通でがんす

いろんな広島を知って、ひろしま通になりましょう!
(旧ブログタイトル:通じゃのう)

神山國民小学校って、知ってる?

2018年01月16日 | 見て歩き
「以前、「神崎(かんざき)八景」をとりあげたじゃろ?」

「江戸時代の広島の名所のひとつで、ここから見た景色が美しいということで「神崎八景」が作られたところじゃね」

「今回は、その神崎を紹介してみよう」





↓神崎八景についての関連記事は、こちら↓

今昔広島名所めぐり~江戸時代まで









碑の後ろに見える橋が中島神崎橋
左奥に見える白い建物はアステールプラザ



「神崎については、本川(ほんかわ。旧太田川)に架かる中島神崎橋(なかじまかんざきばし)の北西側に建てらた「神崎之碑」に詳しく書かれとる」



「神崎」の名が歴史上最初に現れるのは天和三年(一六八三)藤原惺窩(せいか)の門人であった木下順庵が 藩主浅野綱長の求めに応じて作った詩文「神崎八景」であると思われる
更に 享保八年(一七二三)には「神崎開」の名で正式な藩領として記録されている
「神崎」という名の由来は 太田川の本流である本川の「川の崎」が訛(なま)って「神崎」となったという説や 対岸に住吉神社が在ることから「神の崎」と呼ばれるようになったという説 あるいは 当地の開発にかかわった人の名からという説もある
本川に臨む神崎の地は 水上交通の要所であったため浅野藩政時代には家老の上田氏や上級武士による船屋敷 下屋敷などが設けられていたといわれている
また 宝暦八年(一七五八)に始められた「神崎渡船」は 明治の終りまで続けられ市民の利便に供せられてきた
この古くからの名称が後世に伝承されることを願い ここにこの碑を建てる

  昭和六十年九月

     神崎学区連合町内会
     神崎学区社会福祉協議会

(碑文の説明板より)




「「神崎八景」で「神崎」の名前が歴史上に出てきたんじゃね」

「江戸時代の広島は、南に向かって干拓していくことで城下町を広げていった。神崎あたりは舟入新開の一部で、元禄14年(1701)に地詰が行われたんじゃ」

「舟入は江戸時代、文字どおり、藩の船が出入りしとったけぇ「船入(ふないり)」と呼ばれって聞いたことがあるけど?」

「ほうじゃの。神崎は本川の西側にあるんじゃが、対岸の東側、今の住吉神社があるあたりに「御船入」いうて、広島藩の船や藩主の御座船(ござぶね)などを係留する施設があった」

「で、そのあたりにある加古町(かこまち)も、船を動かすための水夫、水主(かこ)が住んでいたことから、もともとは「水主町」って呼ばれとったんよね」

「このあたりには、御船入、広島三大祭のひとつ「住吉祭」が行われる住吉神社、そして今の中島小学校あたりにあった広島藩の庭園・与楽園(よらくえん)があったんじゃの」

「話が中島に移ってしもうとるよ。神崎の話に戻さんと」

「おぉ、そうじゃった。中島神崎橋の南西側には、萬春園(ばんしゅんえん)と呼ばれる広島藩の庭園があったそうじゃ」

「なんで、神崎渡しは明治の終わりころまで続けられたんじゃろ?」

「江戸時代、川に橋を架けることが規制されとったけぇ、本川には西国街道の本川橋(猫屋橋)しかなかった」

「中島神崎橋の川上にある西平和大橋はいつごろ架けられたん?」

「1873年(明治6年)に架けられて、そのころは「新大橋」と呼ばれとった。川下の住吉橋(すみよしばし)は、1910年(明治43年)に架けられたそうじゃ」

「住吉橋ができる明治の終わりころまで、神崎渡しが続いたというわけじゃね」







神崎小学校校門


「時代は下って、1945年(昭和20年)8月6日」

「広島に原子爆弾が投下された日じゃね」

「中島神崎橋の南西側に、当時は神崎国民学校と呼ばれていた、今の神崎小学校があるんじゃ」

「神崎小学校といえば、漫画『はだしのゲン』を描かれた故・中沢啓治(なかざわ けいじ)さんが通っていた小学校」

「漫画の中では「神山國民小学校」と書いてあったがの」

「あの日の朝、1年生じゃった中沢さんが学校に入ろうとしたとき、顔見知りのおばさんから話しかけれて話をしてるところで、被爆。中沢さんの背中側にあった門柱や壁が原子爆弾の熱線を遮ったことで、奇跡的に助かったんじゃったね」

