通でがんす

いろんな広島を知って、ひろしま通になりましょう!
(旧ブログタイトル:通じゃのう)

少年時代の徳川家康

2023年01月08日 | まんが・テレビ・映画
今から48年前の1975年(昭和50)は、
わしが小学6年の時で、
山陽新幹線の岡山駅-博多駅間が開通して
広島駅に新幹線口ができ、
広島東洋カープが球団初の
リーグ優勝を果たした年じゃ。

NHKでは人形劇『真田十勇士』
(1975年4月から1977年3月)が始まり、
学校で歴史の授業が
始まったこともあって、
日本の歴史、特に戦国時代に
興味を持つようになったんじゃの。

『真田十勇士』から、
真田幸村(さなだ ゆきむら)=
滅びゆく豊臣家に、
それでも忠義を尽くして戦う
日本一の兵(ひのもといちのつわもの)、
徳川家康(とくがわ いえやす)=
ずる賢(がしこ)いタヌキ親父、
というイメージを植えつけられた。

そんな家康のイメージを、
正しい方向に修正してくれたのが、
同じ時期に放送が始まった
アニメ『少年 徳川家康』
(1975年4月から同年9月)じゃった。



↓NHK人形劇『真田十勇士』については、こちら↓

「真田十勇士」NHK放送史



↓アニメ『少年 徳川家康』については、こちら↓

「少年徳川家康」東映アニメーション



今日は、
少年時代の徳川家康
についての話でがんす。



戦国時代まっただ中の
天文11年(1542)、
徳川家康は、三河国(みかわのくに。
現:愛知県)岡崎城の城主・
松平広忠(まつだいら ひろただ)の
嫡男(ちゃくなん。あととり)
として生まれる。

幼名(ようみょう。
元服するまでの名前)を
竹千代(たけちよ)という。

以後、家康を
竹千代と表記していきます。




(「戦国大名の勢力変遷マップ」『歴史人 2022年10月号』ABCアーク 61ページ)

このころの三河は、
東を今川義元(いまがわ よしもと)、
西を織田信秀(おだ のぶひで。
織田信長の父)に押さえられていた。

松平広忠は、松平家と友好関係にあり、
同じく今川家に従っていた
水野忠政(みずの ただまさ)の娘、
於大の方(おだいのかた)と結婚する。

ところが、忠政を継いだ
於大の兄・信元(のぶもと)は
織田家に従うことにしたため、
広忠は於大の方と
離縁(りえん。離婚)。

竹千代はわずか3歳で
母と別れることとなった。

広忠はその後、三河の武将
戸田康光(とだ やすみつ)と手を組み、
その娘・真喜姫(まきひめ)と再婚する。


天文16年(1547)、
今川家との同盟関係を強化するため、
広忠は、6歳になった竹千代を
人質として差し出すことに。

ところが、康光の裏切りにより、
今川家に送られるはずの竹千代は
織田家に送られた。

この件については最近、
竹千代は最初から
織田家へ人質に差し出された
という説が出されている。

天文18年(1549)、
織田家と今川家との間で
人質交換が行われ、
8歳になった竹千代は
今川家の人質となる。

こうして、竹千代は
6歳から19歳までの青少年時代を
人質として過ごすことになった。


その間の天文24年(1555)、
竹千代は元服(げんぷく。
男子が成人になること)、
今川義元から「元」の字をもらい
松平元信(もとのぶ)と名乗る。

のち、祖父の松平清康(きよやす)
から「康」の字をもらい
松平元康(もとやす)と名乗った。

ここで整理しておくと、
松平竹千代→元信→元康
と名前が変わっているが、
まだ徳川家康まで
たどりついていない。

弘治3年(1557)には、
義元の姪にあたる
築山殿(つきやまどの。
瀬名(せな)とも)と結婚している。


永禄3(1560)年、
桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)
で、織田信長が今川義元を討ち取る。

