通でがんす

いろんな広島を知って、ひろしま通になりましょう!
(旧ブログタイトル:通じゃのう)

林明子原画展~観戦編

2017年08月15日 | 広島の話題
林明子さんが描いた絵本

絵本のひきだし 林明子原画展

ひろしま美術館








「7月15日から8月27日まで、広島市中区にあるひろしま美術館では、「絵本のひきだし 林明子原画展」が開催中です」

「その「林明子原画展」を、キャラクター編と観戦編の2回に分けて紹介してみようと思うとります」

「前回がキャラクター編だったので、今回は観戦編です」

「展示してあった、林さんの絵本の原画やラフスケッチを見た感想について話していこうかの」





↓「絵本のひきだし 林明子原画展」については、こちら↓

「絵本のひきだし 林明子原画展 特別展」ひろしま美術館





「今回の「林明子原画展」では、林さんが初期に描かれた絵本を、初めて見させてもらいました」

「『かみひこうき』(1973年)は、子どもたちが紙飛行機を飛ばす様子もえかったけど、出来上がった紙飛行機を広げて1枚の紙に戻していくという表現の仕方が面白かったよ」

「机の上にずらりと並べてある紙飛行機を見て、これはマイティ号にウルトラホーク1号、マットジャイロ2号、おぉ、これはジャンボフェニックスじゃないか!…なんて想像してしもうたで」

「…んな見方をするのは、お父さんくらいじゃろ」

「次が、『しゃぼんだま』(1975年)で、これは変化するシャボン玉の色をきれいに描かれとったのう」

「グラデーションの部分も手を抜かずに、ていねいに描いとっちゃったね」

「女の子の髪の毛なんか、1本1本、微妙に色を変えて描いてあった」

「そうそう、あれはすごかった」

「こういう原画を見ていつも思うのは、絵を描く方は、「えっ、こんなところまで?」ってうくらい細かいところまで手を抜かずにきちんと描いておられるということじゃのう」





「『はじめてのおつかい』(1976年)は、えんぴつで描かれたラフスケッチが展示してあったのう」

「『はじめてのおつかい』は、お母さんからおつかいを頼まれた5歳のみいちゃんが、ひとりでおつかいにでかけるという話」

「あるラフスケッチには、心配そうな顔で見送るお母さんをよそに、特に緊張するでもなくふつうに家を出ていく様子が描かれとった」

「実際の作品で、緊張のあまり手と足が同時に出て、ギクシャクと歩いとるみいちゃんとは大違いじゃね」

「しかも、このときのみいちゃんは後姿で描かれとって、その表情を見ることはできん。そこは見る人が想像して補うしかないんじゃが、このあたりの表現は上手じゃと思うで」

「こうやって、原画とあわせて、スケッチやレイアウト、下絵が見られるって、製作の過程が読み取れて面白いっていうか、楽しい」

「緊張して家を出たみいちゃんが、それでも歌を歌いながら歩いていると、自転車に乗ったお兄さんが、びゅるーんとすぐそばを走っていって、みいちゃんが思わず身をすくめる、という場面」

「林さんは、最初はやさしそうな顔のおじさんじゃったのを、少しこわそうなお兄さんに変更したと発言されとったよ」

「これも確かめてみると、写真家のアラーキーこと荒木経惟さん似の、サングラスをかけたやさしそうな顔のおじさんじゃった」

「このおじさんが自転車でゆっくりと走っていたら、みいちゃんがびっくりすることはなかったじゃろうね」

「少しこわそうなお兄さんが、みいちゃんのすぐそばをビューンと自転車を飛ばして走っていったけぇ、はじめてのおつかいでドキドキしているみいちゃんの緊張感を高めることができたと思うで」





↓自転車に乗ったお兄さん・おじさんについては、こちら↓

「林明子 Q&A」絵本ナビ




「『こんとあき』(1989年)には、「こん」という名前のキツネのぬいぐるみが出てくるんじゃけど、この「こん」のぬいぐるみが展示してあったね」

「絵本の標題紙(ひょうだいし。本の中で本のタイトル(標題)が書いてあるページ。タイトルページとも)の部分がこんの型紙になっとるのは、ぬいぐるみを実際に作られたときのことを参考に描かれとってんかもしれん」

