晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

上林雪譜 1/31

2012-01-31 | 日記・エッセイ・コラム

2012.1.31(火)晴

 朝の7時頃だろうか、もの凄い轟音と振動が起きた。すわっ地震かと目を覚ますのだが、どうやら屋根の雪がなだれ落ちたらしい。定休なので再度寝直して、次に目が覚めたのは妙に明るい朝日のせいだ。こんなに美しい陽の光は何日ぶりだろう。
 人間にとっては陽の光、特に朝日は精神的にも生理的にも必要なのだ。イライラもやもやした気分が一気に吹き飛んでしまう。いつも雪に文句ばかり言ってるかみさんも「きれいやなあ」などと言っている。
 窓を開けると、昨晩降った雪が木の枝からパラパラと落ちている。思わずカメラを持ち出すのだが、映像では感動は表せない。P1000912P1000914
 
二階の窓から



 表に出ると西側の屋根の雪が2/3ほど落下している。何トンあるのか知らないがなんともおそろしい話だ。屋根の雪の落下で毎年何人かが命を落としていると聞く。東側玄関には雪の落下に備えて前室を作る予定なんだが、果たしてこの衝撃に堪えられる屋根を作ることが出来るだろうか。P1000920 P1000917 
 



 もう一つの問題はこの音と振動にじょんが脅えきっていることだ。地震、雷にはどうってこと無いようだが、どうも落雪と風が弱点なようだ。脅えてストレスを溜めてるみたいで、食欲がアンバランスだし、雪が落ちた朝は部屋から出てこない。よるもあまり寝てないようだがその分昼間寝ている。P1000916
P1000924 
 


  北陸、東北では18豪雪以来という記録が出ているが、映像を見ていると将に北越雪譜の世界であり、雪による死者も51人と言われている。痛ましいことだ。
 天気が良いので11日振りに上林を出て綾部、福知山に買い物に行った。広域農道を過ぎて桜ヶ丘の峠を越えると別世界である。道の脇などには降雪の跡が小さな雪の塊になってあるが、これじゃあ雪だるまも作れない。福知山に行くと更に少なく、もう山にしか雪は見えない。こちとらの冬装束では暑くて汗が出てくる。
 帰路につくと峠を越える毎に積雪が増え、家にたどり着くとまたもとの白い世界だ。P1000926
 
綾部駅前はこんなもの、うそみたい。


 これこそ上林雪譜なんだが、実はもっと奥の奥上林では新聞にもテレビにも出ない雪にまつわる事件事故が起きている。口伝えに聞く話なので詳細は解らないのだが、大雪の夜に府道の倒木のためトラックが何台か立ち往生し、夜を明かしたそうだ。村では炊き出しをしようとしたんだが、折からの停電でポンプが動かず水が出ない。山水水道の家で水を確保し、握り飯、お茶などの炊き出しをしたそうである。今ではその山水も出なくなって、雪を溶かして確保していると言う話も聞いた。
 様々な苦労があるのだろうが、皆が困るのは停電である。生活の中に占める電気の割合が高いだけに、停電は死活問題だ。一昨年の雪では何日間も停電した地域があった。石油ストーブだって電気がないと使えないのだ。寒さと暗闇で如何ばかりだったかと思う。
 腹立たしいのはそれらの地域が原発10Km、20Km圏内なのだ。原発の危険性がある地域がまともに電気を使えないって矛盾だろう。停電は毎年毎年繰り返されている。地下に埋設するとか、木を切り払うとか、しょうもない箱物作るより、やるべきことがあるだろうと思うのだが、、、。

今日のじょん:本文に登場なのでおやすみ。

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雨読 真継家と近世の鋳物師(2) 1/30

2012-01-30 | 雨読

2012.1.30(月)雪

 第二章各地の鋳物師と真継家、第三章各国の鋳物師組織では美濃、三河、高岡、甲斐、近江、信濃、尾張、遠江などの鋳物師についてその出自や実態についてかなり詳しく述べられている。本来は丹波の鋳物師について知りたかったのだが、それはなくて残念である。わたしの近隣の鋳物師居住地は上林清水村、胡麻新町、田辺引土村、福知山鋳物師などである。郷土史研究会などの論文で見ることも出来るが、今ひとつ核心に迫ったものに当たらない。
 本書の中では真継家文書にあるものが少し紹介されているだけである。上林清水村の鋳物師については以下の文のみであった。
 
 元文元年(一七三六)十月には丹波国何鹿郡八代村へ同国柿芝村の鋳物師の中から出職を企てた者があった。その時、小出伊勢守の領分の上林清水村の鋳物師たちが、古格をもとに願い出たので柿芝の領主に座法の趣を申し入れて出職を差し止めた。

 柿芝村とは現丹波市氷上町柿柴のことであり、何鹿郡八代村は綾部市八代町。出職とは出張製作のようなことで、一郡一鋳物師が原則であり、郡内の仕事は独占していたため上記のような事件が持ち上がり、その調停役が真継家の重要な役割だった。独占であったため、鋳物師というのはかなり儲かるものであったそうだ。Img_3053
上林川で採取した鉄滓(下左四個、上右から二番目)は清水村のたたらからでた可能性が高い。



