晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

別所探訪(60) 西浜別所-7 6/15

2014-06-15 | 別所探訪

2014.6.15(日)曇り

 小分け地名の別所が小字別所の中のどこに位置するかは重要な問題であった。奥野さんの田んぼがベッソというところだというのは貴重な証言である。ベッソと言うところは現地を確認したわけではないが、奥野さんの便りで、小字岩ノ下にある。小字岩ノ下にはベッソ、別所の小分け地名は無いが、東隣の小字福本に別所前という小分け地名がある。となるとベッソという地名はセブンイレブンから藤波園に行く道の東部分にあり、その東の小字福本に別所前という小分け地名が存在するとすればつじつまが合ってくる。ベッソと別所は同一のものだと思うので地続きに考えると、小字別所の中の別所(ベッソと思われる)は小字別所の東部分に存在すると考えられる。
 小字別所の中の小分け地名山崎は小字岩ノ下、小字山崎にも存在する。ということはそれら三つの小字に共通する部分に山崎という古い地名が存在していたと考えられる。山崎山(307m)の山名由来はこの山崎かも知れない。
P1030160
 

 
修正を加えて、小分け地名予想図が出来上がった、奥野さんに確認してもらって、再度マキノを訪れたい。

 同様に小分け地名岩ノ下は小字別所と小字岩ノ下に共通するので、藤波園の辺りから左の尾根に向かった辺りかと予想しているのだが、小字岩ノ下には夫婦岩という地名があり、この岩の下方が小分け地名岩ノ下と考えるのが妥当である。
 小字別所の中で谷地形は一ヶ所だけなので藤波園の奥の谷を柳谷と考えるのも妥当だと思う。また、御墓は現実に石塔のある穴虫との境にある尾根上の一部だろう。
 そうすると本来の別所は小字岩ノ下の東端から小字別所の東側だろうと想像できる。しかしこの景色を見ても別所とはなんぞやという答えは出てこない。特別な遺跡があるようでもないし、単なる山としか思えないだろう。
 
【今日のじょん】敷地内に侵入する鹿のことを書いてきたが、連日現れており、昼間は追われるので夜に侵入するようになった。センサライトが点灯して目撃されることもあるが、最近では巧妙になってセンサの届かないところでウロウロしている。音も立てないし、じょんも鹿には鈍感だし、その形跡すらつかめないのだが、先日から三日かかって、剪定したネムノキの葉を食べ尽くしてしまった。ユスラウメとタニウツギの新芽を食べられたぐらいで特段被害はないのだが、やがてなんでも食われだすとやばいので要対策となっている。P1030148 P1030152
P1030157  



13日、14日、15日の様子。

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別所探訪(59) 西浜別所ー6 6/14

2014-06-15 | 別所探訪

2014.6.14(土)曇り

 角川日本地名事典滋賀県の小字一覧は小字とその中の小分け地名が記されており、大変便利なのだか調査の際には苦労することが多い。
 例えば最近の例では草津市馬場町を訪ねた時のことである。馬場町穴虫には小分け地名、穴虫、植カケ田、馬場とあり、穴虫、植カケ田の位置はすぐに聞き取りで判明するのだが(植カケ田は仕掛田とみなす)馬場は「全体が馬場町なの」ということになり、確定できない。つまり町名馬場町は小字穴虫の小分け地名の馬場から来ていると思われるのだが、地元の人の意識としては馬場といえば町名となって、本来の意味をなす馬場は意識の中から消えてしまうようだ。
 小字名と小分け地名が複雑に入り組んでいる西浜では話は余計複雑となる。同じ小分け地名が、小字を越えて付定されているということは理解できないこととなるからだ。だから、「穴虫の福本はどこですか?」と聞いても、「福本というのは小字の福本のことで穴虫とは別」などという答えになってくるのだ。
 しかし複数の小字に存在する小分け地名が小字が出来る前の一定の地域だと気付くと、今ではどこの地域か解らなくなっている小分け地名の位置が解ってくる。
 小字の地図をコピーして、小分け地名を書き込んでいく。小字穴虫の凹の字を逆さにしたような奇妙な形も耕地の有り様からそうなったことが理解できる。小分け地名は耕地や居住地以前の利用状態から付けられた地名なのだろう。きれいに書き上げて奥野さんに確認してもらおう。
P1030159
 

