通でがんす

いろんな広島を知って、ひろしま通になりましょう!
(旧ブログタイトル:通じゃのう)

指さし道標 陸軍墓地

2014年02月28日 | 広島の話題


「戦前の広島には陸軍関係の施設がたくさんあったんじゃが、そのひとつが広島市南区の比治山(ひじやま)にある陸軍墓地」

「昨日は、広電(=広島電鉄)の市内電車・皆実線の比治山下電停から陸軍墓地までの道のりを紹介したよね」

「今日は、その途中にある指さし道標(みちしるべ)を紹介してみようと思う」

「指さし道標?」

「広島市現代美術館との分かれ道のところにあったやつじゃ」







「あぁ、これか。指が右側を向いとって、こっちへ行くと陸軍墓地ですよ、と案内しとるんじゃね」

「これが正式名称かどうか知らんが、ネットで検索すると「指さし道標」と紹介してあるけぇ、今回のタイトルも「指さし道標」にしてみたんじゃ」

「「墓」の字の草かんむりは、あまり見たことがない形をしとるね」







「向かって右側、これから進む方向には、「東 段原村東部」と彫ってある」

「この「段」の字のもあまり見かけたことがない文字の形じゃね」

「「段」の字の左側は、「師」の左半分から上にある「ノ」を取ったような形をしとるんじゃの」







「向かって左側には、次のように彫ってある」


西 鶴見橋

大正四年晩秋大典記念建立

段原青年会



「鶴見橋(つるみばし)いうたら、比治山の西側にあって、京橋川(きょうばしがわ)に架かる橋(爆心地から約1.7キロメートル)じゃね」

「市内中心部との間に架かっとる橋ということもあって、多くの被爆者がこの橋を渡って避難したんじゃの」

「大典いうのは、御大典(ごたいてん)、天皇の即位の礼のことじゃったっけ?」

「ほうじゃの。大正天皇の即位の礼、御大典は1915年(大正4年)の11月に京都御所で行われた。これを記念してこの道しるべが建てられた、ということらしいのう」



↓鶴見橋については、こちら↓

「原爆被災説明板 鶴見橋」広島市ホームページ







「裏側には、「北 舊御便殿」と彫ってある」

「「舊」って?」

「「舊」は、「旧」の旧字なんじゃ」

「旧の旧字って、ちょっとややこしいね」

「この方向に進むと、広島市現代美術館やまんが図書館があるんじゃの」

「その奥にある広場が、御便殿(ごべんでん)」

「便殿とは、天皇や皇族が外出された時、休憩する場所のことじゃ」

「日清戦争の時、明治天皇が広島に来られたんよね」

「今から120年前の1894年(明治27年)に日清戦争が起こった。それに伴って、大本営を広島城にある第五師団司令部に移して、明治天皇も広島に移ってこられたんじゃの」

「その時、大本営の建物が広島城内に建てられたんよ」

「これを1909年(明治42年)、ここ比治山に移築した。それからは戦前における広島市の観光名所の一つじゃったそうな」



1945年(昭和20年)8月6日、広島市への原子爆弾投下により被爆。
ここは爆心地から約1.8キロメートル離れたところに位置した。
爆心地側である西側は壊滅したものの、東側は逆に比治山が爆風を遮ったことから影響が少なく火災も広がらなかった等、比治山によって対照的な被災状況となった。

(「比治山」ウィキペディア)






↓広島市現代美術館については、こちら↓

広島市現代美術館/Hiroshima MOCA





↓広島市まんが図書館についての関連記事は、こちら↓

広島市まんが図書館





訪問日:2014年2月23日





「今日は、比治山にある陸軍墓地 指さし道標について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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陸軍墓地へ 広島市南区比治山

