晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

日置のこと(16) 8/30 

2013-08-31 | 上林地名考

2013.8.30(金)曇り、雨 暗中模索-1

 日置という地名は、地形地名ではないようだ。なんでも地形、しかも崩壊地形にしてしまう楠原佑介編古代地名語源辞典でさえも、品部である日置部に由来する地名かとある。
 上林には日置、弓削、草壁(日下部)のように部民に由来するだろう地名がある。ところが一体どのような人物が何をしていたのかというと、何もわからない。大体部民制って何なのかよくわかっていない自分に気づく。まずそこから学んでいかなければ始まらないなと感じている。
P1010036

 


氏は日下(くさか)という姓も日置に関わりありと言っておられる。(?)
草壁は一番向こうに見える集落。


日置については日置部、日置氏に所以のある地だとは考えられるが、では実際にその地で何が行われていたか、人々はどうして暮らしていたかなどとなると明確に答えられる人は誰も居ないと思う。
 日置部の職能はなにかというと、これまた諸説があるわけだが、暦法、卜占とする説が一般的なようで、そのための天体観測、測量といった具体的な作業が予想される。
 上林の日置を解明しようと思ったら、ここで天体観測などが行われていただろう証拠を探し出さなければならない。しかしこれは相当どころか絶対に不可能なことである。観測や測量などという行為は物を残さない、遺物が発見できるという正確のものではないのだ。当然証拠と言っても情況証拠になるわけだ。
 岩田朱美女史が飯盛山は測量の基準点だという説を掲げて全国を回っておられる。しかし飯盛山を基点に何千という二等辺三角形を描かれてもその証拠にはならない。その三角形、あるいはその三角形が作る円を使って、日本地図を作られて初めて直接ではないけれど証拠が現れたと言うことだろう。女史に問うと、「作ります、ライフワークです」とおっしゃっていた。なんと胸躍る人生だろう。
P1060814

 


八木町日置から飯盛山を望む。春分秋分の落陽はこの山に沈む。

  日置で太陽観測をして暦を作り上げたら一つの情況証拠になるかも知れない。日置の解明こそがライフワークだというならそれもできよう。しかしそんな情況ではないし、今それをやってみようという気は無い。
 とにかく暗中模索の状態なのだが、とりあえず近隣5ヶ所の日置を巡って、その共通点を洗い出そうとしている。
 毎日地図と地名事典を眺めていると、一つの共通点が出てきた。つづく

【作業日誌 8/30】
薪拾い
山内に伐採された雑木があるというので了解を得ていただくこととなった。薪といっても大きいのは50cm近いのもあって大変だ。休みの日だけの作業で10月いっぱいぐらいはかかりそうだ。
P1010033P1010034
P1010029


 

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日置のこと(15) 8/29

2013-08-30 | 上林地名考

2013.8.29(木)晴れ 「西丹波秘境の旅」-9
 「丹波文庫」に連載の斉藤氏の「青い花」は創作となっている。一般的に創作となっている作品を参考文献とするのは考えられないことである。創作とは作り話と言うことだからである。
 しかし、「青い花」の場合、話の展開の場面は創作であるが、地名考証や歴史民俗研究の部分は決して創作されたものでは無く、膨大な資料に基づく練り上げられた仮説と考えられる。従って澤先生が「青い花」を参考文献として採用されることはなんら問題はないのだが、その説の一部を無批判に、自らが検証することなく文中に使われていることである。「青い花」の文中には澤先生も登場し、両人は気心の知れた懇意の仲なのかも知れない。もしそうであっても読者には無関係なことである。
 なぜここまで「西丹波秘境の旅」に批判を加えるかというと、本書が上林の日置について書かれているおそらく唯一の単行本だからである。
 もしこの本が信頼あるものだとしたら、次の文をもってわたしの日置に対する研究は終了する。
「なお、上林川の中流にある日置谷という集落は、日の吉凶を占う祭祀者にかかわりのある集落である。冬至のころ、太陽が日置谷の東南の長老ヶ岳からさし昇って、弥仙山を赫々と照らすその通過線上にあるのは間違いないことである。古代、日置谷の重要性を考えないわけにはいかない。いま日置谷には、古代太陽観測信仰の人々の子孫はいないのであろうか。一度その小字名や苗字を調査したいものである。」

 この本に信頼が置けないから調査探訪を続けるということではないけれども、日置という地名は実に謎の多い地名だ。様々な文献に日置だの日置氏だの出てくるのだけれど、果たしてどのような地であったのか、どのような氏族であったのかよく見えてこない。というより証拠が得られないのだ。例えば鉄の生産に関する地であったり氏族であったりすると、製鉄遺跡が発見されたりするので、一応の証拠となるが、太陽の観測、祭祀などと言っても物的な証拠はもちろん、情況証拠も見つけにくい。とりあえず周囲にあるいくつかの日置から、共通点を探し出してみようと思う。P1010038


 



 
京都地名研究会会報「地名探究」第三号に澤氏の追悼文を見つける。


澤潔氏は2005年1月に亡くなられている。93才で亡くなられたということだから、「西丹波秘境の旅」が出版されたときは83才のご高齢である。つまり「北山を歩く」などでは豊富なフィールドワークで斬新な地名解を書いておられたのが、山に登ることもままならず、各地を丹念に訪問することも難くなったのだろう。にもかかわらず随分失礼なことを書いてしまった。「西丹波秘境の旅」は澤先生の最後の出版物と思われ、先生にすればどうしても書いておかなければいけないことがあったのではないだろうか。それが何かは本を読まれたら見つかることとして、わたしが何かと難癖を付けた部分は枝葉末節の部分だろう。なんとも赤面の思いである。
この項終わり

【作業日誌 8/29】
ネギ、ラッキョウ植え付け

【今日のじょん】猫だけでなく犬も涼しいところをうまく探す。階段の下が最も涼しいようでいつもここで寝ている。天窓を開けているので冷気が下りてくるのだろうか。もっともカイダンは涼しいものであるが、、、
 写真は昼間のものだが、夜は恐怖である。真っ暗だから踏んづけてしまいそうになる。これの方が涼しいカモネ。P1010025