小分け地名を理屈に合うように並べると、字配置図とは違った地名の配置が見えてくる。
その前に位置がはっきりしている地名があるので、書いておきたい。
一つは御墓(みはか)である。御墓は小字別所の小分け地名だが、R161号線を西浜に入ると藤波園の入口にセブンイレブンが出来ている。更に東に進んで北の田んぼの中を農道が走っている。農道が山裾にあたる辺りから、尾根に向かって山道があり尾根にあがるあたりに石塔があるそうだ。航空写真を見ると尾根上にはげた部分があり、その辺りらしい。奥野さんの言によると、三つの墓があるので三墓だと思っていたということである。なお、この石塔は近世のものと言うことだ。御墓は訪問可能なので次回登ってみたい。
 御墓はミハカ、つまり埋墓かという予想をしたが、この状況を考えると単純に墓があるから御墓と考えてよいのではないだろうか。そう考えるとこの地名は新しいものと思われる。
P1020890
 

 
藤波園の最奥からつづく地形は、小字別所唯一の谷地形で、柳谷というのがこれにあたると思うのだが、柳が生えるような地形でなく、一体何を示すのだろうか。
 今一つは奥野さんの耕作地であるベッソである。セブンイレブンから少し北に入った田んぼの部分で、小字福本になるのではないだろうか。もちろんベッソとは別所のことだが、小字福本には別所前という小分け地名がある。
 このベッソこそ本来の別所につづくもので、藤波園から東に見える尾根の一帯が別所と考えられる。つづく


【今日のじょん】忠の井堰が完成したので、じょんと見に行く。
一年前の景色がよみがえってきたが、願わくばオオサンショウウオが帰ってこないかと思うばかりである。

P1030154 P1030155 P1030156
 

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別所探訪(58) 西浜別所-5 6/13

2014-06-13 | 別所探訪

2014.6.13(金)曇り、雨

 では、正確な別所の位置を確認しておきたい。というのは私自身も別所の地を踏んでいないからだ。よくよく考えればどこの別所であれ、一回の訪問でその地を踏むことは出来ていない。
  別所地名事典の記事を見る限り、柴田氏が何度も別所を訪れている節は見当たらない。全国600ヶ所以上の別所をめぐるには何度も再訪することは出来ないのかも知れないが、読者としてその調査の結果に満足できないのはそのせいかもしれない。
 西浜小字別所(べっしょ)は、山崎山から南方に派生する最も西の尾根筋から真ん中の尾根の尾根筋までで、藤美寮を取り囲む山域である。その中に小分け地名として、山崎、岩ノ下、柳谷、別所、御墓がある。
 別所の南、藤美寮や藤波園、その南の別荘地などがあって、東西に走る印内川までが小字岩ノ下で、笠取、岩ノ下、山崎、夫婦岩の小分け地名がある。
 別所の東は小字穴虫で穴虫、福本、長谷の小分け地名がある。そして穴虫の南が小字福本で福本、穴虫、別所前の小分け地名がある。
 地域を複雑にしているのは、小分け地名が輻輳していることだ。例えば岩ノ下、山崎は小字別所と小字岩ノ下にあり、山崎などは小字岩ノ下の南に小字としても存在するのだ。同様に穴虫、福本は小字穴虫と小字福本の中にある。
 当初同じ小分け地名が数カ所にあるという風に考えていたが、連日奥野さんにいただいた地籍図を眺めていて、遂にひらめいた。
P1030142
 

