通でがんす

いろんな広島を知って、ひろしま通になりましょう!
(旧ブログタイトル:通じゃのう)

月野瀬神社 ぶらり中郡道(その8)

2015年05月21日 | 見て歩き
中郡道

月野瀬神社

スダジイ





戦国時代末期、毛利輝元は天正17年(1589)広島城築城にあたり、吉田郡山城から広島まで、人の往来や資材の運搬に適した平坦で最短距離の路を在地領主に命じて普請しました。

この路が中郡道(なかごおりどう)です。

(『中郡古道散策地図』より)








前回は、草谷(くさだに)の山崎薬師堂(やまさきやくしどう)を紹介したんじゃけど…」

「今回は、月野瀬神社を紹介してみようかの」




















「高台にあった山崎薬師堂から道を下って、県道37号 広島三次線を渡り、路地を歩いて行くと月野瀬神社がある」







月野瀬神社(別名 加茂大明神)

御祭神
 別雷命(わけのいかづちのみこと)
  龍神・雷神とも言われる
  加茂建角身命(かものたけつぬみのみこと)の御子

由緒
 推古天皇は、安芸の国で船をつくるよう河辺臣に命じる。
 河辺臣(かわべのおみ)は舟材として霹靂(へきれき)の木で舟をつくることとした。
 ところが、この木を伐ると雷神は伐採を怒り大雨・雷電をおこし阻む。
 そこで河辺臣は木を伐る人を害せず、我が身を傷つけよと祈った。
 すると十余度の霹靂・雷鳴がなり河辺臣を害せず小魚と化した。
 この小魚を木の枝で挟みとって焼いたところ霹靂も治まり河辺臣は無事に船を造ることが出来ました。
 このようなことから別雷命を祀(まつ)り月野瀬神社の主祭神となり、この地を大明地と称した。

 月野瀬神社(昭和二年十月二十日改築再建され村社として氏子百六四戸)は千年以上の歴史を持つ古い社である。
 神社の裏に広がる自然林の中からは弥生時代(千八百年前)後期の遺跡が点在し、数多くの土器が出土されている。

推古天皇…第三十三代天皇(豊御食炊屋姫尊(とよみのじきやひめのみこと))在位紀元五九二年から六二八年

河辺臣…豊田郡船木の霹靂神社の主祭神

霹靂…急激な雷鳴・激しい大音声

(月野瀬神社入口の案内板より)






「月野瀬神社、建てられてから1,000年以上たっとる、口田地区では一番古い神社じゃそうな」













「鳥居に…」







「本殿」











「筋肉隆々の狛犬」







「大きな御神木じゃね」

「これはスダジイという樹じゃそうな」





↓月野瀬神社のスダジイについては、こちら↓

月野瀬神社のスダジイ

















【参考HP】

「ふるさと口田(口田の神社・仏閣・お地蔵さん)」広島市立口田小学校





訪問日:2015年4月29日






「今日は、中郡道にある月野瀬神社を紹介させてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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新宮神社から山崎薬師堂まで ぶらり中郡道(その7)

2015年05月20日 | 見て歩き
中郡道

山崎薬師堂

道端の花たち





戦国時代末期、毛利輝元は天正17年(1589)広島城築城にあたり、吉田郡山城から広島まで、人の往来や資材の運搬に適した平坦で最短距離の路を在地領主に命じて普請しました。

この路が中郡道(なかごおりどう)です。

(『中郡古道散策地図』より)








前回は、新宮神社(しんぐうじんじゃ)を紹介したんじゃけど…」

「今回は、新宮神社から草谷(くさだに)の山崎薬師堂(やまさきやくしどう)までを紹介してみようかの」







「新宮神社を出て、西に向こうていくと山崎薬師堂に着くはずなんじゃが、道に迷うてしもうた」

「…ありゃま」

「仕方ないけぇ、いろんな花を見ながらちんたら歩いてみた」

「こんなときは、あせっても仕方ないもんね」

























「こんなところを、のんびりあるいてみるんもええじゃろうね」







「今は使われとらん手押しポンプもあった」







「花を見ながら適当に歩いていくと、草谷の山崎薬師堂に着いた」

「草谷?」

「このあたりは口田中学校の西にあって、草谷と呼ばれるところからこの名前がつけられたそうじゃ」







御大典記念
(向かって左側)

