晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

雨読 ニムロッド 5/26

2019-05-26 | 雨読

2019.5.26(日)晴れ

  第160回芥川賞受賞作品である。芥川龍之介は好きだけど芥川賞受賞作品は実は森敦の「月山」以外に読んだことが無かった。なんでって興味がわかないから、、。そのかわり興味がわいたら何度でも読み返し、月山なんて遂に現地を訪れる事となったぐらいだ。月山の主題は七五三掛でも月山でもなく、十王峠だと思っている。それだけ深読みしているということだろう。
 ニムロッドは最新の受賞作だが、これは興味を惹いた。AIが人間の思考能力を超え、ロボットが人間のあらゆる技術的能力を超えそしてゲノム編集で人類が永久の命を得たときに人間社会はどのようになるのか、人類は人類として生存できるのか、こんな疑問を学術的分野、宗教分野で語って欲しいと願っている。それは遠い未来のことではなくて、我々の世代、あるいは次の世代にはやってくるだろう近未来のことだろうから。
 ニムロッドは文学でその近未来を語ってくれた。

 表紙のデザインは天に届くような高層ビル、ニムロッドはその際上階に住んでいる。バベルの塔よろしく、この塔は人間の人間たるを示している。
「ニムロッド」上田岳弘著 講談社 2019年1月発行 綾部図書館借本

 生産性を最大限に高めるために彼らは個をほどき、どろどろと一つに溶け合ってしまった。個をほどいてしまえば、一人ひとりのことは顧みずに、全体のことだけを考えればいいからね。より強く高く長く生き続けたいという欲望を最大限達成できるからね。
 いかにも文学的な表現なんだが、永遠の生命、安住した生活を得たがために、個、人間性をなくしどろどろと一つに溶け合った人間、いや元人間を塔の最上階からニムロッドは見下ろしている。彼は欲望をむき出しにした人間最後の王なのだ。
 これだけで読んでみたいと思うでしょうからあとは書かないことにするが、なんとなく思い浮かんだストーリーがあるので紹介する。次号をお楽しみに。
 
【今日のじょん】風太(ぷーた)が来たぞ。楽しみにしていた風太君(2ヶ月)が来じょんした。写真や動画でしか見てなかったのだが、予想以上の男前でよい子なのだ。じょんも嫌がるかなと思ったが、友好的で一安心。