連日、奥野さんにいただいた地籍図を眺める。
 それは小字の境が尾根や川、道路といった地理的に明確な要素で線引きされていることだ。今まであまり気にしていなかったがそれはどこの地域でも当然のことと思える。それは小字の成立が何時の時代か解らないのだが、行政上の必要に応じて境界線が引かれたためだろう。
 ところがそれ以前に人びとの生活のために必要な区域が存在していて、誰にでも解る地名を付けていたとしたらどうだろう。それこそが小分け地名になっている部分で、地名の意味のある区域なのだ。同じ小分け地名が隣接した小字に存在するということは、元々の小分け地名の区域の中を小字の境界線が走ったということだろう。P1020893
 


山の部分は小字別所である。しかし本来の別所はこの中の一部である。
 コロンブスの卵のようなことであるが、このことは一般的に地名の意味を考える時非常に重要なこととなる。別所にしても穴虫にしてもその元となる、本来の別所、穴虫を探して調査しないと何も得られないということだろう。つづく

【今日のじょん】久々にうみんピアにスイムに行く。もちろんじょんは車で待ってるのだが、その前の先端芝生広場の散歩が楽しみ。とにかく芝生がすっかり緑になってきれいなこと。よく見ると葉が細くて固い、少なくとも高麗芝ではない。冬は枯れていたので、バミューダーグラス系のティフトン芝かも知れない。じょんのびドッグランどにも少し植えたのでお楽しみに、、、。(1㎡のみだけど、、、
P1030150P1030151 

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別所探訪(57) 西浜別所-4 6/12

2014-06-12 | 別所探訪

2014.6.12(木) 雨、曇り

 柴田氏は全国の別所を探す際に角川日本地名大辞典(以下角川地名辞典と記す)の小字一覧を参考にしたと前書きのところに書いておられる。例えば但馬国の別所については、小字一覧が掲載されていないので、菊池があげる大蔵村別所一ヶ所しか発見できていない、という風に書かれている。これほどの金属地帯であれば、角川地名辞典に小字の掲載が無くても他の資料で探して欲しいと思うところだが、とにかくこの小字一覧が別所探しの基本となっているようだ。
 そう考えると、別所地名事典に掲載されている、西浜”別所”(べっそ)というのは違和感をおぼえる。角川地名辞典小字一覧には別所(べっしょ)となっているのだ。(べっしょ)も(べっそ)もあるいは別荘、別曽、別惣なども意味は同じなのだが読みは違うわけで、柴田氏も区別されているし、地名の研究としては当然のことである。
 氏が記事にされている別所(べっそ)は小字別所(べっしょ)とは違うものと考えられ、そうなると地図や写真の位置が違っても当然ということになる。
ところが別所地名事典には以下のようにある。
 
青谷氏によると、別所は山崎山の南麓で、藤美寮のある裏山あたりでちょっと人家があった所とは思えない所だという。そこに人間が五~六人は入れる「眼八(がんぱち)」という洞穴があるということであった。
 青谷氏というのはマキノ町史へんさん室におられた方で、柴田氏は別所、印内、海津天神社に案内してもらったとある。ここに書かれている別所は本来の小字別所で、柴田氏も案内してもらったとしたら、あの地図や写真は一体何なのだろうか。
 ちなみに文中にある「眼八」という洞穴のことであるが、いつか奥野さんに確認したいと思っているが、別所の北に間ヶ谷という小字があり、かん八というところがある。そしてその北に眼八という小字があるのだがそれはもう下開田(しもかいで)の地域になり、そこが眼八洞穴であるとしたら別所とは無縁のところとなる。
P1020894
 

所の尾根を蛭口方面からみたところ。尾根のこちら側は蛭口向山で、左のこんもりした部分の奥がかん八、眼八は写真よりずっと左である。
 このように地名を扱う事典としてはその内容に信頼性を欠くものといわざるを得ない。つづく

【今日のじょん】おべんとじょん
これは昨日の写真である、昼も夜もおねだりしてご飯をもらってるじょんなんだが、慌てて食べたようでおべんとじょんになっていた。笑えること。P1030135
P1030136 
 
 

 