昭和三年十一月吉日
(向かって右側)








「階段を昇っていくと、そこが山崎薬師堂」

「…今日はなにかやりよってん?」

「毎年4月29日は、狐や兎の供養祭・狐兎祭が行われるんじゃそうな。ここには歴史のある「夜山のお地蔵さん」があるらしいんじゃが、こんなときじゃけぇゆっくりと探すわけいはいかんかった」













「ええながめじゃね」

「ここは見晴らしのええ高台にあって、桜の名所としても有名らしいのう」





【参考HP】

「ふるさと口田(口田の神社・仏閣・お地蔵さん)」広島市立口田小学校





訪問日:2015年4月29日






「今日は、中郡道にある新宮神社から山崎薬師堂までを紹介させてもらいました」

次回 は、月野瀬神社を紹介する予定じゃ。ほいじゃあ、またの」
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新宮神社 ぶらり中郡道(その6)

2015年05月19日 | 見て歩き
中郡道

新宮神社





戦国時代末期、毛利輝元は天正17年(1589)広島城築城にあたり、吉田郡山城から広島まで、人の往来や資材の運搬に適した平坦で最短距離の路を在地領主に命じて普請しました。

この路が中郡道(なかごおりどう)です。

(『中郡古道散策地図』より)






前回は、長谷山教蓮寺(ちょうこくざん きょうれんじ)を紹介したんじゃけど…」

「今回は、新宮神社(しんぐうじんじゃ)を紹介してみようかの」







「このあたりは古い家が残っとるんじゃね」

「教蓮寺を出て、この写真には写っとらんが、画面手前の右手にある細い路地を進んでいくと…」







「新宮神社に着く」













「これが本殿で…」











「本殿の手前には狛犬(こまいぬ)狛犬がおる」







「三百五十年祭執行?」

「新宮神社は、慶長4年(1599年)に建立されて、御鎮座350年と、400年には記念の式典がおこなわれたそうじゃ。ほいで、そのときの碑が建てられとるんじゃの」







「凱旋碑?」

「碑文の初めに

廣島縣高宮郡口田村字矢口有従明治二十七八年戦役…

とあった。「明治二十七八年戦役」は、今でいう「日清戦争」のことじゃけぇ、そのときのものじゃの」







「本殿の中には、日露戦争のときの日本海海戦を描いた絵も奉納してあった」

「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」







「同じく本殿の中には、向かって左側に大黒様、右側に恵比寿様が奉納してあった」







「大きなイチョウの木じゃね」

「これは広島市の保存樹に指定してあって、高さは25.3メートル、幹の周囲は350センチメートルあるそうじゃ」







「最後になったが、新宮神社には、いろいろな姿・形をした石づくりの灯籠(とうろう)がたくさん奉納されとるんじゃ」












【参考HP】

「ふるさと口田(口田の神社・仏閣・お地蔵さん)」広島市立口田小学校





訪問日:2015年4月29日






「今日は、中郡道にある新宮神社を紹介させてもらいました」

次回 は、山崎薬師堂を紹介する予定じゃ。ほいじゃあ、またの」
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弘住神社から教蓮寺まで ぶらり中郡道(その5)

2015年05月18日 | 見て歩き
中郡道

ビーダマン

長谷山教蓮寺





戦国時代末期、毛利輝元は天正17年(1589)広島城築城にあたり、吉田郡山城から広島まで、人の往来や資材の運搬に適した平坦で最短距離の路を在地領主に命じて普請しました。

この路が中郡道(なかごおりどう)です。

(『中郡古道散策地図』より)