 
 

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日置のこと(14) 8/28

2013-08-30 | 上林地名考

2013.8.28(水)晴れ 「西丹波秘境の旅」-8

 「丹波文庫」第15号の中に「創作 青い花 第三章 表口の沈黙(其弐)」という文がある。その中に頭巾山や許波伎神社、日置や土、興などが登場する。実は澤先生この創作文にぞっこんの信頼を置かれているようである。
 例えば「「丹波文庫」(15号)に、若狭から丹波へ移った許波伎神社が尼来峠にあり、同社のまたの名を云々」(P117)と言う文章がある。このまま読むと尼来峠に許波伎神社があるということになるが、実際には存在しない。許波伎神社があるのは頭巾山である。
 「青い花」をよく読むと、伴信友(江戸時代の国学者、小浜の生まれで「若狭旧事考」は著書の一つ)が書いている許波伎神社について、「寛文の図にあまぎ峠とあるあたりに山の神なりとて権現という小社ありこれぞこの許波伎神社なるべき云々」という風に書かれているとある。つまり古文書に尼来峠に許波伎神社がかつて存在したとあるのをあたかも現在も存在するかのごとき表現をされているのである。これは澤先生特有の言葉足らずの表現なのかも知れないが、読者に誤解を与える事には違いない。
 弥仙山の於成平を観測点として、春分秋分の日に尼来峠から日が昇るとか、夏至の日の太陽が興の阿比知神社に沈むとかいう無理のある文章の根底には、「青い花」に書かれた、許波伎神社=トキ権現=日の出、興(おき)=日置という仮説が存在するためであろう。
 「青い花」の作者斉藤喜一氏はそのようなことは一言も書いておられない。前述の仮説を書いておられるだけである。つまり、澤先生は斉藤氏の仮説を信頼するあまりに、その地を自らの想像する太陽の軌跡に使用されたものではないだろうか。
P1010027

 


丹波文庫14号も借りてきた。

  ここで断っておくが、斉藤氏は某サイトを主宰され、その中で丹後を中心とした丹波、若狭なども含む地域の地名考証や歴史民俗調査をされており、その資料たるや膨大なもので、氏の努力や真摯な態度には頭の下がる思いである。
 柔軟かつ大胆な発想で次々と出される仮説には従来のいわゆる学者からは得られないものがあり、歴史の真実により近いのではないかと思っている。
つづく

【作業日誌 8/28】
ドッグランど草刈り
ネギ類植え込み準備
P1010020



あや新さんが取材にくるってんで慌てて草刈りをする。
【今日のじょん】イルマン棒
先日紹介の「米粉とお魚のガム」は実は肉類と小麦粉を使わない低アレルギー食品で、おやつの食べられなかったじょんにも食べられるものなのだ。本犬も喜んでおり、我が家ではイルマン棒と呼んでいる。P1010017

 

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日置のこと(13) 8/27

2013-08-28 | 上林地名考

2013.8.27(火)晴れ 「西丹波秘境の旅」-7

 「夏至の太陽の移りゆく真下あたりに、天火明命を祀る石原の興に鎮座する阿比知神社があるのは、不思議この上もないことで、偶然の一致にしてはできすぎているのである。やはり、そのような位置をあらかじめ計測して、そこに阿比知神社を奉斎したものであろうか。そうすると「アヒチ」(夏至の太陽が会うところ)の意味が、語呂合わせかも知れないが、わかってくるような気がしないでもない。「丹波文庫」に「興」とは「日置」の略語であるというが、まさに鋭い指摘である。」(P119)と澤氏は書いている。
 弥仙山上を通る夏至の太陽は石原の興には落ちない。冬至の太陽ならまだその方向で考えられないこともないが、そういう意味で上記の文は破綻している。著者も言っておられるとおりアヒチが太陽が会うところというのも、語呂合わせだろうと言う気がする。
 さて、なんで阿比知神社や興(おき)、土(つち)と言ったところが出てくるのだろうと思ったところ、文中に於ける「丹波文庫」なのである。
P1010002



土(つち)は長田野工業団地から由良川までの大きな地域だが、小字の土は南端の住宅地である。

参考文献を見ると著名な文献に混じって、「丹波文庫(15号)」というのがある。今まで聞いたことのない文献だなと思い、府内の図書目録で検索してみる。予想外に蔵書として在るのだが、各巻そろっているのは綾部図書館なのである。これは驚きだ、かつて読みたい本が綾部図書館にあったのは一度だけで、ほとんどは取り寄せてもらって読んでいるわけだ。P1010024

 



  それもそのはず、「丹波文庫」は綾部市西町に拠点を置く丹波文庫社から出版されている、文芸同人誌なのである。第15号は1993年10月に出版されており、今から20年前、綾部がいかに文化の面で進んでいたかを思わせる書物なのである。
 福高で教鞭を執られていた芦田完先生や鳥垣で「かやの里」を経営しておられた林典雄さん、藤原病院の先代の院長先生など著名な方々が筆を執っておられるかと思えば、地域の方々の短歌や俳句、子供達の童話や作文などを募って賞を設け、披露されている。同人の方々はもちろん、一般の誰でもが参加し、切磋琢磨できる場としてこれほど優れたものはないだろう。文化は庶民のものであるというわたしの思いにぴったりの文芸誌なのだが、それが既に過去のものであることが悲しい。つづく

【今日のじょん】今日はシャンプー日。同時に水回りや部屋の掃除も念入りにするので大変。大半はじょんの毛の始末とカビ落としの作業となる。
シャンプーの前に体重測定をするのだが、おとーが抱き上げて体重計に乗るのがなぜか好きで、体重計を用意するだけで喜んで寄ってくる。18,6Kg、合格。P1010011


 
 

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日置のこと(12) 8/26

2013-08-27 | 上林地名考

2013.8.26(月)曇り  「西丹波秘境の旅」ー6 
                 日置のこと(11)は2013.8.23

 於成平とは一体何処にあるのだろう。ヒントは釜師なる方の言、「於成社の上方」と言うだけである。
 澤氏の予想される於成平に於ける太陽の軌跡は次の通りである。
冬至:長老ヶ岳あたりからさし昇り、於成平の頭上南方を通って西方に没する。