2014年02月27日 | 見て歩き
「戦前の広島には、陸軍関係の施設がたくさんあったんじゃが、そのひとつが広島市南区の比治山(ひじやま)にある陸軍墓地」

「亡くなったうちのおじさんは、毎月、ここへお参りしよっちゃったよ。太平洋戦争で、戦友がたくさん亡くなっとってじゃけぇ」

「今日は、陸軍墓地への道のりを紹介しようと思う」







「広島電鉄の市内電車・皆実線に乗って比治山下電停で降りる」

「比治山側には多聞院(たもんいん)いうお寺があって、境内には被爆建物の鐘楼(しょうろう)が残されとるよね」

「原爆が投下された1945(昭和20)年8月6日の夕方、壊滅した県庁に代わって県の防空本部(県庁)がここ多聞院に置かれて、臨時の県庁として機能したんじゃの」

「当時の県庁は水主町(かこまち。今は「加古町」と表記)、今の広島文化学園HBGホール(広島厚生年金会館)やアステールプラザのあたりにあったんよ」

「爆心地から約1キロメートルくらいのところじゃの」



↓多聞院については、こちら↓

「“ヒロシマ”をさがそう!~市民とつくる被爆地図~ 多聞院 鐘楼」NHK広島放送局







「坂道を少しのぼると、山陽文徳殿(さんようぶんとくでん)がある」

「山陽いうたら、幕末の思想家・頼 山陽(らい さんよう)のことじゃね」

「太平洋戦争も終わりのころ、この建物は広島市の戸籍選挙課分室になっとって、市役所から戸籍簿の大部分が移されとった。この建物は焼けずに残ったけぇ、戸籍簿も助かったということじゃ」



↓山陽文徳殿については、こちら↓

「“ヒロシマ”をさがそう!~市民とつくる被爆地図~ 山陽文徳殿」NHK広島放送局







「坂道をさらにのぼって行くと、道が左右に分かれる所がある」

「陸軍墓地の道標(みちしるべ)が立っとるんじゃね」









「ハト、こんな近くに寄っても逃げんの?」

「ここを通り過ぎると、人や車があまり通らんようになる。そのせいか、近くに寄っても逃げんかったのう」







「今日は工事中いうことじゃけぇ、右側の道を行くと…」









「展望台があって、広島市内を見渡すことができる」







「入り口には、正岡子規(まさおか しき)の句碑もあるんよ」


鶯の

口のささなり

三萬戸

子規



「正岡子規は1895年(明治28年)春、日清戦争の従軍記者として、ここから南にある宇品(うじな)から大陸へ渡った。この句は、その出港を待つ間に広島で作ったものじゃそうな」



↓正岡子規の句碑については、こちら↓

「ひろしま句碑・歌碑めぐり」ひろしま文化大百科







「放射線影響研究所(=放影研(ほうえいけん))の前へ出る」



↓放射線影響研究所については、こちら↓

公益財団法人 放射線影響研究所 RERF Website







「放影研のカマボコ型の建物の横を通って…」





「NHKの放送塔を見ながら進むと…」






「陸軍墓地に着いたね」


この墓地は、1872年(明治5年)、広島鎮台(後の旧陸軍第5師団)が設置される前年に、この地比治山に設置されました。
その後、1877年(明治10年)の西南戦争から1941~1945年(昭和16~20年)の太平洋戦争まで、日本国内や海外において戦争により亡くなった多くの人々が葬られています。
墓地は、1944年(昭和19年)に墓石の整理統合のため、その大部分が移設等集約されましたが、原子爆弾の投下により多大な被害を受けました。その後、終戦後の混乱期を経て、多くの人々の奉仕活動により今日の姿に再建されました。
この墓地には、約3,500基の墓地とともに、全国から多くの人々の遺骨が合葬されています。また、当地の南側には多くの慰霊碑が設置されています。
さらに、日清戦争、北清事変(義和団事件)及び第一次世界大戦により広島で亡くなった中国、フランス及びドイツの人々も葬られています。

1995年(平成7年)1月
広島市

(案内板より)






訪問日:2014年2月23日





「今日は、広島市南区比治山にある陸軍墓地への道のりについて話をさせてもらいました」

「陸軍墓地については、また後日取り上げる予定でおるますけぇ。ほいじゃあ、またの」
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陶器で作った缶詰?

2014年02月25日 | 日記


「おとつい、広島市郷土資料館の企画展『陸軍の三廠~宇品線沿線の軍需施設~』を見に行ってきた」

「陸軍の三廠いうのは、


陸軍糧秣支廠(りくぐんりょうまつししょう)

陸軍被服支廠(りくぐんひふくししょう)

