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(旧ブログタイトル:通じゃのう)

広島県職員原爆犠牲者慰霊碑 広島市中区加古町

2011年09月30日 | 広島の話題
「昨日、多聞院の話をしたけど、多聞院は8月6日の夕方から、一時的に県庁が置かれたんよね?」

「当時の県庁は水主町(かこまち。今は「加古町」と表記)、今の広島厚生年金会館やアステールプラザのあたりにあって、建物は壊滅・全焼したそうじゃ」

「爆心地からの距離は?」

「約1キロじゃの」



昭和二十年八月六日投下された原子爆弾は広島県庁および出先機関職員のうち八百有余の生命を一挙に奪い去った
祖国のために一身の安危を顧みずひたすらに公務に精励していた人々のこの尊い犠牲はまことに痛惜きわまりない
この附近は当時の殉難者が最も多く眠るところである
このゆかりの地を選んで碑を建て身をもって平和の礎となった人々をまつる

昭和三十三年八月六日 広島県知事 大原博夫

(碑文より)



広島県職員原爆犠牲者慰霊碑



慰霊碑とアステールプラザ(奥)




「ほんま、アステールプラザのすぐ裏じゃね」

「中島小学校の裏門から本川(ほんかわ。旧太田川)の川土手を上ったところにあって、本川をはさんで西側には神崎小学校があるんじゃ」

「神崎小学校いうたら、『はだしのゲン』を描いた中沢啓治(なかざわ けいじ)さんが通われとった学校じゃね」



旧広島県庁舎

この建物は、明治11年(1878年)、当時の広島市中区加古町(当時の水主町)に広島県庁舎として新築されました。
以来67年間にわたり、広島県行政の中心としての役割を担ってきましたが、昭和20年(1945年)8月6日に投下された原子爆弾により壊滅しました。

この被爆により、県庁舎や県の関係機関において、1,141名にも及ぶ広島県職員が犠牲となりました。

その後、県庁は、安芸郡府中町(現在のマツダ株式会社内)、広島市霞町(現在の広島大学医学部附属病院内)を経て、昭和31年(1956年)に広島市基町に設置され、現在に至っています。

平成7年(1995年)8月6日 広島県

(説明板より)



説明板



広島県職員原爆犠牲者名録碑




「ありゃ、県庁ってあちこち移転しとるんじゃね」

「ほいじゃ、県庁の歴史を見てみようかの…」

「まず、1871年(明治4)に廃藩置県が行われて、広島藩は広島県になったんよね」

「県庁は最初、広島城内に設けられたんよ」

「広島城いうたら、陸軍の施設があったんじゃなかったかいね?」

「1873年(明治6)に第五軍管広島鎮台が設置されたんよ。ほいじゃけぇ、その年、県庁は国泰寺の境内に移転したんじゃ」

「国泰寺いうたら、今の白神社(しらかみしゃ。中区中町)のあたりにあったんよね」

「ところがここの建物が火事で燃えてしもうたけぇ、1876年(明治9)に中区寺町の広島別院に仮庁舎を設けたそうじゃ。ちなみに、今の広島県域が確定したのもこの年なんよ」

「仮住まいの多い県庁じゃね」

「実はこのころ、県庁を尾道に移すという計画もあったそうじゃ」

「えぇ、ほんま!?」



この仮庁舎を転々としていた状況に対し、県庁を尾道に移し広島県を「御調県」と改称する計画が挙がった。
しかし、与楽園に隣接する広島藩中屋敷跡地に新庁舎を建設することが決定したため、この計画は撤回された。

(「広島県庁舎」ウィキペディア)