春分、秋分:於成平の真東の尼来峠から顔を出し、於与岐の村々を通って西方に移っていく。
Img_1800



弥仙山山頂から西方を望む。天気悪し。(2010.11.23)

夏至:佐分利峠の東北若丹国境の三国峠から姿を現し、於成平の真上を照らして西南の方向に移動していく。夏至の太陽の移りゆく真下あたりに石原の阿比知神社がある。
P1010003


 

福知山市興の阿比知神社、阿昆地神社というのが正当のようだ。

 できるだけ原文に近い表現にしたのだが、氏は太陽の軌跡について勘違いされているのではないかと思われる。
冬至の日の出は長老ヶ岳よりも北、中津灰山あたりだし、日没は西南の方向である。
夏至の佐分利峠の東北三国峠というのは訳がわからない。若丹国境というなら三国岳だけかもしれないが、その西南の峠は胡麻峠である。そして日が昇るのは三国岳よりも南の永谷坂峠の向こうの若狭の山だろう。また日没は舞鶴の千石山方面で石原とは逆方向である。(※日の出、日の入りの場所は方向を示すだけで、現実にそのようになるものではない)
 単純な春分、秋分については真東が尼来峠とすると、於成平は弥仙山から1Km以上北の山中になる。つまり表紙裏に記された地図は尼来峠の位置が南に偏りすぎて居るようだ。
 澤氏の書かれた弥仙山に於ける太陽の軌跡について、正解なのは「春分、秋分に於与岐の村々を通って西方に移ってゆく」だけでは無かろうか。
 太陽の軌跡について勘違いされているというのは別として、尼来峠、阿比知神社などというポイントが出てくる理由が判明した。つづく

【今日のじょん】カメラが直ってきたので福知山に取りに行く。レンズ部分をごっそり替えて9,975円。ところが5年間保証に加入していたので無料となる。家電の5年間保証は付けたものは壊れず、付けなかったら壊れるという悪循環となっていたが、初めて役に立った。
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お試しでばんばん撮ってきた。イルマンさんによってじょんのお土産を買ってくる。P1010001
P1010016


 


 

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森浩一さん逝く、8月6日   8/25

2013-08-26 | 日記・エッセイ・コラム

2013.8.25(日)雨

 8月6日にわたしの最も尊敬する同志社大名誉教授の考古学者森浩一さんが85才の生涯を終わられた。ひょんな事から調べ始めた園部町内林町の垣内古墳の発掘にも携わっておられたと聞いてかすかなご縁を感じたりしている。ここから出土した石製品、銅鏡などは南丹市立文化博物館で見ることが出来るが、発掘の発端となった12世紀の鉄滓を是非この目で見てみたいと思っていたところ、なんとか見せていただける事になった。
 考古や歴史民俗に興味を持ち始めて3年あまり、蔵書は200冊に満たないものと思うが、よく見ると森浩一先生のものが一番多いことに気づく。まだ読んでいないものもあるが一応6冊ある。日本海文化に関する書物があるからだろう。日本海こそ文化の流入口であったし、わたしの住む上林は沿岸にたどり着き定住した渡来人が第一歩を踏み出した地の一つだと思うからである。
P1060839

 


右の6冊が森浩一先生の著書

森先生は自らを「町人学者」と称しておられた。権威主義的な学会や学者を否定し、あらゆる賞や表彰を辞退されていた。唯一南方熊楠賞は熊楠が典型的な町人学者であるとの理由で受賞したという。
 森先生の口癖は「考古学は地域に勇気を与える」だったそうだ。
先生の亡くなられた2日後に滋賀県文化財保護協会が高島の上御殿遺跡から弥生期の遊牧民の銅剣の鋳型が発見されたと発表した。日本初の発見で、この地域に青銅器、特に遊牧民の影響のある鋳型が見つかるのはセンセーショナルなことである。森先生の「騎馬民族説への試論」というのを書かれていたが、もっと早い時期に中国北部の直接の影響というのが近江の地にあるとしたら、「騎馬民族説」ももっと前進するのではないだろうか。今、滋賀県の考古学者や研究者はもとよりアマチュアの郷土史家も沸きに沸いていると思う。これこそが森先生の「地域に勇気を与える」と言うことだろう、何と素晴らしい発想だろうか。
 新聞紙上に現れた森先生に対する記事を紹介して先生を偲びたい。

「若い頃から陵墓公開問題や遺跡の保存運動にかかわり、地域から歴史を見直す必要性を強調。」

「「官僚学者が横行するようになった」と学界の現状に苦言を呈するなど、終生、考古学を愛し続けた、反骨の学者だった。」

「一方、「出た場所も状況もわからない遺物は、極端にいえば骨董的価値しかない」と、遺物にとらわれすぎる研究には批判的だった。」

「予断を排して研究対象とするため仁徳天皇陵(堺市)を「大山(だいせん)」古墳」とするなど、地名を冠した古墳名へと呼び替えることを提唱、後に考古学界の標準となった。」

「調査で全都道府県に足を運んだ経験から、「地域史を統合したときに本当の日本歴史が語られる」と関東学、東海学などの「地域学」を提唱した。」

「考古学の研究成果をわかりやすく、興味深く市民に伝える「平成の語り部」の役割を終生果たした業績は大きい」 以上読売新聞記事より。
P1010006



森先生を偲ぶ記事が連日書かれ、「編集手帳」にも現れた。


【今日のじょん】追悼マーブル写真集

 その後マーブルのドア蹴破り事件(マーブルが喜んで飛んできて、サッシのガラス戸が破れてしまった)があったりしてプロレスごっこをしに行かなくなった。そのためかマーブルが運動不足になったのか太りだし、マックスでは35Kgになったとか、2011年7月の写真は見てのとおりじょんの倍近い体格となった。
Img_3309
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じょんのびアラカルト’13.8 8/24

