通でがんす

いろんな広島を知って、ひろしま通になりましょう!
(旧ブログタイトル:通じゃのう)

カセットテープとレタリングシート

2024年05月05日 | 日記
昭和から平成の始めころまで、好きな音楽やラジオ番組(テレビ番組も!)を録音して楽しんでいたのが、カセットテープ。
特に大切な音楽や番組を録音したカセットテープは、レタリングシートを貼って、大事に保存していたもんじゃ。





今日は、カセットテープとレタリングシートについての話でがんす。





昭和レトロということで、レコードやカセットテープ、そのカセットテープを録音・再生するラジカセ(=ラジオカセットレコーダー)に人気が出ている。



デジタルで録音・録画すると、いつ、どんな内容を録音・録画したかは、自動的に保存される。
しかし当時は、パソコンはもとより、ワープロすらなかった、アナログの時代。
カセットテープに、いつ、どんな内容を録音したかを手書きでメモしておかないと、なにが録音されているかわからなくなってしまう。
ふつうは、鉛筆やボールペンで書くのだが、特に好きなアーティストの音楽を録音したものなどは、レタリングシートを貼って、デコレーションしたものだ。



レタリングシートとは、透明なフィルムに、アルファベットや数字・記号などがプリントされているシートのこと。
それを、鉛筆のおしりの部分や、美術の授業で使った溝引き棒というガラス棒の先などでこすって、一文字、一文字、転写していくのである。
一文字、一文字、転写するということは、文字の高さが合わずガタガタになったり、文字の間が近すぎたり離れすぎたり、綴りを間違えたりと、結構、難易度が高かった。
転写に失敗して、何度、くやし涙を流したことか…。

逆に、うまくできるようになると、なんでもかんでもレタリングシートを使ってデコレーションをしていた。
ただ、文字が足らなくなるとそのためだけに新たに1枚買い足したり、書体を変えようとするとレタリングシートも新たに買わないといけなかったり、レタリングシート自体が高かったりしたりと、なにかとお金はかかったが…。



以下、余談。




今回のカセットテープのメーカーは、TDK(ティーディーケー)じゃが、わしが愛用しとったのはmaxell(マクセル)じゃった。

あと、規格としてはノーマルポジション、ハイポジション、メタルの3つがあったの。
ノーマルが一番安く、ハイポジ、メタルと値段が高くなった。
今回のTDK ARはノーマル。

このころは、LPレコードと同時にカセットテープも売り出していて、そのカセットテープはノーマルじゃった。
そのうちメタルも出てきたんじゃが、メタルはとにかく高かった!
LPレコードとカセットテープが2,500円の時代に、メタルは4,000円したけぇの。

あと、時間もいろいろあったの。
最初のころは、30分、45分、60分、90分、120分じゃったが、そのうち、46分、50分、54分、74分とか、いろいろな種類が出てきた。
30分というのは、両面で30分という意味で、片面はその半分の15分じゃった。
(上の写真の左側に「A」とあるのは「A面」という意味で、もう片面を「B面」と呼んでいた)
ちなみに、30分のアニメ番組を録音するには、46分がちょうどよかった。
(主題歌やCMをカットすると、23分に収まった)
今回のTDK AR60の「60」は、録音時間が60分という意味ですけぇの。

家庭用ビデオデッキがまだ一般家庭に出回っていないころ、テレビ番組を「録画」でなく「録音」していた時代があった。
思い起こせば、『機動戦士ガンダム』(1979年から80年)は、全話をカセットテープに録音して、アニメ雑誌『アニメック』のページをめくりながら、その画像を脳内再生して楽しんだものじゃ。





