晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

四ツ尾山・寺山 11/30

2017-11-30 | 山・峠

2017.11.30(木)曇り
 12月7日の寿命延ウォーカーズ登山会の下見を兼ねて四ツ尾山に行く。青年会議所で整備されていると聴いたので一度歩いてみたいと思っていたところだ。取り付きや駐車場所が解らないので大槻さんに途中まで案内してもらう。
 

 山行日:2017.11.29(水)曇り 
 単独 :稜線まで大槻さん同行
 タイム:南ヶ丘公園スタート  10:25
     寺山四尾山分岐点着  10:35
     体力コース終分岐   10:52
     四ツ尾山山頂着    11:05  発11:20
     健康コース始分岐   11:30
     寺山四尾山分岐着   11:45
     寺山着        11:55  発12:07
     南ヶ丘公園着     12:20    
 南ヶ丘公園はグンゼの創始者波多野鶴吉の記念碑がある落ち着いた公園だ。鶴吉翁の銅像の横から登山道が続く。

銅像の横の道を登る、四ツ尾山寺山の分岐。
 まわりは植林で陰気くさいが、夏なら涼しいかもしれない。10分で寺山と四ツ尾山の分岐に出る。右に行けば四ツ尾山方面ですぐに体力づくりコース(右)と健康づくりコース(左)の分岐となる。どちらも歩いてみたいので登りは体力づくりコースをとる。短いが急と言うことだろう、この時期でも汗ばんでくる。20分弱で稜線に出る。そこからは一ツ尾、二ツ尾、三ツ尾とこぶを越えていく、15分程度で四ツ尾山山頂(287m)に着く。綾部市内側が切り開かれておりなかなかの景色だ。あいにくの天気で、ガスが晴れるのを待って写真を撮る。簡単に食事をし、登山帳に記録をする。

展望台からの景色、登山者名簿に記帳しよう。 
 展望台の下に岡町方面に下りる道だろうか見えている、そのうち下ってみたい道だ。山頂を後にして元来た道を下る。登るときも気になっていたが、丁寧に樹木の案内板が付けてある。これがクロモジか、これがシデかとか確認しながら歩くのも楽しい。やがて健康、体力のコース分岐に出、今度は健康づくりコースを下る。

樹木の名前を憶えながら、健康・体力の分岐に出る。(右が健康づくりコース)
こちらの方が緩やかで歩きやすい、みんなで登るときはこちらを使おう。コースの終わり近くにヌタ場がある。夕べイノシシがヌタっていたようだ。イノシシに注意という看板があったが、やっぱり居るんだなあ。

健康づくりコースはこんな感じで歩きやすい。ヌタ場にどっきり。
 寺山との分岐に出て、寺山も行ってみようと思う。こちらのコースは展望がきいて気持ちいい。途中桜並木もあり、季節にはなかなかのお花見ポイントになりそうだ。寺山山頂にはでかい音叉のような平和の鐘がある。それを守る屋根が厳ついコンクリートの柱で、いただけない。奥にひっそりと祀られている地蔵さんの方が風情がある。しかし街道でも無い山頂になぜお地蔵さんがあるのだろうか?

寺山に向かう桜並木、平和の鐘とひっそり地蔵。
 若宮神社方面に下りる道があるというので、歩いてみる。でも林道なので面白くなく引き返す。元来た道を南ヶ丘公園まで戻っておしまい。
 四ツ尾山は綾部の人なら誰でも知っているというか毎日見ている親しい山だ。よくぞこのコースを整備されたものだと思う。登山者手帳にも連日登山者の名前が載っている。綾部に住んでいれば毎日登山でもできそうな手頃な山だ。どうか多くの人が何回も登り、荒れないようにきれいにして、残して欲しいルートである。
 