「林さんは、実際にぬいぐるみを作ってポーズを取らせて、それを参考に描かれとってんよ」

「参考いうたら、絵本の中に出てくる子どもたちは、林さんの姪っ子や甥っ子を写真に撮って、ふとした表情や服のしわを参考に書かれとってんじゃのう」

「林さんが描く、子どもたちのちょっとしたしぐさ、細やかな感情の変化は、ここから生まれてきとるんじゃね」





「今日は、「林明子原画展~観戦編」ということで、林さんの絵本づくりについて話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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林明子原画展~キャラクター編

2017年08月14日 | 広島の話題
林明子さんが生み出したキャラクターたち

絵本のひきだし 林明子原画展

ひろしま美術館









「7月15日から8月27日まで、広島市中区にあるひろしま美術館では、「絵本のひきだし 林明子原画展」が開催中です」

「その「林明子原画展」を、キャラクター編と観戦編の2回に分けて紹介してみようと思うとります」

「今回はキャラクター編です」





↓「絵本のひきだし 林明子原画展」については、こちら↓

「絵本のひきだし 林明子原画展 特別展」ひろしま美術館







「ひろしま美術館で展覧会があると、関連するキャラクターが美術館のまわりの植え込みに展示してあるんじゃ」

「あったね」

「ひろしま美術館の南東側、市民病院前交差点側には、『こんとあき』のこんちゃんと…」

「こんちゃんも、こうやって見ると勇ましいね」







「あさえちゃんと、その妹のあやちゃんが展示してあった」

「うわ~、『あさえとちいさいいもうと』は久しぶりに見たよ」







「美術館の東側、交差点から北側には、あきちゃんと遊ぶこんちゃんと…」

「むかしから疑問に思うとったんじゃけど、これ、なにして遊びよるんじゃろ?」







「…牛乳を買ったあと、急いで家に帰ろうと駆け出すみいちゃんが展示してあった」

「こけてすりむいた、みいちゃんのひざのきず跡が痛々しいよ」







「美術館の南側、交差点から西側には、クロネコと…」

「…ネコなんか出てきたっけ?」

「みいちゃんが牛乳を買いに行った、作者の筒井頼子さんにひっかけた筒井商店の店先にはクロネコがおっての、筒井商店でのシーンには、このクロネコが必ず画面の隅に描かれてあるんじゃ」







「…こんちゃんが展示してあった」

「電車のドアに挟まれたしっぽが痛々しいね」







「美術館入口は、外壁の工事中」







「美術館の中に入ると、こんちゃんが特別展の入口を案内してくれとるんじゃ」

「絵本では「さきゅういりぐち」となっとるのが、ここでは「特別展いりぐち」になっとるんじゃね」







「特別展の会場入口から入って…」







「…地下に降りると撮影スポットになっとって、『はじめてのおつかい』の表紙を拡大した巨大な表紙が展示してあるんじゃ」

「ここで、みいちゃんが買った紙パックの牛乳を手に記念撮影をすることができるんよ」







「展覧会の最後にも撮影スポットがあるんじゃ」

「駅弁「あげどんべんとう」を買いに行ったこんちゃんが戻ってこないのを心配して探しに行ったあきちゃんが、しっぽを電車のドアにはさまれたこんちゃんを探し出すという場面じゃね」





訪問日:2017年7月16日





「今日は、「林明子原画展~キャラクター編」ということで、ひろしま美術館のまわりの植え込みや、撮影スポットに展示してあるキャラクターたちについて話をさせてもらいました」

「明日は「林明子原画展~観戦編」の予定じゃ。ほいじゃあ、またの」
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72年目のヒロシマ