「そして、目の前におったおばさんは、熱線の直撃を受けて即死された。このあたりのことは、『はだしのゲン』に描いてあるとおりじゃ」





↓はだしのゲン、原子爆弾投下については、こちら↓

「こどもたちの見た戦争 はだしのゲンとともに/原子爆弾投下1」広島平和記念資料館バーチャル・ミュージアム








「神崎小学校の北側にある河原町公園には、神崎学区原爆慰霊碑がある」



昭和二十年八月六日、人類史上はじめて投下された原子爆弾により、神崎学区も未曾有の被害を受けた。
本年被爆五十周年を迎えるに当たり、原爆で亡くなられた多くの方々を慰霊するとともに世界の恒久平和を祈念して、地域住民の総意によりここに慰霊碑建立するものである。

  平成七年八月三日

     神崎学区原爆慰霊碑建立委員会




「このあたりは、爆心地から約1.2キロメートル」

「多くの犠牲者が出て、神崎小学校の校庭では連日、被爆されて亡くなった方々の遺体を焼いたといわれとる。で、この碑の台座の一部には、神崎小学校に残っていた被爆石4個が使われとるそうじゃ」





↓神崎学区原爆慰霊碑については、こちら↓

「神崎学区原爆慰霊碑 被爆建造物・慰霊碑」広島広域観光情報サイト ひろたび





訪問日:2018年1月7日





「今日は、「神山國民小学校って、知ってる?」ということで、広島市中区にある神崎地区について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」





神崎之碑

神崎国民学校(現:神崎小学校)

神崎学区原爆慰霊碑

神崎八景

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

頼山陽は名コピーライター?!

2018年01月14日 | 広島の話題




「広島城で、企画展「頼山陽とゆかりの人たち」(2017年12月22日~2018年2月4日)をやっているので、見に行ってきた」





↓広島城については、こちら↓

広島城ホームページ





「頼山陽いうたら、幕末の尊王攘夷運動に影響を与えた『日本外史』という本を書いた方じゃったね」

「詩を詠み、文を書き、絵を描いた人でもあったんじゃの」

「で、なおかつコピーライターでもあったん?」

「日本新三景のひとつ、大分県中津市にある耶馬渓(やばけい)を知っとるかいの?」

「うーん、知らんねぇ」

「日本三大奇景(きけい)のひとつでもあるんじゃが…」

「あぁ。江戸時代に30年くらいかけて掘ったといわれる、青の洞門があるところ?」

「そうそう。それまで「山国谷(やまくにだに)」と呼ばれていたところを、中国風の「耶馬渓」という名前をつけたのが、山陽じゃったそうな」

「「耶馬渓」と名づけたことで、コピーライターってことになったんじゃね」





↓耶馬渓については、こちら↓

中津耶馬溪観光協会





「ここで、頼山陽について簡単に紹介しておこう」

「はい」

「山陽は江戸時代後期の安永9年(1780)、大坂生まれ」

「山陽って、広島生まれなんじゃないん?」

「父の頼春水(らい しゅんすい)は、もともと竹原の方なんじゃが、大坂に出て私塾を開いとった。それが天明元年(1781)、広島藩の儒学者として登用されたのに伴って、広島に移って来たんじゃの」

