晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

睦志のこと(22) 穴虫ー28 3/6

2014-03-07 | インポート

2014.3.6(木)雪 考察 上杉町穴虫

 帰りに鳥居野に向かう道沿いに墓地があった。上林のように屋敷に隣接はしていないが、かつては両墓制だったのではないだろうか。綾部市史に東八田地区の一部とあり、両墓制の特徴としておびただしい数の板碑や一石五輪とうが墓地に遺存しているとある。まさにそういうお墓である。
P1020441
 

 さて、上杉町穴虫について考察しないといけないのだが、今回の訪問は自らの目で見るだけというきわめて心許ない調査訪問なので考察も稚拙で浅いものとならざるを得ない。再度聞き取りや、事前調査を重ねた訪問をすれば今回とは違った結果が得られると思うが、とりあえず初見の穴虫に対する考察を述べておきたい。
 (1)穴地形か否か。
 穴地形というのは瀬戸内海の島と島の間の海峡のような地形を指しており、私自身が付けた名称である。穴虫と道を挟んだ海自施設によってできている切り通し状の地形は確かに穴地形と言えるかも知れない。伊佐津川に突き当たる所でぽかっと景色が拡がるのは瀬戸内のいわゆる穴のミニチュアと言ってもいいかもしれない。しかしそれは香芝町の穴虫峠や亀岡市千代川の穴虫のようにはっきりとした穴地形とは言えない。
P1020438
 

上杉方面からみた穴虫(右手)、切り通し状になっているが穴地形といえるかどうか。

(2)穴虫は無所か。
 穴虫に石塔だの五輪塔だのは無さそうだ。もちろん村のお墓がありそうにもない。もし無所だとするとそれは両墓制の埋め墓である。埋め墓だとすると外見的に証拠を見つける事は困難である。沖縄のグソーのように人骨が残っているというようなことはあり得ない。
 ただ、埋め墓というのは集落の端に置かれることが一般的である。穴虫は上杉村の外れにあり、川を越えると於与岐村となる。これほどうってつけの場所はないと思われる。今一つ気になるのは穴虫の南、東に堺ノ谷という小字があるのだが、この堺とは何の堺だろう。
P1020437
 

穴虫はこんもりとした丘状になっている、堺ノ谷はこの右手
(3)毟(むし)り地形だろうか。
 弥仙山、蓮ヶ峯から集まった水は、於与岐の田畑を潤し、市ノ瀬橋から上流500mほどが急に狭くなる。大雨の際には流れ、水かさともにかなり厳しいものとなるだろう。かつての於与岐八幡宮が大洪水で流失したというのもうなずける。このゴルジュ帯が毟り地形と言えるし、穴地形とも言える。
P1020428  
 

雪解けの水を集めてゴルジュ帯の水量は多い
 地形的なものはともかく民俗的なことは再度聞き取り調査などしないと解らない。近隣に人家が無い以上、上杉の集落で聞く以外になさそうだ。つづく

【作業日誌 3/6】
 自転車修理ツールボックス作り
【今日のじょん】
 うんP南北説では10匹の犬で実験し、そのうち3匹がうんPしすべて南北だったという。じょんも当初南北だったので注目したが、昨日も今朝も東西で、南北説はインチキだとわかった。しかし何百キロの道のりを家にたどり着くとかいう帰巣本能の事などは、地磁気に対しての感覚があるのかも知れない。P1020447
失礼

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上林土喰庵(5) 柚大根-2 12/16

2013-12-17 | インポート

2013.12.16(月)
申し訳ありません、パソコンのメンテナンスのため記事をお休みします。メンテナンス終わり次第再開いたします。

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日置のこと(51) 日置部とは-6 10/30

2013-10-31 | インポート

2013.10.30(水)晴れ

 日置部の職掌についての諸説の中に、製鉄、あるいはそれに関する事業ということは見当たらない。「古代の鉄と神々」を書かれた真弓常忠氏は水谷慶一氏のいう「太陽の道」を批判して、鉄こそが太陽の道だったと述べられている。この二氏の論争は何度も書いてきたので今更説明をなすわけにもいかないが、学界ではどうなのかというと、どちらの説も受け入れられてないように感じる。それはいずれも文献に現れることが無い事と物的証拠が極端に少ないことに尽きるだろう。
 だからといって史実ではないとは誰も言い切れないことであって、アマチュアのいわゆる郷土史家などの間で研究され世に出るかもしれない。大学の研究室から発表されるよりもずいぶんと痛快である。
 両氏の論争(実際には論争では無くて、真弓氏が一方的に批判しているものであるが)」は簡単に言うと、日置部の職掌が測量であるか製鉄であるかということである
。日神の祭祀や渡来系氏族については共通しているようだ。
真弓氏の日置部製鉄説の根拠は垂仁紀、五十瓊敷命(いにしきのみこと)が大刀一千口を作らせたとき、参加した十の品部の中に日置部が見られることである。
 そのことは日置部が製鉄、大刀作りに長けていたことを示すが、同時にあとの九部(盾部、委文部、神弓削部、神矢作部、大穴磯部、泊橿部、玉作部、神刑部、太刀佩部)も製鉄、太刀作りに長けていたと考えられる。
 このことは日置部の職掌が製鉄関連であったというよりも、多くの主要な品部に製鉄関連の技術があったことを示すのではないだろうか。おそらく渡来系の氏族が支配する品部にとって採鉱、製鉄などの金属関連技術は必須のことであったのではないだろうか。真弓氏は「鉄の道」についての助言を水谷氏に無視されたと憤っておられるが、真弓氏も水谷氏の「太陽の道」説には一顧だにしない態度をとっておられる。両氏とも相手の説には理解しようともしない態度をとっておられるわけで、「そうかそういう考え方もあるのか、それならば調べてみようか」という態度が無い。両氏ともその頑なさが真実から遠ざかされているのではないかと言う気がしてならない。つづく

