味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

面前の田地は『菜根譚』

2011-12-18 11:05:50 | ブログ

タイトル---面前の田地し『菜根譚』。第1084号 23.12.18(日)

 『菜根譚』 12

〈面前の田地は、放ち得て寛くして、人をして不平の嘆なからしむるを要す。身後の恵沢は、流し得て長くして、人をして不匱(ふき)の思いあらしむるを要す。〉

〔訳文〕 この現世に処する心構えとしては、できるだけ心を広く開放して、不平不満を抱いて嘆く人がないようにするのがよい。また死後にまで残る恩恵については、なるべく長く後世に伝えて、人々に乏しいという思いをさせないようにするのがよい。

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〔コメント〕 前半は精神を前向き・建設的にということですが、今日、医学的にも了とされていることです。後半は、人の優れた業績とか、また人格とかを語り継ぎ、人々の精神の縁とすれば、参考になると思います。

 どんなにいいことを教えても聞く耳を持たない人は、目前の宝物を取り逃がしていることと同じように思えてならないのです。


藜口莧腸の者は『菜根譚』

2011-12-17 11:06:58 | ブログ

タイトル---藜口莧腸の者は『菜根譚』。第1083号 23.12.17(土)

 『菜根譚』 11

〈藜口莧腸(れいこうけんちょう)の者は、氷清玉潔(ひょうせいぎょくけつ)多く、袞衣玉食(こんいぎょくしょく)の者は、婢膝奴顔(ひしつどがん)を甘んず。蓋(けだ)し、志は澹泊を以てして明らかに、しかして節は肥甘よりして喪うなり。〉

〔訳文〕 平素、粗衣粗食に甘んじている士人には、氷のように清く玉のようにけがれのない心の持ち主が多いが、(これに反して)、美衣美食に奢る輩には、甘んじてのようなお追従を上位の者にする卑賤な態度の者が多い。思うに、人間の操守は、淡白な生活によってますます磨かれるが、その気概は、豪奢な生活によって次第に失われていくものである。

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〔コメント〕 的を得た訳文・解説であります。人間の一生は人それぞれですが、美しき生き方が、その人の心がけによってもろくも崩れることもあるものです。それは精神に哲学がないからだとも言えましょう。

 自分で自分をみじめにすることほど悲しいことはないでしょう。人生の喜び楽しみは、ほどほどを喜べる位がいいのではないかと常々考えています。

 人生の指南書『南洲翁遺訓』と出会った私は、果報者だと思っています。

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 昨晩は中村天風著『いつまでも若々しく生きる』を聞きながら、健康ランドのジャングルを真っ暗闇の中、歩きました。天風の説く、唯心論は見事だと思います。多くは、目の前の現象世界だけを見て、判断していますが、心ある人は、天風の本を購入して読んでください。二度とない人生、幸せが倍加してきます。

 自分で自分の人生を改革したいものです。それが大きな喜びにつながるからです。


恩裡に由来害を生ず『菜根譚』

2011-12-16 13:22:46 | ブログ

タイトル---恩裡に由来害を生ず『菜根譚』。第1082号 23.12.16(金)

 『菜根譚』 第10章

〈恩裡に由来害を生ず。故に快意の時、須らく早く頭(こうべ)を回(めぐ)らすべし。敗後に或は反って功を成す。故に払心の処、便(すなわ)ち手を放つこと莫れ。〉

〔訳文〕 (人情は翻覆常なく忽ちに変ずる)。恩情の厚いときに、昔から、ややもすれば思わぬ災害を生ずることが多い。それ故に、恩情が厚くて得意な境遇のときに、早く反省して後々の覚悟をしておくがよい。また物事は失敗した後に、かえって成功の機をつかむことが多い。それ故に、失敗して思うにまかせぬときにこそ、手を放し投げ出してしまってはならない。

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〔コメント〕 耐えず慎重に物事を計画し、反省し、次への対策とすることが肝要であるということでしょう。平和にどっぷりつかった日本人こそ考えなければならないことだと思います。

 今朝のアサズバで、橋下新大阪市長の意思表明がありました。今こそ、全国の若い人たちが立ち上がらなければならないと思います。前政権も、現政権も、国民の、若い人たちのことは歯牙にもかけてないないのです。あるのは自分が当選することだけです。

