2014.3.30(日)雨
姥捨山(うばすてやま)はいわゆる棄老伝説の舞台として有名だが、信州の姥捨山は「古今集」や「大和物語」にありつとに有名である。諸説ある中で、吉田東伍氏は篠ノ井市塩崎長谷の長谷寺の裏山はもともと小長谷山(おはっせやま)であり、オハッセがオバステに転訛したとしている。
葬地、墓地と棄老伝説が重なってこういった説が生まれるのかと思うが、姥捨というと深沢七郎の楢山節考を思い出す。映画の中で観た白骨の累々とする谷間の光景は、棄老は別として、古代の葬送として現実に存在したのではないかと思う。
青地名もハツセ地名も葬地として充分に考えられるところだが、初瀨はともかく泊瀬、小泊瀬の泊の字には不思議な感がする。泊はハクとは読めてもハツとは読めない。元々地名は読みだけであって、漢字は使われない。それがどこかの時点で漢字が当てられるのだが、それがどの時代で誰がなしたかというような研究は誰もしないのか見たことも無い。おそらく研究のしようもなく、検証のしようもないからだろう。
泊瀬、小泊瀬にハツとは読めない泊の字を当てたのは、泊という字の意味を加味してのことではないかと勘ぐっている。泊という字には船が岸について留まるという意味がある。(漢語林)停泊という熟語や泊(とまり)と書いて港になっているケースを見れば理解できる。泊瀬が葬地であるとすれば、それは青の島に遺体を運んだ船が岸に停まっている様子を表していると考えられる。
おおい町の大島半島はかつて島であった。島との間を青戸(あおと)という、大島はアオシマだったのではないかと思う。
そう考えると泊瀬(はつせ)→鳩瀬(はとせ)と転訛した裏には鳩瀬は波止瀬の意味があるのでは無いかとも思えるのである。波止場も泊と同様船の留まるところという意味がある。
と言いながら、鳩瀬には全然別の意味があるのかも知れないという不安は残る。埼玉県川口市に鳩ヶ谷、沖縄県竹富町に鳩間島、鳩離島などあるが、いずれもはっきりした意味は分からない。鳩瀬=泊瀬というのは幾分強引かも知れないが、周囲の状況を鑑みたとき実は最も妥当な回答なのかも知れないという気もする。
この地に遺体を置いたら、埋葬したとしてもそのまま安置したとしても、やがて朽ち果て、出水に流され消え失せてしまうだろう。遺骨に対する考えが今日とは随分違うが、それが当然の時代であったと思えば何の問題も無いと思うのである。つづく
【今日のじょん】じょんと鹿の侵入路を探索に行く。見事な獣道を形成しているので、こいつをなんとかと考えるのだが、ただネットを張るだけでは敗北と思われるので、75mmの釘で剣山を作り通路に隠した。ひどい目に遭わせて退治しようという魂胆だが、今朝の様子では効果無さそうだ。
これは昨日の写真だが、この斜面が鹿の独壇場になっている、クソー。