晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

大唐内のこと(33)鬼伝説 1/30

2011-01-31 | 歴史・民俗

2011.1.30(日)曇

 説話はあくまで説話ではあるが、もとをただせば語り継がれてきた史実に基づいているのだろうと考える。ただ長年の間にそれを取り巻く人々の都合によって様々に変節することは当然あろうかと思う。「酒呑童子の誕生」(高橋昌明著)はその辺りのことを解りやすく端的に述べられており、私も同感する部分がある。例えば麿子親王伝説の項にあるのだが、麿子親王伝説は日子坐王伝説の翻訳であるが、翻訳をした人びとはどのような人びとかという書き方で、勧進活動いわゆる寺社の建築資金を調達する目的を持って作られたと言うことである。
 酒呑童子の項では鬼退治の主役が渡辺綱になっている事について、平たく言えば渡辺党が凋落傾向にあった時人気を取り戻すために説話をそのようにしたと言うようなことが書かれている。これらの経済的、政治的な理由によって説話が形作られていくことは充分に理解できる。例えば行基や弘法大師の開祖によるとかいうものや縁起物語なども勧進活動、あるいは布教宣伝活動に必要性があって文章化されたものと理解すれば、納得がいく。
 ただいくら現実的な要請があったとしても、それまでに語り継がれてきた口伝の伝説を完全に無視して新たな作り話を作り上げるというのは不可能だといえる。なぜなら、口伝の伝説というものはその地域なり寺社に関連する人びとのおおよそが知るところであり、それを完全に変節するとか大きくねじ曲げるということはそれら大衆の支持を失うと言うことだからである。
 記紀が天皇家の都合によって編集されていることは疑いを持たない。しかしながらそれとて語り継がれてきた口伝や説話を完全に無視あるいは完全に変節させることはできないだろう。歴史家達は巧妙に編集された文章の中からそれ以前の歴史を、史実を突きとめるために研究を重ね、様々な試論が出ているということだ。
 そうした考え方を元に大唐内の大蜘蛛伝説を見てみたら、一体どのような歴史が、史実が見えてくるのだろう。いくつかのヒントを提供してきたのだが、まだ腑に落ちないことがいくつかある。その一つが、大蜘蛛を退治したのがなぜ弓の名人であったかということと、善右衛門に射られて死んだ悪い僧兵がなぜ脇腹痛の神さまになるのかということである。つづく(大唐内のこと(32)は2011.1.27)

【作業日誌 1/27】
ガーデンシェッドドア作製、ドア枠の溝切りImg_2262

12mmのビットを使いトリマーで溝を切った。小型の機械なので大変。



 今日のじょん:パオパオさんが雪上ぽんぽこぽんを大変褒めてくれたので、もう一発格好いいのを見せるじょん。じょんカレンダーも作りやしたから、今しばらくお待ちを、、。Img_2256 Img_2254

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本当かよナンバーズ 1/29

2011-01-29 | 日記・エッセイ・コラム

2011.1.29(土) 晴

 天気予報がはずれて良い天気になった。雪が降り積もっていても陽の光があると随分気分が明るくなる。灰色の空から間断なく降り注ぐ雪景色は誰だって陰気になる。東北三県の自殺率の高さはこの辺に事由があるのかも知れない。それでも今夜から明日、明後日にかけては大雪の予報が出ている。やはり今少し我慢の冬というところか。
 昨日は雪の中を綾部に買い物に行った。ロト6がキャリーオーバーなので買ってきてくれと言うかみさんの頼みで宝くじ売り場に行ったのだが、何となく普段買わないナンバーズを買ってしまった。滅多に乗らない飛行機がこれまた墜落する確率より低いというロト6よりナンバースの方が楽しいかなと思ってのことだ。億のお金が入ったら人生変わるかもしれないが、数十万円ならパーっと楽しく使えるかなと思って朝刊をのぞく。Img_2258
え゛~、1111の連番だ。まあたまにあることだから仕方がないなあ。ボックスで買ってる私は該当無しということになっている。はずれるのなら納得いくけど該当無しというのなら、これって払い戻しじゃないのかよ。でもなんで該当無しとなるんだろうねえ。キャリーオーバーの制度がないナンバーズの該当無しで払わなかったお金はどこへ行くんだろう。ストレート当選は436人で307,100円、これって少なくないかい。どーも納得いかんなあ、それにしても久々に買ったらこれかよとあきれていたらもうひとつびっくりすることが起きた。ナンバーズ3の当選ナンバーが222なんだ。これってありかい。一体どんな抽選をしているのか知りたいところだ。こんな確率って、たまにしか乗らない飛行機が落ちて、みんな事故死かと思ったらひとり助かっていて、病院に運ばれる救急車が交通事故を起こして死んでしまったよーな確率でないかい。たまに買ったナンバーズがこれじゃあ、今年もお金にゃあ円が無さそーだ、もとい縁がなさそーだ。

【作業日誌 1/29】
ガーデンシェッド、ドア作製初日。

今日のじょん:朝4時頃に「ワン」という鳴き声がひとこと、また放浪犬が来てけつかるなと、今日はじょんと探索に出る。新雪が降っているので足跡を辿ることが出来るのだ。ご丁寧に各家を廻っている。一箇所雪を掘って土を出しているところもある。雪の無いときもどこか掘っているのだろうが解らないだけだ。念道橋付近に来ると、雪がかいてあり、他の犬の足跡も増えて解らなくなってしまった。
Img_2253