柴とシェパードのミックスだって、、大きくなるかもヨ。じょんとも仲良くしてくれい。

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5月の感冒 5/20

2019-05-20 | 日記・エッセイ・コラム

2019.5.20(月)曇り

 5月の感冒にかかってしまった。12日夕に喉に違和感を憶え、13日から喉スプレーと市販の感冒薬服用、熱はないが喉の痛みが増すので15日に市立病院耳鼻咽喉科でのどの炎症止めを貰い服用。一向に良くならず、熱も出てきたので安村診療所で感冒薬、抗生剤、咳止めをもらい服用。17日、18日と寝込んでしまう。熱は37.4度が最高でそう高くないが体がだるくて寝汗が凄い。咳、痰、熱と風邪の症状総なめで、19日朝ようやく熱が下がり、のどの痛みも軽くなったので日常生活に戻る。この間家事も店もかみさんに任せきりで、その疲れかかみさんが倒れてしまった。
 さてこの症状は若い頃によく起こしたので、ああまた来たなって感じで捉えていたんだが、妙に気になることがある。この症状前回は2007年5月16日日本一周自転車旅行中鳥取市で出たものだ。(本ブログ参照)発熱でフラフラになり、ビジネスホテルに連泊する。旅先の発病は心細いものだが、売薬の解熱剤とドリンクを飲んで爆睡、寝汗でびっしょりになったが翌朝には幾分回復した。そういえばそれまでも5月と言えばよく寝込んでいた、誕生月は調子が悪いものだと思っていたが、どうもわたしだけでは無いようだ。先日お風呂で会ったTさんも一週間も熱っぽくて苦しかったと話されていた。なんでも50年ぶりの症状だと言うことだった。近所の方にそのことを話すと「そやで、わたしも5月になると寝込むことがよくあるんや。5月病言うてこの辺の人はよく病気にならはるんやで」ということ。5月病と言えば会社や学校に行きたくなくなる病気かと思っていたがどうもそればかりではなさそうだ。
 旅先の病気と言えば、23歳の時の4月末、出張先の福岡で同様の病気になったことがある。その時は耳下腺炎まで併発したが、このときは診療所で薬をもらい宿で汗かいて寝て治した。
 数少ないわたしの経験だが、一応その病気の傾向を考えてみよう。
1.5月に最も多く、夏の終わり8,9月にも起こる。冬には経験が無い。
2.のどの痛み、発熱が共通しており、咳、痰の症状あり。
3.就寝時発汗して数日で治まる。
4.発病場所 京都、福岡、鳥取。関東にいた4年間で2回ばかり発熱があったがのどの症状は無かった。
5.発病しても周囲に伝染した記憶は無い。今回のかみさんが始めて。
6.丹波地方に5月病と言われる症状がある。
 これらを考えているとき、50年近く前の植物病理学の講義を思い出した。麦の赤星病といったか春になると発病する病気があるのだが、その病原菌は日本の冬を越すことが出来ない菌で、一体どうして毎年春になると発病するのか解らなかった。記憶は定かで無いがそのような講義だった。それが解明されたのが黄砂の影響だったというものだ。越冬できない菌が毎春黄砂によって運ばれてきていたというものだ。
 植物を害する病原菌が黄砂で運ばれるのなら人間を害する病原菌だってくるはずだ。5月に多く、西日本で、野外の活動後に発病しているわたしの経験だけでいうとこの病気、黄砂で運ばれてくる病原菌が原因ではないか。のど、痰、咳いづれも大気中の病原菌による症状ではないか。一般的には温度差が激しく暑さに慣れていない時季であること、体が疲れているときに感染するのではと言われるが、その元となる病原菌はこの時期に多いのだろう。冬季にもっともっと疲れているときもあるがこの症状は経験が無い。
 そして感染性の弱さからウィルスではなく真菌、細菌では無かろうかと思う。そうだとすると抗生物質の使用も考えられるし、予防方法も考えつく。島の先生いかがですか?

この時期じょんのびは白花の季節となる。今年はやや花が少ないみたい。白花卯木、オオデマリ、ヤマボウシシロツメグサ。
  

コメント (3)
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大栗峠ガイド-6 5/13

2019-05-13 | 上林たんけん隊

2019.5.13(月)晴れ

 金久氏もわたしもお地蔵さまの前を手を合わせて通るのが本筋と考えている。それは至極当然のことだが、それではお地蔵さまの後ろをこっそり通るC道はいったい何なんだということになる。この疑問を解決するひとつのヒントがある。それは二体の地蔵さまの右の地蔵さまだ。頭部の一部の欠けた気の毒な地蔵さまだがその台座には「右 志こた わかさ 左 ゆけ 城下」とある。右は合っているが左は合っていない。

ここを左に行くと和知に行く。
 左は和知の方向にある。つまりこの地蔵さまは元々この位置には無かったことになる。志古田、城下の方向を示すということは和知から上がってきた人に方向を示している。本来の位置としては(1)C道の左右、(2)ACの角、(3)石標の向かい側、(4)ABの角が考えられる。このうち(3)の石標の向かい側は地形が下っており考えにくい。いずれにしても右側の地蔵さまは現在の岩室の中にはおられなかったことは確かである。これほどはっきりしたことを金久氏が気づいておられないことに疑問を感じるかもしれないがそれは無理も無いことだ。わたしが始めて大栗峠を訪れたとき(2011年7月)地蔵さまの台座は完全に土中に埋まっていて、そこに何が書いてあるかは掘り起こさないと読めなかったのである。さすがの金久氏もそこまでしなかったのだろう。