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別所探訪(56) 西浜別所-3 6/11

2014-06-11 | 別所探訪

2014.6.11(水)曇り、雨

 「重箱の隅を突く」という諺がある。わたしの「全国別所地名事典」(柴田武弘著)に対する批判は将にこの状態である。全国の600を越える別所を調査し、事典として上下巻の巨大な書物にまとめられ、その他多くの出版物を出しておられる柴田氏の説や著書に対してわたしの述べることなど、重箱の隅どころでない些細な抵抗でしかなく、ごまめの歯ぎしりと言ったところだろうか。
 地名辞典のバイブル「地名の語源」にもベッショは蝦夷の捕虜を移住開墾させた所とある。菊池山哉、柴田弘武両氏の研究のたまものであろう。
 しかし柴田氏の著書を読んで、なぜ別所が蝦夷俘囚の移配地だと言えるのか少しも理解できないのである。また、別所事典の記事を見る時、その調査方法について疑問を持たざるを得ない部分がある。「別所探訪 菟原中」のところで述べてきたのだが、それは600以上ある別所の一つについての調査方法に関してであるが、疑問は疑問なので敢えて「重箱の隅」を突きたいと思うのである。

 菟原中の別所について最も不満なことは、柴田氏が別所の地を踏んでいないことである。確かに養鶏場の奥の山中であり、足を踏み入れるのも躊躇される場所だけれど、探求者としては現地に立ってみるというのが基本だろうと思う。
 「全国別所地名事典」西浜別所の疑問点
 ここでも柴田氏は別所の地を踏んでいない。そう勘ぐるのは、別所事典に掲載されている地図と写真は同一のところを表しているが、それは小字別所ではないということだ。当初はそのことが解らないので、その地図で見当をつけて市役所に向かったが、別の箇所に別所を見つけて驚いたのである。
P1030137P1030138
 

(別所事典に掲載されている地図と写真、コピーされたものなので見にくいと思うが。)

 既に書いたところだが、小字別所は山崎山から西浜に派生する三つの尾根の左の尾根筋から真ん中の尾根までの地域であり、写真で写されているのは海津天神社のある尾根であるし、地図で示されているのは三つの尾根の最も東、穴虫と海ノ谷の境の尾根辺りと目されるのである。地図の場合は簡略されたもので、はっきりした位置を示すものではないが、別所事典の別所は明らかにJRマキノ駅の東にあり、本来の別所はマキノ駅の西にあるのである。つづく

 【今日のじょん】昨晩は蒸し暑くて、じょんのび谷に初めて蛍の明かりを見つけた。そして今朝はかみさんがポストの台木からタマムシが這い出してくるのを見つけた。タマムシは3年間幼虫として木の中で過ごして出てくるそうだが、昨夏初めて見つけた時は随分感激したものだ。玉虫は榎を食樹とするのでこの季節乱舞することとなる。是非見に来てちょうだい。
P1030134

P1030132_2P1030131 

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別所探訪(55) 西浜別所-2 6/10

2014-06-10 | 別所探訪

2014.6.10(火)曇り、雨

 別所探訪の際にお会いした奥野さんから西浜周辺の詳しい地籍図を送っていただいた。市役所でわたしが確認したものと同じものなのか解らないが、別所と穴虫の位置について、わたしの認識と違っていた。というのは市役所の字配置図はどこの役所でも複写は出来ず、手持ちの地図に写し取る低度で、その地が未知の土地であればかなり正確性を欠くものであることは否めない。
 最後に送られてきた地籍図が最も正しい字の位置を示していると思う。
 改めて西浜別所と穴虫の位置についてはっきりさせておきたい。それは別所事典の記事に対する疑問と大きな関係があるからだ。
 山崎山(307m)から西浜に三つの尾根が派生している。一番左(西)の尾根の尾根筋から左(西)は蛭口の向山で尾根筋の右(東)から真ん中の尾根の尾根筋までが小字別所であり、角川地名辞典によるとよみは”べっしょ”である。真ん中の尾根の尾根筋から右(東)から一番東の尾根の尾根筋までが小字穴虫である。そしてそれより東が海ノ谷となる。
 そしてマキノ駅の東に小字印内前があり、その中に印内があり、印内川は山裾と国道の間を西から東に流れている。
P1020892
 