「あぁ、そうじゃったん」

「寛政12年(1800)、山陽が21歳の時に脱藩するも連れ戻されて、座敷牢へ幽閉された」

「このときに、『日本外史』の構想を練ったといわれるんじゃね」

「文政元年(1818)、39歳の時に西遊、九州旅行に出かけた。この旅行で、山陽が酒を好んで飲み始めたといわれるんじゃが、これはまた別の話で取りあげるとして…」

「1818年いうたら、ちょうど200年前!」

「九州旅行の途中で、豊前(ぶぜん)の雲華上人(うんげしょうにん)を訪ねた折、例の「山国谷」を訪れた」

「その自然美に感銘を受けた、と」

「この奇景に感銘を受けた山陽は、12月6日から16日までの11日間をこの地で過ごしたそうじゃ」

「そんなに長く?」

「で、「山国谷」と呼ばれていたこの地を「耶馬溪」と、そして、目の前の岩峰を眺めながら杯を重ねた柿坂の絶景を「擲筆峰(てきひっぽう)の景」と名づけた」

「「耶馬溪」って名前をつけただけ? 詩や絵は描かれとってんないん?」

「翌年、この奇景を水墨で描いた絵に、その由来を記した文と、「耶馬渓山天下無し」と耶馬渓を詠んだ漢詩を書いた「耶馬溪図巻」を添えて、雲華上人に送ったそうじゃ」

「すごいね」

「山陽が名づけた「耶馬溪」という地名が、今では北は北海道から南は福岡まで、全国30ヶ所ちかくあるそうじゃ」

「そんなにたくさんあるん?」

「たくさんあるいうことは、「耶馬渓」の奇景と名前が全国に広く知られとるという証拠じゃの」





↓頼山陽については、こちら↓

頼山陽記念文化財団





訪問日:2018年1月7日





「今日は、「頼山陽は名コピーライター?!」ということで、日本新三景・日本三大奇景のひとつ、大分県中津市にある耶馬渓(やばけい)について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」





企画展「頼山陽とゆかりの人たち」広島城

頼山陽

耶馬渓

雲華上人

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なりきって歌うんだZ(ゼェーット)!!~アニソン歌手・水木一郎さん

2018年01月12日 | まんが・テレビ・映画
「明日、1月13日(土)から、アニメ『マジンガーZ』の最新作、『劇場版 マジンガーZ INFINITY』が公開されます」





↓『劇場版 マジンガーZ / INFINITY』については、こちら↓

『劇場版 マジンガーZ / INFINITY』2018.1.13 SAT





「オープニングテーマ「マジンガーZ」を歌うのは、もちろん水木一郎さん」

「エンディングテーマ「The Last Letter」は、広島出身の吉川晃司さん」

「アニメ『マジンガーZ』は、TV放送開始から45年がたつんじゃの」

「45年の時を越えて、同じ作品のテーマを同じ歌手が歌うって、すごいね」

「水木さんによると、「マジンガーZ」は1万回以上(!?)歌っているとのこと」

「というわけで、今日は水木一郎さんについて話していきたいと思います」





↓「マジンガーZ」については、こちら↓

「アニソン マジンガーZ OP」Youtube





↓「マジンガーZ INFINITYバージョン」については、こちら↓

「水木一郎 「マジンガーZ / INFINITYバージョン」Music Video」Youtube





↓水木一郎さんについては、こちら↓

水木一郎オフィシャルサイト Ichiro Mizuki Official Website





「水木一郎さんは、1948年1月7日生まれの、御年(おんとし)70歳!」

「70歳であれだけの声が出るのは、すごい!!」

「水木さんは、今から50年前の1968年、『君にささげる僕の歌』でレコードデビューされたんじゃ」

「レコードを出すこと=デビュー、いうころの話じゃね」

「ほいじゃが、世に出ることができんかった(=売れなかった)」

「世に出る(=売れる)って表現も、最近は聞かんようになった」

「1971年、アニメ『原始少年リュウ』のオープニングテーマ「原始少年リュウが行く」で、アニソン歌手としてデビュー」

「このころは、アニソン(=アニメソング)って言葉もないころじゃね」

「レコーディングに臨んだ水木さん。しかし、なかなかOKが出ない」

「なんで?」

「それまでの水木さんは、歌の情景を自分でイメージしながら歌っていたそうじゃ」

「ふつう、そうなんじゃない?」

「同じくアニソン歌手の堀江美都子さんが、エンディングテーマ「ランのうた」のレコーディングを早々に終わらせたのを見ていた水木さん。自分にはなかなかOKが出ないので、『原始少年リュウ』の設定や絵コンテなどを見せてもろうた」

