テレビ小説 | NHK」YouTube



↓「センチメンタル・ダイナ」(笠置シヅ子版)については、こちら↓

「「センチメンタル・ダイナ」(笠置シヅ子) オフィシャルオーディオ」YouTube





以下、余談。




(ディック・ミネ「エンパイア・オブ・ジャズ」テイチクエンタテインメント 2011年)

わしにとって「ダイナ」といえば、
ディック・ミネの歌じゃ。

「ダイナ」は1934(昭和9)年、
ディック・ミネのデビュー曲として発売、
100万枚の売上(!)を記録し、
テイチクレコード第一号ヒット曲となった。

ちなみに、訳詞の三根耕一は、
ディック・ミネのペンネームなんじゃの。



↓「ダイナ」については、こちら↓

「ダイナ/Dinah」YouTube



「ダイナ」はもともとは外国の曲で、
1925年にアメリカで発表された。

わしがよく聞くのは、
トランペッターにして歌手の
ルイ・アームストロングのカバーじゃ。



↓「ダイナ」(ルイ・アームストロング)については、こちら↓

「Louis Armstrong "Dinah" 1933」YouTube



「ダイナ」で忘れてならないのは、
エノケンこと榎本健一のカバー。

ディック・ミネが、

♪ダイナ 私の恋人
胸にえがくは 美(うる)わしき姿


と、愛の歌として歌っているのを、
エノケン版では、

♪ダンナ 飲ませてちょうダイナー
おごってちょうダイナー


と、酒飲みの歌に変えている。

ちなみに、訳詞を手がけたのは
詩人のサトウハチロー。

この方、こんな歌詞も書かれるんじゃの。



↓「ダイナ」(エノケン)については、こちら↓

「エノケンのダイナ 榎本健一」YouTube





以下、さらに余談。


「ダイナ」といえば、
平成ウルトラマン三部作のひとつ
『ウルトラマンダイナ』
(1997年9月から1998年8月)
も忘れちゃいけん。

この作品では、地球防衛組織
スーパーGUTSのテーマソング
「Take off!! スーパーGUTS」に
ワンダバが使われている。



↓「Take off!! スーパーGUTS」については、こちら↓

「Super guts take off」YouTube





以下、もひとつだけ余談。


「センチメンタル・ダイナ」が
レコードとして発売されたのが、
1940(昭和15)年3月。

1940年といえば、
1937(昭和12)年に起こった
日中戦争が泥沼化し、
翌1941(昭和16)年12月には
太平洋戦争が起こった。

「センチメンタル・ダイナ」
のようなレコードを出しても
ギリギリ許されたころ。

「こんな歌を発売するのはけしからん」
といわれる時代が
すぐ近くまできているのだ。





今日は、
「センチメンタル・ダイナ」
について話をさせてもろうたでがんす。



ほいじゃあ、またの。

(文中、敬称略)
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ヤマトと009が同時上映?!

2023年11月15日 | まんが・テレビ・映画
1977年8月に公開されて
アニメブームを起こしたのが
『宇宙戦艦ヤマト 劇場版
(以下、『ヤマト』と略す)』。

その『ヤマト』がこの年の年末、
東映製作のアニメ映画
『サイボーグ009(以下、『009』と略す)』
(1966年版)と同時上映されていたのは
ご存じじゃろか?





今日は、
ヤマトと009の同時上映?!
についての話でがんす。







(『映画手帳』1977年12月号)

1977年12月17日から29日までの2週間、
広島東映と的場東映で
『ヤマト』が上映され、
同時上映が『009』だった。

なぜ、この組み合わせで上映されたのか?

少し長くなるが、
ここまでの経緯(いきさつ)を
話しておこう。


テレビ版『ヤマト』は視聴率が低迷し、
全39話の予定が26話で打ち切りとなる。

その後、再放送で注目されるが、
それは一部のアニメファンでの話。

プロデューサーの西崎義展は、
テレビ版を再編集した劇場版を作る。

西崎は、この劇場版を
ファン向けに1週間だけ劇場公開し、
それでアニメから手を引くつもり
だったという。

その劇場版を大手映画会社に売り込むが、
にべもなく(そっけなく)断られる。

西崎はまだ無名だったし、
テレビ版は打ち切りという
商業的に失敗した作品であったからだ。

映画会社から紹介された
東急レクリエーションが、
都内の劇場4館での公開を決める。

その後、
前売り券が順調に売れていったので、
劇場をそれまでの4館から6館に増やす。

その動きを聞きつけた
大手映画会社のひとつ東映が、
地方での配給を引き受けることに。

わしが『ヤマト』を観たのは、
配給を東映が行っていた関係で
広島東映だった。

そういう関係で、
『ヤマト』と同時上映されたのが
東映の『009』だったのだろう。

では、なぜ『009』だったのか?