足跡くんくん。
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

埋蔵金 1/28

2011-01-29 | 日記・エッセイ・コラム

2011.1.28(金)雪 積雪9cm

 埋蔵金というのは男のロマンをかきたてるものである。19才になったばかりの5月に初めて立山連峰に登った。5月に雪があるというだけで驚いていた頃である。初日は黒四ダムから丸山のトラバースをして、内蔵助平に天張る。「ないぞうすけべい」ではありませんぞ、くらのすけだいらというカール状の斜面である。内蔵助の由来は赤穂浪士ではなく、佐々成政の幼名ということである。成政は大河ドラマで有名になったのでご存じと思うが、厳冬期の北アルプス横断いわゆる佐々成政さらさら越えの当事者である。越えたのはザラ峠から針ノ木峠と言われているが、いろんな説があって定かではない。ただ厳冬期にアルプス横断をしたということは事実らしい。当時の登山装備、登山技術ではとんでもない大冒険だと言えるのだが、もちろん冒険のためやったわけでなく、秀吉に追われてやむなく敢行したというあまり格好の良いことではないわけだ。ではなんで内蔵助平と佐々成政が関係あるのかというとよく解らないのだが、やはり埋蔵金伝説だろうか。富山は金鉱が多く、佐々成政が大量の金を所有していたのは理解できる。軍資金として立山のどこかに埋蔵したとしても不思議ではない。最も有力な候補は立山の西南の鍬﨑山である。アルペンルートのバスの中で「朝日指す夕日輝く鍬﨑に、七つ結び七結び、黄金いっぱい光り輝く」の詩をその後何度聞いたことか。
  さてどこやらの政党が財源には埋蔵金があると言ってばらまき政策を約束したが、埋蔵金の蓋を開けてみれば借金だらけだったというお粗末な事になっている。本来は埋蔵金もあったのだが、誰かがしょーもないことに浪費してしまったのかもしれない。Img_2252
 実はじょんのび村でも埋蔵金が出てきたのだ。書籍を処分すべく整理していたところ、伊藤博文の千円札や岩倉具視の五百円札がでてきたのだ。うーむ埋蔵金にしては少なすぎる。でもまだあるかもしれないし、全ての本を調査すべし。

【作業日誌 1/28】
ガーデンシェッド飾り窓取り付け

今日のじょん:もううんざりの雪景色なんだけど、捜索ぽんぽこぽんは随分うまくなってすぐ見つけられるようになってきた。もう少し集中力があったら捜索犬になれるかもね。Img_2248 Img_2247 Img_2251  

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大唐内のこと(32)鬼伝説 1/27

2011-01-28 | 歴史・民俗

2011.1.27(木)雪 積雪11cm

 私が川合(現福知山市三和町川合地区)に住んでいた頃、1969年までには水道は通っていなかった。水は井戸や山水に頼っていた。どこの家にも井戸があって豊富に水が湧いていた。ではその井戸はいつ掘られたかというのは定かではない。私が母に聞いたのは、井戸堀職人は大原の奥にいたということである。戦後のことだと思うのだが、井戸堀を依頼するために徒歩でその家に行ったということを聞いた。つまりその時の話題は井戸掘りのことではなく、大原と言うところが如何に奥深いかというものだったのだ。上川合から3Km程で大原神社に着く、そこから同じぐらい奥に入ると言っていた。おそらく府道59号線沿いの峠道を辿ったのだと思う。話通りだと母は往復12Km歩いて井戸堀を依頼に行ったわけだ。話はまとまって我が家の井戸が掘られたわけだが、何という職人さんだったのか、いつ頃の話か聞いておきたかった。
 大原は川合の最奥にある地域で、大原神社や産屋で有名である。産屋の習慣は海人族の象徴的な習慣であるが、澤潔氏は「西丹波秘境の旅」で海人族の文化が由良川から土師川、川合川を通じ遡上したと想像されている。私はそうは思わない、海人族の文化は由良川から直接大簾川(おおみす)を遡って峠を越えて、あるいは綾部から質山峠を越えて大原に入ってきたものと思う。このことは将来詳しく考察してみたいと思っているわけで、今のところ確たる根拠はないのだが、あるとすれば次のいくつかぐらいだ。Img_0291_2 Img_0296

大原の産屋と大原神社の舞台。

 川合には地名に属した姓がほとんどない。というより今のところひとつも確認できない。ところが台頭(だいと)に出野(いでの)の姓があるのだが、丁度府道59号線が国道27号線に出合う辺り(京丹波町和知)に出野の地名がある。また大原、台頭に多い片山姓も綾部市には多くあるのだが、釜輪町にも集中してあるようだ。

 川合において大原の文化は独特の文化ととらえられている。大原神社、産屋の存在などもあるが、私の母などは大原は平家の落人云々ということまで言っていた。平家の落人は無いだろうが、川合の他の地域とは異質の文化が根ざしていたという意識だろう。感覚的にしか解らないが、上川合より下流には海人族を思わせる文化の痕跡は見あたらないようだ。

 丹波における杜の痕跡と考えられている、ダイジゴ(大将軍)の地名が台頭にある。また上川合には大ジョグンの地名がある。綾部などの由良川流域にはこの地名が残っているところがいくつかあるが、川合ではこの二つだけである。

気になる地名
赤水、蛇ヶ谷、火ノ谷、水ナシ。丹後畑、カラト、オニガサコ、浅町、船迫、芦谷、イモレガ谷、アラボリ、荒神向、マトバ、森ノ奥、引地、マヤガ谷、以上大原
荒神、六ロ谷、大将軍、以上台頭
青木森、浅町、猫ヶ市道ノ上、大ジョグン、講神、ハマイバ、出石、以上上川合

大原の井戸堀職人について書いたのはいつか大原のことを考察しようとするときの参考にと書き留めたのである。大原は位置的にも文化の意味でも大唐内と類似していると考えている。どちらも若狭、丹後の海人族の文化が峠を越えて流入してきたのではないだろうか。

今日のじょん:じょんの散歩コースも雪の制約を受け、だんだん狭くなってきている。それでも頑張って連れてっているんだが、他所のワンちゃん達は運動不足でストレス溜まっているとか。じょんちゃんも冬景色には食傷気味。Img_2242

