通でがんす

いろんな広島を知って、ひろしま通になりましょう!
(旧ブログタイトル:通じゃのう)

新幹線グリーン車座席のある宿

2023年10月25日 | 山口の話題



先日、9月23日・24日の1泊2日で
山口県下松市(くだまつし)の
笠戸島(かさどしま)にある
国民宿舎 大城(おおじょう)
に泊まってきた。



↓国民宿舎 大城については、こちら↓

【公式】国民宿舎 大城 | 下松市笠戸島の全室オーシャンビューホテル





ロビーに行くと、
どこかで見たような座席が
置いてあった。




座席の背もたれを見ると、
…こ、これは、
新幹線の座席を持ってきているのか?

なぜだ、なぜなんだぁぁぁ?!





今日は、
新幹線グリーン車座席のある宿
についての話でがんす。







国民宿舎 大城のロビーに置いてある、
海を一望できる海側の座席と、




向かい合わせの座席が、
700系新幹線のグリーン車の座席だった。







国民宿舎 大城のロビーに、なぜ
新幹線の座席があるのかというと、
下松市には
新幹線の車輛を製造している
日立製作所 笠戸事業所
からだそうだ。



↓日立製作所 笠戸事業所については、こちら↓

「受け継がれる技術で拓く鉄道の未来 日立製作所笠戸事業所100年の歩み」日立評論





今日は、
新幹線グリーン車座席のある宿
について話をさせてもろうたでがんす。



ほいじゃあ、またの。
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日本の航空とスキーの先駆者・長岡外史

2023年10月17日 | 山口の話題



先日、9月23日・24日の1泊2日で
山口県下松市(くだまつし)の
笠戸島(かさどしま)にある
国民宿舎 大城(おおじょう)
に泊まってきた。



↓国民宿舎 大城については、こちら↓

【公式】国民宿舎 大城 | 下松市笠戸島の全室オーシャンビューホテル





大城から124段ある石段を登っていくと
外史公園があり、




そこには御影石で作られた
高さ約2メートルの
長岡外史(ながおか がいし)像が
立っている。

この像は、市民でつくる
顕彰会が1978年に建立したもの。




像をよく見てみると、
ひげが異常に長いことと、
左手に持つ飛行機の模型が気になった。

像の横にある碑文を読んでみると、
長岡外史は下松市出身の軍人・政治家で、
日本の航空とスキーの先駆者
であることがわかった。



↓外史公園については、こちら↓

「外史公園(がいしこうえん)」いくっちゃ!くだまつ観光ガイド





今日は、
日本の航空とスキーの先駆者・長岡外史
についての話でがんす。





長岡外史は安政5(1858)年、
都濃郡(つのぐん)
末武村(現:下松市)に生まれ、
のち、長岡家の養子となる。

安政5年といえば、
江戸幕府が日米修好通商条約に調印、
大老・井伊直弼による
安政の大獄のあった年。

1885(明治18)年、
陸軍大学校を一期生として卒業、
1904(明治37)年の日露戦争には
陸軍部参謀次長として参加、
1909(明治42)年、
陸軍中将(ちゅうじょう)を拝命。

1933(昭和8)年、
77歳で亡くなる。



以下、
「プロペラひげ」と呼ばれたひげ、
日本での先駆者といわれた
スキーと飛行機について
話をしていこう。





まずは、
「プロペラひげ」と呼ばれた
ひげについて。


外史が欧州出張中の1899(明治32)年、
ドイツで軍事視察をした時、
カイゼルひげが流行していたので、
あごひげを剃って
カイゼルひげにしたが、
最初はそれほど長いもの
ではなかった。

それが1914(大正3)年、
大正天皇の御大典(ごたいてん。
即位式)の時、八丈島市庁長が
「あなたのひげを世界一にしたい」と、
特産の椿油を進呈した。

椿油を使い始めた外史は
ひげを剃ることができず、
以後、ひげが伸びていった。

1915(大正4)年には世界一となり、
一番長いときで69センチまで伸びた
といわれている。



↓プロペラひげについては、こちら↓

「【TJ調査隊】尋常じゃない世界一のひげ? 旧師団長官舎にある長岡外史の銅像」上越タウンジャーナル



次に、スキーについて。


外史が第13師団長だった
1911(明治44)年1月12日、
オーストリアの軍人レルヒ少佐が
1本杖のスキーを指導したのが、
日本におけるスキーの始まり
とされている。