二回目の訪問で読めるようになった。
 さてもう一つの左の地蔵さまは実に良いお顔をされていて、大栗峠を訪れる楽しみの一つとなっている。この
地蔵さまには「慶応元年丑年六月」(1865年)「施主 カンバヤシ志古田 村中 同長野 村中 ワチ川合 村中」の銘がある。道標となるべき案内は無いので位置関係は不明である。
 この岩室だが右の地蔵さまがどこかから持ってこられたとすると、それまでは一体が納まっていたのだろうか。それにしては大きすぎはしまいか。そして和知道の六地蔵が瓦葺きの木造であったのになぜここは岩室なのだろう。C道が地蔵さまの後ろを通り過ぎるというより、なぜC道に背を向けて地蔵さまが安置されているのだろうかと疑問がわいてくる。
 大栗峠の休憩所でベンチに腰掛け、ぼんやりと地蔵さまを眺めているとふとあることに気づいた。地蔵さまの石室もその前を通るA道も元々無かったのではないか。峠道は志古田道と弓削、山田道が石標の位置で出合いC道を通って和知に向かったのではないか。そうすると石標の位置、右の地蔵さまが後々石室に持ってこられたことの説明がつき、通行人は地蔵さまに背を向けて通ることも無いわけだ。右の地蔵さまbはC道の左右いずれか、T字路の手前に立っていたものだろう。左の地蔵さまaは年代も新しく、A道が開通し、石室が作られた際に彫られ、bの地蔵さまと並んで安置されたとすればつじつまが合う。

2011.10月の訪問、この石室は地蔵さま一体では広すぎる。それになぜ石室なのか。 
 ではなぜ新たにA道が作られたのか、石室はどうして作られたのか、謎は謎を呼ぶわけだが、ここからがAIなんかでは太刀打ちできない、人間の想像力の世界となるのだ。つづく

 

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大栗峠ガイド-5 5/7

2019-05-07 | 上林たんけん隊

2019.5.7(火)快晴

 大栗峠に存在する石仏二体(a,b)と石標(c)について検証してみよう。石標は腰の高さぐらいか、従前から横倒しに倒れていて、2017年の整備の際に同位置に立てられたもの。表には梵字と「右わち 左志こた」と書かれている。裏には「文政七申 十月吉辰 本願 山田村世話人中 阿波国 行者 長治郎」とある。文政7年は1824年で、弓削道と山田道の分岐にある南無大師遍昭金剛の石碑と同一年月である。従ってこの二つの石造物は同じ時期の同じ機会に立てられたと考えていいようだ。この年に城下で大きな普請があり、その記念に立てられたものかというのは川端二三三郎先生の言である。

現在の石標
 ということは1824年には弓削道も山田道も存在したということである。ちなみに寛政11年(1799年)の丹波国大絵図には大栗峠を通過する道は弓削道のみが記されている。多分に大まかな地図とはいえ、当時の主要街道が弓削道であったといえるのではないか。

東にシデ山に向かう道があるが、現在の登山道なので無視して頂きたい。
 さてこの石標について金久氏は地蔵様の向かいにあったのではと想像されている。あくまで地蔵様の前を通過するのが本道で(道-A)、道ーCは緊急のショートカット道という考え方だ。また方向も「右 和知 左志ここた」という表示が合ってくる。しかしこの道しるべを誰が見るかと考えたとき地蔵様の前はあり得ないことになる。峠を通過する旅人が地理も方向も解らず、ただ道しるべのみを頼って通過するとすれば、志古田から上がってきた人は弓削、山田に向かう人はいないだろうから、Aの道に入ればそのまま進めば和知に行けると解る。ただBの道に入ってしまうと和知に行くのはどう行くのか解らない。
 次に和知から登ってきた人はというとAとCの道のどちらへ行くのか解らない。仮にA道に入ったとしても志古田に向かう道は解っても弓削、山田に向かう人は解らない。

  最後に弓削、山田から登ってきた人は、Cの道に入ってしまえばどちらに向かえばいいのか解らない。Bの道に入ると志古田と和知の分岐でどちらへ行けばいいのか解らない。この石標は「山田村世話人中」の銘があるように弓削、山田道から来る人を対象に考えられていると思うので地蔵さまの向かいというのは無理がありそうだ。またどうして離れたBCの角の現在地に運ばれたのかも疑問が残る。
 弓削、山田方面から上がってきたときに最も効果的な位置は、現在の位置である。右に行けば和知で、左は志古田方面に行ってしまうよと教えているわけだから。「南無大師遍昭金剛」の石碑が弓削道と山田道を分け、この石標が志古田道と和知道を分けているのだから最もわかりやすい。
 二度目の峠訪問の際に横倒しになった石標の周囲に石標の礎石というか支えとなるべき大きな石材をいくつか発見した。それらが自然のものなのか石標と対のものなのか現在は取り払われて確認できないが、「南無大師遍昭金剛」の石碑付近にも同様の石材があり、石標が現在の位置にあったひとつの参考となるようだ。


2011年10月横倒しの石標の周囲に石材発見、弓削・山田道の分岐の石碑の周囲にも石材がある。
 そうすると山田方面からの人はC道を辿ることとなり、地蔵様を拝んで通るという慣習に反することとなる。つづく


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大栗峠ガイド-4 5/1

2019-05-01 | 上林たんけん隊

2019年5月1日(水)曇り

 金久氏の観察眼は鋭い、大栗峠には少なくとも二度訪れておられるようだが、それだけであの謎の三角道に気づいておられるのだ。わたしだって金久氏の文を読んでいたからその三角道に興味を持ったわけで、読んでいなければ何度通っても気にすることもなかっただろう。
 金久氏は三角道の弓削道側の一辺は、急ぎのひとが通るショートカット道と結論付けされ、その角にある横転した石標(現在は同位置に立てられている)はお地蔵様石室の向かいにあったのではと考えておられる。そして志古田から上がってきて地蔵様の前を通過する道が峠道らしい道だと言っておられる。ところが小栗峠の本道は弓削道だと主張されているので、上記の内容はすべて矛盾することになる。
 なぜ峠の大家でもある先生がこのような矛盾に陥るのか。それは目に映る大栗峠を平面的にしか見ていなくて、時間という空間を考慮されていないからだ。

2011年7月24日当時のお地蔵様と石標

 大栗峠の最大の特徴は多くの支道から成り立っているということである。和知側から上粟野道、上林側から弓削道、志古田道が合流しているのだが、弓削道には山田道、瀬尾谷道、竹原道があり、上林からは志古田、弓削、瀬尾谷、竹原、山田の五村から峠に向かうことが出来る。こんな峠は他に例がなく、木住峠に清水道と遊里道が合流しているぐらいである。
 これらの多くの支道は最初から揃って存在したわけでなく、何百年ひょっとしたら何千年もかけてその時代の要請に応じて作られてきたものである。そういう風に考えれば今現在の見た目で弓削道が立派だからそれが本道だというのは時代を無視した乱暴な見方ではないか。確かに江戸時代後期には輸送の幹線道路として弓削道は大活躍したと思われるが、徒歩の旅人や行者などは志古田道を利用しただろう。その関係は本道、脇道と言うものではない。わたしは大栗峠道の元祖は志古田道だと思っている。あまたある支道のなかで最も早く、楽に峠にたどり着けるのが志古田道であり、峠道開拓の原則に則っているのが志古田道なのである。

峠から志古田道、当時はシダが生い茂っていた。(2011.7)
 志古田道は本来の峠道、弓削道は物資輸送が盛んになってきて作られた産業道路、山田道は藩による国境警備や通行管理の政治的道路とわたしは考えている。
 このように時代、時間の流れを考慮すればあの三角道の謎も解けてくるのである。つづく

 
 

 

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