晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

ジコチューの地図 9/30

2011-09-30 | 日記・エッセイ・コラム

2011.9.30(金)雨

 じょんのび村が中心の地図、しかも国土地理院の発行の地図が手に入った。
だれでも意識の中心は自分であって、自分を中心に世の中が廻っているわけだが地図に於いてもそうである。国家に於いてはもちろんで、日本はアジアの端っこだが、日本で作る世界地図は日本が中心となっている。当然といえば当然ではあるが実はこういったことがグローバルな思考発展の阻害要因になっているのかもしれない。
 韓国文化の本を読んでいたら面白い記事があった。日本の地図は上が北だが、韓国の地図は上が南ということだ。本当にそうなのか解らないが、文化の移動の方向に合わせられているということだ。日本は大陸や朝鮮半島から文化が流入するばかりで行き止まりである。ところが朝鮮半島では中国から来た文化がまだ南に移動するという考え方からそうなっているそうだ。本当かなあ。Img_3840
 
じょんのび村は左下隅。


 国土地理院2万五千分の一地形図丹波大町にじょんのび村は位置している。ところが随分南西の端にあり、周囲の状況を見ようと思えば梅迫、綾部、和知の地図をつながないと見られない。我が家が中心の地図があったらなあと思っていた矢先に、中心位置や表示方法を自分の好みで選べる地図を発行する準備としてアンケートが実施されていた。じょんのび村の緯度経度を中心とした地図を希望し、先日2万五千と五万分の一が送られてきた。あくまで見本なのでA3版と小さいが、発売されるようになるとA2版も出るようだ。毎日地図を開けない日はないぐらいだが、本格的にこういった地図が発売されるとしたら楽しみである。Img_3839

じょんのび村が中心の地図。


【作業日誌 9/30】
第三木小屋柱立て

今日のじょん:今日はフィラリアの薬を食べさせる日である。錠剤なんかは絶対に飲まないので、上等なビスケットだか肉味だか知らないが高い薬をやっている。普通のワンならそれだけで喜んで食べるそうだが、慎重というか注意深いというかじょんの場合はドッグフードに混ぜても薬だけ残している。夜になって肉や馬鈴薯など好物を混ぜてやったらようやく完食したみたいで目出度し目出度し。明日は恐怖のフロントラインだ。フロントラインと言っただけで逃げてしまうので、フッリーダイヤルと隠語で呼んでいる。Img_3837

フロントラインと言っただけで小屋の中に逃げてしまう。

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石ころ物語 9/29

2011-09-30 | 歴史・民俗

2011.9.29(木)曇

 昨日紹介した鉄滓もそうだが、河原や山の石はその土地の特徴や過去の歴史を語るしろものである。当初は磁性の有無だけを頼りに岩石を拾っていたが、今では行った先々で特徴的な石や変わった石を拾うようにしている。問題はその後の整理分類と保管である。大抵の場合ビニール袋なんかに入れたまま放ってあるので、一体何時どこで取ってきた石か解らなくなる。今も五種類の岩石の塊が並べてあるのだが写真に撮って、日付や収集場所など記入して保管しなければ何が何だか解らなくなる。現実に今未分類のうち一種類はどこのものだったか解らなくなった。Img_3838

丸山の尾根で拾った石


 柔らかくて赤い条痕の残る紅土らしき石2個と黒くて鉄分を含んでいそうな石、あとは丸い川原石である。よくよく考えれば5月3日に村上さんと出かけた、丸山から大唐内に下りる尾根で採取したものだ。丸山の尾根周辺で丸い川原石が出るのでと拾ってきたのを思いだした。
 あとの四つは以下のとおりである。いずれにしても早く分類記録保管しておかなければ。
1. 9月9日日吉町海老谷玉岩地蔵の下、右岸で採取したもの。赤色チャートと黒い成分が混じった岩、全体が真っ黒な岩、鉄分っぽい岩の破片なんだが、いずれも磁性はない。玉岩鉱山のズリかと思ったが、それはもう少し下流のようである。Img_3830

左から1,2,3。


2.9月9日日吉町生畑、日吉山の家前の河原で収集。チャートは極少ない。スポンジ状の灰褐色の石が多い。いずれも磁性はない。

3.9月20日 大江町内宮下の林道で採取、工事で削った岩だが一個は磁性が強く、流石に鉱山地帯を思わせる。

4.7月24日 鳥垣渓谷やすみと附近で拾った米石といわれる庭石の破片。もちろん庭石の採取は禁止されているが、これくらいの小石ならいいだろう。緑の小石は桜井さんが持ってきてくれたもので、鳥垣渓谷にはよくある石だ。米石の方だが、乾燥すると表面にピンクの模様が浮き出てくる。雨の日や濡らしたりするとごげ茶色になって解らなくなる。擦っても落ちないのでカビなどではないようだが、ひょっとするとある種の鉱物が付着しているのかも知れない。Img_3831

 


 とまあこんな風に分類したり保管したりするのも大変なんだが、問題はその石がどういう岩石、あるいは鉱石なのか解らないことである。図鑑と照らし合わせても似たようなのがいくつもあって判断できない。インターネットで映像を見てもよく解らない。条痕や薬品反応、比重や顕微鏡など科学的に判断できる方法を探し出したり、標本を集めたり、専門家の人を探し出したりしなければいけないなあとは思っているのだが、なかなか手が回らない。とりあえず拾ってきて分類保管するのが関の山である。

【作業日誌 9/29】
第三木小屋床板づくり

今日のじょん:最近ぽんぽこぽんの集中力が欠けている。ボールを見つけてもすぐに取ろうとしないのだ。よーく観察するとどうも朝露の付いた草が嫌なようである。もう一回草刈りしてやるか。Img_3729 Img_3730 写真はボール拾いよらへんなあと思いきや、蟹にちょっかい出しているところである。 

