通じゃのう

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ピースウォークひろしまツーデー(その14) 元安橋から中央公園

2012年12月31日 | 見て歩き
1日目
太田川リバーウォーク 35キロ

その14 中区
元安橋から中央公園まで






「11月24日(土)に行われたピースウォークひろしまツーデーの1日目、太田川リバーウォーク(35キロ)。前回は、中区 平和公園前交差点から元安橋(もとやすばし)までを紹介したが」

「14回目の今日は、元安橋からゴールの中央公園まで」







「元安橋の東詰北側にあるのが、広島市道路元標(どうろげんぴょう)」

「目立たんところにあるけぇ、うちは知らんかったよ」

「広島県ができた1871年(明治4年)、木製の道路元標が建てられた。ほいで、広島市ができた1889年(明治22年)、広島県から広島市の道路元標になって、石柱に替えられたそうじゃ」

「ところで、道路元標ってなに?」

「道路の起点や終点の基準となる標識を、道路元標というんじゃと。江戸時代、ここは西国街道があって交通の便もええし、太田川の水運の便もえかったけぇ、広島城下町の中心地じゃったんよ。そこで、ここが起点になったということじゃ」







「これは、動員学徒慰霊塔。戦争末期、学生が軍需工場とかで働かされよったんよ」

「働き手である成人男性が次々と戦場に送られて、国内では労働力が不足しとったんじゃの」



政府は労働力の不足を補うため、1944(昭和19)年8月に学徒勤労令を発し、中学生以上の生徒は軍需工場等での勤労奉仕が強制されました。

また、11月には、空襲による延焼を防ぐため、民家などの建物を取り壊し防火地帯をつくる建物疎開作業にも、多くの生徒が動員されました。
広島市内でも被爆当日、市内で建物疎開作業を行っていた国民学校高等科以上の8,000人以上の生徒のうち、約6,300人が犠牲となりました。

その他に市内の各事業所に出ていた多くの学徒も犠牲者となりました。

(「42 動員学徒慰霊塔」広島平和記念資料館)




「原爆が投下されたころ、広島市では東は鶴見橋(つるみばし)から、西は小網町(こあみちょう)までの間で、建物疎開をしよったんじゃ」

「空襲を受けたとき、火が燃え広がらんように防火地帯を作りよったんよね。これが今の平和大通りになるんじゃけど」

「この人たちの上で、原子爆弾が炸裂したんじゃの」

「8,000人以上の生徒のうち、約6,300人が犠牲になったんか。恐ろしいことじゃね」

「ここには、原爆犠牲者だけじゃのうて、学徒動員の作業中に亡くなった全国の学生への慰霊が込められとるんじゃ」









「いよいよ、世界遺産の原爆ドーム」

「原爆ドームが建っとる場所には、広島藩の米蔵(こめぐら)があったそうじゃ」

「江戸時代、旧広島市民球場や広島そごうあたりまでが広島城で、今の相生通り(あいおいどおり)は、お城の堀じゃったんよ」

「城の近くじゃし、米を船で運んでくるにもええ場所じゃったけぇ、ここに米蔵を建てちゃったんじゃろうの」

「1915年(大正4年)、この場所に広島県物産陳列館が建てられたんよ。ということは、97年前になるんじゃね」

「そのあと、1921年(大正10年)には広島県立商品陳列所、1933年(昭和8年)には、広島県産業奨励館と名前を変えとるんじゃ。1945年(昭和20年)8月6日、ここから南東に約150メートル、上空約580メートルの地点で、原子爆弾が炸裂したんじゃ」



原爆の投下により、建物は一瞬にして大破し、天井から火を吹いて全焼、中にいた30人余りの人々は全員死亡したと伝えられています。
爆風がほとんど真上から働いたため、壁の一部は倒壊を免れ、ドームの鉄枠とともに象徴的な姿をさらしました。
そして、その形から、占領が明けた頃には「原爆ドーム」という言葉が広く使われ始めました。

(「38 原爆ドーム 」)広島平和祈念資料館




↓原爆ドームについては、こちら↓

原爆ドーム







「原爆ドームの敷地内にあるのが、建設省(内務省)職員殉職碑じゃね」

「原爆が投下された1945年(昭和20年)当時、産業奨励館(現:原爆ドーム)は内務省の中国四国土木出張所や広島県地方木材・日本木材広島支社などの事務所として使われとったんじゃ」