その次の寿命延ウォーキング山行は高城山予定 

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胡麻峠から市茅野-2 11/29 

2017-11-29 | 山・峠

2017.11.29(水)曇り

 丸山はコルから登るのは簡単だが、猪鼻峠側に下るのはかなり危険だ。特に多人数で下るのは落石の危険が大きい。急斜面の上にガレており、灌木もまばらにしか生えていないからだ。従って今回もトラバースルートを行く。丹波側を捲くルートでほぼ水平に走っており安全だ。ここに来て初めて私たちが付けたテープが残っており、随所で役に立った。しかし何でここだけ残っているんだろう?
 猪鼻峠も枯れ木の倒木があり荒れているが、歩くのに支障は無い。ゆっくりと昼食をとって坪坂峠に向かう。
坪坂峠も地蔵さんの囲いが壊れかけていて、寂寥感が漂う。

お地蔵さんの右手を下っていく、最初は右手(右岸)の斜面の踏み跡を行く。
 市茅野谷は元々荒れていて、元来の道がどこか解らない。峠から右岸の踏み跡を行き、谷から離れてきたなあと感じる辺りで折り返して谷に下りる。これが本来の道のようだ。徒渉地点に案内テープ(黄色、主稜線は赤)を付け、左岸に渡る。ここから崖崩れや倒木で歩行はかなり困難になるが、ずっと左岸が本来の道のようだ。

倒木をくぐったり乗り越えたり、、、。
 苦労して下っていくと、谷一面シャガが生えている。こりゃあ困った、道が見えなくなるぞと思ったところで右岸に植林保護の鹿ネットが張ってある。渡渉してネットをくぐる。これは最初来たときに通った道なので安心、ネット沿いは歩きやすく、あっという間に二股に出る。谷は一面のシャガだ。季節になるとこれは感激ものだぜ。

  シャガはどんどん広がってるように思うのだが、、、。
 後はシャガ見物で整備された道なのだが神社の前の土管がこの前の台風で詰まって、復旧工事がなされている。市茅野の集落に出て、あとはアスファルトの道を大唐内の老富会館まで歩くだけだがこれが結構つらいのよね。

市茅野に出てとりあえず終了。
【今日のじょん】

 11月24日(金)のこと、久々の好天でおおいの芝生広場に行ったんだけど、小浜の方の山は白くなっている。滋賀県境の山々かなあ。じょんはお構いなしでにおいでばっかし。


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胡麻峠から市茅野-1 11/28 

2017-11-28 | 山・峠

2017.11.28(火)快晴

 22号台風(10月22日)の影響がどの程度か調べるため大唐内から胡麻峠、三国岳、坪坂峠を経て市茅野に下ってみた。
2017.11.28(火)快晴
メンバー:小原英明、工忠照之
タイム: 老富会館駐車場発 10:45
     胡麻峠取付着   11:10    発11:15
     胡麻峠着     12:00    発12:10
     三国岳着     12:35
     丸山のコル着   13:15(ミスコースロスタイム10分)
     猪鼻峠着     13:35    発14:00
     市茅野着     14:35(坪坂峠、市茅野谷経由)
     老富会館駐車場着 15:00
 雨男の工忠君が最近妙に晴れ男になってきた。人生にはこういう転機もあるようだ。
 さて久しぶりの大唐内は柿の季節で、美濃柿だろうか、鈴なりである。「おかしいなあ、熊に食われないのかなあ」なんて下世話な会話を交わしながら進む。人が居れば柿の種類を聞くのだけど生憎人に出会わない。

 君尾林道の入り口も通行止めになっていて、復旧工事が行われている。来年開催をともくろんでいたMTBのレースも2,3年無理なようだ。大唐内谷を行く林道も倒木が道をふさぎ、車の通行は不可能だ。問題は谷筋の登山道だ、岸の崩れと倒木が気に掛かる。取り付き付近は確かに増水の痕跡はあるが、さしたる被害はなさそうだ。流木が溜まっているのが気になるが谷筋そのものは水に洗われてきれいになっている。少し行ったところの滝もゴミや汚れが流されてきれいになっている。