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鉄滓発見 9/28

2011-09-30 | 歴史・民俗

2011.9.28(水)快晴

 上林川で鉄滓らしき岩塊を発見し既に5個に達しているのだが、念道橋の上下、右岸左岸の地域に分けた場合、左岸下の地域のみ発見されていなかった。その地域を集中して探していたのは、あちこちで発見することによって念道橋周辺の一定の場所で出来たものでないことが証明できると考えたからである。
 最後の地域で発見できたのは9月26日朝のことである。実は夏の間は草が茂り、石探しは中断していたのだが、草の勢いもやや鈍ってきたので再開した矢先のことである。念道橋下100m左岸堤防下田んぼ側の溝附近である。堤防工事に使われたものではなく、28水で耕地の中に流入した土石を取り除いて溜めてあるところである。Img_3832_2
 
右が鉄滓と思われる破片、左は近くで発見した磁性のある新種の石。


 従来のものと同様気泡状の穴が数カ所開いた灰褐色の4cmぐらいの破片である。裏面はこれも従来のものと同様コンクリートの表面のようになっており、細かい砂を含んでいるようでザラザラしている。磁性があり、磁石に反応する。
 次にこれ等が本当に鉄滓なのか真剣に調査しようと思っている。たたらを研究している研究者もあるのだが、とりあえず鉄滓の発見されている近隣のたたら遺跡を訪れてみようと思っている。Img_3833
 
過去に集めた鉄滓らしき石など。


 そしてこれが本当に鉄滓と確認できたら、次は出所探しだ。過去の大水で流れてきたとして、この狭い地域でこれだけのものが発見できるのだから全体では相当の量が流れ出ていると思われる。その出所にはもっと多くの鉄滓が残っているだろうし、そこに至る流域にも破片は見つかるだろう。なんか気が遠くなるような話だが、地名や伝承のように形のないものを探るより、現実の物体があるのだからつかみ所があるし、イエスノーがはっきり出る探究というのは楽しいものがある。

今日のじょん:今日はかみさんが留守でおとーが一日店番をしている。どっちみち一日中寝ているのだが、なんとなく淋しそうだ。Img_3586

こんな感じで淋しそーに寝ておるのだ。

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大唐内のこと(79) 丸山とイモリ村 9/27

2011-09-30 | 歴史・民俗

2011.9.27(火)快晴

 若狭から峠越えの文化が大唐内や市茅野に入ってきたとして、もっとも重要な峠は猪鼻峠であろうと思う。胡麻峠や日置峠から宝尾を通り尾根越しに来るルートも古い峠道ではあるが、やはり直接丹波に向かい、日本海から最短に大唐内、市茅野に向かう峠が最有力だろう。現在では府県道1号線(京都府、福井県でも1号線)の通う永谷坂峠が唯一の車道であり主役だが、地形的にこの街道は後発のものと考える。
 以前に猪鼻地名については考証し、結論を出したのだが(大唐内のこと62~64)どうも納得がいかない。清水の湧き出る断崖という結論を出したのだが、どうも顕著なそのような地形は現れない。猪鼻峠の周辺にもそれらしい地形は無さそうだし、若狭側の峠道は歩いたことはないが、果たしてそのような場所があるものやら無いものやら。というわけで再度調べなおすこととする。
 猪鼻地名は東北から中国四国まで分布している。詳しくは調べていないが北海道、九州にはこの地名は見あたらないようである。上林の周辺では京丹波町、近畿では淡路島や甲賀市土山町、和束から滋賀県朝宮にぬける猪鼻峠などがある。猪鼻だけでなく亥鼻、井ノ鼻、井ノ花など様々な書き方がありそれらを含めるともっと多くのイノハナ地名は出てくるだろうし、谷や橋の名前まで探したら相当の箇所となるだろう。Img_3164
 
猪鼻という奇妙な名前から猪に関する説話などが付きものだが、付会の場合がほとんどだろう。(京丹波町猪鼻)


 現在全国のイノハナ地名を地図上で調べ、共通の特徴がないか調査中である。途中のことなので何とも言えないが、どうもその分布は千差万別でとらえどころのない感じである。つづく

【作業日誌 9/27】
第三薪小屋柱ほぞ穴切り

今日のじょん:なんでもないけどおもろい座りかたしているので写真に撮った。Img_3829

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大唐内のこと(78) 丸山とイモリ村 

2011-09-27 | 歴史・民俗

2011.9.26(月)曇

 猪鼻峠の由来について、峠道の途中に猪鼻という地名があるのだろうと予想し、踏査してみる必要があろうかと思っていたのだが、若狭郡縣志に猪鼻山の名前を見つけた。「猪鼻山・・・三國嶽連峯而在東方」とある。関屋村に属し、頂上は若丹の国境にあるという。これだけでどのピークか判断はできないのだが、候補としては猪鼻峠と坪坂峠の間のピーク、その東のピーク、そしてその又東の474mのピークが挙げられる。市茅野の西側の尾根の頭、市茅野の正面のピーク、市茅野の東の尾根の頭ということになる。文面からは国境稜線上にあること、三国岳の東にあることしか解らず、何とも言えないが、古地図など調べれば載っているかもしれない。Img_3538
 
右が474mのピーク、左が正面のピーク。
(市茅野の入口あたりから)


 サンドラ山やイモリヶ嶽が古地図に載っていないかと小浜の図書館にいったときのことである。大飯郡誌の冒頭に福井縣大飯郡圖という古地図があるのだが、なぜか若丹国境の三国岳周辺部分が破れているのである。経年の使用で損傷したものかもしれないが、研究者が故意にちぎって持ち帰ったのではないかと悲しい気持になる。研究に打ち込むあまり、道標や地蔵尊などを持ち帰る行為がままあると聞く。それは真実を追究しようという姿勢とは無縁のものである。
 古地図や文献を探し、地元で聞き取ることで猪鼻山の位置は確認できるだろうが、猪鼻峠の東の小ピークがそれではないかと思っている。猪鼻峠の峠名の由来は猪鼻山だろうから、すぐ隣のピークが可能性が高いと考えるわけだ。Img_2720
 