現在原爆ドームと呼ばれている広島県産業奨励館の3階全部と1階の一部を借りて入っていた出張所の職員93人のうち、牛田町官舎等へ疎開していた人たちを除き、殉職者52人(内訳は男性30人、女性22人で、そのうち庁内執務者13人、作業出動者32人、行方不明者7人でした。)と負傷者9人という大きな被害を受けました。

(「39 中国・四国土木出張所職員殉職碑〔建設省(内務省)職員殉職碑〕」)広島平和祈念資料館







「これは、鈴木三重吉(すずき みえきち)文学碑じゃね」

「鈴木三重吉いうたら、広島市出身の小説家・児童文学者じゃのう」

「1918年(大正7年)には、児童文芸誌『赤い鳥』を創刊しとってじゃね」



昭和39年(1964年)6月、鈴木三重吉顕彰会建立。
肩に鳩を乗せた三重吉の胸像の台座は本を模しており、「赤い鳥」の文字と三重吉の好きだった馬が彫られている。
右側の少年と少女が座る台座には三重吉の筆で「私は永久に夢を持つ。たゞ年少時のごとく、ために悩むこと浅きのみ」の碑文がある。
円鍔勝三氏作。

(「「赤い鳥」文学碑」ようこそ 鈴木三重吉と「赤い鳥」の世界へ)








「左側が旧相生橋(あいおいばし)の碑で、右側が初代の親柱になるんじゃ」

「相生橋は、全国的にも珍しい「T」の形をした橋なんよ」

「珍しい形の橋じゃけぇ、原爆投下のとき、この橋が目印にされてしもうたんじゃ」



原爆投下はこの橋を目標にしたといわれています。
原爆は目標をそれ、300m離れた島病院上空でさく裂しました。

すさまじい衝撃波で橋桁は変形し、北側の欄干は川に落ち、歩道の一部が持ち上がりました。

(「6 相生橋」)広島平和祈念資料館








「ここから下に下りて、相生橋の下をくぐって歩いていくんじゃ」







「これは、リバークルーズの船じゃね」

「バールンという名前の船で、空鞘橋(そらざやばし)の下を通っとったんじゃ」



↓バールンについては、こちら↓

世界遺産を結ぶ海上アクセス - 広島・宮島観光/アクアネット広島







「空鞘橋も橋の下を通って、ようやく中央公園に戻ってきた。そして、ゴール!」

「おー、お疲れさま。パチパチパチ」







「おや、この写真は?」

「ゴールした後、公園の芝生の上にビニールシートを敷いて、そこでゴロンと仰向けになったときに撮った写真じゃ。あー、ちかれたびー」

「お父さんはマラソン大会に出るとき、ビニールシートを持って行きよったね」

「走った後くらい、ゴロンと横になりたいけぇの。そうそう、マラソン大会では荷物を預かってくれるんじゃが、ウォーキング大会は、自分で背負うて歩かんといけんのじゃ」

「そりゃ、しんどいね」

「今日は、「雨が降るかも」とか「寒いじゃろうの」と荷物を余分に入れてきてしもうた。明日は荷物を減らさんといけんの」

「明日は25キロじゃけど、大丈夫?」

「ま、なんとかなるじゃろ」

「そういや、何時間くらい歩いたん?」



【メモ】

ゴール時間/15時45分ころ
(スタートから約7時間45分)

歩数/約44,700歩

歩いた距離/約34.8キロ

(注:距離は歩数計に示されたもので、公式のものではありません)




「うわー、8時間近くも歩いたん?」

「休憩時間を入れてじゃがの」

「歩数が約45,000歩って、どんなんじゃろうか。うちには想像もできんよ」

「本人は、そんなの意識しとらんけぇの。あちこち見ながら歩きよったら、結果としてそうなったというだけじゃ。ただ、体はしんどいよのう」

「無理しんさんなよ。年じゃけぇ」





「電車に乗って帰ろうと、中央公園を出て基町クレド・パセーラの前を通ったら、サンフレッチェの試合がクレドビジョンで放送されとったんじゃ」

「そこで、サンフレッチェの初優勝のシーンを見たんよね」



↓サンフレッチェの試合についての関連記事は、こちら↓

サンフレッチェ広島 J1初優勝





「今日は、ピースウォークひろしまツーデーの1日目、太田川リバーウォーク 35キロ、元安橋から中央公園までについて話をさせてもらいました。1日目の35キロは、今回で終わりです」