山の部分は別所、建物のある所は岩ノ下である。
 複雑なのは小分け地名で、小字別所の中に別所、御墓があり、小字福本の中に別所前がある。
 奥野さんの耕作地は”べっそ”と言うそうで、福本にあるようだ。また、”みはか”と呼ばれるところは穴虫か別所にあるようだ。
 このように地名が錯綜して、理解しがたいところがあるが、別所事典の示す別所(べっそ)はもっと理解しがたいものである。つづく

【作業日誌 6/10】
草刈り隣地

 【今日のじょん】上林川の井堰工事は昨晩も嵐の中を深夜まで行われていた。豪雨のニュースが各地から寄せられるので急いでいるのだろうか、納期の都合があるのだろうか、丁度工事の方が出勤してこられたので聞いてみた。「今日中にかたづけるよう府の命令で困ってるんですよ」どうやら鮎の解禁の都合で早急に工事を終わらせないといけないらしい。府の肝いりとなると、漁協関係者が府にクレームを入れたと勘ぐらざるを得ない。河川工事だと水が濁るのは当然だし、工事の日程だって当初から決まっていたものだろうし、いまさら文句もないだろうと工事の方に同情する。慌てて事故など無いように祈るばかりである。P1030125

P1030126



井堰は完成してるのだが、土嚢や土砂の処理と付近の原状回復が大変みたい。

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別所探訪(54) 西浜別所-1 6/9

2014-06-10 | 別所探訪

2014.6.9(月)曇り

 マキノ町に別所を訪ねて旅したのは5月13日のことである。別所というより研究中の穴虫を訪ねたというのが正しい。穴虫地名のある所に別所が存在する例は多い。綾部市上杉町穴虫も山一つ向こうに舞鶴市の別所がある、与謝野町男山にも穴虫と別惣がある。いずれ一覧にして解りやすいようにしたいと思っているが、穴虫と別所が隣り合わせにあるのはいまのところこの西浜しか確認出来ていない。
 柴田弘武氏は全国別所地名事典(以下別所事典)の西浜別所のところで、「
最後に小字名でその跡を確認しておこう。西浜に、ソブ田、福本(二ヶ所)、穴虫、犬豆、樋ノ口があり、海津町に金堀、金くそ松ノ木、吹谷、寺西金屋、中山がある。」その跡とは何を示しているかといえば、産鉄そして蝦夷俘囚の移配地ということである。
 穴虫も金属に関連する地名ととらえられているようだが、それは穴が坑道を意味するように考えておられるようだ。
P1020890



穴虫考(62・2014.5.15)では藤波園の奥のこの写真部分は穴虫と伝えていたが、最新の情報で別所であることが解った。
 穴虫地名を調べていると確かに金属関連地が多い。地名研究者が、「穴虫ー穴道ー坑道」という説を提唱されたら結構受け入れられるのではないかとさえ思う。しかし穴虫地名を探求しているわたしとしては、少なくとも今現在は、穴虫は金属の製精錬の技術を持つような渡来人の使う地名で、葬制、墓制に関わるもの、という風に考えている。つまり穴=坑道というのは短絡的な見方ではないかと思う。
 湖北バイパス(R161)をマキノ町に向かって走っていると、沢の辺りだろうか別所事典に掲載されている西浜別所の写真によく似た景色が見える。あの別所はどんなところだろうかとわくわくする。
 西浜別所の位置は別所事典にも簡単な地図が載っており、事前に航空写真や地理院地形図で予測してきた。ところが事前に市役所の字配置図で確認した位置とやや違うのだ。これはどうしたことだろう。つづく

【今日のじょん】堤防が草だらけだったので散歩コースから外してたんだけど、昨日の草刈り行事が済んだので久々に歩いてみる。草の刈られた道は気持ちいいけど、棘がはびこり、完全に刈れていないのでこのままでは散歩に辛そう。P1030120    
 向こう岸もきれいになったのだ。