猪鼻峠、写真の方向に稜線を辿ったところが猪鼻山と考えるのだが。


 それでは猪鼻山の由来はなんだろう。猪鼻峠の峠名考察は既に結論を出しているのだが(大唐内のこと62~65)、実はその結果にどうも納得がいかないで今日に至っている。つづく(大唐内のこと(77)は2011.9.4)

【作業日誌 9/26】
じょんのび村芝張り下段終了

今日のじょん:犬は屁をこくか?イヌを飼っていない人には難問かもしれないが、飼っている人にはかんちこちんの問題である。
 答、人間ほどではないがガスが出るのは当然である。
今朝も散歩時にプーっとやっちゃって、自分自身も音に驚き、なんじゃという感じでお尻の方を臭いでいた。最近カボチャや馬鈴薯多いからなあ。こういう感じ。(2011.6.16)Img_3085

 

  

 

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芝張り大作戦 9/25

2011-09-26 | 違いのわからん農学士

2011.9.25(日)曇

  【じょんのび悪魔の辞典】芝生(名詞) 芝というのは雑草の延長だが、茂って欲しいところには雑草がはびこり、花壇など芝が生えて欲しくないところにはすこぶる元気に育つ生き物である。

 と言うようなわけで、花壇にはびこった芝を処分したいのだが、元はといえばホームセンターで買ってきて肥料だの真砂土だのと手間とお金がかかっているので、単に捨てるだけでは面白くない。特に生育のよい元肉球の芝は肉球の形を残しそれ以外のところをじょんのび坂に貼ることにした。Img_0699

肉球を作った頃(2008.6)


 市販のマット状の芝より活着が良いことは実験済みである。しかも不要品を再利用できるのだからこれ以上のエコはない。
 最初に芝を張ったときはふんだんに真砂土があったので充分に厚く入れている。なにしろ八トンのダンプ一台分入れたと思うから、、、。Img_0534_2

真砂土はダンプで買う。(2008.4)


 真砂土の厚い部分は切れ目を入れると簡単に剥がすことが出来る。ところがそれ以上に拡がったところは、根が土に食い込んでいてとてもじゃないが剥がれない。そこで鎌で根を切ってゆくのだが、これが大変、涼しくなったとはいえ汗だくの作業である。芝生の厚さは市販のものの2~3倍ある、これが活着の良さの原因だろう。Img_3825
 
肉球は影も形もないほど這え茂った。


 あらかじめ雑草を削り取った斜面に張り付ける。竹串を打ち込んで留める。周囲に真砂土を盛り、空気に触れないようにする。しっかり水を遣ってお終い。単純且つ簡単な作業を繰り返す。仕上がりは形と厚さがバラバラでみっともない。しかし来年になれば見事にきれいになる。ハズダ。Img_3824

今はみっともないけれど、、、。


【作業日誌 9/25】
芝張り

今日のじょん:久々にユキちゃんが来た。大騒ぎで遊んでいたが、ユキちゃんって穴掘り癖があるのよね。以前は大穴掘られてびっくりしたが最近は気がつかないような小穴で、気い使ってるのかなあ? 

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日吉町地名散歩(5) 9/24

2011-09-25 | 歴史・民俗

2011.9.24(土)晴れ

 木住川上流の生畑(きはた)にかつてマンガン坑があったことは確かであるが、どこにあったのか今のところ解らない。生畑という地名についても如何なるものか判断がつかないでいる。そのうち判明するかと思い次に進むことにする。
 小畑から柏木トンネルを越えると四ッ谷である。四ッ谷といえば四谷怪談で有名な新宿区四ッ谷がある。かつて四つの家があったから四ッ家だとか四番目の谷だから四ッ谷だとか言われているそうだが、どうも怪しい。どこから数えて四番目なんだというと、その北に市ヶ谷(いちがや)がある。三島由紀夫の自決でご存じかと思う。いずれにしても都会のど真ん中で周囲の地形も変わり地名も消えているので探りようがない。
 スキーをする人なら誰でも知っている大糸線の白馬駅は白馬村大字北城四ッ谷にあって、かつては信濃四ッ谷という駅名であった。このように四ッ谷という地名は各地にあるのだが、由来ははっきりしない。単純な地名なので学者も研究しないのか書物にも見あたらない。私はヨツヤという言葉に何かあるのではと考えているのだが、さていかんともしがたい。
 田原川流域は金工地名の宝庫である。私は古代の鉱山の谷であったと想像している。それは金工にも歴史にも興味の無かった時に既に気になる地名があったことによる。京都ゼミナールハウスで行われた京都トライアスロンは水泳の代わりにクロスカントリーを入れて行われる、いわゆる変則トライアスロンだったが、京都府に於けるトライアスロンの魁であった。10回も続いただろうかその総てに関わり、特にコースの設定では北山の山道を走り回り、ランコースの設定のため田原川流域を踏査した。赤石、田貫、佐々江などという地名が金工に関係があるのかなと、その当時からうっすらと考えていた。Img_3723
 
ドッグランのある喫茶「おかげさんで」はこのあたりと聞いたのだが、一度いってみたいところだ。(日吉町四ッ谷)


