味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

醲肥辛甘は真味にあらず『菜根譚』

2011-12-12 11:07:37 | ブログ

タイトル----醲肥辛甘は真味にあらず『菜根譚』。第1078号 23.12.12(月)

 『菜根譚』 第7章

〈醲肥(じょうひ)辛甘(しんかん)は真味にあらず、真味は只だ是れ淡なり。神奇卓異は至人(しじん)にあらず。至人はただ是れ常なり。〉

〔訳文〕 濃い酒や肥えた肉、辛いものや甘いものなど、すべて濃厚な味の類は、ほんものの味ではない。ほんものの味というものは、(水や空気のように)ただ淡泊な味のものである。(これと同じく)、神妙不可思議で、奇異な才能を発揮する人は、至人ではない。至人というものは、ただ世間並みな尋常な人である。

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〔コメント〕 至人とは、「最高の境地に達した人、道をきわめつくした人」(漢語林)と解説されています。先に芸能界の偉いとされる人がなくなりました。その際、メディア等では至人と同等くらいに褒めたてました。その時、私は首を傾げていました。ああいう人は、芸的にはうまいと思うが、決して至人とは言わない筈だ、と思っていたのです。

 今回、『菜根譚』第7章を紹介するにつけて、私の勘は外れてはいなかったな、と合点しました。思うに、至人というのは、メディアでチヤホヤされる人間ばかりではない、と思うことでした。

 私は長年、安岡正篤先生の著書を繙いてきましたが、安岡先生の周囲におられる方々こそ至人というような気が致します。

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 昨晩は、今年最後の薩摩南洲会勉強会を開催しました。小野寺時雄荘内南洲会理事長の著書と頭山立雲先生の解説等々で学びました。何回読んでも小野寺先生の『南洲翁遺訓』解説は素晴らしいと思った次第です。

 年末に折角集まったから、酒を一献傾けようではないかということで、おつまみなしの焼酎だけの忘年会をしました。

 『南洲翁遺訓』の人間論にはじまり、政治論、教育論、武道論等々に言及し迚も有意義な話し合いが出来ました。青年の部類に入る木場師範兄弟と我々老人との会話も意志する処は見事に一致し極めて意義ある勉強会でした。

 子供さんがおられる保護者が聞いたら、身を乗り出して聞くであろう子育て論も極めて意義あるものであったと思います。世の人々が、中村天風師の『成功の実現』、『盛大な人生』、『心に成功の炎を』、『いつまでも若々しく生きる』を読んでくれたら、幸せが舞い込むのになぁと何時も思っていましたら、30歳の木場師範は購入し、読み、これほど素晴らしい本はないと絶賛していました。

 今、政治家、識者という方で信用に値する人がどれほどいるでしょうか。昨日のテレビ報道「なんでも言って委員会」で、アメリカ人の方は政治家の点数は40点だと採点しました。多くの国民がそのように捉えているのではないか、と思うことでした。


疾風怒雨には『菜根譚』

2011-12-11 12:13:39 | ブログ

タイトル----疾風怒雨には『菜根譚』。第1077号 23.12.11(日)

 『菜根譚』 第6章

〈疾風怒雨には、禽鳥も寂々たり。霽日(せいじつ)光風には、草木も欣々たり。見るべし。天地は一日も和気なかるべからず、人心は一日も喜神なかるべからず。〉

〔訳文〕 暴風豪雨の日には、非情の小鳥までも憂え恐れて悲しげである。(これに反して)、天気晴朗で穏やかな風の日には、草木も生き生きとして喜んでいるようである。してみると、天地には一日たりとも和気がなければならない。(これと同じく)、人の心にも一日たりとも喜び楽しむ気持ちがなければならない。

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〔コメント〕 「訳文」にある「和気と喜ぶ気持ち」は、個人個人の心の持ちようでいかようにもなると思います。雨の日には自宅で読書をする、よいお天気の時には散歩をする、運動をする、と心掛け次第で人生は楽しめるのです。

 先週の週刊誌によると、70歳以上は病院に行くな、というような激しく厳しい記事の広告がありましたが、私も含め高齢者は自分も大事だが、若い人も大事にしなければならないと思います。日々を謳歌していれば、潔く旅つ心境にもなれるであろうと思うのです。

 かねて努力もしないで、要求だけをするのは、これは天がよしとしないでしょう。私の詩吟道の師匠は、喜んでと思われるくらいの心境で旅たったのでした。早く往きたいと何回も私には話したものです。漢詩を250首詠み、満足した心境のようでした。


徳に進み行を修める『菜根譚』

2011-12-10 10:12:22 | ブログ

タイトル---徳に進み行を修める『菜根譚』。第1076号 23.12.10(土)

 『菜根譚』 第5章

〈耳中(じちゅう)、常に耳に逆らうの言を聞き、心中、常に心に払(もと)るの事ありて、纔(わずか)に是れ徳に進み行を修むるの砥石(しせき)なり。若し言々耳を悦ばし、事々心に快ければ、便ち此の生を把って鴆毒(ちんどく)の中に埋在せん。〉

〔訳文〕 人間は平素、常に耳には聞きづらい忠言を聞き、常に心には思い通りにならぬことがあって、それでこそ徳に進み行を修めるための砥石となる。(これと反対に)、もしどの言葉も耳を喜ばせ、すべての事が心を満足させるようであっては、それではこの人生を鴆毒の中に埋め沈めてしまうことになる。

