晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

大唐内のこと(56) 丸山とイモリ村

2011-05-30 | 歴史・民俗

2011.5.30(月)雨

 小唐内の谷の奥に海坊主のように現れる山容を見ると、将に丸山という名がぴったりと来る。大唐内でも小唐内でもこの545mのピークは丸山と呼ばれている。最近「上林七里野」などで生守山(いもりやま)とかサンドラ山とか聞かされて、「こんな呼び名は知らなかった。わしらは昔から丸山としてしか呼んでなかった。」(家本さん談)という風である。この山をめぐる古文書の中には丸山という名前は見あたらない。唯一平凡社「京都府の地名」大唐内村の項に「現在地元にサントラ山とよぶ地名はないが、鬼の穴は三国岳東方の丸山とよぶ尾根にあると伝える」と記されている。伝えているの元が「丹波志」なのか「丹波負笈録」なのかこの文脈では解らないのだが、いずれにしても丸山と言う呼び方は丹波側に限定したものなのではないだろうか。
 実は私はこの山を小唐内からしか眺めていない。大唐内も市茅野も行ったことはあるのだが、意識して眺めていないのだ。大唐内については聖神社のところから奥には行ってないので物理的に見ることも不可能である。市茅野については家本さんの奥さんが「市茅野からこの山を見た人が、えらい尖った山で丸山とは言えへんなあとゆうとっちゃたで」と話しておられた。両地とも是非この目で見たいものだと、先日老富に向かったのだが、途中で雨が降ってきて断念した。次の機会には是非カメラにおさめたいと思うが、市茅野でどのように呼ばれているかも確認したい。
 丸山という山や地名は数知れずある。そして一般的に丸く盛り上がった地形だからそう呼ばれているようだ。ところがそういう山でもないところが丸山というところもあるという。つまり必ずしも丸い地形だから丸山とは限らないということだ。
 このことについて詳しく書いているのが「日本山岳伝承の謎」(谷有二著)である。二部構成になっている第一部「「マル」地名の謎を追う」を私は何度読んだことだろうか。Img_1307

谷有二氏三部作。


 学生時代には丹沢山塊の麓に住み、夏場は毎週のように丹沢の沢登りに通っていた。目的は沢登り、滝登りだから遂に一度もそのピークを踏むことは無かったのだが、檜洞丸(ひのきぼらまる)、畔ガ丸、ヌタノ丸といった丸の付く山がごろごろあるのだ。関西地方では珍しいと思うのだが関東では何々丸といった山が沢山ある。この「マル」が一体何を示しているのか長々と書いているのが「日本山岳伝承の謎」である。つづく(大唐内のこと(55)は2011.5.29)

今日のじょん:昨日の答、「雨降ってじょん固まる」
台風2号くずれの大雨で越してきて以来の大水となった。じょん固まるを通り越してビビリ倒していた。Img_2981 Img_2985 Img_2987


  

 左:じょんのび谷もゴウゴウ 中:河原にも下りられない 右:畑も水の下

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大唐内のこと(55) 丸山とイモリ村 5/29

2011-05-29 | 歴史・民俗

2011.5.29(日)雨

 東北地方にははやま信仰といわれる山の信仰がある。はやまとは葉山、羽山、端山などと記され形の整った里に近い山で、どこの村にもひとつぐらいはあるものだ。その山に「はやまの神」が居て、里の人々の農耕を見守っていてくれると信じられている。人が死ぬとその霊ははやまに上がり、そこで数年を過ごしまた高みのある奥の山に上がっていくと言われる。現実にはやまに山上墳の痕跡があるものもあるという。山形県寒河江(さがえ)の葉山では奥の山は月山である。東北の地図を見ていると実に多くのはやまがあり、これ等のはやまの写真を見たとき将に老富の丸山がはやまに当たるのではないかという気がした。Img_0506

死んだ人の魂は葉山を経て月山に集まるという。(2006.9.6)


 はやま信仰は如何なるものか、文献は多くない。はやまの神まつりの具体的な報告などは目にすることはできるのだが、はやま信仰がどこから来たのか、いつごろ始まったのか、どのような意味があるのかといったことはなかなか解らない。
 はやまの神まつりの記事を読んでいると、その中に共通して浜下り(はまおり)神事があることに気付く。浜下りは沖縄、奄美など南の島々の伝統的行事、祭事という理解があるが、これが東北のはやま信仰の中に生きているというのは驚きである。この浜下り神事についても実はどのような意味があるのかよく解らない。
 海に関係のある神事であることは想像できるけれど、東北ではおよそ海とは縁のない内陸部でも行われているのだ。死者の魂の行きつくところも、沖縄では海だし、東北では山と考えられている。九州南部にもはやま信仰があるという説が民俗学者小野重朗氏によってとなえられていると言う記事を見たことがあるが、これも確認できていない。Img_3036
 
徳和瀬(徳之島)のナーバマ(浜下りの浜)
(2007.3.7)

 東北には”はやま”はいくらでもあるが、丹波で見つけるのは難しい。はやま信仰に類似する信仰や習俗も見あたらない。しかし仮に東北と南九州にその信仰が存在したとしたら、中間にあるこの地にも有ってもおかしくないと思うし、少なくとも死者の魂は山に還るという考えは間違いなくあったと思うのである。つづく
(大唐内のこと(54)は2011.5.26)