「「御調県」か…。うーん、こんな陰謀があったとは、知らんかったね」

「陰謀じゃないが、今ごろは「広島県」じゃのうて「御調県」という可能性もあったということじゃの。ちなみに、「御調」と書いて「みつぎ」と読むんよ」

「御調郡や御調町があったね」

「御調郡はなくなってしもうたが、御調町は地名として今も尾道市に残っとるんじゃ。尾道も、もともとは御調郡じゃったけぇの」

「県庁が建てられたのは、広島藩の中屋敷の跡地になるんじゃね」

「1878年(明治11)4月、広島水主町(現:中区加古町)の中屋敷跡に県庁舎が完成したんじゃ」

「中屋敷の隣にある与楽園(よらくえん)って、何?」

「広島藩第7代藩主の浅野重晟(あさの しげあきら)が、藩主の別邸として広島藩中屋敷と一緒に建てて、1826年(文政9)に完成したそうじゃ」

「ということは、藩主がたびたび来るような場所じゃったんじゃろうね」

「ここには藩の船屋敷があって、広島藩の水軍の要員も住んどったそうじゃ」

「「水主町」という地名も、そのあたりに由来するんかね?」

「ほうじゃの。「水主(かこ)」というのは、「水夫」のことなんじゃと」



明治期に入ってこの町には1877年公立広島病院(県立広島病院の前身)が設置、翌78年に広島県庁舎が移転してきた。
両者はともに原爆被災までこの町に所在したため、隣の中島新町に一時市役所が置かれていたこともあわせ、戦前期における地方行政の中心地という様相を呈した(また広島監獄(現・広島刑務所)も1888年に吉島に移転するまで水主町に置かれていた)。

(「加古町・住吉町(広島市中区)」ウィキペディア)





「さっき出てきた与楽園は、公立広島病院の中庭になっとったそうじゃ」

「県立広島病院いうたら、今は広島市南区宇品神田にあるよね」

「1948年(昭和23)4月、今の場所に建てられたそうじゃ。ちなみに、わしゃこの病院で産まれたんじゃがの」

「県庁は、原爆が投下された当日の夕方から多聞院に、翌日の8月7日には東警察署(現:広島銀行銀山町支店)に移ったんよね」

「その月の20日には、東洋工業(現:マツダ)から土地を提供されて、東洋工業府中工場(現:マツダ本社工場)の敷地内に移転したそうじゃ」

「ほいで、今の中区基町(もとまち)に新庁舎を建てられたんかね?」

「その前にもう1回、1946年(昭和21)に南区霞町(かすみちょう)にあった陸軍兵器補給廠(現:広島大学霞キャンパス)に移転しとるんよ」

「被爆後でしょうがないとはいえ、流浪の民のようじゃね」

「今の県庁が建てられたのが、1956年(昭和31)4月じゃ」

「やれやれ。ようやっとじゃね…」

「広島県庁舎は1998年(平成10)には、公共建築百選にも選ばれとるそうじゃ」




広島県庁



「明日から公開される映画『DOG&POLICE』に、予告編を見る限り、広島県庁もチラリと出とるんじゃの」

「出たというより、県庁がパセーラの向かい側にあるけぇ、たまたま映っただけなんじゃろうけどね」

「この予告編の9~11秒までの間、市原隼人の後ろに映っとる建物が広島県庁になるなんじゃ」





↓映画『DOG&POLICE』予告篇については、こちら↓

映画『DOG×POLICE ドッグポリス 純白の絆』予告篇





↓映画『DOG&POLICE』については、こちら↓

映画『DOG&POLICE ドッグポリス 純白の絆』公式サイト





↓多聞院についての関連記事は、こちら↓

多聞院 広島市南区比治山町





↓原爆の碑についての関連記事は、こちら↓

「ヒロシマの火 平和への灯」 NHK広島放送局 広島市中区大手町

戸坂の供養塔 広島市中区戸坂






「今日は、広島市中区加古町にある広島県職員原爆犠牲者慰霊碑と、広島県庁の歴史について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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多聞院 広島市南区比治山町

2011年09月29日 | 広島の話題
「昨日取りあげた興禅寺(こうぜんじ)は、広島新四国八十八ヶ所の第五十三番霊場じゃったんよ。その次の第五十四番霊場にあたるのが、吉祥山遍照寺多聞院(へんじょうじ たもんいん)になるんじゃ」