2013-08-25 | 日記・エッセイ・コラム

2013.8.23(土)雨

1. イベント情報 

(1)2013里山サイクリングin綾部
 日程:2013年9月22日(日)
 会場:二王公園(綾部市睦寄町)
 コース:水源の里周遊コース(老富町~古屋~市志を巡る60Km)
      水源の里市志コース(市志を巡る25Km)
      ※参加申し込みは締め切られています。

Dscn2339



(2) 一瀬肇 山の写真展 大江山賛歌・回想の山々
   会期:2013年9月22日(日)~24日(火)
   会場:舞鶴市市政記念館「赤れんが2号棟」(舞鶴市役所横・駐車無料)
   時間:9:00~18:00(最終日は17:00まで)
  入場料:無料
  ※一瀬さまはじょんのびのお客様で、写真歴60年、これが大江山か?というほど素晴らしい写真があります。案内はがき、じょんのびにあります。

Dscn2341




2.じょんのび ドッグランど完成!!
 ペット連れの方も気軽に来じょんいただけるよう五年がかりのドッグランど(Dog Land)がようやく完成しました。
 すでにタウンタウン誌等で掲載されましたが、シーズンに向けてあやべ市民新聞やほのほのDog誌で宣伝広報予定です。
完成といってもまだまだ整備は続き、デッキの手すりや木陰ベンチ、ケンネル、道具入れ、アジリティ、足洗い場、全面芝生などなど整備していきます。
まだまだ暑い日が続きそうですが、涼風が吹くようになったらワンちゃん連れでおいでやすコチャン。

P1040978



デッキの下に網を張ってとりあえずの完成。

3.じょんのび夏の風物詩
 じょんのびの夏と言えば、キヌガサダケとタマムシだ。
 タマムシは既にお知らせの通り、ポストの台木からわんさか羽化した。現在卵を産んで寿命を終える時期なんだが、何となく以前より数が少ないように思える。積んである薪の中に卵を産み付けるのだろうが、その中で2年以上を過ごすという。
 羽化するまでに薪として燃やしているのではと不安になる。いずれにしてもじょんのびのご神木の榎の大木が彼らの命をはぐくんでいるのだろう。先日舞鶴の国松さんが園児に見せたら大騒ぎになったと連絡いただいた。舞鶴辺りでも珍しくなったのだろうか。
P1040739P1040740


 


この木から旅立ち、飛び立とうとしているタマムシ、成虫としては2ヶ月の命とか。

期待のキヌガサダケは今夏は2本だけとなった。2009年の夏以来記録をとり続け、例年20本前後発生していたのだが、昨年辺りから数が減り始め、遂に2本となってしまった。竹を切り払っているせいか、地面を造成した際に多くて時間とともに少なくなったのか、いずれにしてもグラバ(胞子を含む粘液状のもの)を水に溶かして撒いたのは何だったのか。P1050027




今夏はこの二本のみ

4.この夏の失敗
この夏の失敗は、トウモロコシと梅干しである。
トウモロコシはカラスの害が激しいので栽培を止めていたのだが、桜井さんに苗を頂いたので、徹底的にネットを張って栽培することにした。水糸のネットは大成功で、他の野菜もカラスにやられることは無かった。しかも実がなってからは個別に防鳥ネットを張り万全を期した。それなのにだ、収穫したら数個しか実が着いてなくてがっかりする。
 反省点は、沢山の株を植えなかったこと、人工授粉をしなかったことだ。もともと10本ほどを植え付けたのだが、枯れたり風で倒れたりで最終4本になってしまった。それはそれで手で受粉してやれば良かったのだが、しなかった。トウモロコシは風媒花で穂のようなおしべから出る花粉を鞘から出たヒゲ1本1本が受粉するわけだ。従って多くの株を列に植え付けるのだが、数が少なければ人工授粉しなければならない。やっと鳥害から逃れたらこれだから参っちゃう。Dscn2350

 



頭来るから早く片付けたいのだが、、、。
 

 梅干しはもっと酷い。今年の梅は豊作でいつもより沢山獲れた。一瓶でいいかと思ったのを二瓶漬けた。そのうちの一つにちょこっと白いカビが出たので、その部分を捨てて様子を見ていた。またしてもカビが出てきたので、梅酢に浸かるところまで捨てて、置いておいた。その間にもう一つの方を土用干ししたりしていたのだが、そちらはうまくいった。この間強烈な暑さがあって、怖くて見なかったのだが、勇気を出して見たら、表面真っ白。それでも活かす方法があるようだが、もうどうこうしようという気は起きない。三回目の漬け込みで初めて味わった屈辱感である。
 反省点は、少し梅が若かったこと、壺は空気が入りやすくかびやすいこと、梅酢をあげるために重しをすること、シソは確実に消毒して使用することぐらいだろう。
 消毒用の焼酎を手持ちの25度でやったのも原因かもしれない。それにしてもよくぞ二瓶作っていたことか。しかしかびた方は立派な粒の方なので悔しい。
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二ヶ月の間のカビの成長、その都度除去してこれだからツライ。

【今日のじょん】八月に入ってやっと本格的に雨が降った。やれ嬉しやと思うのだがじょんは雨きらい。Dscn2344Dscn2345






  
 

  

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日置のこと(11) 高浜町日置 8/23

2013-08-24 | 上林地名考

2013.8.23(金)曇り、雨 高浜町日置訪問

 夏のレクリエーションで例年高浜を訪れている。一昨年までは三松海岸、昨年は難波江(なばえ)、今年は城山公園に向かった。
 目的はじょんの散歩なので、城山公園の広い芝生や明鏡洞(めいきょうどう)の湾の美しさにみんな大満足。滋賀県からというミックスの小太郎君とも遊べてじょんは大喜び、お弁当食べて帰路につく。
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 還りは舞鶴を経由する予定だったので、日置と日置神社に寄って帰ることにする。
国道27号線から三松駅の手前を山側に入る。すぐに左手に鳥居が見える。車を置いて登って行くと、それは日枝神社であった。そういえば難波江に行ったときも日枝神社があったなあと思い出す。
Dscn2326

 