今日のじょん:なんでも検定流行の昨今なので、じょん検定を作ることにした。是非チャレンジして貰いたい。今日のじょんの読者なら簡単。
(第1問)今日のように雨の日にレインコートを着せられて、困っている様子を表す諺をのべよ。答は明日のこのコーナーで。Img_0929

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原発銀座 5/28

2011-05-28 | 日記・エッセイ・コラム

2011.5.28(土)雨

 昨日ニュースや番組の中で、古文書に16世紀、若狭湾に大津波があったことが解り、関電の情報と食い違うことが報道されていた。天正地震(1586年)による津波のようで家が流され多くの死者が出たというものである。文献が複数有り、信憑性が高いと言われている。若狭湾には過去にも大きな津波は無いと言うことで、原発銀座と言われる若狭湾の原発の津波想定は信じられないくらい低い。関電はこの地震については知っていたようだが、内陸型の地震なので、記録が無いという認識であったようだ。例え内陸型であっても津波があったと言うことは関電の言い分は通らない。当然想定する津波の高さを検討し直さなければならないし、その対策を取らなければならない。とまあ番組の要旨はそのようなものだった。歴史、史学というものが防災の分野では大きな威力を発揮するものだと感心する。今朝の新聞に出るだろうと思っていたら載っていない。讀賣もたいしたこと無いなと思っていたら、昨日の新聞に載っていた。さすがだな。Img_2979
 
讀賣新聞27日付の記事。


 原発の警戒区域が10Kmから20Kmに拡大され、わがじょんのび村も高浜原発の警戒区域に入るのかと調べてみると、予想外にその範囲外であった。それでも22,8Kmということで、被害が出れば同じである。なんとも複雑な心境だ。
 ところで草壁に住んで反原発の運動をされていた核科学者の久米先生の遺作「科学としての反原発」の第2刷が発行されるという記事があやべ市民新聞に載っていた。先生が亡くなられたのはもう一昨年になろうかと思うが、原発の近くに住んで活動されていたことは凄いことだと思う。先生の遺志を引き継ぐためにも是非読んでみたい。Img_3106

先生はこの草壁に20年間住まわれた。


「科学としての反原発」久米三四郎著、七つ森書館発行、1,890円

今日のじょん:雨模様なので店は暇だし昼寝ばかりしていたら、じょんはそれ以上に朝から晩まで眠っている。よくそんだけ寝られるナア。
Img_2978

寝てばっかしやないけえ。  

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祝・山本作兵衛さん 5/27

2011-05-28 | 雨読

2011.5.27(金) 曇、雨

 当ブログの検索サイトからのヒットに「山本作兵衛」関連がやたら多くて、何かいなと思っていたら、朝刊に氏の作品がユネスコの記憶遺産に登録されたという記事が掲載されていた。大変おめでたいことで心からお祝い申し上げたい。
 山本作兵衛さんといっても一般的には知られていないと思うが私は20年ほど前に読んだ「地の底の笑い話」(上野英信著)の挿絵ですっかり虜になってしまった。氏の絵は写実的なんだがユーモラスで、傍らに説明文が付いている。この説明文が新書版では小さくて、虫眼鏡で読んだものである。新聞では絵師と書いてあるが、元々は炭坑夫で実際にヤマで働いていた方だから絵の内容もリアルで歴史的な価値も具えている。(2010.3.29~30、雨読「炭鉱に生きる」参照)Img_2976
 
作兵衛さんの絵が載っている二冊。


 氏は1984年に亡くなられているが、今回の登録は私としても大変嬉しい。
 画集などもう少し買っておけば良かったと思うが、結構高値であったので手が出なかった。今となれば431円で買った画文集「炭鉱に生きる」が宝物になってしまった。
氏の作品の載っている本は前述の二冊だが、炭鉱に関するものはあと二冊、どちらも上野英信氏の著作で「追われゆく鉱夫たち」と「廃鉱譜」を持っている。どちらも未読で置いたままになっているのだが、それはいわゆる”つん読”ではなくて、途中まで読んだが、あまりに悲惨な内容で読み進められないというものである。
 なにが悲惨かと言って、その労働の過酷さと貧しさである。日本の近代化を担った基幹産業としての石炭産業の職場がなぜこのように悲惨であったのだろう。もちろん厳しい中でも楽しい出来事やささやかな喜びはあっただろうし、作兵衛さんの絵の中にもそのような場面もある。
 しかし石炭産業が斜陽化していく中では悲惨さばかりが表に出て、この二冊が読み進められないのだ。Img_2977_2

読み進められない二冊。


【作業日誌 5/27】
畑の柵作り

今日のじょん:隣のチコの元気がない。聞けば胃腸を壊しているようで、食事もとらないことがあるそうだ。普段元気なだけに気になりはじめた。いくみちゃんが見に行ったら「タマネギが干してあっておらへんで」ということだった。心配になって行ってみると、確かにいない、えらいこっちゃと思っていると奥の方からのそっと出てきた。元気は無いけど、生きていて良かった。Img_2975