  鋳物師の居住地については河内国日置庄の鋳物師が全国に散らばって定住したように言われているが、そればかりではないだろう。むしろ鍋釜、鋤鍬などの鉄製品が大衆の間に普及するまでは鍛冶師、鋳物師などは各地を流浪していたのではないかと考える。鉄製品の普及と共に、或いは戦国領主や封建領主との結びつきなどの要素で定着し、いわゆる居職となるようになったのではないだろうか。
 わたしが着目しているのはその居所である。例えば福知山鋳物師や田辺引土村などは城下町に存在し、領主のかかわるところ大であるという風に考えられる。ところが上林清水村や胡麻新町などは山間部であり、清水村などは河川を使った交通の便とも縁がないところである。Img_2696
 
清水村のある畑口川流域こそ金工の谷であると想像している。

Img_3904
胡麻新町は鋳物師勝田家の居所である。近隣に大河はないが由良川から畑川などの支流を使い船運があった。

 本書には近世真継家配下鋳物師人名録という真継家の配下の鋳物師の人名と居所や文書などの一覧があり、実に百四十ページにわたっている。その一つひとつを拾い上げて地図と対照し、どのような場所であるかを調べている。城下町、商業地、郊外、山間地などの分類の他に近隣の河川の様子、寺社、金工地名、鉱山などをデータ化しているところである。鋳物師の居住地が鋳物業がしやすい場所というだけでなく、中世以前の金工、産鉄の地ではないかということを証明してみたいのである。

【作業日誌 1/30】
雪かき、野菜は雪の中で元気している。でも掘り出すのが大変。

今日のじょん:連日の雪景色になると人間も飽きてくるが、じょんも飽きてきたようだ。今朝など散歩から帰ってきたらさっさとベランダに帰ってしまった。うーむなんかさみしい。P1000907
 

今朝の積雪22cm、雪の中のおしっこも大変。

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雨読 真継家と近世の鋳物師(1) 1/29

2012-01-29 | 雨読

2012.1.29(日)雪

 鉄の歴史を探るとき、たたら製鉄を巡る遺跡や技術が注目され、砂鉄の精錬や刀鍛冶の活躍がもてはやされるわけだが、中世近世の鋳物師や鍛冶師の存在というのも大きな意味を持つ。それは権力の象徴であった金属、とりわけ有用であった鉄の一部権力者から一般大衆の道具としての普及という大役を担ったからであろう。
 ところが一般大衆に係わる生産流通消費といったことは歴史的な文書に上ることは希である。たまたま鋳物師を支配した真継家の膨大な文書が今日に残り、多くの研究者によって解読されることとなっている。小論文はいくつか見ているが、本格的にまとめられた書を読むのは初めてのことである。本書は古書で購入することも可能であるし、内容の一部の論文をネットで見ることも可能である。今回は高額な図書でもあるので図書館で借りて読むことにした。
 
 「真継家と近世の鋳物師」笹本正治著 思文閣出版 1996年2月発行 定価11,124円 京都市醍醐図書館借本
 552ページにわたる大作で、真継家の鋳物師支配の全容を網羅しており、歴史的資料という意味では一級品である。P1000906
 
 
分厚さがわかるでしょ。

 わたしの鋳物師に関する書物を読む目的は、鋳物師の具体的な仕事内容を知ること、鋳物師の居住した地が古来からの産鉄の地ではないか探ること、そして鋳物師のルーツを探ることであった。
 残念ながら本書の意図はそういうところにないので、直接的に解決できるものは無いのだが、間接的にあるいは文章の端々に、あるいは豊富な資料を分析することによって目的を果たせるのではないかと思っている。
 鋳物業、鋳物師を支配した真継家とは代々の鋳物業の大家でその分野の中心的な役割を果たした家柄という風に考えがちだが、実は一儲けしようと、従来の鋳物師支配の利権を新見家から借金の方に取りあげた下級の公家である。スタートがこのようなことだからなかなか軌道に乗らない、なにしろ新見家自体が没落していて鋳物師とは縁が切れていただろうし、鋳物師に至っては真継家なんて誰も知らない、ましてや徳川の世になって、公家の御威光なんてまるでない時分なのだから。
 ところが個別の鋳物師にとっては業者間の調停や独占の保証、自由な通行権などをもたらす座というか一種のカルテルが必要なようで、真継家に依頼が集まるようになる。そんな経過でやがては日本中の鋳物師を支配して大儲けするのだが、もともと権力の無い末端の公家が免許状のような文書で取り仕切るのだからその消長は小説を読むよりも面白い。
 明治になって権力が朝廷に還ってきて、公家としてはより支配がしやすくなると思うのだが、あっさりと潰されてしまうのである。バブリーな鋳物師の支配に滑稽さを感じてしまうのだが、それは不謹慎なことだろうか。つづく

 今日のじょん:今日で雪が一週間降り続いている。最初に降った後は少しづつなので今のところ昨年のような積雪にはなっていないのだが、今夜も降り続いているので心配である。P1000902


今朝の積雪は10cm弱、下が硬くて沈まない。

 じょんは喜んでばかりでなく、困ったことがひとつある。
 それは屋根から落ちる雪が怖いことだ。雷でも怖くないのに、なんであれが怖いのか、木からザザーッと落ちる雪も怖いようだ。このまえから朝になるとゴミ箱のゴミが放り出されていることがある。なにか関係があるのだろうか。P1000857