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今冬のニューアイテム 1/26

2011-01-27 | 日記・エッセイ・コラム

2011.1.26(水)曇、雪

 上林の雪なんざてえした事ねえやなーんて言ってたら、昨日又しても降った。といっても10cmの積雪なんだが、やっと見え始めた地面が又しても真っ白になってしまった。丹後の世屋地区では2m59cmだって、今年の冬は半端じゃねえ。全体的に気温も低く、朝はいつも0℃前後の気温である。ただ、キンとした寒さはなく、-2℃が最低である。ちなみにじょんのび村の最低気温は一昨年の-4℃である。これは本来の最低気温ではなく、朝起きて温度計を確認しての気温である。
 夏の暑さを防ぐ手だてはそうあるものではないが、冬の寒さを防ぐ方法はいくらでもある。家の構造的なものは、玄関の前室や掘りごたつ周囲の断熱材張りを予定しているが、すぐに出来ないのが難点である。
 衣類としては暖かくて軽い素材が出てきて大変重宝する。以前のアクリル、パイル地の分厚い下着などは順にウエスに変わっている。これはストーブの耐熱ガラスのスス取りに最適である。新素材の下着は山用とか自転車用とかゴルフ用とか大切に保管していたが、次々と新しい素材も出てくるようなのでどんどん使うべしという気になって使っている。昔のらくだのシャツは一体何だったんだろうか。
 ヤッケは冬山用のパーカーを外着に使っている、暖かくて帽子が付いていて雪国には最適だ。オーバーズボンや手袋など冬山用の用具は以前に紹介したが、今年のニューアイテムはサスペンダーと鋲付長靴である。どちらも以前から欲しかったものだが、値段も高い上に無きゃあ無いでどうってことないというものである。
 コメリで在庫商品を格安で売っていたのが鋲付長靴である。1、500円台で売ってたのですかさず買ってしまった。今冬は雪も多いが気温も低く、朝は凍結状態なので離せなくなっている。Img_2243 Img_2246
シャツ上はモンベル、下は光電子。鋲付長靴は必須アイテム。

 
 サスペンダーは京都で働いている頃から欲しいものだった。オーバーズボンや合羽はナイロン製が多く、つるつる滑ってずり落ちてくるのだ。購入すべく意を決してジャパンに行く。ベルトは沢山あるが、サスペンダーは扱っていない。コーナン、ストック、コメリ、どこへ行っても扱っていない。アスパの二階でやっと見つけたが、小学生が半パンにするようなちゃっちいやつで1,980円、こりゃあたまらん。丈夫で幅広の作業用のが欲しいのだ。やむなくインターネットで探す。色々のサスペンダーがあるが、結局1、546円の手頃感で購入した。これも使ってみると快適で、もっと早く買ってれば良かったというしろものである。Img_2244

やっと買えたサスペンダーと20年ぐらい前のオーバーミトン。


  この二つが今冬のニューアイテム、そして今冬大活躍したのがオーバーミトンである。これも冬山の用具で手袋の上にする指無しの手袋である。紐がつているので首からぶら下げておき、脱いだときもしまわなくていいから便利。これが雪かきには必需品、手も冷たくなく濡れてこない。じょんの散歩時にも活躍している。寒い冬を快適に過ごすアイテム、なるべくお金を掛けないで準備したい。

今日のじょん:朝の散歩時、道路はブルーアイスがはってリンク状態になっている。特に歩道は雪解けで流れ出る水が氷ってつるんつるん。四輪駆動のじょんでさえもつるりんと滑っている。こちとらも鋲付長靴で対応しているが、それでも滑る。アイゼンもおいとけば良かった。Img_2235


ぴかぴか光っている部分がブルーアイス。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大唐内のこと(31) 1/25

2011-01-26 | 歴史・民俗

2011.1.25(火)雪、曇

 「有安の藤元家の中で井戸掘りを生業としていた方はありませんか?」
 「そんな人はいなかったと思うがなあ」
 「上林で井戸掘りをしていた家や業者はどこでしたか?」
 「福知山の業者にしてもろてた様に思うけど」
老富で聞き取りをしていた際のやりとりである。有安の藤元家が井戸掘りをしておられたら、「藤」姓の井戸掘り業者説はぴたりと来るんだが、中々そうはいかない。
 鉱山や採鉱に携わる人びとの技術と井戸掘りの技術が共通するというのは理解が出来るし、特にどちらも水脈に大いに関係するというのも納得できる。だた、藤=淵で水の精霊を象徴するというのはどうも理解しがたい。例えば植物の藤蔓が水脈に沿って成長するとか、水脈のある方に伸びていくとかということが云われていれば一理あるということになるのだが、調べてみてもそういう説は見あたらない。植物の習性として根と枝は同一方向に伸張するようだし、根は水を求めて伸びるようだから、藤の蔓と水脈の方向は一致しても良さそうだと考える。自分で実験をするしか実証のしようはないようだ。
 ここで草壁の土井さんが井戸掘りの機械を持っておられ、頼まれれば井戸掘りをされていたことを思い出す。廃業された業者の機械と技術を譲って貰ったという風に聞いていた。どこどこは金気が多くて掘っても駄目なんてことをよく耳にしていたものだ。奥さんがいらしたときに、どこの業者から譲って貰ったのか確認したら、福知山の業者と云うことだった。Img_3086

土井さん宅から頭巾山方面を望む。亡くなられて丁度一年だ。


上林のように大きな地域に井戸掘りをしていた業者、家は必ずあると思う。機械を使う時代には綾部や福知山に依存していたかもしれないが、それ以前の人力と職人の技術に頼っていた時代には、地区内に一業者ぐらいはあったものと予想する。それを探し出すことが、歴史の解明にすぐつながるというものでもないのだが、探究、研究というのはそういうものだろう。
 少し本題と離れるかもしれないが、私の故郷三和町川合の井戸掘り職人について母から聞いたことがあるので書き留めておこう。つづく

【作業日誌 1/25】
ガーデンシェッド北側化粧板張り
杉板カンナがけ
二階物干し作製Img_2233

冬は部屋乾しだからね。この場所はストーブの熱気が一番当たるところ。


 今日のじょん:かみさんが腰痛で伏せっており、じょんのいる部屋で寝てるもんだから凄い心配そうな顔をしている。本当に解っているのかどうか知らないけど、人の気配を敏感に感じ取るのは犬が最高なんだって、、、。 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大唐内のこと(30) 鬼伝説 1/24