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〔コメント〕 既に紹介しましたように、『菜根譚』を手にしてから20数年が経過しました。頁をめくるごとに素晴らしい、素晴らしいと感動しなから読んだことを思い出します。『菜根譚』、『禅とは何か』、『古典の教え、誠、明、健』、『南洲翁遺訓』は片時も離さず持ち歩いたものです。電車を待つ間、バスを待つ間、寧ろよろこんで本を読みました。お蔭で私の本はボロボロになっています。これらは私の宝物なのです。

 百点満点の人間なんている筈がありません。だから、聞きたくない忠言は喜んで聞くべきだと思います。そして、真剣に咀嚼して、改めるべきは改め、反省すべきは反省することが肝要でしょう。でも、自分の信念を曲げ、あっちにふらふら、こっちにふらふらはすべきではないと思います。

 自らの行動が、思考が、社会性があるか否か、教育性があるか否か、多くがよしとしてくれるかで判断したいものです。それが確認できたら、『孟子』にある「千万人と雖もわれゆかん」の精神で邁進したいものです。

 政治家たちがバラマキを提唱しています。これらは、一見、社会性があり、多くが〝よし〟としてくれているように思われます。だが、半世紀後、一世紀後の民族の衰退につながるのです。国家・民族の衰退につながるようなことは是認すべきではないのです。


勢利紛華は『菜根譚』

2011-12-08 10:28:14 | ブログ

タイトル----勢利紛華は『菜根譚』。第1075号 23.12.08(木)

 『菜根譚』 第4章

〈勢利紛華は、近づかざる者を潔(いさぎよ)しとなし、これに近づきて而(しか)も染まざる者を尤も潔しとなす。智械機巧は、知らざる者を高しとなし、これを知りて而も用いざる者を尤も高しとなす。〉

〔訳文〕 権勢名利や豪奢華美のたぐいに、近づかないように心掛ける者は潔白な人である。然しそれらに近づいても、その悪習に感染しない者こそ、最も潔白な人物である。権謀術数のたぐいを、全く知らない者は高尚な人である。然しそれを知っていても、自分では用いない者こそ、最も高尚な人物である。

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〔コメント〕 拙著『礼節のすすめ』、人物論「皇刀軒流斬試道・岩坪清美四代宗家」の冒頭にこの言葉を紹介しました。岩坪師範は、この解説にあるとおりの人物であるため、敢えて紹介したのです。

 今の日本の国に該当する人が存在するであろうか。

 今朝の新聞に「礼なくして権威はない」という論文が掲載されています。

 骨子のみ紹介します。曰く、

〈与野党の対決の「質」が落ちている気がしてならない。----ヤジも、相手の発言を邪魔するような品性の低いものではなかった。

 今は議論の内容もヤジの品性もどうにかならないかと思わせる。国会が国民に信頼される基本である「権威」を欠くからだ。----礼なくして権威も信頼もない。〉

 「礼」とは、「国家・社会の秩序を維持する組織やおきて」(『漢語林』大修館書店)と解説されています。

 私はこの記事を読み、40年前のことを思い出しているのです。国会議員で建設大臣であった秘書の口座に、数十億の金が振り込まれていたというのです。その建設大臣が死去して後、この論文を書いた人が何らかの方法で没収したと専らの噂でした。本人は時も経過しているし、誰も知らない、と思っているでしょうが、天は観ているのです。

 天網恢恢疎にしてもらさず、という言葉もあります。


君子の心事は『菜根譚』

2011-12-07 10:23:26 | ブログ

タイトル----君子の心事は『菜根譚』。第1074号 23.12.07(水)

 『菜根譚』 第3章

〈君子の心事は、天青く日白く、人をして知らざらしむべからず。君子の才華は、玉韞(つつ)み珠蔵(たまかく)し、人をして知り易からしむべからず。〉

〔訳文〕 君子の心ばえは、青天白日のように公明正大にして、常に人にわからないところがないようにさせねばならぬ。然し才智の方は、珠玉のように大切に包みかくして、常に人にわかりやすいようにしてはならない。(その心事が明白でないと陰険だと思われ、その才華を表しすぎると、衒うと思われるから。心事が本で、才華は末である。)

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〔コメント〕 大変よい訓戒だと思います。知っていても誇らず、尋ねられたら教え、謙虚でありながらも信念は貫く度量が欲しいものです。心事とは、心に思っている事柄ということであり、才華とは、華やかに外に表れた才知ということですが、そこに謙虚な姿勢というものがなければならないでしょう。そのためには『南洲翁遺訓』を座右に置き、日々繙くことが肝要であると思います。

 今朝のテレビ朝日で、一川防衛大臣の言動についての報道がなされました。大臣が発言したことについて沖縄県民が怒っており、辞任すべきだ云々と。

 それについてコメンテータの東ちづる氏が、「本人が決めることではなく、他者が決めることだ」と断定するような発言がありました。聞いていて、「何を言うのですか、それは本人が決断することなのです」と私は独り言をいいました。知ったかぶりもいい加減にして欲しいと思った次第です。

 ある人の著書を拝見したら、人をかき分けて自分が先頭にたたなければ気がすまないというような事が書かれていました。こういうことについて『南洲翁遺訓』は、未熟な人間のすることだ、と戒めています。同感です。

 特に政治家は自らが学び、国民に真意を説明し、自ら決断をしなければならないのです。ただ勲章欲しさと、金欲しさに汲々としてはならないのです。

 そのために漢籍を学び『南洲翁遺訓』を学ぶ必要があるのです。治乱興亡を繰り返してきた歴史が、人間のあるべき姿を教えていると思われるからです。