この史実から2003年、
1月12日が「スキーの日」と制定された。

第13師団は、
帝国陸軍の師団のひとつで、
新潟県高田町(現:上越市)にあった。

軍事用に導入されたスキーを、
民間に普及させ、
国民スポーツにまで発展させたのが
外史だといわれている。



最後に、飛行機について。


将来の航空時代の到来を見越した外史は
日本の航空界の育成に乗り出した
と紹介してあるが、
そう簡単な話ではないようで…。

後に、日本の飛行機開発の先駆者
として知られる、
二宮忠八(にのみや ちゅうはち)
という人がいた。

二宮は1891(明治24)年、
飛行機(器)による
動力飛行に成功していた。

飛行機が開発できれば、
空中から偵察できるし、
物資の輸送も飛躍的に向上する
と考えた二宮は、
日清戦争時の上司だった
参謀の長岡外史に上申したが、
却下された。

軍が飛行機の開発に乗り気でない
と感じた忠八は退役し、
独力で研究することに。

ライト兄弟による
世界初の有人飛行に成功したのが、
二宮の動力飛行成功から10年後の
1903(明治36)年12月17日。

もし、二宮の上申を受けて
日本で飛行機の開発を進めていれば、
世界初の有人飛行の名誉は、あるいは
日本人のものだったかもしれない。

1919(大正8)年、忠八が
同郷の松山藩(現:愛媛県)出身の
白川義則(しらかわ よしのり)中将に
飛行機開発をしていた話をすると、
それが帝国飛行協会の
機関誌に掲載された。

その記事を読んだ、陸軍航空本部長
井上幾太郎(いのうえ いくたろう)が
「欧米先進国に先駆けた
未曾有(みぞう。
これまで起きたことのない、
極めてまれな)の出来事」と激賞。

当時、帝国飛行協会
(現:日本航空協会)の
副会長だった外史は、


かつて忠八の上申を却下した長岡外史も、自分の不明を恥じ、忠八に謝罪しました。

「二宮忠八~ライト兄弟に先んじて人類初の動力飛行に成功した日本人」WEB歴史街道 人間を知り、時代を知る




↓二宮忠八については、こちら↓

二宮忠八飛行館ホームページ





以下、余談。


「外史」という
変わった名前について。

長州藩の藩校
明倫館(めいりんかん)で
『日本外史(にほんがいし)』
を暗唱していたところ、
長州藩最後の藩主となった
毛利元徳(もうり もとのり)
に認められて
「外史」という名を贈られたという。

『日本外史』は江戸時代後期、
広島藩の歴史学者
頼 山陽(らい さんよう)
が書いた歴史書。

幕末から明治にかけて
もっとも読まれた歴史書のひとつで、
幕末の尊王攘夷運動に
大きな影響を与えたといわれる。



↓頼 山陽については、こちら↓

「頼山陽史跡資料館 (広島県立歴史博物館 分館)」広島県教育委員会





以下、さらに余談。




外史公園からは展望がよく、
景色を眺めるにもよい。




像の前には、
四等三角点が設置されている。

また、「ひげの殿下」として有名な
三笠宮 寬仁(みかさのみや ともひと)
親王の植樹された木も植えられていた。





訪問日:2023年9月23日・24日





今日は、
日本の航空とスキーの先駆者・長岡外史
について話をさせてもろうたでがんす。



ほいじゃあ、またの。
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くだまる~下松市公式マスコットキャラクター

2023年10月03日 | 山口の話題



先日、9月23日・24日の1泊2日で
山口県下松市(くだまつし)の
笠戸島(かさどしま)にある
国民宿舎 大城(おおじょう)
に泊まってきた。



↓国民宿舎 大城については、こちら↓

【公式】国民宿舎 大城 | 下松市笠戸島の全室オーシャンビューホテル





その玄関口に、
下松市公式マスコットキャラ
くだまるの石像があったんじゃの。

これは2022年9月、
徳山東ロータリークラブが
同会の創立55周年を記念して
寄贈したもので、
黒御影石(くろみかげいし)
で作られているそうじゃ。



↓くだまるについては、こちら↓

「下松市公式マスコットキャラクター「くだまる」」いくっちゃ!くだまつ観光ガイド





今日は、
くだまる~下松市公式マスコットキャラ
についての話でがんす。





くだまるは、下松市の市制80周年
(市制施行は1939年11月)
を記念して生まれた
公式マスコットキャラで、
そのプロフィールは
以下のとおり。


名前/くだまる

誕生日/2019年3月20日(小学生による選挙で選ばれた日)

性別/不明

出身地/はるかかなたの星

性格/元気で明るく誰とでも仲良くなることができる

仕事/下松市のPR

チャームポイント/ピンクのほっぺと星型のしっぽ

好きな食べ物/笠戸ひらめ

ジャンル/下松に降りてきた星の妖精





くだまるをくわしく見ていくと、
頭にあるのが
星、松、キツネ、桜、音符。

星と松は、
今から1400年ほど前、
この地にある松の樹に星が降ってきて
7日間光り続けた
という言い伝えがあり、
「星が降った松」から
「降松→下松(くだまつ)」
と呼ばれるようになったことから。



↓下松の地名由来の関連記事は、こちら↓

下松、松の樹に降りてきたのだあれ?