今日は、カセットテープとレタリングシートについて話をさせてもろうたでがんす。


ほいじゃあ、またの。
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追悼・中村メイコさん

2024年01月15日 | 日記
「昨年(2023年)の大みそか、女優でタレントの中村メイコさんが亡くなられました。89歳だそうです」

「謹んでご冥福をお祈りいたします」

「メイコさんと、夫で作曲家の神津善行(こうづ よしゆき)さんとは、おしどり夫婦で有名じゃったよ」

「芸名の「メイコ」は、本名の「五月(さつき。英語で「May(メイ)」)」にちなむそうじゃ」

「おぉ、『となりのトトロ』(監督:宮崎駿)の、サツキ・メイ姉妹みたいな命名じゃね」





「今日は、追悼・中村メイコさんについての話でがんす」





「1934(昭和9)年生まれの中村さんは、2歳のとき、映画『江戸っ子健ちゃん』のフクちゃん役でデビューされたそうじゃ」

「フクちゃん? どっかで聞いたことがある名前じゃけど…」

「フクちゃんいうのは、横山 隆一(よこやま りゅういち)さんの漫画『フクちゃん』の主人公じゃの」

「あの、大きな学生帽をかぶった、幼い男の子よね」

「そのとおり! もともと『江戸っ子健ちゃん』として始まった漫画が、フクちゃんの方が人気が出たので、『フクちゃん』とタイトルを改めて連載が続けられたそうじゃ」




(『別冊一億人の昭和史 昭和舞台俳優史』毎日新聞社 1978年 106ページ)


「上の写真の真ん中に写っているのが、8才ころの中村さん」

「解説文では、「中村メイ子」とあるけど?」

「もともとは「中村メイ子(あるいは、ナカムラメイコ)」じゃったのを、「中村メイコ」に改めたそうじゃ」

「なるほどね」

「話を映画からテレビに移して…。このころ、日本ではテレビの研究を始めていたそうじゃ」

「日本でテレビの放送が始まったのは、戦後の1953(昭和28)年じゃったよね?」

「本当(ほんま)なら、1940(昭和10)年に東京オリンピックが開催される予定で、それに向けてのテレビ放送の研究が行われていたんじゃの」

「ほぉ」

「戦争の拡大によってオリンピック開催は返上、テレビ放送の研究も中断された。そのころのテレビの実験番組に、メイコさんが出演されていたそうじゃ」

「ということは、メイコさんは、テレビ放送の黎明期(れいめいき)からかかわっておられる方じゃったんじゃね」

「ラジオ番組では、子役ながら複数の役を演じ分けて、「7色の声」と評されたそうじゃ」

「声といえば、1955(昭和30)年には「田舎のバス」(作詞・作曲:三木鶏郎)を歌って、ヒットさせとってよね」



↓中村メイコさんの歌う「田舎のバス」は、こちら↓

「田舎のバス」YouTube



↓「田舎のバス」の紹介は、こちら↓

「中村メイコゆかりの地」東三河を歩こう



「アニメでは『ドカチン』の主人公・ドカチンの声と、主題歌を担当されとったんじゃの」

「『ドカチン』? うちゃ知らんけどねぇ」

「『おらぁグズラだど』の後番組として放送されたんじゃ」



↓アニメ『ドカチン』については、こちら↓

「ドカチン」タツノコプロ



↓アニメ『ドカチン』主題歌については、こちら↓

「ドカチン オープニング&エンディング」YouTube



「メイコさんが出演されていた番組で、わしが一番観たのが、NHKで日曜夜7時20分から放送していた『お笑いオンステージ』」

「どんな番組?」

「三波伸介(みなみ しんすけ)さんがメインパーソナリティのスタジオ公開型バラエティ番組」

「ほぉ」

「そこでのメイコさんの役割は、涙もろくて人情家、ときに暴走しがちな三波さんを、ドンと受け止める女房役じゃったと記憶するの」



↓『お笑いオンステージ』番組紹介は、こちら↓

「お笑いオンステージ」NHKアーカイブス





「今日は、追悼・中村メイコさんについて話をさせてもろうたでがんす」

「ほいじゃあ、またの」
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嫁ブリ

2023年12月31日 | 日記


「お父さん、嫁ブリが届いたよ」

「おぉ、届いたか。ほぉ、これが嫁ブリかぁ」

「3枚におろしたブリが入っとるんじゃね」





「今日は、嫁ブリについての話でがんす」





「今年、長女が結婚したんじゃが、相手は福岡の方じゃった」

「結婚式の時、新郎のご両親から「嫁ブリを贈りたいんですけど」といわれたんじゃけど、うちらはそんなの全然知らんけぇ、「すいません、嫁ブリってなんですか?」って聞いたよね」

「嫁ブリいうのは、結婚した年の瀬に、新郎の実家から新婦の実家へブリを一本まるごと贈る習慣なんじゃそうな」





「「大切なお嬢様をいただいて、ありがとうございます。良いお嫁さんっぷりです」という感謝の気持ちこめてのことじゃそうなね」

「「良い(=よか)お嫁さんっぷり」の「~っぷり」と、正月に欠かせない寒ブリの「ブリ」の語呂合わせからきとるそうじゃ」

「ブリは、成長によって呼び名が変わる出世魚でもあるよ」

「福岡では、お正月の雑煮にブリを入れるブリ雑煮をいただくそうじゃの」

「うちゃ、ブリのアラで出汁(ダシ)を取った年越しそばをいただこうかね」







「以下、余談じゃ」


「さっき、嫁ブリのお礼の電話をしたら、2日目まではお刺身でいただいて、3日目からは漬け(づけ)がいいっていわれたよ」

「漬けいうたら、タレに漬けるやつか?」

「そう。刺身をしょう油とみりんに漬けて、すりごまをかけていただくんじゃと」

「おぉ、そりゃどんぶりめしにのせて食うたら、絶対にうまいで」

「試してみようね」





「以下、さらに余談じゃ」


「ところで、嫁ブリって福岡だけの習慣なんじゃろか?」

「調べてみたら、福岡だけじゃのうて佐賀や熊本にもあって、岡山でも嫁ブリの習慣があるらしいで」

「九州から、山口・広島をすっ飛ばして岡山? なんでじゃろ?」

「今の福岡県、むかしの筑前国(ちくぜんのくに)は、江戸時代は福岡藩で、初代藩主は黒田長政(くろだ ながまさ)じゃった」

「黒田長政いうたら、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の軍師じゃった黒田官兵衛(くろだ かんべえ)の跡継ぎじゃね」

「その黒田家の先祖をたどっていくと、備前国(びぜんのくに)福岡(現:岡山県瀬戸内市長船町福岡(せとうちし おさふねちょう ふくおか))の出らしいの」

「岡山の福岡? 福岡県の福岡という名前はそこからついたんじゃろか?」

「…という説もあるそうじゃ」





「今日は、嫁ブリについて話をさせてもろうたでがんす」



「というわけで、これが今年最後のブログになります」

「今年1年、このブログを読んでいただき、ありがとうございました」

「来年もよろしくお願いいたします。ほいじゃあ、またの」
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ざんぎり頭をたたいてみても、文明開化の音がしない!

2023年11月13日 | 日記
「ざんぎり頭をたたいてみれば、
文明開化の音がする」

それまでの武士の時代が終わって
明治の世になり、
ちょんまげを切り落として
西洋風に髪を短くした髪型を
「ざんぎり頭」と呼ぶようになった。

文明開化のシンボルであった
断髪が取り入れられたのは
男性だけの話。

女性の髪型はどう変わったのか?





今日は、
ざんぎり頭をたたいてみても、
文明開化の音がしない!
についての話でがんす。





1871(明治4)年、明治政府は
「散髪脱刀令(さんぱつだっとうれい)」
を出し、髪型は自由
(ちょんまげを禁止したわけではない)、
士族は刀を差さなくてもよいとした。

1873(明治6)年、
明治天皇が断髪を行ったことで、
男性に断髪が浸透する。

この「散髪脱刀令」を、
「女性も断髪しなければならない」
と受け取った女性たちがいて、
男性と同じように髪を短くした。

しかし、
女性が髪を短く切ることに対して
反発が起こる。

「散髪脱刀令」が出された翌年の
1872(明治5)年4月5日、東京府は、
女性はみだりに髪を切ってはならない
という内容の
「女子断髪禁止令」を出した。

「長い黒髪こそ女性らしい姿である」
という美意識が根付いていた日本では、
女性が髪を切ることに対する抵抗感は
根強いものがあったようだ。

そのため、
明治の世になったとはいえ、
女性は江戸時代と同じように
日本髪を結うのが主流だった。


しかし、1883(明治16)年に
鹿鳴館が建てられると、
上流階級の婦人の間で洋装が取り入れられ、
髪も洋風にアレンジしたものが登場する。

1885(明治18)年、
日本髪は手入れが大変なうえに
不潔で不経済ということから、
日本髪を廃止して
新しい髪型にしようという
「婦人束髪(そくはつ)会」が設立される。

このころ、日本髪は
鬢付け(びんづけ)油で固めて結うので、
頭を洗うには油や髪に付いた汚れを取るため
半日がかりだったという。

確かに、手入れが大変で、
不潔で不経済である。

これに対して、束髪は水油を使うため、
鬢付け油を使う日本髪より軽い仕上がりで、
寝る時はほどくことができ、
簡単に髪が洗うことができた。

髪を切ってはいけないならと、
手軽に髪を結うことができる
束髪にする女性が増え、
日本髪を結う女性が
だんだんと減っていったそうだ。



↓束髪については、こちら↓

「「日本髪」から「束髪」へ明治時代のヘアスタイル~【永久保存版】髪型の歴史150年。美のプロなら知っておきたい明治・大正・昭和のヘアトレンド」リクエストQJナビ





以下、余談。


「女子断髪禁止令」の話が出たが、
明治時代、女性が髪を短くするときには
「断髪届」なる届け出を出さないと
罰せられたという。

『広島県史年表』の
1879(明治12)年4月1日の項には、
次のように書かれている。


婦女斬髪願は、病患原由を記載し医師診断書を添えて所轄警察所へ願出ることとする。


髪を短くする女性は、
その病気の原因を書いた上に、
医師の診断書を添えて
警察署へ届け出なさい、ということだ。

こういう法令が出されたということは、
髪を短くしたいと願う、
または実行する女性が相当数いたことが
想像される。

文明開化の世の中、
古い価値観に立ち向かう
女性たちがいたのだ。



↓「断髪届」については、こちら↓

「明治の女性、髪を切るのに「断髪届」 千葉の民家で発見」朝日新聞デジタル



↓『広島県史年表』(PDF版)については、こちら↓

「『広島県史年表』  PDF版」 - 広島県立文書館





以下、さらに余談。


「女子断髪禁止令」
が出された4月5日は現在、
「ヘアカットの日」とされている。



↓ヘアカットの日については、こちら↓

「あの日の公文書 ヘアカットの日」国立公文書館ニュース





今日は、
ざんぎり頭をたたいてみても、
文明開化の音がしない!
について話をさせてもろうたでがんす。



ほいじゃあ、またの。
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大正8年の断髪 望月百合子

2023年11月07日 | 日記
「ジャケ買い(=ジャケット買い)」
という言葉がある。

本やCD、レコードなどのカバーが
気に入ってその商品を買うことだ。

ジャケ買いした本のうちの一冊がこれ、



森まゆみ著『断髪のモダンガール
42人の大正快女伝』(文春文庫 2010年)。

モダンガール(略して「モガ」)とは、
断髪をして、長いスカートをはき、
銀座を歩いている女性のこと。

この言葉が流行したのは
1927(昭和2)年だが、
それよりも8年早い
1919(大正8)年に髪を切ったのが、
表紙に写真が載っている
望月百合子(もちづき ゆりこ)。