日枝神社は高浜に3社あり(難波江、東三松、山中)ちと気になるところである。

 再度西に車を走らすと、すぐに左手にちいさな祠が見える。坂を登って行くと左に鳥居があり、本殿と摂社が2社ある。何処にも何も書いてないので解らないのだが、日置神社には間違いなさそうだ。
Dscn2330
参道入り口の摂社、祭神不明だが弓矢の飾り物は何を表すのだろう。

Dscn2327


本殿、摂社、鳥居とも何も書かれていない。 

Dscn2331


参道を下りてくると青葉山が目に付く。
 



帰宅後調べたところ、主祭神は應神天皇、聖武天皇の時代には三松との境付近に鎮座、永享年中(1429~41年)に日引邑(現高浜町日引か)に遷り、宝徳元年(1449年)に神託があり、現在地に遷されたという。
 太陽観測や祭祀に関係があるとすれば創建当時のことだろうから、現在地はそれらに無縁だろう。現在地は山の麓の谷間にあり、木々が無かったとしても北面以外の展望もきかず、観測には不向きな地形である。ただ青葉山の偉容が正面やや左に展望できる。参道入り口の摂社には竹で作った弓矢と思われるものが飾られている。海人族の祭祀を受け継ぐものだろうか。
 市道を更に西に行くと日置川に出合い、日置神社から連なる山稜に伝説の牧山が見える。その山稜の先には日置川のツメである、日置峠(宝尾峠)がある。
 更に西に進むと、大成寺の立派な山門が見えてくる。
Dscn2336

 


右手が日置川、牧山の山稜を右方向に辿ると日置峠となる。(写真では見えない)
 

 大成寺(だいじょうじ)は観応2年(1351年)創建の臨済宗建仁寺派の寺院である。元は日引の瑞泉寺というから、日置神社共々よくよく日引と縁があるようだ。
弥仙山於成社のナルが太陽を意味するという説があり、大成寺も関連あるかなと思いきや、応永元年(1394年)の移転に貢献した小浜藩主大高重成の大と成をとって大成寺としたそうで、太陽祭祀には無縁である。
 それよりも、日置のすぐ近くに難波江があり、宮津の日置の隣に難波野があるのが大変気になる地名である。つづく
P1020538



難波江から大島を望む。(2012.8)

【今日のじょん】本文に登場のためお休み。
 
 
 

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日置のこと(10) 8/22

2013-08-24 | 上林地名考

2013.8.22(木)晴れ 「西丹波秘境の旅」-5 

 本書の表紙の裏に「綾部(上林)・三和要図」として地図が載っており、若丹国境の尼来峠から君尾山の南を通り、弥仙山のすぐ南を通過する線が引かれ、(於成平?)と線上に書かれている。頭巾山(ときんさん 871m)のトキが日の出を表し、於成平のナルが太陽を表すと着眼されているのは達観だと思う。
 於成平については、前述の釜師なる方からの教示であって、於与岐の人々も於与岐八幡の宮司さんをしても存在が分からないという場所なのだが、何ページも費やして太陽計測信仰に恰好の見晴らし台と考えてよいと結論づけておられる。(P117)
 文脈を精査すると、釜師さんなる方は於成平の位置を於成社の上方と言っておられ、その位置を知っておられるようだ。多分平成5年の於与岐訪問の際に於成平の存在を聞かされて大喜びされている。「これだ、これだと。苦労して探しあてた甲斐があったというものである。」(P112)
 こういう気持ちは地名の研究をするものにとって本当によくわかる。自分が予想していた地名や遺物が出てきたときほど嬉しいものは無い。澤氏はその後津守派海人や久米島のウティダ石など様々な話を登場させて於成平の重要性を説くのである。
 ところが現実には氏は弥仙山に登られた様子もないし、於成社まで行かれた様子も無い、そして釜師なる人物に聞けばわかるはずの於成平の位置さえも確認されず、例の(於成平?)という地図が出来上がるのだ。健康上の理由、時間的な事由があるのかもしれないが、研究者としては実に杜撰な態度だと思えるのだ。
 「京都北山を歩く、全三巻」で自分の足で歩き、見聞きして素晴らしい文章を書いておられる澤氏がここに来て、フィールドワークの伴わない稚拙な調査に終わっておられることが残念でならない。
 於成平の位置が不明な以上、現地に行って調べてみたいが、釜師さんなる方もご存命ではないだろう。角川日本地名大辞典に於与岐町の小字として、ナル坂、上ナル、下ナル、ヲナルの4個所があげられている。調べればわかることだが、ヲナルと言うところが弥仙山中で気になる。ただ、予想では於成社のあるところかもしれない。
Img_1798



於成社は北向きの山間にあり、太陽を礼拝するという様な場所では無い。

 さて本日、住宅地図で於与岐の付近を見てきたのだが、将に弥仙山の登り口の下に2軒の鍋師さん宅が描かれてあった。釜師さんというのはどうも怪しいと思う。
つづく

【作業日誌 8/22】
夏野菜片付け、ブロッコリー植え付け準備

【今日のじょん】追悼マーブル写真集
じょんのびに来ても大暴れ、マーブルの家でもプロレスごっこ。どちらも胸肉ジャーキーがでー好き。
Img_1640Img_1638



体型も柄も似てないけど、この顔はじょんとよく似ている。(2008.12.2)
Img_2215Img_2222



プロレスごっこの後は並んでジャーキーをもらう。(2009.4.5)
 


 

 

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日置のこと(9) 8/21

2013-08-23 | 上林地名考

2013.8.21(水)快晴 「西丹波秘境の旅」-4

 この節は次の文から始まる。
綾部市の聖地、上林の於与岐の東北、丹波・丹後の国境に弥仙山(674メートル)がある。」(P106)
 地元の方や丹波の山に登られる方ならすぐに気づかれるだろう。
 於与岐は上林ではなく、弥仙山は664mである。
山の高さは誤植の可能性もあるが、於与岐が上林にあるというのは、他のいくつかの文中から、氏がそう考えておられたということがわかる。
まこと上林の人々はいまでも弥仙山などの神を囃し弥山の神と共成しているのだろうか。」(P120)
丹波の弥仙山のように、上林の山中、若狭との境に屹立して近寄りがたい、云々」(P121)
 確かに上林において弥仙山の信仰は深かったようだし、上林の山中といっても良さそうな気はするが、地理的には完全な間違いである。ここまではっきりと書かれると、過去には於与岐も上林の一部であったのかと不安になり、地名事典などで確認する。もちろん於与岐と上林は別物である。
 これらの誤りは一見些細なミスと言えるのかもしれないが、本書が地名に関する研究書という側面を持つものである以上看過できないことと思われる。
 