2017年08月13日 | 広島の話題
2017年8月6日

アメリカによる原子爆弾投下から72年

広島市内にある慰霊碑








中國新聞 号外

「1週間前の2017年8月6日、広島は72回目の原爆の日を迎え、広島市中区にある平和記念公園では平和記念式典が行われました」

「あの日も暑い一日じゃったが、この日の広島市中区の最高気温は37.0度と、今年一番の暑さを記録した一日じゃった」

「今日は、広島市内にある原爆に関する慰霊碑を紹介していこうと思います」

「まずは、平和記念公園とその近くにある慰霊碑を、北から南へと紹介していこうかの」







中国・四国土木出張所職員殉職碑

「原子爆弾が投下された1945年8月6日当時、内務省中国・四国土木出張所が広島県産業奨励館(現:原爆ドーム)の中にあって、52名の方が殉職されました」

「爆心地から160メートルのところにあるこの建物は、内務省中国・四国土木出張所のほか、広島県地方木材・日本木材広島支社など、行政機関や統制組合の事務所として使われとったんじゃの」

「本来は、広島県の産業を奨励するための広島県物産陳列館として建てられたんじゃけどね」







動員学徒慰霊塔

「原爆が投下された日、広島市内で建物疎開作業を行っていた8,000人以上の生徒のうち、約6,300人が犠牲になったといわれます」

「戦争末期、中学生以上の学生は軍需工場などでの勤労奉仕や、空襲による延焼を防ぐために民家などの建物を取り壊して防火地帯をつくる建物疎開などの作業を強制的にやらされとったんじゃの」







原爆供養塔

「ここでは、原子爆弾投下で亡くなった引き取り手のない遺骨を、文字どおり「供養」しています」

「亡くなった方の身元が分からんけぇ、いろんな宗教による慰霊祭が、時間をずらして行われとるんじゃ」







韓国人原爆犠牲者慰霊碑

「原子爆弾が投下されたとき、広島市内には数万人にのぼる朝鮮人がいて、約2万人が被爆したといわれています」

「このころの日本は、朝鮮や台湾、中国や東南アジアを植民地にしとって、そこから強制的に連れてこられた人がおられたんじゃ」









原爆の子の像

「原爆の子の像は、白血病のため1955年に12歳で亡くなった、被爆者の佐々木禎子さんの霊を慰めるために建てられました」

「禎子さんは、「鶴を千羽折ると病気が治る」と信じて、薬の包み紙や包装紙などで1300羽以上の鶴を折ったそうじゃ」

「原爆の子の像には、今でも世界各国から折り鶴が捧げられています」







原爆死没者慰霊碑







旧天神町北組慰霊碑

「今、広島平和記念公園がある中島町は、中島本町・材木町・天神町・元柳町・木挽町・中島新町と呼ばれる町がある、広島の繁華街でした」

「縦に長くのびている天神町は、今の平和大通りあたりで南北に分かれとったけぇ、ここは天神町北組と呼ばれとったそうじゃ」

「爆心地に近い天神町は、原爆の直撃を受けて全壊・全焼したそうです」







峠三吉詩碑

「詩人の峠三吉は、爆心地から約3キロメートル離れた翠町の自宅で被爆しました。28歳の時だそうです」

「1951年『原爆詩集』を自費出版されたんじゃが、その序文として書かれたのが、「にんげんをかえせ」で知られる以下の詩じゃ」



ちちをかえせ

ははをかえせ

としよりをかえせ

こどもをかえせ

わたしをかえせ

わたしにつながる

にんげんをかえせ

にんげんの

にんげんのよのあるかぎり

くずれぬへいわを

へいわをかえせ







マルセル・ジュノー博士記念碑


「マルセル・ジュノー博士は、赤十字国際委員会の駐日主席代表として来日。1945年8月9日、GHQと交渉して調達した約15トンの医薬品を持って広島にやってきました」

「この約15トンの医薬品は、約1万人の被災者を1ヶ月治療できる量じゃったといわれとるんじゃの」







ノーマン・カズンズ氏記念碑

「ノーマン・カズンズ氏は、原爆で親を失った孤児たちのために、アメリカ人の精神養子として育てようという運動をおこしました。約500人の子どもが精神養子になって、総額2,000万円の援助が行われたといわれています」

「氏は、原爆によって顔や体にケロイドが残る原爆乙女を、アメリカで治療を受けさせるなどの運動もされとってんじゃ」







嵐の中の母子像

「嵐の中の母子像は、広島市婦人会連合会が1口20円の募金活動で150万円を集めて建てられたものです」

「このの母子像は、原爆の惨禍の中、右腕で赤ん坊をしっかと抱き、伸ばした左腕で幼児を背負っとる母親を表現されとるそうじゃ」







原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑

「戦争末期、今の小学校にあたる国民学校初等科の3年生以上の児童は、空襲を避けるため都市部近くの農村部へと強制的に疎開させられました」

「そのため、親元に残された初等科の1・2年生と、建物疎開作業に従事させられた、今の小学校にあたる国民学校高等科の生徒が、原爆の犠牲になった」

「犠牲となった教師が約200名、子どもが約2,000名といわれています」

「疎開させられて生き延びたものの、親や親せきを原爆で亡くした子どもたちは、2,000人とも6,500人ともいわれとるんじゃの」







義勇隊の碑(安佐郡佐東町川内温井義勇隊の碑)

「原子爆弾が投下された当日、広島市の郊外にある川内村の義勇隊員が中島新町付近で建物疎開作業をしていました。爆心地に近いということもあって、義勇隊250人の全員が亡くなり、そのうち川内村の温井地区は180人の方が犠牲になりました」

「戦争末期、政府は本土決戦に備えて、全国各地で職場・学校・地域を単位として国民義勇隊を編成。男子は15歳から60歳まで、女子は17歳から40歳までの全国民が義勇隊に組み込まれとったんじゃ」






広島二中原爆慰霊碑

「原子爆弾が投下された当日、川内村の義勇隊と同じく、中島本町では広島二中(現:広島県立観音高校)の生徒たちも建物疎開作業に従事していました」

「生徒と職員は近くを流れる本川河岸に整列して訓示中に被爆、そのほとんどが即死で、306人の方が亡くなられたそうじゃ」






広島市商・造船工業学校慰霊碑

「原子爆弾が投下された当日、爆心地に近い材木町で建物疎開作業に従事していた市立造船工業学校の1年生195人、職員5人の方が亡くなりました」

「造船工業学校は、今の広島市立商業高校になるんじゃの」







「ここで平和公園から出て、100メートル道路を渡って南側へ…」







広島市立高女原爆慰霊碑

「原子爆弾が投下された当日、爆心地に近い材木町から木挽町あたりで建物疎開作業に従事していた広島市立高女(現:広島市立舟入高校)の1、2年生541人、職員10人、全員が亡くなりました」

「この学校では他の動員先を含めて676人が被爆死。これは市内の学校で最も多くの犠牲者になっとるそうじゃ」

「…この写真は?」

「お年寄りの方が碑の前でバイオリンを弾いておられたんじゃが、ええ音色じゃったんで、しばし聞きほれてしもうた」







旧天神町南組慰霊碑







友愛碑

「原子爆弾が投下されたとき、損害保険会社の多くが今の平和記念公園近くにあったため、約200人いた職員のうち、79人の方がその年の12月までに亡くなったといわれています」





↓平和記念公園とその周辺の慰霊碑・祈念碑については、こちら↓

「バーチャルツアー」広島平和記念資料館







広島県職員原爆犠牲者慰霊碑

「平和記念公園から本川に沿って南へ歩いて行くと、アステールプラザあたりに広島県職員原爆犠牲者慰霊碑がある」

「木造だった広島県庁舎は原爆で全焼。職員の多くは即死か倒壊物の下敷きとなったまま焼死し、1,100人の方が犠牲になりました」







原爆殉職職員慰霊碑

「爆心地から約1.5キロメートルのところにある広島赤十字病院では、職員51人の方が犠牲になりました。生き残った医師・看護婦たちによって、多くの被爆者に救護活動を行われました」

「2013年、病院の改築に伴って、病院内にあった慰霊碑は近くのメモリアルパークに移設されたんじゃ」

「原爆の子の像の佐々木禎子さんが入院していたのも、ここ日赤病院でした」







御幸橋

「爆心地から約2.3キロメートルのところにある御幸橋」

「元中国新聞社カメラマンの松重美人さんは、原子爆弾投下から3時間後の午前11時すぎ、ここ御幸橋で市民の惨状を撮影しました」







福屋

「福屋は1929年、広島県で初の百貨店として創業。建物は被爆建造物として今も残っています」

「8月6日は福屋にある映画館、八丁座で映画『この世界の片隅に』昼1時15分の回上映後、片渕須直監督の舞台挨拶があるので見に行ってきた」

「この映画の中で、すずさんが広島市内でスケッチする建物として描かれているのが、ここ福屋です」







「映画『この世界の片隅に』を観終わって外に出ると、雨が降っとった」

「あの日も、広島市内とその周辺で、放射能を帯びた「黒い雨」と呼ばれる雨が降りました」







縮景園原爆犠牲者慰霊碑

「戦後、縮景園を写した写真を手掛かりに1987年発掘調査が行われ、64柱の遺骨が発見されました。その場所にこの慰霊碑が建っています」

「縮景園は江戸時代、藩主・浅野家の別邸として整備され、大正時代から一般に開放されるようになった。戦争中は空襲時の避難先に指定されていたので、被爆直後には多くの被災者が逃れてきた場所でもあるんじゃ」







国鉄原爆死没者慰霊碑

「国鉄(現:JR)では職員400人以上の方が犠牲になったそうです」

「この碑は、中区東白島町、常葉橋西詰北側にある常盤公園内にあるんじゃ」





「それにしても、この日は暑かった」

「最初にも書いたが、この日の広島市中区の最高気温は37.0度で、今年一番の暑さじゃったけぇの」

「72年目、原子爆弾の被害から逃れるため、また原子爆弾に遭った人を探すため、こんな暑い日差しの中、たくさんの方が広島市内を彷徨っちゃったんじゃろうね」

「今じゃったら、暑いの~と思うたら、ビルの日陰にも入れるし、ビルに入れば冷房が効いとる」

「あのときは一面焼け野原じゃけぇ、日陰なんかもほとんどなかったじゃろう」

「歩くのがしんどうなりゃ、バスや電車、タクシーで移動することもできる」

「この日は、一部市内電車で移動したりしました」

「今回、途中で映画を観たりしたけぇ、合わせて6時間も歩いとらんが、足が棒になって、湿布を貼りまくらんと寝れんかったもんの」





訪問日:2017年8月6日





「今日は、72年目のヒロシマということで、広島市内にある慰霊碑について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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ヤマト対ハイジ対? 裏番組対決

2017年08月12日 | まんが・テレビ・映画
日曜夜7時30分

『宇宙戦艦ヤマト』、『アルプスの少女ハイジ』、『猿の軍団』

『お笑いオンステージ』






「NHKの『ラジオ深夜便』、今日(8月12日)午前3時台の「にっぽんの歌こころの歌」で、「1974年の放送楽曲集」があった」

「1974年いうたら、昭和49年。どんな番組があったかいね?」

「NHK大河ドラマ『勝海舟』、NHK朝の連ドラ『鳩子の海』、『寺内貫太郎一家』などが放送された年じゃ」

「おー、『寺内貫太郎一家』を放送しよったころか」

「アニメでは、『宇宙戦艦ヤマト』OP「宇宙戦艦ヤマト」(作詞:阿久悠、作曲:宮川泰、歌:ささきいさお)と、『アルプスの少女ハイジ』OP「おしえて」(作詞:岸田衿子、作曲:渡辺岳夫、歌:伊集加代子&ネリー・シュワルツ)の2曲が放送された」

「『ハイジ』ね、見たよ。というより、『大草原の小さな家』が大好きいう、うちのお父ちゃんが好きで見よったようなところもあるけど」

「わしが全話見たのは、『母をたずねて三千里』『ペリーヌ物語』くらいかの」

「うちは、『若草物語 ナンとジョー先生』くらいまで見よったよ」

「『ヤマト』と『ハイジ』は、日曜の夜7時30分から放送されとった」

「ありゃ、『ヤマト』は『ハイジ』の裏番組じゃったっけ?」

「ほうなんよ。『ハイジ』の高視聴率おかげで裏番組の『ヤマト』の視聴率が低迷、26話で打ち切りになった、というウワサもあるんじゃ」

「へぇ」

「いうても、『ヤマト』の放送が1974年10月6日~1975年3月30日で、『ハイジ』の放送が1974年1月6日~12月29日じゃけぇ、厳密にいうと『ヤマト』と『ハイジ』は3か月しか重なっとらんのじゃ」