陸軍兵器支廠(りくぐんへいきししょう


の3つじゃったね」

「今回の展示で気になったのが、陶製缶詰」

「陶製缶詰? 陶製いうことは、陶器で作ったの缶詰?」

「そのとおり!」

「なんで缶詰を、わざわざ陶器で作ったんじゃろ?」

「戦争中のことで、実際に展示してあったのも、広島大学霞(かすみ)地区の発掘調査で出土したものじゃった」

「霞地区いうたら、兵器支廠があったあたりか…。戦争中で、缶詰を入れるためのブリキが足りんかったけぇ、陶器で作っちゃったんじゃろうね」

「というより、金属自体が不足しとった。金属供出(金属類回収令(きんぞくるいかいしゅうれい))が行われたのが、1943年(昭和18年)のことじゃ」

「銅像や、お寺の鐘なんかが集められたんよね」

「家にある鉄びんや仏具、時計の鎖、ベルトのバックルなんかも供出させられたんじゃの」

「ところで、陶製缶詰ってどんな形をしとるんじゃろ?」

「一見は百聞にしかずじゃ。とりあえず、これを見てくれ」



↓陶製缶詰については、こちら↓

「軍用食器・防衛食容器」陶芸と有田陶器市や佐賀のやきもの情報が満載【うまか陶】



「なんか、開けたら茶わん蒸しでも出てきそうな感じがするよ」

「わしも、そう思うた」

「側面に、大きな文字で「防衛食」」

「「大日本防空食糧株式會社」っていうのが、時代を感じるよう」

「これは、どうやって密封しよっちゃったんじゃろうか?」

「まず容器に中身を入れて、フタと容器の間にゴムパッキンを挟み、真空状態にしてからフタをする」

「開けるときは?」

「フタの中央部にある窪みをクギで穴を開けると、フタが開くようになっとるんじゃ」

「へぇ…」

「展示の説明には、「各地で見つかる蓋には穴が開いたものが少なく、穴を開けなくても開封できたようである」と書いてあったのう」





↓広島市郷土資料館については、こちら↓

郷土資料館最新情報





「今日は、広島市郷土資料館の企画展『陸軍の三廠~宇品線沿線の軍需施設~』に展示してあった陶製缶詰について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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陸軍の三廠~宇品線沿線の軍需施設~ 広島市郷土資料館

2014年02月24日 | 広島の話題


「昨日は、広島市郷土資料館の企画展『陸軍の三廠~宇品線沿線の軍需施設~』を見に行ってきた」

「陸軍の三廠?」

「陸軍の三廠いうのは、次の3つ。ちなみに、「廠」は「工場」のことじゃ」



陸軍糧秣支廠(りくぐんりょうまつししょう)

陸軍被服支廠(りくぐんひふくししょう)

陸軍兵器支廠(りくぐんへいきししょう)



「糧秣=食べるもの、被服=着るもの、兵器=武器と、一通りのものが揃うんじゃね」

「ご存じのとおり、広島は戦前まで軍都じゃった」

「広島には陸軍、呉(くれ)には海軍の施設があったんよ」

「広島が軍都になったのは、今から120年前、1894年(明治27年)にあった日清戦争の影響があるんじゃの」

「えぇっと…、この年、鉄道が広島まで開通して、広島駅(広島停車場)が作られたんよね」

「さかのぼること5年前の1889年(明治22年)には、当時の広島県知事・千田貞暁(せんだ さだあき)の尽力によって、宇品(うじな)に港が作られた」

「広島駅から宇品港を結ぶ鉄道、宇品線も敷かれて…」

「鉄道を使って広島駅経由で宇品へ行き、宇品港から船に乗って大陸へ行くことができるようになったというわけじゃ」

「支廠とは関係ないけど、昨年のNHK大河ドラマの主人公・新島八重(にいじま やえ)は日清戦争のとき、赤十字の看護婦として広島の病院で負傷兵の看護をしちゃったよ」

「そんなわけで、広島は兵隊や軍需物資を大陸へ送り出すための拠点になったんじゃの」

「陸軍の三廠、糧秣支廠・被服支廠・兵器支廠も広島に作られた…と」

「ここでは、作る・保管する・補給の準備をする、という役割をしとったそうじゃ」

「補給の準備?」

「実際の補給作業を行うのは、宇品に本部があった陸軍運輸部(りくぐんうんゆぶ)じゃったそうな」

「これも宇品にあったんじゃね。陸軍、軍隊いうと、やっぱりこわいイメージがあるよね」

「これらの支廠は、広島市民にとっての勤め先であったり、商売の取引先でもあったんじゃ」

「勤め先かぁ…。ここでどれくらいの人が働きよっちゃったんじゃろ?」

「時代によって違うじゃろうし、戦争があるとき、ないときでも違うじゃろう。たとえば、大正時代の記録によると、糧秣支廠で130人、兵器支廠で150人、被服支廠で550人の人が働きよったそうじゃ」