キツネは、
11月にある稲穂祭(いなほまつり)での
「きつねの嫁入り」
で使つかわれるお面から。



↓稲穂祭、きつねの嫁入りについては、こちら↓

「稲穂祭~きつねの嫁入り~ 2023年11月3日(金・祝)」いくっちゃ!くだまつ観光ガイド



桜は、
国民宿舎 大城の入口にある
河津桜(かわづざくら)や、
切戸川(きりとがわ)沿いに並ぶ
約200本のソメイヨシノなど、
名所がたくさんあることから。

音符は、下松市は吹奏楽が盛んで
「星のふるまち童謡フェスタ」
などのイベントが開かれることから。




くだまるのお腹にあるのが、
笠戸大橋と笠戸ひらめ。

笠戸大橋は、
1970年に開通した、
真紅に塗装された橋。



↓笠戸大橋については、こちら↓

「笠戸大橋」いくっちゃ!くだまつ観光ガイド



笠戸ひらめは、
「下松市栽培漁業センター」
で養殖されているひらめ。



↓笠戸ひらめについては、こちら↓

「笠戸ひらめ」いくっちゃ!くだまつ観光ガイド





笠戸大橋と笠戸ひらめがデザインされた、下松市のマンホール





国民宿舎 大城の
玄関口にある郵便ポストには、
くだまるがラッピングされていた。









足元から見上げた(?)くだまる





以下、余談。


くだまるが
公式マスコットキャラクターを務める
下松市は、2022年
「山口県の住みここちが良い街」
ランキングの1位なんじゃそうな。

その理由としては…、

街の規模が小さいことが、
コンパクトで住みやすい
街並みとなっている。

商業施設や銀行など
生活に必要な施設が充実。

隣接する周南市や光市との
アクセスがよい。

笠戸島に海水浴場やキャンプ場があり、
瀬戸内海と山々の豊かな自然を
楽しむことができる、

…などがあるそうじゃ。



↓「山口県の住みここちが良い街」については、こちら↓

「「山口県の住みここちが良い街」ランキングTOP9! 1位は「下松市」【2022年最新調査結果】」ライフ ねとらぼ調査隊





訪問日:2023年9月23日・24日





今日は、
くだまる~下松市公式マスコットキャラ
について話をさせてもろうたでがんす。



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下松、松の樹に降りてきたのだあれ?

2023年10月01日 | 山口の話題
前回は、
山口県下松市(くだまつし)沖の
瀬戸内海に浮かぶ
笠戸島(かさどしま)の地名由来
について話をさせてもろうた。



↓笠戸島の地名由来については、こちら↓

笠戸島、笠を置いたのだあれ?



今回は、その笠戸島がある
下松の地名由来についての話じゃ。



↓下松市については、こちら↓

山口県下松市ホームページ





今日は、
下松、松の樹に降りてきたのだあれ?
についての話でがんす。





初の女性天皇といわれる
推古(すいこ)天皇のころというから、
今から1400年ほど前の
飛鳥時代のこと。

周防(すおう。山口県東南部)国
都濃(つの)郡 鷲頭(わしず)荘
青柳浦(あおやぎうら)の松の樹に、
北辰(ほくしん。北極星)星が
降り下って、
七日七夜輝きとおした。

朝鮮半島にある百済(くだら)国の
聖明王(せいめいおう)の第3皇子で、
日本へやって来る
琳聖太子(りんしょうたいし)を
守るためだという。

日本にやって来た琳聖太子は、
推古天皇の摂政をしていた
聖徳太子から
多々良(たたら)姓を賜り、
この地に住み着いた。

戦国時代、
毛利元就(もうり もとなり)に
取って代わられるまで、
中国地方から北九州まで
勢力を持っていた大内氏の祖先が、
この多々良氏だといわれている。

北辰星が降り下ったことから、
青柳浦は降松(下松)と
その名を改め、
北辰星を祀(まつ)った
妙見宮(みょうけんぐう)が
今の降松神社となった。



↓降松神社については、こちら↓

降松神社





以下、余談。


妙見宮が今の降松神社となった、
と書いたが、
「妙見」という言葉を
皆さんはご存じじゃろか?