「紹介するのに全14回もかかってしもうた。ほんまはこの半分で終わらせる予定じゃったんじゃが」

「とりあえず、年内に終わらせることができたね」

「とりあえずというか、むりやりというか…。書き残したことが、まだまだあるんじゃがのう」

「まだ、2日目の25キロも残っとるけど?」

「そりゃまた、来年、考えるわい」

「それではみなさん、今年1年、ありがとうございました。来年も、よろしくお願いします」

「よいお年をお迎えください。ほいじゃあ、またの」

ピースウォークひろしまツーデー(その13) 平和公園前交差点から元安橋

2012年12月31日 | 見て歩き
1日目
太田川リバーウォーク 35キロ

その13 中区
平和公園前交差点から元安橋まで






「11月24日(土)に行われたピースウォークひろしまツーデーの1日目、太田川リバーウォーク(35キロ)。前回は、中区 宇品橋(うじなばし)から平和公園前交差点までを紹介したが」

「13回目の今日は、平和公園前交差点から元安橋(もとやすばし)まで」






広島平和祈念資料館


広島国際会議場


祈りの泉


「平和公園前交差点、つまり平和大通り(100メートル道路)側から平和公園に入ると、右手(東側)に広島平和祈念資料館、左手(西側)に広島国際会議場。そして、中央には祈りの泉があるんじゃ」

「広島国際会議場がある場所には、長いスロープのある広島市公会堂があったんよ」



↓広島平和祈念資料館については、こちら↓

広島平和祈念資料館



↓広島国際会議場については、こちら↓

広島国際会議場









「手前に原爆死没者慰霊碑、奥に原爆ドームが見えるね」

「慰霊碑には、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」という碑文が刻んであるんじゃの」



碑文については主語をめぐるさまざまな議論がありましたが、広島市は碑文の趣旨を正確に伝えるため、日・英の説明板を設置し、「碑文はすべての人びとが原爆犠牲者の冥福を祈り戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉である 過去の悲しみに耐え憎しみを乗り越えて全人類の共存と繁栄を願い真の世界平和の実現を祈念するヒロシマの心がここに刻まれている」と記しています。

(「20 原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)」)広島平和祈念資料館








「こうやってみると、慰霊碑の形がよく分かるね」

「この形は、はにわの家型で、犠牲者の霊を雨露(あめつゆ)から守りたいということでこの型にしたそうじゃ」

「慰霊碑の周りには、平和の池があるんよ」



建設当初は、慰霊碑の周囲三方を囲む、幅2mの池でしたが、1964(昭和39)年8月1日に「平和の灯」が設置された際、平和の灯建設委員会により、池の後方を幅17m、長さ70mに拡張され、現在の形になりました。

(「19 平和の池」)広島平和祈念資料館








「平和の池の北側に平和の灯(ともしび)があるんじゃ」

「これは、手首を合わせて、手のひらを大空にひろげた形をしとるんよ」

「南から、広島平和記念資料館、慰霊碑、平和の灯、そして原爆ドームは、同一線上に並んどるんじゃの」



この火は、1964(昭和39)年8月1日点火されて以来ずっと燃え続けており、「核兵器が地球上から姿を消す日まで燃やし続けよう」という反核悲願の象徴となっています。

(「18 平和の灯」)広島平和祈念資料館








「おぉ、天使の階段が見えるね」







「道路を渡って北側には、原爆の子の像があるんじゃ」



2歳の時被爆した佐々木禎子さんは、幸いけがもなく、元気で活発な少女に成長しました。
ところが、10年後の小学校6年生の時に突然白血病と診断され、8か月間の闘病生活の後、1955(昭和30)年10月25日に短い生涯を終えました。
禎子さんは「鶴を千羽折ると病気が治る」と信じ、薬の包み紙や包装紙などで1,300羽以上の鶴を折り続けました。
病気を乗りこえ、懸命に生きようとした「サダコ」の物語は、ヒロシマの悲劇の象徴として、日本だけでなく海外でも広く語り継がれています。

(「16 原爆の子の像」)広島平和祈念資料館




「この像は、佐々木禎子(ささき さだこ)さんが亡くなったあと、彼女の同級生たちによる募金運動によって建てられたんよ」

「語り継ぐといえば、佐々木さんの甥・佐々木祐滋(ささき ゆうじ)さんが、禎子さんの想いを綴った曲『INORI』を作られたんじゃ。ほいで、この曲を歌ったクミコが紅白歌合戦に出場されたのが、2010年(平成22年)じゃったのう」