【今日のじょん】昨日のよっこらじょん体重測定で、今年最高の19 Kgがでた、黄信号である。すべての生き物の習性なのだろうか、秋には食欲が増してしっかり脂肪をため込むものなのかも知れない。とにかくよく食う。通常の食事の他にご飯や麺類、魚類などお相伴にあずかっている。そのおねだりのポーズ、あごのせじょん。P1010600



 

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日置のこと(25) 穴虫-5 9/9

2013-09-09 | インポート

2013.9.9(月)晴れ

 谷川健一さんの名著「日本の地名」は「日和山とアイの風」という文章で始まる。周囲を海に囲まれ、複雑な地形の日本では信じられないほどの多くの種類の風を生み出した。かつての物流の主役であった廻船の動力は風である。安全に目的地まで船荷を運ぶため風をよむことは船頭の最も大切な仕事であったろう。この文章ではある廻船の航海日誌が紹介されている。その日その日の風と航程が記されている。そのなかに次の文がある。

「沢根を出立したのは文化十年四月十九日の昼頃であったが、間もなく、西北西の方向から吹くタカカゼ(シモニシ)のために引き返し、沢根の近くの二見湊へ泊まった。あくる二十日はクダリカゼ(南西風)のために出航できなかった。」
 クダリカゼとは上方から下るときに使う風で、この廻船は佐渡から上方へ向かうもので、この場合出港できなかったということである。同様にシモニシも向かい風な訳である。シモニシは西南西の風というのみで言葉自体の説明はないのだが、シモは下りの意、ニシは西風と思われる。つまり下りに使う西風ということではないだろうか。なんてことはない三省堂国語辞典にも「太陽が沈む方向、西風」とある。
西の語源はニシ(西風)なのである。シが風を表すことは既に書いたが、ニは一体何なのだろう。
 言語学者をもってしても不詳と書かざるを得なかった”ニ”についてわたしが解明することは無理なことだが、想像ぐらいはしてみたい。
”ニ”は西の方角を意味することは間違いが無いが、その語源はアナではないだろうか。アナがニに転訛する少し無理があるようにも思えるが、アナ→ナ→ニという変化が考えられないでもない。
 アナシ、アナゼ、アナジという言葉がある。
近畿以西で使われる言葉で西北西、所によっては西南の風とある。(全国方言辞典)
P1010080

本日の教材

  予期しないおそろしい風。アナは驚いたとき思わず発する語。アナは、今ではアラ(アレハから)などという感動詞。驚くべき風が原義。
 西北西のところが多い。南西風、北北西風、北北東風のことをいう。(語源大辞典)
 風の名前は実は2,000種類以上あるという。すべてを見たわけではないが、数百種の風の名称を調べてみたが、感動詞の付いた名称は1個も見当たらない。どうもこの語源大辞典の説明は怪しい気がする。実はこの辞典は”ニ”は不詳と書いた先生の編になるものである。つづく

【作業日誌 9/9】

草刈り(6-1)

【今日のじょん】実に何日ぶりの晴れの日だろう。人間も気分いいが、じょんだって随分気持ちよさそうだ。なんてったって雨具着なくていいんだもの。いやもう走ること走ること。P1010079
P1010078

 
 

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雨読 古代史を解く三角形(2) 7/30

2013-07-31 | インポート

2013.7.30(火)晴れ 古代史を解く三角形(1)は2013.7.20
 

 雨読というタイトルで多くの書評をしてきたが、本の評価などというものはその時点での読者の志向、知識レベル、読解力に左右されるもので不動のものでは無い。ある時点では素晴らしいと感じた本が、読む側の知識レベルが上がり思考能力が高まった結果、実はつまらないものだったということもあるし、その逆もあり得る。特に古代史の研究に関する本はその傾向が強い。その際は再読、再々読として雨読に書いていくので評価が変わっていく様子が理解できると思う。
 本書は不思議な本である。もの凄く興味深くてあっという間に読了したが、さて何が書いてあったか解らないというものである。
 本書が書かれるベースには「大和の原像」(小川光三)、「知られざる古代」(水谷慶一)があるわけだが、測量ということに関しては両者の域の範囲内という感がする。「知られざる古代」については随分前に読み、雨読でも紹介済みである。(2010.1.10~12)ただし、現在では評価は変わっており、再読でいずれ紹介したい。そして「大和の原像」は現在読書中なのだが、これがすべての発端になっている書で、著者小川氏の発想の豊かさ、柔軟さ、そして美しい文章で魅了されてしまい、本書の影が薄くなっている。
P1050024

 


一連のつながりのある三冊


大谷氏が大発見と豪語されているのは、古代の測量、日本の上に描かれた大きな三角形が「古事記」の解明につながるということである。
 難解というより不可解な「古事記」の文を古代測量の所作として解されているのだ。丁寧に解説されているのだが、どうも納得できる雰囲気では無い。中にはそう言われてみればそうかなあと思うぐらいである。それは読者側の知識の未熟、読解力のなさなのかもしれない。将来再読して高い評価をする可能性はありそうだが、今のところはよくわからないなという想いの本である。