この戦いの後、元康は
父・広忠が暗殺されて以来、
今川家のものとなっていた
岡崎城を取り戻した。


アニメ『少年 徳川家康』では、
ここまでが描かれていたと記憶する。

ついでなので、
竹千代から元信、元康と名を変えた後、
徳川家康になるまでの話をしておこう。


今川義元亡き後の永禄4年(1561年)、
元康は水野信元の仲介もあって
織田信長と同盟を結ぶ。

永禄6年(1563)、
信長と同盟を結んだことで
今川家との縁が切れた元康は、
義元の「元」の字を捨てて
松平家康と名を改めた。

永禄9年(1567)、
朝廷からの許しを得て、
姓を徳川と改める。


こうして、今も知られる
徳川家康という名前が誕生した。



以下、余談。


アニメ『少年 徳川家康』では
於大の方(おだいのかた)、
後番組の『一休さん』では
伊予の局(いよのつぼね)、
ともに母親が重要な役割を果たしていた。

於大の方は、竹千代と分かれた後も
竹千代のことが気になったらしく、
着物やお菓子などを送り届けた
という話が何度かあった、
と記憶する。



以下、さらに余談。


このアニメの作曲を担当された
渡辺岳夫(わたなべ たけお)さん
は、『少年 徳川家康』について
次のように語っておられます。




(監修:手塚治虫、編集:田代敦巳『アニメ・ソング・ヒット全集 第2集』徳間書店 1979年 170ページ)


おとなものの「徳川家康」を1年半
というのは、
『少年 徳川家康』より10年ほど前に
NET(現:テレビ朝日)で放送された
『徳川家康』(1964年7月から
1965年10月、原作:山岡荘八、
徳川家康役:北大路 欣也)のこと。



↓渡辺岳夫さんについては、こちら↓

渡辺岳夫ホームページ



以下、もひとつだけ余談。


アニメ『少年 徳川家康』の
エンディングテーマ「いつか春が…」
には、こんな一節がある。


生まれた時から 重荷を背負って
遠くへ行くのが 男だよ

(作詞:伊丹 亮一郎)



東照公御遺訓(とうしょうこうごいくん)
の一部、

人の一生は重荷(おもに)を負(お)いて
遠き道をゆくが如(ごと)し
急ぐべからず


が織り込まれている。



↓『少年 徳川家康』の主題歌については、こちら↓

「少年徳川家康」YouTube



↓東照公御遺訓については、こちら↓

「御遺訓」久能山東照宮



今日は、
少年時代の徳川家康
について話をさせてもろうたでがんす。


ほいじゃあ、またの。
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漫画「ドラえもん」連載開始(1970年1月号~)

2023年01月06日 | まんが・テレビ・映画
以前、小学館の学年誌100年
について話をさせてもろうた。



↓小学館学年誌の100年についての関連記事は、こちら↓

小学館 学年誌の100年



これから何回かに分けて、
わしが小学生のころ
小学館の学年誌に掲載されていた
漫画について話をしていこう
と思うとります。

わしと同じ、1963(昭和38)年生まれの人
限定の話になることもあるかと思うが、
あのころはあんな漫画があったんじゃの
と想像しながら読んでみてくださいや。



今日は、
1970年1月号から連載が始まった
漫画「ドラえもん」
についての話でがんす。



漫画「ドラえもん」は、
今から43年前の
1970(昭和45)年1月号から、
『よいこ』『幼稚園』
『小学一年生』『小学二年生』
『小学三年生』『小学四年生』
の6誌で連載が始まった。

わしは、この年の春に小学校へ
入学したので、1月号はまだ
『幼稚園』を読んどった。

ほいじゃけぇ、ドラえもんは
連載開始当初から読んでいた
ことになるんじゃの。






(藤子・F・不二雄『ドラえもんカラー作品集 第5巻』てんとう虫コミックスペシャル 2005年 158・159ページ)


藤子・F・不二雄
(ふじこ・エフ・ふじお。
当時は「藤子 不二雄」名義)先生
のすごいところは、
同じ作品を載せることをせず、
『幼稚園』は幼稚園児向けに、
『小学四年生』は小学4年生向けにと、
絵柄も内容も描き分けていたことじゃ。

