晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

歯痛のため記事休みマス 4/26

2013-04-27 | 日記・エッセイ・コラム

2013.4.26(金)晴れ、曇り、雨

 数日前から数十年ぶりの歯痛が続いている。だんだんひどくなるようで、歯医者に行ったのだが、虫歯ではなく知覚過敏だとか。ガリガリやられないで安心なんだけど痛みは取れない。とにかく集中力が無くて記事が書けない、しかも鎮痛剤なんか飲むから眠くて仕方が無い。てなわけで歯痛治るまでお休みといたしやす。
 そのうち復活するけんね、歯医者復活なんちゃったりして

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畑の準備 4/25

2013-04-27 | 違いのわからん農学士

2013.4.25(木)快晴

 昨年秋冬野菜の播種時期を逸し、大根は育たないわ、白菜は巻かないわで大失敗だった。今年は反省を生かして、早い目にジャガイモを植え付けた。
 いろんな人に霜にやられるでと脅かされたが、幸い霜害にも遭わず元気に育っている。そろそろ第一回目の土寄せをしようと思っている。これは追肥の意味もあるので重要かと考えている。
 追肥と言えばタマネギだが、近所の方に2月に追肥すると生育が良いと聞いたので、しっかりやった。今までは追肥などしたことが無かったのだ。そのせいだか知らないが、やたらと小さなタマネギで、それはそれでいいのだが、何となく淋しいものだった。追肥のおかげで今回は葉も大きくしっかりとし、緑も濃い。今回特にサラダ用の赤タマネギも作っているので随分楽しみ。P1040373



タマネギ、ジャガイモ順調順調。

 さて問題は夏野菜の植え付け準備である。今年は気候の加減もあるのか周囲では準備が早い。もっともプロは耕耘機でさっさと耕してしまうのだが、こちとら弥生時代と変わらぬ鍬でコチコチやってるのだから大変。その上連作に次ぐ連作で収量もすっかり落ちている。さりとて値の張る接ぎ木苗を使うわけにもいかず、せめて堆肥でもしっかり入れようかと考えている。
 そうこうしているうちに桜井さんがヤーコンの種芋をくださった。糖尿病にいいとかで適当に植えてみる。
 とりあえずゴールデンウィークには苗の植え付けが終わるようにしたい。
 それにしてもよく草が生えるなあと眺めていると、サワサワと草が動く。スワッ蛇かなとみていると、きょろきょろと辺りを見回すネズミが出てきた。倉庫ではハツカネズミを見つけたけれど、畑のネズミはやや大きい。ネズミ獲りをしかけたら4匹もかかってしまった。ゾー
P1040372




【晴徨雨読】211日目(2007.4.25)三次~尾道
今日のメインは広島県立歴史民俗資料館である。併設の三次風土記の丘は30?、古墳数3,000基という大規模な史跡公園である。到着地点にあればしっかり見学するのだが、スタート地点ではゆっくりできない。残念ながら民俗資料館のみの見学となる。広島県も島根県同様たたら製鉄の盛んな地で、出雲では原料を取り尽くして早くに閉山していても、広島ではたたら終焉の時代に操業中であったところが多くあると聞く。この資料館で買った「中国山地のたたら製鉄」という冊子は写真も多く、今でもバイブルとなっている。Img_4767







【今日のじょん】最近夜明けが早いせいか、じょんの目が覚めてから散歩に行くまでの時間が長い。そこでストレスが溜まるのだろうか、ゴミを放り出すことが多くなった。P1040380




 

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またしても鹿事件 4/24

2013-04-25 | 日記・エッセイ・コラム

2013.4.24(水)雨

 昨晩のことである、11時前後だろうか、府道でドーンという音がする。
ありゃあ事故だっと思うが人身事故ではないので慌てない。こんな夜中に人が歩いているはずがないのである。おもむろに起きて外を見るとヘッドライトを点けた車が停まっている。人も車の様子など見ているようだから、けがなどは無いようだ。やがて帰って行ったので車も問題なかったようだ。
 問題は轢かれた動物の遺体である。いつものことなんだがなぜか道路の中央に倒れている。今回もようく見るとセンターラインやや横に倒れている。
 これって大変危険なことだ、気づかないで乗り上げたら事故につながりかねない。以前には死骸を引きずって安全な場所に移したりしていたのだが、風呂も入り寝間着姿になってなっている今そんな気になれない。しかも雨が降っているからだ。
 幸い連絡があったのか、すぐに片付けに来られたようだ。
 一夜明けると現場は雨で流されているが、歩道に死骸をかたづけた跡と乗用車のバンパーが落ちている。どうも相当の衝突だったようだ。深夜のことでもあり、広くて真っ直ぐな直線路なのでスピードも出ていたのかもしれない。
P1040366