当初は、広島出身でもなく原爆という難しい内容を扱った歌「INORI〜祈り」を私が歌ってよいものか悩み一度は断った。
しかし依頼してきた佐々木は被爆二世で「こんな青年を未だに不安にさせる一個の原爆の怖さ、そしてそのことを後世に伝えたいという佐々木の熱い気持ちに、私の歌で伝えていく手助けになれば」と依頼を引き受けた。

(「クミコ」ウィキペディア)




↓佐々木祐滋については、こちら↓

ゆーじのハッピースライフ



↓クミコについては、こちら↓

クミコ オフィシャルサイト







「元安川(もとやすがわ)に架かっとるのが元安橋(もとやすばし)」

「この橋の欄干は、こんな風になってます」



橋げたは原爆に耐えましたが、親柱の上の笠石は左右逆方向にずれ、欄干も橋の両側にそれぞれ落ちました。
この状況から、爆心地は橋の延長線上に位置すると推定されました。

(「44 元安橋」)広島平和祈念資料館






「この船は、2つの世界遺産、平和公園と宮島を結ぶ世界遺産航路に就航している「うらら」と「きらら」という船なんじゃ」



↓「うらら」と「きらら」については、こちら↓

世界遺産を結ぶ海上アクセス - 広島・宮島観光/アクアネット広島





「というわけで、次回は中区 元安橋から中央公園まで を紹介する予定じゃ」

「いよいよ、ゴールじゃね。早よ終わらせてしまわんにゃ、年が越せんよ!」

「わかった!」





【メモ】

宇品橋通過時間/15時30分ころ
(スタートから約7時間30分)






「今日は、ピースウォークひろしまツーデーの1日目、太田川リバーウォーク 35キロ、平和公園前交差点から元安橋までについて話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」

ピースウォークひろしまツーデー(その12) 宇品橋から平和公園前交差点

2012年12月31日 | 見て歩き
1日目
太田川リバーウォーク 35キロ

その12 中区
宇品橋から平和公園前交差点まで






「11月24日(土)に行われたピースウォークひろしまツーデーの1日目、太田川リバーウォーク(35キロ)。前回は、南区 暁橋(あかつきばし)から宇品橋(うじなばし)までを紹介したが」

「12回目の今日は、宇品橋から平和公園前交差点まで」







「宇品橋を渡ると、あとはゴールがある中央公園まで歩いて行けばええんじゃね。がんばれ!」

「ここからは、元安川(もとやすがわ)に沿うて、北に向かって歩いていくんじゃ。町名は、南区の宇品西(うじなにし)から、中区の南千田西町(みなみせんだにしまち)に変わるんじゃの」



現在の千田町は、もともと藩政期に新開地(埋立地)として広島湾頭に造成された土地であり、当時は広島城下国泰寺村の一部をなしていた。
その後町名変更により国泰寺村より独立、宇品港(現在の広島港)を築港した当時の広島県令(現在の県知事)の千田貞暁にちなみ「千田町」と改名した。

(「千田町(広島市)」ウィキペディア)








「相変わらず、雲がたれ込めとるね」

「雲間から光が差し込んどるじゃろ。これを「天使の階段」と呼ぶんじゃ」

「天使の階段か。言われてみると、天と地を結ぶ光の階段を天使が降りて来るようにも思えるね」

「気象現象としては「薄明光線(はくめいこうせん)」と呼ぶそうじゃ。元安川の川向こうにあるのが吉島町(よしじまちょう)じゃの」



古くは「葭島」とも表記した吉島の名は「葭の茂っている中州」を意味すると言われる。

(「吉島(広島市)」ウィキペディア)