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大唐内のこと(54) 丸山とイモリ村 5/26

2011-05-27 | 歴史・民俗

2011.5.26(木)曇

 その山を写真で初めて見たときははっとした。雪の小唐内の谷の奥に海坊主のようにぬっと現れているその山容は、この山には何かあると思わせる偉容である。渡辺さんに戴いたこの写真はいつも私の机の前に置いてある。古代のこの地の人々もこうして毎日眺めていたのだろう、それは否が応でも眼に入る山である。Img_2228
 
これが渡辺さんに戴いた丸山の写真。


 国土地理院の2万5千分の一地形図を見ると三国岳の南東、胡麻峠の東に545mの国境稜線上のピークがある。これが大唐内、小唐内でいうところの丸山である。
 京都新聞だったろうか、サンドラ岩、サントウ山の記事を見た憶えがある。その時はその山が三国岳(616,4m)のことだろうと思っていた。名前も有名だし、高さも充分である。ところがサンドラ岩について調べるうちに、また大唐内の方々に聞き取りなどするうちに、この地図上名前も着いていない小ピークが実は重要な山であることに気づいた。写真を見て益々この山に魅入られることとなった。
 しかしこの写真を見る以前に小唐内も市茅野も訪れているのだ。しかしこの山に気づくことはなかった。人間の目というものは意識があって初めてものを見るのだと言うことをつくづく知らされた。Img_2734
 
4月15日丸山に登る。


 まず一番にこの山について思ったことは、古代の住人にとって宗教的な存在ではなかったかということだ。古代人にとって山は聖なるものであり、また葬送の場でもある。特にその形が重要視され、各地にある神奈備山とは将にその山容が円錐形の美しい形である。神聖なところと葬送の場というのは現在の感覚で言うと相反するように思いがちだが、もともとは葬送の場、祖霊の眠る場というのが神聖な場所であり、後々神社などになっていると考えて良いだろう。古墳が神社になっている例を見れば納得がいくかもしれない。
 サンドラ岩は桟俵(さんだわら)、つまり俵の蓋の部分を表すという。
Img_2851
サンドラ岩。

この桟俵が下鴨神社の流し雛神事に使われていることをご存じだろうか。各地の流し雛にも使われており、精霊流しにも使われている。この地でもお盆の送りには、お供え物や胡瓜やナスでこしらえた馬などを桐の葉に乗せて送っていたが、かつては桟俵を使用していたこともあったそうだ。そのいわれはよく解らないのだが、桟俵がこの世とあの世を繋ぐ船の役目をしていると考えて良いのではないだろうか。その桟俵、実は火山岩の節理なんだが、丸山の山頂近くにあるわけだから昔の人々が、この山に他界感を感じても不思議ではないと思うわけである。つづく

今日のじょん:一日おとーと留守番していたら、おかーがいくみちゃん連れてきた。もうひこひこ。Img_2972
 

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大津絵の筆のはじめは 5/25

2011-05-26 | 旅行記

2011.5.25(水)晴

 かみさんの病院に付き合って大津に来ることはもう何回になるだろう。この間よくぞ京都縦貫道が無料化になってくれたかと思う。今日は診察に時間がかかりそうということなので予てから行ってみたかった茶臼山古墳に行くことにする。
 いつものオウミ堂さんで3冊ばかり本を買って、道を尋ねる。500mばかし国道を東に行くと小高い森があってすぐに解った。Img_2971

オウミ堂さんで買った本三冊、1,050円


 茶臼山古墳は全長122m、湖南では最大規模の、4世紀末頃の前方後円墳といことだが、彦坐王命あるいは大友皇子の陵墓と言われる説もあるそうだ。
 昨年京都新聞の文化欄だか滋賀の地方版だかでこの古墳の調査された事柄について書いてあったという記憶があるのだが、実際には詳しい発掘調査はなされていないようだ。宮内庁の管轄する陵墓でもなく、国の史跡公園として保存されていてこれだけ大規模な古墳であるのになぜ発掘調査がなされないのか疑問に感じる。前方部に秋葉神社が祀られていて、その所有関係があるのだろうかと又してもげすの勘ぐりが始まる。Img_2956 Img_2958
 
前方部にある秋葉神社と後円部。


 そんなわけで古墳の詳しい情報は解らないが、形だけはしっかり残っているので目に刻んでおいた。いつか近江の歴史など調べていたら必ず出てくるだろう古墳である。
ふと眼下に目をやると妙な建物がある。帰り際に立ち寄ると、芭蕉会館ということだった。周囲には立派な句碑がいくつもたっており、建物の前には大津絵の鬼の像と「大津絵の筆のはじめは何佛」という芭蕉の句碑がたっている。大津絵は蕎菜座さんの座敷で初めて本物を見て以来すっかり好きになり、ユーモラスな鬼の表情が忘れられない。この句は、正月三が日は仏のことを口にしないとかいう風習があるそうで、なかなか趣のある句である。Img_2961 Img_2962
 