2011-01-25 | 歴史・民俗

2011.1.24(月)晴、曇

 大唐内の大蜘蛛を退治した有安の弓の名人藤元善右衛門について、有安の地名については少し気になることを書いた。そして今ひとつ藤元という姓についても気になることがあるので書き留めておこう。
 金属に関連する様々な伝承がある。俵藤太秀郷の百足退治は滋賀県の三上山の百足退治で有名だし、他にも炭焼藤太、芋掘藤太伝説はいずれも鉱山、採鉱に関係するものである。佐渡には炭焼藤五郎の伝説があり、「藤」の名の付くものが多い。名ばかりで無く、姓、神社名、地名などにも「藤」が付くものは金属関連という説がある。ところがこの理由がよく解らない。若尾五雄氏は藤太=淘汰を「黄金と百足」の中で述べておられる。当初、淘汰という言葉は近代的な言葉のようで古代の鉱山、採鉱とは無縁だろうと思っていたのだが、「鼓銅図録」という古文書に淘汰の図というのがあり、従来からの金属用語であり、藤太=淘汰もありかなと言う気になってきた。
これだと思ったのが、「古代の鉄と神々」(真弓常忠著)の鉄穴(かんな)流しと藤蔓という項である。鉄穴流しとは鉄砂を含んだ土砂を河の水流で流し、底に残った鉄砂を採取することであるが、その鉄砂をすくい取るのに藤蔓を使うということだ。真弓氏も「アッ」と気がついた、と書いておられるが、このことは結構多くの研究者に藤と金属の関係について支持されているようだ。(2011.1.9参照)ところが「古代の鉄と神々」をよく読むと、上賀茂神社の御阿礼神事(みあれしんじ)に使われる「おすず」なるものが何故藤枝で出来ているか、あるいは神話にある
洩矢神が鉄輪、タケミナカタの神が藤枝を持って戦ったかという内容で書かれていることであることが解る。少なくとも「古代の鉄と神々」の中ではタケミナカタの神がなぜ藤枝を持って戦ったかと言うことを書かれたことであって、産鉄民に多い「フジ」姓のことを書かれているのではないと私は考えている。
 もっともこれらしいと言う考え方は「鍛冶屋の母」(谷川健一著)のなかで見つけた、藤のつく名前は井戸掘りを生業とする者によく付けられるという説である。(「古代伝承文学の研究」乗岡憲正著)
折口信夫氏や高崎正秀氏が、「藤」というのは水の「淵」と同語の分化で、水の精霊を象徴する語であるということも書いている。つづくImg_2228

大唐内は凄い雪だろう。これは渡辺さんに戴いた小唐内の様子、丸山がこんなに大きく見えるとは思わなかった。


今日のじょん:先日の鳥の死骸について市から回答があった。ハトだということで鳥インフルエンザなどの心配は無いので処分するということだった。ハトなら問題ないのだろうか。鳥のいたところに行きたがるので困ったもんだ。Img_2195 行くなと言ったらその場でうんPしてしまった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大雪の記録 1/23

2011-01-24 | 日記・エッセイ・コラム

2011.1.23(日)曇

 朝の外気0℃、室内12℃、湿度60%、昨日から雨が降っており、気温は上がってきたようだ。正月からの雪もおさまり解ける速度も速い。昔なら根雪になって春まで残ったのかもしれないが近年ではそのようなこともない。
上林は雪どころという意識があったので、今年の雪ぐらいが本来の姿かなと思っていたら、なんと1982年(昭和57年)ぶりの大雪だそうだ。29年ぶりというから相当凄い雪なんだ。当時は京都に住んでいたのでそれらしい思い出は何も残っていない。その次が1995年(平成7年)と言うことである。この年は一晩で一気に降ったということだ。公式な記録ではないが昭和9年に中上林で120cmの積雪があったという。
 全国の記録などを調べてみると、豪雪は三八、四八、五六、五九、平成18ということだ。上林の記録とズレがあるのはやはり積雪は地域的な差が大きいためだろう。Img_2037 Img_2073_2 Img_2088 Img_2118 Img_2134 Img_2185 Img_2191 Img_2208_2




 元旦から20日までのじょんのびの木の周辺の写真である。雪国の風情が現れている。


 よく知られているのが三八豪雪と呼ばれるもので、日本海側はもちろん九州南部まで記録的な降雪があったそうで、特に福井県の被害は大きく、福井市で213cm、今立町(現越前市)315cm、敦賀154cmなどの記録があり、福井県だけで死者31名(全国では228名)という惨状だったそうだ。私は小学校6年生ということになるが、三和町にいて一度だけ雪下ろしをして、かまくらなど作った思い出があるが、これが三八豪雪だったのかもしれない。
 豪雪の思い出はひょっとしたら四八豪雪かもしれない。例年のごとく戸隠にスキーにいっており、さあ帰ろうかというときに怖ろしい雪が降り、あっという間に戸隠村は孤立してしまった。もともとバスしか交通の便はなく、そのバスが停まった日には身動きがとれない。宿を延泊し、なすこともなく過ごしていた。スキーをしようたって視界は数メートル、リフトより雪面が高くなるような状態でスキー場には誰もいない。ようやく道路が開通し、長野に出て信越本線で直江津に向かった。とにかく列車より雪の壁が高くて、車内は真っ暗、まるでトンネルを走っているような感じだった。駅に着くとホームのところだけ視界が開ける状態で、こんな積雪は後にも先にも憶えがない。
 冬山に通っている頃はもっと凄い雪に逢っているのかもしれないが、山では建物があるでなく積雪の度合いはよく解らない、ただし一晩の内に1m程度のテントはすぐに埋まってしまう。そのために夜中に何度も起きて除雪をするのだが、これって凄く辛かったのを思い出す。
 てなわけで上林の雪なんざ別にどうってこと無いというところか。

今日のじょん:雪の間はどうしても運動不足になる。散歩の距離も短くなるし、行けるところも府道沿いの歩道だけになるわけだ。一昨日はせめて休みの日にはと、念道橋まで足を伸ばしたが、誰も歩いていなくてラッセルが大変。Img_2219