「「葭」と書いて、「よし」って読むん?」

「ほうじゃの。「葭」とは、湿地に生える「葦(あし)」のことじゃ。「あし」は「悪し」に通じるけぇ、逆の意味の「よし(=良し)」と言い替えたんじゃと」

「へぇ」

「江戸にあった遊郭といえば?」

「吉原じゃね」

「正解」

「え、ひょっとしてここも?」

「ここもあしが茂る湿地じゃったけぇ「葭原(よしはら)」という地名じゃったんじゃが、縁起をかついで「吉原」と改められたということじゃ」







「南千田橋は、地下道を通って行く」







「このあたりに、千田公園があるんよね」

「隣には情報プラザや県立図書館なんかもあるよの」

「子どもたちが小さいころは、よく遊びに来よった。ローラー滑り台やアスレチックなんかがあるんよ」

「滑り台は、ダンボールか何かを敷いて滑らんと、おしりが痛(いと)うなるんじゃ」

「残念なのは、駐車場がないことじゃね」

「この日も、違法駐車のクルマが駐まっとったのう」









「南大橋の交差点を渡ると、町名が千田町から大手町に変わる。ほいで、川の両側にはラブホテルが立ち並んどるんじゃの」

「お金も時間も相手もないけぇ、ここはスルーしようね」



「大手町」の町名は、かつて存在した広島城大手門の南に位置したことに由来する地名である(藩政時代の町名は「白神」(一-六丁目)であり、その名は近隣に所在する神社に由来する)。

(「大手町(広島市)」ウィキペディア)








「明治橋の東側(右手)には、たかのばし商店街があって…」







「北側には、原爆犠牲者慰霊碑もあるんじゃ」



昭和四十五年八月六日
タカノ橋商店街振興組合
理事長 新長 武
建立








「歩いてきた道を左に曲がって、明治橋を渡る。町名は、大手町から住吉町(すみよしちょう)に変わるんじゃ」







「吉島通りに出た。このあたりは、江戸時代から戦前まで広島の中心地じゃったんじゃ」

「なんで?」

「江戸時代には、藩主の別邸・与楽園(よらくえん)や藩の船屋敷があった。明治時代には、広島県庁や公立広島病院(現:県立広島病院)などもあったんじゃ」

「そういや、住吉神社もこの近くにあるよね」

「住吉神社の夏祭り「すみよしさん」は、広島三大祭りのひとつになっとるよのう」



↓住吉神社については、こちら↓

ようこそ広島の住吉さんへ 住吉神社公式ホームページでございます。





「国道2号線を渡ると、町名は、住吉町から加古町(かこまち)に変わる。「加古」というのは、「水主」を言い換えたものじゃ」

「水主は、水夫(すいふ)のことじゃね」

「さっき、藩の船屋敷があったと言うたが、船屋敷があるということは、水主、つまり船を操る人が要るということじゃ」

「それで、加古町という地名になったんじゃね」

「むかしは、「水主町」と書いたそうじゃがの。加古町の南に羽衣町(はごろもちょう)があって、ここにも萬象園(ばんしょうえん)という広島藩の庭園があったんじゃ」







「アステールプラザじゃね」

「さっき話をした、藩主の別邸・与楽園がここにあったんじゃ」



与楽園(よらくえん)は広島城下・水主町(現中区加古町)に所在していた庭園である。
1801年藩主・浅野重晟により、藩主の別邸として隣接する広島藩中屋敷(水主町屋敷)とともに着工され、1826年完成した。
明治以後は県立病院(当時)の庭園となり、原爆により大きな被害を受けたが、戦後もしばらく存続していた。
現在は跡地にアステールプラザなどが建てられ、「与楽園」の名は中島小学校の理科園の名前として残っている。

(「広島藩の庭園」ウィキペディア)




↓アステールプラザについては、こちら↓

アステールプラザ









「ここは、「広島市文化交流会館」のはずじゃけど…?」

「今年(2012年)の11月から2017年3月までは、ホールだけが「広島文化学園HBGホール」という名前になるんじゃ。ほいじゃけぇ、名前が2つ並んどるんじゃないんかの」

「命名権というのは、めんどくさいねぇ。勝手に名前が変わっとるもん。うちゃ今でも「厚生年金会館」って言うてしまうよ」

「バス停は、「広島厚生年金会館前」のまんまじゃしの。「ウェルシティ広島」という愛称もあって、正直、訳分からんようになっとるよのう」



↓広島市文化交流会館については、こちら↓

広島市文化交流会館オフィシャルサイト(旧:広島厚生年金会館ウェルシティ広島)



↓広島文化学園については、こちら↓

広島文化学園総合ページ





「さぁ、いよいよ平和公園じゃね」

「ということで、次回へ続く」

「えー、まだ続くん?」

「いや、あれもこれもと思うとったら、容量をオーバーしてしもうての。しかも、あと2回あるんじゃ…」

「これを終わらせてしまわんにゃ、年が越せんよ!」

「というわけで、次回は中区、平和公園から元安橋(もとやすばし)まで を紹介する予定じゃ」





【メモ】

平和公園前交差点通過時間/15時20分ころ
(スタートから約7時間20分)