SFというジャンルもあっただろうが、
このころアニメファンの間で人気があり、
東映主催のフィルム上映会で
人気があった作品のひとつが
『009』だったためだろう。

ただ、劇場版よりは、
テレビ版の『009』(1968年版)の
「Xの挑戦」、「平和の戦士は死なず」
などが人気があったはずだ。



↓『宇宙戦艦ヤマト 劇場版』については、こちら↓

2作品連続公開決定!『宇宙戦艦ヤマト 劇場版』4Kリマスター/『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』4Kリマスター



↓映画『サイボーグ009』(1966年版)については、こちら↓

「サイボーグ009 作品ラインナップ」東映アニメーション



↓テレビ版『サイボーグ009』(1968年版)については、こちら↓

「サイボーグ009 作品ラインナップ」東映アニメーション





以下、余談。


『ヤマト』が公開された
翌年の1978年8月に公開されたのが
『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』。

さらに翌年の1979年7月には、
『宇宙戦艦ヤマト・フェスティバル』
が公開された。

上映されたのは、
『宇宙戦艦ヤマト』
『さらば宇宙戦艦ヤマト』と、
西崎のテレビアニメ初プロデュース作品
『海のトリトン』劇場版の前編。

後編は劇場では公開されず、
のちに発売されたビデオソフトで
初めて日の目を浴びることになる。

1979年といえば、
『海のトリトン』が初監督作品だった
富野喜幸(現:富野由悠季)が
総監督として手がけた
『機動戦士ガンダム』が
テレビ放送された年である。

また、テレビシリーズ第2作目となる
『サイボーグ009』が
テレビ放送された年でもある。



↓『機動戦士ガンダム』については、こちら↓

「機動戦士ガンダム 作品紹介」サンライズ



↓テレビ版『サイボーグ009』(1979年版)については、こちら↓

「サイボーグ009 (1979年) 作品紹介 」石森プロ





今日は、
ヤマトと009が同時上映?!
について話をさせてもろうたでがんす。



ほいじゃあ、またの。

(文中、敬称略)
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ざんぎり頭をたたいてみても、文明開化の音がしない!

2023年11月13日 | 日記
「ざんぎり頭をたたいてみれば、
文明開化の音がする」

それまでの武士の時代が終わって
明治の世になり、
ちょんまげを切り落として
西洋風に髪を短くした髪型を
「ざんぎり頭」と呼ぶようになった。

文明開化のシンボルであった
断髪が取り入れられたのは
男性だけの話。

女性の髪型はどう変わったのか?





今日は、
ざんぎり頭をたたいてみても、
文明開化の音がしない!
についての話でがんす。





1871(明治4)年、明治政府は
「散髪脱刀令(さんぱつだっとうれい)」
を出し、髪型は自由
(ちょんまげを禁止したわけではない)、
士族は刀を差さなくてもよいとした。

1873(明治6)年、
明治天皇が断髪を行ったことで、
男性に断髪が浸透する。

この「散髪脱刀令」を、
「女性も断髪しなければならない」
と受け取った女性たちがいて、
男性と同じように髪を短くした。

しかし、
女性が髪を短く切ることに対して
反発が起こる。

「散髪脱刀令」が出された翌年の
1872(明治5)年4月5日、東京府は、
女性はみだりに髪を切ってはならない
という内容の
「女子断髪禁止令」を出した。

「長い黒髪こそ女性らしい姿である」
という美意識が根付いていた日本では、
女性が髪を切ることに対する抵抗感は
根強いものがあったようだ。

そのため、
明治の世になったとはいえ、
女性は江戸時代と同じように
日本髪を結うのが主流だった。


しかし、1883(明治16)年に
鹿鳴館が建てられると、
上流階級の婦人の間で洋装が取り入れられ、
髪も洋風にアレンジしたものが登場する。

1885(明治18)年、
日本髪は手入れが大変なうえに
不潔で不経済ということから、
日本髪を廃止して
新しい髪型にしようという
「婦人束髪(そくはつ)会」が設立される。