 日吉の四大鉱山は道奥谷、矢谷、玉岩、地蔵の各鉱山と言われているが、玉岩は海老谷に、道奥谷は神楽坂にあることは確認できている。矢谷鉱山は位置は未確認だが五箇荘村にあったということだから、田原川の流域である。地蔵鉱山も未確認なのだが、玉岩鉱山地蔵坑というような表現も見あたる。また最初の発掘は佐々江明日ヶ谷の岩見鉱山であったというから、日吉のマンガン坑の主流は田原川流域にあったと考えてよい。つづく

【作業日誌 9/24】
じょんのび坂芝張り
第三木小屋床作製Img_3827

作業小屋の横に薪を積んで、断熱効果も狙っている。



 今日のじょん:今日のじょん君といって訪ねてこられるお客さまがたまにある。晴徨雨読を見ておられる方だろうと感謝する次第だ。本文は面倒なので「今日のじょん」だけ見ているよと言われる方もちょい有りで、まっいいかという感じだ。そんなこんなで休むわけにいかないので大変だ。Img_3821


これはまさしく今日のじょんである。霧の写真を撮ろうとしたんだが、朝が遅いのではれてしまった。(念道橋で) 

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初めてのDNS 9/23

2011-09-23 | 日記・エッセイ・コラム

2011.9.23(金・祝)晴れ

 初めてDNSを経験した。えっダンスを初めて踊ったって、、、そーじゃねえんだよ。
DO NOT STARTのこと、エントリーしたレースをキャンセルしたって事、ちなみに出場したがフィニッシュ出来なかったことはDNFという。
 いずれにしても屈辱である、マラソン、トライアスロン、自転車レース、山行からゴルフコンペまでエントリーしたものは総て参加してきた。
 別にこだわっていた訳じゃないけど、エントリーしたものは参加しないと癖になりそうで参加してきた。一番辛かったのはいつぞやの琵琶湖トライアスロンだった。前の日から胃腸の調子が悪くて食べ物を受け付けない。それでも食わないと持たないので無理矢理食う、すると余計胃腸は反発して七転八倒することになる。これほど不安な夜はなかったが、頼みの綱は陀羅尼助丸だ。夜にのみ、朝ご飯を詰め込んだ後にのみ、スタートラインに立つ。琵琶湖の汚い水を泳いでいる間に食ったものと陀羅尼助丸のあの苦ーいのが逆流してきた時はもう絶望的だった。ところが拾う神というのは本当にいて、その後順調に回復して、結果ベストのタイムでゴールすることになる。
 そんなこんなで数百回のレースに出場してきた。それがだ、レースでもないサイクリングにキャンセルしてしまった。Img_3819

空しいエントリーカード。


 2,3日前から耳に痛みがあり、それも時々で、どこだか解らない、何とも妙な痛みである。はっきりしていないから余計不安になる。若いときなら「そのうち治るわ」ってんで全然気にもしていないのだが、何とも年くったもんだ。三年前の蜂窩織炎(丹毒)の恐怖がよみがえって気が弱くなっている。

 【じょんのび悪魔の辞典】
老化(名詞) ほっとけば治るわ、目が覚めたら治ってるわと思っていたのがちっとも治らなくなること。

発病(名詞) 病院に行かなければならない病気は金曜日の夜もしくは休日の前日の夜に起こる。

【作業日誌 9/23

馬鈴薯土寄せ、うまい菜種蒔き、アスパラガス追肥土寄せ
第三木小屋床部分作製Img_3818

Img_3812



秋ナスは虫に食わすな。
こいつら色は違うが大きさと形は一緒なんだが、、。


今日のじょん:一気に寒くなって、秋物が要るようになる。じょんはうってかわって大元気、走り回るわ、飯は食うわ、い~季節だこと。

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元伊勢内宮(3) 9/22

2011-09-22 | 上林界隈(AKB)

2011.9.22(木)曇、雨

 内宮から天岩戸神社へ直接行けるルートもあるのだろうが、足下が悪いので参道を降り、宮川沿いの鋪装道を行く。車でも行けるということだが、土砂崩れや倒木でもあった日には抜き差しならないので、歩いてゆく。右の崖は水を含んで今にも崩れそうだし、左の谷は濁流が渦巻いている。ガスも出てきて何とも心細い。Img_3774

ガスに霞む岩戸山。


  しばらく行くと谷の下方に発電所があり、関電の車が止まっている。人工のものがあると何となく安心感が沸くのはどういう心境なのだろうか。どんどん進むと右上に登る道があり、「~参道」と書いてあるので登って行く。谷の轟音はおどろおどろしく、ガスはますます濃くなってくる。大雨洪水警報の出ている日にこんなとこ来るもんじゃない、傘はさしているけれどすっかり濡れている。土砂崩れのあった現場に出る。Img_3775 Img_3778

谷は濁流、山はガス。


 もう引き返そうかと思ったときに道を間違ったことに気づく。この道は内宮に行く参道らしい。なんのことはない元来た道に戻るとすぐそこに岩戸神社に降りる階段があった。轟音轟き、濁流逆巻く社務所に降りていくのも風情がある、自転車旅行の際は随分気味の悪いところへも行ったなあと思いだす出す。
 谷のあちこちに色々と名前が付いており、それぞれ謂われがあるようだが、この増水では何が何だか解らない。 Img_3785 Img_3780 Img_3788Img_3781_2
 
本殿は木の合間に見え、参道は濁流に呑まれていた。


 いやあ、迫力あったなあと思いつつ、内宮の下部に当たる林道に崩れ落ちた岩を拾って帰る。周りに赤色チャートも多く落ちている。拾ってきた二個の内一個は強力に磁石に反応した、さすがに鉱山地帯である。
 次は外宮と、鉱石を求めて河守鉱山跡へ鉄滓を求めて北原遺跡へ行ってみたい。Img_3789_2 Img_3814

林道のガレ場にはチャートも多い。
磁性の強い石は鉄を含むものだろう。



 今日のじょん:じょんは虫にも鳥にも反応するがやはり猿に対する反応は一番である。遠くから気づくことも凄いが近くでは吠え方も追い方も凄いものがある。かみさんは放したら帰ってこないと言って放さないが、私は必ず帰ってくると信じている。放して猿を追い払ったら、これほど素晴らしい仕事は無いと思うのだ。この中に猿が居る、さてどこだろう。Img_3815 、、、、、、、、、、私も解らない。

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元伊勢内宮(2) 9/21

2011-09-21 | 上林界隈(AKB)

2011.9.21(水)雨、台風15号

 神殿手前の右の山手にへそ塚と和泉式部の歌塚というのがある。へそ塚というのが如何なるものか案内もないので解らない。和泉式部歌塚というのは石垣に囲まれた小さな宝篋印塔のことを言うのだろうが、誰かの供養塔であった宝篋印塔を丹後に住まいしていた和泉式部にかけて歌塚としたものかもしれない。娘の小式部内侍が、「大江山いくのの道の遠ければ~」と詠んだことに因んだものかもしれない。Img_3767 Img_3768
 
和泉式部歌塚とへそ塚。



 参道の脇に御門神社(みかどじんじゃ)というのがあり、石室ともとれる横穴がある。穴の中にはかわらけの欠片があり、かわらけ割り神事が行われているという。厄除けの神さまといわれているが、この横穴はなんらかの遺跡という感じがする。Img_3770 Img_3771
御門神社と横穴、その内部。



 その隣に「カネのなる石」という1m程の平たい石がある。長椅子のように下に台石があり、置いてあるこぶし大の石で叩くとカンカンと乾いた音がする。Img_3769




  三流の観光地にあるようななんとも俗っぽい呼び方だが、実はこの類の石は自転車旅行中にも佐賀県、島根県で見かけた。石を鳴らすことが呪術的宗教的な意味を持っていたのかもしれないが、見たものは神社や古墳といった場所ではなく、なんでもない場所であった。佐賀県杵島郡江北町の国道34号線沿いの丘にあり、扁平ではなくかなりどっしりしている。音は驚くほど澄んだ音でカーンカーンと感激ものであった。今ひとつは松江市の松江大橋南詰めには「大庭の音のする石」というのがある。これは細長くて大きなものだが、人身御供の悲しい伝説なども伝わっている。Img_3916Img_4629 

カンカン石と大庭の音のする石。



 なぜ大庭なのか不明なのだが、大橋から南に5,6Km国道432号線沿いに大庭町という町がある。この石そのものが、あるいは人身御供の源助が大庭に関係するのか調べても解らないのだが、大庭は古墳が多くあり、その石室の一部の石なのではないかと想像する。Img_4634
 
大庭鶏塚、周辺にも大規模な古墳が多く存在する。


 話がそれてしまったが音のする石はいずれも讃岐岩、いわゆるサヌカイトと言われるものであり、石器の原材料となった石である。
 元伊勢内宮の「カネのなる石」がサヌカイトであるか否かは判断できないのだが、音はなかなか美しい音がする。もしこの扁平な石が他所から持ち込まれたものでなければ、古墳の石室などに使われていた可能性はあるのでは無かろうか。つづく

今日のじょん:雨で運動不足になっているせいかレインコート着ているにもかかわらず、散歩に行こうと言う。(言葉で言うのではなくアイコンタクトするのだ)増水が気になっていたのでカメラを持って上林川念道橋下に行く。Img_3810_2 Img_3805Img_3803
 

 

 夏前の増水時ほどではない。河川敷には降りられない。

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元伊勢内宮(1) 9/21

2011-09-21 | 上林界隈(AKB)

2011.9.21(火)雨(台風15号)

 大江町の元伊勢観光センター(KTR内宮駅前)で「秋の花々と鉱石展」をやっているので見学に行く。大江山旧河守鉱山(こうもりこうざん)の鉱石は以前鬼の博物館の展示でも見たのだが、鉱石そのものにあまり興味が無くてよく見ていなかった。今回は図鑑も持ってしっかり見てこようと出かける。台風の大雨で大雲橋からの由良川の風景も凄みがある。大雲橋を渡って左折国道175号線を福知山方面に少し行ったところ左側に過去の洪水の水位を示す表示がある。Img_3794

ここまで水が来るのだから怖ろしい。バスが孤立して記憶に新しい23号台風が上から二番目。


写真に撮ったら何が書いてあるか読めなくなったので調べて記入しておこう。
 下から、昭和40年 24号台風 11m
      昭和47年 20号台風 11m40
      平成16年 23号台風 12m98 昭和34年伊勢湾台風 12m90
      昭和28年 13号台風 14m40
と書かれているそうだ。m表示は由良川水面からの高さだろうか。
 最上段の13号台風とは上林で28水と言われている台風である。上林の被害も甚大であったが、下流の綾部、福知山、大江といった地域も相当の被害があったようだ。とにかく昭和に入ってからの水害では丹波、丹後にとって最大のものだろう。
 金屋といういかにもというトンネルを越え宮川を遡る。何度この道を通ったことだろう、しかし鉱山という意識を持って来たのは3回目である。それ以前は自転車のトレーニングコースとして来ていただけである。この谷に入っただけで、ヘルメットを被った鉱夫やたたらを吹く鉄穴師、修験者や山師の姿が浮かんできてワクワクするのである。
 元伊勢観光センターは内宮駅の下にある小さな案内所である。食事もとりたかったのだが土曜日曜のみの食堂営業ということだった。大江山周辺でとれる鉱石を展示していたが、専門家が居るわけでなく、説明用のパンフレットが置いてあるのが精一杯かとも思われる。Img_3748 Img_3754 Img_3753
 




 これだけで帰るのはもったいないので内宮と天の岩戸神社を訪ねることとする。
元伊勢内宮皇大神社は広大な境内に立派な神殿、数多くの末社、伊勢神宮と同様の施設などを備えた神社である。由緒によると今から2072年前倭の笠縫邑から当地に移り、四年後に倭に還り、諸々を経て54年後に現在の伊勢神宮の地に落ち着かれたというようなことが書いてある。
Img_3760Img_3761
本殿とさざれ石



 これが元伊勢という謂われだが先日紹介した「謎の丹波路」春木一夫氏は(2011.9.20 雨読参照)様々な説を紹介しながらも、伊勢詣でが出来ない遠隔の地に参詣しやすいようにできたものではないかと言っている。元伊勢に内宮があり、五十鈴川や天の岩戸、真名井の池などが出来ているのは、記紀による知識からで、あまりにも整いすぎている点で、イミテーションの匂いが強過ぎるとまで書いている。Img_2103 神社側や地元にとってみればとんでもない説となるのだろうが、冷静に歴史を観るならば、その方が理にかなっているのかもしれない。

伊勢二見浦のさざれ石、どちらがイミテーションか。

 

 しかしながら、どちらにしても内宮外宮とも元々の祭祀はあったと思うし、外宮など周辺に弥生後期からの土器等が発見されているそうだし、神社のある船岡山自体が古墳ではないかという説もあるそうだ。
 そういう意味で内宮も主神殿はともかく、周辺の山に何か遺跡らしいものがあるやもと思い歩いてみる。つづく

今日のじょん:じょんがお座敷犬になってから掃除の回数が増えている。ところが彼は掃除機が大嫌い、段々追いつめられて尻尾下げて情けない顔をしている。「きれいにしたってんのやないかい」Img_3741

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雨読 謎の丹波路 9/19

2011-09-20 | 雨読

2011.9.19(月・祝)曇、雨

 「丹波路が謎であるのは 霧が深いせいだと思う、、、」という文学的表現に惹かれて本書を読む。といっても絶版になっており古本市場にも出回っていない。図書検索で探すと珍しく綾部図書館にあった。
 「謎の丹波路 京都・兵庫歴史散歩」春木一夫著 神戸新聞出版センター 昭和52年発行の本である。
 丹波の歴史的な名所や文化を紹介しているガイドブックの機能をもった歴史書とでもいうべき本である。こういう類の本は沢山でているが、それらと決定的に違うのはしっかりしたポリシーに基づいて書かれているということだ。歴史を紐解くことは時間と労力を掛ければ出来ることだが、一貫した思想をもって歴史を観ることはセンスがなければ出来ないことだ。Img_3797
 従前からの定説や言い伝えに批判的な目を向けている。疑問を持つことで新しい発見がある。例えば大原の産屋に対する「穢れ」の考え方には反対しているし、元伊勢という解釈も否定している。田捨女(でんすてじょ)の「二の字二の字の下駄のあと」について、実際には二の字はつかないという実験もしているのが面白い。
 おさん茂平、木食上人、丹波の赤鬼荻野直正、丹波布、義人清兵衛など一般に知られていない人や物についても大変詳しい考察がされていて驚く。
 基本的には丹波に対する愛着と丹波人に対する愛しみに貫かれている。著者は丹波に生まれてはいるが、ほとんどを神戸に居し、神戸が墳墓の地となるだろうと書いている。このことについて、「丹波に住んでいて、丹波を書くことは難しいだろうと思う。身近か過ぎて、自分のからだを自分で診断できないのに似ているからだ。その点、六甲山一つをへだてて距離を持っていると、冷静になることができる。」とあとがきで書いている。Img_3172 Img_3792

大原の産屋(左)や大江山(右)の鬼についても書かれている。



 最も大きな謎だったのは、読了しても頭書の「丹波路が謎であるのは云々」という文章が出てこないのだ。不思議に思い何度も見返すがやはり出てこない。丹波霧のようにもやっとしたまま置いておこうと思っていた矢先に春木氏の故郷である山南町の薬草薬樹公園の文学碑に刻まれているという情報を得た。何度か薬草風呂に入ったことがあるが、文学碑には気づかなかった。なんとなく霧が晴れた気がする。

今日のじょん:雨が続き運動不足になってるのか、久々に連獅子じょんをやっていた。じょん語録では連獅子じょんとなっているが、実際にはうーうーうーと呼んでいる。これだとじょんも理解しているみたいだ。Img_3744
 
 

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樹難 9/18

2011-09-20 | 違いのわからん農学士

2011.9.18(日)曇

 まだまだ油断は出来ないが、芝の大敵スジキリヨトウの発生が今のところ少ない。というより未だ姿を見ていない。台風12号の前まで、つまりカンカン照りの暑さが続いている頃芝の穂に卵が産み付けられているのをよく見つけ、捕獲していた。ところが今朝、久々に点検するとまるで卵が見られない。今年はスジキリヨトウの少ない年と勝手に決め込んで安心している。
虫そのものは多かったけれど、野菜などの被害は無くて助かったのだが、樹木だけはえらい目にあった。虫害を受けたのは白樺、オリーブ、ユーカリである。つまりこの地に少ない樹種が格好の餌食になったようだ。しかも生育の良い木がやられているのが特徴である。
 オリーブはアナアキゾウムシ(以下アナーキーと呼ぶ)にやられた。アナーキーはオリーブが大好きで、周囲に無い種類なので狙われたのだろうか。モリイの店の片隅にわけあり商品として並んでいたもので、弱り切っていたものを手塩に掛けて育てたもので悔しさもひとしおである。幹も太くなり、屋根にも届こうかという程育っていたが一気に枯れてしまった。
 食害のところからおが屑のようなものが落ちていれば注意というのを聞いていたが、発見するのが遅かった。(6月20日)Img_3103 Img_3104 Img_3397  
消毒後新たな害が、、。



 もう一本植えてある育ちかけのオリーブにもつがいのアナーキーを発見、捕獲して様子を見ているが今のところ被害はない。(8月22日)
Img_3557  
にっくきゾウムシ。


 完全に枯れてしまったので、引き抜いて被害箇所を観察する。土を入れ替えて新しくかったオリーブを植えることにする。(9月6日)あとはしっかり点検をすることが虫害予防かな。

 白樺は昨秋から原因が判らないまま枯れてきて、諦めて掘ったら根からすぐ上の見えない部分におおきな穴を開けられていた。いわゆるテッポウムシというものだか解らないけど、一発で枯れてしまうのだから怖ろしい。我が家の庭木で最高値の樹だからこれも悔しいが、あとの二本をしっかり育てたい。Img_3345

穴の部分は見えないところだった。 



 意外だったのがユーカリである。ハーブのように香りがきつく虫など付きそうにないからだ。ユーカリは虫よりも風の害に困っていた。でかくて枝が張る割に根が育たないのだ。そんなことは予想できないので、最も風の強い場所に植えてしまった。台風とはいわなくてもちょいと風が吹くたびに倒れて、その都度丈夫な支柱を立て、最後は杉丸太の支柱になったがそれでも先の台風で倒れてしまった。
 頭に来て穴を掘り、電柱よろしく杉丸太を立て縄でくくりつけた。これで完璧と思っていた矢先に、ぽつりぽつりと枯れてきた。根が起きて水が上がらなくなったのかと根元にじゃんじゃん水をやりながらひょいと見ると、目の高さに大きな穴を開けられている。針金で探ってみるがそれほど深くはないようだ。一応スミチオンで消毒しておくが、果たしてどうなるか。根元の被害はと点検するが大丈夫。それにしても少しずつ枯れていくのがなんとも身を切られるようでつらいものだ。Img_3321Img_3742_2 


何度も倒れるので、完璧な支柱をしたら、、、、




Img_3735_2
虫にやられて、枯れてきた。



今日のじょん:小さな虫に吠えているじょんを見ていると情けなくなるのだが、猿に対する反応は頼もしい。夕べ暗くなって雨も降ってきた頃、ぼーっといぢけていたじょんが飛び起きて凄い剣幕で吠えている。山の方を向いて吠えてるので外に出ると居る居る、あの不気味な鳴き声が聞こえてくる。鳴き声が聞こえるのか臭いがするのか、とにかくじょんはえらい。Img_3641

栗を取りに来た猿を追っているところ、なかなか凛々しい。

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日吉町地名散歩(4) 9/17 

2011-09-18 | 歴史・民俗

2011.9.17(土)曇

 地名考察なんて大仰なタイトルにしていたのだが、今回の目的は地名の考察ではないので「地名散歩」というタイトルに替えた。悪しからず。
 さて稗生(ひよ)という地名だが、”ひよう”=運材夫というあまりにもタイムリーな情報を見つけたもんだから断定的に書いてしまったが、実はその証拠は何もない。地名というものはそういうもので、最近に付けられた合成地名などはその由来ははっきりしているが、歴史的には意味がないものとなる。(例えば上林の老富町とか五泉町など)古い地名となるとその根源を探るのは困難を極め、様々な方法を駆使して探るわけだが、それでも決定的な証拠というものは無い。納得できそうなものをその由来とするわけだが、必定各論並記となる。断定的に述べられている論文などは、怪しいなあということになる。
 稗生について、「稗が生えていた」「峠、標杭、境」というのは納得いかないが、他に「撓んだところ、曲がったところ」という意味がある。全国方言辞典に「びよる 動詞 撓む。 重いものを載せると棚がビヨル」とある。
 塙静夫「とちぎの地名を探る」に、宇都宮市兵庫塚町、大平町伯仲字兵庫について兵庫(ひょうご)はヒヨ・ゴで撓んだ地形のところと解している。もともと撓んだ地形で湿地帯となっているそうだが、木住川流域の上稗生、下稗生がそういう地形かというと何とも言えない。もし稗生(ひよ)がヒヨル(撓む)という意味から来ているとしたら、
実は上稗生の東にある峠を指しているのではないだろうか。つまり峠、嶽がヒヨと読まれ、その由来が標杭、標石にあるというのは柳田国男氏などが言っており定着しているようだが、実はその由来はヒヨルという動詞なのかも知れない。峠というのはどこから見ても撓んだ地形である。
 もし上稗生が峠から付いた地名なら、下稗生は稗生の下方、下流にあるということで付いた地名かもしれない。
 稗生地名について、運材夫と撓んだ地形という二つの候補を挙げたいと思うが、どちらが正解なのか、あるいは他に語源があるのか解らない。地名というのはそういうものである。
 木住川中流に犬飼、下犬飼というところがある。犬地名は金工地名の可能性がある。鉱脈を探す鉱山師が犬と呼ばれたこと、鉱山に関する説話に犬がよく登場すること、犬飼部と鬼伝説との関係など様々な理由があるようだが、古代の鉱山の付近に犬地名がよくあることは確かなようだ。
 ところが犬飼(いぬかい)という地名はイヌ=低い、狭い カイ=峡、谷または井堰ということで、低い山に囲まれた谷を示すという。(鏡味完二「地名の語源」)
木住の犬飼、下犬飼辺りの地形を地形図で見ると、確かに両岸の山が周囲より幾分低くなっているようだ。Img_3701
 
木住川流域は全体的に両側の山が低く、谷が明るい。奥上林を走っているみたいだ。写真の生畑にはマンガン坑があったのだが、どこにあったのか確認できていない。


 上林の武吉から和知へ越える犬越峠(いぬごしとうげ)という峠がある。金工に係わる峠名かもと思い一度訪れてみたかったのだが、地形図を見るとやはり撓んだところ、低いところを越える峠と言う意味だととれる。上林の南の郡境をなす山稜は600~800m級の高さなのだがこの峠は400m台で、いかにも撓んだ、低い峠といえる。つづく

今日のじょん:久々にモモ姉さんが来た。都会の娘なので相変わらずきれいだ。こういう犬は上林にはいない。不釣り合いというか似合わないわけだ。じょんは、「うっさいなあ」と嫌われるのは解っているのに一緒に遊びたいようで、クンクンクンと大変である。ところが生憎の雨と店の忙しさで出してやることが出来なかった。するとどうだろう、一晩いぢけてしまってじょんっと呼んでも見向きもしない。いやーまいったなあ、こんな事ってあるんだろうか。Img_3740   
 

ぐちゃっといぢけている。 

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日吉町地名散歩(3) 9/16

2011-09-17 | 歴史・民俗

2011.9.16(金)曇、雨

 木住の意味するものは、岸谷、遊里、鳥取県のものはともかく日吉町の木住(こうずみ)は単に木を積む、木を積み出す等の意味ではないかという気がしてきた。
というのは木住川(こずみかわ)に沿って走っているとき、南丹市営バス停留所に「下ひよ」という表示があった。下稗生と書く、おもしろい地名だなあと思ったが、小字名の中には無いので大字名なのだろう。一般的に”ひよ”というのは峠や境を指し、柳田国男「地名の研究」に詳しくあり、峠、嶺を”ひよ、ひょう”と読ませているぐらい一般的であり、その例も多い。境のしるしとして立てた標杭や標石から来ているのだろう。Img_3505
 
兵戸峠(ひょうどとうげ)は大分熊本県境にある。(2007.3.23)


 ところが下稗生(しもひよ)があるところは峠でもないし境でもない。峠の下の地域と考えるのかなあと思いつつ走っていた。
 後日角川地名大辞典で調べると、元々上稗生村、下稗生村があり、明治になって生畑村(きはたむら)の一部となっている。そして稗が生えていたから稗生(ひしょう)の”し”が消えて稗生(ひよ)村となったとお決まりの言い伝えを書いてある。もちろんこれは芹が生えていたから芹生(せりょう)ではなく、粟が生えていたから粟生(あお)でないのと同様で付会といえよう。稗なんてどこでも生えており、稗が生えて稗生なら日本中が稗生となろう。
 それにしても峠や境を表す”ひょう”地名はその語源からある地点をポイントとして示すケースが普通であり、稗生のように広い地域を指す地名としては不自然な感がする。増してや峠や境に当たるような場所でもないのだ。
 そんな時、海老坂のことを調べるべく澤潔氏の「北山を歩く 3」を読んでいて、眼から鱗の大発見をした。
 「信州遠山谷では、このような運材夫を「ヒヨウ」と呼んだ。そのわけは、彼らの給与が日給制であること、つまり日傭(ひよう)取りであったことに起因する軽蔑語であった。」というものである。日傭が軽蔑語であるとは思わない、当時の農山村に於ける賃仕事はほとんどが日雇いであったと思うし、村人にとっては貴重な現金収入であったと思われるからだ。ただし地名が付こうかという時代に現金が支払われていたとは思えない、上林でも杉や檜を伐採した対価は杉皮や檜皮だったと聞く。
 運材夫とは何かというと、名のとおり材木を運ぶ人夫なんだが、水系が異なり筏も鉄砲(川水を溜めて一気に流し、木材を流す運搬法)も使えないところで、峠を越えて筏の組める水系に運ぶものをいう。例えばこれから紹介する海老坂や神楽坂などは由良川と大堰川を最も近く結ぶ峠である。由良川沿い美山町の豊富な材木も需要があり市場のある京都に運ばなければ意味がない。そのために人手を使って峠を越え、大堰川水系へ運ぶわけである。
 二十年近く以前に廃村八丁に向かうべくコシキ峠を越した。八丁村の材木も人の背によってこの峠を越して大堰川水系を下ったという。峠名は諸説あるようだが、こじつけでもいいから越木峠にして欲しい。八丁川を鉄砲で流したという事も聴いた。その場合は由良川を流れてゆくので、再度海老坂や神楽坂を越えるのかも知れない。いずれにしてもこの地域で相当数の日傭が必要であっただろうし、稗生がその供給源であった可能性は大である。
Img_3704_2
小畑の分岐、真っ直ぐ行けば峠を越えて明日谷へ、左へ行けば四ッ谷に行く。このあたりの材木は木住川を下るのだろう。 



 木材の運搬については余り詳しくないのだが、普通に考えると由良川水系の木材は田原川が主流であろう。もう一つ峠を越して木住川を利用するとは考えにくい。ただ上稗生というのは木住川の源流にあり、440~450mの低い峠が二つ京北の明石川源流に抜けている。この地帯は大堰川水系なのだがこの峠を越えて木住川を下る方が距離的に随分短そうである。その峠名は今のところ解らないが少し南の大きな峠は中世木川に下り、持越峠と呼ばれている。これ等の峠を運材夫が越えたと想像するのだが、そうだとすると木住川は木材の集散地となる。
そういう意味で木住(こずみ)は素直に木に関する地名と考えるのが順当なのかもしれない。つづく

【作業日誌9/16

第三木小屋作り(柱造作)

今日のじょん:今日はじょんシャン日、身体の様子から見て絶対に体重が増えていると思ったのに減っていた。18,2Kgで400g減。増えていたらビシビシ鍛えようと思っていたのに拍子抜けである。まっいいか。Img_3732

毎日ごろごろしてる割によく食うから太ってると思ったんだがなあ。



 

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