 
 
 

 さて次には澤氏が平成五年、於与岐の地に来られたときのことである。
「(前文略)大又集落の、道路脇に釜師という珍しい姓のご主人に刺を通じる。」
(P110)
Img_1789




大又を右にとると弥仙山登山道入り口に着く、登山道の道標や地蔵さまは割合新しそうだ。

 この方は於成社(おなるしゃ)に詳しい方であり、いろいろ聞き取りをされており、翌年に釜師さんから年賀状をいただいたとも書いてある。
この部分何気なく読んでいたのだが、後日鍋師(なべし)さんという方と知り合うこととなり、於与岐の出身だと聞いて、澤氏の言う釜師さんは鍋師さんの間違いではないかと思うようになった。電話帳を繰ると、釜師姓は於与岐はもとより綾部市に一軒も無く、鍋師姓は綾部市に十二軒あり、そのうち二軒が於与岐の大又である。元々鍋師姓は於与岐の出と聞いているので、澤先生つい釜と鍋を取り違えたのかなと勘ぐっている。いづれ鍋師さんにこの件を確認したいと思っているが、もし取り違えられていたとしたら、著作者としてはうっかりでは済まないことである。
 つづく
【作業日誌 8/21】
夏野菜整理
土用干し三日目

【今日のじょん】追悼マーブル写真集
マーブルママが休みの日はじょんのびに遊びに来ることもあった。同じようにプロレスごっこして、ジャーキーもらって仲良し兄弟だった。写真の地は現在ドッグランができているが、マーブルが使うこと無く逝ってしまったのは残念である。Img_1535
Img_1538

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日置のこと(8) 8/20

2013-08-21 | 上林地名考

2013.8.20(火)晴れ 「西丹波秘境の旅」-3

 太陽の道が宮津の日置を通る東西の線だと勘違いされていれば、前期の文章はつじつまが合う。水谷慶一氏の「知られざる古代」を当然読んでおられるだろうと書いたが、巻末の主な参考文献一覧を見ると、その名前が出てこない。それどころか「大和の原像」も出てこないのだ。どうやら先生この2冊については読んでおられないようだ。太陽の道に関する情報は「濃飛古代史の謎」(尾関章)を参考にしておられるようだ。
P1050024



太陽の道に関する主要な文献を読んでおられないのでは?

 「西丹波秘境の旅」の文中に括弧書きで「濃飛古代史の謎」(三一書房)と出てくるのは、そこから直接に文を引用されているからだとわかった。では「濃飛古代史の謎」には丹後宮津の日置を通るレイラインが書かれているのかというとそうでも無い、簡単に太陽の道の説明があるだけである。
 それでは宮津の日置を通るラインは一体何処に書かれているのだろう。
 水谷慶一氏の「知られざる古代」には続編がある。「続 知られざる古代」のサブタイトルは「竜王のきた道」であり、なんでも朝鮮半島にも太陽の道があるなどというふれ込みである。ひょっとしたら丹後の日置を通るラインのヒントがこの本の中に書かれているのではないだろうかと必死に読んでみたのだが、その内容はまるで違った話で期待外れとなる。
 結局宮津の日置の上を通るラインについては一体何なのか不明のままで、わたしの勘ぐりでは、澤氏は北緯34度32分の線が宮津の日置を通り、それが太陽の道だととんでもない勘違いをされているとしか考えられないのだ。
 
 

 日置、あるいは太陽観測に関する奇妙な文章はさらにつづく、前述の「太陽の道と上林の日置」の項は「太陽信仰と計測のメッカ 丹波弥仙山の於成平(おなるだいら)」という節に含まれる。弥仙山というのは上林の日置(日置谷と日置殿からなる)の北北西にある三角錐の秀麗な山で、664mの山頂には金峯神社が祀られており、改心の道という君尾山光明寺に至る修験道道がある。例年11月に改心の道を巡る登山会が催されているが、君尾山までの道は荒れており、日置谷に下りコースとなっている。つづくImg_3463



小畑町の金谷峠を下りてきた時の弥仙山(2009.11.14)北近畿で最も分かりやすい山容だ。


【作業日誌 8/20】
草刈り(5-7)
土用干し

【今日のじょん】追悼マーブル写真集
マーブルママは仕事のため、マーブルは留守番が多かった。淋しかろうと夕方の散歩時はマーブルを訪ねて、プロレスごっこをするのが日課となった。じょんもマーブルもこれが随分楽しみで、マーブルが嬉ションするのでタオルを用意してもらったぐらいだ。Img_1403