念道橋は雪で欄干が埋まりそうでちょっと危険。(1.21撮影)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

続々・丹後風土記残欠は偽書? 1/22

2011-01-23 | 歴史・民俗

2011.1.22(土)曇

  私が疑問に思うのは、これらの根拠を以て「丹後風土記残欠」が本来の「丹後風土記」とは無縁のものであるという点は理解が出来るけれども、全文が疑惑のベールに覆われている、すべてが「偽造と疑うべきもの」となるものなのかという点である。それが歴史学会の常識なんだと言われればそれまでだが、そうだとすれば一般的な常識とは随分かけ離れた常識なわけだ。私たちが知りたいのは、全てが怪しいという根拠である。それを提示しないで、「他の資料で真実の史料であることの証明をしない限り云々」と言われるのはこれまた一般的な常識とは正反対では無かろうか。全ての項目に渡って偽りの内容であるという根拠なり、証拠を示していただいて初めてその書物が偽書であると言えるのではないだろうか。
 注記に氏の記述された論文等が書いてあり、最後の方に「『丹後風土記残欠』との訣別」というのがある。おそらく残欠を参考にいくつかの論文を書かれ、何かの矛盾に突き当たられて訣別ということになったのかと察するのだが、そのところを語って欲しいというのが本音である。
 それらが明らかになされない限り、残欠がまるっきりでたらめな絵空事を書いた文書だという風には認められないのである。氏が残欠が「舞鶴市史」にも取りあげられているとして批判されているが、同書の資料編に、二 加佐郡の地誌  (1)「丹後風土記」についてという記述がある。
 前文略
この諸説によっていい得ることは「丹後風土記残篇」が例え「官撰風土記」に直接繋がりをもたないものであったとしても、その内容が加佐郡の古代に通じるものであるだけに、地方史的にも戦後飛躍的に開発された考古学の成果とあいまって文献史学的に再検討される要があろう。Img_2227

これらの中に残欠の引用は沢山ある。



 なんとも玉虫色の記述だが、私の思いもこのようなところだとして筆を置きたい。
ただ一つ、加藤氏が残欠偽撰の旨手紙を書かれ、その旨を認められ、論旨を更に発展されたとして氏が感服されているのは、高橋昌明氏である。「酒呑童子の誕生」中公文庫であるが、どう論旨を発展されたのか注目してみたいところである。本書については雨読のコーナー(2010.12.8、9参照)で誘導的な表現があるとして批判したところだが、この本は1992年発行のもので、論旨を発展されたといわれるのは2005年のものだそうだ。まさか残欠はインチキで麻呂子親王伝説は絵空事だった、などとは書かれまいが、げすの勘ぐりをしたくなる。
 もう一つ追加事項だが、春になったら日本の鬼の交流博物館前館長の村上政市先生にお会いできる事となった。私の同級の友人が懇意にしているということで紹介してもらえることとなったのだ。今回のことも合わせて、いろいろとお聞きしたい事柄もあって楽しみにしている。ただ、芦田完先生については随分以前に他界されていることを聞いた。残された論文もまた新たに読んでみたい。


今日のじょん:雪が積もってからまともにぽんぽこぽんが出来ない。替わりに雪中探索ぽんぽこぽんをやっている。雪の中にボールを投げ入れて、探索をさせるというものである。頭書はなかなか大変だったものが、少しずつ探して来られるようになってきた。Img_2210 Img_2211 Img_2212




雪の中からボールを探して持ってくるというものだ。 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

続・丹後風土記残欠は偽書? 1/21

2011-01-22 | 歴史・民俗

2011.1.21(金)曇

 風土記とは元明天皇が713年に官命を出し、各国に編纂を命じたもので、出雲、播磨、常陸、肥前、豊後などの国のものが残っている。ただし他の国のものについても逸文として他の文献に残っているものもあるという。その一つが丹後国風土記でいわゆる「丹後風土記残欠」と呼ばれるのがそれに当たる。
 ところが各国の逸文なるものの中には本来の風土記の記述としては疑義が持たれるものもあるそうだ。これまたその一つが「丹後風土記残欠」であって、実に明治34年に村岡良弼が「丹後風土記偽撰考」という論文を出しているそうだ。加藤氏は「地名探究」の中で、村岡氏が明快に偽書であることを論証したと言っている。その論証の内容は定かでは無いのだが、続けて書いてある二つの偽撰の根拠であろうと推測される。
 ここで少し気になるのだが、偽撰と偽書はどう違うのだろうか。撰とは著述する、編集する、選ぶなどの意味があるが、撰進とは「詩文や書物を作り、天子に提出すること。」とある。(漢語林)。風土記が官撰と呼ばれる意味はそういうところから来ているのかもしれない。加藤氏が意識的に偽撰と偽書を使い分けておられるのかどうか解らないが、偽撰とは正式に天皇に提出された書物でないもの、偽書とは個人がまるきりでたらめの内容を記述した書物という風に理解できないか。
 
 加藤氏が丹後風土記残欠は偽書であるという根拠としてあげているのは次の二点である。ただし論文中には「1 偽撰の根拠1、2」という風に記されている。
根拠のひとつは、残欠の田造郷の項についてであり、「田造」という郷名は「田辺」の間違いであり、「高橋郷」も正しくは倉梯郷であるというものだ。「和名類聚抄」の底本が誤植であることを知らずに創作したものだろうと推測されている。
 今ひとつの根拠は奥書の偽造というものである。
「右一巻雖落丁多錯簡不少一宮本与大内武波氏本校合畢・・・」という漢文の「以」が目的語の次に来ることはない。安土桃山時代の最高の知識人である素然がこのような文章を書くはずがないというものである。
 この二つの根拠についてその適否を云々する知識は今の私には無いが、おそらくこの根拠が村岡氏の「丹後風土記偽撰考」にあるのだろう。つまり村岡氏の論文によって、偽撰であることが通説となったと理解して良いだろう。「丹後風土記残欠」は官撰の「丹後国風土記」の逸文ではなくて、その後に創作された書物だろうという事なのだろう。
 ところが加藤氏のこの論文の趣旨は偽撰ではなくて偽書であるということのようだ。この二つの偽撰の根拠があるから他の文書も総て疑わしいということだ。ここのところは重要だから原文を紹介しよう。
 