こうやって木から屋根から落ちてくる。

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自転車取締について(8) 1/28

2012-01-28 | 日記・エッセイ・コラム

2012.1.28(土)雪

 かつて飲酒運転での罰金が高額になって物議を醸し出したことがある。厳罰主義の目的は違反を少なくすることだったのだろう。現実に飲酒運転をするドライバーは減っただろうし、飲酒による事故も減ったと思う。ただしこの方法を自転車に適用するのは問題がある。それはやはり自転車には免許制度がないので、教育の機会が無いということが理由である。
 自転車専用道や自転車分離帯などのハード面での整備は望むべくもない。日本の道路事情が悪いというより、自転車に対するとらえ方の問題だろう。
 車両なんだから車道を走れというのも無理がある。それはドライバーの自転車に対するとらえ方の問題である。丸腰で戦場に放り込まれるようなものである。
 さすれば目先の問題の解決策は、自転車も歩道を走るということにして、自転車側の法令遵守、マナーの向上が最も近道なのではないだろうか。近道ってもとても大変なことで、地域と家庭、学校と行政が責任転嫁をすることなく真剣に取り組まないと出来ないことだし、待っていても勝手に出来ることではない。まずはアクションが必要と言うことなのだが。
 上林での自転車走行は何の問題もないと言ったが、子供達の通学だけは大問題である。小学生は徒歩で、中学生は自転車で、あの細い道を必死で通っているのだ。道路は大型のトラックがどんどん走っているし、地元の車でも子供達の脇を制限速度を20Kmぐらい超えて走っている。制限速度以内で走っているとあっという間に追い越される、もちろん追禁地帯である。とにかくこの地域の交通マナーは最低である。せめて子供達の前では紳士的な走行をしてもらいたいと思うのだ。
 道路にしたってそうだ、歩道のないところもある上に、あってもあぜ道のような細い歩道で、もちろん自転車通行可ではないのだが自転車はそこを通るしかない。
 バイパスの話は出るけれども通学路の話は出ない。市議会の選挙にだってそんな話は出てこない。そうでなくても数少ない子供達を、守っていこうという意識はないのだろうか。
 もっとも通学の道路事情の悪さはいずこも同じである。自転車旅行中に通学の児童達の悲惨な状態をいくつか見て記事に書いた。2007.4.10「2号線はたまらない」もその記事だ。Img_4137
 



 国道2号線山口県の写真である。下校途中の児童達とすれ違った後に撮ったもの。子供達はこの溝のような歩道を騒音と埃にまみれて歩いていた。自転車は路側帯を通ることになっているが、前を行くトラックの巾と比べて欲しい。これが天下の2号線である。おわり

今日のじょん:今朝の積雪は10cm、たいしたことは無いのだが、連日なので参っている。だんだん昨年の記録に近づきつつある。昨日9時の積雪が老富(おいとみ)で132cm、五泉(いいずみ)で112cmということだった。
 じょんは相変わらず雪中ぽんぽこぽんで張り切っている。P1000900P1000899

散歩は府道以外は通行不可、その分ぽんぽこぽんで頑張る。

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自転車取締について(7) 1/27

2012-01-27 | 日記・エッセイ・コラム

2012.1.27(金)雪

 京都府警は昨年12月から信号無視など悪質な七つの違反に対して警察官が見つけ次第交通切符を切ることとなった。自転車の場合は行政処分は無いので即刑事処分の対象となる赤切符となると言うことだ。その七つの違反とは以下のとおりである。P1000894

昨年11月の新聞記事、悪質自転車すぐ「赤切符」


信号無視  3月以下の懲役または5万円以下の罰金
飲酒運転  5年以下の懲役または100万円以下の罰金
一時不停止 3月以下の懲役または5万円以下の罰金
二人乗り   2万円以下の罰金または科料
無灯火    5万円以下の罰金
通行禁止違反 3月以下の懲役または5万円以下の罰金
制動装置不良 5万円以下の罰金

制動装置不良以外の違反は誰でもやったことのある違反ではないか。飲酒して自転車に乗り、100万円払えって言われても仕方ないとは驚きだ。そんなお金払えねえと言ったら5年間懲役食らったりして、それってやばくねいかい。よく知らないのだけど自動車よりきつくないかい。上記のどの違反にしたって、他人を傷つける可能性は自動車よりうんと低いと思うのだ。これ等の違反で事故を起こしたって、傷つくのは自分がほとんどでましてや命にどうこうというのは少ないと思う。法の平等性という点でかなり問題があろうかと思うのだが。
 それともうひとつ、自動車の場合は法規だのルールだのが周知されていないことだ。例えば自動車運転の場合は免許制度があるから、本人が理解するしないは別として色々と学ぶわけだ。ところが自転車にはそのような制度がないので、法規なんて知らない人がほとんどだろう。自転車が車両だなんてのも知らないだろうし、免許を持っていなければ道路標識だって解らないだろう。

 ではこういった教育は一体誰がするんだろう。親も学校もその能力が無いことははっきりしている。親は一緒に学んでもらわなければいけない状態だし、学校はそんなもの教える場所じゃないということになるんだろう。
 最近通学を自転車でしている学校で、自転車の免許を発行するというニュースがあった。大変良いことだと思うが、これとて総ての学校で実施し、交通安全教育に責任を持てとなると無理なことなのだろう。つづく

  追記:夕方大町までお使いに行ったのだが、大町あたりではあまり変わりがないようだ。それより奥が大変なのかな。P1000892





今日のじょん:相変わらずの雪でよく遊んでくれるのだが、今朝は事件が起きた。うんPをして全速力で新雪を駆け抜け、除雪の壁を格好良くジャンプしたと思ったら合羽が「殿中でござるぞ」になって、顔から着地してしまったのだ。足は合羽の中で曲がったまま固まっているもんだから、こちとらびっくり。骨折でもしていたらどうしよう、すぐに車が出せる情況ではないのだから。
 雪の中であわてて合羽を脱がせて様子を見る。うーむ、幸い故障はないみたいだ。びっくりさせるぜ。P1000889 P1000888