鬼の像と句碑、右は芭蕉会館。


 芭蕉会館なるものは膳所城の櫓(やぐら)が使われているとのことで、金の鯱(しゃちほこ)なども乗っておりお城風に建てられているのだろうが、芭蕉の風情にはちと不釣り合いな感もするのだが、さて。
 芭蕉の墓所は膳所駅から浜の方に行ったところの義仲寺(ぎちゅうじ)である。
 「木曽殿と背中合わせの寒さかな」又玄(ゆうげん)

今日のじょん:今日は一日留守番をさせていたので、なんとなくいじけているみたい。考え過ぎかな。Img_2970  

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ガーデンシェッド(21) 5/24

2011-05-24 | DIY

2011.5.24(火)はれ

 ガーデンシェッドの記事が尻切れトンボで出てこないとお叱りを受けそうである。実は既に出来上がって、実際に使用しているのだが、2,3の点で手を入れたいところがあるのでまだ完成とはしていない訳だ。Img_2943

出来映えは上々。


例えばドアの四隅の隙間に木を埋め込んだがまだ塗装されていない、フラワーポットを吊り下げるようにしたが、傾きがきついのでお尻のところにスペーサーを作ったのだがまだ塗装、取り付けがなされていない等である。ペンキを使うので何か他に塗る用がないと面倒なところがあって進んでいない。そうこうしているうちに西側の壁が日焼けで薄くなってきたようだ。これも塗り直す方がよいみたいだ。急遽作った竹の樋も一部塗装が剥げてきた。今日やるぞっと思った日は雨が降ったりしてままならない。
 もう一つの問題は経費の出し方である。3万円の予算で始めたのが、もう4万円を超えている。2×4材やボードなどはかかった値段がはっきりしているが、例えばルーフィングなど2,800円ほどかかっているが実際に使ったのは2割程度である。そういう意味では3万円台で出来ているのだが、逆にペンキなどは手持ちのものを使っているので経費はゼロという矛盾も起きている。
 どちらかに規準を置いて計算すべきだが、とにかく今回使ったお金で計算することにした。だから次回ルーフィングを使うものを作っても経費はゼロとなる。ただし、これが要るかなと思って購入したが、実は使わなかったというものなどは入れないことにした。次回は経費明細を御紹介したい。

【作業日誌 5/24】
北側ネット張り
車庫横第三薪小屋作り
薪割り

今日のじょん:先日百足事件で褒めたら、毎晩唸って吠えて玄関に誘導するようになった。行ってみるとなんにも居ない。オーカミ少年じょんになってしまった。今日はじょんシャン兼体重測定、18.4Kgとやや増加気味、まあ許容範囲か。Img_2810

オーカメが来たぞん。

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雨読 古代海人の謎 5/23

2011-05-23 | 雨読

2011.5.23(月)雨

 「古代海人の謎」田村圓澄、荒木博之編、海鳥社1991年3月初版、売価1,700円、購入価525円
Img_2949  海人とは何かという疑問を解決すべく購読した本だが、その目的は達せられなかった。私の海人に対する認識は、「弥生時代に稲作と金属生産技術などをもった航海術に優れた人々が江南地方、朝鮮半島、あるいは東南アジア方面から日本の沿岸にたどり着き、定着してやがて勢力を拡げ国家を形成するまでに至った」というようなものである。特に丹後、丹波、若狭などの古代の歴史には海人族の影響が色濃く存在すると考えるのだが、その実状、実態というのは案外模糊としているのだ。
 稲作の伝来といえば日本の文化の根幹なのに、それを伝えた人々のことは何も解らない。歴史の授業にだって海人族なんて出てこなかったぞ。稲籾だけが船に乗ってきたわけでもないし、ある個人が単独で稲籾を大事に持ってきたわけではあるまい。そういう意味で、いつの時代に、どこから、どうやって、なんの目的で、どこの地にたどり着いたかという極基礎的なことを知りたいのである。安曇族、宗像系、住吉系あるいは尾張氏系とか様々な海人族が出てきて訳が解らない。その辺の系譜というものも是非知りたいと思って読んだわけである。
 本書のサブタイトルは「宗像シンポジウム」である。宗像市で1989年に開かれた日本で初の海人に対するシンポジウムの講演やシンポジウムの内容をまとめたものである。大林太良、谷川健一、奥野正男氏をはじめ古代史のお歴々が持論を述べられており、新しい知識や各論は得られたものの、基礎的な情報や知識は得ることができなかった。つまり読む対象を誤ったということである。将来もっと海人に対して理解が深まった末に再度読んだらきっと素晴らしいものが得られることだろう。

今日のじょん:ユキちゃんが来た。いつものように興奮して大騒ぎし、飛び回って遊ぶのだが、その後同じところに繋いでおくと妙な行動をする。それは人が見ていないとシラッとしていることである。ドアを開けて出ていくと、急に仲良く遊び出す。隠れて見ているとシラッとしているのだ。これは一体どういうことだろう。Img_2948

 