倒木が流されて溜まっているが谷筋はきれいになっている。滝もこのとおり。
 胡麻峠に向かう谷筋も歩行が困難になるような箇所はないが徒渉点の案内テープがことごとく流されている。できる限り付けなおしたが水流近くの灌木が流れてしまったことが原因だ。谷筋を離れるとさしたる変化はなく、難なく胡麻峠に到着、その後の尾根筋も問題なし。ナパームの広場と呼んでいる三国岳山頂付近の光景も相変わらずで、主稜線を下っていく。

三国岳山頂付近はナパーム弾が落ちたみたい。
 少し下ったところでやたらテープが巻かれて、「老富→」の表示がいくつかある。あれっこっちやったかなと数分下る。でもやたら下るのと、先ほど越えてきた胡麻峠先の鉄塔が右手に見えるので、このルートは大唐内谷本谷に下るルートと解る。一番最初に来たときと同じ過ちをしてしまった。その時は、「ええいままよ」とばかりに下って大唐内に下りてしまった。今回はそういうわけにいかないので登り返す。つまりこの分岐の表示は「老富→」ではいけないのだ、左に主稜線を行っても行先は老富なんだから、右は「大唐内→」左は「丸山」あるいは「猪鼻峠」と書くべきである。
 左の主稜線を進むが、気になるのは我々が残したテープが一切見当たらないことだ。特に丸山のコルへ下る部分では、左の尾根には下らないよう厳重に行きどまりの表示をしておいたのだが跡形も無い。「なんかの嫌がらせですかねえ」なんて工忠君がぼやく。どうやらテープの結びが弱くて、この前の台風で飛んでしまったのだろうか。結びつける木を配慮して優しく結んでいたのがいけなかったのだろうか。「木の方が丈夫やからしっかり結んどこう」ということでがちがちに結んでおく。
 なつかしい丸山のコルに飛び出る。いったい何度この場所に来ただろうか、上林の山のシーンで一番好きな所なのだ。ここだけはカメラを渡して撮ってもらう、同じポーズの写真が何枚もある。何でって?この地こそ廃村イモリ村の場所だと思うからだ。
  つづく

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文化の冬 11/26

2017-11-26 | 文化に触れよう

2017.11.26(日)曇り
 今秋は文化に触れ損ねた秋だった。国宝展で見たかった六道絵、餓鬼草紙が都合で行けなくなり、毎年行っている世界報道写真展も行けなくなり、楽しみにしていた国宝二王門の現場見学会も台風で中止になってしまった。それでも頑張って「地獄絵ワンダーランド」や日吉ダムに沈んだ村の写真展などに通っていたら、巡り合わせがよくなってきて、あやべ温泉の温泉寄席が定休日に開催されることになった。

11月21日に寄せてもらう。地元の桂三扇さんが頑張ってもう15回も開催されていると言うことだ。温泉浸かってワンドリンク付きで前売り800円は安い。安かろう、まずかろうで落語は面白くないかな(失礼)と思っていたら、なかなかどうして流ちょうなおしゃべりで、満足な一日を過ごさせていただいた。来年も行きますぞ。

 つづいて23日には和知町のノルディックウオーキング教室に行く。いつも眺めているだけの坂原の河岸段丘を歩くもので、歩くだけでなく、神社やお寺など歴史的文化的な施設を解説付きで巡り、大変有意義な行事であった。

阿上三所神社、坂原毘沙門さん

   そして先日国宝光明寺二王門の特別展示があり、綾部市資料館に行った。これも閉会間際に慌てていったものだが、どうやら次回の現場見学会を優先的に案内してくれるようで、朗報である。


 そして極めつきは野村萬斎さんの狂言「佐渡狐」「棒縛」の公演招待券が当たったのだ。いやー妙に文化づいてきた冬の入りである。
【今日のじょん】いよいよ寒くなってきて、寒がりじょんの冬支度が始まった。寝るときはパジャマ着用、ハム色なので日ハムじょんと読んでいる。外ではお気に入りのダウンのコートを着ている、もうこれ以上ないで。
 

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四塚-5 11/25

2017-11-25 | 上林たんけん隊

2017.11.25(土)晴れ

 近世の四塚について黒川道祐が狐塚、光明塚、経塚、一箇所不明としているが、もしそうだとして古文書の「四陵」「四墓」がそれを表しているのなら狐塚などは平安後期には存在したものとなる。近世には羅生門の付近を四塚と呼んでいたようだが、狐塚、光明塚はやや離れているのが気に掛かる。勝田氏もこのことに触れて、道祐の独自の解釈なのか地元で言われていることなのか不明であり、「東寺往還」(道祐の四塚に関する文書)以外には四塚に狐塚が含まれるとする史料は管見に入らないとしている。
 あるホームページに「四塚は狐塚、杉塚(狐塚の東にある)、経田塚、琵琶塚の四つ」とあるのを見つけた。ネットの情報は基本的に採用しないことにしているが、この場合は経田塚、琵琶塚が町名として残っていることが気になった。経田塚については本記事の書き始めに経塚があったのは経田町ではないかと書いていたし、琵琶塚については現役時代によく食事をした喫茶店の近所にあった公園が「琵琶児童公園」ではなく「琵琶塚児童公園」だったことに気付いたのである。杉塚については何の情報も得られないが、狐塚の東にあったということは狐塚と光明塚が合わせて狐塚と呼ばれていたことと、前回紹介した市屋金光寺の文書にある「女御田塚」が実は杉塚にあたるのではないかと思わせるのである。勝田氏も「女御田塚」は狐塚の近くにあった別の墓地をさすのではないか、と述べている。こうなると四つの塚は九条通を挟んで南北に二つずつ並び、その中心に四塚の地名がつくこととなる。

この狐塚の東にもう一つ塚があったのだろうか。  
 この説(四塚=狐塚、杉塚、経田塚、琵琶塚)について、その根拠は何も知らされていない。勝田氏も「京師五三昧」の中で何も語っておられない。元々経塚について、唐橋経田町という地名が残っているのを無視されているのが気になった。その町名に気づいておられなかったと言うことも考えられるが、勝田氏の四塚に関する記述が、角川日本地名大辞典の四塚に関する記述の範囲を超えていないことに落胆している。

千本通りは平安京朱雀大路の一部である。矢取地蔵堂には多くの五輪塔などが集められている。
 
 千本通りを南に歩き、矢取地蔵に急ぐ。矢取地蔵は四塚の真ん中にあり、中世からあったとされる。東寺西寺をめぐる伝説で有名だが、西隣のレミアンという焼き肉屋さんの方が気になった。現役時代によく昼食をとったところで、今回もお昼を我慢してここまで来た。店は存在していたが休んでおられてがっくりする。
つづく

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四塚-4 11/19

2017-11-19 | 上林たんけん隊

2017.11.19(日)雨

 狐塚を後にして蓮華寺を回り光明塚に向かう。光明塚は狐塚から蓮華寺を挟んで南西に五分、狐塚よりは規模は小さいが、北側と西側が通りに面していたのだろうか、三角形の行儀のよい形をしている。

        針小路から右が狐塚、左が光明塚、正面の建物がかつての幼稚園だったろうか?
 狐塚よりは古い石塔が多く、近世の東寺の僧の石塔も多くあるそうだ。中世には東寺が葬送互助組織「光明真言講」を発足させ、その専用の墓地として「光明真言塚」を持っていて狐塚の付近にあったというから、この墓地が該当するのだろう。道祐が「光明塚」といったのもこの塚と判断できる。墓地の入り口には光明塚の銘板が見え、墓地内には戦後に建てられた「光明法界塔」があるが、必ずしも一貫して光明塚では無かったようだ。古文書によると当初は光明真言塚と書かれているが、堺(塚のこと)、狐塚、西塚という風に変わっている。近世の地図などでは狐塚しか描かれておらず、二つを合わせて狐塚と呼ばれていたと考えられる。このことは後ほど紹介する「女御田塚」「杉塚」と関連するので重要なことである。西塚というのは二つの内、西の方という意味かもしれない。


  光明塚は狐塚より整然としており、施錠されている。       
 墓地内は狐塚に比べ整然と石塔が並んでおり、また立派なものが多い。葬送互助組織といっても庶民が利用できるようなものではなかったようだ。
 狐塚、光明塚とも一段高い場所にあることに気づく。もともと古墳だったとすれば話は簡単だが、その証拠も無い。平安京という都市は平らであったと考えがちだが、実は結構でこぼこしていたのではないだろうか。その小高いところが葬地となり、今日まで地形的に手を着けることがなくて来たとしたら、一種の地形の化石とでもいえよう。古墳も夢があるが、こちらの方が夢がありそうだ。
 さて問題の四塚の三昧(火葬場)であるが、これは狐塚にある。
 「遠碧軒記」上之一に「狐が岡は東寺の西に有、此所と西院とが燃料心やすきにより、下京醒井通辺の者のさびものは、みなこれへ行となり」
 西院とは以前に紹介した最勝河原のことで(2017.7.6~参照)狐塚とともに平安京洛中にあるので、平安時代の初期には存在し得ないと考えられる。従って右京の衰退後にできたものであろう。他の三昧より値段が安いというのはやはり、後発の三昧だということだろうか。より庶民的であったのかもしれない、ただし庶民といっても裕福な者に限られるだろうが。
 狐塚の三昧は古文書にも多く現れるが、文久2年の京都市掌図(1862年)に六孫王社の西、八条通南に狐塚その東に火ヤ(火屋、火葬場のこと)と載っている。火ヤは少し南に入る道が描かれているので狐塚の中にあったということではなさそうだ。

狐塚の火屋を表す古地図と、平安期の女御田の地図、実際は6ブロックが女御田のようだ。  

 ここで「日本中世の墓と葬送」の中に気になる記事がある。市屋金光寺(北小路猪熊の火葬場を持つ道場)と狐塚の火屋の関係である。東寺百合文書にある古文書なのだが、要約すると市屋金光寺が以前から申し請けている女御田の狐塚以外の塚も管理させて欲しい、というものである。つまり女御田塚という塚が狐塚以外にあったのではというものである。女御田というのは平安京の朱雀大路から西、八条から南の東西2ブロック、南北3ブロックがこれにあたる。唐橋井園町、唐橋赤金町辺りがそうである。この南に唐橋花園町があるが、これが平安京の花苑にあたるから、地名というのはずいぶん昔のことを教えてくれる。つづく

【今日のじょん】今秋の天気はいったい何なんだ。とにかく連続の雨で本来10月には終わっていよう庭木の剪定がまだ終わらない。じょんには関係ないんだけど、一緒にここまでの作品を見てくれい。

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四塚-3 11/14

2017-11-14 | 上林たんけん隊

2017.11.14(火)雨

 七条から八条へ行くにはJRの線路や梅小路公園などで分断されている。東は大宮通、西は御前通りを下るしかない。四塚は平安期にも遡る古い地名だが、当時の古文書では四陵、四墓などと表記されている。四つの古墳でもあるのかと思わせる。現在は東寺の南側一号線に面した部分と羅城門跡までの171号線南北の部分が南区四ツ塚町である。

国道1号線京阪国道口交差点(四ツ塚町)西へ173号線(西国街道)の起点でもある。
 中世、近世においてもこの辺りが四塚と目された地域と思われるが、ここに古墳だとか陵墓の記録は見当たらない。前回源為義が七条朱雀で斬首されたと記したが、「愚管抄」には「ヨツバカヘヤリテ、ヤガテクビキリケレバ、、、」とあり、四塚で斬首されたという説もある。四塚は処刑の場としての記録が多くあり、朱雀大路の南端であり、鳥羽造道や西国街道の起点となっていて、交通の要所であったことがその理由かもしれない。
 近世初期の四塚について「近畿歴覧記」(1681)黒川道祐の文がある。
「是(吉祥院天満宮の東のこと)ヨリ四塚ミユ。狐塚、光明塚、経塚等是也。」つまり四塚とは狐塚、光明塚、経塚ともう一つ不明の塚の四つの塚を表すと言っている。現在確認できるのは狐塚と光明塚のみだが、四ツ塚町の南に唐橋経田町(からはしけいでんちょう)というのが気になる。狐塚、光明塚とも現役時代の営業範囲で、雨の日など狐塚の前のJRガード下でよく雨宿りしたものだ。
 七条から大宮通を下って八条通を西に歩く。東寺の北側の門を過ぎ、六孫王神社を過ぎると八条源町、唐橋赤金町、唐橋井園町と下町風の町並みとなる。空き家もぽつぽつ出始めているが、こういう下町風情が大好きだ。やがて左手に狐塚の塀が見えてくる。

入り口左手の石柱には「都城六勇士の墓」とある。幕末のこととて興味は無い。
 勝田氏は「ここには古い石塔は多くない」と書いておられるが、それは歴史家の思いであってわたしには充分古い墓地に見える。白っぽくて新しい御影石ばかりの墓地は何の魅力も無いが、卵塔、五輪塔、地蔵、一石五輪塔が茶色を通り越して黒っぽくなって古色蒼然としている様は感激ものだ。平安の後期から墓地として親しまれてきて、今日でも周辺の共同墓地として生きているのは素晴らしい。お参りの人が一人帰られた。「よいところにお墓をお持ちですね」と心の中でささやく。

 真ん中にお堂が有り、その裏に無縁になった石塔だろうか寄せてある。結構な数のお地蔵があり、その多くにその首が無い、廃仏毀釈の影響だろうかなんとも寂しい気持ちになる。つづく

【今日のじょん】じょんのびの社員旅行に同行する。いつものように久美浜へ蟹食いに行くんだが、こちとら車で待ってるばかりでつまらない。

でもいくみちゃん一緒だからまっいいか。
焼きガニじゃ!
 

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四塚-2 11/13

2017-11-13 | 上林たんけん隊

2017.11.13(月)晴れ

 龍谷ミュージアムの西向かいは西本願寺である。七条堀川の角に交番があって、その上手は興正寺で境内の南側に興正会館という白い鉄筋の建物がある。この二階にレストランがあり、現役時代によく昼食をとったことがある。市屋道場金光寺の荼毘所(火葬場)がこのあたりにあったとしるされているので訪ねてみる。この荼毘所はこれから訪ねる四塚の三昧(この場合火葬場)である狐塚と縁があるようだ。

興正寺と興正寺会館、二階のレストランはランチがおいしい。

 後でわかったことだが、市屋道場は北小路猪熊道場とも呼ばれており、この位置は猪熊通りを七条から一筋上がった辺りで、本派本願寺郵便局の奥のほうのようだ。それにしても平安時代には洛中だし、平安末期から中世でも洛中と見なされる地に荼毘所があるのは不可解な気もするが、すぐ西の朱雀大路が洛中洛外の境とされていた時代には、境界と見なしてもいいのだろうか。

七条猪熊、この郵便局の北方に市屋道場はあったようだ。これより洛中の石標(千本七条西)
 続いて源為義塚と朱雀権現堂を探して、七条通を西に行く。保元の乱(1156)の後、捕らえられた為義らは途絶えていた死刑に処せられた。船岡山とも朱雀権現堂とも言われるが為義塚のあるこの地を是非見てみたいと思ったわけだ。勝田至氏の書かれた四塚付近図(日本中世の墓と葬送)のコピーをポケットに探し回るがどうもその位置には無い。七条千本の西北門に為義塚があり、七条通の下に朱雀権現堂が書かれている。前者はJRのガード下、もしくは中央市場の建物の辺りであり、後者も梅小路公園前のJRガード下辺りになる。
 「保元物語」では為義の処刑場所を七条朱雀としており、現在も権現寺とその墓がある、という風に勝田氏は書いておられる。朱雀というのは平安京朱雀大路のことだから、上記の位置に権現寺や為義塚があるはずだが見つからない。朱雀大路はもっと西だったのだろうかと新千本や七本松まで探しに行く。

七条新千本まで探しに行く。朱雀松尾總神社まで行くが、仁和寺の法師となってしまった。
 これも後からわかったことだが、権現寺も為義塚も七本松七条下がった東側に存在する。「保元物語」の七条朱雀というのは大まかな位置を表したものか、処刑されたのは七条朱雀だったのだがそれは権現堂とは無関係だったのかどちらかだろう。また、為義塚が七条の北に書かれていたので、ひょっとしたら平安京の七条通はもっと南にあったのかとも思ったが、その様なことはなかった。便利なことに平安京の条理を現在の地図にオーバーラップするサイトが公開されている。七条通は現在と同様だし、朱雀大路の西端はほぼ千本通りに沿っている。
 いずれにしても権現寺もその東の幼稚園も現役時代に訪問している。いやはや奇遇なもんだ。つづく

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建田のこんぴらさん 11/12

2017-11-12 | 上林たんけん隊

2017.11.12(日)曇り

  「ラストこんぴら」のタイトルにしようと思ったけどこんぴらさんの大祭がラストになるわけでなし、こんぴらさんの信仰が無くなるわけでなし、ただ個人の宅で講元をされるのがラストになるそうだということである。上林に越してきて、河牟奈備神社は1300年祭が行われるはこんぴらさんは300年祭が行われるはで、結構因縁めいたものを感じていた。もちろんどちらも参加させていただいたのだが、河牟奈備神社の1300年はなんとも不確かな話だが、建田宝永講のいわれは史実に基づく話で信憑性が高い。また強訴によって村を救った三義人を祀るというなんとも嬉しいお祭りである。建田三町(忠、武吉、佃)の個人宅で講元を続けるのが大変ということで、社を設けてお祀りしようという噂を聞いたので、個人のお宅ではこれが最後の機会かとお参りしたわけである。
 
 台風で崩れた堤防は河原に下りて歩く、やがて幟が見えてくる。

  今年の講元は森井さん宅、祭壇には三義人の別れの宴にちなんだ大根、柚子、唐辛子が供えられている。
新しいお札とたこ焼きを買って帰る。
【今日のじょん】ステロイドの切れる日は食欲も元気も無い。ところが昼ご飯の準備ができたらさっさと朝ご飯を食べてしまう。

何でって、わたしの昼ご飯ねだるためだよ。???

 

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四塚-1 11/11

2017-11-11 | 上林たんけん隊

2017.11.11(土)曇り

 最勝河原、鳥辺野(六道界隈)に続いて、秋晴れの10日に四塚を訪ねる。
京師五三昧の一つ四塚は東寺の西、羅生門の辺りをいう。現在では東寺の南から羅生門跡まで九条通を挟んだ細長い地域が南区四ツ塚町として残っている。わたしにとっては現役時代の営業テリトリーだったので路地の隅々までよく憶えている。
 四塚を訪ねる前に行かなければならないところがある、龍谷ミュージアムで開催されている「地獄絵ワンダーランド」である。ワンダーランドとはよく言ったもので、地獄というのは確かめようのない不思議な世界なのだ。

   龍谷ミュージアムは魅力的な催しがあって楽しい。
先月には地獄オールスターズ選抜総選挙が行われ、予想どおり閻魔大王が一位で、わたしの応援する奪衣婆(奪衣婆)は二位だった。国宝展の六道絵を見損ねたので何としても見たかった地獄絵がこれでもかとばかりに展示され大満足である。地獄の構想というのは現実の人間社会を反映したものであり、地獄の光景の多くは平安末期の葬地の光景を反映しているのではと思っている。亡者が鳥に啄まれているのも、塚や卒塔婆があったり、奪衣婆なんてのはその最たるものである。

  地獄の総選挙は小選挙区でないので公平である。
 そして怖ろしくて凄惨な絵があると思えば、随分ユーモラスで、パロディともとれる絵が多くあり、この心理は一体何なのだろう。落語「地獄八景」のように、地獄の苦しみを笑い飛ばしてしまうエネルギーを感じる。ユーモラスな地獄絵を見て、人々は随分気が楽になったのではないだろうか。「地獄なんてへっちゃらだよ、この世の方がよっぽど地獄だもん。あの世の地獄はきっと楽しいぜ」って言ってるような気がする。つづく

【今日のじょん】7日に久々のプールに行く。広い芝生を独占できるんだけど、においでばっかし。ちまちましてんじゃねえよ。

ゴンも元気でした。(道中で)

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続・この写真にあこがれて 11/5

2017-11-05 | 文化に触れよう

2017.11.5(日)曇り

 天若はわたしのふるさとではないのだけど、この写真はなぜこんなにも郷愁を憶えるのだろう。この光は朝日なのか夕日なのかって書いたけど、妙に気になって調べてみた。これは朝日である。

 陸地測量部の昭和7年の地形図、つまり天若が湖底に沈む前の地図を見ると、文のマークは澤田にひとつしかない。1982年まで学校の増設がなければこの学校は澤田にあったといえる。Googleマップで過去の地図や航空写真を見られるのだが、データがあるのは1975年の航空写真だけで、すでに世木ダムは存在し、学校らしき建物は澤田にしか見られない。

 澤田の校舎の東は小山となっているが、早朝でなければこの小山の上から朝日が差し込むだろう。少女の影から見ても4月の朝の光景とみて間違いない。桜の咲き具合から見ると4月のはじめとみられるが、よく見ると桜の木の下に選挙の看板が見られる。右の二桝に候補者が写っており、下のポスターには林田の二文字が確認できる。1982年の4月11日は京都府知事選が執行され、林田悠紀夫氏が二期目の京都府知事になった時であった。その投票日以前の写真に違いない。
 少女が手にしているのは新聞のようである。新聞の配達をしていたのか、新聞置き場から自宅に持ち帰る途中なのか、いずれにしてもこの犬と少女が愛おしくてたまらない。この1年後に離村式が行われ、やがて村は湖底に消えることとなるのだが、この少女はそのことをどのように感じていただろうか。

朝日を浴びるとこのように写るのよね。これはうちのじょんデス。

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この写真にあこがれて 11/3

2017-11-03 | 文化に触れよう

2017.11.3(金・祝)快晴

 学校横の小道を犬と散歩する少女、桜が満開なので春の朝だろう。この学校や小道は今はダム湖の底に沈んでいる。1982年4月、新保隆久氏の写真、「犬の散歩をする少女」である。

 
 いかにも田舎らしい雑種の犬が嬉しそうに小走りになっているのと、少女の走りが朝の光に浮き上がり躍動感を感じさせられる。しかし満開の桜も子供たちが走り回っていた校舎も冷たい水の下に沈む運命だと考えると妙に寂寥感を憶えて、これは朝日ではなくて夕日なのかなあと思ってしまう。
 これは日吉町の郷土資料館で開催されている「湖底に眠るふるさとの記憶 ーおもいでの一枚の写真ー」展のポスター写真である。

 あまりにも天気がいいので、台風の爪痕修理を取りやめてこの展示会に出かけた。新保氏はダムに沈む天若地区の人々の暮らしを精力的に撮影され、多くの作品を残された。子供たちの遊びや大人たちの仕事、お祭りや村の行事、野辺の送りやお墓の引っ越しなど移転前の様子が数十枚の写真に収められている。人々の笑顔にもかかわらず寂寥感を憶えるのはやはりすべての景色が湖底に沈んでしまったという現実とノスタルジアのなせるものか。
 じょんの目的は資料館の向かいにあるドッグランだ。好天の休日とあって多くの人とワンコが楽しそうに走り回っている。

めっちゃ広いのだワン。おしっこばっかしてんじゃねえよ。

近所にお友達がいなくなったじょんはワンコが居るだけで大興奮で、とても場内に入れられる状態ではない。ドッグランの周りを廻るだけでもう充分、そのあと”おかげさんで”にも行ったのでもう夜はクタクタ。

おかげさんでもワンコがいっぱい。

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