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自転車取締について(6) 1/26

2012-01-26 | 日記・エッセイ・コラム

2012.1.26(木)雪

 この記事の筆が進まないのは、今の自分にとってまるで関係が無いからである。実はジテ通をしているとき、将来はNPOかなんかで自転車が主役の交通をめざす活動をしようと考えていたのである。そのためにジテ通の間に様々なデータを集めたりしていた。例えば無灯火の違反について何台の自転車にあって何件の違反があり、どのようなジャンルの人が違反をしているかなんて調査を1年間続けたりしていた。そして同様の考えを持つNPOなんかに参加したりしてもいた。
 ところが地区内に信号がひとつしかない上林に住んで、自転車のルールもマナーも関係ないわということになったわけだ。車道を走ろうが歩道を走ろうが障害物もなければ歩行者もない、そういう環境で自転車社会について考え、提言しようなんて気には絶対ならない。要するにどうでも良いわけだ。しかし書き始めた記事は最後まで責任持たなければならない。P1000882_2

それ以前にこの道のどこを走るんだい。 


 自転車と歩行者の安全について重要なことは自転車走行に対するハード面とソフト面での対策である。ハード面では自転車専用道路、自転車走行帯の設置が最も効果的だろうが、四条通の歩道拡幅の計画を見てもこれは困難だろう。それは自転車が社会から迷惑なもの、邪魔なものと思われているからである。社会にとって有効なもの、必要なものというふうに見られるようになれば情況は変わるだろう。ところが利用者にとっては有効で必要なものなのである。Img_0227

日本一周スタート前の初恋号、ライト、ベル、ブレーキは法定、バックミラー、スピードメーター、ヘルメットは自主装備。


 ハード面が無理ならソフト面でカバーしようということになるが、ソフト面とは自転車運転のルールとマナーの問題である。これを取締で解決しようというのが今回の動きではなかろうか。つづく(自転車取締について(5)は1012.1.21)

【作業日誌 1/26】P1000881
雪かき、本日積雪20cm、乾雪、気温0℃


本日の積雪は知れているが、先日の上に乗っているところは50cmほど。



今日のじょん:連日の雪に人間殿はうんざりしているが、じょんは楽しい遊びが増えて大喜び。屋根からの雪の山によじ登ることだ。何度かすると相当運動になるようで飯は食うわ、ぐっすり寝るわで結構結構。P1000886 P1000887

  
 

 

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じょんのび最低気温 1/25

2012-01-25 | 日記・エッセイ・コラム

2012.1.25(水)晴

 雪が降り積もった昨日とうってかわって快晴の朝が来た。樹々には樹氷が着いてキラキラ光り、枝には昨日の雪が綿帽子のように残り、寒いだの暗いだの文句ばっかり言ってるかみさんもさすがに「きれいやなあ」と感激している。P1000876 P1000879
 



 冬山合宿の朝、テントから顔を出して眺める景色のようだ。それにしても今朝の凍てようはどうだ。昨日の雪が解けた水分が凍りに凍ってブラックアイスとなっている。
 というわけで備え付けの温度計を見てびっくり、なな、なんと-6℃を少し超して-7℃に迫っている。P1000870
 



 わたしの記憶が確かなら、じょんのび最低気温は-4℃だったと思うのだが、一気に3度も更新するかなあと思わずカメラにおさめる。
 温度計は北面の壁に取り付けた、地上2mぐらいの極安物のものである。測定時間は大体8時15分頃、だから最低気温でないことは確かだ。P1000867


じょんのび坂もバリンバリン、府道もツルンツルン

 しかし不思議なことに今朝は耳や鼻に痛みを感じるほどの寒さを感じたわけではない。視覚では凍ててるなと感じるのだけど、感覚では寒さを感じないのだ。
 風が無いのと青空に朝日がまぶしい天気だったからだろう。つまり寒さというのは絶対的な温度ではなくて、様々な要素を持って感じるものなのだろう。
 わたしが最も寒く感じた事は冬富士合宿の宝永火口での幕営と厳冬期屏風岩でのビバーク、どちらも-20℃ぐらいと思うけど、前者は風速2,30mの風、後者は岩棚にぶら下がってのビバークだったのでつらかった。平地で寒かったのは11月下旬、札幌で飲みあるいたとき、いくら酔っぱらっても店を出たとたん酔いが覚めていた。もう一つは京都で朝の四時頃酔っぱらって帰ってきたらどういう訳か閉め出されていたとき。ありゃあ寒かったなあ、心も財布も、、、、。

今日のじょん:寒くてもぽんぽこぽんは相変わらず。ヒゲが凍りついておりやす。P1000871 P1000872 P1000874

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雪の上林 1/24

2012-01-24 | 日記・エッセイ・コラム

2012.1.24(火)曇

 ニュースの度に今季一番の寒気といわれる。少なくとも気温は上林に関する限り今年は低くない。我が家で最低が-2℃で氷点下を記録したのは一日だけである。
気温と雪量が比例するものではないようだ。今年の雪の量はまあまあというところだ。今年の雪は2008年の冬に似ている。大雪というほどではないが湿気が多く重い雪だ。菅坂や奥上林で沢山の杉檜が折れ、白く傷跡を残していた。我が家の榎の枝が折れたのもこの年だ。
 昨日からの雪について書いておこう。
 夕刻4時頃から雨が雪に変わり、途切れることなく朝まで降り続いた。水分を含んだ重い雪で、朝方4時頃20分程停電したそうだ。朝には晴れており、積雪は35cm、もし乾いた雪ならもっと積雪量は増えただろう。
 そんなことで今日の雪の映像を楽しんでいただきたい。P1000850 P1000854 P1000853 P1000856




