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貴重な証言 被爆者の聞き取りテープ見つかる 広島市

2011年05月30日 | 広島の話題
「今年で、原爆が投下されて66年になるんじゃね」

「被爆者の高齢化が言われて久しいのう」

「原爆のことを、何らかの形で受け継いでいかんといけんよね」

「今回、1960~70年代に、被爆者から聞き取りをしたテープ161本が見つかったそうじゃ」



社会学者で、広島大教授を務めた故湯崎稔さんが1960~70年代に爆心地から500メートル以内の被爆者や元住民の暮らしぶりなどを聞き取ったテープ161本が、広島市内に保管されていた。
貴重な「証言」は、被爆前の街並みと暮らしをコンピューターグラフィックス(CG)で復元する事業に生かされる。

テープは、湯崎さんが原爆被害の全体像を浮かび上がらせることや、爆心地の暮らしぶりを掘り起こすため、100人以上から聞き取った。

テープの一部は同大原爆放射線医科学研究所(原医研)の被爆者健康調査で使われたが、大半は未公開のまま眠っていた。
その存在を、爆心地から半径1キロをCGで復元しようと取り組む映像制作会社社長田辺雅章さん(73)=西区=が知り、共同研究者だった鎌田七男元所長(74)に貸し出しを頼んだ。

1年かけてテープ起こしをし、証言者の被爆場所の特定や当時の状況などを分析。
存命の被爆者から聞き取りをするという。
田辺さんは「被爆後20~30年の肉声がこれだけまとまって残るテープは第一級資料。湯崎さんの遺志を継ぎ、映像でよみがえらせたい」と話している。

(「爆心周辺の肉声、録音で残る」中国新聞 2011年5月25日)




「湯崎稔氏は、爆心地から500メートル以内の被爆者や元住民100人以上から聞き取りをされたんじゃの」

「湯崎さんは、湯崎英彦広島県知事のお父さんだそうです」

「爆心地から500メートルいうたら、旧中島地区も含まれとるよのう」

「旧中島地区いうたら、戦前までは繁華街じゃたんよね」

「テープを貸してもろうた田辺氏は昨年、旧中島地区の元住民の証言を元にしたCG作品『ヒロシマからの伝言~原爆で失ったもの~』を完成させとってんじゃ」

「昨年の5月には、国連で上映されたんよね。次回作で、この証言を生かしてんじゃ」

「田辺氏は、外国人記者から「原爆が落ちた近くが公園だったから良かったですね」と言われたことがあるそうじゃ」

「うちも、むかしから公園じゃと思うとったんよ」

「実は、わしもそうなんじゃがの」

「旧中島地区は、原爆でみんな焼けてしもうたんよね」

「今でも残っとる建物といえば、元安橋(もとやすばし)の西側にあるレストハウス(旧「大正屋呉服店」)くらいじゃのう」



↓旧中島地区については、こちら↓

「中島町(広島市)」ウィキペディア





「今回見つかったテープは、貴重な一次資料でもあるんじゃ」

「一次資料って、何?」

「オリジナル。元になる文献やデータのことじゃ。論文を書く時は、「他人が調べた結果(二次資料)を見るだけじゃのうて、必ず一次資料に当たれ」と言われるよのう」

「ということは、このブログは三次資料になるんじゃね」

「ま、それはこっちに置いとって…。今回の証言テープには、それぞれの名前があって、それぞれの人生がある、1人1人の人間の言葉が残されとるんじゃろうの」

「これらの証言を集めるのも、大変じゃったじゃろうね」

「話したくないと言われる方も、たくさんおってじゃったろうけんの」

「このテープも、何らかの形で聞けるようにして欲しいね」

「田辺氏は、「あの日の出来事を忘れたとき、再びあの日が繰り返される」と発言されとってんじゃ」

「そのとおりじゃね。うちらも、できる形で語り継いでいかんといけんね」



↓広島平和記念資料館については、こちら↓

広島平和記念資料館WEBSITE



↓国立広島原爆死没者追悼平和祈念館については、こちら↓

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館




「今日は、被爆者の暮らしぶりなどを聞き取ったテープについて話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」

日本初の私立美術館 観古館 広島市中区

2011年05月29日 | 広島の話題
「昨日は、県立美術館の特別展「復興への願いを込めて」について話をしたよの。今日は戦前、県立美術館があった場所に建てられとった、観古館(かんこかん)についての話じゃ」

「「かんこ」って、どういう字を書くん? 「閑古鳥(かんこどり)が鳴く」の「閑古」じゃないよね?」

「人が集まる場所に、そんな不景気な名前をつけてどうするんや。観光の「観」に、古いの「古」で、「観古館」じゃ」

「古いものを観る、というわけじゃね。ということは、観古館は博物館か美術館じゃったん?」

「美術館じゃったんよ。一般には、1917年(大正6)に東京に建てられた大倉集古館(おおくらしゅうこかん)が、一番古い私立美術館と言われとるんじゃ。観古館は、それよりも4年早い1913年(大正2)、縮景園(しゅっけいえん)内に建てられたんよ。ほいじゃけん、日本初の本格的な私立美術館と言えるんじゃ」

「縮景園いうたら、もともとは、広島藩主・浅野家の庭園じゃったよね」

「江戸時代は「泉邸(せんてい)」と呼ばれとったんよの」

「ということは、浅野家に伝わる絵や書なんかを飾っとっちゃったん?」

「ほうじゃのう。さっき私立美術館と言うたが、浅野家が所蔵する書画や武具、茶器などを展示されとったそうじゃ。入場は無料で、経費は浅野家が負担されとったそうじゃ」

「太っ腹じゃねぇ。お客さんは入ったんかね?」

「1924年(大正13)には、1年間で47,861人が来館されたそうじゃ」

「へぇ」



↓縮景園については、こちら↓

名勝 - 縮景園



↓大倉集古館については、こちら↓

大倉集古館



↓「復興への願いを込めて」についての関連記事は、こちら↓

新たな一歩 「復興への願いを込めて」展 広島県立美術館





「1939年(昭和14)、浅野家が観古館を縮景園と一緒に広島県に寄付されたんよ。といっても土地と建物だけで、観古館に展示されとった美術品は別じゃが。1944年(昭和19)には「郷土館」と名前を変えたんじゃ」

「1945年(昭和20)8月6日に原爆が投下されたよね」

「それで、すべて焼けてしもうたんじゃ」

「県立美術館が今の場所にあるというのは、観古館があったその流れじゃね」

「観古館があった場所に、1960年(昭和35)に県立図書館が、1968年(昭和43)に県立美術館が建設されたんじゃ」

「県立図書館いうたら、今は中区千田町(せんだまち)にあるじゃん」

「あれは、1988年(昭和63)に移転したんよ。ほいで、旧県立美術館と旧県立図書館の跡地に、1996年(平成8)、今の県立美術館新館が建設されたんじゃ」

「そんな歴史があったとは知らんかったね」



↓県立図書館については、こちら↓

来(ら)いぶらりネット@ひろしま 広島県立図書館





「ところで、観古館の物が、何か残っとらんのかね?」

「観古館にあった門が、三次市(みよしし)の塩町中学校の正門に使われとるそうじゃ」



被爆した一対の石柱は約六十キロ離れた広島県北の三次市の塩町中学校にあった。
縮景園内の観古館の門だった石柱は今、校門として再利用され、生徒を見守っている。

花こう岩製の柱は高さ約三・五メートル、一辺四十五センチの角柱。
旧広島藩主、浅野家の宝物を納めていた観古館の門にふさわしく、上部には重厚な装飾が施してある。

一九七一年、塩町中が現在地に新しく校舎を建てた際、校門もできた。
その時、石柱が校門に転用されたことを示す記録が同校に残る。

なぜ三次にあるのか。ある人は「当時の教育関係者が今度、いい門が広島から来ると話していた」と言い、別の人は「三次に広島藩の支藩があったことと関係あるのでは」と推測する。
今でははっきりした経緯は分からない。

被爆に耐えた石柱は黒ずんだ部分があるものの風格を漂わせる。
同校の瀬尾匠史教頭(49)は「生徒たちにとって、原爆の悲惨さを身近に感じられる遺物。しっかり学んでほしい」と願っている。

(「縮景園の8・6 4:石柱漂流 県北の地で生徒見守る」中国新聞)




「石柱は、原爆に耐えたんじゃね」

「縮景園は、爆心地から約1.35キロメートルなんじゃ。石じゃけん、焼けずに残ったんじゃろうの」

「三次に支藩があったっけ?」

「江戸時代の一時期、三次藩というのがあったんじゃ」

「あぁ、忠臣蔵に出てくる浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の奥さんの阿久利(あぐり)姫が、三次藩の方じゃったよね」



↓塩町中学校については、こちら↓

三次市立塩町中学校



↓阿久利姫についての関連記事は、こちら↓

三次義士祭が行われた、三次市にある寺の名前は?





「今日は、観古館について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」

新たな一歩 「復興への願いを込めて」展 広島県立美術館

2011年05月28日 | 広島の話題
「県立美術館でやっとる特別展「復興への願いを込めて」を見に行ってきたで」

「あれって、本当は別の展示が予定されとったんじゃろ?」

「モネやルノワール、ミレーなどの作品を集めて展示する「印象派の誕生」展というのを、4月5日(火)から予定しとったんよ。ところが、フランス政府が国内の美術館に日本へ作品を送るのを見合わせるよう通達したけん、中止になったんじゃ。なんせ、展示作品のうち約6割をフランスの美術館から貸してもらう予定じゃったけんの」

「原発事故のせいじゃね」

「ほいで急遽(きゅうきょ)、県立美術館が所蔵する作品を展示する「復興への願いを込めて」を、4月21日(木)からやっとってんじゃ。もちろん、収益の一部を義援金に充ててんじゃそうな」

「こういう支援の方法もあるんじゃね」





↓広島県立美術館については、こちら↓

広島県立美術館





「中止が決まって1カ月くらいで、新たな企画で展示会ができるもんなんじゃね」

「県立美術館の越智館長は、16年前の阪神淡路大震災で被災されたそうじゃ。それもあって、今回の展示会になったそうじゃ」

「ありゃ、そうじゃったん!?」



阪神大震災の復興作業が始まって間もない頃に被災地で展覧会を開いた人から、こんな話を聞いた。

「復興作業も最初のうちはいいんです。
みんな頑張れる。
でも、毎日続くとだんだん疲れてくる。
不安になる。
そのせいか、展覧会を開くと、大勢の人が集まってくる。
そして、とても喜んでくれるんです」

(「新たな一歩へ 作家の思い」中国新聞 2011年5月24日)




「広島は、原爆の廃墟から復興したんよね」

「あの時は、日本全体が復興したんよの」

「広島には「第九伝説」いうのがあったね」

「1946年(昭和21)の大みそか、第九のレコードを聞くために、音楽茶房ムシカにたくさんの市民が集まったんよ」

「店内に入りきれんかった人たちが、雪降る中を外に立って、店内から聞こえてくる音楽に耳を傾けた、という話じゃったね」

「今回の展示会でも、1946年、市役所で絵の展覧会をやっとる写真も展示されとったんじゃ」

「芸術には、人を勇気づける何かがあるんじゃろうね」

「苦しいときにこそ、実は必要なもんかもしれんのう」



↓第九伝説についての関連記事は、こちら↓

広島と第九




「5月21日(土)に、倉橋清方(くらはし きよかた)さんという方の講演会「広島県立美術館の歴史」を聞きに行ったんよ」

「倉橋さんって、どんな方?」

「県立美術館で学芸課長をされとった方なんよ。その時に初めて知ったんじゃが、1968年(昭和43)に旧県立美術館が建てられた時は、所蔵作品をほとんど持っとられんかったそうじゃ」

「それじゃ、貸し会場みたいなもんじゃん」

「地元の人の作品を展示する場が欲しい、という要望もあって、美術館の建設が先行したようじゃの」

「今回の展示会も所蔵作品があるけん、できたようなもんじゃけんね」

「美術館の方も作品を集めようとするんじゃが、予算が足りん…。で、当初は寄付に頼ったそうじゃ」

「どんな方に?」

「日本画家の児玉希望(こだま きぼう)氏や、洋画家の小林和作(こばやし わさく)氏じゃ」

「小林さんはこの間、高橋玄洋(たかはし げんよう)さんの話の時に聞いたね」

「小林氏は、自分の作品と、自分が収集した作品を寄贈されたんよ。児玉氏は、代表作を系統立てて寄贈されるそうで、手放していた作品を買い戻すまでされたそうじゃ」

「すごいね」

「倉橋さんが、「これは新聞にも載ったので…」ということで話されたのが、平山郁夫(ひらやま いくお)氏の「受胎霊夢(じゅたいれいむ)」という作品を購入した時の値段。いくらくらいじゃと思う?」

「うーん、見当もつかんね」

「なんと、3億円プラス消費税3%!」

「ひえっ!! 消費税だけで、900万円じゃん!!!」

「もちろん、平山氏の初期の9作品を同時に寄付してもらうという条件がついとったそうじゃ」



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「視聴率の魔術師」 高橋玄洋記念室オープン 尾道大学





「あと、面白いなと思うたのが、美術館の収集方針じゃ」

「広島市内だけで、広島県立美術館、ひろしま美術館、ひろしま現代美術館と3つもあるけん、何か特徴がいるよね」

「1991年(平成3)に広島県立美術館整備基本計画というのが作られて、次の3つの方針に従って収集されとるそうじゃ」


1.広島と広島ゆかり作家の作品

2.1920~30年代の作品

3.日本とアジアの工芸


「1920~30年代は、大ざっぱに言うと、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間になるんじゃ。ちなみに、第一次世界大戦より前の作品はひろしま美術館、第二次世界大戦後の作品はひろしま現代美術館にあるそうじゃ」

「地元関連の作家の作品は当然としても、日本とアジアの工芸品も集めよってんじゃね」

「アジアいうても、中央アジアの作品が多いようじゃ。日本のものとは色づかいが違うけん、見とって面白いよの」





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ポーランドの至宝 レンブラントと珠玉の王室コレクション

「ムーミン展」が開かれる美術館はどこ?






「今日は、広島県立美術館で開催されている「復興への願いを込めて」展について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」

『HAYABUSA-BACK TO THE EARTH-』 ワーナー・マイカル・シネマズ広島

2011年05月27日 | まんが・テレビ・映画
「今日は、「はやぶさ」の映画を観てきたんじゃ」

「「はやぶさ」って、昨年、小惑星イトカワから戻ってきた?」

「ほうじゃの」

「渡辺謙(わたなべ けん)さんが主演の「はやぶさ」の映画を作るいうて、この間、聞いたばっかりのような気がするんじゃけど?」

「あれは『小惑星探査機 はやぶさ-遙かなる帰還-』という映画じゃ。他にも、竹内結子(たけうち ゆうこ)さんが主演の映画『はやぶさ-HAYABUSA-』も制作中じゃし、松竹では『おかえり、はやぶさ』という映画を制作されるそうじゃ」

「「はやぶさ」の映画って、3本も作られよるんじゃ。すごい人気じゃね」



↓制作中の「はやぶさ」の映画については、こちら↓

映画『小惑星探査機 はやぶさ-遙かなる帰還-』(仮)公式サイト

映画『はやぶさ-HAYABUSA-』公式サイト 10.1 ROADSHOW

「公開予定の作品」松竹






2003年5月。日本は小惑星探査機「はやぶさ」を打ち上げた。
その使命は、小惑星に着陸し石を採取して地球に持ち帰ること。
この人類史上初の試みを達成するべく、「はやぶさ」は目的地「小惑星イトカワ」に向け長い旅にでた。

「はやぶさ」が持ち帰ろうとしている小惑星の石は、太陽系誕生の秘密をとくカギを握っている。

地球が、そして太陽系が誕生したのは46億年前。
だが、その時代の石は、地球には存在しない。一方、小惑星には太陽系誕生時の記録が残っていると考えられているためだ。

20億kmの旅のすえ、2005年11月、「はやぶさ」はいよいよ「イトカワ」への着陸を敢行した。
しかし、未知の世界への着陸は思い通りにはいかない。
機体にもダメージの疑いが・・・しかし、このままで地球に帰るわけにはいかない。
態勢を立て直し、2度目の着陸に挑戦。成功したかに見えた直後、「はやぶさ」を最大の危機が襲う。
「はやぶさ」は2010年、無事に地球帰還を果たせるのか。

数々の困難に立ち向かい、太陽系誕生の謎をさぐる「はやぶさ」の波乱と感動に満ちた探検の旅が、
臨場感あふれるCGでドームいっぱいに広がります。




「今日、わしが観たのは『全天周映像 HAYABUSA-BACK TO THE EARTH-』いうて、人間が1人も出てこん、全部CG(コンピュ-タグラフィックス)で作った「はやぶさ」の物語なんよ」

「全天周映像って?」

「プラネタリウムのようなドーム状のスクリーンに映して見る映像のことじゃ」

「ということは、画面が目の前にどわ~っと広がってくるような感じに見えるんかね?」

「それもあるし、突然、足元がなくなって、宇宙の底に引き込まれていくような感じがするシーンもあったよのう。宇宙の底という表現もおかしいが、ほんまに、宇宙空間におるような気分にしてくれるんじゃ。映画は『HAYABUSA-BACK TO THE EARTH- 帰還バージョン』というらしいんじゃが、全天周映像とどこがどう違うかは、わしにはわからん」

「これも、「はやぶさ」が地球に帰ってくる時期を狙って作られたんかね?」

「2009年(平成21)4月から公開されとるんよ」

「「はやぶさ」が、まだ地球に帰ってきとらんころじゃね」

「そのころは、地球から3億~4億キロの距離を航行しとったんよ。ほいじゃが、プラネタリウム番組としては、人気があったそうじゃ。地球スウィングバイやイトカワへの着陸の様子などが、丁寧に描かれてあるしの」

「ちょっと待ってよ。この映像は「はやぶさ」が地球に帰ってくるまでの話なんかね?」

「ほうじゃのう。2010年(平成22)、地球に帰還することを前提に作られとってんじゃ」

「ほいじゃ、「はやぶさ」が地球に帰ってきて万々歳じゃね」

「おかげで、後継機のはやぶさ2の打ち上げも決まったしの」

「打ち上げはいつなんかいね?」

「今のところは、2014年(平成26)に打ち上げの予定じゃ。『HAYABUSA』は最初、5月14日(土)から27日(金)までの2週間限定上映じゃったんじゃが、6月3日(金)までの1週間、上映が延長されたんじゃ」

「500円で観れますけんね」



↓全天周映像「はやぶさ」については、こちら↓

全天周映像 HAYABUSA-BACK TO THE EARTH-



↓ワーナー・マイカル・シネマズ広島については、こちら↓

広島:ワーナー・マイカル・シネマズ





↓「はやぶさ」についての関連記事は、こちら↓

今年6月、小惑星イトカワから帰還した探査機は?

「はやぶさ」プロジェクトで活躍した木村さんの功績をたたえてつけられた、小惑星の名前は?

昨年亡くなった木村雅文が軌道計算を行った、小惑星探査機の名前は?





「今日は、全天周映像『HAYABUSA-BACK TO THE EARTH-』について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」

「視聴率の魔術師」 高橋玄洋記念室オープン 尾道大学

2011年05月26日 | 広島の話題
「高橋玄洋(たかはし げんよう)さんって脚本家の方を知っとるかいの?」

「うーん、知らんねぇ…」

「実は、わしも知らんかったんよ。先週の土曜日、広島県立美術館の講演会を聞きに行ったとき、高橋さんの名前を聞いたんじゃ。ほいで調べてみたら5月19日(木)、尾道大学に記念室ができたばっかりじゃったんよ」



尾道市の尾道短大(現尾道大)1期生で脚本家の高橋玄洋さん(82)=埼玉県所沢市=の直筆草稿など427点を集めた記念室が19日、尾道大付属図書館に開設した。
高橋さんも母校を訪れ完成を祝った。

約30平方メートルの研究室を活用した。
高橋さんが2010年2月以降、尾道、尾道東の両ロータリークラブを通じて市に寄贈したNHK連続テレビ小説「繭子(まゆこ)ひとり」(1971~72年放送)などの脚本、「文章とは中身(内容)の記号化に過ぎない」と書いた草稿などを展示する。
手掛けたドラマ24作品をDVDで観賞できる。

一般も入室でき、無料。
高橋さんの希望で脚本やDVDを市民や市内で勤務する人に貸し出す。
開館時間は原則、月曜~金曜日が午前9時~午後8時、土曜日は午後5時まで。

(「高橋玄洋さん記念室を開設」中国新聞 2011年5月20日)