「多聞院いうたら、頼家のお墓があったお寺じゃね」




多聞院



多聞院 入口




「高倉天皇(たかくらてんのう)が宮島に来られた時、多聞天(たもんてん)の声を聞いて、隠渡(現:呉市音戸町(おんどちょう))にお堂を建てられたのが、多聞院の始まりじゃそうな」

「高倉天皇って誰かいね?」

「後白河(ごしらかわ)天皇の皇子で、母親は平清盛(たいらのきよもり)の妻・時子(ときこ。建春門院(けんしゅんもんいん)とも)の妹・滋子(しげこ)になるんじゃ」

「ということは、清盛から見たら、高倉天皇は甥(おい)にあたるというわけじゃね?」

「ほうじゃの。高倉天皇は1180年(治承4)、宮島を参詣されとるんよ。その6年前の1174年(承安4)には、後白河天皇と建春門院も清盛と宮島に参詣されたそうじゃ」

「天皇がわざわざ宮島に来てお参りするほど、清盛の力が強かったということじゃね」

「時代は下って、天文年間(1532~1555年)。毛利氏の招きで高田郡吉田(現:安芸高田市吉田町)に移ったんよ。その後、広島城築城にともなって、1590年(天正18)には沼田郡新庄村三滝(現:西区三滝本町)に移ったんじゃ」

「興禅寺も、毛利氏について吉田から広島に移って来とったよね」

「最終的には1604年(慶長9)、福島正則によって現在地に移されたそうじゃ」

「で、原爆が投下されたんよね」



多聞院(爆心地から約1.75キロメートル)

原爆の爆風により瓦が全部落下した多聞院本堂には、1945(昭和20)年8月6日夕刻、倒壊・全焼した県庁に替わり県防空本部が置かれました。
翌日、県庁は東警察署に移りましたが、同院は救援物資の受付や、比治山に逃げてきた多数の被爆者などに握り飯の配給を行いました。
爆風で梁を破損した鐘楼は、現在もそのまま保存されています。

(説明板より)




「原爆によって、多聞院の本堂と庫裡(くり)が大破し、山門は倒壊したんよ。ほいじゃが、鐘楼だけは屋根と天井の破損ですんだそうじゃ」

「多聞院のすぐ上にある山陽文徳殿は、広島市の戸籍選挙課分室になっとって、市役所から戸籍簿の大部分が移されとったよね」

「多聞院は県庁の緊急避難先に指定されとったんじゃ。ほいじゃけぇ、8月6日の夕方には県防空本部(県庁)が置かれたんよ。ここから内務省への報告と、救護班の出勤命令がされたそうじゃ」

「あのころ、県庁はどこにあったんかいね?」

「水主町(かこまち。現:加古町)、今の広島厚生年金会館やアステールプラザがあるあたりじゃの」

「県庁の爆心地からの距離は?」

「約1キロ。翌7日に県庁は東警察署に移ったんじゃが、多聞院では救援物資の受付や、握り飯の配給の手配などが行わたそうじゃ」

「東警察署って、どこにあったん?」

「下柳町(しもやなぎちょう。現:銀山町(かなやまちょう))にあったんじゃ。広島銀行の下柳支店(現:広島銀行銀山支店)の建物を借りとられたんよ。東警察署は今、富士見町(ふじみちょう)にあるがの」

「今ある場所とは違うけぇ、場所を整理するのが大変じゃね」



この鐘楼は昭和廿年(一九四五年)八月六日、こゝから約一.七粁北西方向の上空で、巨大な火の玉となった原子爆弾によって破壊されたそのまゝの姿である。
鐘は昭和廿四年八月に死没者二十万人の慰霊と恒久平和を祈念するため再鋳開眼された。
毎朝被爆の時刻午前八時十五分を期して撞き鳴らしている。
鐘には焼けたゞれた広島市の上空に現れた観音菩薩像お護りして下さる弘法大師像、平和を祈る漢詩文、梵字光明真言、ノーモアヒロシマズの英文等が刻画されている。
広島市が平成十年五月被爆の證として永久保存建造物に指定し同年十一月広島市市民局国際平和推進室の援助協力を得て基礎補強工事が施された。