「へぇ…」

「賃金も民間より高めで、慰安会や運動会なんかもあったし、女工(じょこう)のために託児所も設けられとった」

「このころから託児所もあったんじゃね」

「糧秣支廠では、牛肉の大和煮の缶詰を作りよった。その関係で、広島で畜産業や缶詰製造業が発達したということじゃ」

「今のように、工場を一般に開放したり、なんてのもあったんかね?」

「糧秣支廠では1926年(大正15年)に創立三十年記念祭が行われて数千人の人が楽しんだ、という新聞記事が残っとる」

「たとえば、どんなことをしちゃったん?」

「大仏や飛行機の造り物を飾ったり、相撲やテニスの大会、長唄やダンス、児童劇、落語なんかの出し物があったりしたそうじゃ」

「意外と楽しそうじゃね」

「糧秣支廠では、職員が赤穂浪士の仮装をした写真が残されとって、仮装や造り物は、陸軍のイベントでは定番の出し物じゃったらしい」

「へぇ…」

「あと、災害時の援助活動もあって、たとえば関東大震災(1923年)のとき、兵器支廠からは乾電池を送ったという記録が残っとるそうじゃ」

「原子爆弾が投下された時(1945年8月6日)は、避難場所になったりしたよね」

「これらの支廠は、爆心地から離れとったこと、レンガ建物が多かったこともあって、建物の火災や倒壊はなかった。で、臨時の救護所として使われて、負傷者の治療などが行われたんじゃの」





↓広島市郷土資料館については、こちら↓

郷土資料館最新情報





訪問日:2014年2月23日





「今日は、広島市郷土資料館で開催中の企画展『陸軍の三廠~宇品線沿線の軍需施設~』について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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巨大とんどあらわる JR三原駅前

2014年02月23日 | 見て歩き
「先日(2月9日)、神明市(しんめいいち)を見に三原市へ行ってきた」

「日本一の大ダルマを見に行ったときじゃね」

「そのとき、JR三原駅前でみつけたのが、この巨大とんどじゃ!」





「おぉ、たしかに大きいねぇ」

「これは“神明御山”と呼ばれとるそうじゃ」

「しんめいおやま? どのくらいの高さがあるんかね?」

「一般社団法人三原観光協会が発行した神明市のパンフレットによると、高さは9間」

「きゅうけん?」

「1間(いっけん)は、約1.8メートル。尺でいうと、1間=6尺(ろくしゃく)。ちなみに、1間×1間=1坪(ひとつぼ)なんじゃの」

「1間=1.8メートルとすると、9間は…

9×1.8=16.2

約16メートルになるんじゃね」

「16メートルいうたら、宮島・厳島神社の大鳥居の高さと同じくらいじゃのう」

「なんでこんな大きいとんどを飾っとってんじゃろ?」

「三原ではそのむかし、伊勢神宮の神霊を旧暦の1月14日、小正月(こしょうがつ)の左義長(さぎちょう)ときに祀っとったそうじゃ」

「左義長って、とんどのことじゃね」

「左義長は、正月に飾った松飾りや注連縄(しめなわ)などを集めて焼く行事のこと。この日に神明様のお祭りを行ったところから、左義長のためにつくる注連山を「シンメイ」と呼ぶようになったそうじゃ」

「ということは、神明市も旧暦の1月14日にしよっちゃったん?」

「むかしはそうじゃったんじゃが、今は毎年2月の第2日曜を含む金・土・日の3日間に行われとるんじゃの」





「神明御山を上から見ていくと…、ここは若草の丸。写真では分かりづらいが、一番上に御幣(ごへい)を立ててあるんじゃ」





「つぎが橙(だいだい)の丸」

「串刺しにされた橙が巻いてあるよ」

「これは1年の月の数、平年は12個、うるう年は13個巻いてあるそうじゃ」





「橙の丸の下に梅の丸があって、その下に炭の丸がある」

「確かに炭が巻いてあるけど、長い炭じゃね」

「何の炭じゃろうかの?」





「ほいで、一番下が紫の丸」

「それぞれに、ちゃんと名前をつけてあるんじゃね」





↓神明御山については、こちら↓

「神明市」三原市 海・山・空 夢ひらくまち





訪問日:2014年2月9日





「今日は、JR三原駅前に飾ってある巨大とんど・神明御山について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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