ドッスンバッスンびっくりするほどのプロレスごっこ。マーブルは手に持ってるジャーキーが気になってるみたい。 

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日置のこと(7) 8/19

2013-08-20 | 上林地名考

2013.8.19(月)快晴 「西丹波秘境の旅」-2

 
「太陽の道と上林の日置
 (途中略)つまり、空間的には日が昇り、沈むところに位置する山岳などに特別の価値が付加され、神が祀られ、神社が配されてきた。その好例が於成平であり、石原の興の阿比知神社や尼来峠の許波伎神社などである。そこで小川光三氏や水谷慶一氏によりあぶり出された「北緯34度32分線上」の謎が問題になってくる。水谷氏はこの一直線上に点在する太陽信仰とかかわる古代遺跡や寺社、日置などの地名から、「蔭の測量師」日置氏の存在を嗅ぎ出され、この東西線を「太陽の道」と名づけている。(『濃飛古代史の謎』三一書房)。
 上林にある次に触れる日置や後述する夜久野の日置は、北緯34度32分の線より少し南にずれるが、丹後の若狭湾西岸にある日置が、この線上ににあるのは不思議な一致といわなければならない
 (P122)
 引用が少し長くなったが、これが最も不可解な文章であり、実に何度も読み返したところである。
 前段の部分はまずおいて、後段の部分から見てみよう。
 上林の日置は北緯35度21分、夜久野の日置は北緯35度19分辺りに位置する。また丹後の日置は北緯35度36分辺りなのである。
 太陽の道、北緯34度32分の線は大和から伊勢に至るもので西は淡路島に至るラインだが、中央構造線と一致し金属の鉱脈がおおくあり、それが真弓常忠氏の「鉄の道」であるという説を生んでいる。
 いずれにしても上林や夜久野の日置が太陽の道の南にあるはずも無く、丹後宮津の日置がその線上にあるということは絶対に無いわけである。
 この部分は印刷のミスとか、原稿の書き損じなどが無い限り、無茶苦茶な文章なのである。
 登山のベテランでもあり、各地の山々を巡ってこられた著者が、緯度経度の読み方が判らないはずも無く、水谷氏の著書も当然読んでおられることと思う。
 この問題はわたしを大変悩ませた。また、なぜこういう文章になったか想像を膨らませることにもなった。つづく

【作業日誌 8/19】
草刈り(5-6)
梅干し土用干し(土用にはちと遅いが、、、)

【今日のじょん】追悼マーブル写真集
じょんとくるみちゃんは里親さん宅に3ヶ月ほどいた。マーブルは7ヶ月居て上林にやってきた。
399115777_15




里親さん宅の三兄妹、右がマーブル、左がじょん、奥がくるみちゃん、かわいいですね~。


Img_1185




マーブルが来た日(2008.10.5)長岡京からくるみちゃんも来て記念撮影、人間も若いですね~。

 
 

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日置のこと(6) 8/18

2013-08-20 | 上林地名考

2013.8.18(日)晴れ 「西丹波秘境の旅」-1

 上林や夜久野の日置について書かれている文献は少ない。地名事典や郷土史以外ではこの本以外には知らない。
 著者の澤潔氏は北山をはじめ、丹波丹後の山々を巡り、地名や歴史、伝承などを訪ねていくつかの著書を出版されている。「丹後半島の旅上中下巻」や「京都北山を歩く、1,2,3巻」は著名である。特に後者は北山の地名や伝承について興味を持つ発端となった本で、愛蔵書の一つとなっている。Img_2106

 


  「西丹波秘境の旅」はサブタイトルが、「漂泊する丹後王朝の末裔」というもので、帯書きには「今に残る丹波古代文化と地名・伝承のナゾに迫る」とある。大変興味深い内容で、早速古書店で見つけて購入した。
 ところが本書の内容について何とも理解できない事柄が数多く出てきて、信頼して読んでいる読者にとっては納得のいかないことなので「雨読」の中で疑問を呈したところである。(2011.1.8~9参照)
 ところが澤先生と言えば、京都地名研究会の顧問も務められ、「日本地名ルーツ辞典」(創拓社刊)の執筆者でもあられ、初歩的というか稚拙な間違いはされないものと思い、わたし自身の思い違いか、あるいは出版社の誤謬、誤植の種類かと他の関連書物なども読み直したところである。
 「鬼伝説の研究」などで有名な若尾五雄氏のように、読者がそれなりの読み方をしないと理解できない奇妙な文章を書かれる方もおられる。当初は戸惑い不信感を持つものだが、それなりの読み方ができるようになると、「なかなか凄い説だなあ」とその達観に驚くと言うような著者もいる。
 ところが澤先生は辞書の執筆もされるような方だから、客観的、論理的な見方、書き方をされるはずと思うのである。ただ、「雨読」でも述べたように学校の先生にありがちな決め付け型、頭ごなし的な書き方が目に付くのは事実である。
 前書きが長くなったが、本書の中の日置に関すること、太陽観測に関することを紹介して、検証してみたい。
つづく

【今日のじょん】猿&マムシ事件
今朝の猿の襲来はじょんよりも先に気づいた。我ながら動物に対する察知力は研ぎ澄まされてきたと感心する。猿軍団は隣の栗を狙って襲来してきた。他人の財産といえども、猿に簡単に獲られるのは許せない。棒きれを持って追いに行く。
 猿はすぐさま逃げていったが、車庫の裏でひなたぼっこしているマムシを見つける。前回ネズミ取りシート事件の時のマムシらしい。あのときはじょんが一緒だったのでじょんを家に入れるなどの隙に取り逃がしたが、あまりに素早く逃げたので、ひょっとしたらアオダイショウの幼蛇かもという疑問も残っていた。何しろその翌日に場所は違うがアオダイショウの幼蛇を見つけているのだ。

P1050070



8月7日に近所の倉庫で見つけたアオダイショウの幼蛇、紋はマムシに似ているが長さ、太さが全然違う。
 ところが今回はじっくりと観察して、マムシであることが判った。今回は手に棒きれを持っているので、即攻撃、ところが急所を外して小屋の下に逃げ込まれてしまった。教訓、マムシといえども逃げるときは素早いのだ。くそっ、二度も取り逃がしてしまった。
 カメラ修理中で映像はありません。メーカーの問い合わせたら9月3日発送だって、それまで映像が無いので悪しからず。
 
 

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日置のこと(5) 8/17

2013-08-18 | 上林地名考

2013.8.17(土)晴れ 八木町日置-4

 飯盛山西光寺は文覚(もんがく)上人得度の地と伝えられている。北面の武士であった際に横恋慕から相手を殺害してしまい、この地で得度してからは修業に励み、神護寺中興の祖とも言われている。船井神社の南にある文覚池は灌漑用に開鑿されたもので、文覚公園として整備されている。
  P1060825