しかしながら、なによりも「田造」「高橋」の偽造がある以上、「残欠」全文が疑惑のベールで覆われている。だから、他の資料で真実の史料であることの証明をしない限り正確な史料としては使えない。すべてが「偽造と疑うべきもの」となっているからである。
 つづく

今日のじょん:じょん語録(57)なべねこじょん
じょんの誕生日にとかみさんがヒョウ柄のベッドを買った。誕生日はまだ二月も先だと言ったら、誕生日頃には売り場に無くなってしまうそうである。最初クンクンと臭いでいたが、妙に気に入って、もうすっかりなべねこになっている。Img_2226

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

丹後風土記残欠は偽書? 1/20

2011-01-21 | 歴史・民俗

2011.1.20(木) 曇

 大唐内のことも29回を重ねることとなり、休憩のつもりで史料のことについて少し書いてみたい。大唐内を含めこの地域の古代を探るとき資料とするものは多々あるわけだけどなかなか手に入れるというのは難しい。もちろん金に糸目を付けずに購入するなら買えないわけではないけれど、残念ながらそのような余分な資金は無い。そんなわけで図書館や郷土資料館などに通って閲覧するしかない。ところが、閲覧した資料や借りた本などはちっとも頭に入らない。持っている書物でもどこかに書いてあったなあと何度も探すわけである。図書館や資料館にある書物ではどうしようもない。そういうときにインターネットで公開されている古文書などは大変便利である。
「鼓銅図録」「金銀銅鉱山見分秘伝書」「佐渡鉱山金銀採製全図」など我々一般人には見ることのできない古文書がインターネットで見られるのはありがたいことである。丹波の研究にとって重要な「丹波志」についても京都府資料館のサイトで閲覧することが出来る。
 この地方に限った手持ちの資料、史料と言うべきかな、は何鹿郡誌、綾部市史(上下資料編)、三和町史下巻、奥上林村誌、中上林村誌、舞鶴市史資料編、上林七里野といったところか。ところが古代のこととなるとこれらの史料も「丹波負笈録」「丹波志」「丹哥府志」「丹後風土記残欠」などの古文書に依るところとなっている。
 ここで京都地名研究会の会報第七号(2009年発行)「地名探究」に地名研究における近世地誌という表題で丹後風土記残欠が偽書であるという論文を見つけた。
舞鶴歴史研究会会長の加藤晃氏の論文である。Img_2225
 
地名探究七号


大変ありがたい史料だとして参考にさせてもらっている者にとってはショッキングなことである。古文書の真偽論争としては「東日流外三郡誌」(つがるそとさんぐんし)が有名であるが、丹後にも同様の問題が発生したのかと興味深く論文を読ませて貰った。実は「丹後風土記残欠」が怪しいという情報は従前から見聞きすることがあった。しかしその内容はというとよく解らなかったのだが、今回の論文で概ね理解することができた。つづく

今日のじょん:今日もゆきちゃんが来た。なんでもバブルさんでシャンプーして貰ったとかでえらいべっぴんさんになっている。Img_2217  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大唐内のこと(29)鬼伝説 1/19

2011-01-20 | 歴史・民俗

2011.1.19(水)曇

 「丹波志」に
 「弓削村 今ニ湯坪アリト云 蟻通フヨリワキ止ト云 湯ノ薬師迚三間四方堂□沸ト云」とある。

弓削村は綾部市五津合町の弓削のことである。薬師堂に温泉は付きものである。薬師堂に温泉が湧いていたが、蟻が通ってきてお湯が出なくなった、というのが直訳である。大唐内の薬師様にも同様の伝説があり、「乞食がやってきて薬師の湯で洗濯をした途端、湯がでなくなった」というものである。これは大唐内の西田さんから聞いたもので、どこかの文書に残っているものかもしれないが確認はしていない。実はこの類の話は結構あちこちで聞いたような憶えがある。思うに薬師堂には温泉が付きものであり、現実には沸いていない、このつじつまを合わせるためにこのような伝説を作り上げたのではないだろうか。Img_3412
 
’09.11、弓削を訪れたが薬師堂はどこか解らなかった。


 それにしても「蟻通フヨリワキ止ト云」というのは妙な話である。温泉の水脈を蟻の穴が破ってしまったというのだろうか。蟻の一穴という諺もあるのだがどうも不自然だ。他に蟻には「蟻の熊野詣で」とか「蟻の観音伊勢詣り」あるいは「蟻の堂詣り」とか言って大勢の信者がお詣りすることを言う場合もある。薬師堂に多くの人が詣ってお湯を使ったために使い切ってしまったというのは一理ありそうだ。
 大江山の麓、綾部市西坂から由良川に下りたところが南有路(みなみありじ)である。私が小さくて三和町に住んでいる頃、福知山から帰るのは省営バス(後の国鉄バス、現在JRバス)の丹波大原行きに乗車していた。日に4,5本のローカルバスで当初はボンネットバスであった。そうして駅でバスを待っているときにどうも似たような感じのローカル線が南有路行きで、子供心にどんなところなのかなあと気になっていた。大江町(現福知山市)はかつては鉱山の町で、私の想像が及ばないくらい賑わっていたようだ。古くからの鉱山でそれらしい地名が随所に残っている。そこで有路の地名由来について面白いものを発見した。
 「丹後風土記残欠」に天火明命がこの地で飢えていたところ、蟻に連れられて穴巣国に行き、その土神に助けられた。命は喜んで、土神を蟻道彦大食持命と称するとした。それが蟻道郷の由来だとしている。また蟻巣という祠があり、訛って阿良須となった。と阿良須神社の由来としている。
 天火明命(あめのほあかりのみこと)とは籠神社(このじんじゃ)海部氏(あまべうじ)の祖とされている。大江町の東半分が有道郷の範囲であり、福知山鉱山を初め鬼ヶ城、烏ヶ岳一帯の鉱山地帯を含んでいる。Img_4457
 