「今日は、ピースウォークひろしまツーデーの1日目、太田川リバーウォーク 35キロ、宇品橋から平和公園前交差点までについて話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」

ピースウォークひろしまツーデー(その11) 暁橋から宇品橋

2012年12月30日 | 見て歩き
1日目
太田川リバーウォーク 35キロ

その11 南区
暁橋から宇品橋まで






「11月24日(土)に行われたピースウォークひろしまツーデーの1日目、太田川リバーウォーク(35キロ)。前回は、南区、御幸橋から暁橋までを紹介したが」

「11回目の今日は、暁橋(あかつきばし)から元宇品を一周して、宇品橋(うじなばし)まで戻ってくる」







「暁橋を渡ると、そこが元宇品(もとうじな)」

「前回紹介したように、もともと島じゃった宇品が、宇品港(現:広島港)を作るときに陸続きになったんじゃ。ここは周囲が約3キロメートル、標高が約52メートルの小さな島なんじゃ」

「本来の宇品ということで、元宇品と呼ぶんじゃね」

「元宇品は、左回り(時計回り)で一周するんじゃ。瀬戸内の海に出たせいか、風が冷(つめ)とう感じるのう」







「おー、グランドプリンスホテルが見えてきたね」



↓グランドプリンスホテルについては、こちら↓

グランドプリンスホテル広島







「歩道にあるのが…」

「あー、これ、見たことがある。港にあるよね。船を港に停めるときに使うやつ。えーと、なんて言うんかいね?」

「ボラードと言うんじゃ」

「これがあると、港町という感じが出るよ」







「元宇品港公園に第2チェックポイントがあった。ここは1994年(平成6年)に整備された公園。チェックポイントでみかんを頂いて、ストレッチをしたんじゃ」

「今の時間は?」

「13時25分すぎじゃの」

「8時に中央公園を出発したけぇ、もう5時間25分も歩いとることになるんか」

「考えてみたら、よう歩いとるよのう。自分でも感心するわい」







「公園の横に立江地蔵菩薩があった。地蔵菩薩いうくらいじゃけぇ、子供の守り神なんじゃろうの」









「グランドプリンスホテルの山側は、ちよっとした高台になっとって、そこから黄金山(おうごんざん)(写真上)や広島呉道路の広島大橋や海田大橋(かいたおおはし)(写真下)が見えるんじゃ」









「グランドプリンスホテルを通り過ぎると、瀬戸内の海を一望できるんよ」

「海釣りを楽しんどる方がおられたのう」







「ここからは、こんな道を歩いて行くんじゃ」







岩脈(がんみゃく)とは、割れ目に沿ってマグマが上昇し、冷やされてできたものです。
元宇品では、いずれも花崗岩の中に、石英斑岩(せきえいはんがん)脈が数か所で認められます。
ここでは、幅約10センチメートルの岩脈が、明瞭に形づくられています。

(案内板より)








断層(だんそう)とは、地下の地層または岩盤に力が加わって割れ、割れた面に沿ってずれて動き、食い違いが生じたものです。
マグマの移動などによって、ずれの力(せん断)が発生し、岩盤の強度を上回ったときにできます。

(案内板より)








節理(せつり)とは、溶岩が冷やされる間、体積の減少によって、規則的な割れ目が入ることです。
一時的に、地表に出た溶岩は、上面は大気、下面は地面と接して冷やされ、冷えた表面から温度の高い内部へ割れ目ができます。

(案内板より)








「振り返って見上げると、宇品灯台が見えるんじゃね」

「この灯台は1950年(昭和25年)1月27日に点灯し、高さが約21メートルあるそうじゃ。ちなみに、海面からの高さは約46メートル」







海食崖(かいしょくがい)とは、波による浸食でできた崖(がけ)です。
6000年ぐらい前の縄文時代の中ごろは、今より数メートル高いところまでが崖で、それから約1000年かけて、ほぼ現在の海面の高さになりました。
海食崖は、海面よりかなり高い位置までできています。

(案内板より)




「ふーん。元宇品には自然がたくさん残っとるんじゃね」



元宇品は、戦後まもなく、瀬戸内海国立公園に編入されました。
樹木の伐採や開発が制限されたことにより、原生林と自然海岸が多く残っており、広島市内でも有数の自然観察の場となっています。

(「南区を歩こう(元宇品)」広島市ホームページ)