左から
湿った雪なので枝にびっしりと着く。
川は温度が高く湯気がでる。
孟宗竹も重みに負けてポーンポーンと折れている。
湿った雪は雪かきも大変。


 ところで毎年の雪の状態などというのは人の記憶は曖昧なもので、「昨年の雪は少なかったなあ」なーんておっしゃる御仁もいるぐらいなのでじょんのび雪指数を再度ご覧にいれよう。年度は例えば2008年なら2008年末から2009年にかけての積雪をいっている。少し積雪の状況も入れてみた。

年       カメムシ出現    夏の暑さ   積雪        

2008    100          100      100(湿った雪)
2009     80           50       70(回数、積雪とも少ない)
2010     20          100      200(低温・乾いた雪、根雪有り)
2011     50           60

 今年もこのまま推移すれば95としたいところだが、まだまだ解らない。少なくともカメムシの出現とは相関関係が無い。
 そうそうもう一つ気付いたこと、今日のように割合重めの雪でそうかと言ってびしゃびしゃでは無いとき、スタッドレスタイヤが最も滑りやすいことである。よく見るとトレッドパターンから雪が排除されていない。粘りのある雪とでもいおうか、ご注意を。

【作業日誌 1/24】
もちろん雪かきくけこ

今日のじょん:最近じょんの雪もぐりの写真が無いなあという声を聞くので、たっぷりお見せしよー。P1000851 P1000866 P1000859

 

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大栗峠考(32) 1/23

2012-01-23 | 山・峠

2012.1.23(月)雨、雪

 大栗峠志古田道について考察を重ねてきたが、最後まで残っているのが「左京道 右弓削」の道標である。色々と予測をしてきたが、考察を重ねている内に存在すべき候補地が消えて行き、現在最も有力な候補地は峠下の志古田谷源流部分と考える。
 志古田道が志古田谷を遡る谷道であることはほぼ間違いがないだろうし、最初に人が通ったのは志古田谷を忠実に辿ったものと思われる。幾多の人が現在の志古田道を歩きながら、この道標に気付かないあるいは見つけられないとすると、現在の道以外のところを街道が走っていたと考えざるを得ない。そういう道を想定すると、それは志古田谷直登ルートが最も濃厚である。P1000391
 
この谷のツメが大栗峠。


 そして「左京道 右弓削」という方向を指し示す内容から考えると、峠の直下が妥当だと思うのである。内容は峠そのものの道案内ではなかろうか。右へ行くと弓削に行く、左(正式には真直ぐ)に行くと京道だと示しているのではなかろうか。
 志古田谷の大岩のところから上部は捲き道、あるいは支尾根に取り付いた道となる。これらの道は弓削道ほど巾は広くないが、石垣などの跡もあり、かなり古い峠道の風格がある。P1000389 P1000392
 
尾根道、捲き道には石垣の跡がかすかに残っている。


 元々の道が谷筋であるとして、これ等の尾根道等ができたのはやはり谷筋の崩壊が激しいためだろうと想像する。わたしは谷筋の直登はしていないのだが、途中に滝などの通行を阻害するものは無さそうだと予想している。ただ道を維持するには無理なのだろう。

 「左京道 右弓削」の道標のさす京道が、峠より向こうの上粟野に向かう道であったとしたら、志古田道が本来の京街道であるという証拠にはならない。ただ京道という表現が京街道を示すのではなく、単に京に向かう道ということを示しているのかも知れない。
 志古田道が最初に谷筋に造られ、それが大栗峠を越える京街道となり、やがて上部に捲き道や尾根道が出来、そして時代が進んで弓削道が整備され京街道の座を奪われたとするわたしの説は、谷筋に例の道標があるだろうという予想と矛盾するものである。最も古い谷筋の道に新しい弓削道の道標があるはずがないからである。むしろ尾根道から谷筋に転げ落ちたとすればつじつまは合うわけだ。
 
 「左京道 右弓削」の道標は本当に存在したのだろうか。奥上林村誌の筆者はその道標を見ているのだろうか。わたしは疑問に感じている。
 「弓削」は山田道の別れの石柱には「ゆけ」と記され、和知側の地蔵さまには「ユケ」と書かれている。他の文字について漢字が使われていないということではないが、道案内をする場合はなるべく易しく書いてあるように思えるのだ。P1000381 P1000087


「ユケ」「ゆけ」と書かれている。




 山田道の登り口には絵文字の石柱があると聞く。これは当時文字の読めない人にも解るように書かれたものである。Img_1386
 

「かまわんはいれ」




 道標があったとしても「左京道 右弓削」ではなく、もっと解りやすく書かれていたのではないだろうか。つづく

今日のじょん:らんちゃん発見。先日行方不明になっていたらんちゃんが10日振りに発見された。皆さんご協力ありがとうございました。
 家の近くの川でお巡りさんに発見されたそうだが、元気で良かった。リード着けたまま10日間もどうしてたんだろう。大寒波、大雪の前に発見されて本当によかった。P1000848
  