文覚池は文覚ふれあい公園として整備されている。

  西光寺と大送神社を結ぶラインは文覚池から山を登っていったところのジヤトコという自動車関連の大規模な工場の上を走っている。取り付け道路がラインを横切って登っているので、その地点で西光寺、大送神社ともに目視できればよし、できなければ頼み込んで工場の屋上にでも上がらせてもらおうと敷地内に乗り込む。取り付け道路からは日置方面はよく見えるが、西光寺方面は工場の建物でまるで見えない。若い門衛さんに車を止められ、「日置の大送神社から西光寺の飯盛山に春分と秋分に太陽が沈み、、、、」なんて説明してもちっとも要領を得ない。もっとも要領を得たところで工場の敷地内には入れてもらえないだろう。将来両地点を望む必要が出てきたら、会社の然るべき部署にアポイントを取って建物に入れてもらおう。取り付け道路から日置の写真を撮って帰ることにする。
P1060823P1060822


 

ジヤトコの工場取り付け道路から東西を見たところ。
工場の上に飯盛山の山稜が見えるが、全容がわからない。日置は真正面によく見える、集落の右上の山が竜王ヶ岳(498m)、気になる山である。


日置の大送神社で西の山稜に沈む夕日を観測し、飯盛山のとある地点に沈む日を春分、秋分と決めていたという証拠をつかむことはできなかった。しかし現在のように建物が無い時代なら充分に観測はできたであろうし、大送大明神の磐座と棒状の祠が太陽観測の祭祀を表しているようにも思えるし、大送神社の元々の祭神は大送大明神ではないだろうかという疑問が大きく膨らんでいる。大送大明神は将に西の方向、飯盛山西光寺の方向を向いているのである。
 九月には再度訪問予定である、いくつかの疑問をどうやって解決するか思案六法である。
【今日のじょん】マーブルの追悼の意味でマーブル登場の写真を探している。5年間といえども何千枚からの抽出なので大変である。少しづつ紹介して行きたい。Img_0669

 


三兄妹に始めて会ったのは2008.5.23、里親さんちのベッドの下。手前がマーブル、寝てるのがじょん(アポロ)、奥がくるみちゃん(ミント)。マーブルだけがその時の名前のまま。

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日置のこと(4) 8/16

2013-08-17 | 上林地名考

2013.8.16(金)快晴 八木町日置-3

 大送神社の摂末社については事前に調べていなかったので、帰宅後調べたのだが前述の通りで、大送大明神というのは無い。ひょっとするとこれが元々の大送神社なのかもしれない。もしそうだとすると大送神社が春分秋分に飯盛山に落ちる夕日を観測したり、祭祀を行った場所であるという仮説が成り立つこととなる。
 それではこの大送大明神から飯盛山は見えるのだろうか、磐座を背にして西の方向を覗いてみる。丁度鳥居の左の窓辺りが真西になるのだが、山影は社務所の屋根が邪魔をして望めない。
P1060808



大送大明神から真西を望むとこうなる。黒い影は鳥居、屋根は社務所の屋根。

 結局境内から飯盛山を望むことはできないのである。
周囲に建物や樹木が無ければ当然望めるはずなのだが、と思いつつ境内を出て日置の集落の少し高台にゆくとしっかりと見えるが電線や電柱が目障りである。
P1060814

 


日置の集落から飯盛山。

 ふと後ろの山を見ると、新しい道路が登っている。神吉に至る道路のようだ。丁度西向きの斜面に道路が走っているので、その道路上に西光寺、大送神社を結ぶラインが走っているはずである。その地点から飯盛山を望めば高度は少し変わるが、大送神社から望むのと同様の飯盛山が見えると思う。こうなったら行ってみるしかない。その地点が確定できたら、そこから春分秋分の日に飯盛山に落ちる落日を見ることが出来る。
 ところが道路は新しいのだが道路幅に余裕が無く、通行量もそこそこあるので、東西ライン地点をうまく探せない。駐車できる場所が無いのだ。次の機会に譲って、飯盛山の写真を撮って下る。
P1060813



真東より少し北に振った位置からになるが、左のコルが飯盛山のコルだろう。

 次に西光寺に向かう。明治記念碑の鏡がどの方向を向いているか、西光寺阿弥陀堂がどの方向を向いているか調べるためだ。

 まず通い慣れた道を明治記念館に向かう。磁石は軍隊用のコンパスグラスを借りてきた、詳しい方向を測るためだ。結果、鏡は南南東150度の方向を向いていることがわかった。未だ地図にプロットしていないので鏡がどこを指しているのかわからないのだけれど、愛宕山でも御所でも老の坂でもない、もう少し南の方向のようである。塔の中段からの視界は育った植林に遮られ、鏡の方向だが一部のみ窓のように開いている。集落が見えているが一体それが何処なのかわからない。
P1060815



木の間からでは何処が見えているのかわからない。

 いずれにしても明治記念碑の鏡が
角度を意識して建てられたという気はしないのである。
 また西光寺阿弥陀堂も東南135度の方向で、日置を意識した方角ではないようだ。阿弥陀堂からの視界も樹木で遮られており、庫裡の辺りまで下りてこないと見えない。そこで見えるのはミルク工場の建物と筏森の南端付近の山である。つまり阿弥陀堂の向きそのままの景色である。
P1060821



庫裡の辺りまで下りてくると視界が開ける。右手の白いのがミルク工場、山稜は筏森山の山稜。

結局明治記念碑、西光寺阿弥陀堂とも日置に対面はしていないということがわかった。このことは少し残念だが、予想していたことでもあり、次に日置と西光寺を結ぶライン上にある筏森の山塊に向かう。つづく

【今日のじょん】最近何処にも連れてってないので、ホノホノさんとイルマンさんに行くことにする。そういえば昨晩福知山の花火会場で悲惨な事故があり、現場の様子なども見られるだろう。音無瀬橋など車の通行は普段通りだったが、堤防付近にはパラボナアンテナを搭載した報道車が勢揃いで、現場は警察や消防の検証中で夕べの事故そのままの状態で残されていた。プレートタムラでお好み焼きを食べて、イルマンさんに行く。噂どおりの大きなペットショップでグッズも豊富でもっと早く来れば良かった。看板犬の光秀くんとじょんによく似たハナちゃんが居て楽しい。
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光秀がこーやって迎えてくれる。
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ハナコさん、ちょっと似てるでしょ。

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