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別所探訪(53) 小山別所-4 8/5

2013-08-07 | 別所探訪

2013.8.5(月)曇り、雨

 小山別所が蝦夷俘囚の移配地である根拠とまでは行かなくても関連としてあげられているのが、垣内古墳の北にある西林寺の本尊が薬師如来であること、垣内古墳の前方部にある祠はかつて東光庵であったと言うことの二点である。
 とりあえず西林寺とこの祠を見てみようと、訪れる。
 向陽山西林寺は曹洞宗の寺院で、垣内古墳の西北の高台に建物が見える。近所で聞くと無住だというので訪問は次回にする。お話が聞けなかったらあまり意味が無いからだ。
 元東光庵と目される祠を探す。垣内古墳の前方部に接した草むらという情報だけなので、歩いて探すことにする。当初垣内古墳は南北にあったものと考えていたので、前方部は府道の南にあるものと思い、その辺りを歩き回る。府道から東西に走る小道までは開発が進み、店や住宅が建っている。その南は田んぼとなっており、その周辺を歩き回るが祠のようなものは無い。暑い日の日中とて人影も無く、聞くわけにもいかない。P1040968

 


府道19号線から一筋南の小道、右に見えるのが園部保育園のグランド。この付近に祠は見当たらない。

やむなく園部市街に向かう市道だろう通りを越えて、八幡神社から見ると東南部分を歩いてみる。広いグランドらしきところがあり、後で地図を見ると市立園部保育所となっていた。その北の路地を東に進み、アパートの向かいにちいさな祠を見つけた。まさかこの方向だとは思わなかったので写真におさめて神社に戻る。
P1040971

 


園部保育園北側の路地で見つけた祠、これが東光庵の跡だろうか。

 帰宅後文化博物館のパンフレットで垣内古墳の復元図を見て驚く。南北に造られていたと思っていた垣内古墳は実は東西になっていたのだ。従って前方部は八幡神社前の府道交差点中央部辺りから東に30m、南北に40mの範囲になる。
 アパートの向かいの祠が元東光庵の祠である可能性も出てきたが、そのことの確認は柴田弘武氏か吉田清氏、西林寺住職にしか出来ないように思う。
 今回の垣内古墳の訪問は八幡社に残る盃状穴に関する調査が主目的なので、別所に関する調査はここまでとしたが、柴田氏の言うところの薬師信仰、東光庵の存在が蝦夷俘囚の移配といかに関連するのか納得がいかない。つづく

【今日のじょん】今夜もじょんの吠えはつづく、深夜1時から2時の間に多い。単に虫や鳥に反応しているのでは無く、真剣な様子が伝わってくる。実際に目撃や被害も出ているので、明日から記事に書いていきたい。
P1050044

 
 
 
 


吠えた翌朝は必ず一番に嗅ぎに行く。そして遂にそこに遺留物を発見する。 

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別所探訪(52) 小山別所-3 8/4

2013-08-05 | 別所探訪

2013.8.4(日)晴れ
 丹波国国府については八木町屋賀、亀岡市三宅、千代川、保津などの候補地があり、国分寺は亀岡市千歳、国分尼寺は亀岡市河原林に比定されている。
 近年八木町東部の圃場整備による発掘調査が行われ、桂川左岸の広大な地域が調査されたようだが、八木町屋賀地域から亀岡市池尻地域にかけて大形の建物群跡などが発見され、国府の有力な候補となっているようである。
 いずれにしても桂川流域の八木町から亀岡市に至る部分が古代の丹波の中心地であることは間違いが無いようだ。さすれば、国府、国分寺などの金属にかかる建設資材や用具の調達場所としての別所という意味も出てくるかなと思わせるのである。
P1040431