「見せてもらったのが、いい方向に働いたんじゃろか?」

「それらを頭に入れて、リュウに「なりきって」歌ったら、OKが出たそうじゃ」

「キャラクターやヒーローに「なりきって」歌うたんがえかったんかもしれんね」

「水木さんの特技は、切り替えが早く、曲のイントロがかかると「なりきる」ことができることじゃそうな」





「水木さんといえば、伝説の24時間、1000曲ライブってのをやられたよね」

「今から20年前の1998年8月に山梨県の河口湖でライブをされたんじゃが、その時にオープニングテーマを飾ったのも「マジンガーZ」じゃった」

「で、見事に24時間歌い切った」

「水木さんは、人のやらないことをやりたい、新たなことを開拓していきたいそうじゃ」

「こらからもいろんなことに挑戦して欲しいものじゃね」

「最後に、水木さんの持ち歌の中で一番好きな曲、TVアニメ『宇宙海賊キャプテンハーロック』エンディングテーマ「われらの旅立ち」をお送りして、終わりにします」




↓「われらの旅立ち」については、こちら↓

「われらの旅立ち」Youtube





【参考番組】

NHKラジオ ラジオ深夜便「時代を創った声 アニメソング歌手・水木一郎」2017年11月5日 午前4時台






「今日は、なりきって歌うんだZ(ゼェーット)!!ということで、『劇場版 マジンガーZ / INFINITY』のオープニングテーマ「マジンガーZ」を歌っているアニソン歌手・水木一郎さんについて話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今昔広島名所めぐり~江戸時代まで

2018年01月10日 | 広島の話題


「広島市郷土資料館で、「企画展 今昔広島名所めぐり(2017年12月1日~2048年1月21日)」をやっているので、見に行ってきた」

「今昔広島名所めぐり?」

「昔から現代までの、広島名所の移り変わりを紹介しとってんじゃ」





↓広島市郷土資料館については、こちら↓

広島市郷土資料館





「名所って、風景が良かったり、梅や桜なんかの花とか、有名な特産品がある場所のことじゃね」

「名所はもともと、有名な和歌に詠われた場所のことじゃそうな」

「実際に行って楽しんだりする場所じゃのうて、和歌の知識・教養として知っている場所という意味?」

「そんなところじゃ」

「たとえば、どんなんがあるん?」

「今年(2018年)、海上社殿完成から850年を迎える厳島神社は別格として…」

「厳島神社を厚く信仰した平清盛(たいらの きよもり)の生誕900年でもあるね」

「たとえば、呉市にある倉橋島(くらはしじま)は、かつては長門島と呼ばれた瀬戸内随一の造船基地。万葉集の巻十五には、天平8年(736)、遣新羅使(けんしらぎし)がこの地に停泊したときの歌が詠まれとるそうじゃ」

「へぇ」





↓厳島神社については、こちら↓

「嚴島神社 観光スポット」一般社団法人宮島観光協会





↓倉橋島(長門島)については、こちら↓

「広島県の文化財 万葉集遺跡長門島松原(桂濱神社境内)」広島県ホームページ





「時代が下って江戸時代になると、庶民までが旅することができるようになった」

「NHKの「ブラタモリ」でもやっとったけど、広島城下、今の広島市街は、戦国時代末の天正17年(1589)、毛利輝元(もうり てるもと)によって作られ始めた新しい都市じゃけぇ、江戸時代には名所・旧跡ってほとんどなかったんじゃない?」

「国宝の不動院をはじめ、国泰寺・東照宮・天満宮といった寺社仏閣。桜の馬場・八木梅林といった花見ができるところ、比治山や二葉山といった眺望のええところなんかが名所になったそうじゃ」

「なるほど」





↓「ブラタモリ」については、こちら↓

「広島はステキなシティ!? タモリのブラブラ足跡マップ」NHK





↓不動院については、こちら↓

「不動院金堂 広島県の文化財」広島県ホームページ





「江戸時代の名所のひとつ、眺望のええ場所として、「神崎(かんざき)八景」が紹介してあった」

「…神崎? 神崎ってどこにあるかいね?」

「中区加古町に、広島市文化交流会館(広島文化学園HBGホール)やアステールプラザがあるじゃろ?」

「あるね」

「そこから、本川(旧太田川)に架かる中島神崎橋を渡って西側あたりが神崎じゃ」

「市立神崎小学校があるね」

「このあたりには江戸時代、神崎渡しと呼ばれる渡しがあって、そこから見た景色が美しいということで「神崎八景」が作られた」

「へぇ」

「具体的にいうと、第5代広島藩主の浅野綱長(あさの つななが)が、江戸幕府第5代将軍の徳川綱吉(とくがわ つなよし)の侍講をつとめた木下順庵(きのした じゅんあん)に頼んで八景を選んでもらい、それぞれに漢詩を詠んでもらったそうじゃ」