【今日のじょん】久々のじょんシャンの日である。体重測定から始まるのだが、おとーがよっこらじょんと抱き上げるのが好きみたいで、体重計を出したら自主的に近づいてくる。じょん件反射かもしれない。
P1050023





【作業日誌 7/30】
草刈り(4-5)

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上林の盃状穴(36) 番外編 7/19

2013-07-20 | インポート

2013.7.19(金)曇り 京都帝釈天(20)八幡・厄神社の盃状穴

 神社巡りの好きな方ならどなたでも気づかれると思うが、ほとんどの神社で手水鉢は新旧あって、旧のものは社務所の脇などに置かれている場合が多い。これは特に手水鉢がよく更改されるということではなくて、古い手水鉢が何かに流用出来にくいということだろうと思う。
 新旧残っているということは更改がなされたという事であって、どこの神社でも更改なされるというのが一般的なのだろうが、旧のものでも使用に耐えるものである。そのことは奉納されるケースが多いことをうかがわせる。

P1040630

 


例えばこれは八木町の久留守神社である。新しい手水鉢があり、古いものは社務所の右に放置してある。石垣や石段に古い石材が使われているが、手水鉢は再利用が効かないためだろうか。(2013.6.18)

それにしてもこの八幡・厄神社の手水鉢は、周囲の敷石や建物などすべてが新しい物なのにそれだけが旧のままなのだろう。
 八幡社の鳥居と一緒に小出公から奉納されたものならば答えは明白である。そこのところも博物館には問い合わせているが、果たして答えは出るだろうか。少なくとも手水鉢に銘は無かったように思うのだ。次回再度調べてみたいと思う。
手水鉢の考察はそれ以降にして、今ひとつ重大な疑問がある。
 それはこの神社の境内で鉄滓が見つかり、12世紀の製鉄所があったという事である。角川の「日本地名大辞典」に書かれていることなので、何らかの根拠があるのだろう。
 どのような経緯で鉄滓が発見され、12世紀の製鉄所跡と断定されたのか、是非知りたいところである。その件も博物館に問い合わせた。来週の訪問が楽しみである。
P1040904



南丹市立文化博物館の博物館だよりにある垣内古墳の復元図である。南西から東北に走っているのが日吉町に向かう府道19号線で、神社の参道鳥居部分が拡幅工事で後退したことがわかる。境内が古墳の後円部の重要な位置を占めていることもわかる。

4世紀頃と言われる巨大な古墳と12世紀の製鉄遺跡とは無関係だとは思われるが、古墳の遺物には多くの鉄製品が存在し、近隣で生産された可能性はあるだろう。この周辺が鉄生産の拠点であったと考えてもおかしくはない。
 ただ8世紀の開きがあるとは言え、古墳の後円部に製鉄遺跡があるというのはなんとも不思議な感がする。
 垣内古墳のある内林町は今林村と垣内村の合併による合成地名である。博物館の地図模型に今林牧というのがある。調べてもらうと文献に現れるのは中世だったろうか、この牧が製鉄所と関連するのではないかと考えるところである。

【今日のじょん】網張りが終了して、とりあえずドッグランどが完成した。勝手にドッグランを5年間もしているじょんにとってはあまり関係ないのだが、結構気に入ってるようなので、まずは安心ってところか。P1040894


えっナニ、床下の網が張れたって、、、カンケーねえよ

【作業日誌 7/19】
草刈り(4-3)
ドッグランど網張り完成
庭木剪定初日(コニファーなど)
P1040890P1040892



今年からこういう機械を導入して、庭木がおしゃれに仕上がるのだ。

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大唐内のこと(83) 丸山とイモリ村 4/11

2013-04-12 | インポート

2013.4.11(木)曇り、雨 大唐内のこと(82)は2012.8.24

 「丸山とイモリ村」の稿が進んでいないのは丸山(イモリヶ嶽)についての検証が進んでいないからだ。この545mの特異な山は丸山、生守山、イモリヶ嶽、猪森ガ岳、三俵山、サントラ山などと文献によって様々に言われているがいずれが正しく、いずれが間違いというものでは無い。しかし筆を進めるに当たって様々な呼び方では不都合もあろうかと思うので、丹波負笈録にある「イモリガ嶽」に統一しておこう。
 府道一号線からこの山の山容を見たとき、この山には何かあるぞと思わずにいられなかったのだが、そこには宗教的な遺跡も伝説も残っていなかった。ただサンドラ岩といわれる巨大な枕状溶岩の帯が8合目あたりに鉢巻きのように巻いている。丹波側は風化が進んでいるが、そこには鬼の岩屋と呼ばれる洞窟がかつて存在した。P1010547

 


イモリガ嶽の丹波側はサンドラ岩の風化が進んでいるが、鬼の岩屋という洞窟はこの付近に実在した。

イモリガ嶽という山名についても、イモリ村についても一向に見通しが立たないのだ。付近の胡麻峠、猪鼻峠などについても地名の意味について検討する。別所探訪や日吉地名散歩、盃状穴の研究も実はイモリガ嶽、イモリ村へのアプローチとして研究、記述しているのである。
 にもかかわらず杳としてイモリガ嶽の姿は現れない。盃状穴や別所地名を調査していて、加古川の飯盛山に登ってみたいと地図を広げると、加西市、福崎町、多可町にもイイモリ山があり、古代祭祀の山であったり、金属関連の山なのである。
 若狭の小浜や京都北山に飯盛山があるのは知っていたし、全国にもあちこち飯盛山があるのは感じていた。何かあるとは感じていたがそれが何かはわからなかった。
P1030905