桂川に沿って南下すると、八木町船枝を過ぎた辺りから広大な平野が広がる。山間地の丹波には珍しい光景だ。この地こそ古代丹波の中心地であるという実感が湧く。

 ただ大津富士見台の別所や姫路市における別所などと比べると距離的に難点があるかなという想いはする。
 圃場整備に伴う発掘調査で室橋の北部で鉱滓や金属加工の工房跡が発見されたとある。(埋蔵文化財セミナー 「発掘された南丹波地域の歴史」)この地域が別所なら、明らかに金属資材、用具工房の別所と言えるのだが、そのような地名は見当たらない。
 結局小山別所は吉田清氏の主張される往生院としての別所、あるいは葬地、墓所としての別所という意味があるのではないかと思うのである。
 葬地、墓地としての別所について柴田氏は以下のように書いておられる。

 
「前文略 即ち私は平安初期の俘囚の移配地としての 別所があり、そこに平安中期頃から聖が拠るようになって、聖の隠棲地=別所という観念が生じた。またこの頃から寺院の別院という意味での別所という呼称も生まれてきたことも認められる。更に鎌倉期以降になると、その中には墓地と同義と考えられるような別所も生じてきたと考えるのである。」(鉄と俘囚の古代史)
 

 墓所、寺院の別院としての別所は認めておられるのだが、俘囚の移配が行われた地というのが前提になっている。この考えは無理があるように感じる、少なくとも小山別所は元々墓地であろう事は確かだが、蝦夷の俘囚が移配されたという証拠は何一つ無いのである。つづく

【今日のじょん】ここ三四日深夜にじょんが吠え続ける。センサライトが点灯するので何かが侵入しているのは確かだが、不明であった。
 ところが夕べ窓から見ているとセンサライトが点灯し、茶色の動物を発見、じょんよりは小さいが、腰高で、尻尾は細くて長い、顔は不明である。イタチ、テン、アライグマではなく、キツネでも無い。
 朝になってじょんが嗅ぐので庭を探索していると、スイカの食べさしが落ちている。近所で捨てられたものを持ってきたようだ。P1050046
P1050047



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別所探訪(51) 小山別所-2 8/3

2013-08-05 | 別所探訪

2013.8.3(土)曇り

垣内古墳(かいちこふん・南丹市園部町内林町)は全長84mの築造は4世紀頃といわれる前方後円墳でこの地方では最大のものと考えられる。道路や宅地の開発で元の形は見る影も無いが、発掘時には既に円丘部は神社の境内となっていたようで、早くから古墳の形は壊れていたようだ。ところが1972年の同志社大等の発掘調査では、銅鏡、玉、武具、馬具など多くの副葬品を出土し、南丹市立文化博物館で一部を見学することが出来る。
P1040862



南丹市立文化博物館は園部城跡の隣にあり、垣内古墳他周辺の古墳の出土物も多数展示されている。

 この発掘の一つの契機となったのが、この垣内古墳の墳丘から多量の鉱滓が発見されたことのようだ。この鉱滓はいわゆる椀形滓といわれるもので、報告書ではV,Ti量が少なく、製錬滓ではなく鍛冶滓ということだ。この他に0,5~2cmの豆粒状の鉱滓もあり、フイゴ羽口なども出土しており、鍛冶遺構と目されている。根拠は不明だが、角川日本地名事典では12世紀頃の製鉄遺跡と書かれ、柴田氏の別所=鉄製産地の論拠となっている。
 この鉱滓等の出土物は文化博物館に保管されているものだが、向学のために是非見せていただきたいと願い出ているものである。
 垣内古墳の鍛冶遺構が別所正釈寺と関連するか否か判断できるものは何も無いが、その遺構で鍛冶が行われていたことは事実だし、それ以外の弥生遺跡などからの鉄製品の出土を見る限り、この地に古代製鉄の足跡は感じられるのである。
P1040878P1040864