「元宇品の国有林は22ヘクタールもあって、原生林にはクスノキ、タブノキ、アベマキなどの木があるそうじゃ」







「これが、例の安芸の小富士がある似島(にのしま)じゃね」

「このあたりから、雲行きが怪しくなってくるんじゃの」







「赤い灯台が見えてきた」

「向こう側には、白い灯台もあるよ」

「この灯台は、広島港防波堤灯台(ひろしまこうぼうはていとうだい)というそうじゃ」



沖合いから広島港に向って東側が赤色、西側が白色としているのは、海上保安庁の規則で定められており、全国統一されたルールとなっています。

広島港東(西)防波堤灯台








「宮島の方を見ると、こんな感じゃったで」

「うわ! こりゃ、雪でも降りよるんかいね」

「元宇品を一周して暁橋に戻ってきたあたりで、小雨が降ってきたのう」







「広島電鉄宇品線の線路を横切り、広島みなと公園手前で右に曲がって、北に向かって歩く」

「ありゃ。線路に敷いてある芝生が赤茶けとるね」







「このあたりも再開発が進んで、道路や街並みが整備されてきたのう」

「ベイシティ宇品やゆめタウン、フレスタ、フタバ図書、コーナン、ニトリなど商業施設もあるよね」







「京橋川(きょうばしがわ)に架かる宇品橋を上らんといけんね」

「この橋は、2000年(平成12年)3月に開通して、その年の土木学会田中賞の作品部門を受賞したそうじゃ」







「うわー。なんか、すごいことになっとるよ」

「宇品橋の上から南西方向を見たんじゃが、あそこだけ、雲間から日が射しとるんじゃろうの」





「宇品橋を渡ると、三度(みたび)、中区に戻るわけじゃ」

「あとは、ゴールの中央公園を目指すだけじゃね」

「うわー、ようやっとゴールかぁ。今回まで、11回もかかっとるもんの」

「長かったねぇ」

「というわけで、次回は中区 宇品橋から平和公園前交差点まで を紹介する予定じゃ」





【メモ】

宇品橋通過時間/14時35分ころ
(スタートから約6時間35分)





【参考文献】

うじな通検定実行委員会『平成21年度版 うじな通になろう うじな通検定テキスト』2009年






「今日は、ピースウォークひろしまツーデーの1日目、太田川リバーウォーク 35キロ、暁橋から宇品橋までについて話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」

ピースウォークひろしまツーデー(その10) 御幸橋から暁橋

2012年12月29日 | 見て歩き
1日目
太田川リバーウォーク 35キロ

その10 南区
御幸橋から暁橋まで






「11月24日(土)に行われたピースウォークひろしまツーデーの1日目、太田川リバーウォーク(35キロ)。前回は、中区の鶴見橋(つるみばし)から御幸橋(みゆきばし)までを紹介したが」

「9回目の今日は、御幸橋から出島(でじま)を通って、宇品(うじな)にある暁橋(あかつきばし)まで」







「御幸橋から本来のコースに戻ったんじゃ」

「前回は、コースから外れてしもうたけぇね」

「京橋川に沿って南へ南へと歩いて行くんじゃが…」






























「な~んもない」

「何もないというのは、紹介するものが何もない、という意味です」

「そのうえ、ピースウォークを歩いとるらしき人も見えんし、スタッフの姿も見えん。あ~あ、退屈じゃのう」



「後ろを振り返ったら、御幸橋が見えた」







「ようやく宇品橋が見えてきたわい」

「川向こうに見える建物は?」

「千田町(せんだまち)にある、千田水資源再生センターじゃの」







「宇品橋の下を通って出島で左折するんじゃが、その左折する場所が分からん」

「分からんにゃ、スタッフの人に聞けばええじゃん」

「さっきも言うたように、スタッフの人がおってんないんじゃ。地図も、橋とか建物とか目印になるものがないときは、あんまりアテにならんのよのう。わしゃ、地元の人間じゃし土地勘もあるけぇ、いざとなりゃどうにでも歩いていけるが、他所(よそ)から来た人は、不安じゃったろうと思うで」







「で、適当に歩きよったら、ここに出た」

「ゆめタウンみゆきじゃね」



↓ゆめタウン広島については、こちら↓

イズミ・ゆめタウン WEB







「コースはゆめタウンより西側じゃ、と思うてそっちの方へ歩いて行ったら、ここに出た」

「山根木材じゃね」

「本社の横には、ショールーム納得すまいる館があるんじゃのう」



↓山根木材については、こちら↓

木と住まいの山根木材 広島の注文住宅は山根木材へ









「広島南道路の下を歩いて行くと…」

「広島みなと公園に着いたよ」

「出島で道に迷うてしもうたんじゃが、ここでまた、本来のコースに戻ることができた」







「広島港宇品旅客ターミナルも見えるね」

「広島市内からバスや広島電鉄の市内電車の終点が、ここになるんじゃの」

「江田島(えたじま)や能美島(のうみしま)など瀬戸内海の島や、四国への定期船も、ここから出とるんよ。もちろん、村下孝蔵(むらした こうぞう)の歌う『松山行フェリー』もね」

「広島県出身の演歌歌手・南一誠(みなみ いっせい)の歌う『雨の港から』も、ここ、宇品の港が舞台になっとるんじゃ」

♪宇品の港から 旅立つのさ~



↓村下孝蔵については、こちら↓

村下孝蔵ホームページ



↓南一誠については、こちら↓

南一誠 公式サイト









「かき(=牡蠣)小屋も出とったのう」

「よぉけぇ(=たくさん)食べに来とってじゃね。ここでは、焼きがきを楽しむことができるんよ」

「ひろしまオイスターロードということで、確か、2年前の2010年(平成22年)から始めて、その1号店となったのがここ宇品店じゃった」

「「オイスター(oyster)」は、英語で牡蠣のことなんよ」



↓ひろしまオイスターロードについては、こちら↓

ひろしまオイスターロード-牡蠣海道- 観光立県・地産地消を応援します。/







「広島みなと公園を出て、広電の元宇品口電停(もとうじなぐちでんてい)を右折すると、宇品が見えるんじゃ」

「ようやく、宇品(うじな)に着いたよ」



地名の由来は、この島の形が臥牛(がぎゅう)に似ているので「牛の島」と称したという説と、往古広島湾を「江の内」といい、宇品島は江の内にあるので「内の島」と称し、これが「内ナ島」となったともいう。

(「長宇品」『広島県大百科事典』中国新聞社 1982年)




「宇品は、もともと島じゃったんよ」

「そうなんじゃ。宇品港(現:広島港)は1889年(明治22年)、当時の広島県知事・千田貞暁(せんだ さだあき)によって造成されて、宇品島が地続きになったんじゃ」

「広島によい港がないということで、宇品港が造られたんよね」

「新田開発という目的もあったんじゃの。で、この宇品港が注目されるようになったのが、1894年(明治27年)に起こった日清戦争」

「このころ、鉄道が広島までしか開通しとらんかったんよ」

「その広島駅から宇品までの鉄道・宇品線も急遽作られて、宇品港からたくさんの兵隊が大陸へ送られて行ったんじゃ」







「暁橋(あかつきばし)を渡ると、元宇品町(もとうじなまち)じゃね」

「本来の宇品ということで、元宇品と呼ぶんじゃ」



第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)に、船舶往来の必要から水路を拡張。
その時水路を拡張した暁部隊(船舶司令部)より、現在の暁橋の名称が付けられた。

(「暁橋 (広島市)」ウィキペディア)




「そうそう、ここには暁部隊がおったんよ」

「正式には陸軍船舶司令部という、太平洋戦争中、輸送部隊を増強するために作られた機関なんじゃ」

「原爆が投下されたとき、暁部隊の方々が被爆した人たちを救助したんよね」



8月6日の原爆投下時には市の中心部にあった陸軍諸部隊および各官公庁がほとんど壊滅したなかにあって、陸軍船舶司令部隷下の諸部隊はその多くが市の南端海岸部に位置していたため、
(中略)
甚大な被災を免れ、被爆直後から猛火の中を市内に緊急出動し、消火活動を敢行したのをはじめ、罹災者(りさいしゃ)の救護と似島への転送など、逃げまどう市民や無数の重軽傷者の救難活動を迅速果敢に展開した。

(「陸軍船舶司令部」『広島県大百科事典』中国新聞社 1982年)






「暁橋を渡ると、いよいよ宇品。次回は南区、暁橋から宇品橋まで を紹介する予定じゃ」





【メモ】

暁橋通過時間/13時10分ころ
(スタートから約5時間10分)

歩数/約33,400歩

歩いた距離/約22.9キロ

(注:距離は歩数計に示されたもので、公式のものではありません)






「今日は、ピースウォークひろしまツーデーの1日目、太田川リバーウォーク 35キロ、御幸橋から暁橋までについて話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」