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左岸でも鉄滓 5/22

2011-05-22 | 歴史・民俗

2011.5.22(日)雨

 鉄滓と思われるものが4月と5月に続けて見つかった。その詳細については「鉄滓発見」(4.4、5.7参照)でお知らせ済みであるが、その発見場所について少し不安があった。その2個とも念道橋下流上林川右岸堤防であることだ。もしそのあたりでごろごろといくらでも発見できるのなら、念道の集落あるいは蓮ヶ峰(はちがみね)に向かう沢筋あたりにたたら、もしくは鍛冶場があったと考えられる。念道にかつて鍛冶屋さんがあったというような話を聞いたことがあるが、まだ確認していない。仮に明治以降に鍛冶屋さんがあったとして、鉄滓が出るようなことはあるのだろうか。
 もう一つの不安は堤防工事の際持ち込まれた土砂の中に鉄滓が混じっているということだ。2個の発見が同様の場所だけに考えられないこともない。
これ等の不安を解消するには、全然違う場所で見つけることだ。特に念道橋より上流、そして左岸で発見することが肝要だと考えた。そういうわけで探索の場所をそちらに移し、じっくり探すことにした。そうすると5月14日に小片、20日に最初に見つけたものと同様のものと小片の2個を見つけることができた。Img_2937 Img_2935
 
今回の発見場所、じょんの居る左下から20m程上流側、切り株があるあたり。


 思った通りに出てきたので実は驚いている。これだけ離れた場所で発見できるのだから、28水などの洪水で上流からながされてきたと考えるのが順当ではないか。またこれだけ出てくると、過去の発見物を記録、整理しておかなければならない。またこれが本当に鉄滓なのか、鉄滓ならばどのような過程で出てきたものか、そしてもっとも重要なたたらの位置を探さなければならない。とりあえずは整理しておこう。

今までに発見した鉄滓と思われるもの

No.1 鉄塊のようなもの 2010.4.18    上林川念道橋上流100m右岸河原
No.2 磁鉄鉱を含む石 2011.3.24     念道橋下40m右岸堤防下畑側
No.3 鉄滓(1)      2011.4.4     念道橋下30m右岸堤防下畑側
No.4 鉄滓(2)      2011.5.7     念道橋下100m右岸堤防川側
No.5 鉄滓(3)      2011.5.14    念道橋上100m左岸堤防田側
No.6 鉄滓(4)2個   2011.5.20    念道橋上150m左岸堤防田側
Img_4311Img_2547Img_2614   Img_2869
Img_2896Img_2920





No.1~No.6、No.5は右側の小片、No.6は2個口。



【作業日誌 5/22】
薪割り

今日のじょん:夕べのことである。パソコンに向かっていると、寝ていたじょんが急に起き出し、玄関の近くまで走っていって「ウーワンワン」と吠えだした。上の方を向いているのでまた虫でもいるのかと思い、無視しているといつまでも吠えている。行ってみると虫も何も居ない、表に獣が来ている様子もない。「小屋入って寝」というとスゴスゴと帰るが、又しても飛び出して吠え出す。こんなことを繰り返すので、灯りを点けて目線の先を見ると、なななんと籠の影に百足が潜んでいるではないか。さっそく殺虫剤でやっつけて事なきを得たが、離れたところの視線にも入らないところの百足がどうして解ったのだろう。臭いかそれとも音か、いわゆる気配というものか。あっぱれ虫虫じょん。Img_2947_2
 
じょんが寝ているのは右端、百足は左のバスケットの向こう側にいた。

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煙突掃除 5/21

2011-05-21 | 日記・エッセイ・コラム

2011.5.21(土)曇

 昨日のことだが、初夏恒例の煙突掃除が終わったので一応書いておこう。じょんのび村では煙突が短いこととストレートなので年一回の煙突掃除で間に合っている。燃料に良質の広葉樹を使っていることも関係するかもしれない。ただ、煙突掃除は天気の良い日、にわか雨など無さそうな日にやらなければいけないし、屋根に上がるだけに風の強い日も難しい。今日しかないって感じでとりかかる。
 屋根にはしごを掛けて上がるが、ヘルメット、ハーネス、ザイルは必需品だ。登るだけなら簡単だが、作業をするわけだから安全第一で考える。靴も大切で、作業用の安物の靴では危なくていけない。マラソンシューズの決戦用のものがフィット感といいフリクションといい最高だ。何でもおいとくもんやなあと感心する。Img_2929
 煙突にたどり着いてがっかりする。それは昨年耐火塗料で補修した部分がまたしても剥げている。今年は塗料を用意していないし、第一あれって高いのよね。やむなく中断して、コメリに買いに走る。
 すすの量は昨年より多い、特に煙突最上部には多量のすすが着いている。外すと屋根中が真っ黒になってしまった。やはり今冬は使用期間も長く、多量の燃料を焚いたせいだろう。
 煙突の部分と最上部の部分をザイルにくくりつけてそろりと降ろす。それから屋根を箒で掃除する。これは余分な仕事だ。煙突台座の部分も塗料は剥げていないが、汚れが目立つのでぞうきんで拭き取る。そして急な雨に備えてビニールで蓋をしておく。Img_2926 Img_2928
 
昨年塗った塗装は一部が剥げ、ススもひどい。
右は塗装の終わった煙突。

 降ろした煙突をブラシで清掃して、再塗装する。スプレー缶は使い切ってしまわないといけないというのでストーブガードもついでに塗装する。
 さて次は本格的な煙突掃除だ。サイズにあったブラシは高くて買えないので、小さいのをグルグル回して掃除する。この方法には問題がある。それはブラシをおくる針金のジョイントが緩んではずれることだ。下から取れば問題ないが面倒なので時々引き上げては締め直す。ここで煙突下部にスス受けの袋を忘れてたことに気づく。昨年はススが少なかったのであまり問題にならなかったが、今年は受けておかないとストーブの清掃が大変になりそうだ。実はここまでになんども上がり降りをくりかえしているのでうんざりしているのだが致し方ない。
 続いてストーブ本体の清掃にかかる。汚れを落として、サビが浮いてるところには油引きをする。内部の灰はアルカリ性なので置いておくとサビ防止になるといわれているが、昨年えらい目にあった。残した灰が水分を吸ってしまったのだ。それがサビの原因になったかどうかは分からないが、それほど上林の湿気は強烈だということだ。今夏は乾燥剤を入れるとか、火を燃やすとか考えなければならない。Img_2925 Img_2927
 
ススを受ける袋を煙突の下に取り付けておく。
サイドのドアは清掃に便利。

 ストーブの内外部、ガラス部分を徹底的に掃除して塗装済みの煙突を取り付けて終了、夏のひとつの行事が終わった。

【作業日誌 5/21】
薪割り

今日のじょん:じょん散歩道の蛇君出現場所は決まっている。森井さん宅の石垣と念道橋手前のアスファルトの割れ目だ。前者は黒と茶色の青大将の夫婦、後者はシマヘビの若者(性別不肖)。「蛇君は?」というとその辺りを見に行くのは解っているようだ。今日はシマヘビが出てきた。昨年は子供だったのに随分成長した。Img_2932
 

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刈払機奮戦記(下) 5/20

2011-05-20 | 違いのわからん農学士

2011.5.20(金)快晴

 考えてみれば内燃機関、つまりエンジンは田舎暮らしにとって必需品である。三種の神器は総てエンジンが付いている。これをいちいち法外な値段の修理に出していては堪らない。自家用車のエンジンなどはコンピュータが導入されブラックボックス化されていて素人ではどうにもならないが、チエンソーや刈払機などはそう複雑では無いと思う。店の人の話では、スターターが引けるようならエンジンが焼き付いているとかの重要なトラブルでは無いそうだ。キャブレターの清掃ぐらいで直ることが多々あるそうだ。インターネットで修理方法の情報を探す。個人のブログなどで修理方法を教えているが、妙に専門用語を使い回して、なんのことか解らない。エンジンがかからないというトラブルは最も多いようだが、その原因を消去法で探していくことが肝要のようだ。原因は燃料系、電気系が主なようだ。
 まずプラグを外してスターターを引き、放電しているか確かめること。幾らやっても放電しない。他のプラグに替えてやってみても放電しない。やはり電気系統かなと思い、その修理方法をネットで探す。するとだ、プラグの放電テストではアースしないとダメと書いてある。それを早く言ってよん、てんでやってみるがやっぱり放電はしない。プラグは一応掃除しているが、端子の根元あたりにはカーボンがこびりついている。釘の先でガリガリと徹底的に落とす、端子の部分もパーツクリーナーでとことん清掃して、再度放電実験をやってみる。ところが、期待に反して放電はしない。ということはやはりジェネレーターかなんか電気系統のトラブルらしい。数回のスターティングでプラグは湿っている。燃料系は正常なようだ。Img_2914
 
アースちゅうからとりあえず金属に触れさせておいたが、エンジン本体に接触させておかなければいけなかったのだろうか。


 結局修理に出さなければどうしようもないようだ。諦めて新品を買うか、という暗澹たる気持になってスターターを引いてみる。するとだ、ブルルンと快調な音がしてエンジンがかかった。一体どうしたことだ、納得はいかないのだが、この嬉しさはなんだ。しばらくして再度かけてみる。同様に軽々とかかる。
 てなわけで刈払機は以前よりも順調に稼働し、実に奇妙な自信が着いた。それにしてもあのスパークリングテストは一体なんだったんだろう。「5,000円儲け!」
Img_2917
買ったきり動かない不肖の刈払機、妙な自信でこいつも直しちゃろか。


【作業日誌 5/20】
薪割り
煙突掃除、ストーブ掃除Img_2930

一冬ご苦労さん、ヤーダさんに頂いた花が見事に咲いた。


 今日のじょん:じょんは草むらが嫌いなようだ。犬全体が嫌いなわけでは無さそうだが、やはり何か危険を感じるのだろうか。いつもうんPしているところでも、草が伸びてくると行かなくなる。そして草を刈ってやるとまた行き出すのだ。獣は草むらが好きなので、より人間に近いのかも。Img_2795