 国家の予算を有効に配分すれば、どうにかなる筈なのです。明治の英傑・西郷隆盛がいれば橋下さんに応援したのではないかと思う次第です。

 野球に、サッカーに、お笑に、熱中することもいいことではあるでしょうが、先ずは政治にも興味を持って欲しいものです。

 


夜深く人静まれるとき『菜根譚』

2011-12-15 13:23:49 | ブログ

タイトル----夜深く人静まれるとき『菜根譚』。第1081号 23.12.15(木)

 『菜根譚』 第9章

〈夜深く人静まれるとき、独り坐して心を観ずれば、始めて妄窮まりて真(しん)独り露  (あら)わるるを覚ゆ。毎(つね)に此の中において、大機趣を得(う)。既に真現われて妄の逃れ難きを覚ゆれば、また此の中において、大慚忸(ざんじく)を得。〉

〔訳文〕 夜が更け人々が寝静まった時、独り坐して自己の本心を観照すると、次第にもろもろの妄念が消滅して、自性清浄の真心だけが現われてくるのを覚える。このような折に、しばしば応用自在な心のはたらきを体得することができる。かくしてすでに真心が現れても、妄念は全く払い去りがたいことをさとると、そこでまた大懺悔心を生じて、成道へ発心する。

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〔コメント〕 解説の前半では、「もろもろの妄念が消滅して--」と書き、後半では「妄念は全く払い去りがたいことをさとると--」と書いているが、私の理解は確たるものではないようです。このくだりは相当の修業を積んだ人の見解ではないでしょうか。修業を積んだとされる白隠禅師でさえ、ノイローゼになったのですから。

 どんな人でも、妄念雑念はあり、時によっては心を苦しめることもあると思います。その場合、中村天風師の言葉は元気を与えてくれます。

 曰く、

今日一日 怒らず 怖れず 悲しまず 正直 親切 愉快に 

力と 勇気と 信念とをもって 自己の人生に対する責務を果たし 

恒に平和と愛とを失わざる 立派な人間として生きることを

厳かに誓います。

 私はそのあとに、自分の言葉を続けています。

 健康 富裕 繁栄 成功 必ず実現します。

 思いと行動を死ぬまで続けます。


天地は寂然として動かず『菜根譚』

2011-12-13 13:37:39 | ブログ

タイトル----天地は寂然として動かず『菜根譚』。第1079号 23.12.13(火)

 『菜根譚』 第8章

〈天地は寂然として動かずして、而(しか)も気機は息や)むことなく停(とど)まること(まれ)  なり。 日月は昼夜に奔馳(ほんち)して、而も貞明(ていめい)は万古に易(かわ)らず。故に君子は、閒時(かんじ)には喫緊的の心思あるを要し、忙処には悠閒的の趣味あるを要す。〉

〔訳文〕 天地はまったく寂然としていて動かないが、その間にも天地のはたらきは、休むことなく止まることもない。また、日月は昼夜、たゆみなく運行しているが、しかも月日の正しく明らかなことは、永遠に変ることはない。それ故に君子は、ひまな時には、とっさの場合に応ずる心構えを持つ必要があり、(反対に)、いそがしい時には、悠々閑々たるゆとりある趣を持つ必要がある。

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〔コメント〕 「忙中の閑」という言葉もあります。忙しくなった時は人間気がせわしくなるものです。そういう時に精神にゆとりを持つことが大切だということです。

 数か月前、食堂の床が40年の歳月のためにボコボコなりました。大工さんに頼めば金がかかるので、自分で取り替えることにしました。新建材を買いに行き取換えましたら四日間かかりました。その時、板が不足したためナフコの閉店間際に店に駆け込みました。

 隣に乗っていた娘に、こういう時こそ絶対にあわててはだめだよと言って聞かせたものです。慌てて急いで交通事故でもしたら、取り返しがつかなくなります。

 そして車両に荷物を積んだら、ロープも何重にかけることが大事です。物が落ちたら大変なのです。

 道路で見かける車両の5割が、不安定なロープのかけかたをしています。車両だけでなく、すべてに、念をいれたいものです。