「どんなのが選ばれとるんじゃろ?」



一景:西畴春雨(西方の田地の春雨)

二景:江場秋月(江波に懸かる秋月)

三景:厳島畳翠(厳島の一面の青葉)

四景:己斐舞雪(己斐の晴れた雪景)

五景:草津朝煙(草津に煙る朝もや)

六景:箕峰晩翠(安芸小富士の晩雲)

七景:前川群鴎(本川に遊ぶ鴎の群)

八景:南浦漁舟(海岸に浮かぶ漁船)






本川に架かる中島神崎橋を南西側から見る





中島神崎橋から川下を見る
中央奥に見えるのが安芸の小富士




「江戸時代は、今のように高い建物がなかったし、本川には川上に本川橋(猫屋橋)があっただけで、このあたりには橋もなかったけぇの」

「神崎あたりからじゃったら、川下にある江場(江波(えば))や、安芸の小富士(似島(にのしま))や厳島(宮島)といった瀬戸内海に浮かぶ島々も見えたじゃろうね」

「己斐や草津あたりも見渡すことができたんじゃろうの」

「八景いうたら、「厳島八景」もあったね」

「「縮景園八勝」もあるぞ」

「これって、いつごろからできたんかね?」

「中国の山水画の画題に「瀟湘八景(しょうしょうはっけい)」いうのがあって、これが14世紀ごろに日本に伝わった。江戸時代、これを元に全国各地でご当地八景が作られたそうじゃ」





訪問日:2018年1月7日





【参考文献】

『広島城南大絵図』平成24年3月 広島市中区役所区政振興課






「今日は、広島市郷土資料館で開催中の「企画展 今昔広島名所めぐり」と、そこで紹介されていた「神崎八景」について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」





「企画展 今昔広島名所めぐり」広島市郷土資料館

厳島神社

倉橋島(長門島)

神崎八景

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

来んさる(きんさる)

2018年01月08日 | 広島弁


「昨日、広島の地下街・紙屋町シャレオを歩いとったら、こんな広告があった」

「「来んさる」は広島弁じゃね」

「「来んさる」いうても、金猿、金色の猿のことじゃないで」

「金色の猿って、なんでそんなしょーもないことをいうん?」

「いや、「きんさる」と入力して「来んさる」と文字変換をしようと思うたら、「金猿」になってしもうたけぇ…」

「「きんさる」を「来んさる」と変換しようとすること自体、間違うとるんじゃない? それはともかく、「来んさる」の話じゃなかったん?」

「おぉ、そうじゃった。「~しんさる」は、尊敬語の「~なさる」にあたる広島弁じゃの」

「「来ちゃった(きちゃった)」も、「来られた」「いらっしゃった」という尊敬の言い方になるね」

「標準語で「来ちゃった」というと、「もう来たの」とか「来なくていいのに」とか受け取られるんじゃが、広島弁では尊敬の意味で使われとるんじゃ」

「「来る」いうたら、「来なさい」「おいで」の意味で、「来んさい(きんさい)」とも言うよね」



♪きんさい きんさい ハワイへきんさい

わしらはみんな 広島じゃけん

「うわさのカム・トゥ・ハワイ」小林克也ザ・ナンバー・ワン・バンド(作詞:小林克也)








「千福いうたら、「♪皆さんほんとに~ 千福一杯いかがです」のCMソングで有名な、呉市(くれし)にある酒造メーカー・三宅本店の銘柄のひとつじゃね」

「映画『この世界の片隅に』でも有名になったが、呉といえば海軍。千福は、海軍の軍用酒として納入されとったんじゃ」

「千福いう名前があまりにも有名じゃけぇ、三宅本店という会社名が意外と知られていないっていうのもあるね」





↓三宅本店については、こちら↓

広島県呉市の日本酒メーカー「千福・三宅本店」





↓三宅本店と映画『この世界の片隅に』については、こちら↓

まいごのすずさん





「今日は、広島弁の「来んさる(きんさる)」と、この言葉を広告で使っていた千福(三宅本店)について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」





「来んさる(きんさる)」

三宅本店、千福

映画『この世界の片隅に』

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする