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晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

玉虫のポスト 6/30

2013-06-30 | 違いのわからん農学士

2013.6.30(日)晴れ

 大学に昆虫学研究室というのがあった。農学部の講座というのはもの凄く多くて、選択するのに困るぐらいだが、昆虫学だけは受講しなかった。なんとなくお宅っぽい感じがして受講しなかったのだが、昆虫学研究室に友達がいてよくお邪魔した。
 この友人、山内君といったがどういうわけか気が合って、二人で屋久島に行って一週間ほど山を登りまくった事もある。
 研究室ではなんでも物体を数ミクロンにスライスする機械があって、テントウムシの生殖器を成長ごとにスライスして顕微鏡で観察するというなんとも訳のわからん研究をしていた。まあ農学部の研究なんてこんな感じで、世間から見るとなんやねんという研究をしているものである。ある日牛舎から牛が逃げ出した。よく見るとお腹からパイプが出ている。「何だよありゃあ?」って聞いたら、消化物の分析をしてるんだって、、。
 昆虫なんて好きでもないし気にもしていなかったのだけど、田舎に住むと否応なしに関わらざるを得ない。それもあまりいい関わりではない。農作物、花卉類、樹木、芝に対する害虫としての関わりである。
P1040621P1040689P1040610



今年の今のところの困ったちゃんはこの三つ。

 頭にくる虫どもは例年幾種類か居るが、彼らとて周期があるようだ。去年はあれ、今年はこれと発生し、何なんだこれはという新種が毎年現れる。
 例えば昨年は、銀ボタンのさなぎでびっくりのツマグロヒョウモン(2012.6.3参照)、これが異常に多かったように思うのだが、本当はそれまでに気づいていなかっただけかもしれない。ことしもひらひら飛んでるのを見るが、さほど多くないようだ。P1010872

 


銀ボタンはきれいだが、つぶしてもほおっておいても真っ赤な汁が出て、そこいら中が汚れてしまう。

  カメムシだってそうだ、信じられないぐらい大発生したのが2009年秋、(2009.10.19日参照)こんなんじゃ堪らないなあと思っていたらその後はさほどでもない。
 昆虫ではないがダニだってそうだ、一昨年大発生しそこいら中噛まれたが、昨年は一個所のみ、今年はまだ被害はない。
 これはその年の気候や食性が影響するのかと思うが、実はそれだけではないようだ。テレビでいってQを見ていたら、アメリカの17年セミというのをやっていた。17年ごとに大発生するそうで、他にも13年セミというのがあるそうだ。昆虫というのは何年も土の中で過ごし、成虫として出てきたら数日で生殖して死に絶えるものが多い。
セミも幼虫の年数がいろいろあるそうだが、例えば2年のものと4年のものなら同時に成虫になるので交雑してしまう。そういう意味である程度期間をおいた素数年に成虫となるのが種の保存としては理想らしい。それで13年、17年が選ばれたそうだが、いってQもなかなか勉強になる。つづく

【作業日誌 6/30】
ドッグランど柵の網張り

【今日のじょん】あじさいが絶好調なので写真に納める。あじさいというとじょんカレンダーを思い出しますねえ。
P1040732_2P1040727



Img_3217
カレンダーは2011年、写真は2010年のもの。

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上林の盃状穴(29)番外編 6/29

2013-06-29 | 歴史・民俗

2013.6.29(土)晴れ 京都帝釈天(13)

 船井神社には貞任の腕を埋葬したという腕守社(かいなもりしゃ)がある。社の背後に大きな宝篋印塔があり、なにやら感じさせるものがあるが、実際に貞任の腕が埋められたとは思えないので、かつてはこの地が鹿野森(かやのもり)と呼ばれていたのが”かいなもり”になったのかなどとも予想される。
P1040639P1040644
 
本殿裏手の帝釈天遙拝所。


P1040645
社務所横の古い石材も観察する。


P1040646
何かの加工穴、盃状穴ではない。



 
そうこうしているうちに、参拝者というより研究者のようなおじさんが訊ねてきた。社務所の裏手でごそごそしていたのでは怪しまれそうだ。
 それでもなんとか見落としの無いように観察したが、盃状穴は見当たらなかった。
参道の周囲もざっと見たがありそうにない。
 京都帝釈天の周囲に盃状穴がありそうだと予想をして、二社を廻ったが皆無の情況で、帝釈天のそれも石灯籠にのみ存在するのがますます不思議になってきた。
次回は美里の荒井神社、飯盛山西光寺を訪れたい。

【作業日誌 6/29】
散髪
ドッグランど草刈り、ネット保護のためナイロンコードで試行する。

【今日のじょん】今日は舞鶴の小太郎くんが来じょん、じょんも遊びたがっていたが、自分より大きいのは苦手なんだって。
P1040735

かわいっすね。

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上林の盃状穴(28) 番外編 6/28

2013-06-28 | 歴史・民俗

2013.6.28(金)晴れ 京都帝釈天(12)

 2013.6.26(水)の読売新聞の文化欄に「前九年の役清原氏参戦で新説」というタイムリーな記事が載った。清原氏は朝廷の命に従って安倍氏と戦ったのではなくて、貞任を排除して宗任を助けようという、嫡流問題への介入だというものである。宗任が清原氏の血を引く者というのがその理由で、様々な根拠をあげておられるが、現実に貞任は殺され、宗任は助けられている。
 新説の件は別として、貞任の遺体が七つに切断され丹波の山に埋葬されたことと、宗任が綾部市の黒谷辺りに逃げてきたなどという伝説が残る原因、意図というのは何なのだろう。丹波と安倍氏のつながりはあるのだろうか、今後の研究課題である。
 船井神社は京都帝釈天と同じく船枝にある神社で、住吉三神を祭神としており、途中で春日神を勧請し春日大明神とも呼ばれた。鳥居脇の石灯籠に「春日社」とあるのはその名残である。
P1040642P1040643


 


 郷名をとって船井神社としたといわれるが、船の停泊場所、船居の意味という説もある。船井郡、船岡、船枝など船地名が多いが、その由来は何なのだろう。丹波と都を繋ぐ船運の盛んな地域であったことは確かである。
P1040506

 


船枝から北上すると船岡の交差点に出る。右は日吉町、左は園部町市街方面となる。


  八木には住吉神を祀る神社が多くあり、海人族の居住した地域であることが解る。船運の船に由来する地名というのは理解できるが、船井が船の停泊地、船居というのは単純過ぎる。もし単に船の多く集まる停泊地であったら、桂川、淀川沿岸にいくつか船井、船居地名があっても良さそうだが、残念ながら見つからない。渡場、泊場を表す鳥羽地名はいくつも見られるのにだ。
 この周辺を何度も通り、また地図を眺めていると、桂川本流もこの辺りで水量も増して川幅が広くなっており、左右から支流も流れ込んでいる。
 単なる想像だが、この地で上流域の小さな船から中流域の大きな船に荷を積み替えた、あるいは集荷をしたのではないかと思う。そういう重要なトランジションが船居だったのではないだろうか。そう考えると船居、船井地名が流域のあちこちに存在しないことが筋が通ってくるのだが。つづく

【今日のじょん】法面の鹿の侵入が日に日に強烈となってくる。梅の収穫も終わったので対策をしようと思うのだが、ネットでは草刈りが難しいし、悩むところである。
P1040697P1040698

じょんも考えてくれい


 

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上林の盃状穴(27) 番外編 6/27

2013-06-28 | 歴史・民俗

2013.6.27(木)曇り 京都帝釈天(11)、(10)は2013.6.17

 番外編なのに遂に連続11回となってしまった。こうなるとタイトルを「盃状穴」という風にしてしまわないと番外の方がボリュームが多くなってしまいそうだ。とりあえず京都帝釈天(xx)という風にナンバーを打っていこうと思う。というのはまだまだ続きそうなのだ。飯森山西光寺、嶋物部神社、園部町の小山別所などと探究が拡がっていきそうなのだ。
 6月18日(火)例によって南丹病院の歯科に通う。午後には舞鶴に所用があるのでのんびりしていられない。例の盃状穴のある石灯籠の流水実験もしてみたいし、福寿寺で歴史の話も聞いてみたいのだがそんな余裕は無い。帰り道の府道25号線沿いにある二つの神社を訪れることにする。
 まずは八木町刑部(おさべ)の久留守(くるす)神社、祭神は
彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)いわゆる海幸山幸伝説の山幸彦のことである。久留守というのは行基伝説があって、「久しく留り守るべし」といったのでついた社名といわれているが、これは付会だろう。久留巣、久留主、栗栖はよくある地名で、川の屈曲点のところという意味が妥当である。地形図を見ると桂川あるいはその支流の官山川が付近で屈曲していたことが予想される。神社の西側に岸ノ上、岸ノ下があるのも川の流れがあったことが想像される。P1040638

 


北側から見た神社の森。向こうに見えるのがシミズ船井の里でその右に住吉神社の森が見える。

 この神社には前九年の役の貞任の頭が埋葬されたという伝説がある。次に紹介する船井神社には腕が埋葬されたとあり、貞任峠など各所に切断して埋葬されたという伝説はなぜこの地にと思わせるのだが、納得のいく説が未だ見つからない。
 こぢんまりとした境内なのでくまなく盃状穴を探せるが、残念ながら見つからなかった。
P1040629
P1040635



鳥居周辺、本殿周辺、盃状穴は見当たらない。


 古い手水鉢の四隅に定かで無い窪みが見られるが、盃状穴とは断定できない。また本殿下の石垣の石に四角い人工の穴が見つかるが、これは何か工作物の痕だろう。本殿左の二つの石灯籠の一つに規則的な穴が認められるが、これも盃状穴とは無縁のものである。

P1040631P1040636P1040632



 というわけで続いて船井神社に向かう。つづく

【作業日誌 6/27】
梅干し漬け込み6KgP1040696



ちょっと青いけどまあいっか。

【今日のじょん】梅の木の下の法面に連日鹿が通っている。今のところ何の被害も無いが、じょんのびファームがそばなので、柵が必要だ。P1040685

クンクンなんか来とるで。

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鳥害対策(2) 6/26

2013-06-26 | 違いのわからん農学士

2013.6.26(水)雨

 近所の畑を見ていてどうにも腑に落ちないことがある。同じようにトウモロコシやキュウリなど栽培していて、何の対策もしていないのに被害に遭ってない畑があるのだ。カラスなんてどこにでも居るし、その畑だって常に人の目につく場所ではない。カラスにもテリトリーとか仁義があるんだろうか。
 しかし粗方の畑では大なり小なり対策をしておられる。完璧なものはビニルハウスの骨組みに防獣ネット、防鳥ネットを張り巡らせてある。下部には小動物対策に目の細かいネットを張り、小動物、イノシシ、サル、シカ、鳥類に万全である。大型なので中での農作業も楽々だが、相当経費がかかるだろうなあ。それでも精神衛生上はすこぶるよろしいと思う。
 そこまで経費をかけられないところは、それなりにイロイロと考えておられる。
(1)赤い布を周囲に取り付けて、ひらひらとなびかせる。
 ツバメが巣を作りそうなときに赤い布を取り付けたら効果があった。鳥は赤のひらひらに弱いのかなと思うが、あのずうずうしいカラスに効果があるかは疑問である。

(2)防鳥ネット天井張り。
 これは近所では見ないが、奥上林で見たことがある。元々防鳥ネットはこういう風に使うものらしい。防鳥ネットは単価も安いし、効果はあると思う。ピンと張るには周囲の杭が沢山要るし、広い面積では中程にも柱が要るだろう。
 見つけた畑は高さが1.5mほどに張ってあり、作業はかなり辛そうだ。

(3)風車の類い。
 昔からある物で、最近はペットボトルを利用したものが圧倒的。本来振動によるモグラ除けの物らしいが、赤い色に塗られているのは鳥よけとされているのではないだろうか。使ったことはあるが鳥に対してもモグラに対しても効果は無かった。
P1040535



タマネギの畝に立ててあるので、モグラよけか?

近所の畑には立派なものがいくつか見られる。効果のほどはわからないが、風物詩としてはなかなかいいものだ。
P1040534



高速で廻っていて見えないが、立派な尾翼がついていて風に向かうようにしてある優れものだ。

(4)赤と銀のひらひらテープ。
 一時流行したが最近あまり見なくなった。我が家でも使ったが効果無し。

(5)水糸。
 上林川の鮎をカワウから守るために一昨年辺りから使われ始めた。50mぐらいに両岸から黄色の糸を張ったもので、新聞紙上では効果があったと言われている。毎日観察しているが、当初鳥の姿が消えたが、今年辺りは侵入している。窮屈そうだがその範囲で助走して飛び立っており、鵜も学習したものらしい。
P1040626


 

水糸の間を我が物顔に泳ぐカワウ。

そこでじょんのびファームでは水糸作戦を決行、現在の所被害は起きていない。
水糸はウッドデッキを作る際に買ったが、その時は役に立たずここに来て日の目を見ることとなった。P1040682



周囲は鹿ネット、天井には水糸を張った。今のところ被害無し。

  防鳥ネットに比べ作業性がすこぶる良い。
以前ためしてガッテンの中で、鳩の被害に苦しむマンションでベランダに張った1本の水糸で被害が無くなったのを見たことがある。畑でやってるのは未だ見たことが無いが、以外と有効かもしれない。

【今日のじょん】朝からどしゃ降り、普段なら大喜びの散歩も全然。オシッコしたらもう帰りたいばかり、、、。P1040691

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鳥害対策(1) 6/25

2013-06-26 | 違いのわからん農学士

2013.6.25(火)曇り

 夏野菜が取れ始めた。キュウリ、ナス、トマトの御三家が少しずつだけど食卓に上るようになってきた。ところが夏野菜を作るようになって5年、初めて取れる夏野菜を食べるのは初めてなのです。それはどういうことかって、????
 最初に出来た野菜は常に何者かに襲われていたのだ。当初は何か解らなかったけれど、数年前畑から逃げ出すアライグマを発見、犯人はこいつだとばかりに捕獲用の籠を設置、だけど罠にかかることはなかった。
 ある年アライグマが府道で事故に遭い死亡する、同時に姿を見ることもなくなった。Img_1653



こいつが事故に遭ってから被害は少なくなった。(2010.11)

野菜の被害はなくなるかなあと期待したところ、昨夏、できたてのキュウリが無残にも食い荒らされる。表面には爪痕が残り、死んだアライグマのテリトリーに新たなアライグマが来たかなと思う。
P1020014P1020013



昨夏の被害(2012.6.20)

ところがある日、少し早く起きた朝に畑にカラスが侵入し、キュウリを突いているのを発見、真犯人はカラスだったのだ。
 もちろん数年前にアライグマが侵入していたのは事実だし、目撃もしネットの杭に足跡が残っていることもあった。しかし最近の侵入者はカラスである。P1020026

 




獣の爪痕かと思っていたら、カラスのくちばしの痕だったのだ。

 そんなわけで昨夏は防鳥ネットを張りまくる。すると被害は嘘のように止まったが、ネットからはみ出してなったトマトなどたちまち餌食になった。それと問題は作業である。防鳥ネットはすこぶる細くて見えにくい。芽かき、施肥、水やり、収穫などなどの作業の際に手といい足といい、帽子、メガネ、剪定ばさみ、籠、スコップ、鍬、ジョウロ何でもかんでも引っかかること限りない。草刈り機なんて引っかかった日にはとんでもないことになる。
 そして遂に大丈夫だろうと思っていたトウモロコシ数センチ出てきた実をいともあっさりやられてしまった。トウモロコシってカラスが大好きなんだって、しかもキュウリやトマトのように後から出てくることも無い。そこでお釈迦な訳だ。
P1020070

 



カラスにやられたトウモロコシ、情けないったらありゃしない。

  さて今年は徹底的に防鳥ネットをかけようと思っていたのだが、あのネットだらけの中で野菜を作るというのがどうも我慢がならない。何かいい方法がないかと近所の畑を観察する。つづく

【作業日誌 6/25】
梅収穫、今年は梅が生り年のようだが、東と西で生育に差があり、東部分を剪定代わりに枝ごと収穫し村上さん宅の梅干しとなる。我が家の分は西部分がもう少し熟してから収穫することにする。

【今日のじょん】いつもより余計廻っております。
ぽんぽこぽん(最近はスタートと呼んでいる)の還りには芝生広場を周回して帰ってくる。涼しい日は特に勢いよく廻るのでカッコいいのだが、教えたわけでは無い。まあ自主トレというところだが、動画のアップロードが不調なので写真で紹介しよう。
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雨読 幻の漂泊民サンカ(5) 6/24

2013-06-25 | 雨読

2013.6.24(月)曇り

 沖浦氏はサンカの起源が幕末期の飢饉によって発生した帳外者、無宿者であるとし、いくつかの根拠を示している。例えば飢饉の被害が甚大であった地方ほど、明治期のサンカ情報が多いのも一つの根拠だろう。
 わたしは「知井村史」などで飢饉によって無宿者となった農民が、その借財でもって村を出なければならなくなったことを知り、沖浦氏の説に確信を持つこととなった。
 単に無宿者というだけなら、自らの本貫などについて秘密にする必要は無い。サンカは本貫はもとより名前や家族などについて語ることも書くこともしなかった。他の漂泊民、木地屋や家船(えぶね)などが由緒書きを持ち、自らの説話や伝承も語っていることと正反対である。
 サンカの起源が歴史的に浅いという一つの根拠となるが、借財に追われて村を出たということが大きく影響しているのではないだろうか。
 柳田国男の日記にサンカに関する聞き取りの部分がある。
「また石川県にてオゲの貞女あり。夫の死したるとき村民憐みてよくこれをいたわる。その折りに見たるに、その小屋には小さき厨子ようの物ありて、その中に先祖の位牌を納めていたり。平人とさして異なる生活にはあらざるか。はたこのオゲのみが、特に彼らの中に入り込んでいたものか。」
 オゲとはサンカのことであるが、柳田氏はサンカが近世末に発生したとは考えていないので、このように位牌を持ったオゲが腑に落ちなかったようである。
 実は同様の話を他の本で見たことがある。漂泊、山民に関する本を乱読しているので、いったいどこに書かれていたか不明なのだが、「漂泊の女性が村の薬師堂かなんかに居つき、誰とも口をきかなかった。懇意になった者にようやく口を開き、出所も名前も告げ、包みの中から先祖の位牌を出したそうである。そしてその日に姿をくらました。」というものである。この話はサンカに関するものでは無かったと思うが、同様の説話が各地にあるのかもしれない。
 いずれにしても柳田氏の話など、着の身着のままで夜逃げしたものが、せめて位牌だけでもと持ち出しだしたと考えれば順当な話に思えるのである。
 サンカは特別な民族でも種族でもなく、歴史の波の中で必然的に生まれ、そして消えていった民衆の一形態である。放っておけば歴史の中からも人々の記憶からも消えてしまうだろう。沖浦氏が綿密な調査と聞き取りの中からまとめられた本書はまさに名著である。P1040684

 本書の表紙を飾るサンカ移動の写真の彼らの笑顔は心をとらえてはなさない。

【作業日誌 6/24】
草刈り(3-5、終了)
ドッグランど柵作り

【今日のじょん】連日のワンコの来じょんで、朝の臭い嗅ぎが大変、とにかく気がそちらに行っているのでぽんぽこぽん訓練も形無し、スタートもおいでもちっとも聞かない。写真は怒られてすごすご帰って行くところ。P1040683

 

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雨読 幻の漂流民サンカ(4) 6/23

2013-06-23 | 雨読

2013.6.23(日)曇り

 「知井村史」という美山町知井(現南丹市美山町)の郷土史がある。平成10年の発行だから既に知井村は無くなってからのことである。知井村史編集委員会という組織によって編集されており、いわゆる市町村の肝いりで発行されている郷土史とは少し趣を異にしているようだ。主に古文書の解読により、近世以降の知井の様子を具体的に表している労作である。P1040681

 幕末の飢饉に襲われた農村の様子は様々な書物で断片的に語られているが、食い詰めて村を出奔し帳外となった人々のことを具体的に書いている書物にあったのは「知井村史」が初めてである。
 食い詰めるといっても、食糧が無いというだけのことなら村を出る必要は無い。村を出てもやはり食料は無いわけだから。
 山に入るといっても、山に食糧が豊富にあるわけじゃない。例え村に無い食糧が少しばかりあったとしても、村を捨てて山に入らなくても村に住んで山に食糧を取りに行けば良いはずである。
 こんな疑問に「知井村史」は端的に答えてくれた。村を出た人々は食糧に困ったというより、借財に困ったわけである。
 幕末には地方の農村にも貨幣経済が浸透し、年貢は貨幣で納めていたし(銀納)、村自体も多くの借財に悩まされていた。それは金を借りたというより、飢饉や災害で年貢が納められなかったために借財となったのだろう。
 個人が村を出るのは、いわゆる夜逃げである、公には家出という風に書かれているが、この数が尋常では無い。
天保七年 15家、78人
天保八年 8家、37人
天保九年 3家、18人
天保十年 6家、17人

 丹波の小さな村で4年間に150名もの農民が夜逃げしているのである。夜逃げであるからもちろん行き先はわからないが、家出人報告の文中に「酉年(天保8年)に残らず若州山中に引っ越しに仕り候」というのがある。山の中というのが相場となっていたのだろう。逃避行であるが故に行き先は山か人混みに紛れた都市部ということになるだろう。そして持ち物はといえば、着の身着のままと思われる。
 残された村では家出人を帳外として処理し、残った財産を競売にかけている。すると借財を精算して、まだ余っているのだ。そのことは食糧に困ってというより借財のために村にいられなくなって、着の身着のままで夜逃げしたということを物語っている。だからこそもう村には絶対に帰れないし、どこの村の出だということも明かせないのである。つづく

【作業日誌 6/22,6/23】
6/22 草刈り(3-3)
6/23 草片付け、らっきょう収穫、1Kg漬け込み

【今日のじょん】
今日は上林川の鮎解禁日、念道では一人だけでなんだか寂しそう。P1040672


天気が不安定なのでワンコの来じょんは無いかなと思っていたら、一組の来じょんが有り感激する。しかもリピートであったので大変嬉しい。
P1040679
クーくん、もうすぐ4才。かわいいですねえ。


P1040676

小太郎4才は記念写真。

P1040680
腿の所は染めてるんだって、おしゃれじゃねえか。

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雨読 幻の漂流民サンカ (3) 6/22

2013-06-22 | 雨読

2013.6.22(土)曇り、雨

 沖浦氏が本書でサンカの起源として主張しておられるのは、幕末危機の時代であるとする説で、こういった説は今までに無いもので新説と言えよう。
 幕末というより、近世末といった方が良いかと思われるが、18世紀末の天明から天保にかけて天災や飢饉が続き、一揆、打ち壊しなどが頻発、社会は混乱と危機の時代であった。そして当然のごとく無宿者が急増することとなった。犯罪などを犯して無宿となるものは従前からあっただろうが、飢饉によって食い詰めて村を捨てざるを得なかった無宿者が急増したと云うことだろう。
 サンカに対する文書が現れるようになり、1855年広島藩の文書に「サンカト唱 無宿云々」という文書がみられる。
 無宿という呼び方は各地の文書に現れたようだが、法制的には無宿とは別個のものであり、無宿とは宗旨人別帳にのらない、いわゆる「帳外れ、帳外」といったものであり、本貫地では除籍されていて帰るところのない流人と言える。はでとして人別帳に記載され、居住地などが藩に掌握されていた。
 の中に野というのがあり、頃から人の口、あるいは公の文書にサンカ、あるいはサンカらしきもののことが現れ始めるのだ。
  そして江戸時代末期の飢饉や一揆でこれは身分ではなく無宿と同様のものであったということだ。つまり正式にはとして登録はされない無籍の流人のことである。
 これらの無宿あるいは野がサンカの起源であろうというのが、サンカ近世末起源説の概要である。P1040669



サンカはミツクリと呼ばれた地域もある。箕は大切な農具だが、今ではプラスチックになってしまった。また呪力、霊力があるとされ縁起物や祝い事にも使われている。写真はミニチュアだが、本物は随分精巧に編まれていた。


 わたしはこの説が最も信頼できるものと思っている。
 古代から中世、近世はじめまでサンカに関する資料というのは何もない。そして彼ら自身もその出所や歴史を語らない、いや知らないのかもしれない、墓や由緒書きといったものもない。ところが近世の終わり数多くの農民が村を離れたとあるが、いったい彼らはどこに行ったのだろうという疑問が常にあったことだ。つづく

【今日のじょん】今日は雨模様だったのでワンコの来じょんはないかなと思っていたら、アメリカンコッカのセブくん(♂4才)とナナちゃん(♀4ヶ月)が来てくれた。かわいいったらありゃしない。じょんとも仲良く出来そうで、良い天気の日にまた来てください。P1040668
P1040667




どちらもとっても人なつこくて、かわいいノダ。

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雨読 幻の漂流民サンカ(2) 6/21 

2013-06-21 | 雨読

2013.6.21(金)雨

 サンカという呼称はおそらくほとんどの方には初耳のことと思う。サンカとは山々を漂泊して竹製品などを作って売り歩いていた集団であるが、近世までの歴史的資料には現れていない。明治期になって警察関係文書などで初めてサンカのことが現れ始める。つまり新政府は無籍無宿であった彼らを戸籍に入れる必要があったのである。
 その時になってサンカ、山家、山窩などと文書に出てくるのだが、山窩は明らかに蔑称である。それどころか地方によっては、ポン、オゲ、セブリ、テンバ、カンジンミツクリなどと呼ばれていた。ポンはスッポン獲りから、オゲは川魚漁の漁具といわれている。セブリはフセリ=臥せりから、テンバは転場か、カンジンミツクリは勧進箕作りであり、いずれも彼らが自らのことをそう呼んでいたわけでなく、周囲から蔑称として呼ばれていたのである。歴史的にその都度の支配者によってつくられた制度の中には含まれていないものの、世間からは蔑視され差別されていた集団である。
 そして戸籍編入、定住化も進んだものの細々と生活を続け、その姿が完全に消えたのは1950年代も後半になってからということである。
 このように謎に満ちた集団(集団という言葉はおかしいが、彼らは明らかに一つの民族でも氏族でも無いからである)について、映画や小説で興味本位に取り上げたことは前述したが、真摯に研究された民俗学者もいた。
 代表的なものが柳田国男の山人説で古代からの列島の先住民で、王化に浴することを拒み山に生きた「化外(けがい)の民」という風に考えられた。
P1040661



「柳田国男の民俗学」(谷川健一著)第一、二章に山人論について詳しく書かれている。


 また、喜田貞吉博士は中世の系集団と考えた。その他の学者も論ずることはあったのだが、いずれも結論を見ない中途半端な研究に終わっている。それは古代、中世にサンカに関する歴史的民俗学的資料が何もないのが原因とみられる。つづく

【今日のじょん】昨日じょんのび谷の草むらの中に何者かが通った跡を見つけた。草の倒れようから見るとそこそこの大きさの獣と思われるが、開けた窓に向かってやたらと吠えたことがあって、どうもその時に現れたものらしい。今朝も表に出たとたんじょんのびファームに茶色の猫を発見、いずれも被害はないのだが、百鬼夜行というところか。P1040657_2

被害はないのだが、、 

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雨読 幻の漂流民サンカ 6/20

2013-06-21 | 雨読

2013.6.20(木)雨

 山の漂流民、木地屋や鉱山師などを調べているとやはりサンカのことが気になる。サンカが他の漂流民と違うところは、その実態が解らないこと、各種の由緒書きや許状といった自らの存在を誇示する文書などを持たない事である。
 漂流民と云ってもそのすべてが日本中をさまよっていたわけでなく、農耕民のように定住することなく、仮宿で仕事をし、材料、販路を求めて移動していたというのが解りやすいだろう。つまり彼らに自由を求める放浪性があったとか、アナキストであったということではなく、単に職業柄定住に向かない、定住できないということである。
 サンカとは家族単位で天幕生活(瀬降りという)をし、夏期は川魚漁、その他は箕などの竹製品づくり、門付けなどをして暮らしていた。
 毎年ある季節になると箕、籠、棕櫚箒などを背負って家々を廻ってきていた人があったと母に聞いたことがあった。どこの誰かは解らないが、良い製品だったので多くの家で購入していたそうだ。この人たちがサンカなのかどうか解らないが、そういう生業をしていたのだろう。
 「幻の漂流民・サンカ」沖浦和光著 文春文庫 2005年第6刷
P1040658