白いのは肉片だろうか、バンパーが左手に転がっている。倒れていた地点はこれより右手10mぐらいか。当たったのはさらに右手、綾部側だろう。


 それにしても思うことは、今年はこれで二件目の鹿の事故である。この地に住んで5年間に4頭の鹿事故があったが、その半分が今年起きていることになる。
 それともう一つはこの地域が完全に鹿の通り道になっていることだ。人が減った地域には動物が増加する。そして被害を被るのは最後まで残った少数の人間である。

【晴徨雨読】210日目(2007.4.24)奥出雲~三次
 大製鉄地帯をかすめたり通ったりしながらも興味を持つことなく来たが、さすがにこの日の行程には製鉄に絡む遺跡や資料館があって興味を持たざるを得なくなった。
Img_4664Img_4665



隠地たたら跡、川水が鉄分で赤茶けている。
Img_4713



庄原市西城町の資料館で見た鉄滓。


【今日のじょん】前回鹿事故の際には道路に残った死骸の痕跡に強烈に反応したが、今回は離れているとはいえ知らん顔している。雨のために臭いが消えてしまったのだろうか。興味津々のかみさんをよそに、かんけーねえところばかり嗅ぎ廻っている。P1040367

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ドッグランど奮戦記(1) 4/23

2013-04-24 | 日記・エッセイ・コラム

2013.4.23(火)晴れのち曇り

 ドッグランどの納期が迫っている。開店五周年記念日(6月1日)にはそれなりに格好をつけねばならない。思えば当初の完成予定は2009年春である。4年遅れて、5年目に入っている今、遅れている理由もあれば言い訳もあるんだが、ぐっとのみ込んでまい進しようと思う。それにしてもプレッシャーだなあ。かみさんは広告会社の取材まで決めてプレッシャーをかけてくる。
 というわけで、暖かくなれば行きたいところもあるんだが我慢して工事工作にいそしんでいる。
 今日はじょんのシャンプー兼水回りの清掃で半日がつぶれ、午後2時半からの作業となる。
 ウッドデッキ東側扉の周囲を煉瓦張りにするための作業と西側階段付近の芝生張り準備だ。P1040374



煉瓦を張らないと扉が着けられない。

 煉瓦は先日に準備済みなんだが、とにかく整地をしなければならない。煉瓦をモルタルで固めるか、セメントだけで仕上げるか決めていないのだが、とりあえず掘って平らにし、バラスを敷き詰める。これ以降の工程はインターネットで調べてみよう。
 芝生の作業は、暗渠排水路(といっても暗渠にはなっていない)の横の土を削って真砂土を入れる。後は芝を買ってきて引くだけだ。P1040375

 


いつかは全面芝にしたいのだけれど、、、。

 とまあここまでやって1日が終わる。結構気が遠くなるような話だけど、先日からの植木の植え付けといい、少しずつ格好がついてきているのが楽しみでもある。

【晴徨雨読】209日目(2007.4.23)松江~奥出雲町
出雲の最も出雲らしいルートであった。菅谷に行かなかったことを悔やんでいるが、今日のルートも今から思えば鉄地名、鉄遺跡の宝庫のルートである。今このルートの旅を予定したら最低3日は滞在するだろう。当時は鉄に関する興味も知識も無かったので、「何とつまらない地域だこと」と思い通りすぎてしまった。そして亀嵩に松本清張のゆかりの地を見つけ感激していたぐらいだから。
Img_4639Img_4647



島根の国道沿いでもこれだから、枝国道ではいかがなものだろう。
亀嵩はその呼び名だけで砂の器の舞台となったのだろうか。


【今日のじょん】ドッグランどがだんだんできてくるんだけど、じょんにとっては行動範囲が狭くなってくるみたい。
P1040365

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飯盛山(8) 桟敷ヶ岳考 4/22

2013-04-24 | 飯盛山

2013.4.22(月)晴れ
 「磐座(イワクラ)」の岩田女史の論文の中に桟敷ヶ岳(さじきがだけ・896m)が登場する。その西に飯森山(798m)があり、有視界での測量方法や陰陽道による方位の問題などについて論じられている部分なのだが、今のわたしには未だ理解できていない。ここのところは重要なところなので何度でも読んで理解したいと思っているが、ここでは桟敷ヶ岳の山名について、以前に書いたことがあるので改めて他の研究者の意見も踏まえてご紹介したい。P1040376