 

小浜の市はサンドラ岩を見ると繁盛するという(丹波負笈録)これは小浜の飯盛山のことでは無いかと思うが、フィシャーマンズワーフでは飯盛山は見えないと言われた。(2013.2.15)

 そんなときイイモリ山を研究されている方が突然現れた。つづく

【晴徨雨読】197日目(2007.4.11)山口滞在
 自転車の整備とタイヤ交換をする。オンロード用が無くてオフロード用のタイヤをはく。これでまた一段と重くなった。愛車初恋号6世は今回の旅行のために作ったフルオーダーのBIKEなんだが、そのコンセプトは堅牢である。従って軽量化は何も考えていない、ただし軽くても丈夫なパーツは使用している。おそらくロードレーサーの4,5倍の重量はあるだろう。その上オフロードの太いタイヤをはくのだから堪らない。
 中也記念館に行く。おしゃれすぎてつまらない。高田公園の帰郷の詩の碑は30数年前訪れたときからある。こちらが好きだ。Img_4154



「心置なく泣かれよと 年増婦の低い声もする」という部分が省かれている。センスの無い碑である。

【今日のじょん】ここ数日寒い日が続いている。先日綾部温泉に行ったときにコゴミが売られていた。こんなに寒いのに出てるのかなあと朝の散歩時に河原を覗く。あるある、しかも育ちすぎている、早くとって食べようぜ。P1040279
   


 

じょんの首のあたりの下方、河原に生えているコゴミ。

 

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別所探訪(34) 菟原中-33 11/6

2012-11-09 | インポート

2012.11.6(火)晴れ

 もしマ=砂鉄、鉱物といった突拍子も無い説が当たっていたとしたら馬船はまた違った意味を持ってくる。舟、池というのはものを溜めておくところという意味がある。
川の流れが緩くなったところに鉄分の高い砂鉄が沈殿して積もったらそれはマブネ(馬船)といえるだろうし、山に鉱脈があり、鉱物が溜まっていたらそれもマブネ(馬船)といえるだろう。もしこれが当を得ているとしたら、別所が産鉄の地である事は明白となる。ただし残念なことに確実に産鉄の地であるところに馬船地名が無いということである。
 金属関連地にあるのは馬船ではなくて湯舟である。大江山の鉄滓が出土している北原遺跡の東方、内宮を中心として対照的な位置に湯舟山(368m)がある。
 また「猪鼻のこと」で金属関連地帯として紹介した和束町の和束川沿いにも湯船がある。
 このように湯舟(ゆふね)は金属地名として認知されており、ほとんどの説が「金属の溶けた様子を湯という」という根拠を上げている。これは当然のことで当を得ているのだが、湯舟となるとどうなるのだろう。鉄をはじめとした金属の溶けたものが溜まっているところが湯舟なのだろう。
 たたら製鉄の絵巻物として有名な隅屋鉄山絵巻で鉄の溶けたものが溜まっている様子を見ると、それは鉄池であったりユツボという名称で書かれている。つまり炉から取り出した溶融した鉄を溜めるところは湯舟ではないのだ。
 湯舟というとたたら製鉄の炉そのものを考えがちだが、文献で見る限り炉が湯舟とは書いてないのである。
 たたら製鉄で舟が出てくるのは、炉を作る際に湿気を嫌い、炉内を高温に保つために床という地下構造を作る、その床を作る際(床釣りという)に大舟、小舟という構造が出てくるのである。これは炉そのものではなく、湯を溜める構造のものではない。
 「青森県の地名」(松田弘州)では次のように書いている。
タタラ製鉄では、「炉床となる築造部分を大舟といい、この大舟の両脇にあって防湿保熱の役をする空気溝を小舟と称した」(和鋼風土記・山内登貴夫氏)から、タタラ炉は”ふね”でもあった。また、鰺ヶ沢の湯舟神社の御神体は”鉄塊”だそうである。従って、湯船地名の場合、タタラ製鉄をした所と推定できる。

 
誠にごもっともな話なのだが、何か腑に落ちない。湯が溶けた鉄を表すのでは無くて、砂鉄や鉱石を表すとしたらどうだろうか。確たる根拠が見つからないので辛いところなのだが、そうすると各地の金属関連地の湯地名の解明ができるというものだ。
 大江山の北側、古代製鉄地帯温江(あつえ)の南に湯の谷という谷がある。和束町には湯谷山(381m)がある。上林にも湯の付く谷がいくつかあり、温泉伝説も付随している。たたら候補地の浅原(あずら)には夕船(ゆふね)という小字もあImg_3226る。



浅原の谷、夕船は林地の小字だがこの谷のどこにあるのだろう。




  武吉町にも湯舟という所が有り、その山側が笹尾という林地である。Img_3341




今年の金比羅大祭は武吉町である。3年前の写真であるが湯舟はこの手前の所である。


 湯舟とは砂鉄や鉱石の溜まっている場所と考えてみたいのだ。湯舟について長々と書いたが、わたしの想像が当たっていたら、湯舟と馬船は同義語ということになる。つづく

 【晴徨雨読】98日目(2006.11.6)那須湯元温泉鹿の湯
 【作業日誌】古城山の薪拾い
 【今日のじょん】:キョート銀行
 
 
 