わしが小学4年になった
1973年4月号からは、
『小学五年生』『小学六年生』でも
連載が始まった。

こうして、わしの小学校生活は、
ドラえもんとともに過ごした
ことになるんじゃの。



↓ドラえもんについては、こちら↓

ドラえもん公式サイト ドラえもんチャンネル



以下、余談。


ドラえもんのアニメは、
1973(昭和48)年から日本テレビ系列で
放送されたものを観よった。



↓1973年版ドラえもんについては、こちら↓

「封印された幻のドラえもん「日本テレビ版」OPとED」YouTube



1979(昭和54)年4月から
テレビ朝日系列で放送された
2作目も観とったが、
このころは、わしも高校1年生。

テレビシリーズより、
「のび太の恐竜」(1980年)
「のび太の宇宙開拓史」(1981年)
といった映画作品と、
藤子先生の手による
「大長編ドラえもん」
(『月刊コロコロコミック』連載)
を読む方が楽しみじゃった。



今日は、
1970年1月号から連載が始まった
漫画「ドラえもん」
について話をさせてもろうたでがんす。


ほいじゃあ、またの。
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東照公御遺訓参道

2023年01月03日 | 見て歩き
今年(2023年)の初詣は、
NHK大河ドラマで
『どうする家康』をやることもあって、
家康を祀(まつ)る
広島東照宮へ参ってきた。




東照宮の山側には、
境内社(けいだいしゃ)の
金光稲荷神社
(きんこういなりじんじゃ)
があって、本社から奥宮(おくみや)
までの参道には、
東照公御遺訓参道が設けられている。

東照公(とうしょうこう)は家康のこと、
遺訓(いくん)は、
亡くなった人の残した教え、
父から子への教訓
という意味があるんじゃの。



↓『どうする家康』については、こちら↓

「大河ドラマ どうする家康」NHK



↓広島東照宮については、こちら↓

「広島東照宮」広島県広島市の神社 公式サイト



今日は、
東照公御遺訓参道
についての話でがんす。



金光稲荷神社から
東照公御遺訓参道を登っていくと…、




ひとつ、




ふたつ、




みっつ、




よっつ、




いつつ。

東照公の残された御遺訓が
本社から奥宮の間に
5つに分けて設置されている。



↓東照公御遺訓については、こちら↓

「御遺訓」久能山東照宮



以下、余談。




絶景かな、絶景かな。

奥宮からも広島市内を一望できるが、
その上にある大岩からは、
さらに眺めがええ(=良い)。

下に見えるのが、
奥宮の屋根。




広島湾に浮かぶ似島(にのしま)や、




ユネスコ世界遺産に登録された
厳島神社(いつくしまじんじゃ)のある、
宮島(みやじま)を眺めることができる。




奥宮からさらに登っていくと、
二葉山(ふたばやま)山頂に
仏舎利塔(ぶっしゃりとう)がある。




ここからは広島駅北口が見えるし、




広島駅北口からも、
仏舎利塔が見えるんじゃの。



訪問日:2023年1月1日



今日は、
東照公御遺訓参道
について話をさせてもろうたでがんす。


ほいじゃあ、またの。
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2023年初詣~広島東照宮

2023年01月02日 | 見て歩き
今年(2023年)のNHK大河ドラマは、
江戸幕府を開いた
徳川家康(とくがわ いえやす)
が主人公の『どうする家康』。

そこで、今年の初詣は
家康を「東照大権現(とうしょう
だいごんげん)」として祀(まつ)る
広島東照宮(とうしょうぐう)へ
行ってきた。



↓『どうする家康』については、こちら↓

「大河ドラマ どうする家康」NHK



↓広島東照宮については、こちら↓

「広島東照宮」広島県広島市の神社 公式サイト



今日は、
広島東照宮
についての話でがんす。



広島東照宮は、
広島駅の北口(エキキタ)
二葉の里(ふたばのさと)にある。




石鳥居の向こう側に、
唐門(からもん)へ続く石段が見える。




石段を登って唐門をくぐると…、




右手に十二支の説明板がある。

今年は卯(うさぎ)年じゃの。




昭和38(1963)年生まれは…、
ゲゲッ!
今年は本厄(ほんやく)か!!




ほいじゃが、
本殿でお参りをすませたあと、
おみくじを求めると、
運勢は大吉じゃった。

よし、今年も
ええ(=良い)年にするで!



以下、余談。


最初に書いたとおり、
家康を祀ったのが広島東照宮。

家康の33回忌にあたる
慶安元(1648)年に、
広島浅野藩の2代目藩主
光晟(みつあきら)が、
広島城の鬼門(きもん。北東の方角)
にある二葉山(ふたばやま)の
山ろくに造ったものじゃ。

これは、光晟の生母が、家康の三女
振姫(ふりひめ)であったことと、
幕府への忠誠を示すためといわれとる。

家康の50回忌にあたる
寛文6(1666)年には
祭礼(通り御祭礼)が盛大に行われ、
以後、祭礼は50年ごとに行われた。

最近では、
2015年にも行われとるんじゃの。



↓2015年の通り御祭礼についての関連記事は、こちら↓

通り御祭礼 還御行列(その1)

通り御祭礼 還御行列(その2)

通り御祭礼 還御行列(その3)



訪問日:2023年1月1日




今日は、
広島東照宮
について話をさせてもろうたでがんす。


ほいじゃあ、またの。
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最初は音楽だけだった~アニメ『鉄腕アトム』オープニング

2023年01月01日 | まんが・テレビ・映画
あけまして おめでとうございます。

昨年は大変お世話になり、
ありがとうございました。

本年も どうぞよろしく
お願い申し上げます。



今年は2023年。

1963年生まれのわしゃ、
今年で60歳、
還暦(かんれき)を迎えるんじゃの。

…というわけで、今年は
わしが生れたころ、
昭和にあったことを中心に
取り上げていく予定じゃ。

最初は、60年前にテレビ放送が始まった
アニメ『鉄腕アトム』について。



♪空をこえて ラララ 星のかなた
ゆくぞ アトム ジェットの限り

(「鉄腕アトム」
作詞:谷川 俊太郎
作曲:高井達雄)


『鉄腕アトム』の主題歌は、
昭和世代の方でなくとも
一度は耳にしたことがある歌じゃろう。

アトムは今から60年前の
1963(昭和38)年1月1日夜6時15分、
フジテレビ系で放送が始まった。

しかし、その第1話の
オープニングは音楽だけで
♪空をこえて…の歌は流れなかった、
というのはご存じじゃろか?



↓テレビアニメ『鉄腕アトム』については、こちら↓

「鉄腕アトム(1963)/手塚プロダクション公式チャンネル」YouTube



今日は、
作曲家の
高井達雄(たかい たつお)さんと
「鉄腕アトム」についての話でがんす。



高井さんは1933(昭和8)年、
神戸市生まれ。

作曲家の
神津善行(こうづ よしゆき)さん、
歌手の
菅原洋一(すがわら よういち)さん
らとともに
国立(くにたち)音楽大学で学ぶ。

在学中から、
舞台やテレビの音楽を手がける。

漫画の神様と呼ばれた
手塚治虫(てづか おさむ)さんは、
虫プロ最初の作品として、
アニメ『ある街角の物語』を制作。
(1962年。38分。カラー・ワイド)

高井さんはこの作品の音楽を担当、
手塚さんと話し合いを重ねて
フィルムに音楽をつけていった。



↓『ある街角の物語』については、こちら↓

「ある街角の物語」手塚治虫 TEZUKA OSAMU OFFICIAL



手塚さんは、
『ある街角の物語』と並行して
『鉄腕アトム』も制作していたが、
気に入った音楽にめぐりあえないでいた。

オンエア前に行われた
虫プロ作品発表会では、
手塚さんの気に入った音楽を
BGMとして使うことで
その場をしのいだという。

困った手塚さんは
高井さんに音楽の制作を依頼するが、
『ある街角の物語』で忙しかった
高井さんは、これを断った。

『ある街角の物語』が完成したあと、
高井さんのところに
手塚さんから連絡があった。

「(ある街角の物語が終わったので)
今は手が空いてるでしょ?」

連絡を受けたのは夜だったが、
高井さんは手塚プロへ向かう。

話を聞くと、
アトムの音楽をほかの人に
作ってもらったが、気に入らない。
ぜひ、高井さんにやってもらえないか
というものだった。

パイロット版を観ていた高井さんは、
アトムの音楽を引き受けることにした。

「いつまでに作ればいいですか?」

「明日の朝までにお願いします」

翌朝10時にテレビ局やスポンサー
代理店との打ち合わせがあるから、
それまでに3案持って来て欲しい
という、無茶な依頼だった。

これを引き受けた高井さんは、
帰りの電車の中で1曲(A案)完成させた。

自宅で作った2曲(B案・C案)を手に
手塚プロへ。

予定の時間より早く着いたので、
先に手塚さんに見せると
手塚さんはA案が気に入った。

しかし、打ち合わせでは
B案かC案が優勢だった。

そのまま
B案かC案で決まりそうな感じだったが、
A案を推す手塚さんが、
「これ(A案)がダメなら、
アトムは他のスポンサーに持っていく」
と言い切った。

打ち合わせに参加した人たちは慌てて、
「先生がそこまで言うのなら……」
ということで、A案に決まったという。

もちろん、A案で評判が悪かったら
B案かC案に変えるという条件付きで。

こうして
アニメ『鉄腕アトム』主題歌が作られ、
テレビで放送された。



以下、余談。


「鉄腕アトム」は、
なぜA案でなく
B案かC案が支持されたんじゃろか?

打ち合わせに参加した人たちは、
音楽に疎(うと)い人ではなく
ちゃんと譜面が読める人で、
そんな彼らが心配したのは、
シンコペーションの問題じゃったそうな。

シンコペーションって、
なんじゃろか?



(監修:手塚治虫、編集:田代敦巳『アニメ・ソング・ヒット全集 第1集』徳間書店 1979年 11ページ)

たとえば、出だし部分の
ター、ター、タッ、ター、タッ、ター
(そー、らー、を、こー、え、てー)。

「ター」のところは4分音符で、
「タッ」のところは8分音符になっとる。

つまり、「ター」を「1」とすると、
「タッ」はその半分の「1/2」になる。

そうなると、本来なら「を」のところに
アクセント(強い音)がくるのが、
「こ」のところに
アクセントがきてしまうんじゃの。

今ではふつうかもしれないが、
60年前の子ども向けの歌に
これを使ったものは
ほとんどなかったという。

なかったということは、
子どもたちが歌えない。

子どもたちが歌えないものを
主題歌として採用するわけにはいかない。

というわけで、
子ども向け番組の『鉄腕アトム』で
A案を使うことに反対した
というわけなんじゃの。

しかし、
高井さんはこう語っておられる。


僕はわざと難しいことをしようとしたわけではありません。ただ、リズム感があって、アトムは空を飛ぶから〝上がっていくような感じ〟がいいと思ったんです。

(「「鉄腕アトムのテーマ」は、別の曲に差し替えられる予定だった~作曲者・髙井達雄氏が語る誕生秘話」現代ビジネス 講談社)



高井さんのその想いを
理解していた手塚さんは、
A案で押し通されたと思うんでがんす。



以下、さらに余談。


高井さん、広島で思い出すのが、
広島初の百貨店として
1929(昭和4)年に創業した
福屋(ふくや)のテーマソング
「ララ福屋」。

この歌は1969(昭和44)年、
創業40周年記念として作られたもので、
歌っているのは歌手の
森山良子(もりやま りょうこ)さん。

わしがこまい(=小さい)ころ、
食卓では毎朝、RCCラジオが流れとって、
朝の情報番組「おはようラジオ」では
かならずこの歌が流れとった。

ほいじゃけぇ、
この歌は諳(そら)で歌えるぞ。



↓「ララ福屋」については、こちら↓

「ララ福屋(フルコーラスバージョン)」YouTube



↓福屋については、こちら↓

広島の百貨店 福屋



今日は、
作曲家の高井達雄さんと「鉄腕アトム」
について話をさせてもろうたでがんす。


ほいじゃあ、またの。
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