通でがんす

いろんな広島を知って、ひろしま通になりましょう!
(旧ブログタイトル:通じゃのう)

天満神社 広島市中区中島町

2018年11月30日 | 見て歩き
広島城を築くとき、吉田から移された

浅野長晟(あさの ながあきら)が広島城に入るとき、ここで休憩した

にぎやかだった夏祭り

爆心地から約600メートル






前回、浅野氏初代広島藩主・長晟が紀州和歌山藩から広島城に入城する話をした。

元和5年(1619年)、太田川の洪水で城の石垣が被害を受けたため、福島氏初代広島藩主・正則は修理を行う。

しかし、このときの修理が幕府に無断で行ったということで、領地を移されることになった。

この年の8月8日、長晟一行は和歌山から広島まで船でやってきた。

広島城に入城するまえ、天神町(てんじんまち。今の中区中島町)の天神坊(満松院(まんしょういん))で休憩といわれる。

その天神坊が、今回紹介する天満神社(てんまじんじゃ)なんじゃの。





↓前回については、こちら↓

浅野氏の広島城入城









天満神社は、広島平和記念公園から平和大通りをはさんで南側にある、土屋総合病院の裏手にある。







神社の入り口に案内板がある。



天満神社(旧天神町)


御祭神

菅原道真大神


御由緒

天満神社は、毛利輝元卿が広島に城を築き高田郡吉田町から入府(にゅうふ)した時、吉田の天神山(てんじんやま)からこの地に遷(うつ)して奉斎(ほうさい)したのが始まりである。当初この地は、「舟町」と称していたがこれにより「天神町」と改めた。

その後、広島城主も福島正則を経て浅野家と変わるが、浅野長晟卿が広島城に入城の際船を水主町(かこまち。現加古町)に着け、天満神社に入り暫(しばら)く休憩の後入城した。

この因縁からか浅野家の当神社に対する崇敬(すうけい)は大変厚いものがあり、正月、五月、九月には当神社に参拝され様々な行事・宝物の奉納がなされた。元和七年(西洋暦一六二一年)連歌百韻を奉納している。また、寛永八年(西洋暦一六三一年)社殿を造営したが、享保十三年火災に罹(かか)り、寛延三年(西洋暦一七五〇年)再建、寛政七年(西洋暦一七九五年)再び焼失し文化九年(西洋暦一八一二年)再建した。

明治に入り浅野家との関係は絶たれたが、広島の発展とともに広島市の中心に位置する「天満神社」の社頭(しゃとう)の繁栄は目を見張るものがあった。繁華街の真ん中で「天神町の天神さん」と呼んで親しまれていた。

祭礼は、とても賑やかで「学問の神様」、「書道の神様」として大変に持てはやされていた。

空鞘稲生神社(そらさやいなおじんじゃ)の氏子区域内にある崇敬神社で、空鞘稲生神社(広島市中区本川町-旧空鞘町鎮座)の境外摂社(けいがいせっしゃ)である。

昭和二〇年八月六日に爆心地より三〇〇メートルという至近距離で被爆した当神社は、注連柱(しめばしら)、狛犬等の石造物が若干残った中で幸いにも疎開していた御神体(ごしんたい。木像)を残し全てが灰燼(かいじん)に帰した。

様々な事情で復興が叶わぬまま時を過ごしてしてきたが、去る平成六年六月ようやく小祠(しょうし)を建立(こんりゅう)し、由緒ある「天神町の天神さん」の復興の一歩を踏み出したところである。