「『ハイジ』の次は『フランダースの犬』じゃったね」

「そういう意味では、『ヤマト』は『フランダースの犬』にも負けたともいえる」

「今のように、テレビが複数台あったり、録画できたり、ネットで見れたりするような時代じゃなかったけぇね」

「あのころは、テレビは一家に一台じゃったもんの」

「うちの家は、なんの問題もなく『ハイジ』を楽しんどったよ」

「『ヤマト』と同じ時期には、裏番組で『猿の軍団』も放送されとって、男子の間では、ヤマト派と猿の軍団派に分かれとったんじゃ」

「『猿の惑星』?」

「『猿の惑星』はアメリカの映画。『猿の軍団』は円谷プロが製作したSF番組」

「なるほど」

「余談じゃが、『猿の軍団』に続いて、夜8時からは『日本沈没』が放送されとった。余談ついでに、どちらも原作はSF作家の故・小松左京(こまつ さきょう)さんなんじゃの」

「そうか、「終末ブーム」があったころじゃったね」

「『ノストラダムスの大予言』なんかが流行したころで、『ヤマト』もこの影響を受けて製作されとるんじゃ」

「お父さんは、どっち見よったん?」

「第1話は『猿の軍団』を見たんじゃが、特撮がなんか安っぽく見えて、やめた」

「ということは、『ヤマト』を見よったん?」

「そう思うじゃろ? わしも『ヤマト』を見たかったんよ。ところが、この時間帯にはもっと強力な裏番組があったんじゃ」

「『ハイジ』『ヤマト』『猿の軍団』のほかにも、まだあった?」

「コメディアンの故・三波伸介(みなみ しんすけ)さんが主演を務めたバラエティ番組『お笑いオンステージ』」

「『お笑いオンステージ』? 聞いたことないね~」

「コメディ「てんぷく笑劇場」と、ゲストとのトークショー「減点パパ」の2部構成じゃった。『コメディーお江戸でござる』のような感じの番組と想像してもろうたらええかの」

「へぇ」


♪ご存じてんぷく笑劇場 どんな騒ぎが起こりますやら お楽しみ~


「「てんぷく笑劇場」も面白かったし、「減点パパ」では三波さんがゲストの子どもから似顔絵を描いていくんじゃが、これがまた上手で、子どもでも見て飽きることがなかった」

「あぁ、分かった。このころは一家の主であるお父さんがテレビのチャンネル権を持っとるけぇ、子どもは黙って『お笑いオンステージ』を見るしかなかったと」

「もちろん、『お笑いオンステージ』が終わると同時に、チャンネルを変えて『ヤマト』を見よったんじゃがの」

「いうても、番組はほとんど終わっとるじゃん」

「「急げヤマト。人類絶滅の日まで、あと〇〇日しかないのだ」のナレーションと、「地球滅亡まであと〇〇日」のテロップだけを見て、あとはEDを聞いて終わり」

「むかしの子どもたちは、それで我慢しとったんよね」

「松本零士(まつもと れいじ)さんが月刊誌「冒険王」に、聖 悠紀(ひじり ゆき)さんが月刊誌「テレビランド」に連載マンガを描かれとったけぇ、テレビで見れん分はこれで補完しとったんじゃの」





↓NHK『ラジオ深夜便』については、こちら↓

「ラジオ深夜便」NHK





↓『猿の軍団』については、こちら↓

「円谷プロのSFドラマ「猿の軍団」が放送から40年を経てDVD-BOX化。キャストが特典で再会」AV.Watch





↓『お笑いオンステージ』については、こちら↓

「お笑いオンステージ」NHKアーカイブス





「今日は、今から53年前の1974年に放送された『宇宙戦艦ヤマト』の裏番組、『アルプスの少女ハイジ』、『猿の軍団』、『お笑いオンステージ』について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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2017年8月5日 平和記念公園