 澤潔氏は「北山を歩く」の中で、サシ、サスは焼畑のことでキはところを表すものとして、桟敷は焼畑地と解いている。
 また、「地名を歩く」(南島地名研究センター)では南城市の佐敷(さしち)について地滑り地名と解いている。(2013.2.22桟敷ヶ岳参照)
 桟敷ヶ岳周辺に地滑り地形を見つけて、さもありなんと思っているのだが、気になるのは桟敷ヶ岳に残る惟喬親王(これたかしんのう)にまつわる伝説である。
 惟喬親王は弟の惟仁(これひと)との皇位継承争いに敗れた悲劇の親王とされているが、それは彼らの幼少の頃であって周囲の権力争いの結果である。小野氏との関係や木地師の租といわれていることなど謎も多いのだが、北山一帯に口碑伝承が数多く残されており、小野三十二村(左京区田中から芹生辺りまでの広大な地域)と何らかの関わりがあるものと思われる。
 それはともかく、桟敷ヶ岳に残る惟喬親王伝説は、「惟喬親王が北山に隠棲していた際に桟敷ヶ岳山頂付近に桟敷を作って都を眺めてなつかしんだ。」というもので、伝承上の桟敷ヶ岳の山名由来となっている。
 当初この伝説は桟敷ヶ岳の桟敷にかけた単なるこじつけと考えていたが、岩田女史の飯山ネットに関する論文を読んだときに、「桟敷を作って都を眺めた」という部分が実は過去の事実に由来するのではないかと勘ぐっている。
 山頂の南に「都ながめの岩」という岩があり、そこが桟敷のあったところともされている。過去に登った際にはそういうことに何の興味も無かったので、この岩の存在さえ気づかなかったのだが、何らかの測量の目印になっているのかもしれないと想像している。

【晴徨雨読】208日目(2007.4.22)松江滞在
松江市内見学、松江城は何度訪れてもいい。天守は元々の建物ということでおそらく日本で唯一だろう。徹底的にお城見学をして印象に残ったのは石垣の刻印である。Img_4585
 



 松江市内も一部ではあるが彷徨し、落ち着いた街を堪能する。例によって一番うれしい発見は、向日町で行きつけだった「ラウンジ京」とサヌカイトの大石、「大庭の音のする石」である。
Img_4629



サヌカイトの大石、カンカンと金属音がする。

【作業日誌 4/22】
夏野菜用畑の準備、ヤーコン植え付け


【今日のじょん】比呂子ちゃんちのコロ助が挨拶に来た。生後二ヶ月だって、、。イヤ~カワイイ。じょんもこんな頃に見に行ったのだよ。
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じょんがおっさんに見えるのでアリマス。 

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飯盛山(7) 飯谷-5 4/21

2013-04-22 | 飯盛山

2013.4.21(日)雨

 飯の山は見つけることができなかったが、帰宅後岩田女史にいただいた彼女の論文の載っているイワクラという本の中に飯の山の特徴と言うべき11項目が書かれている。その中に、「港の入り江近くで海上から目立つ場所か、鉱山の近くで川が蛇行している場所にある。云々」「白山または黒森という山とレイ・ラインで測量されていることが多い。平地の白山神社と測量されている事も多い。云々」という2項目が当てはまる気比の白山神社のある山(194m)が気になる山である。P1040317
P1040339

 


城崎温泉方面から。これが白山神社登り口。

 稚拙な調査で岩田女史のお役には立たなかったと思うが、昨年1年間で京都府を出たのは大津市に1回だけのわたしが、岩田女史にお会いしてすぐに四條畷市、豊岡市に出かける予定があったのは偶然とはいえ不思議な感がするのである。

 【晴徨雨読】207日目(2007.4.21)出雲市~松江市
 宍戸湖の北をのんびりと松江に向かう。寒い上に天気も怪しくてあまり気持ちのいいサイクリングでは無かった。実は30数年前、出張でこの辺りに来ているのだ。一畑電鉄で平田に行った憶えがあるが、ずいぶんな田舎だった。方言が東北と似ているといったことが記憶に残っている。山陰に入ったことで、終了間近で激励のコメントが入っているが、これから瀬戸内に南下し四国を回り、また山陰に戻ってくるのだ。Img_4554



立派な自転車道あり


【作業日誌 4/21】
ヤマボウシ植え付け

【今日のじょん】朝は、雨降ってじょん固まる。昼はネクタイして接客業。P1040357
P1040358
   
  