散歩の時も草のないところは先を歩くが、草むらは後ろからくっついて歩く。

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刈払機奮戦記(上) 5/19

2011-05-19 | 違いのわからん農学士

2011.5.19(木)快晴

 田舎暮らし三種の神器のうち、刈払機のエンジンがかからなくなったことを先週書いた。それまで調子が良かった機種なのでいきなりのエンストにかなりのショックを受けた。しかも草刈りの最盛期である、新機種を購入するのは簡単だが、役に立たない機械が倉庫に二台も残るのは気にくわない。というわけで、購入先のコメリに電話する。
「そちらで購入した刈払機のエンジンが急に止まり、かからなくなったのですが。」
「プラグを点検されましたか?」
「一応外して、掃除しましたがかかりません」
「修理に出されますと、最低5,000円はかかります。見積もりが出たら連絡いたします」
「修理を依頼しなかったら見積もり料はいくらですか」
「1,500円です」
14,000円台で買った機械の修理が5,000円以上というのは悩むところである。新品を買うとしたら25,000円以上のを買うだろうから、10,000円までの修理費ならまあいいかという気持で修理依頼したのが先週の金曜日である。
 その後、燃料のホースはどうだとかヘッドバルブを替えたらわずかのパーツ代だけで済むだとかいろんな情報に出合う。安易に修理に出しすぎたかなと反省していたところ、ひょんな都合で火曜日に店に寄ると、そのまま事務所に置いてある。頭に来て修理を断り持ち帰る。Img_2913
 
出戻りエンジン


 一向に動かない機械を前に途方に暮れる。この際勉強して修理してみて、ダメなら新品を購入しようと腹を決め、ネットの情報を探る。
驚くような話がいくつかあった。例えばスターターの紐が切れて修理依頼したら9,000円取られたなんて信じられない。電化製品もそうだけど機械の修理って、大体新品の8割ぐらいが相場らしい。つまり新品を買った方がお得という感じなのだ。粗製濫造でろくでもないものを作っておいて、法外な修理費を取るというのが現在の大企業の路線らしい。つづく

【作業日誌 5/19】
畑のネット張り
草刈り2-9(終了)

今日のじょん:じょんのび村に越してきて三年、開店してからももうすぐ三年になろうとしている。この間旅行というものに一度も行ってない。じょんが居るからという理由もあるけれど、経済的に余裕がないというのもある。今年の目標はじょんと一緒に旅行に行く事っていつか書いたけど、もう半年も来てしまった。かみさんがネットで宿を探している、思い切って行こうかな。どーやじょん。Img_2897

ヤーダさんの奥さんがパソコンを買って、今日のじょんにはまっているということだから、ジローの写真を載せてやろう。 

 

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シデの思い出 5/18

2011-05-19 | 日記・エッセイ・コラム

2011.5.18(水) 快晴

 桜井さんの茅葺きの家を初めて訪ねたとき、家の前を流れる渓谷にとても美しいものを見た。信州や東北の観光地にある渓谷美ではなくて、生活の場である丹波の田舎の谷なんだけど、岩床と清流がとても気に入った。その奥にあやべ吉水さんの茅葺きの建物があり、広い敷地は林さんがコツコツと整備されたと聞く。敷地内の古墳も驚きだが、やはり主役は鳥垣渓谷である。その時は食事が目的だったので渓谷を少し覗く程度だったのだが、いつかは遡ってみたいと思わせる風景であった。Img_4166
 
この谷の奥が鳥垣渓谷。


 そうこうしているうちに鳥垣の入口にある坂尾呂神社の周辺が坂尾呂の里として整備され、昨年お披露目がなされた。その鳥垣の自治会から「シデの思い出」という冊子が発行された。Img_4173
 
整備中の坂尾呂の里、桜井さんがコツコツ整備していた。(2010.4)


 シデの山とは鳥垣渓谷の源流に存在する731mの山である。シデ山名の由来は不明ではあるが、シデという堅い落葉樹が生えていたからかも知れないとある。
この山は茅の産地で、刈って運んで、山を焼いてとかつての情景が貴重な写真とともに書かれている。貴重な現金収入を得る里山であっただけでなく、田畑の用水や飲料水の水源地でもあっただろう。
 シデの山から西に尾根を辿ると、大栗峠に至る。弓削、志古田から和知に抜けるかつての重要な街道である。鳥垣渓谷からシデ山、大栗峠に至る道を改修されているところだと聞く。是非とも鳥垣渓谷~シデ山~大栗峠~上粟野(京丹波町)のコースを歩いてみたいと思うのである。
 「シデの思い出」にはかつての貴重な写真と鳥垣の方々の思い出、坂尾呂のことやカヤ畑焼きの記録など貴重な記録が載っており、鳥垣渓谷の美しい写真も沢山載っている。Img_2918
 「シデの思い出」はじょんのびに置いておくので、是非とも読んでいただきたい。なお今後の山道整備の協力金として一冊あたり300円を戴きたいので、よろしく。
来られない方は電話いただけたらメール便で送ることにする。

【作業日誌 5/18】
刈払機修理
スナックエンドウ支柱立て
草刈り2-7
道具収納棚内装
薪割り

今日のじょん:小さいときはほとんど吠えることは無かったのだが、最近とみによく吠える。近所の人が通ったり、遠くで話し声がしたり、天井に虫がいたり、とにかく声がでかいのでびっくりしてしまう。お客さんでも吠える人と吠えない人が居て、一体何が違うのか不思議ではある。Img_2890