融照記

(説明板より)



多聞院の鐘楼と説明板(手前)



同上 梁



同上 鐘




「多聞院の鐘楼は、奇跡的に倒壊を免れとるんじゃ」

「この鐘楼は、いつごろ建てられたんかね?」

「1934年(昭和9)に建てられたんよ。鐘は、戦時中に金属供出されとったけぇ、原爆が投下された時はなかったんよ」

「今ある鐘は戦後に作られたんじゃね」

「1949年(昭和24)に作られて、観音菩薩像や弘法大師像、”No More Hiroshimas”と刻まれとるんじゃ。ほいで、毎朝8時15分と、朝夕6時に鐘が鳴らされとるんじゃと」




四国と西国の霊場のお砂浄土

このお砂浄土は四国八十八ヶ所と西国三十三所霊場のお砂をいただいて、弘法大師のおみ足をきざんだ蓮華の下に奉安したものです。
このお浄土を踏んで一心にお念佛すれば、各霊場をおまいりしたと同じ浄行が達せられるのです。


佛足石

この佛足石は釈尊の遊行説法(転法輪)をあらわし、この佛足跡を見るものは無始以来の罪業を離れ、障難にもあわずと経典に説かれています。
又足を丈夫にするという信仰からも厚く礼拝されて来ました。

(説明板より)



四国と西国の霊場のお砂浄土と佛足石




「足を丈夫にする…か、行ってみんといけんね」

「毎日1万歩、歩くためか?」

「ダイエットするためじゃけぇね」




毘沙門天本堂



「これは1997年(平成9)に再建されたそうじゃ。ほかにも、こんな物があるんよ」




楠公追慕の五輪塔




鳥魚供養碑






↓多聞院については、こちら↓

「多聞院 鐘楼」“ヒロシマ”をさがそう!~市民とつくる被爆地図~





↓多聞院についての関連記事は、こちら↓

頼家の墓 多聞院 広島市南区比治山町

頼山陽文徳殿 広島市南区比治山町






「今日は、広島市南区比治山町にある多聞院について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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興禅寺 広島市中区西平塚町

2011年09月28日 | 広島の話題
「6月の話になるんじゃが、とうかさん(圓隆寺)の写真を撮りに行く途中で、興禅寺(こうぜんじ)というお寺を見つけたんじゃ。で、境内に入ってみると…」




興禅寺




興禅寺の境内にあるお地蔵様



首が折れたお地蔵様



お顔が欠けたお地蔵様




「ありゃま。首のないお地蔵様がおってんじゃね」

「首がないんじゃのうて、原爆の爆風で首から上が吹き飛ばされたそうじゃ。4枚目の写真のお地蔵様も、写真じゃちょっと見づらいかもしれんが、お顔が欠けとるんじゃ」




海嶋山興禅寺縁起


興禅寺は山号を海嶋山と称し、臨済宗妙心寺派に属し、四百有余年以前よりからの歴史を今に伝えている。

永正年代(一五〇〇)の頃から臨済宗の寺院として高田郡吉田町の郡山城の麓にあった。
毛利家歴代(元就・隆元・輝元)の尊崇厚く、宗風大いに上がり支配下寺院六か寺を数える大寺となった。
時が経ち天正十九年(一五九一)輝元 広島に城を構え移り、明くる年文禄元年(一五九二)興禅寺を現在地平塚に移した。

その後 輝元が深く帰依された広島における開山雲嶺永智禅師を名古屋市の海国寺より請じ、臨済宗妙心寺に属したのである。

慶長五年(一六〇〇)輝元 萩に移りしも、広島の地に残り、福島時代となり他の臨済宗の寺院はほとんど萩に移るか、又は福島により改宗させられたり、廃寺となったが雲嶺禅師の徳により当寺のみが残ったのである。