妙見とは、妙見菩薩のこと。

中国の道教で神格化された
北辰(北極)星が、
仏教の菩薩信仰と習合して
妙見菩薩として信仰されるように
なったそうじゃ。

その妙見信仰は、飛鳥時代に
中国から日本に伝わった。

国土を守り、災いを除き、
人に福寿をもたらすとされ、
「妙見」という言葉から
眼病(がんびょう。目の病気)を治す
ともいわれる。

その妙見宮は、
明治の神仏分離令で
降松神社と分けられたが、
妙見宮鷲頭寺(みょうけんぐう
じゅとうじ)として、今も残る。



↓妙見宮鷲頭寺については、こちら↓

「妙見宮鷲頭寺(下松市)」周防山口館【大内庭園】





【参考文献】

『日本歴史地名大系 36 山口県の地名』平凡社 1980年 205ページ

『角川日本地名大辞典 35 山口県』角川書店 1988年 966ページ






今日は、
下松、松の樹に降りてきたのだあれ?
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笠戸島、笠を置いたのだあれ?

2023年09月29日 | 山口の話題



先日、9月23日・24日の1泊2日で
山口県下松市(くだまつし)の
笠戸島(かさどしま)にある
国民宿舎 大城(おおじょう)
に泊まってきた。



↓国民宿舎 大城については、こちら↓

【公式】国民宿舎 大城 | 下松市笠戸島の全室オーシャンビューホテル



笠戸島は、山口県下松市沖の
瀬戸内海に浮かぶ三日月形の島。

「笠戸島」という名前だから、
「笠」と関係があるんだろうなと
調べてみたら…、


「広島県宮島町(厳島)の明神が笠を置いた」という伝説があることから。

「笠戸島 地名の由来」ウィキペディア



…と書いてあった。

宮島の明神が、
直線距離で約40キロメートル
離れている笠戸島に笠を置く。

なんとも壮大な話ではあるが、
にわかには信じがたい。

そこで、
そのほかの説を紹介していこう。





今日は、
笠戸島、笠を置いたのだあれ?
についての話でがんす。





ひとりは佐々木 小次郎
(ささき こじろう)が、
もうひとりは
神功(じんぐう)皇后が、
この島に笠を置いたことから
「笠戸島」という名前がついた
という伝説が残る。


まずは、佐々木 小次郎から
説明していこう。

剣豪の小次郎は、
身の丈ほどもある長刀を背負い、
得意技は燕(つばめ)返し。

そして、笠戸島より西の、
山口県下関市・関門海峡にある
巖流島(がんりゅうじま)で、
宮本武蔵と決闘したことで有名。

武蔵を追って西へ下る途中の小次郎が、
この島に立ち寄って休憩したとき、
かぶっていた笠を
松の木にかけたところから、
「笠戸島」という名前がついたという。

しかし、
巖流島での決闘が行われたのが、
江戸時代になって間もないころで
大坂の陣よりも前の、
慶長17(1612)年。

今から400年ほど前の話であり、
島の名前がついたにしては、
あまりにも最近すぎる。





神功皇后(息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと))
(安彦良和『天の血脈 第3巻』講談社 2013年 79ページ)



つぎに説明するのが、
戦前では子供でも知っていたが、
今ではほとんどの人がその名を知らない
神功皇后。

神功皇后は、第14代天皇
仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后で、
八幡神(はちまんしん)として祀られる
第15代天皇
応神(おうじん)天皇の母。

海を渡って韓国(からくに)へ行き、
百済を助けて
新羅(しらぎ)を平定したという、
女神でありながら
武神としての性格を持つ。

その神功皇后が韓国へ渡るとき
この島に泊まったが、
出立する際、戸口に笠を掛けたまま
忘れてしまったところから
「笠戸島」の名前がついたという。

新羅征伐を行ったのが
西暦367年(異説あり)とされるため、
今から1656年前の話。

地名由来の伝説としては
こちらの方がありかな、と思う。


調べてみれば、
ほかにも面白い伝説が
残っているかもしれないが、
今日のところは、ここまで。





【参考文献】

加藤庸二『島の博物事典』成山堂書店 2015年 188ページ





訪問日:2023年9月23日・24日






今日は、
笠戸島、笠を置いたのだあれ?
について話をさせてもろうたでがんす。



ほいじゃあ、またの。
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