穴巣国とは坑道のことではないだろうか。(’07.4、大森鉱山)


 穴巣、蟻とは一体何だろう、この地域から鉱山、鉱夫と考えるとなるほどという感がする。蟻を鉱夫、金属採鉱者とすると弓削の薬師堂の湯とはなんだろう。このことについては後に記事にする予定だが、私は湯は鉱物を指していると思っている。そうすれば弓削の薬師堂の不思議な文章が解明できる。「弓削には鉱物があったが、採鉱者が沢山来て無くなってしまったよ」ということではないだろうか。
つづく (大唐内のこと(28)は2011.1.15)

【作業日誌 1/19】
ガーデンシェッド窓作りImg_2207

この後窓を右の枠に取り付けて今日はお仕舞い。向こうに見える四角いのは換気扇用のボックス。

今日のじょん:じょんがやたら畑の方を気にしている。そこは新雪の雪がそのまま積もっているだけで何もきていない。と思っていたら、畑の真ん中に径40cmくらいの穴が開けられている。穴の壁には爪痕のような筋が着いている。ところが周りの足跡はその部分だけでどこからきたとかどこへ行ったとか解らない。不思議に思ってよく見ると羽毛が落ちている、こりゃあ鳥の仕業だ。雪で食べ物が無いのでこの部分を掘ったのだろうが、一体何が埋まっているのだろう。Img_2203   

鳥の掘った穴、何を食べたのだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

じょんのびアラカルト( ’11.1) 1/18

2011-01-18 | 日記・エッセイ・コラム

2011.1.18(火)晴、曇

 猿来襲
先週の土曜日だろうか、久々に猿軍団が来襲した。従前の遠慮がちな態度と違って、堂々とじょんのび村の桐の木に登ったりして許せない態度だ。そのうち隣の柚子の木に登り残り物の柚子の実を食べている。柚子はどんな動物も食べないよというのは過去のことで、猿は柚子をも食うらしい。何とも風流な獣だなあと思っていたのだが、旬が終わって熟した柚子はひょっとしたら酸味が少ないのかもしれない。
 そして雪が降って食べ物が埋まってしまった今日、奴らは再度やってきた。10匹程度の群れだが、数匹の子猿が目立つ。又しても柚子を狙ってきたようだが、今度は追っても逃げてゆかない。小さな子供達は山の中に逃げ込むが、ボスの大猿や親猿たちは一定の距離を保って見ている。どうもこの降雪で食べ物が亡くなったようだ。子猿たちには食べ物を確保しなければならないし、奴らとしても必死な様子がうかがえる。もう柔らかくなった柚子なんざやってもいいんだが、その木の横に我が家の椎茸小屋があるのだ、しかもそれは天井が雪で壊れてネットが破れている。柚子はやってもいいが椎茸はやれない。二度と来ないように残った柚子の実をたたき落とす。ボスの大猿が近寄ってきて威嚇をする。実を落とすことがどういうことか解っているようだ。奴らにしたら残り少ない貴重な食べ物が目の前でたたき落とされるのは許せないのだろう。ボス猿の顔に憎悪と怒りの表情がよくよみとれる。だけどなあ、ここはお前らの来るところじゃねえんだ。ミワちゃんなんて騒いでるミーハーにこの気持が解ってたまるか。

 鳥事件
雪が降ってから黒っぽいスズメのような柄の鳩より少し小さい鳥が家の周りによく来ている。玄関先の雪のないところに来てやたら何かを突いているのだが、人が居ても怖れる様子もなくうろうろしている。じょんも気にして追っかけたりしているが、あまり気にしていないようだ。昨日のことその鳥が芝生広場の辺りに飛んできて、ばたばたしている間に雪原の上で動かなくなってしまった。寒さにやられたか、食べ物が無くて死んでしまったか、普段なら何でもない景色なんだが、鳥インフルエンザがどうこうという時節である。お客さんの意見もあって市役所に電話する。農林課というところが対応して四の五のといってたが結局回収に来ることになった。手袋にマスクをして回収し、調査しますと言って持ち帰ったが、果たして結果報告はあるだろうか。私は綾部市役所が本当に市民の立場に立って仕事をしているか否かをこの回答にかけてみたいと思う。問題が有ろうが無かろうか通報者には結果報告が必要だと思うのでこの件は鳥のどうのというより市役所の対応が楽しみである。もし、なしのつぶてとなったなら、「市民の安全安心」を声高々に議員となられた方々の登場となるだろう。Img_2193

息絶えた鳥、思ったよりでかいのだ。


 レモンかき氷
雪が積もってから、じょんその他のワンちゃんのおしっこが目立っていけない。かみさんは、「レモンのかき氷を思い出すなあ」なんてよーきなことを言ってるが、あまりみっとものいいものではない。うんPは始末してもおしっこはそのままじゃけんのう。
とりあえずスコップですくってドッグランの雪原に捨てているが、将来的にもこれでいいのかなあ。

 牧場の飼料運搬トラックの田んぼ横転事件
忠町の牧場に飼料を運ぶ大型のトラックが田んぼに横転したというニュースが入った。原因や怪我の情報は入っていないのだが、おそらくこの雪あるいは凍結が関係しているのだろう。同じ会社の人だろう、飼料を回収したりトラックを引き上げたりされているということだ。雪がなければ自転車で現場を確認したいが、そういうわけにもいかない。この道は狭い道で、乗用車どうしでも譲り合わなければ行けない道だが、長時間待たされても、こちらが避けて道端によけても挨拶一つないこの大型の飼料運搬車に同情する気も起きない。