   平成十三年九月
     宮司記






ご神体は、毛利氏の本拠地である吉田にあったが、広島城を築いたときにこの地に移された。

福島氏によって社地は没収されたが、この時の縁があってか、浅野氏によって建てなおされた。

天満神社の夏祭りは、とうかさんと並ぶくらいにぎやかにおこなわれという。

爆心地から約600メートルの場所にあった天満神社は、石造のしめ柱やこま犬を残してすべて燃えてしもうたそうじゃ。







境内







境内にも、天満神社の由来を紹介する案内板があった。



天満神社縁起

安芸国広島市天神町鎮座天満宮は 祭神菅原道真公の神霊に座す

旧記喪失の為勧請の年月詳ならずといえども 伝え言う往古延喜年間菅公筑紫へ御左遷の砌

当国高田郡吉田の里へ御滞在被遊 種々の霊験を残し賜りしかば里人敬慕奉りて御神霊を齋ぎ奉りし

此の地を天神山と称し今に其の名残れり 斯くて諸人の崇敬浅からざりしが 元亀年間毛利元就卿当地へ在城の頃御社殿御造営 国家鎮護 萬民安全の鎮護と崇敬浅からざりき

天正年間輝元卿当広島へ築城入城後 現在の地を卜し御社殿造営竣工の後吉田より御遷座に相成たり

当時毛利家より社領三百余石及び社地方七十間を寄付せられ当町内一円を境内に付け置かる 毎年正・五・九月の三度御祭事ありて崇敬倍に深かりき 元此の地を舟町と称えしも後天神町と改称す

斯くて慶長年間毛利家当国退転せられ福島氏代りて国主となるに及び社領及び社地の大部分を没収せられ社頭暫く衰えたり

元和五年福島氏に代わりて浅野長晟卿御入国の際水主町へ御着船 当社へ小憩の後御入城遊ばされたり

当時神仏混淆にして天神坊別頭職たり 従先是周防の人寿仙と伝える真言宗の僧あり 連歌に堪能なりければいよいよ国主に召され寵愛浅きからざりき 後寿山天神坊の住持仰付けらる 然るに長晟卿は頗る連歌を好ませられければ元和七年正月連歌百韻を奉納せらる 其れより毎年正月御連歌初の節は長晟卿光晟卿御社参相成時には社頭に於いて御催しありし之れ等に依り当社御崇敬も浅からず連歌料御社米等若干御寄付相成しも 寿仙之廉潔の僧なりしかば辞退して受けざりき

長晟卿御入国より歴代正五九月には御代拝差立てられ永代御祈願所と定められたり

寛永八年十一月二十五日御社殿新に御造営せらる 明暦元年九月朔日御造営あり 元禄五年二月二十四日御造営あり 然るに享保十三年三月二十七日類焼の厄に遭い 御社殿並神器宝物等悉く皆烏有に帰す 寛延二年九月御造営の工を起こされ翌寛延三年六月十五日工を竣う 然るに寛政七年卯四月五日御社殿又々回禄に罹りたるを以て同年九月仮殿御造営 降って文化九年十一月二十七日御再営の工を起こされ翌十年五月十八日工を竣たるもの現在の社殿なり

従来御社殿並びに神器破損の場合は浅野家より御修覆相成りしが明治三年二月二十五日より御神供米二石を寄付せられ修覆の義は廃止せられたり 其の後 明治五年に至り御供米の寄付をも廃止せられたり

別頭職は天神坊と称せしが明暦年間鶴翁山吉祥寺と改称し其の後天和貞享の頃より天満院と改たむ

明治二年八月神仏混淆を禁ぜられるに当たり寺院を分離し明治五年十一月空鞘神社摂社と定めらる

明治三十六年三月二十二日より六日間にわたり盛大に菅公一千年祭が挙行され 御輿小町白神社御旅所に渡御還御あり

          (明治四十二年編)

   平成二十年八月六日米国により投下されし原子爆弾により社殿等悉く焼失し現在に至る

     平成六年六月建立










案内板の横に、菅公一千年祭記念碑が建ててあった。

菅公一千年祭は、菅原道真が亡くなった延喜(えんぎ)3年2月25日(903年3月26日)から1000年たった1903年(明治36年)に行われたそうじゃ。







狛犬・阿形(あぎょう)





狛犬・吽形(うんぎょう)








狛犬には、原爆を受けた時のものと思われる傷が残る。







目立たない所にある賽銭箱。







拝殿







平和のこと
よろしく
坂本文子





訪問日:2013年11月14日






今日は、広島市中区中島町にある天満神社について話をさせてもらいました。

ほいじゃあ、またの。
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追悼 前田憲男さん

2018年11月28日 | 音楽
今月25日、ジャズピアニストで作・編曲家の前田憲男(まえだ・のりお)さんが、肺炎のため亡くなられました。
83歳でした。

ご冥福をお祈り申し上げます。





日曜の朝9時から放送していたころの『題名のない音楽会』は、ほぼ毎週観とった。

そこで演奏される曲の多くが、「編曲:前田憲男」と紹介してあったもんじゃ。





わしが「前田憲男」の名前を知ったのは、今から40年前(!)に放送された特撮テレビ番組『スターウルフ』(1978年)。

円谷プロ製作ということもあって、特撮が素晴らしかった。

オープニングテーマ「青春の旅立ち」(作詞:林春生、作曲:森田公一、歌:ヒデ夕樹)はもちろん、前田さんが手がけたBGMもえかったのう。



↓『スターウルフ』については、こちら↓

「スターウルフの特撮とサウンドトラック」YouTube





あとは、『劇場版 クラッシャージョウ』(1983年公開)。

『機動戦士ガンダム』でその名を知らしめた、アニメーター、キャラクターデザイナーの安彦良和(やすひこ よしかず)さんの初監督作品でもありました。



↓『劇場版 クラッシャージョウ』については、こちら↓

「クラッシャージョウ Blu-ray&DVD比較映像」YouTube

(注:前田さんが音楽を担当されたのは、最初から40秒までの部分です)






今日は、今月25日に亡くなられた前田憲男(まえだ・のりお)さんについて話をさせてもらいました。

ほいじゃあ、またの。
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浅野氏の広島城入城

2018年11月27日 | 広島の話題
浅野氏、広島城入城から400年(その2)

浅野長晟(ながあきら)の広島城入城






最初に、前回(毛利氏による広島城築城と福島氏の広島城入城)の復習から…。



戦国大名の毛利元就(もうり もとなり)は、県北にある吉田(現:安芸高田市)から、中国地方のほぼ全域まで勢力を拡大した。

その元就の孫にあたる輝元(てるもと)が、太田川(おおたがわ)河口のデルタ地帯は築いたのが広島城で、天正19年(1591年)に入城したといわれる。

それから9年後の慶長(けいちょう)5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こる。

戦いに敗れた西軍・豊臣方の総大将だった輝元は、周防(すおう)・長門(ながと)の2国(今の山口県)に移された。

関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601年)、安芸・備後の2国(今の広島県)を領地とする初代広島藩主として福島正則(ふくしま まさのり)が広島城に入城。

広島城に入城して19年後の元和5年(1619年)、太田川の洪水で城の石垣が被害を受けたため、正則は修理をした。

しかし、このときの修理は幕府に無断で行ったとして非難され、正則は広島藩主の座を追われることになった。



以上、前回の復習、終わり。





今回は、正則に代わって浅野家・初代広島藩主として広島城に入城した、元・紀州(きしゅう)和歌山藩主の浅野長晟(あさの ながあきら)についての話。

正則が領地を移されたあと、長晟が広島城に入城するまでを、日にちを追って細かく見ていこう。





元和5年(1619年)6月2日、正則は津軽(つがる。今の青森県西部)、後に信濃川中島(しんしゅう かわなかじま。今の長野県の一部)へと移され、そこで謹慎させられた。



6月19日、正則の家臣・福島丹波たち、広島城を幕府の使者に引き渡す。



7月1日、家臣たち、正則夫人に従って広島を去る。



7月18日、江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠(とくがわ ひでただ)は長晟を呼び、広島藩へ移るよう命じる。

長晟は、このときの様子を、国元(くにもと。紀州和歌山藩)の家臣たちに手紙で書き送っているんじゃ。



将軍・秀忠様からじきじきに、芸備(げいび。安芸・備後の2国)をつかわすとのお話があった。

浅野家は、初代で長晟の父にあたる長政(ながまさ)以来、徳川家に忠誠を尽くしてきた。

また、浅野家は徳川家と、一度は縁続きとなったこともある間柄。

(注:長晟は、徳川家康の三女にあたる振姫(ふりひめ)と結婚したが、元和3年(1617年)に亡くなっている)