2017年08月06日 | 広島の話題
2017年8月5日

平和記念式典準備の様子

広島平和記念公園








「今日、2017年8月6日は、広島市中区の平和記念公園で平和記念式典が行われます」

「今から72年前の1945年8月6日、アメリカ軍が原子爆弾・リトルボーイを広島に投下したんじゃ」

「あの日も暑かったそうじゃけど、今日も暑い1日になりそうなね」

「明日、月曜には台風5号が近づいて、大雨になりそうな気配じゃが」

「娘は泳ぎに行く予定を立てとったんじゃけど、ちょっと…」

「無理かもしれんよのう」









「何年前からかは忘れたが、会場には天幕が張られるようになった」

「平和記念式典が行われるのは午前8時からじゃけど、この時点でも暑いけぇね」







「これは?」

「NHKや民放のテレビやラジオがここから放送をしてのようじゃ」

「どっちを向いとるん?」

「向かって左が東、右が西。西を向いて座るようになっとるんじゃの」

「しかも東側には木があるけぇ、日よけになるっとるね」

「いうても、ここも暑いじゃろうの」







「ここから今年も平和宣言が出される」

「そういや、平和記念式典はいつから行われとるんかね?」

「原爆が投下された翌年、1946年8月5日に平和復興広島市民大会が行われたそうじゃ」

「へぇ、そのころからやっとってんじゃ」

「原爆投下から2年後の1947年は、8月5日から7日にかけての3日間、第1回目となる平和祭が行われた。黙とう、平和の鐘、平和宣言、平和の歌の合唱など、今の平和記念式典の基本となるものが、このときからすでに行われとるんじゃの」

「ふーん。でも、そのころの日本は、まだ占領されとったころじゃろ?」

「ほいじゃけぇ、連合軍最高司令官・マッカーサーのメッセージも読み上げられたということじゃそうな」







「原爆死没者慰霊碑は1952年、世界最初の原子爆弾によって壊滅した広島市を、平和都市として再建することを念願して設立されました」

「この碑は、広島平和記念資料館と原爆ドームを結ぶ直線上に設置されとる。ほいじゃけぇ、奥には原爆ドームが見えるんじゃ」







「原爆の子の像は1958年、佐々木禎子(ささき さだこ)さんをはじめ原爆で亡くなった多くの子どもたちの霊を慰め、世界に平和を呼びかけるために建立されました」

「ここが一番、人が多かったかもしれんのう」







「去年、2016年にユネスコの世界遺産登録から20年を迎えた原爆ドーム」

「今はそう呼ばれとるが、今から102年前の1915年8月5日、広島県物産陳列館として開館したんじゃの」

「この建物の正面玄関は、道路じゃのうて、目の前を流れる元安川(もとやすがわ)に向いとるんよ」

「1915年いうたら、大正4年。日本ではまだ自動車が普及しとらんかったし、広島の市内電車も1912年に開業したばかり」

「物を運ぶのは船に頼っとったころじゃね」

「川船で運んできた物資を雁木から揚げて、陳列館に運び込んでいたということじゃ」







「その陳列館の敷地内には和式庭園と洋式庭園があって、洋式庭園には6本の柱から水が出る噴水があったそうじゃ」

「原爆ドーム敷地内に残るこの柱が、それなんじゃね」







「広島の中心部にある地下街・シャレオには、安田女子大学・書道学科の書道パフォーマンスが展示してあった」

「五・七・五・七・七…、短歌じゃね。全部でいくつ書いてあるん?」

「全部で9首書いてあった」

「なんか、『この世界の片隅に』を題材にしたような短歌の感じがするね」

「そうじゃろ。わしもそう感じたんじゃが、中に「テレビ中継」という言葉が詠うてあって、なーんか、迷うてしもうたんじゃ」

「それは、生き残ったすずさんが、テレビ中継で平和記念式典を見た時のことを詠うとってんかもしれんよ」





↓平和記念式典については、こちら↓

「平和記念式典(広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式)の概要」(広島市)





訪問日:2017年8月5日





【参考文献】

(広島市総務局公文書館『被爆50周年図説戦後広島市史 街と暮らしの50年』(1996年3月)





「今日は、午前8時から平和記念式典が行われる平和記念公園と原爆ドームについて話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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