内林町垣内古墳は八幡社境内に石碑と案内文を残すのみで、古墳の面影は何も無い。
 



  わたしの想像ではこの地の古代の製鉄は、進出してきた海人族による原始的な製鉄であろうと思う。律令時代になると、牧を支配する豪族によって調として鉄製品を朝廷に拠出していたのではないだろうか。その時代になると効率的な鉄素材が入るようになり、桂川、園部川の川運は原料の搬入、製品の搬出に大きく貢献したのだろう。鉄の製錬、精錬が牧と関係しているのは他国の例でも見られることであるし、少し上流の胡麻牧(南丹市日吉町)は官牧として著名であり、製鉄との関連は濃厚であると考えている。近世の鋳物師勝田家の存在も決して無縁では無かろうと思う。つづく

【今日のじょん】心配だぜ、マーブルお兄
マーブルの具合が悪いそうで病院に行くところ。なんでも貧血が激しいとのこと、ずっと元気印で来ただけに心配だぜ。P1050040

 
 

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別所探訪(50) 小山別所-1 8/2

2013-08-03 | 別所探訪

2013.8.2(金)曇り 別所探訪(49)は2013.2.13

 昨夏は菟原中の別所を巡って様々の発見をした。そして舞台は高杉、友渕に移ろうとして中座してしまった。ドッグランの建設に目処が付くまで歴史探訪の活動を中止したからだ。もちろん本を読んだり、近隣での探訪は続けているが、遠く一日をかけての探訪は出来なくなった。その一方で南丹市の南丹病院に歯科治療に通うこととなり、折角燃料と時間を費やして通うのだから八木町や園部町の探訪を続けている。とりあえず通院途上にある京都帝釈天(八木町船枝)を訪れ、参道石灯籠に盃状穴を発見する。その後いくつかの神社仏閣を巡り、八木町鳥羽の八幡神社や園部町内林町の八幡神社に盃状穴を発見する。そして八木町美里の西光寺に飯盛山を発見し大忙しとなる。この地方の当初の目的は園部町の小山別所だったのだが、ついつい後回しになって、歯の治療も終わる頃になってようやく訪れることとなった。
 小山別所という地名は無く、花園大学の吉田清氏の論文「廃寺園部善願寺考」の中に善願寺の末寺小山別所正釈寺なる寺院が出てくるのである。(別所地名事典)
位置関係は、園部川と曽我谷の間の山々、丁度京都縦貫道が走っている山が善願寺山といわれるそうで、その中に廃寺善願寺がかつて存在したそうだ。この園部川左岸には中世の墓が続いており、その中で吉田氏らが経塚を発見された。この経塚は南丹市文化博物館に展示されており、見ることが可能である。この向河原遺跡が小山別所正釈寺ではというものだ。
  P1040962

 


園部駅前の通りを直進して、園部川を渡ると向河原となる。別所正釈寺跡はこの奥かと思うのだが、見当も付かない。

 
 吉田氏は元々園部町木崎の教泉寺住職をされていたそうで、お話を聞きたいと思ったのだが既に職を辞されていた。
 京都縦貫道の工事によりこれらの遺跡や元の地形は破壊されており、どこに何があったか見る影も無いのだ。
 
  ただ陣田川が園部川に合流する手前の橋は正尺橋といい、三角州の部分は正尺という。この地名は正釈寺に関連するものでは無いだろうか。
P1040963



向河原方面から正尺橋を越えると正尺となる。

 このように小山別所正釈寺がこの付近に存在していたことは確かなようだが、柴田弘武氏が言うところの、古代産鉄の地、蝦夷俘囚の移配地という証拠なり様相は見えてこない。
 氏は産鉄の地の要素を垣内古墳に、俘囚の要素を垣内古墳脇の東光庵に求めている。つづく

【今日のじょん】これは数日前の写真だが、散歩中になにか棒状のものがスッと消えたのである。写真ではよく解らないが、蛇の穴のようだ。それにしても素早いなあと思うが、蛇穴と書いてサラギと読むのをご存じだろうか。橿原市や御所市にある地名だが、難解地名として柳田国男はじめお歴々が論文に書いておられる地名である。ヘビの穴と関係があるものやら無いものやら、、、面白いワン。P1050021



蛇穴は石垣では無く、道路上、枯れ草のところ。

コメント
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