このころ、日本髪は
鬢付け(びんづけ)油で固めて結うので、
頭を洗うには油や髪に付いた汚れを取るため
半日がかりだったという。

確かに、手入れが大変で、
不潔で不経済である。

これに対して、束髪は水油を使うため、
鬢付け油を使う日本髪より軽い仕上がりで、
寝る時はほどくことができ、
簡単に髪が洗うことができた。

髪を切ってはいけないならと、
手軽に髪を結うことができる
束髪にする女性が増え、
日本髪を結う女性が
だんだんと減っていったそうだ。



↓束髪については、こちら↓

「「日本髪」から「束髪」へ明治時代のヘアスタイル~【永久保存版】髪型の歴史150年。美のプロなら知っておきたい明治・大正・昭和のヘアトレンド」リクエストQJナビ





以下、余談。


「女子断髪禁止令」の話が出たが、
明治時代、女性が髪を短くするときには
「断髪届」なる届け出を出さないと
罰せられたという。

『広島県史年表』の
1879(明治12)年4月1日の項には、
次のように書かれている。


婦女斬髪願は、病患原由を記載し医師診断書を添えて所轄警察所へ願出ることとする。


髪を短くする女性は、
その病気の原因を書いた上に、
医師の診断書を添えて
警察署へ届け出なさい、ということだ。

こういう法令が出されたということは、
髪を短くしたいと願う、
または実行する女性が相当数いたことが
想像される。

文明開化の世の中、
古い価値観に立ち向かう
女性たちがいたのだ。



↓「断髪届」については、こちら↓

「明治の女性、髪を切るのに「断髪届」 千葉の民家で発見」朝日新聞デジタル



↓『広島県史年表』(PDF版)については、こちら↓

「『広島県史年表』  PDF版」 - 広島県立文書館





以下、さらに余談。


「女子断髪禁止令」
が出された4月5日は現在、
「ヘアカットの日」とされている。



↓ヘアカットの日については、こちら↓

「あの日の公文書 ヘアカットの日」国立公文書館ニュース





今日は、
ざんぎり頭をたたいてみても、
文明開化の音がしない!
について話をさせてもろうたでがんす。



ほいじゃあ、またの。
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鉄道のレールが滑りやすくなるのは、「タンニン」が原因だった?!

2023年11月11日 | 広島の話題


(「車両空転 列車立ち往生」中国新聞 2023年11月7日)


11月6日(月)午後3時35分ごろ、
JR山陽本線の瀬野-八本松間を
走行していた上り列車の車輪が空転、
立ち往生した。

雨でぬれた落ち葉で
車輪がレールの上で滑り
前に進めなくなったのが原因とみられる。

午後4時すぎ、
滑り止めの処置をして運転を再開するも、
再び車輪が空転して動けなくなったため、
午後8時、瀬野-西条間は
それまでの運転見合わせから
終日運転取り止めとなった。


秋になると
鉄道のレールの上に落ち葉が積もる。

その上を列車が走ると滑りやすくなり、
加速をしたり
ブレーキをかけたりするのが難しくなる。

これまでは、
レールの上に落ち葉があるから滑りやすい
と考えられてきた。

しかし、最近の研究では、
落ち葉に含まれる「タンニン」が原因
ということがわかったそうだ。





今日は、
鉄道のレールが滑りやすくなるのは、
「タンニン」が原因だった?!
についての話でがんす。





「タンニン」といえば、
赤ワインや渋柿、茶葉などに含まれ、
また、抗酸化作用があるため、
活性酸素のはたらきを抑制したり
取り除いたりすることが知られている。

活性酸素とは、
老化や免疫機能の低下、がん、動脈硬化
などの要因とされる。


その「タンニン」と
鉄道のレールの滑りやすさとは
どういう関係があるのか?

レールの上に積もった
落ち葉に含まれる「タンニン」が、
レール上の結露による水分、
または雨水を吸収して、
レールの鉄成分と化学反応を起こし、
黒色の「タンニン酸鉄」となる。

この「タンニン酸鉄」が、
車輪とレールの摩擦を大幅に減少させ
レールを滑りやすくしているという。

ちなみに、「タンニン」を含まない
落ち葉で試してみると、
「タンニン酸鉄」は形成されず、
車輪とレールの摩擦をそれほど減少させない
こともわかった。



【参考Web】

「線路の上に「落ち葉」があると電車が滑りやすくなる現象を解明。タンニンによって秋の電車は遅延していた!」
ナゾロジー






以下、余談。


わしがJR山陽本線を使って
通勤をするようになって10年になるが、
今回のように落ち葉で車輪が空転、
瀬野-八本松間で列車の遅延・
運転見合わせということが何度かあった。

その対策のひとつとして、
2015年から投入されたのが、227系電車
通称「Red Wing(レッドウィング)」。

今回のような「運転取り止め」は、
レッドウィング投入後
初めてのことじゃと記憶する。


この日の午後6時の時点で、
JRの西日本ホームページには、
「運転再開見込日時:目処立たず」
「西条から瀬野まで運転見合わせ」
と出とった。

たいていは運転再開見込み時間が
掲載されるもんじゃが、
運転再開のメドが立たん、
というのも珍しかったの。

ほいじゃけぇ、この日は
職場の人に車で送ってもろうた。

午後7時すぎくらいに、
瀬野駅から約4キロくらいのところで
立ち往生しとった上り列車を、
2号線を走っている車から見た。

報道によると、
午後3時35分ごろに停車したこの列車には
およそ150人の乗客が乗っていた。

停車から約4時間後、
横付けされた下りの列車に乗り換えて
瀬野駅まで移動、
バスで西条駅へ向かったという。

この列車に乗っておられた方、
お疲れさまでありましたのう。



↓JR西日本 中国エリアの列車運行情報については、こちら↓

「中国エリア 運行情報」JR西日本列車運行情報





以下、さらに余談。


今回、列車が立ち往生した
JR山陽本線の瀬野-八本松間は、
「瀬野八(セノハチ)」と呼ばれる
国内でも有数の難所。

最大勾配は22.6‰(パーミル)、
つまり1,000メートル進む間に
22.6メートル高さを上る急勾配があって、
角度にすると約1.2度ある。

この区間を走る上り貨物列車は、
今でも勾配対策として
最後尾に補助機関車を連結して
「後押し」が行われているんじゃの。





今日は、
鉄道のレールが滑りやすくなるのは、
「タンニン」が原因だった?!
について話をさせてもろうたでがんす。



ほいじゃあ、またの。
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