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YouTube: キョート銀行

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晴徨 多門院(1) 8/31

2012-08-31 | インポート

2012.8.31(金)晴れ

 11:22 じょんのび村スタート
       清水10分休憩
 12:20 菅坂峠着~与保呂~堂奥15分間昼食
 13:30 多門院三国岳トンネル下着 13:40発~多門院彷徨
 14:25 多門院発~与保呂~亀岩~山田邸
 15:30 行永山田邸発~菅坂峠着16:30
 17:06 じょんのび村着(走行57,73Km)

 多門院は正式には「たもんいん」と呼ぶそうだが、地元などでは「たもいん」とよばれているみたいだ。多門院というお寺があるのかと思えば、実はそうでは無かった。
それでも毘沙門天がまつられているので元は多聞院だったのだろうと思うが、定かでは無い。
 多門院には胡麻峠からの道が降りてくる。その辺りに小字の胡麻があるそうなので確認に行くのが今日の目的である。
 菅坂峠の登り、清水の辺りで鋳物師井関伝助氏の屋敷跡を写真に撮ろうと、自転車を府道脇の電柱のところに駐める。ふと足下に目をやると例の鉄滓が転がっている。さすがに鋳物師の現場だと思って屋敷跡を見て歩くが、はでなスタイルだけに引け目を感じる。そこそこにして後にするが、改めて許可をもらって調査してみたい。ただ自転車を駐めた辺りで錆びた鉄板を拾った。厚さはないが、鋳物や鍛冶の原材料となるいわゆる地金(じがね)ではあるまいか。P1020568
 
鋳物師井関伝助氏の屋敷跡


 菅坂峠を越え、亀岩から与保呂に入る。予想以上に大きな住宅街で、舞鶴道の高架のあたりでやっと田舎らしくなってくる。舞鶴道に沿って多門院への道を辿る。この道もかつては重要な峠だったろうと思う、なぜなら菅坂峠から降りてきた道が出合うところでもあるからだ。菅坂峠は現在車道として随分西に向かい亀岩に降りているが、本来の峠道は与保呂木下に下るものだろう。寛政十一年丹波国大絵図にも与保呂に向かうものと白滝に向かうものが掲載されている。P1020571

与保呂から菅坂峠方面を望む。


 東舞鶴ICの下をくぐって、堂奥を右に曲がる。後は祖母谷川に沿って登るばかしなのだが、とりあえず天神社という小さな社で昼食をとる。多門院と堂奥はかつてはひとつの村で、この下にある山口神社を氏神としていたそうだ。P1020573
 
天神神社、右手向こうに山口神社の森が見える。


 農作業中の女性に出合ったので、多門院のことを訪ねると、「奥に行くことは無いので奥のことはわからへんの」とのことだった。奥ったって2Km余りのことだが、下の人にとって奥に行く理由は何一つ無いのだろう。もちろんそこから奥には店一つ無い、坪峠や佐武峠華やかりし頃ならいざ知らず、奥に実家でも無いなら一生行くことの無い2Kmなのかもしれない。つづく

【晴徨雨読】31日目(2006.8.31)晴れ 佐渡~新発田市
 佐渡では人の親切を随分感じたが、交通マナーの悪さには閉口した。マナー以前の道路環境の悪さかもしれない。新潟から紫雲寺記念公園までも港の殺伐とした景色や、住宅地の中を走るだけでまるでつまらないコースだった。紫雲寺では泊まるところが無くて、オートキャンプ場に一人で泊まる。とても素敵なキャンプ場だったが、一人きりというのは何とも寂しいものだ。Img_0427

これ海じゃ無くて川なのだ、阿賀野川。



 今日のじょん:多門院のお寺のワンは傑作だった。誰も居なくて、自転車スタイルで入ったものだから、ワンワン吠えるのだが、常に笑った顔なのだ。猫みたいな顔している。P1020590_2 P1020603
  

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雨読 切り抜きで楽しむ読書 4/10

2012-04-10 | インポート

2012.4.10(火)曇

 都会に住んで現役のときはしょっちゅう本屋さんに立ち寄って新刊書のコーナーをのぞいていたが、通勤も書店も無い今、新刊書を探るのは新聞である。讀賣新聞の場合、日曜日に2面ほどの紹介記事があり、その面は図書広告も多い。もう一日ウィークデイに本の記事が掲載される。新聞記事はほとんど流し読みなのだが、本の記事だけは真剣に読んでいる。そして気にいった記事を切り抜きにしている。
 現役時代なら切り抜きを手に本屋さんに走ってすぐに購入するのだが、そのまま読まないでいた本もいくつかある。いわゆるつん読というやつだが、思い入れがあって買ったものだけに後から読んでもなかなか良い感じだ。「京都 北山を歩く 1~3」もそうだし、「北越雪譜」もそうだ。
 ところが今はそうはいかない、本が高くなっている上にこちらの予算が減っているので簡単に購入するわけにいかないのだ。栃折久美子さんは「本ほど安いものはありません。だって人が一生かけたものをあの値段で買えるのだから」というふうにおっしゃっていた。確かにそのとおりなんだけど、現実の予算というものは如何ともしがたい。最近の新刊本で読みたいのを挙げてみよう。

「古代歌詞の究明」(三浦茂久) 6800円
「民衆史の遺産 サンカ・マタギ・木地屋」 6300円
「あぶない地名」(小川豊)1890円
「菅江真澄と旅する」(安永稔和)780円
「東北学 忘れられた東北」(赤坂憲雄)1050円
「子供の名前が危ない」(牧野恭仁雄)686円P1010480