 


 この本は2度目の読書である。購入した際にすぐに読んだが、今になって何が書いてあったか、サンカとは何だったのか憶えていないので、再度読むことにした。
 沖浦和光氏は、裏書きによると桃山学院大学名誉教授、比較文化論、社会思想史専攻とあるが、古代から続く制度などに関する研究が主なようである。わたしの書庫を見ても本書の他に、「竹の民俗史」「瀬戸内の民俗史」「天皇の国の国」の三冊があった。
 今ではサンカという人たちのことを知る人はごくまれだろうが、1980年代にサンカ論ブームというのがあったそうだ。五木寛之が「風の王国」を書き、中島貞夫監督が映画「瀬降り物語」を作ったそうだ。わたしも多感な時代であったが、そのようなものに気づくことは無かった。ただもう少し時代が下がって山の雑誌「山と渓谷」などにサンカに関する本の広告が続けて掲載されたことがある。それが本書であったかどうかは解らない。戦前には三角寛氏のサンカ小説がブームになったことがあるそうだが、真摯にサンカの社会を扱ったものではなく、猟奇小説、エログロ小説であったそうだ。
 前述の小説や映画もその域を超えることはないとあるので、今更読んだり観たりしようとは思わない。つづく

【今日のじょん】やっと雨の季節がやってきてじょんのカッパの出番が出てきた。そしてアジサイの出番も出てきたようだ。P1040649

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雨読 消された多氏古事記 6/19

2013-06-19 | 雨読

2013.6.19(水)雨

 風邪を引いて寝込んだせいもあるが、最近多くの本を読了している。順次紹介していきたいが、その中で最も読みやすく、内容に引きずり込まれて一日で読んでしまった本がある。

「消された多氏古事記 まつろわぬ者の秘史」朴 炳植(パク ビョングシク) 毎日新聞社1991年発行 古書

P1040655
 
 



 多氏については雨読「東国の古代」(2010.8.20参照)で紹介しているが、どうも今ひとつ理解できていないので新たな本を読んでみたかったものである。
 著者の朴氏は北朝鮮生まれの古代言語学者ということだが、日韓国語の音韻変化の法則を駆使して古代歴史の解明をされている。
 ”まえがきにかえて”の文章は半島生まれの朴氏だからこそ言えるだろう冷静な態度で日本人を語っている。
 

 
中略(戦後の復興に関して) もう一度立派な日本を建てなおした人々。「無名の庶民」。それが、偉大なる彼らの名前である。誠実と勤勉が代名詞になったこれらの「無名の庶民」たち。「神国」の指導者に言われるままに命までも捨ててきた、これら「偉大な日本の庶民」たちの特徴は、「無類の従順」であった。逆に言えば、権力を握った支配者にとって、これほど治めやすい民族はなかったと言える。

 壬申の乱の勝者である天武天皇以降日本人に対する愚民政策が始まったという風に書いている。その出発点が国史としての記紀の編纂であろう。各氏族の持つ歴史を抹消し、天皇家の権威のみを追求しようとする記紀がそれがために多くの矛盾と謎を秘めているのは当然のことである。
 天武天皇の最大の協力者であったオウ氏の安万侶がその編纂者として選ばれたのは、自らの氏族の歴史を抹殺されようとすることに抵抗する者たちを押さえ込もうとする高級な戦略だというのだ。
 その抹殺されたオウ氏の古事記をコツコツと探し求め、拾い集めて物語風に書かれたのが本書である。正史には絶対に現れない驚くべきストーリーが展開され、そのすべてを鵜呑みにすることは出来ないが、専門の言語学を駆使して歴史考証をされていることがうかがえる。
 最近ヤマト王権と熊襲との関連がとりだたされている本がいくつか出版されている。手持ちの「隼人の古代史」を読んでみる気になってきた。

【今日のじょん】じょんおべんとうついてるで。

 P1040654

 
 