↓市立尾道大学については、こちら↓

尾道大学





「高橋さんは尾道の方なん?」

「松江市の出身なんじゃが、中学の時、お父さんの仕事の都合で広島に移ってこられたそうじゃ」

「ということは、原爆には?」

「当日は広島市郊外で勤労奉仕中じゃったけん、市内に救援に入られたそうじゃ」

「ほうなんじゃ」

「で、1947年(昭和22)に尾道市に移られて、広島県立忠海(ただのうみ)高等学校に通われたんよ。同級生に日本画家の平山郁夫(ひらやま いくお)さんもおられたんじゃと」

「おぉー、すごいねぇ」

「1950年(昭和25)、尾道短期大学の国文科に第1期生として入学されたんよ。このころ、洋画家の小林和作(こばやし わさく)に出会って、影響を受けられたそうじゃ」

「先日の講演会は、この小林さんに関連して、高橋さんの話を聞いたんじゃろ?」

「小林さんは山口県の出身なんじゃが、そのころは尾道市に移り住んどられたんよ。面倒見のええ方じゃったそうでの、東京に行った高橋さんが尾道に帰ってくるたびに、絵を渡されたそうじゃ」

「絵を?」

「「金に困ったら、どこどこの画商に売りなさい」言うての」

「なるほどね」

「で、高橋さんが売った絵を、小林さんが画商から買い戻しとられとった、というオチがあるんじゃがの」

「そういう形で援助されとったんじゃね」

「高橋さんは1997年(平成9)に、『評伝小林和作』という本を書かれとってんじゃ」



↓『評伝小林和作』については、こちら↓

「評伝・小林和作 ― 花を見るかな」Amazon





「ところで、肝心の脚本の話が出てこんのじゃけど?」

「高橋さんは1954年(昭和29)、早稲田大学の文学科を卒業して、日本教育テレビ(NET、現:テレビ朝日)に入社されたんじゃ」

「NETというのは、日本教育テレビの略じゃったんじゃね」

「1960年(昭和35)に『傷痕』で芸術祭奨励賞を受賞し、翌1961年(昭和36)に作家として独立されたんよ。1964年(昭和39)年には『いのちある日を』で久保田万太郎賞を受賞しとってんじゃ」



1972年に手がけたNHK連続テレビ小説『繭子ひとり』は、同年2月10日放送分がテレビ視聴率歴代20位、ドラマ歴代7位の55.2%を記録し”視聴率の魔術師”との異名をとった。
本格派ドラマのライターとして最盛期には年間100本のドラマ脚本を書く。

(「高橋玄洋」ウィキペディア)




「おぉー。1年に100本ということは、1週間に2本は脚本を書き上げんといけん計算になるんじゃね」

「書いた脚本が、2000以上あるそうじゃけんの」

「うわー、すごいね」

「高橋さんが脚本を書かれた主なTV番組は、次のとおりじゃ」



『判決』(1962年~1966年、テレビ朝日)

『朱鷺の墓』(1970年、NHK)

『バラ色の人生』(1974年、TBS)

『三男三女婿一匹』(1976年、TBS)

『野々村病院物語』(1981年、1982年~1983年、TBS)




↓『繭子ひとり』については、こちら↓

「繭子ひとり」テレビドラマデータベース





「高橋さんは1979年(昭和54)、紺綬褒章(こんじゅほうしょう)を受賞されたんよ。この頃、洋画家の中川一政(なかがわ かずまさ)さんと出会って、陶芸の道を勧められたそうじゃ」



ふるさと尾道の大先輩の小林和作画伯、そして陶芸の道を勧めてくれた中川一政画伯。
二人から学んだのは「何をしても同じ自分の人生。やりたいことを楽しもう」だった。

(「大きな存在だった小林画伯 遺志継ぎ 尾道に感性注入」中国新聞 2002年5月30日)




「今はテレビの脚本から離れて、小説を書かれたり、書画や陶芸に打ち込んだり、地元の世話役を務めたりしとってんよ。尾道大学にある記念室にも、高橋さんが手掛けられた船舶模型や油絵なども展示されとるそうじゃ」

「地元いうて、今は埼玉県の所沢に住んでんよね」

「ほうじゃの。所沢市の教育委員を務められたこともあるんよ。所沢市図書館には、高橋玄洋コーナーが設置されとって、ここにも脚本やDVDが展示されとるそうじゃ」





「今日は、高橋玄洋について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」