夕方5時の様子、明日は積もるぞ。 

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大栗峠考(31) 1/22

2012-01-22 | 山・峠

2012.1.22(日)曇

 大栗峠の地名は動詞「刳る」に由来する崩壊地形もしくは大きな石を意味する地名と考え、十倉志茂町、忠町にある小字大栗を調べてみた。これ等の地が崩壊地形であったり、大きな岩石があったとしたら大栗峠の大栗の意味もはっきりする。
 まず市役所で両小字の位置を確認する。ただ閲覧のみで複写等は出来ないので、持参の地形図やメモ用紙に記入する。このとき橋や神社などの建造物、山頂や谷筋などの地形的特徴を記入しておくのがコツ。
 十倉志茂町の大栗は志古田大栗と同様山地の字で上林川左岸の広い地域である。逆に忠町の大栗は上林川沿いの細長い地域で、車道から見渡せる地域である。
 十倉志茂町の大栗は府道一号線が境の峠を越え十倉志茂町の家々が現れた頃、南方にその片鱗を望むことができる。かなり山深いところで山稜を越えると釜輪町(かまのわちょう)に出る。大栗はかなり広い地域で、その地形や特徴を知ることは歩いてみないと解らない。P1000832
 
十倉志茂町府道から、右手前の尾根の向こうが上林川をはさんだ大栗。


 忠町の大栗は市道が佃から忠に入ってすぐの橋、須呂橋(すろばし)の上流、左岸の細長い地域である。この地域は車道から見渡せるのだが、崩壊地形でもなく大きな岩が目に付くところでもない。せめて川が岸を大きくえぐり、大岩がごろごろと転がっていて欲しいのだが、流れは素直でいとも穏やかな景色なのである。林の中に大岩が存在するかもしれないが、目にする限りでは何の変哲もないところである。
 左岸に流れ込む支流はフノリ川といい、橋の下流、上林川との出合いにフノリという地名がある。須呂橋のいわれは右岸上流少しのところの小字スロだろう。どちらも難解な地名である。いづれにしても大栗が意味する地形とはかけ離れているようで、内心がっかりして帰路につく。P1000837 P1000839
 



忠町大栗。左:須呂橋から、右手の川沿いが大栗、川筋は穏やか。
右:少し念道よりに進んで大栗を望む。尾根の下部、上林川沿い。

地名の持つ意味について、現地を見たときいつもいつも思惑通りの結果は得られない。より詳しい調査、より多くの対象を調査しないといけない。両大栗の現地を歩いてみること、与保呂の大栗についても調べてみることが必要と思われる。
 ただ、後ほど地形図等を見直していると、地滑り地形分布図にフノリ川上流域に大きな地滑り地形を発見する。上林地域では最大級の大きさだ。航空写真でもこの地域にいくつかの崖のような地形が見える。少なくともフノリ川の上流は栗地形であったことは確かだ。今は穏やかな風景を見せる大栗も地名が出来る頃には大きな岩がごろごろと押し出していた地域かも知れないなと思いを巡らせている。つづく
(大栗峠考30は2012.1.20)

【作業日誌 1/22】
薪割り昨年切り出し分終了。

今日のじょん:P1000815雪が解けてしまって春みたいな陽気、じょんはチト物足りないような様子。北の各地では大雪が報道されていて、来週からは強烈寒波も到来するとか。

写真は18日の様子、同じ場所昨年1月20日の様子、え~ん。Img_2208 

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自転車取締について(5) 1/21 

2012-01-21 | 日記・エッセイ・コラム

2012.1.21(土)曇、雨

 この記事を書くまでに色々な動きがあった。ひとつは大阪浪速区で昨年5月におきた自転車の無理な横断が誘発した死亡事故の自転車運転手を180日間運転免許停止処分にしたことである。そもそもこの事件は自転車運転者取り締まり強化の引き金になったものであるが、自転車使用中の過失について運転免許証の処分が出たのはこれで2件目ということである。
 1件目は以前にもお知らせした、飲酒で自転車を運転し、歩道上の脚立を倒して死亡事故を起こした時のものである。免停180日の処分だったそうだ。
 つまり自転車での違反によって、自動車の運転免許に対して処分が可能と言うことだ。自転車で酔っぱらって、免停になることもあり得るわけだ。運転免許を持ってなければどうなるかって、もちろん処分は出来ない。なんとなく納得いかない人もあるだろうが、運転免許をとる場合に自転車が軽車両ということは習うだろうから、当然その違反事項についても知っているとみなされるのだろう。Img_4021

自転車旅行中で、自動車の運転マナー最悪の都市は博多だった。飲酒ひき逃げの悪質事件があったのもこのあたりではなかったか。
(海の中道大橋、2007.4.7)

 今ひとつは京都の四条通が5m歩道となることだ。烏丸から川端までの1100mだが、現行片側二車線の車道が片側一車線となり、3.5mの歩道が5m強となる計画だ。実はこの区間、河原町通りとあわせて歩道は自転車軽車両通行禁止、車道は昼間通行禁止という事になっている。
 このことって案外誰も知っていないだろうけど、わたしもジテ通時代に買い物かなんかで走っていて、標識を見つけ初めて知ったのだ。自動車専用道ならいざ知らず、自転車が通れない道が京都にあろうとは驚いた。やむなく歩道を自転車を押して通行したのだが、他の自転車は普通に走っていたのを憶えている。確かにこの区間、自転車走行は歩道車道とも困難な道である。しかし天下の大道人も自動車も良くて軽車両だけいけないというのは納得のいかない話である。歩道はダメだから車道を走りなさいというのならまだ話はわかる。
 歩道の拡幅計画でこのことが改善されるのかと思いきや、報道されている内容にはそれらしいことは含まれていない。むしろ車線が減ることでの自動車渋滞対策のことばかり書かれている。P1000842
 
自転車関係記事は切り抜いている。


 京都市ほど自転車通行モデル都市として有効な都市は無いと思う、市長選も近いそうだが、自転車の通行について提言している候補は無いのだろうか。
 
【作業日誌 1/21】
薪割り

今日のじょん:じょんの合羽嫌いは有名になって、着せられそうになると逃げ回っているという風に思われている。実は随分慣れてきて、自分から着せて貰いに来るようになった。好んで着るのではないが「しゃーないなあ」と思っているようだ。着せ終わると相変わらず、「雨降ってじょん固まる」状態だ。P1000840 P1000841

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大栗峠考(30) 1/20

2012-01-20 | 山・峠

2012.1.20(金)雨

 志古田道が本来の大栗峠道だと考える理由に柳田国男氏の峠の表裏理論というのがある。幾多の峠を越え、その民俗について調査研究された氏が、開拓時の峠の姿について述べられたもので、古い峠の多くはこの形態をとるというものである。
 「秋風帖」という書物に書かれているのだが、わたしなりに解釈してその趣旨を記しておく。

 峠道は一方からもう一方へ方向性をもって拓かれた。前者は水の音の近い山道、即ち沢道で峠の近くで急峻となり、後者は水の音の遠い山道、即ち尾根道を下り末端部で一気に下る、前者を甲後者を乙とされている。なぜこのようになるかといえば、峠道を拓こうと登る者は峠、即ち山稜の鞍部を目指すわけである。沢のツメが鞍部であるわけだから、足下は悪くても忠実に沢を辿れば鞍部に到着するわけだ。峠からの目的地は里である。里を目指して降りていくのは尾根筋が一番良い。沢筋ではとんでもない方向に行くことがある。峠道を断面図にすれば、山稜そのものは対象形であっても道は非対称となる。前者甲を表口とし、乙を裏口として峠の表裏理論といわれている。P1000400
 
P1000378

甲種の道(志古田道)と乙種の道(上粟野道)

 開拓の経緯だけでなく、経済、物流という意味でも、峠道の方向性は語られると思う。信州や甲州などの大きな峠では両方の村から物資を持ってきて置いておく荷渡し場があったそうだ。顔を合わすことが無くても、平等に物々交換が行われており、この場合は両村とも対等だが、その場合でも当初は一方的な流れだったのではなかろうか。
 例えば若狭と上林を結ぶ猪鼻峠なら、若狭からは塩や海産物が、上林からは炭などが往き来しただろうが、大栗峠では海産物が和知に向かっても、山の産物が上林に向かうことは少ないのではないだろうか。上林も山国なのだから。
 
 大栗峠志古田道は柳田氏の理論にぴったりの峠道である。
 ただ総ての峠道がこの理論に沿って拓かれているわけではない。地形的な要素が大きく影響するからだろう。柳田氏も
「峠に由つては甲種と甲種、又は乙種と乙種とを結び付けたのもある。」と書いている。また、「殊に新道に至つては前にも云ふとほり、乙種のものが多いけれども、古くからの峠ならば一方は甲種他方は乙種である。」と書いており、新道は乙種のものが多いというのは、将に弓削道のことと合致するのである。P1000091 つづく

乙種の道(弓削道)



(大栗峠考29は2012.1.18)

【作業日誌 1/20】
薪割り

今日のじょん:脱走する犬について気がついた事なんだけど、どうも環境が変わったとき、つまり居場所が変わったときが多いようだ。昨年のタロウも京都から綾部に来ている時だそうだし、今回のらんちゃんも居場所が変わった時である。サチが行方不明になったのも、もらわれてきた当初じゃないだろうか。聞いてみよう。
ユキちゃんは猿を追いかけて山に入ったが、ちゃんとじょんのびに帰ってきたぞ。P1000827  

ユキちゃんの居場所はトイレの前。なんしとんじゃ。 

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緊急 犬探してます 1/19

2012-01-19 | 日記・エッセイ・コラム

2012.1.19(木)曇、雨

 野間さんちのらんちゃんが13日から行方不明になりました。
 ミックス犬の雌、5才で、毛は短く、赤茶色。
 いなくなったときは赤い首輪にリードも着いていました。
 いなくなったのは大島町ですが、その前は向田町にいたので両町、その間の地域にいる可能性も考えられます。Img_2851 Img_2852
 
 






 らんちゃんはヘイヘイやマリーのおかあさんです。写真は2009年の8月、ヘイヘイなど6匹を産んだ後で随分痩せていますが、今ではかなりふくよかになっているそうです。
 心当たりの方は、じょんのび 0773-21-4632 または直接野間さん 0773-42-9740に連絡願います。

今日のじょん:特別にらんちゃんの子供達の写真掲載します。みんな元気しているそうです。Img_2854 Img_2858 Img_2855  黒いのがヘイヘイかな。

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大栗峠考(29) 1/18

2012-01-18 | 山・峠

2012.1.18(水)晴

 大栗峠志古田道の謎について整理しておこう。

1.京街道本道は弓削道で、志古田道は単なる近道か?
 否 本来志古田道が本道で、大栗峠を越える道は志古田道が最初であったと思われる。

2.なぜ志古田道が本道だったのか?
 峠道が造られる法則はまずは迷わない最短距離であることがいわれている。まさに志古田道はその法則通りの道である。

3.なぜ志古田道は京街道本道の座を弓削道に譲ったのか?
 人の肩や背に負われていた荷が時代の進歩と共により多くの輸送力を必要とされてきた。そうすると谷筋の急登では牛馬の通行に堪える道巾が確保できないのである。しかも崩壊地形のためそのような道を造ったとしても維持できないという理由があろう。弓削道は使われなくなった今日でも、往時のまま存在しているほど立派な道である。P1000091

こんな広い峠道は他にはない。


4.なぜ崩壊地形である志古田谷に最初の京道ができたか?
 前述の通り最短距離であることが大きな理由だが、崩壊に対する補修という意味では当初は歩行のみの通行であるので、車馬の通うような大きな街道ほど大変ではなかったのではなかろうか。
 志古田道は弓削道が整備された後も、空身或いは肩荷などの人々には近道として使われていたのだろうと思う。P1000395

こんなに崩壊しても歩くだけの道なら作り直せる。


5.なぜ志古田道には地蔵や道標などが残っていないか?
 見つけられないのだと思う。もっとも街道に存在する偶像は平安期以降のものといわれるのでそれ以前のものは当然無いわけだが、江戸末期においても峠や上粟野側の地蔵を寄進している志古田の村人が我が村の中にある街道に何か残さないはずはないと思うのだが、今のところ何も見つかっていない。少なくとも奥上林村誌にある「左京道 右弓削」の道標はあったはずである。盗難にあったか埋もれたか、はたまた現行の道とは違うルートを街道が走っていたか。

 というようなところだが、最大の謎は「左京道 右弓削」の道標であり、この道標の発見こそが上記の事柄を証拠づける事になるのではないだろうか。つづく


今日のじょん:今朝は放射冷却で今季一番の冷え込み、じょんのび村でも-3℃となった。じょんの水飲み用の食器も蒼氷でカチンカチン。P1000817
 
なんじゃこりゃ、ペロペロ。


 昨日からいくみちゃんが来てるので何をやっても気もそぞろ。二階で声がしたらぽんぽこぽんの途中で固まってしまった。P1000816

 

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大栗峠考(28) 1/17

2012-01-18 | 山・峠

2012.1.17(火)曇

 今ひとつ整理しておかなければならない事がある。道の変遷という問題である。
わたしの持論は「道は尾根に始まり、時代が進むに従って谷に降りてくる」という原則である。※注1.
 こういう考えを持つに至ったのは、過去の山岳雑誌の論文が出発点で、日本アルプスなどの登山をしながら確信してきたことである。しかし今日にいたってその説をあらゆる道、街道に当てはめるのは間違いであることに気付いてきた。確かに急峻な日本アルプスなどの地形では、その説が成り立つだろう。そういうところでは谷はほとんどが岩盤で、とても道を造るなんて不可能であった。ただ残雪期には容易に往き来ができるので、いわゆる探検時代には谷が利用されたものと思う。
 しかし雪の無い季節には谷は通行不可能であり、尾根道こそが利用可能な道である。仮に中腹に道を造ったとしても一冬の積雪で崩壊するだろう。つまり道が尾根から谷に降りてくるには道路建設や保守の技術発達と道路の用途の必要性が要るわけである。道路の用途とはダムなどの大規模開発、モータリゼーションの発達などである。黒部下廊下の日電歩道などは登山者のために造られたのでなく、黒部川に作られたダムや発電所のために作られたのである。
 こういった道の発達過程の説を、どこの地域にも当てはめると矛盾が出てくる。その矛盾に気付いたのは大栗峠を巡る道である。
 高峻な山岳地帯でない丹波では、谷は決して通行不能なものでなく、積雪といっても信州や飛騨とは比べものにならない。
 人が初めて山に入る場合、山を越える場合は必ず谷を遡ったと思う。絶対的に歩きやすいことと、迷わず進めるということである。辿り着いたところが峠であり、それは越えて目的地に行く場合には、最短の道なのである。
 この道が安定したものであれば、峠道になり、街道となる。しかし谷道は不安定である。危険なところには捲き道が出来、ツメのところは急峻なので尾根に上がったり斜面につづら折れの道が刻まれたりするのだろう。
 上林から出る胡麻峠、猪鼻峠などは将にそのとおりの道である。洞峠は谷が険しいためか、崩壊の危険があるためか早い目に尾根に上がっている。実際に谷には大きな崩壊の痕があった。Img_2855
 
猪鼻峠の登り右手に登って行く谷沿いの道、ツメのところで斜面をジグザグに登る。

Img_3494
胡麻峠も谷筋を遡り、最後に左の斜面をジグザグに登る。

P1000400 志古田道は大岩まで谷筋、以後捲き道、尾根道となる。

 低山、寡雪の地帯にあっては、道は谷に始まり、谷に終わるといえよう。
 ところが、大栗峠につては谷に始まり、尾根に終わっているとわたしは考えている。つづく

注1.大栗峠考(4)2011.7.30、訂正猪鼻峠2010.8.23参照

【作業日誌 1/17】
薪割り

今日のじょん:新じょん語録(6)鍋ねこじょん
 鍋ねこてえのが流行ったことがあるが、じょんが鍋に入るわけじゃない。間食も昼食もとらないじょんが、鍋を出してくると必ずねだるのだ。鍋ったって上等なものじゃなく我が家のステンレスの鍋なんだけどね。まあ鍋が好きなのってにっぽんの犬って感じで面白いだろ。P1000791
 

これは晩やけどね。

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