 予算的に可能なのは下の三冊なのだが読みたいのは上の三冊なのだ。
新刊書というのは古本屋さんにも並ばないし、あっても新品に近い値段だ。かといって図書館の蔵書にも加わらないので、購入するしか無いわけだ。もっともそれだからこそ著者も出版社もやってけるのだろうけど。
 結局上記六冊とも購入することは無いが、書評の切り抜きはスクラップブックに残ることとなる。そして何時の日か古本で購入するか、あるいは図書館で借りて読むこととなるのだろう。なにか惨めなようで実は楽しい読書なのかも知れない。

【作業日誌 4/10】
予告看板塗り直し
ドラム缶、大鍋調達

今日のじょん:かみさんがよーつーで動けないので何となく寂しそうだ。特に散歩から帰ってきて待っていてくれる人がいないのが寂しそう。早く元気になってくれい。P1010467
 
 

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雪中八策 防獣編(21) 3/15

2012-03-15 | インポート

2012.3.15(木)雨、曇

 野生動物を奥山に追いやっていた「人間の営みの圧力」こそが防獣の根本的な解決策として、里山や山に人間の営みを復活し、里山、山の再生をすることを説いてきたのだが、その発想の発端となった田口洋美さん(東北芸術工科大学校教授)の説の趣旨は別の所にある。氏は狩猟と農耕のバランスが大切と説いておられる。

 「農耕と狩猟の、自然に対する立場は矛盾したものです。しかしこれが助け合う関係になるのです。量子力学で言う相補性という考え方です。つまり、狩猟者は野生鳥獣が居てほしい。農耕民は農地周辺の野生鳥獣にいてほしくない。だから狩猟者が農耕地の周囲を猟場にし、野生鳥獣を捕獲する。狩猟と農耕は分かちがたい絆で結ばれるのです。」とまあ、なんとも美しい理論なのである。語っておられる理想は充分理解できるのだが、現実とはあまりにかけ離れているので、鉄条網の中で悶々と日を送っている私たちには、「諦めなさいよ」と言われているようにさえ思える。
 
 農耕以前から人間の生活を担ってきた狩猟が現在どのような状態にあるのか、知る人は少ないだろう。わたしもその実態はよく知らない。上林には二人の猟師さんがおられることを聞いているが、これだけひろい地域の駆除なり殺処分をお願いしているわけだ。しかし猟で生計が成り立つのか、後継者はあるのか、絶対数は足りてるのか、将来はどうなるのか等々の情報は持っていない。最近他地域ではあるが猟師の方と面識が得られたので、機会があればその辺のところを聞いてみようと思っている。2011120619460000
 
これは今季の地元の猪肉である。実に脂がのっていて美味しい。前期は肉質が悪くて売り物にならなかったそうだが、気候や山の食糧などが影響するようだ。






 一般には職業としてほとんど認識されていない猟師、その狩猟と農耕がバランスを持ってと言われても雲をつかむような話である。
 古代には主要産業であった狩猟がすっかり影をひそめた理由は、やはりそれで食べられなくなったからだと思う。それは食肉が野生動物から家畜に変わったからだろう。ただ過去の、仏教思想による食肉習慣の衰退というのは我々が考えているほど影響のあるものではないかもしれない。田口先生も野生動物は食されており、家畜とは明確に区別されていたと述べておられる。
 近代になって、野生動物の食肉としての需要、二次生産物としての毛皮などの需要が減ったことが狩猟の衰退となったと考える。決して乱獲による動物個体数の減少とは思えないのである。つづく

【作業日誌 3/15】
郵便受け箱改造(水濡れ対策、装飾)P1010287_2

今朝の雪で中が少し濡れていた。開閉する蓋を付けることにする。


今日のじょん:又しても雪が降った。八時頃から雨になってきたので、みるみる解けてしまったが、レインコートは必需品。ぽんぽこぽんで強烈木下やえこさんも取れるようになった。えらい進歩である。P1010289

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雪中八策 防獣編(16) 3/8

2012-03-08 | インポート

2012.3.8(木)曇

 山の幸にきのこがある。かつて丹波は松茸の産地として有数の地域であった。わたしが子供の頃は季節になればその辺にいくらでも出ていたし、農協の集荷場は松茸の香りでむせるぐらいだった。今どうして姿を消してしまったのだろう、マツクイムシだけが原因なのだろうか。わたしはその答を持たない。
 2006年東北を自転車で回っているとき、その時はクマの出没で大騒ぎだったというのは前述した。山道を走っているとき何度山の中のガサガサという音に驚いたことか。そのすべてがクマでは無くてきのこ採りのプロだった。「何を採っているのですか」と訪ねてもあまりの訛のきつい方言で何か解らなかった。とにかく彼らの腰の袋にはなにかいっぱい入っていた。
Img_0791
八甲田に向かう蔦温泉辺りの森、ここでガサガサッときたらビビってしまう。(2006.9.22)


 信州佐久の秋にもよく通っていたが、とにかく総出できのこを採るのだ。これは丹波では見られない光景である。美味い、お金になる、楽しい、こんなきのこをみんなで採ろうではないか。といってもきのこ文化の無いところではなかなか難しい問題もある。どのきのこをどのように採ったら良いのかわからない。なにしろどれが毒でどれが食べられるかなんて解らないのだから。
 でもその辺のプロも居るだろうし、きのこ文化を広めようなんて取り組みはできるはずだ。
 山に入ってきのこを採るというのが進まなくても、栽培することは出来る。我が家では2008年から椎茸を栽培している。また桜の木が手に入った年はなめ茸も作っている。これだってホダ木は山で調達しているので、山に入る機会となっている。自画自賛ではないが、どこの椎茸より美味いのが不思議だ。Img_3527
 