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雨読 秋山記行(続) 6/18

2013-06-18 | 雨読

2013.6.18(火)曇り 「雨読 秋山記行」は2013.6.3

 牧之が秋山郷を訪ねた際(文政11年、1828年)椀のことを御器という言葉は無かったものと思っていたら、茶碗を石五器というところがあるという一文に驚く。
 秋山郷で一般的には使われていなかったのだろうが、一部の集落で椀のことを御器、五器といい、茶碗のことを石五器と呼んでいたのだろう。「秋山物語」の御器に関する聞き取りは上ノ原の山田某となっている。
 わたしは御器という言葉は木地屋が持ち込んだ言葉ではないかと思っているのだが、「秋山物語」に出てくるクリ師は上結東に居住していたとあり、木地屋と御器の関係は今ひとつ定かでない。
 文中に幾度か白木の盆というのが出てくる。かんな役という雑租の一種にあり、数枚を物納している。椹(さわら)の木で出来ていて、轆轤で細工したものかと想像したが、どうやら手斧(ちょうな)で削りだしているようで、木地屋とは無縁のもののようだ。
 牧之のすさまじい好奇心と観察力で、ありとあらゆる物や習慣、言葉や景色が表現されており、現代の民俗学的書物を何冊読むよりもこの一冊で一目瞭然と言ったところである。それはその時代に現実に見聞きしたことを書いているのであるから当然であり、あたかも自分自身がその時代に秋山を旅しているような錯覚にさえ陥る。
P1040580



見出紙をつけて項目を書いておけば民俗辞典となる。

気になる一つ一つの事象を見出紙を貼り付けてメモ代わりにしているのだが、ありがたいことに文中に一覧にされている。例えば、

 
外より来たる人を改めて上の言葉は、貴丈様と申す。
 寺院方を影にて其名を唱ふに、皆殿附けなり。
 目下たのものを呼ぶには、にしと云。
 子供の隠れんぼを、かくねっこうと申。

などという索引のような個所が三個所ほどあってさながら民俗辞典の様相である。
蝦夷や奥羽を巡った「菅江真澄遊覧記」同様、江戸時代の地方の様子を探る最適の書物である。

【今日のじょん】明日6月19日はじょんの来じょん記念日である。5周年を期してしまだ屋さんで一杯飲もうということになったが、生憎明日は定休日なので今夜行くことにした。おいしい生ビールと冷酒で食事をいただいたが、当の本人、いや本犬は家で留守番をしておった。ワン。P1040627



朝の散歩時からしまだ屋さんの方を見て、行きたそうにしていた。そんなわけないか。 

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上林の盃状穴(26) 番外編 6/17

2013-06-17 | 歴史・民俗

2013.6.17(月)曇り 上林の盃状穴(25)は2013.6.14

 3.もし船枝に盃状穴を穿つ風習があったなら他の場所にもあってもよさそうだ。
 近世におけるいわゆる二義的盃状穴というのは呪詛の目的という見方もあるようだ。穿孔しているところを他人に見られてはいけないなどという迷信もあるようだ。しかし現実に盃状穴のある所は誰の目にもつく、表だったところが多く、見つからないような所、生活圏から離れたところには無いようだ。
 このことから盃状穴を穿つ行為は神仏に祈願することが主目的と思われ、周囲にも認知された行為であると考えられる。そうすれば京都帝釈天の参道石灯籠に穿たれた19個の盃状穴は、一人の人間によって穿たれたというより、幾人かの人々によって、何年もかかって穿たれたと考える方が自然である。そうすれば地輪が満杯になったとき他の個所に穿ってもいいと思われるし、別の社寺の石造物に穿ってもいいだろう。
 幸いこの地方には歴史的な社寺も多くある。今後は他の場所で盃状穴を見つけることを目的にこの地を訪れたい。
 この近辺には安部貞任の腕が埋葬されているという船井神社、同じく頭部がという久留守神社、都と鏡通信がなされていたという飯盛山西光寺、異説もあるが嶋物部神社に比定されている荒井神社などなんとも興味深い社寺が目白押しである。
つづくP1040429

氷室の郷の看板


【今日のじょん】夕方、ドッグランどから山に向かって思い切り吠える。木が生い茂っているので中に鳥が居るためかもしれないが、一度野ねずみの姿を見たことがある。なんだか解らないが、じっと見ていることもあるし、急に吠え出すこともあるので、何かが居るのだろう。しかし夕方だけというのが謎である。P1040620

 

 

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鬼の霍乱 6/15

2013-06-16 | 日記・エッセイ・コラム

2013.6.15(土)雨
 どういうわけだか風邪を引いてしまいまして、
本日と明日6月16日の記事を休みます。炎天下にドッグランどの作業をして、疲労が溜まったものかと思われますが、のどが痛くて、痰、鼻水が出て先日医院に行って薬をもらい、一日臥せっていた次第です。ブログの記事も溜まり気味で焦る気持ちはあるのですが、身体を治すことが先決と思い休むことにしました。もちろんその他の作業もすっかり休んで、回復に専念したいと思っております。P1040624

玄関先に咲いた草花、このどれかは自然に生えた雑草だそうで、雑草とそうでない草の違いはなんたるや。 

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