浅野長晟が元和五年(一六一九)福島に代わり広島の領主となりしも、雲嶺禅師に深く帰依され、それからは浅野歴代藩主の信心ならびに庇護を受け宗風大いに上がり、末寺五か寺を有し広島屈指の名刹に数えられた。

時はたち明治になり社会情勢の変転及び昭和二十年の原爆により堂宇寺宝記録等を一切焼失した(本堂横の鬼瓦は当時の面影を残す唯一のものである)が、昭和三十五年再建し以来広島において四百有余年の歴史を誇り今なを現在に至る。


興禅寺御詠歌

 興されし 正しき道は 忍びあい
  禅(ゆずり)あうこそ み仏の道



興禅寺縁起




「これを読むと、興禅寺は1500年ころから、高田郡吉田町(現:安芸高田市吉田町)にあった郡山城(こおりやまじょう)の麓(ふもと)にあったんじゃね」

「郡山城といえば、毛利氏の本拠地じゃの」

「サッカーのサンフレッチェ広島のチーム名は、毛利元就(もうり もとなり)の「三本の矢」にちなんどるんよね」

「ほいじゃけぇ、サンフレッチェの練習場も吉田町にあるんじゃ」

「1591年(天正19)、元就の孫の輝元(てるもと)が広島城を築いて、広島に入られたんじゃね」

「広島城が完成したのは、1599年(慶長5)のことじゃがの。それはともかく、輝元が広島に入城した翌年の1592年(文禄元)、興禅寺が平塚に移ってきたそうじゃ」

「関ヶ原の戦い(1600年)で、輝元は西軍の総大将じゃったけぇ、家康によって周防(すおう)・長門(ながと)の2ヶ国に封じられたんよね」

「毛利氏は本拠地を山陽側の山口にしたかったんじゃが、日本海側の萩(はぎ)にされてしもうたんじゃ」

「興禅寺は毛利氏に従わずに、広島に残ったんじゃね」

「雲嶺永智禅師のことは分かりませんけぇ、パスさせてください」

「毛利氏の後に福島正則(ふくしま まさのり)が広島に来られたんじゃけど、臨済宗(りんざいしゅう)のお寺のほとんどが、萩に移るか、福島によって改宗させられたらしいね」

「例えば、むかしの国泰寺(こくたいじ)村(現:広島市中区国泰寺町)あった国泰寺(現在は広島市西区己斐上にある)は、臨済宗から曹洞宗(そうとうしゅう)に改宗させられたんじゃ。同時に、寺の名前も「安国寺」から「国泰寺」に変えられとるんよ。広島市東区牛田新町(うしたしんまち)にある不動院(ふどういん)も真言宗(しんごんしゅう)に改宗させられたんじゃ」

「なんで?」

「なぜ改宗させられたかは、分からんかった」

「福島の後に来られた浅野氏の保護によって、広島屈指の名刹(めいさつ)に数えられたんじゃね」

「原爆で建物はもとより、寺に伝わる宝物や記録がすべて焼けてしもうたんじゃの」

「爆心地から距離は?」

「爆心地から1.17キロメートルじゃ」

「1960年(昭和35)に再建されたんじゃね」

「今は、広島新四国八十八ヶ所の第五十三番霊場にもなっとるんじゃ」





↓臨済宗妙心寺派については、こちら↓

日本最大の禅寺 京都花園 臨済宗大本山 妙心寺 公式サイト





↓国泰寺については、こちら↓

「国泰寺(広島市)」ウィキペディア





↓不動院については、こちら↓

真言宗 別格本山 不動院





↓広島新四国八十八カ所霊場については、こちら↓

広島新四国八十八カ所霊場 巡拝のご案内





↓とうかさんについての関連記事は、こちら↓

とうかさん2011準備中 広島市中区





「今日は、広島市中区西平塚町にある興禅寺について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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「ヒロシマの火 平和への灯」 NHK広島放送局 広島市中区大手町