前回は、弘住神社(こうすみじんじゃ)を紹介したんじゃけど…」

「今回は、その弘住神社から口田南の街をちんたら歩いて、長谷山教蓮寺(ちょうこくざん きょうれんじ)までを紹介してみようかの」







「弘住神社の西側にはJR芸備線が走っとって、その上には県道37号 広島三次(みよし)線の高架が見えるんじゃ」

「よい子の皆さん! 踏切のないところで線路を渡ってはいけません!!」







「矢口川(やぐちがわ)水門が見える。ここから左に曲がって県道37号を渡り、山沿いの道を進む」













「このロボットは?」

「石材店の店頭に飾ってあった、ビーダマンというキャラクターじゃ」

「ビーダマン?」

「わしゃよう知らんけぇ、これ以上は聞かんでくれ」







「おぉ、ウルトラマン!」

「…に見えるが、まがい物じゃ」

「そういわれりゃ、なんとなく違うよね」







「…などと言いながらちんたら歩いていくと、教蓮寺に着く」







「入り口にある松の樹」







「同じく、入り口にある法照燈。これは「1908年(明治41年)3月建立」と刻んであったのう」







「中に入って、これが本堂」







「「長谷山」と書いて、「ちょうこくざん」と読ませるんじゃね」

「長谷山教蓮寺は、もとは戸坂(へさか)村の長谷山にあったのが、寛永18年(1641年)、今の場所に移転したそうじゃ」

「1641年いうたら…、今から374年前か」

「ほいで、もともとは真言宗のお寺じゃったのが、延徳3年(1491年)に浄土真宗に改宗したそうじゃ」

「1491年いうたら…、今から524年前。すごい歴史のあるお寺さんじゃね」







「浄土真宗じゃけぇ、親鸞聖人の像も飾ってあるよ」







「子どものころのしんらんさまも飾ってあったのう」







「お寺の隣にあった、水色の建物(画面中央)もええ味出しとった」





【参考HP】

「ふるさと口田(口田の神社・仏閣・お地蔵さん)」広島市立口田小学校





訪問日:2015年4月29日






「今日は、中郡道にある弘住神社から教蓮寺までを紹介させてもらいました」

次回は、新宮神社(しんぐうじんじゃ)を紹介する予定じゃ。ほいじゃあ、またの」
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岩国城

2015年05月15日 | 見て歩き
岩国城

吉川広家

岩国藩








「山のふもとからロープウェイに乗って、そこから歩くこと約5分。ようやく岩国城に着きました」

「岩国城は、江戸時代になった慶長(けいちょう)13年(1608年)、岩国藩初代藩主・吉川広家(きっかわ ひろいえ)が建てたお城なんじゃ」

「その岩国城が、なんで取り壊されることになったん?」

「慶長20年(1615年)に幕府から出された「一国一城令(いっこくいちじょうれい)」は知っとるかいの?」

「えーっと…。ひとつの藩は、ひとつのお城しか持っちゃいけん、いう命令じゃったよね」

「ほうじゃの。戦国時代が終って江戸時代になり、これからは平和な時代がくる。平和な時代になると、戦いのためのお城は必要ありません。ほいじゃけぇ、藩主が住むお城以外はすべて取り壊してしまいなさい、という命令が幕府から出されたんじゃ」

「岩国城は岩国藩のお城なのに取り壊してしもうたん?」

「そのあたりはややこし話になるけぇあとで話をするが、岩国藩は長州藩(ちょうしゅうはん)の支藩(しはん)、本家から分かれた分家のような藩のひとつじゃったんじゃの」

「…どっちにしても、岩国城というお城は慶長13年から20年まで、たった7年間しか建っとらんかったんじゃね」

「それを戦後の1962年(昭和37年)に復興して今に至っとるというわけじゃ」







定礎

起工 昭和36年3月12日






「あとで話すいうた、岩国藩についての話なんじゃけど…」

「岩国藩について話すには、関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)から話を始めたほうがええじゃろう」

「関ヶ原の戦いいうたら、俗にいう「天下分け目の合戦(かっせん)」じゃね」

「関ヶ原の戦いは慶長5年(西暦1600年)9月、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の死後の覇権を争って、東軍・徳川家康(とくがわ いえやす)と西軍・豊臣側の石田三成(いしだ みつなり)の間で行われた戦いじゃの」

「この戦いで東軍が勝って、家康が江戸幕府を開いたんよ」

「負けた西軍の総大将じゃったのが、毛利元就(もうり もとなり)の孫にあたる毛利輝元(もうり てるもと)」

「輝元は領地を減らされて、長州藩(ちょうしゅうはん。今の山口県)に移されたんよね」

「それまで中国地方一帯を支配し、石高が120万石あった毛利氏は、30万石の長州藩に移されることになったんじゃの」

「負けたとはいえ、石高が4分の1に減らされたいうのは、屈辱的じゃね」

「ところが、家康は毛利家の取り潰しを狙うとって、それを防いだのが吉川広家じゃったということじゃ」

「…???」

「これからは豊臣でなく徳川の世になると考えた広家は、黒田孝高(くろだ よしたか。官兵衛(かんべえ))を通して家康に内通(ないつう)、ひそかに敵に通じ、「東軍が勝った後の毛利家の責任は問わない。 領地はそのまま保障する」という約束を取り付けたんじゃの」