「入れてくれい」と情けない顔をしている。

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雨読 続・古代の高句麗と日本 5/17

2011-05-18 | 雨読

2011.5.17(火)曇、雨

 高句麗の墓制に積石墓というのがある。封土のかわりに石塊を積み上げて塚としているもので、長野県の北部には千を超える積石墓があるという。松本から飯山に向かう犀川周辺、上田あたりの千曲川周辺が最も濃厚だ。自転車旅行で通った所だが、興味が無いため一切見ることは無かったし、偶然見かけることもなかった。もちろん古代の墓だから庶民のものではなくて、それなりの豪族のものだろう。
 「大唐内のこと」(49)(2011.4.19)に書いた老富の不思議な墓は朝鮮で一般的な土饅頭のような墓よりもこれが近いような気がする。実は有安でも同様の墓を見つけたのだが、古いものなのか、偶然に石を積んだだけのものなのか確認できていないので公表は避けたい。Img_2736
 
上林に残る不思議なお墓、規模は違うが積石塚には違いない。


 学生時代に私は小田急線の南林間と言うところに住んでいた。小田急線が東京都に入る頃狛江(こまえ)という駅があった。これが高句麗と関係があるとは当時はおもいもつかなかった。この地には多くの古墳があって、典型的な高句麗系の古墳もあるそうだ。また、西武池袋線の高麗(こま)と言うところに日和田山という山があって、そこにロックゲレンデがあった。傾斜はあったが、1ピッチ程度の小さな岩壁だったと思う。これも学生時代に足繁く通ったところで、今から思えば時間をかけてよくぞそんなところまで行ってたなあと思う。それだけ東京にはロックゲレンデが少なかったわけだ。この地はもともと高麗郡で、八世紀の初めに高麗人を以て高麗郡を置くとあるそうだ。高句麗が滅んで亡命、帰化した高句麗人を集めて、開拓させたということのようだ。
 高句麗文化が最も濃厚なのはやはり畿内で、中河内には巨摩郷(こまごう)があって、許麻神社や高麗寺など所以の寺社も多く、高句麗系の古墳も存在している。京都は木津川市に上狛、精華町に下狛があり、木津川もかつては輪韓川(わからがわ)と呼ばれていたという。百済や新羅が半島の文化伝導の主役のように思いがちだが、遠い国の高句麗もしっかり日本に根ざしているのだ。

 【作業日誌 5/17】
道具収納棚完成

今日のじょん:先日ユキちゃんがラッキョウ畑でおしっこした。そうするとじょんが毎朝そこでおしっこするようになった。土中のラッキョウとはいえ、あまり良い情況じゃないので「ダメッ」と一回叱ったら次の日からしなくなった。えらいねえじょんは、、、。Img_2904 以前は左のラッキョウにかけていた。

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雨読 古代の高句麗と日本 5/16

2011-05-17 | 雨読

2011.5.16(月)曇

 「古代の高句麗と日本」金達寿他、韓国文化院監修、学生社、昭和63年10月初版、定価1、450円、購入価200円
Img_2912
本書と金達寿著の「日本古代史と朝鮮」


 雨読「民俗学からみた古代の韓国と日本」(2011、4、20)と同じシリーズの本である。文化講座の講演会の内容を収録したものなので、内容が解りやすい。全13冊販売されていたのでもう少し買っておけば良かったと思う。
 なぜ高句麗なのかということになるが、古代日本が文化的に最も影響を受けたのは朝鮮半島であることは間違いないが、丹後、若狭が最も影響を受けたのは百済、新羅よりも高句麗だろうと考えている。それは親潮と偏西風の流れをみれば容易に想像できる。動力のない古代の航行は潮の流れと風の向きが航路に多大な影響をすると考えられる。新羅、百済つまり朝鮮半島の南や南東から出航すれば北九州が最もたどり着きやすい地であることは地図をみれば一目瞭然である。高句麗からの渡来も半島陸地を南下してから海を渡ったという事もあったようだが、それは国の間の関係が良好な場合に言えることであって、百済とは常に反目しあっていたようだし、新羅だっていつもいつも良好な関係であったとは思えない。ましてや高句麗滅亡の前後というのは本国から直接日本海に出たと思える。その場合たどり着く先は丹後、若狭以北が有力で、能登半島までの海岸が最も色濃い地ではないだろうか。
 私のこの予想は見事に当たっていて、本書の随所に関連した記事が載っている。
本書の中では四人の方が講演を行っているので、様々な分野のことが述べられている。一般的には高松塚などの壁画古墳に関するもの、飛鳥・白鳳仏に関するものが興味深いところだろうが、私はこういった表層文化に関するものにはあまり興味がない。つづく

【作業日誌 5/16】
道具収納棚作り、下段扉作製

今日のじょん:久々にサリーちゃんが来た。いつもどおりシャキシャキとして、田舎もんのじょん君相手にされない。でもちょっとだけお尻臭がしてもろて、まあいいかっという感じだ。「今日はサリーちゃんだけかい」と聞いていたらジナンくんが亡くなっちゃったということ、え゛~とびっくりする。来週あたりに会いに行こうと思っていた矢先なのでショックである。人が良いというか、犬が良いというかとても優しい奴だったのに悲しいことだ。Img_2905

 へへえ、お江どの。
サルめが、、。

  

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