2011年09月27日 | 広島の話題
「昨日、平和の火(=原爆の火)の話をしたじゃろ。あの火はどっかに分けとってんかね?」

「各地に分火(ぶんか)されとって、広島にもあるんじゃ」

「どこ?」

「2つあって、ひとつはNHK広島放送局、もうひとつは広島ガスの追憶碑に使われとるんじゃと」

「広島ガスの碑は元安川の河川敷にあるよね。NHKはどこにあったっけ?」

「NHK広島放送局の100メートル道路側(南側)にあるんよ」




NHK広島放送局の3つのモニュメント
(左手前)ヒロシマの火 平和への灯
(中央)被爆放送局の碑
(右奥)原爆之碑




「そういえば、フラワーフェスティバルの時に見たような記憶があるような…」





モニュメント「ヒロシマの火 平和への灯」

このモニュメントには、広島平和記念公園の「平和の灯」と福岡県星野村の「平和の火」から分火された、“2つの火”が灯されています。
「平和の火」は、1945年(昭和20年)福岡県星野村出身の山本達雄さんが、原爆で亡くなられた親戚の形見として、廃墟となった広島の街から持ち帰った“原爆の火”です。
自らも被爆した山本さんは、多くの尊い命が奪われた“ヒロシマを忘れてはならない”と、自宅で絶やすことなく火を守り続けました。
その後、1968年(昭和43年)この火は「平和の火」として星野村に引き継がれ、広島から遠く離れた地で、被爆後62年の今も、燃え続けています。
NHK広島放送局では、広島平和記念公園と星野村の“2つの火”を合わせ、原爆で亡くなられた方々の慰霊、また核廃絶と恒久平和を願う“ヒロシマの祈りの火”として灯し続けていきます。
題字は、書家で被爆者でもある森下 弘さん(広島市佐伯区)にお願いしました。

2007年(平成19年)8月



「ヒロシマの火 平和への灯」案内板



「ヒロシマの火 平和への灯」



同上 アップ




「この火は、星野村の平和の火と、広島平和記念公園の平和の灯の2つの火を合わせとるんじゃね」

「NHK広島放送局3階のハートプラザに行くと、この灯のリーフレットが置いてあって、約10分の紹介ビデオを見ることができるんじゃ」





平和への誓い ~被爆放送局の碑~

1928年(昭和3年)に完成した初代のNHK広島放送局は、爆心地から約1キロメートルの上流川町(現在の幟町3-30)にありました。
1945年8月6日、原爆投下により放送局も壊滅的な状態となりましたが、翌日には被災を免れた施設を使って放送を再開しました。放送局は、翌年秋には修復されています。
NHKは、1960年に現在の大手町に移転してきましたが、被爆した旧局舎は、1997年(平成9年)に老巧化により解体されるまで、福屋百貨店幟町別館として利用されてきました。
2005年、被爆60年にあたり同建物の縁石の一部をここに保存し、被爆地の放送局として、核兵器の恐ろしさを世界に伝え、恒久平和の願いを永遠に受け継いでいくことを誓います。
(この碑は、原爆が投下された「午前8時15分」を表しています。)

2005年(平成17年)8月



平和への誓い 案内板



平和への誓い




「うん。午前8時15分を指しとるね」

「原爆が投下された時、NHKの放送局は幟町(のぼりまち)にあったんよ。その頃はNHK広島中央放送局と呼ばれとったそうじゃ」

「被爆の翌日から放送を再開しちゃったんじゃね」

「当時、安佐郡祇園町(現:安佐南区祇園町)にあった原放送所の予備スタジオで放送を再開されたそうじゃ」






NHK広島中央放送局(現:福屋食品館FRED)



同上 西側壁面




NHK広島中央放送局
(爆心地から約1キロメートル)