今日は、
大正8年の断髪 望月百合子
についての話でがんす。





望月百合子は、
1900(明治33)年に山梨県で生まれ、
2001(平成13)年に亡くなる。

つまり、20世紀という時代を
まるまる生きた人であった。

1919(大正8)年、
東京の成女高等女学校を卒業後、
校長の宮田脩の紹介で読売新聞に入社、
記者となる。

1921(大正10)年、読売新聞を退社、
フランスのソルボンヌ大学に国費留学。

1925(大正14)年に帰国後は
アナーキストとして活動。

1928(昭和3)年、
長谷川時雨(はせがわ しぐれ)の
『女人藝術』の創刊に参加。

1930(昭和5)年、
『婦人戦線』、『ディナミック』
の創刊に参加、
古川時雄と結婚。

1938(昭和13)年、満州に渡り
満州新聞記者となる。

1978(昭和53)年、
山人会会長に就任。

1989(平成元)年、
建設懇話会委員長として携わった
山梨県立文学館が開館。

1993(平成5)年、
『ビクトリア女王の娘』を翻訳・出版。

2001年、死去。



1919年、読売新聞の婦人記者
になった望月は、
断髪洋装をして注目を浴びる。


「大橋房っていうすてきな友だちがいてね、
(略)
あるときいっそ断髪洋装にしない、っていったんです。毎朝、髪を結うのが面倒くさくてしかたがない。不器用だから髪を後ろにまとめるのが大変」

(森まゆみ『断髪のモダンガール 42人の大正快女伝』文春文庫 2010年 15ページ)



ふたりは外国人女性行きつけの
美容院へ行って髪を切り、
洋服や下着・靴をあつらえた。

しかし、「長い黒髪こそ美しい」
という美意識が根付いていた日本では、
女性が髪を切ることに対する抵抗感は
根強いものがあった。

その黒髪を切ることは
女をやめるに等しい大胆な行動だった。

彼女たちが銀座を闊歩(かっぽ。
大またで堂々と歩く)すると、
周囲からの好奇の目にさらされた。


「あるときは電車の中で『まだ若いのに、ご主人を亡くされて』と同情されたことがある。昔は夫に死なれると髪を切ったものなのね」

(同上 16ページ)



女性が髪を切るのは、
未亡人になったときか、
仏門に入るときかのどちらかだった。



↓望月百合子については、こちら↓

現代女性文化研究所

「山梨近代人物館 第14回展示 紹介人物・望月百合子」山梨県立博物館 -Yamanashi Prefectural Museum-






以下、余談。


望月百合子と一緒に髪を切った
大橋房(おおはし ふさ。
1897(明治30)年-1949(昭和24)年)
について触れておこう。

大橋家の養女だった大橋房は
1925(大正14)年、作家の
佐佐木茂索(ささき もさく)と結婚、
ささきふさを名乗る。

大橋家はプロテスタントの家庭で、
彼女が16歳のときに洗礼を受け、
青山学院在学中から執筆活動を始める。

断髪した1919年には
児童向け聖書物語『イスラエル物語』を、
1921(大正10)年には
小説『断髪』を発表する。


「刃先にヂヂヂヂッといふ弾力のある音が起ると、それに伴(つ)れて今までなだらかに垂れ下がってゐた長い髪の毛が、無慚に中途から切断されて、バラバラと膝の上に乱れ落ちてきます」

(同上 21~22ページ)



1923(大正12)年、渡欧して
万国婦人参政権大会に出席、
翌1924年に帰国。



↓ささきふさについては、こちら↓

「「ささきふさ」とは誰か?」葡萄の花房から――ささきふさとその周辺



↓断髪については、こちら↓

「おかっぱ「モダンガール」へむけてのスタイル変遷 大正時代のヘアスタイル~【永久保存版】髪型の歴史150年。美のプロなら知っておきたい明治・大正・昭和のヘアトレンド」リクエストQJナビ





今日は、
大正8年の断髪 望月百合子
について話をさせてもろうたでがんす。



ほいじゃあ、またの。

(文中、敬称略)
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