 除雪車
府道の除雪車はブルトーザーのでかいようなのが往復してやってくれるのだが、今朝未明にもの凄い音がして目が醒めてしまった。除雪車だとは思ったのだがどうも音も通過の時間も違う。とにかく怖ろしいほどの音と振動だ。それにしても夜はそれほど雪は降っていないのにと思いつつ、また眠ってしまった。朝起きてじょんの散歩に出かけて解明する。路面ではなくて、側に溜まった雪の塊をかいて吹き飛ばしているようだ。家や通路があるところには吹き飛ばせないので、それ以外の空き地や田んぼに汚い雪が山積みになっている。いやあこんな除雪車があるんだ。Img_2200

こういう感じで吹き飛ばしている。


【作業日誌 1/18】
ガーデンシェッド、東側下部化粧板張り、窓枠塗装

今日のじょん:折角作ったうんP場に、行くのは行くのだが、さあするぞというときには飛び出して駐車場の真ん中でやってしまった。うーむままならんなあ。Img_2194 Img_2195

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

喉もとを過ぎた雪対策 1/17

2011-01-17 | 日記・エッセイ・コラム

2011.1.17(月)曇、雪

 今朝の気温0℃、積雪32cm、今日も雪かきかとうんざりである。雪国の人には笑われそうだけど、二日雪かきが続いたぐらいでどうのこうのというのは情けない話である。今日は小学校も休校となったそうだ。何でもスクールバスが走れなくて休校になったとか。お年寄りが聞かれたらこれも情けないことと思われるだろう。古和木の谷から子供達がラッセルを繰り返しながら学校に通ったという話を聞いたことがある。私たちの時代だって学校に行くというのは絶対的なもので、大雪だろうが大雨だろうが這ってでも学校に行ったものだ。そんな厳しさが不屈の根性を養ったなんて言ったら、古くさいとか封建的とか言われるのだろう。それにしても雪の上林のど根性養って欲しいと思うのだが、、、。
 実は雪に備えていろんなことをしておかないとと考えていたのだが、雪の季節が終わるとつい忘れてしまうのだ。何をしておかなければって、まず第一は玄関の雪除け室である。我が家は西側の店の前は庇があって、雪や雨に対応しているのだが、他の三面は庇というか屋根の張り出し部分がほとんど無く、雨雪の多いこの地方では大変不自由な設計である。もちろんこれは私たちの認識不足によるものだが、住んでみないと解らないという部分もあろうかと思う。
 というわけで玄関先に一室を設けないと、1m四方ほどの玄関は持ち込んだ雪などで水浸しとなるわけだ。しかも玄関入口のタイルは店のものと同一だが、濡れると思い切り滑る危険なもので、かみさんなどはおっかなびっくりで出入りしている。玄関前室の構想は随分以前からあるのだが、かなりの難工事でもあり、家の顔とも言える玄関先なので妙なものも出来ないというプレッシャーもあり延び延びとなっている。そこへ今年の大雪だから、しまった早くやっておけばという思いは多々あるわけだ。Img_2189
 悲惨な状況の表玄関、ここに一室欲しい。

次にじょんのび坂の融雪装置である。一昨年鋪装し、谷の水を引く装置もこしらえたがなにしろ水量が少な過ぎて寒い朝に凍ってしまった。これがちょっとやそっとの氷ではなく完璧なブルーアイスとなったもんだから取り除くのに四苦八苦したものだ。そんなわけで太めのパイプで大量の水を流さないと融雪の意味をなさないと思っているところだが、これも予算不足と喉もと過ぎればという状態で未だに手を付けていない。Img_2178
 
昨日のじょんのび坂、ここの除雪が最優先。


 次に車庫、倉庫、木小屋の庇である。これも玄関同様雨露雪を防ぐため必要なんだが、喉もと過ぎて腸まで届いているが、手つかずとなっている。これは材料も揃っているので、やる気さえあればできることなんだけれど、、、。Img_2118_2

一週間前のじょんのび倉庫群、この時は雪が少ないが今やシャッターは開かないわ、薪は雪だらけだわで大変。


【作業日誌 1/17】
雪かきくけこ

今日のじょん:うんP場は雪の下。連日の雪で、かいてないところは60~70cmの積雪となっている。最初はラッセルしてうんP場に行ってたのだが、こう深くなっては行くのも大変だし、雪に埋まってうんPすることになるし、後片づけの我々もたどり着けないようになっている。そこで夕方にスコップ持って新たなうんP場を作ってやったんだが、果たしてそこでするだろうか。Img_2188


うんP場まで15mのラッセル、ここで諦めた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の上に降る雪は 1/16

2011-01-16 | 日記・エッセイ・コラム

2011.1.16(日)雪

 二十三
私の上に降る雪は ひどい吹雪に見えました。

中也生い立ちの歌の一節である。いつかはしめやかに降るだろう雪も齢60にもならんとする我が身には、いつまでたっても吹雪のようだ。

 
 今朝の気温-3℃、積雪32cm、上林では珍しいパウダースノウだ。今年で5回目の積雪なので、都合三日に一度降ってる勘定だ。正月からの雪が残っているところは5,60cmとなっているし、雪をかいて積んでいるところはゆうに1mを越えている。かいた後から積もるので意味がないみたいだが、とにかくかいておかないととんでもないことになる。秋田のゆきの小舎の佐藤さんは冬の毎日の仕事が雪かきだとおっしゃっておられた。一日でも休んだらその次の日から通行止めになるそうだ。
 それにしても我が家の通路と駐車場をかき終えるのは骨が折れる。10時頃からかき始めて3時半頃の終了だ。おなじ動作を何千回としていると、それはまるで業で三途の川原で石を積んでいるようなものだ。雪かきが終わる頃、約10cmほど積もっていたので、かいた後はほとんど真っ白になっていた。とりあえず写真でご覧あれ。Img_2167 
Img_2169



朝の表情、風があったので軒下も真っImg_2176白。
Img_2179



作りかけのガーデンシェッドもこのとおり、午後になっても降り止まず。

【作業日誌 1/16】
雪かきくけこ

今日のじょん:食傷気味だったじょん君もパウダースノウはお気に入りみたい。ラッセルラッセルで走り回っているが、深みにはまると埋没しそう。Img_2170 Img_2173   

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする