晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

解明マヤゴ-2 6/19

2018-06-19 | 大唐内のこと

2018.6.19(火)雨 解明マヤゴ-1は2018.3.22

 地名に関する辞典のたぐいは、「古代地名語源辞典」「民俗地名語彙事典上下巻」日本地名大辞典」「京都府の地名」「地名の語源」「日本地名ルーツ辞典」「地名アイヌ語小辞典」など多く所有しているが、それらを牽いて謂われが解る地名は数少ない。「マヤゴ」についてもどの辞書にも載っていない。「時代別国語大辞典上代編」はたまたま他の調べものをしたくて府立図書館からお借りしたのだが、そこに「真屋・まや」を見つけて驚いた。
 上代語辞典とは口語で語られていた言葉が文字で表される様になったときの言葉を表しており、記紀をはじめ万葉集や新撰字鏡、名義抄、和名抄といった文献や辞書の中に出てくる言葉を表したものである。三省堂の国語辞典上代編に「まや」は真屋・両下とある。マは形状言、元来は屋をほめていったものだろうとある。つまり真の建物、本来の建物という意味である。本来の建物でなく付属的な建物が納屋、馬屋、木屋、小屋といえるのだろう。しかし両下とはなんだろう。屋根を棟の両側へ葺きおろした両流れ屋根・切妻造り、妻入りの家を指す。切妻造りとは神社建築に代表され、古墳時代には宮殿建築であり、最も立派な建築物だったのだろう。真の屋と言われる所以である。つまり聖神社の社殿こそが真屋である。

大唐内の聖神社、マヤの語源はこの社である。
 では「ゴ」とはなにか。これも上代語辞典で解明した。こ・処で名詞、代名詞に付いてその場所を表す。ゴはその濁音の仮名とある。愛宕(あたご)綿子(わたご)勢古(せいご)など語尾にゴのつく地名は同様に処を表す接尾語なのかいつか調べてみたい。
 老富町のマヤゴは将にそのとおりの場所にあり、聖神社の社のあるところと解していいだろう。何年も考え続け、解らなかった地名が一冊の辞書で解明できたことに驚きと喜びを感じているが、実はこの辞書大変高価で手が出ないので、当面府立図書館にお世話になりたいと思っている。
 水田さんが朝鮮語で聖なるところと言われた真意はわからないが、神社のあるところなら意味は通じているかなと思っている。

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解明マヤゴ-1 3/22

2018-03-22 | 大唐内のこと

2018.3.22(木)雨

 大唐内(おがらち)は歴史的にも民俗学的にも貴重な地域であり、最も早く調査研究に取り組んだところである。老富(おいとみ)の方々の協力も頂き、生守山(いもりやま・地元では丸山)に連れいってもらったり、調査のために皆さんで集まってもらったり、お世話になった。「大唐内は中国と関係あるんかなあ」という土井さんの言葉で上林の地名を調べ始めたのだが、大唐内はインドでも中国でも朝鮮でもなく、大河内(おごうち)と同様の地形地名であることを発表した。(2015.3.1参照)しかし調査の集会の際に出た「マヤゴ」(大唐内の聖神社の周辺)の意味はずっと不明だった。

マヤゴは聖神社とその前に続く居住地の小字名
  かつて大唐内に住まいされていた水田さんが「古い朝鮮語で神聖な場所という意味」とおっしゃっていたと酒井さんから聞いた。神社の在るところだから神聖なところには違いないし、摩耶山なんて山もあるなあと思っていた。しかし、摩耶は釈迦の生母のことで関係なさそうだ。韓国語や古朝鮮語に関する書物を読んでもマヤゴは出てこない。次に考えたのは旅籠(はたご)ならず馬屋籠(まやご)ではないかというものだ。胡麻峠に首無しの地蔵さまがある。愛宕山に向かう首無峠の地蔵さまは、馬喰が博打のまじないに首をとったという話を聞いたことがある。
 ところが籠は馬の飼料を入れる器や旅の荷物や食糧を入れる器で旅館や小屋を言うものではなく、馬屋籠という言葉は成り立たない。ただマヤゴのマヤが馬屋の可能性は無きにしも非ずだ。大唐内や胡麻峠の向こうの与保呂や多門院が牛馬の生産地ではないだろうか?詳しくは調べていないが特に顕著な産地ではなさそうだ。

こういう建物を予想したのだが、、、(小唐内にて)

 もしマヤゴが馬屋に関係しているとしてもそれは近世以降のことと考えられる。地名というのはもっともっと古い時代に付いていると思われるし、仮にマヤが馬屋ならば馬屋と漢字表記されているはずである。口語の地名が漢字表記されるのは地方においては中世から近世だと言われている。地方の役人や僧侶などの知識階級に口伝えの地名が漢字表記されることとなったのだろうが、漢字には意味があるので意味の解っている地名にはそれを意味する漢字が当てられたことだろう。ところが多くの地名が意味不明になっており、その上二字佳名の伝統の制約もあり意味の通った地名を付けられないのが実状だったのではないだろうか。それで適当に漢字を持ってきて付ける、つまりあて字で付けられてしまったので今日地名語源を解明するのに字面を見てはいけないという風になっている。ではマヤゴのようにカタカナ表記になっている地名はどういうことだろう。口伝えの地名が文字になり漢字になろうとするとき、もうそれが何を意味するか解らず当てる漢字がない場合カナで残すというのが考えられる。マヤゴはその地名が付けられたときには意味があったのだが、それが漢字に書き換えられようとするときにはその意味が理解できなかったと考えられる。老富町にはスギヤケ、ノガハナ、ヒシリ、ショウガ谷、フケなどのカタカナ地名がある。単純に考えて、マヤゴは古代に付けられた地名だろう。古代には意味があったのだろうと上代語辞典を紐解いてみる。

上代語とは表記されるようになった頃の言葉、主に奈良時代の言葉だそうだ。

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大唐内のこと(98) 丸山とイモリ村-35 6/25

2015-06-25 | 大唐内のこと

2015.6.25(木)晴れ
 
 楽しい休憩のひとときが終わり山頂を後にする。必死で持ち上がったサンドラ岩の剥離片はすんでの所でザックに収まらない。やむなく持ち上がったと同様に片手につかんで下ることにする。登りより楽だろうと考えたのが間違いであって、山頂からの下りは急なガレの斜面で、灌木から次の灌木へ伝いながら下っていくものである。片手は灌木、片手は大きな石をぶら下げているのだからたまらない。腕がバンバンに張ってきて握力も低下していく。その瞬間石がぽとりと落ちてしまった。板状の石だからずるずるとガレの斜面を滑っていたが、段々スピードが加わって、遂に垂直に立って転がり始めた。バキンバキンと木々をなぎ倒しながら丹波側の谷底に消えてしまった。サンドラ岩の核心部から山頂を越えてここまで持ち帰ってきた貴重な標本が、あっという間に消えてしまった。谷を下って探すと似たような剥離片は幾つかある、しかしあそこまで六角形と節理のはっきりしたものは見当たらない。

このように剥がれて転がっているが、六角形のはっきりしたものは少ない。
山頂で撮った写真にちらりと見えているのがそれである。実はこの斜面で小滝先生も愛用のハンマーを無くしておられるのである、最初の登山の時のことである。
 大切な物を無くすのは残念なことだけれど、今回はもっと得るものがあった。サンドラ岩が柱状節理であることがはっきりしたことだ。
「枕状溶岩だった方が良かったんですけどねえ」小滝先生の奇妙な発言である。「どうしてですか?」「海底で噴出したと言えるからですよ」「サンドラ岩が元は海底であったとしたらロマンですものね」 おわり

 【作業日誌 6/25】何鹿郡の橋完成、階段苦手のワンちゃんもこれで安心。


【今日のじょん】23日のことだけど、左手の具合がよろしくないので小川さんに行く。レントゲンでは異常なく、筋肉、関節も良好という結果だ。病院に行くと症状を見せないのでUSBに動画を撮って見てもらう。神経系統の病気かと思われ、腕神経叢神経炎?とか一応診断された。人間で言う五十肩みたいなものと言われると何となく納得。他の基礎疾患がなければ数ヶ月で自然治癒するものらしい。とりあえず血行促進剤とビタミン療法を1か月ということになった。五十肩の辛さは充分分かっているので、同情するぜ。犬だけにワン神経、猫だったらニャン神経なんちゃって、、、しゃれてる場合ではないのだ。

歩けなくなったらああゆうのに乗るんかなあ?

 

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大唐内のこと(97) 丸山とイモリ村-34 6/20

2015-06-20 | 大唐内のこと

2015.6.20(土)曇り 丸山の地質

 さていよいよサンドラ岩に向かうことにする。実は南面からサンドラ岩に取り付くには岩壁の裾を若狭側に捲いて、主稜線から二つ目の尾根のところから取り付くのが最も安全だ。始めてサンドラ岩に取り付いたときには、壁のど真ん中を灌木伝いにトラバースしたのだが、進退窮まって退却した憶えがある。サンドラ岩4回目の山行でようやく安全で確実なルートを確立することが出来た。今回安全のためアンザイレン(ロープを結び合うこと)したが、経験豊富な登山者であれば不要かもしれない。最もヘルメットは必携である。

岩とガレの境部分から尾根に這い上がる
 尾根に登り切ったところが、サンドラ岩の観察には最も適した地点である。小滝先生はハンマやルーペを取り出し、観察に夢中である。その間2,30分だろうか、やおら「結論が出ました、やはりサンドラ岩は柱状節理ですネ」という答えであった。「永年気になっていたことがはっきりしてスッキリしました」と満足そうである。なぜ枕状溶岩でなく柱状節理と言えるのか詳しく説明していただいた。
 枕状溶岩というのは海底で溶岩が海水によって急激に冷やされる。従って海水と接している表面が硬く殻状になる。しかしまだ内部はドロドロの溶岩なので先端からトコロテンのように流れ出し再度冷やされて殻が出来るというように成長していく。ハワイ沖の海底火山の様子を映した映像を見たことがあるが、生き物のようにどんどん成長していくのだ。この成長する際に周囲に縦の皺というか擦痕が現れるという。周辺部は殻状の硬い組織となり、内部と明確に区別できる。また断面には放射状になった気泡のあとや放射状の割れ目が走り、キュウリを輪切りにしたような感じになる。その断面は楕円の不規則な形となっている。だからこそ枕状と呼ばれる所以なのだろう。

調査中の小滝先生、白い苔の部分に見える割れ目が冷却節理。
 確かに遠目にサンドラ岩を眺めたとき玄武洞のようなきりりとした柱状節理とは違ったものに見える。節理は水平に走っているし、どてんとした枕のように見えるのだ。だが間近にその岩を観察すると、上記の枕状溶岩の形質とはまるで違っているのだ。つまりサンドラ岩には外殻は無く、断面は均一であり、放射状に並んだ気泡も見当たらない。表面の縦皺もなく、周囲は曲線ではなく直線的な六角形をなしている。そして薄く剥離しているのは、輪切りに節理があるためで、これは柱状節理の特徴とされている。「冷却節理というやつですか」ときくと、「そのとおり」と答えて怪訝な顔をされた。わたしだって少しは予習してきたのだ。そうこうしているうちに厚さ4cm径40cmぐらいだろうか恰好のサンプルを見つけた。サンドラ岩の破片は採集していたが節理そのものは持っていない。持ち上げるとなんとか運べそうだ。片手にぶら下げたまま、灌木伝いに頂上へ向かう。

頂上で持ち上がったサンドラ岩をパチリ、よくぞ撮っておいた。その理由は次回。
 頂上では昼食をとりながら、先生のフルート演奏の話やネパールでのボランティア活動のお話を聞く。火山の研究だけで飛び回っておられるのかと思っていたら意外な一面を見せられ驚いてしまった。つづく

【作業日誌 6/19】何鹿グンの橋、もう少しで完成というとき雨が降ってきた。


 

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大唐内のこと(96) 丸山とイモリ村-33 6/17

2015-06-17 | 大唐内のこと

2015.6.17(水)曇り 丸山の地質(鼻峠の河原石)

 坪坂峠から鼻峠を過ぎるあたり尾根上に握り拳大の河原石が散見する。この山稜上に丸く摩耗した石が存在することは地元の人にも知られるところであって、4年前始めて丸山に登ったときも「一体誰が何のために持ってきたのだろう」という声が聞こえた。地質や地殻の変動について関心の無いほとんどの人にとって山稜上の河原石は不思議な存在であって、誰かが持ち上がったと考えるのが当然だろう。

初めての鼻峠(2011.4.15)
 わたしも当初は不思議だったが、二回目の丸山行の時に台風で倒れた木が掘り起こした土の壁に河原石がくっついているのを見て、持ち上げたのは人ではなく、地球の力なのだと気付いた。それは土中、地下1mほどの位置であり、人が持ち上げたのなら地表の一箇所に積み上げられているのが一般的だからである。山の背比べなどの伝説があり、登山者が実際に石ころを持って上がる山が幾つかある。山頂にケルンのように積み上がっているのをご存じだろう。弥仙山などもそうでなかったか。

弥仙山山頂、左にケルン状に積まれている。(2010.11.23)
 小滝先生はこの河原石にいたく興味を示され、「砂岩の丸石が多いのは、川や海岸などが隆起したのでしょう」とおっしゃっていた。「先生、砂岩ばかりでなくチャートの丸石もありますよ」以前に標本として持ち帰ったのはチャートだったし、そうこうしているうちにチャートの丸石も見つかった。
チャートは放散虫などが堆積して出来たものだから当然海底で出来るものなのだが、それが隆起して陸地となり、やがて風化して水流に流されて丸い河原石となる。それが山陵上にあるということは、河原或いは海岸であったところが再度隆起して高いところに持ち上がったのだろうと考えていた。

大きさはこの程度のものが多い。
 ところが「京都五億年の旅」(地学団体研究会京都支部編)小滝先生も執筆しておられるこの本の「海の下の京都」という項に山上の河原石という記事を見つけた。周山の周囲の低い山上に砂利の層(礫層)があるというものだ。
 何十万年か前、大堰川がまだ若くて、深く谷を刻み込んでいなかったころの河原に洪水が時に運び込まれて石ころなのです。その後、川はどんどん深く削り込んでいき、かつての河原の石ころは、今では山上に取り残されているのです。(41ページ)
 周山の礫層にはチャート、砂岩、粘板岩などが含まれているという。これは鼻峠の河原石も同じである。河岸段丘といえば川の両脇に段々にあるものとばかり考えるが、最も初期の河岸段丘は山稜上にも出来るわけだ。鼻峠の河原石も初期の河岸段丘と考えれば素直に理解しやすい。ある意味では鼻峠が原始の上林川であると言ってもいいのではないだろうか。つづく

【作業日誌 6/17】薪割り、「何鹿グンの橋」作製5日目

【今日のじょん】ポメの小麦ちゃん(一才)再度来じょん、前回は寒かったが今回はチト暑かったようだ。

かーいいデスネ。
 

 

 

 

 

 

 

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大唐内のこと(95) 丸山とイモリ村-32 6/13

2015-06-13 | 大唐内のこと

2015.6.13(土)曇り 丸山の地質
 丸山とイモリ村-31は2013.4.12

 丸山について考察を重ねてきたが、文献や伝説などの非科学的なアプローチであることが気に掛かっていた。なんとか科学的な考察をしたいものだと思っていたが、地学の小滝篤夫先生との出会いは地質というきわめて科学的な分野への目を開くきっかけとなった。当初は上林川で拾った鉄滓を見てもらうために上林に来ていただいたのだが、その際に丸山のサンドラ岩の話に大変興味を持たれて、二人で丸山に通うこととなった。今回4月28日に登ったのが3回目である、その報告を兼ねて地質学的な考察をしてみよう。
 2015.4.28(火)快晴
 じょんのび軽トラでスタート 10:00
 林道行き止まり地点着発   10:35ー42
 坪坂峠           11:06
 サンドラ岩取り付き着発   11:36ー45
 サンドラ岩調査地点着発   11:50ー12:36
 ピーク着発         12:55-13:20
 駐車地点着         14:19

 軽トラあっぱれ号で老富に行き、若狭側の林道に入る。数カ所土砂崩れがあり軽トラでぎりぎりのところをオンマニペメフムとばかりに進む。最終的に丹波側に開けた所で行き止まりになり、車を置いて徒歩となる、前回よりは少し手前である。10分ばかりで関屋からの林道出会い広場に到着する。その後も林道を歩き、なんなく坪坂峠に到着する。坪坂峠は市茅野(いちかや)から登ってくる峠で、雪よけの中の祠に新旧の地蔵さまが祀られている。

坪坂峠の地蔵様と丸山東南面
坪坂峠の若狭側はすぐに鼻峠からの道に合流し、関屋に下る古い道(貝坂という)なのだが林道、作業道が縦横無尽に走っているので如何なるものか定かでない。
 一度歩いてみたいものだ。つづく

【作業日誌 6/13】薪割り3日目
【今日のじょん】待ちに待ったサン君がドッグランどにやってきた。いやはや元気で大変だこと。午後には小梅ちゃん2才の柴がやってきた。かき氷の服が何ともお似合い、写真の時はやや緊張気味だったけど随分人なつっこくてかわいいのデス。

 

 

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大唐内のこと(94) 大唐内地名考-9 3/1

2015-03-01 | 大唐内のこと

2015.3.1(日)雨 大唐内のこと(93)は2015.2.27

 カイチのことを書き始めてそのままになっているので続けてみたい。
 河内はカワチ、カウチ、カイチ、カッチ、コチ、コーチ、ゴーチなどと転訛し川内、河地、高内、甲地、好地、谷内など様々に表記される。地図で拾ってみても山間部の川沿いに開けた平地が圧倒的に多い。(南丹市園部町大河内や京丹波町西河内など)
 垣内はカキツ、カイト、ガイト、カイド、カイツ、ガイチ、カイチなどと呼ばれ、海津、貝津、垣戸、垣外、替地、海道、谷戸などこれまた様々に書かれる。これは地図で拾って見ると平地の方が多いように思えるが、一定の集落を表すようで、これがいわゆるカイチのことのようだ。綾部市だと山家周辺に多くの垣内地名がある。岡皆地(橋上町)、大皆地(鷹栖町)上ノ替地(下原町)後替地(上原町)下替地町などおそらくその意味だろう。読みは下替地町はしたのかちちょうなのでカチやカイチと呼ぶのだろう。
 上地カイチのある三和町上川合について、ヘヤガ市、猫ヶ市、寺ヶ市、岩ヶ市といくつもの市地名がある。山深い地に多くの市が立つとは思えないし、これは垣内地名と考えると納得がいく。ただ前述のように上川合には上地、日向、日代、稻葉などのカイチが存在するので、〇〇ヶ市というのが如何なる場所にあるかによって、河内地名なのかもしれない。
 いずれにしても、河内と垣内は発生を異にする地名用語なのだが、読みの同じものがあるので大変紛らわしい。現実に河内が一つの垣内になっている場合もあるので余計複雑となっている。
 峡戸、谷戸もカイトと呼び、山間の平地を表す。垣内からの転も考えられるというので(地名の語源)これまた複雑だ。上記の例で表した地名についても、本当はどちらに属するのか解らないものもある。
 話がややこしくなったが、大唐内については河内説(オガワチ)、唐内説(オガラチ)、涸地説(オカラチ)を並記し、地形について最も説得力のある河内説を主にしたい。

雪の残っている谷も幾つかあるだろうが、山が白いのには驚いた。この朝はどこも雨だったのだ。
【今日のじょん】雨の日はなぜ一日中寝るのか?

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大唐内のこと(93) 大唐内地名考-8 2/27

2015-02-27 | 大唐内のこと

2015.2.27(金)曇り、雪
 
 大唐内が河内地名であると断定したのだが、河内が唐内に転訛した例は他に見られない。どうしても涸地の意味が気にかかる。涸が唐に転訛している例は、唐沢、唐古、唐木田など沢山ある。「地名の語源」(鏡味完二)をみていると、ガラ(1)小石、土と石の混じったもの。〔唐内(ガラチ)〕とある。大唐内には丸山をはじめとする周辺の山々からの崩壊土石の堆積があることは間違いないだろう。丸山の丹波側は風化が進み強烈なガレになっており、丸山の尾根から大唐内谷に降りる斜面もガレ場がいくつかあった。砂防堰堤から上流は完全に岩石土砂に埋まっており、伝説の鬼の洗濯岩も埋没してしまった。しかしこれは堰堤がつくられたことと、28水はじめ強烈な水害によるものと考えられる。
 仮に砂防堰堤などの対策がとられていないとしたら、あの膨大な土砂は大唐内全体に堆積すると考えられる。つまり人々が住み着いて、豊かな耕作地が広がった村を見たら、これは河内集落だなあと思うわけだけど、それは最初に入植した人々から何千年にもわたって住みやすく、豊かな耕作地をつくるために汗してこられた賜であろう。だから大唐内という地名が出来たときには一面小石と岩石の野原であったかもしれない。
 このことは地名の語源を探るとき、現在の姿を見るだけでは不充分なわけで地名が発生しただろう過去の様子も想像しなければならない。最近の採石地などは別として山の形などは太古からそう変わるものではないが、川の流れや水流に伴う土砂の堆積や浸食などは思ったより変化が激しいのではないかと思う。そう考えると地名の語源は幾つかの説が並記されるべきということになる。
 大唐内の風景を漫然と眺めていると、豊かな耕作地に見えるのだが、実際の土壌をつぶさに見たことは無い。肥えた土の中に多くの礫が混ざってないだろうか、すぐに見たくなって大唐内谷に入る。前回来たときには、府道の分岐のところからしっかり雪が積もっていて入れなかった。しかし今日は脇には雪が残っているものの道路には皆無なので入ってみる。

大唐内谷入ってすぐ、狭隘部といえども結構広い。
ところが集落に入っていくと段々雪が多くなる。道の脇は当然、畑も空き地も雪が積もって土壌の様子を見るどころではない。最奥の市営住宅のところからは道路上にも雪が積もっており通行もままならない。土壌の観察は本格的な春が来てからにすることにして、雪の大唐内を後にする。

薬師堂のあたりもこのとおり、広畑は雪の下

【今日のじょん】久々におおいの芝生広場にゆく。ところが凄い風でじょんの垂れ耳も立っている。じょんは風が苦手だが、風そのものでなく風で揺れる草や木が怖いみたい。
向こうは大島。

 

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大唐内のこと(92) 大唐内地名考-7 2/26

2015-02-26 | 大唐内のこと

2015.2.26(木)曇り

 もう少し範囲を拡げて綾部市の河内地名を探す。ざっと目を通すだけなので果たして河内地名なのか解らないのだが、一応挙げてみよう。
名小路(延町)、古路ヶ谷(高津町)、後路(多田町)、荒神段(渕垣町)中小路、荒神下(小西町)、荒神ガナル(内久井町)小路ヶ迫(中筋町)糀ヶ鼻、麹屋谷(七百石町)などと見つかるのだが、肝心の河内、川内などという地名は一向に見つからない。その上上記の地名の中で実際に河内地名なのはどれかというと実に心許ない。例えば荒神地名は他にもいくつでもあるのだが、荒神そのものを表すのか河内(コーチ)地名を表すのか判断がつかない。渕垣町の荒神段には神社のマークがあり、小西町の荒神下も荒神さんの祠がありそうだ。つまり現地でこれらのことを確認しないと何とも言えないのが荒神地名の特色だ。内久井町の荒神ガナルなどは荒神さんがなければ河内を表すものと思っていい地形である。小路、糀地名は荒神地名よりも河内地名に近いという感じがする。しかし極端な河内地形とは言えないので、断定するには無理がある。
 ここでどうしても取り上げておかなければならない地名が、カイチ地名である。この地方のカイチについては「丹波の話」(磯貝勇著)に詳しい。天田郡川合村のカイチ、天田郡菟原村下のカイチ、何鹿郡豊里村鍛冶屋のカイチ、豊里村栗のカイチ、船井郡瑞穂町質美下村のカイチなどについて詳細に書かれている。川合村の上地カイチはわたしの生まれたところで、上地(かみじ)というのは小字ではなく多くの小字を含んだカイチと理解するべきなのだろう。

上地カイチの一画、草深いところデス。

生家の小字はスゲという、この次の停留所が上地。
上川合には区長がいて、上地カイチには総代がいたようである。道造りや葬儀の場合の単位はこのカイチであった。おひまちや山の神などの行事もカイチが単位で、子どもの水泳場所もカイチ毎であったようだ。磯貝氏は、「上地カイチは構成メンバーの大部分が一つの株からなっている云々」と書かれているが、カイチはほとんどが小原姓だったが、株は二つに分かれていたように思う。
 このカイチということばはこの本を読むまで気がつかなかったのだが、そういえば母が時々カイチって言ってたなあと思うくらいである。このカイチと河内が元々は同じところから発しているという説があるようなのだが、果たしてどうなのだろう。少し考えてみたいと思う。つづく

【今日のじょん】念道のポストが撤去されて二ヶ月近くになる。1月の末頃に郵便局に問い合わせたら、「支柱が腐食していまして、取り替えるよう準備しています」という返事だった。そのうち出来るだろうと思っていたらいつまでたってもそのままだ。
 実は会計課にいるときポストの管理をしたことがある。一定期間に点検をし、汚れているものは掃除をし、文字が不鮮明なものは書き換え、一定期間にすべてを塗り替えていた。だから腐食して倒れるおそれなどあるはずないし、交通事故などで壊れた場合、ポストの在庫はいつでもあったし、工事は業者発注で数日あれば更改できていた。時代が変わっているのも解るけど、怠慢としか思えない。
 じょんはカンケー無いかって?なんべん手紙もって行っては帰ってきたことか、、、

 
 

 

 

 

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大唐内のこと(91) 大唐内地名考-6 2/25

2015-02-25 | 大唐内のこと

2015.2.25(水)曇り 大唐内のこと(89)は2015.2.23

 古い記事を繰っていたら、「大唐内のこと」の号数が重複しているのが見つかった、従って今回(91)が正当とする。
 大唐内=河内=小路という構図がにわかに信じられないという方も多いだろう。しかし河内(かわち)=河内ヶ野(こうじがの)なら誰でも信じるだろう。字面のマジックとでも言おうか、これは同じものだと感じるわけだ。小路から直線距離にしたら4Kmあたりのところに河内ヶ野はある。ところがこの地は小路のように河内地形をしているわけではない。つまり河内ヶ野は土師川の湾曲と細見川に囲まれた段丘状の地で、水を得るには両河川ともかなり遠い状況にあると思われる。地理院地図で見ると河内ヶ野の南西部に大きな溜池が見られ、おそらく西部の山水に頼っていたと思われる。つまり同じ河内でも、小路や大唐内とは性格を異にしており、多くの地名研究者がこの二つの河内を同一に扱ったがたために矛盾と混乱が起きていると考える。
 河川の中上流域において土砂が堆積し耕作居住に適した平地が出来上がった河内(河縁)と主に下流域で川と山脈、川と川に囲まれた豊かな土壌の平地である河内を分けて考えることを提唱する。
 三和町の河内ヶ野は京街道が辻から柏田に至る道中にあり、菟原中の別所、柏田から細野峠に至る新旧京街道の探査のために通った道である。(2012.11.8~参照)
このことで、河内がこーじと転訛することが理解できると思う。

三和町辻の京街道は国道九号線の西、細見川を渡り旧街道の街並みを南進、愛宕社の前をとおり、柏田に至る。この部分が河内ヶ野(こうじがの)である。
愛宕社の幟に河内ヶ野中の文字が見える。柏田の道わけ地蔵、右ささ山道、左京と見える。
 大唐内が大河内だとすると、上林周辺に河内地名が他に存在していいものだと思うが、実にこれが見つからない。航空写真で見ると明らかな河内地形は幾つかあるのだが、その地が河内地名とはなっていない。ところが口上林から奥上林まで、荒神、神子という地名が幾つかある。コージン、ミコと読みならしているようだが、どちらもコージと読んでもおかしくない。特に荒神の場合荒神さんが祀ってあればそれにちなむものと思えるが、神子の場合は巫女にちなむと考えるのは違和感がある。つまり荒神、神子地名のところが如何なる地形か調べる必要があるようだ。
 地名の分布は都道府県など行政の境界というよりも、その文化圏に分布するものと考えられる。大唐内であれば、若狭の文化が大きく作用していると考えられるが、実は大唐内のとなりの高浜町の地名を見ても河内地名は見当たらないのが残念である。地名というのは一筋縄でいかないものだ。

【作業日誌 2/25】店先バリアフリー、とにかく出来上がったが、実際に現地にもっていくとサイズは合わないわ、ドアは開かないわで大変。削ったりはつったりでおおわらわ。

【今日のじょん】久々にどんべえに会ったらえらい毛が抜けて、ぼろぼろになっていたぞ。春ですなー。

 
 

 


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大唐内のこと(89) 大唐内地名考-5 2/23

2015-02-23 | 大唐内のこと

2015.2.23(月)曇り

 四條畷市の飯盛山北西にある小路北町、小路南町、小路交差点などが河内ではないかと書いたが、その理由は福知山市三和町草山の小路谷(こうじのたに)を訪れたことによる。この谷の奥にお堂があり、片眼の行者が祀られているという。草山という地名に金属の臭いをかぎつけ、調べていた矢先である。片眼というのは製鉄に関わりがあるというのはよく言われていることで、天目一箇神(あめのまひとつがみ)を始め、鎌倉権五郎景正まで片眼ということで金属関係者に祀られている。
 数年前のこの日は時間も無かったので、小路谷の入口で終わったが、この小路という地名には不思議な感を抱いた。小路というのはそのとおり小さな道で、草山の小路も小さな道なのだが、小さな道といえば村中小さな道で、特段この道を小路と名付ける必要は無いのである。この、現在はお堂の先で道が途絶えているようだが、かつては大内(おおち)に抜ける峠があったそうだ。(郷土資料中巻郷村記)

三和町草山小路谷の入口
 地理院地図で見ると小路の地形が河内地形であることがすぐに解る。河内の意味は川谷の平地と言うことだが、特に上流部で平地がなぜできるかというと、流路に狭隘部が出来流れが悪くなる、その上部に土砂の堆積がおこり平地となる。上高地でも小河内でも地形図を見れば一目瞭然である。大唐内についても同様で、トレーシーさんのアトリエの下から老富会館まで大唐内谷は急に萎むのである。この狭隘部分こそが大唐内の豊かな田畑を作り上げたのだろう。大唐内に広畑という小字があり、どうやら大唐内の最も広がったところにあるようだ、将にそのままの地名だと思うのだが。

聖神社、ここから奥が広い耕地なのだが、現在は休耕田、灌木などが多い。
 またこういうところのように、狭隘で曲がりくねった道を抜け広がった山里に出会うと誰でも桃源郷の想いを受ける。上高地など満員のバスに揺られて入った場合は何も感じないだろうけど、冬期のように島々から歩いて入った時などは将に桃源郷という感がする。上林谷について何鹿郡誌が桃源郷と称するのはそういう地形が大きな理由かもしれない。
 さて三和町草山の小路のことであるが、府道から入って300mあたりに大変狭隘になっているところがある。ここが河内地形を形作る重要な地形で、そこから上流は緩やかな蛇行の脇に豊かな土砂が堆積しているのだと思う。規模的には大唐内よりも小さいが、地形としては同一の条件なので小路は河内のことだと判断するのである。
 なお河内は、カウチ、カッチ、コーチ、ゴーチ、コチなどと訛化し、甲地、甲子、河地、古内など様々な文字で表されている。ただし、唐内、小路と表している説は他に見たことがなく、わたしの説が初かもしれない。つづく

【作業日誌 2/23】店先バリアフリー(床張り)

【今日のじょん】先日からお知らせしている捨て芋がすっかり無くなっている。果たして獣が食ったのか、誰かが片付けたのか?ミステリーではある。

 

 

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大唐内のこと(88) 大唐内地名考-4 2/22

2015-02-22 | 大唐内のこと

2015.2.22(日)曇り

 飯盛山、生守山など「飯の山」について書かれた岩田朱美さんの論文、「飯の山」の秘密に「飯の山」の特徴として河内、小野、大森、比奈、日向、日影、日置、八の字が付くものが周辺の字名に多いとある。岩田さんの主旨にはあまり関係ないためだろうかそのことの根拠は語られていないが、300を越える飯の山の調査を終えられて、実感として語られていることだろう。大唐内の奥にある生守山については、その上林側の下流に日置谷があり、若狭側の下流に日置がある。でもその他の地名は見当たらないぞと思っていたら、真っ先にある河内があるではないか。

四條畷の飯盛山から河内平野を眺める。いつも寝屋川北ICを降りて小路の交差点を南進するのだが、この小路こそ飯盛山に付随する河内ではないかと思っている。
 河内はカワチ、カッチ、コーチ、ゴーチなどと呼ばれるごく一般的な地名である。意味は渓間の小平地と言うことである。(柳田国男)最も一般的なのは大阪府の河内であるが、古代の国名となっている広い地域で、淀川の左岸と生駒山地に抱かれたいわゆる「淀川の内の方」の意としている。(丹羽基二)旧カナではカフチであってカウチではないから「河に囲まれた内側」は疑問で、「河縁」が原義で「川沿いの地」とみるべきだろうという説もある。(楠原佑介)
 こういう広い地域を意識しては理解しにくいが、信州の上高地を思い浮かべるとよく理解できる。上高地は字面だけ見ると梓川上流の高いところとなるのだが、本当のところは上河内なのである。(信府統記)奥山の河の周囲に広がった平地と解するのが妥当である。
 夏期の水不足の際によくニュースに出る小河内ダム、東京の水源となるこの奥多摩の小河内(おごうち)ダムも河内地名である。河内地名は全国各地に無数にあり、原発再開でニュースになっている川内(せんだい)も高知もさらには仙台さえも河内地名ではないかという説もあるそうだ。それらを地形的に見ていくと、大きな平野の大河の湾曲した内側や河に囲まれた内側の平地、いわゆる河内と山間の川沿いに開けた細長い盆地状の河縁に分かれるように思う。そういう説を聞いたことはないが、これらを一緒に論じているのには違和感を感じる。
 この山間部における河内こそ大唐内ではないだろうか。信州の上高地(かみこうち)も奥多摩の小河内(おごうち)も上林の大唐内(おがらち)も実は同じものではないかと思うのである。つづく

【作業日誌 2/22】芝生広場苔むしり
店先バリアフリー作製

【今日のじょん】ロケットニュース見てるとこんな画像よくあるね。

 

 

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大唐内のこと(87) 大唐内地名考-3 2/21

2015-02-21 | 大唐内のこと

2015.2.21(土)晴れ

 大唐内の唐が中国や朝鮮、海外の国や渡来人を表すものでないとしたら、一体何を表すのだろう。最も一般的に考えられるのは、唐=涸で砂利や岩石の堆積のため水流が伏流となり、涸れた土地を表すものである。穂高の涸沢(からさわ)などその最たるもので、唐沢岳なども唐沢が涸れた沢なのだろう。「地名の語源」をみると、カラ (3)「枯れる」「干上がった」。(唐沢、空沢、唐戸、唐風呂、唐川、辛川、涸川、唐州、香良州、唐木田)という風に多くの地名が載せられている。
 わたしが最も信頼している地名に関する書物で「とちぎの地名を探る」塙静夫著には、29 カラ(唐)は「涸・乾」地名、と端的に述べ、那須町の唐木田(からきだ)という地名を分析している。この地も例によって渡来人の居住した地域という説が存在する。しかし塙氏は渡来人説は根拠の薄いものとして、韓来た説を否定し、「カラ(涸・乾)キハ(際)・ダ(接尾語)」と解している。つまり水気の少ない山丘の端部のところという意味である。地図や航空写真で見ると、背部の山は浅く、奈良川から離れた段丘状の山裾かと思われる。おそらく水利が悪く耕作が困難な土地なのだろう。ただし、高山の唐沢、涸沢のように岩や石がごろごろして伏流水となり、まるで水の流れがないというものではなく、山が浅くて段丘状で耕作としての水を得るのが困難というところが多い。大字の芦野(あしの)も芦が生えていたのでは無く、悪し野の意味では無かろうか。その他栃木県の唐地名を15カ所紹介されているが、栃木県は唐地名が多いところだそうだ。
 綾部や上林で唐地名が無いものかと考えてみたのだが、どうも少ないようだ。綾部から大江に抜ける府道9号線と493号線の交わるあたりに枯木(からき)という道標があったのを憶えている。地図で見ると両府道に挟まれたあたりに枯木坪という地名が見える。坪というのは小さな集落の単位であるので、枯木というのが地名なのだが、やはりこれは前記の唐木田に共通する意味合いがあるのだろう。周囲の谷にはほとんど溜池が設置されている。通常の流れだけでは農業用水として足りないからだろう。
 上林の武吉町には唐戸渕という小字がある。上林川が大きく湾曲するところの内側にあるのだが、これは涸、乾の意味ではないような気がするので後述することにする。
 さて本題の大唐内だが、丸山の尾根から大唐内谷に降りたとき、谷はゴーロ(石や岩が堆積しているところ)となり、一瞬大唐内は大涸地の意味かなと思った。ところが下っていくと大きな砂防堰堤が出てきて、そこから先は水の流れもしっかりある。伝説の鬼の洗濯場という鍋滝があったというのは事実で、あのゴーロの下に埋まってるらしい。
 生守山(丸山)の丹波側は風化崩壊が進み、多くの岩石が流れ出ていると考えられるが(生守山北のコルの小川はどうやら大唐内谷に流れているようである。)大唐内が涸・乾を由来とする地名とは考えにくい。大唐内は最奥の地ではあるが、山は深く、高く、降雪量降雨量も多く、常時水不足に悩まされる地では無いのではないか。
では大唐内の地名由来は一体何だろう、思いをめぐらしているところに一つのヒントが現れた。つづく

大唐内は豊かな土地だと思うのだが。

【作業日誌 2/21】店先バリアフリー、床張り、塗装

【今日のじょん】昨晩も鹿がやってきた。芝生広場にくっきり足跡があり、紅葉のところに大量の鹿糞を残している。侵入径路もわかり、ネットもあるんだけど設置する時間が無い。イライラのつのるばかりだ。



  

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大唐内のこと(86) 大唐内地名考-2

2015-02-20 | 大唐内のこと

2015.2.20(金)曇り

 大唐内(おがらち)とは変わった地名である。上林の三大不思議地名は大唐内、睦志(虫)、念道かなと思っている。上林の歴史や民俗、地名の研究を始めたのは、亡くなられた土井さんに「大唐内というところに唐(から)という字が使われているのは唐(とう)、中国と関係があるのかなあ、調べてくれいや」といって奥上林村誌をいただいたことに始まる。光明寺と聖徳太子、穴穂部間人皇女の関係、仏谷や骨谷などという地名は姨捨があったのか、こんなことも調べてくれと言われたのが遺言となった。それから5年あまり随分いろんなことを調べたが、本当のことはなかなか解らない。特に地名のことはその地名が一体何を表すかについて例え答えを出したとしても、その証拠はあり得ない。だからなにを言ってもいいのだと思う。現実に様々な説が飛び交っている、問題はそれが多くの人に納得と共感を得られるかどうかと言うことだと思う。そういう意味では地名の由来とか語源というものは永久に仮説であって、極一部近年の合成地名や実在の人物の所有を表す地名などを除いて確証できるものは少ない。だから多くの地名について各論併記となるのは当然である。あとはその土地の地形や環境、そこに住まいする人々の歴史や民俗あるいは生活などを考慮して、納得のいく説を選び出すということだろう。
 前置きが随分長くなったが、大唐内を始め老富の幾つかの地名について考察していきたい。
1.大唐内
 カラ(加羅、韓、唐)の付く地名は多く、渡来人にちなむものであれば朝鮮を示すのが一般的。唐津や唐古など古代の諸外国と関係があったような地域もあるが、地形説もあって一概には言えないようだ。大唐内に最初に居住したのは誰かと想像すると、若狭湾青郷に定着した海人族が関屋川、黒部谷などを経由して峠を越えて入ってきたなどと考えるとロマンではあるが、そうだとしても地名として残るとは考えにくい。唐(から)であったり狛、高麗(こま)であったりする地名でもよほど歴史的にはっきりした状況が無い限り外国や渡来人にちなむ地名とは言えないだろう。まして、大唐内が中国、唐にちなむ地名だとはとうてい考えられない。つづく

最初の文化はあの峠を越えて入ってきた。(胡麻峠方面)
【今日のじょん】じょんの散歩に出ようとしたら、事件が起きた。リュックを担いだ迷彩服の何者かが府道を歩いてきて、隣家との堺を山の方に入っていったのだ。手に銃らしき物を持っていたので猟師かと思った。かみさんも二階から見ていて、「おとーさん怪しい人が登っていったで」と言う。「大丈夫、猟師さんだろう」なんて言っていたが、よく考えると猟師はオレンジ色の服を着ているはずだ。じょんを連れて追っていく、山菜泥棒かな、、なんて考えながら。すると木小屋裏の桧林の中に迷彩色のテントが張ってある。
「なにやってんですか」
「わあびっくりした」
「びっくりするのはこっちやわ、一体何してんですか?」
「府の依頼で猿の調査をしています。捕まえて首輪をつけるんです。麻酔銃を使うんですが、射程距離が短いのでこうして隠れて待ってます」
顔を出すと女性であることが解って余計びっくり。
「昨日なら群れが来ていましたが、たぶんもう来ませんよ、追ったから」
「そうですか、下の方からもう一人入ってますのでもう少し待っています」
てなわけで、猿情報を伝えて、散歩に行く。それにしても、空き家ならともかく人が居る家には一言あってもいいんじゃないか、普通巡査呼ぶで、、、。

確かここ登っていったよね。
府道にこんな車が駐めてあった。
この林にテント張っていたんだけど、1時間ぐらいでいなくなった。

【今日のトレーニング】SWIM3,000m 74分

 

 

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大唐内のこと(85) 大唐内地名考-1

2015-02-19 | 大唐内のこと

2015.2.19(木)曇り 大唐内のこと(84)は2013.2.12

 「大唐内のこと」を書くのは実に2年ぶりである。生守村で行き詰まってしまったという感じである。そこで稿がとまっている。岩田さんの「飯の山」測量基準点説(これはわたしが勝手につけた説なんだけど)を信じると、生守山(丸山)は上林どころか綾部、丹波、京都、いや日本中の研究者が誰も気付かなかった歴史上重要な地点の一つに考えられる。伝説上の廃村生守村もその存在価値が問われてくることとなる。
 しかし「飯の山測量」の論文やその他の書物から「飯の山」、生守山などが基準点になっているというのを確信することが出来ていないのも事実である。
 岩田さんを生守山に案内した2013年の4月、偶然2カ所の「飯の山」に行くこととなった。これは以前から決めていたことで、岩田さんに聞いたのは、城崎の対岸に飯谷と言うところがあるということと四條畷市には著名な飯盛山が存在するということである。この二カ所の「飯の山」については既に報告しているので略するが、前者については楽々浦(ささうら)と韓国神社(からくにじんじゃ)、気比(けひ)と白山神社、後者については鼻橋という地名を見つけたことである。その他八木町の飯盛山西光密寺にも通った。
 こういった民俗調査で岩田さんのお手伝いは出来るのだが、無数の三角形を描いて地図をつくるということは彼女にしか出来ない。新たな論文を執筆中だというので、そこで「飯の山」の白黒を判断したい。大唐内のことの執筆が止まっていたのはそのためである。
 岩田さんの論文を読み直していると、「飯の山」の共通の特徴が11点示されている。そのなかで生守山に関して共通することは、鉱山の近く、周辺の小字地名(日置、河内他)、行基伝説の3つである。これが多いか少ないかは別として、それらの共通項についてなぜそうなのかということは岩田さんは詳しくは語っておられない。そういった民俗学的な調査から飯の山の謎にも迫れるのではないだろうか。
 だからこそ2年ぶりに「大唐内のこと」を再開したわけである。生守山に関連してあるいは無関係に大唐内の地名や民俗を探ってみたいと思う。そのうちに岩田さんの新説も登場するだろうし、大唐内のみならず市茅野、栃もあわせて老富は不思議な魅力に富んだところである。

中上林はすっかり雪も無くなったが、老富はこんな感じ。

【今日のじょん】山にも野にも食べるものが無いせいか連日鹿の襲来である。じょんも嗅ぐのに大変だが、この後家に入ってから事件が起きた。
猿の群れがドッグランどの付近にやってきた。たまたま灰を捨てに外に出たところに出くわしたのである。慌てて追ったら山に逃げたが、残党が畑にいて、これも追う。それにしても丸々太って見えるのは冬毛のせいだろうか。問題は例のウィーウィーという鳴き声がしないことである。閉めきっていても寝ていても気付くあの鳴き声が、一切無くて音なしの構えである。これって知恵つけたのかなー。


鹿の跡を追う。

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