この写真の建物は、NHKのラジオ放送の開始に合わせ1928(昭和3)年に完成し、地域文化の向上に大きな役割を果たしました。
1945年8月6日午前8時10分すぎ、警戒警報発令の放送にかかったとき、原爆がさく裂し、放送局の機能は停止しました。在籍職員260名中34人がその日のうちに死亡しました。
戦後、福屋百貨店が幟町別館として利用しましたが、1997年9月、老巧化のため解体されました。被爆の惨禍を後世に伝えるため、同建物の縁石の一部をここに保存しています。



NHK広島中央放送局 案内板




「ほうか。あのころはラジオじゃったんよね」

「放送開始当初の1日の放送時間は、5時間30分じゃったそうじゃ」

「へぇ…。日本でラジオ放送が始まったのは、いつじゃったっけ?」

「日本初のラジオ放送は1925年(大正14)3月、社団法人東京放送局(現:NHK東京放送局)に始まったそうじゃ」

「テレビの放送は戦後になってからじゃね」

「1953年(昭和28)2月、NHKがテレビ放送を開始したんよ。その3年後の1956年(昭和31)3月、広島でNHK総合テレビの放送を開始したそうじゃ」

「カラー放送はいつから?」

「1960年(昭和35)9月、NHK東京と大阪の総合、教育両テレビでカラーの本放送を開始されたそうじゃ(同時に、日本テレビ、TBS、読売テレビ、朝日放送もカラー放送を開始)」

「広島はいつから?」

「総合テレビは1964年(昭和39)10月から、教育テレビは1966年(昭和41)3月から、広島でもカラー放送が開始まったそうじゃ」

「えぇ、うちが生まれる前からカラー放送が始まっとったん? うちがこまい(=小さい)ころは、テレビは白黒じゃったけどねぇ…」

「そりゃ、放送じゃのうて、家のテレビが白黒じゃったけぇじゃないか?」

「そういゃ、原爆之碑の説明が抜けとったね」

「おぉ、そうじゃった。すまん、すまん」



製作は広島市出身の彫金家 伊藤 顕さんによるもので「惨禍から立ち上がる人間、過去を悔い祈る人間、そして永遠の平和を培う人間像」を浮彫形式で表現しています。

(パンフレットより)



原爆之碑






↓NHK広島放送局については、こちら↓

NHK広島放送局





↓福屋については、こちら↓

広島の百貨店 福屋





↓平和の火(=原爆の火)についての関連記事は、こちら↓

原爆の火 福岡県星野村(現:八女市)





↓原爆の碑についての関連記事は、こちら↓

キリンビヤホールの外壁タイル 広島市中区本通

戸坂の供養塔 広島市中区戸坂

広島市医師会原爆殉職碑 平和大通り





「今日は、NHK広島放送局にあるモニュメント「ヒロシマの火 平和への灯」、被爆放送局の碑、原爆之碑について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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原爆の火 福岡県星野村(現:八女市)

2011年09月26日 | 日記
「この間、図書館で『原爆の火』という絵本を読んだんじゃ」




『原爆の火』
岩崎京子/文、毛利まさみち/絵
新日本出版社 2000年8月
(amazon)




「原爆の火? 何かいね、それ?」

「広島に原爆が投下され、街を焼き尽くした時の残り火が、今も燃えつづけとるんじゃそうな」

「平和記念公園の原爆死没者慰霊碑の北側に灯があるじゃん。あれとは違うん?」

「あれは「平和の灯(ともしび)」じゃ」



全国12宗派から寄せられた“宗教の火”、溶鉱炉などの全国の工場地帯から届けられた“産業の火”が1945(昭和20)年8月6日生まれの7人の広島の乙女により点火されました。

(「18 平和の灯」広島平和祈念資料館WebSite)