2009年秋のどんこ椎茸、それからスリーシーズン収穫している。


 椎茸の天敵は猿である。小指の先ぐらいの椎茸が出て来た頃が危ない。根こそぎやられるので、保護が必要である。いまのところ小屋を作ってネットをかけているが、毎冬雪で崩壊するので改良を考えている。
 きのこといえば我が家では毎年夏と秋にキヌガサダケが出る。中華料理の三大珍味で幻のキノコと言われている。Img_2655

2009.7.20、多分初めて見つけたもの。こりゃなんじゃという感じ。


  絶滅危惧種の一種のようでなんとか増やそうとグラバを水に溶いて撒いたりしているのだが、果たして効果があるのか解らない。
 松茸が無くなったら山に入らない、ではなくてもう少しきのこの食文化を見直して山に入る習慣をつけてもいいのではないだろうか。つづく

今日のじょん:じょんのび村の雪はすっかり解けた。屋根の雪が落ちたところだけじょんの遊び場になっている。この雪で遊べるのも少しの間だ、たっぷり遊んで頂戴。P1010248

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ガーデンシェッド(4) 11/11

2010-11-12 | インポート

2010.11.11(木)快晴

 初霜が降りたと思ったら、じょんの水飲みに氷が張っている。放射冷却で相当冷えたようだが、2008年の初氷が11月21日、2009年が12月17日(いずれもじょんのび村確認)だから随分早い。今冬は寒くなるかなと言われているが、カメムシは随分少ないようだ。昨年373匹捕獲した記録が10月27日だから、今年は嘘みたいだ。大体日に4,5匹というところか。いつくるか、いつくるかと恐怖に感じてる間に冬が来そうだ。
 さて連日奮闘中のガーデンシェッドだが、本日土台が完成した。えっ土台だけでいつまでかかってんねんと思われるようだが、結構工夫を凝らしていて、その上失敗も多いことだから堪えてつかわさい。工夫したところは、(1)廃材を使ったこと。(2)風に強い様にブロックを固定し、ボルト留めにしたこと。(3)獣、蛇対策に床下に金網を張ったこと。(4)湿気対策に充分防腐剤を塗布したこと。(5)在来工法風にほぞを切って組んだこと。(6)床下に汚水栓が来るため床が開くようにすること。

 失敗例と対策(1)自作沓石。強度不足と建物高さ不足になるため中止。(2)土台のねじれ。再度ばらして削る。(3)開く床の受けを忘れる。再度取り付け。
 何もない野っ原に作るわけでなく、限られたスペースと限られた高さに作るため何かと工夫しなければならない。床下だってそうだ。開いたままではイタチやテンなどが住み着く可能性もあるし、蛇が潜り込んで困ったこともある。失敗は付きものだが、取り返しの付かない失敗でないのが幸いだ。失敗や不具合に気づいたら、面倒くさがらずにやり直すこと、これが大切である。まあいいかと放っておくと後で必ずしっぺ返しが来る。納期なんて気にせずに納得いくまでやることが大切、そうするととても楽しくなってくる。K子ちゃんこんな楽しいことを他の人にやらせることないぜ。自分一人でやった方が楽しみを独占出来るし、結果が良くても悪くても納得いくんでねえかい。Img_1663水平と直角を出すためあらゆる器具を駆使する。写真のように対角線の長さを合わすことが大切。
Img_1664



モルタルでコンクリートブロックを固定、ものの本にはインスタントセメントでと書いてあったが、間尺に合わない。Img_1677
Img_1679

怖ろしくねじれが出ている。削ったり、ほぞを切り直したりで再度水平を出す。(白いところが削った所)Img_1680Img_1681


隙間には金網を張ったが、左は失敗例、右は補修後。

今日のじょん:人間は寒くなるほど弱ってくるが、じょんは元気になってくる。朝のうんPの後の疾走はほれぼれとする。広すぎる敷地は重荷になってきているが、じょんのためにはよかったかなあとぞ想いける。Img_1674   

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木小屋2号完成 11/20

2009-11-20 | インポート

2009.11.20(金) 曇

 昨年の今日初雪が降った。朝起きたらうっすらと白くなっていて驚いたのを思い出す。今年の今日は暖かい、外気でも10℃以上だ、室内だと16℃ある。今日は定休日でもあり、ストーブも出番がない。昨日の新聞にカメムシの数は冬の降水量に関係ありや無しやという記事が載っていた。今秋は多いのだそうだ、カメムシに対してはそんじゃそこらの御仁より真摯に取り組んでいる。昨年のカメムシいるいる大実験、今年の最長不倒記録を読んでいただきたい。そんな私が断言する、少なくともじょんのび村周辺では今年のカメムシは昨年同様だ。もっとも多くても少なくても冬の気候との相関関係は今のところ見つかっていないそうだ。各テレビ局の気象予報士の皆さんもオチャラケやってるよりこういった研究でもされた方がよろしいかと思うのである。
 さてそのカメムシどもも最近は勢いが無くなってきた。屋内では数匹捕獲するが、屋外ではほとんど捕ることはない。彼らの全盛期とは正味2週間ぐらいのようだ。では一体どこへ行くのか、生態を調べようと言っていたが、のど元過ぎればカメムシ忘れるてなことで、ちっとも調べてない。ストーブを炊くようになって、木小屋に薪を取りに行くと必ず臭いがする。どうも薪の後なんかにくっついているみたいだ。そのまま室内に持ってはいると大変なので、一本一本はたいて持ち入れることとした。まったくいつまでも手のかかる連中だ、薪小屋ごと燻煙してやっつける方法はないものだろうか。もっと強烈なのがベランダ下に置き続けの木ぎれだ。びっしり一列になってくっついている。さすがの私もぞっとして作業中断だ。Img_3484