そのうえ、広島は中国の要(かなめ)といわれる地。

めったな者には与えることができない。

が、浅野家であれば安心して任せることができる。




この文面を読むと、藩主が家臣に対して、将軍からの話を誇らしげに自慢しているようにみえる。

実はこのときの長晟は、亡くなった兄・幸長(よしなが)の跡(あと)をついで和歌山藩主となって6年目で、藩内における権威がまだ低かった。

広島藩を任されたことを機会に、将軍の権威を借りて藩主としての権威を高め、家臣たちを統制しようとしたといわれとるんじゃの。



ところが、この話にはオチがあって…。



長晟が将軍・秀忠から、紀州和歌山藩主から広島藩主になれと命じられた、その翌日の7月19日。

秀忠は、紀州和歌山藩を、徳川家康の十男で駿府藩主の徳川頼宣(よりのぶ)に与えた。

これにより、尾張(おわり)・水戸(みと)とならぶ徳川御三家のひとつ、紀州徳川家が成立。

秀忠としては、もとは豊臣家につかえていた浅野家を和歌山から追っ払って、京都とその周辺を徳川一門で固めようというつもりじゃったらしい。



それはともかく…。



7月23日、長晟、和歌山へ戻る。



7月27日、浅野左衛門佐知近(さえもんのすけ ともちか)ら家臣約30名を、広島城受取りの先発隊として送り出す。



8月4日、長晟は跡継ぎの光晟(みつあきら。浅野家・第2代広島藩主)以下、おおくの家臣を伴って、船で広島に向かう。



8月7日、備後(現:福山市)の鞆(とも)で、幕府の使いから広島藩の引き渡しを受ける。



8月8日、長晟一行は広島に上陸。天神町(てんじんまち。今の中区中島町)の天神坊(満松院(まんしょういん)。今の天満神社)で休憩したあと、広島城に入城した。





というわけで、長晟は浅野家・初代広島藩主として広島城に入城。

以後、明治時代に至るまでの約250年間、浅野氏は12代にわたって広島藩を治めていくんじゃの。





↓浅野氏、広島城入城から400年については、こちら↓

「浅野氏入城400年記念事業」広島市





…以下、余談。



広島藩について少し説明しておく。



元和3年(1617年)の時点で、福島氏広島藩の石高は50万石。

元和5年(1619年)、浅野氏広島藩の石高は42万石。

差し引き8万石の差が出てくる。

なんでじゃろ?



福島氏広島藩の領地は、安芸・備後の2国と、今の広島県とほぼ同じ。

それに対して、浅野氏広島藩の領地は安芸と備後の一部。

浅野氏広島藩でなくなった備後の一部は、福山藩(10万石)となった。

その初代藩主となったのが、家康から従兄弟にあたる水野勝成(みずの かつなり)。



つまり、来年2019年は、「浅野氏、広島城入城から400年」であると同時に、「水野氏、福山藩入封から400年」でもあるんじゃの。





↓水野氏、福山藩入封から400年については、こちら↓

福山城築城400年記念事業公式サイト





【参考文献】

西村 晃『浅野家入城とその後の施政』(平成30年度 城下町広島の歴史講座 2018年10月13日)

土井作治『広島藩』(吉川弘文館 2015年)






今日は、浅野長晟の広島城入城について話をさせてもらいました。

ほいじゃあ、またの。
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誰がために

2018年11月25日 | まんが・テレビ・映画
『サイボーグ009(ゼロゼロナイン)』オープニング曲

追悼・成田 賢さん

レコーディング風景

紙上再現されたオープニング






わしが好きなアニメ作品、アニメソングはたくさんある。

が、映像としてのオープニングに限っていえば、テレビアニメ『サイボーグ009』(1979年~1980年)に勝るものはない。

このオープニングで使われた曲、「誰(た)がために」を歌われた成田 賢(なりた けん)さんが今月の13日、肺炎のため73歳で亡くなられました。

ご冥福をお祈りいたします。





↓「誰がために」については、こちら↓

「サイボーグ009 (1979) OP & ED」YouTube





↓成田 賢さんについては、こちら↓

成田賢オフィシャルホームページ EVER GREEN





むかしの本の切り抜きを探してみたら、アニメ雑誌『アニメージュ』に、「誰がために」のレコーディング風景と、紙上再現されたオープニングの記事があった。

今回はこれを紹介していきましょう。





【レコーディング風景】
(『アニメージュ』1980年5月号より)





写真、上から2枚目が成田さん。

3枚目と4枚目が、歌う成田さんと、そのそばに立つ故・石森 章太郎(いしもり しょうたろう)先生。

石森先生は『サイボーグ009』の原作者で、「誰がために」の作詞を担当されたのは、ご存じのとおり。

レコーディングは1979年2月、約20人の関係者がミキサールームにつめかけ、4時間かけて行われたという。



余談じゃが、作曲を担当された平尾昌晃(ひらお まさあき)さんも昨年、2017年に亡くなられました。

作曲といえば、実はこの曲、AパターンとBパターンの2つの曲が作られとって、最終的にBパターンが採用。

それにともなって、没になったAパターンに合わせて作られた歌詞の一部も、没になった。

没になったのは、2番の歌詞。

実際にレコーディングされて、今も歌われとるのが1番と3番の歌詞になるそうじゃ。

ここに、その2番の歌詞を紹介しよう。


轟く雷鳴(いかづち) よく似合う

機械の戦士と ひとのいう

だが九人は 赤き血を

緑野に咲かす 愛の花

怒りに咆える 胸の音

笑顔に隠す 涙雨

サイボーグ戦士 誰がために戦う

サイボーグ戦士 誰がために戦う









↓『サイボーグ009』については、こちら↓

「サイボーグ009」石森プロ公式ホームページ





【紙上再現されたオープニング】
(『アニメージュ』1979年5月号より)







「誰がために」のオープニング映像が、『アニメージュ』紙上で再現された。

なぜ、こんなことをしていたのか?

『サイボーグ009』が放送されていた1979年当時、まだビデオデッキが普及しとらんかったんじゃの。

わしの記憶が確かなら、友人の家で初めてビデオデッキを見たのが1981年。

このころは、テレビのスピーカーの前にラジカセを置いて、音声だけを録(と)るのが普通。

そんな時代じゃった。

ほいじゃけぇ、オープニングの映像を1コマ1コマ再現していくという、とても手間がかかる方法で、雑誌で紹介していくしかなかったんじゃの。

それにしても、テレビの映像を、ここまで手間暇かけて月刊誌の紙上で再現したのは、ほかにはなかったような気がする。








『サイボーグ009』といえば、透過光。

本編はもとより、オープニングでも有効に使われとった。

透過光がアニメでよく使われるようになったのは、1980年ころからじゃったと記憶する。



オープニングでは、フォーカス(ボカした感じにすること)した009をバックに、001から008までのゼロゼロナンバー、それぞれの能力が紹介される。


001…超能力を持つ

002…空を飛べる

003…透視、遠視力を持つ

004…全身に武器が仕込まれている

005…怪力を持つ

006…口から火を噴く

007…変身能力を持つ

008…水中で活動できる





映像としての見どころのひとつが、005。

怪力の005なら、手を上下させることで岩を持ち上げることができるはず。

ところが、岩を持ち上げようと力を入れるときに首をひねることで、体じゅうの力をこめて持ち上げているということを表現しとるんじゃの。

オープニングの作画を担当したのは、のちに「金田パース」と呼ばれる独特な作画スタイルを生み出した、故・金田伊功(かなだ よしのり)さんが所属するスタジオZ。

作画には3日かかり、最後の1日は徹夜をして仕上げたそうじゃ。



余談じゃが、この作品で作画監督を務めた芦田豊雄(あしだ とよお)さんも2011年に亡くなられました。

『サイボーグ009』は何度かアニメ化されとるが、わしゃ芦田さんがデザインされた009がいちばん好きじゃの。





こうやってみると、39年前の作品なのに(39年前の作品だから、というべきか?)、かかわった方の多くのが亡くなっておられる。

時の流れの早さを感じてしまうのう。





今日は、テレビアニメ『サイボーグ009』(1979年~1980年)オープニング曲「誰がために」について、当時のアニメ雑誌『アニメージュ』の記事をもとに話をさせてもらいました。

ほいじゃあ、またの。
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水金地火木ドッテンカープ?!

2018年11月24日 | スポーツ
2019年、広島カープのキャッチフレーズ

太陽系の惑星にたとえたもの

歴代のキャッチフレーズを振り返る








(中國新聞 2018年11月24日)


「水金地火木(すいきんちかもく)ドッテンカープ」

広島カープの来年、2019年のキャッチフレーズである。

今朝の中國新聞を手にして、しばし凍りついてしもうた。

「カープさん、最近お遊びが過ぎとりゃしませんかの?!」





「水金地火木ドッテンカープ」には、どんな意味が込められとるんじゃろ?