「これは、1964(昭和39)年8月1日に点火されたんよ」

「原爆の火…。うーん、分からんね」

「わしも、この本を読むまで知らんかったんじゃが、福岡県の星野村(ほしのむら)にあるそうじゃ。もっとも、星野村は八女市(やめし)に編入されて、今はなくなっとるそうじゃがの」

「どうして福岡県に原爆の火が残っとるんかね?」

「星野村の山本達雄さんという方が、持ち帰られたそうじゃ。山本さんは戦争中、広島の暁2940隊 大乗(おおのり)駐屯地に配属されとったんよ」

「大乗って、どこかいね?」

「豊田郡大乗村、今の竹原市になるそうじゃ」

「竹原じゃったら、原爆の直接の被害は受けとってんないね」

「それがの、山本さんは宇品にあった本隊に向かうために汽車に乗っとられて、あと4、5分で広島というあたりで被爆されたそうじゃ」

「それじゃあ、原爆が投下された広島で地獄絵を見ちゃったんじゃろうね」

「軍隊におられたけぇ、トラックで死体を集めて焼く作業なんかをされたんじゃないんかの。そのうち終戦になって、山本さんは星野村に帰ることになったんじゃが、まだおじさんを見つけとらんかったんよ」

「おじさん?」

「山本さんのおじさんが、広島で本屋をされとったんよ。早くに父を亡くした山本さんにとっては、親代わりじゃったそうな」

「あぁ、そのおじさんを探そうと思うちゃったんじゃね」

「山本さんは、本屋があったあたりを探しに行かれたんじゃ」



やっと入り口を探し、地下におりていくと本はそのまま灰になっていました。空気が動いたためか、ちいさなおき火がぱっと炎をあげました。
「これがおじさんを焼いた火だ」
-あつかよう、おお、助けに来てくれたんか。
おじさんの声が聞こえるようでした。
「無念だったろうなあ、おじさん」
山本さんはしばらくすわりこんだままでした。立てなかったのです。
「おじさん、おじさん。おじさんを焼いたんは新型の爆弾げな。兵隊たちがうわさしとっとよ。にくか兵器ばこさえて。ゆるせん」

「こん火ば持って村へ帰ろう。おじさんのうらみと怒りの形見ばい」

(岩崎京子『原爆の火』新日本出版社 2000年8月)




「で、この火を星野村に持って帰っちゃったんじゃね。どうやって?」

「懐炉(かいろ)に火を入れて持ち帰られたそうじゃ。ほいで、自分の家のいろりにこの火を移して、「こん火ば絶やさんでくれ」とだけ言われたそうじゃ」



山本さんはじっと火をにらみつけていました。きっとこわい顔をしていたのでしょう。家の人たちは遠まきにしていました。

(同上)




「この火を見とると、広島で見たことを思い出してんじゃろうね」

「こうして火を守っていた山本さんに、村の消防団長の役が回ってきたそうじゃ。火事のことを考えると、火を絶やさずに守ることは難しいかのうと思うとったとき…」



すると、子どもたちはいっせいに、
「こん火はお父さんの生命じゃなかの? 消さんでよか。父さん」
というではありませんか。山本さんの気持ちは伝わっているでようです。何もいわなかったのに…。

(同上)




「なるほどねぇ…」

「こういう経緯(いきさつ)で、星野村に原爆の火が残されたんよ。ほいで、1968年(昭和43)には当時の村役場前広場の「平和の塔」に火が移され、1995年(平成7)からは平和の広場の「平和の塔」で火を守っとられるそうじゃ」





↓平和の塔については、こちら↓

「平和の塔」福岡県観光情報 クロスロードふくおか

「星野村の「平和の火」全国に広がるが… ~原爆への悲憤の思いどう伝えるのか~」西日本新聞





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「今日は、福岡県星野村(現:八女市)に残されている原爆の火について話をさせてもらいました」

「最後になったが、この「原爆の火」は「平和の火」とも言われとるんじゃ。今回は本のタイトルに従って「原爆の火」で統一させてもらいました。ほいじゃあ、またの」
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