こんな感じでくっついている。


 どうもあの状態で越冬するようだ。トーチで焼き殺してやろうかと思ったが、ガス代がもったいないし、蚊取り線香ぐらいでどうこうなりそうにないし、困ったものだ。
  さて、そのカメムシの巣となるべく第2木小屋が完成した。のべ14日間、つめてやれば三日程度か。
費用は、ポリカ波板5枚、4,900円、2×4×8f2本、6f2本、桟木3m×5本、垂木2m×3本計3,120円、ボルト4本480円、釘、塗料など約1,000円、合計9,500円程度。貰って難儀したヒマラヤ杉を全面的に利用して間伐の杉丸太や貰いものの板などで作ったので経済的である。1号もそうだが、前面に小さな屋根を取り付けないと雨が吹き込むので、続けて作業するつもりだが、一応の完成としておこう。まず、明日から玉切りと、薪割りが始まる。Img_3485
【作業日誌 11/20】
木小屋2号完成15日目

今日のじょん:朝の散歩とぽんぽこぽんは平常に戻った。昨日はぽんぽこぽんのご褒美ジャーキーも食べなかったのだ。やれやれと思ったら朝ご飯を食べなくて、夕方に食べる始末、当然夕飯も残すことになる。そろそろ一食にしたらよいのかな。Img_3482
 

おとーの作業を見ておりやす。

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怖れていた日が 9/9

2009-09-10 | インポート

2009.9.9(水)曇

 怖れていた日が来た。いつかは来ると秘かに怖れていたその日がやってきた。
朝ふと畑に目をやると、遅ればせながらなりはじめたナスが、明日は熟すだろうとおいていたトマトがすっかり無くなっているのだ。畑は何者かが大暴れした跡が残り、自然薯の畑は掘り起こされて、茎が宙ぶらりんになっている。大根を植えるべくきれいにならした畝には獣の足跡が残り、ミニトマトは総ての実がやられ、山椒の根元付近が掘り起こされている。やられた。そういえば夕べはじょんもそわそわしていたし、風呂に入っていたときも何者かが一輪車にぶつかって大きな音を立てていた。その間何者かは畑を荒らし回っていたのだ。Img_2999_2 Img_2997 Img_2998




左:トマトは九割方 中:ナスは全滅 右:自然薯は掘り起こされている。
足跡から見るとアナグマクラスのようだ。イノシシのように蹄がみられない。
実は過去に何回も獣の侵入はあるのだ。ナス、トマト、キュウリのなりはじめを囓られてその場に捨ててあったことがあった。刈った草の下を掘り起こされてイノシシの足跡が残っていたこともあった。それでも実害というのは無かったのである。
 数多くの被害談は聞くし、近所の畑を見ても柵だらけである。すぐ隣の森井さんの畑を見ても、気味悪いほど荒らされていることがある。それでも境界から内側は大丈夫だったのである。常駐している人間がいるためか、じょんやお友達の犬たちがうろうろしているためか解らないけれど、夜中中見回っているわけじゃなし、結局偶然の幸運が続いただけのことだろう。トマト、ナスはそこそこ食べたしまだ許せるのだが、大切に育ててきてもう少しという自然薯は許せない。
 心にぽっかりと穴が開いたような、そう車上荒らしにゴルフバッグを盗まれたときのような寂寥感が漂う。家庭菜園でもこんなにショックなのに栽培農家ならいかばかりかと思う。もう野菜は作らないとおっしゃる気持がよくわかる。
 と言うわけで完璧な柵をこしらえることにした。もっとも柵のない畑など珍しいぐらいで、最初から作るつもりだったのだが、実害が無いので今日まで来ただけである。心の中ではいつかこのような日が来て、やむなく柵を作るのだろうと思っていたのである。昨日書いたようにとても忙しい今月だけど、今やらないと後悔することになりそうだ。
 自然薯は五個植え付けて三個発芽し、順調に育っていたところである。三本とも蔓が切られていて、一カ所が掘られている。残りの二つは芋が残っているかもと掘ってみると、あるはあるは、しっかり育っていたのだ。不幸中の幸いで、早速掘り出してとろろにする。自分が食う前に奴らに食われなくて良かった。むかごも沢山採れてまあいいかの獣騒動であった。

Img_3003
二人で食べきれないほど大きく育っていた。むかごもあるぞ。

【作業日誌 9/9】
やむなく自然薯収穫
藤、百日紅植え付け

今日のじょん:昨晩様子が変だったということだが、獣の臭いがしていたのだろうか。でも吠えることはなかった。いずれにしても獣の侵入に対してじょんが無力なことには変わりない。イノシシ捕まえてこいとは言わないけれど、獣を追うぐらいの仕事はして欲しいと願うのだけれど、かみさんはすぐかわいそうという。本当にかわいそうなんだろか。愛玩犬より羊飼いなんかの仕事している犬の方が幸せのように思うのだが。



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