広島カープのホームページには、次のように説明してあった。



小さな子どもから年配の方まで世代を超えてみなさんが口ずさんだことがあり、時が流れてもずっと頭の中にあるフレーズ「水金地火木土天海」をアレンジしました。

様々な特徴を持ちながらも同じ方向に公転する太陽系の家族である惑星、カープも「家族」のようなチームワークで戦ってまいります。デザインには、キャッチフレーズをリズムよくラップで刻むキャラクターを採用しました。リズムよくセ・リーグ4連覇、そして日本一を達成できるように突き進み、太陽系で1番輝くチームを目指します!

ファンの皆様にもラップを刻むように口ずさんでいただければと思います!!

「2019年チームキャッチフレーズ決定!」広島東洋カープ公式サイト




太陽系の惑星について習うとき、「水金地火木土天海(すいきんちかもくどってんかい)」って覚えるよのう。

算数の九九のように。

わしらの年代では「水金地火木土天海冥」と、太陽系の一番外側にある惑星・冥王星(めいおうせい)も含まれとった。

残念ながら、冥王星は2006年に惑星の分類から外されてしもうたが…。



野球は9人の、いろんな特徴を持った選手でやるもの。

太陽系の惑星も、いろんな特徴を持った8つ(かつては、冥王星を含めて9つ)の惑星からなる。

9人の選手をひとつの「家族」にたとえて、「家族」のようなチームワークで戦っていく。

そして、太陽系で1番輝くチームを目指していく、という意味が込められとるんじゃの。



なるほど、「水金地火木ドッテンカープ」というキャッチフレーズが納得できた。





ここで、最近の広島カープのキャッチフレーズを振り返ってみると…、



2012年「破天荒(はてんこう)」

2013年「剣砥挑来(けんどちょうらい)」

2014年「赤道直火(せきどうちょっか)」

2015年「常昇魂(じょうしょうだましい)」



このあたりまでは、文字で見て、耳で聞いてみると、言いたいことが理解できた。

ところが…、



2016年「真赤激(まっかげき)」

2017年「カ舞吼(かぶく)!」



あたりから、「ちょっと待ってや」「なにが言いたいん?」という感じになってきた。

そしてトドメが、今年の「℃℃℃(ドドドォー!!!)」。

この「℃℃℃(ドドドォー!!!)」を超えるインパクトを持ったキャッチフレーズは出てこんじゃろ、と思うとったら、「水金地火木ドッテンカープ」ときた。

「水金地火木ドッテンカープ」が与えるインパクトに勝るものはないじゃろう。



広島カープが3連覇を果たした2016年~18年にかけてのキャッチフレーズは、最初は「なんじゃ、こりゃ?」というとまどいと、軽い拒否反応があるが、ファンの間に少しずつ広まっていくのが特徴かもしれん。

ということは、来年のシーズンが始まるころには、「水金地火木ドッテンカープ」と、当たり前に口にしとるんじゃろうの。



太陽系で一番輝くチームを目指して、そして来年のセ・リーグ4連覇と、日本一の達成を目指してがんばってほしいもんじゃ。





…以下、余談。

太陽系の惑星について簡単なおさらい。



太陽系の惑星を大きくわけると、

地球よりも太陽に近いところを公転する内惑星。
地球よりも太陽から離れたところで公転する外惑星。

小型で密度が大きく、金属や岩石でできている地球型惑星。
大型で密度が小さく、主に気体でできている木星型惑星。



それぞれの惑星でみていくと、

水星…太陽にもっとも近い。一番小さい。

金星…二酸化炭素の厚い大気でおおわれ、温度が高い(約500度)。

火星…赤く見える。過去に水が存在したと考えられている。

木星…太陽系でもっとも大きい(直径が地球の約11倍)。大赤斑と呼ばれる模様がある。

土星…氷でできた大きな環をもつ。

天王星…自転軸が横だおしになっている。

海王星…太陽からもっとも遠い惑星。青っぽい色で観測される。



という具合に、いろいろな特徴がある8つの惑星が集まって太陽系ができとるんじゃの。





今日は、来年の広島カープのキャッチフレーズ「水金地火木ドッテンカープ」について話をさせてもらいました。

ほいじゃあ、またの。
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