「そうか。毛利両川(もうりりょうせん)、元就の息子はそれぞれ吉川家、小早川(こばやかわ)家に入って、毛利家を盛りたてることになっとったんよね」

「広家はその吉川家。広家は本家である毛利家の今後のため、あえて敵方の徳川家と内通して、毛利家の領土を認めてもらおうと考えとった。実際、関ヶ原の戦いでの広家の寝返りによって、毛利軍はまともに戦うことなく戦いを終えることになったんじゃ」

「それで毛利家の取り潰しは、ないなったん(=無いことになったの)?」

「ところが、広家との約束はなかったことにされて、毛利家の領土は没収、広家に長州藩30万石を与えるということになった」

「ありゃ。毛利家を守ろうとした広家の行動が裏目に出たわけじゃね」

「広家はすぐに毛利家存続のために行動を起こし、広家に与えられるはずの長州藩30万石を、本家の輝元に与えるようにしてもろうたんじゃ」

「で、毛利家が長州藩へ移ったというわけなんじゃね」

「今やっとるNHK大河ドラマ『花燃ゆ』にも、長州藩藩主で北大路欣也(きたおおじ きんや)氏演じる毛利敬親(もうり たかちか)が出てくるよの」

「そうせい!」

「広家もそれに従って、長州藩の東の果てにある岩国藩の初代藩主になったというわけじゃ」

「そういう経緯で、岩国藩ができたんじゃね?」

「吉川家が徳川と通じとったこともあって、長州藩・毛利本家は、吉川家が毛利家を取り潰そうとした張本人とみとった。それもあってか、岩国を支藩とする届けを出しとらんかった。その一方で、徳川と通じた吉川家は、幕府から大名として扱われとったんじゃの」

「確かに、話がややこしいね」

「そんなこともあって、「岩国藩」じゃのうて「岩国領」という呼び方もされることもあるんじゃの」







「お城の瓦にも、吉川家の家紋・蛇の目九曜紋(じゃのめくようもん)が入っとる」







「天守閣からの見晴らしも、えかった(=良かった)のう」

「絶景かな、絶景かな」








「錦帯橋(きんたいきょう)もよう見えるね」

「江戸時代、ここにお城があったら、城下の様子が手に取るように見えたじゃろうね」

「ところが、そうでもないんじゃ」

「…なんで?」

「天守閣を復元するとき、錦帯橋から見えやすいよう、もとの天守台より50メートルほど南に移したんじゃの」









「南に移した? そういや前回、復元された旧天守台がちょっとだけ出てきたけど…」

「あれは、今の天守閣より北側にあって、もともとはあそこに天守閣があったんじゃ」





岩国城跡旧天守台について


岩国城は、江戸時代には珍しく、山上に築かれた近世城郭である。
この城郭は、毛利氏の一族、吉川広家(きっかわひろいえ)が慶長8年(1603)に着工、同13年に完成したが、元和元年(1615)一国一城令により破却された。

城郭の中心となる天守台は、古式穴太積み(こしきあのうづみ)と呼ばれる石積みを基本としながらも、戦国時代に、地方独自の石積みの技術が加わった形で造られた構造物である。

天守台の石垣は、大きめの石と、すき間に詰めた小さめの石からなり、隅部の角石(すみいし)には算木(さんぎ)積みの技法が見られる。
その隅部には、反りはなく、ほぼ直線上の稜線に仕上げられており、見かけの美しさよりも構造力学上の安全性に重点を置いた造りになっている。
これにより、戦国武将吉川氏の石垣の力強さを垣間見ることができる。


(説明板より)








「上の図の、下の緑色の部分はむかしのまま残っているところ。真ん中の黄色の部分が修復、上の赤色の部分が復元したところになるんじゃの」





↓岩国城については、こちら↓

「岩国城」岩国の観光.com






訪問日:2015年5月1日




「今日は、岩国城について話をさせてもらいました」

「ほいじゃあ、またの」
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