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飯盛山(6) 飯谷-4 4/20

2013-04-22 | 飯盛山

2013.4.20(土)曇り、雨
 

 許された時間が迫っているので飯谷峠に向かう。例の分岐からうねうねとした道を上がってゆくが、しっかり舗装されているので問題なく、思ったより多くの利用車両が通過する。元韓国神社のあったミヤズというところもこの方面らしい。峠は切り通しとなっていて飯谷側の展望はきかない。気比川方面は少し開けているが里は見えない。気比川に向かって降りてゆく。
P1040336P1040337

 


飯谷峠、飯谷側と気比側

 気比(けひ)という地名は気になる。敦賀に気比神宮があり伊奢沙別命(いざさわけのみこと)が主祭神である。この地名、祭神が今ひとつよくわからないのだが、そうあちこちにあるものではないので頭に入れておこう。
 時間的に余裕が無いので、気比川に沿って下り城崎に戻ったわけだが、気比の辺りで左手に白山神社を見つける。神社本殿は尾根を登って、194mの山頂にあるようだが、この山こそ城崎温泉の端から眺めた神奈備の山では無いだろうか。本来なら山頂に向かうべきなんだが、時間不足のため登り口のみ写真に撮って城崎に急いだ。P1040340



白山神社参道


 考察
 楽々浦(ささうら)について後日調べると、「鬼伝説の研究」(若尾五雄)にそのヒントがあった。氏が鬼伝説あるいは金工史について研究される発端となったのが楽々福(ささふく)という地名や神社名であった。この本については図書館の借本なのでメモしか残っていないのだが、ササ=銅、砂鉄もありかとメモしている。また、「城崎町楽々浦・・・銀・銅」とメモしている。つまり楽々浦は金
属関連地名なのだ。
  かといって飯谷周辺に金属関連の地名を見つけられるわけではない。地名大辞典(角川)でも但馬周辺の小字名を公開していないそうなので詳しく調べるわけにもいかないようなのだが、2万五千図や遺跡案内板に出てくる地名では金属関連は見当たらない。
 気になるのは遺跡案内板にある、字明租庵の鐘堀田伝説、字塩坪のカゴン谷遺跡から鉄製直刀、矛等が出土していることである。
 飯谷川は金気が多く、赤く沈着している。鉄分が多いのは事実だがそのことが直接産鉄につながるとは言えないだろう。ただ参考という風には言えるのかもしれない。

 韓国神社の祭神でもあり、かつて物部神社と言われていたように、この地が物部氏にゆかりの地であることは言えるだろう。

 飯の山についてであるが、表面的には「飯谷」はハンダニであって、直接「飯・イイ」にはつながらない。ただ飯能(はんのう)などの例もあるから、元々イイであったのがハンとなったこともあるかもしれない。こういった場合の探索の仕方などは専門の岩田女史でないと解らない。
 また、実際のレイラインなるものがこの地方を通っているのかということも聞いてみたい。つづく

【晴徨雨読】206日目(2007.4.20)仁摩~立久恵峡~出雲市
今島根県で一番行ってみたいところは菅谷たたらである。県内の山間部を縦横無尽に走りながら、ここだけを上手に避けて、周囲を廻っている。もっとも製鉄遺跡はどこにでもあったのだが、あまり興味が無かったのだろうか。立久恵の水害被害には驚いた。
Img_4520



これ、橋が無くなってるのだ。



【作業日誌 4/20】
クチナシ植え付け

【今日のじょん】いや~可愛いワンちゃんですねえ、、、そうじゃないんです、これキツネなんですよ。一瀬さんがちょっと変わった写真を持ってきてくれました。カタクリソウの丘にキツネが現れたんですって、二度と姿を見せなかったそうでごんぎつねカモネ。P1040354

 

 

 

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飯盛山(5) 飯谷-3 4/19

2013-04-20 | 飯盛山

2013.4.19(金)曇り

 韓国神社へは普通車は辛いので、公民館に置いていくよういわれていた。川沿いの道をどんどん遡るがどれが公民館か解らない。だんだん道は細くなり、あやしげになってきた。出会った人に「公民館はどこですか?」と聞く。随分行き過ぎているようだ。走行していると右手上から軽トラが降りてきた。三叉路に待避しやり過ごし、這々の体でUターンする。
 お堂のようなところで子供たちが遊んでいるので聞くと、そこが公民館だった。子供たちが神社への道を案内してくれたので、歩いて出かける。
 韓国神社は延喜式神名帳には物部神社と書かれており、祭神物部眞鳥(まとり)が韓国連の姓を賜ったことに由来し明治初年に韓国神社と改称したとある。
 元の位置は字ミヤズというところで、昭和2年3月の山崩れ(北丹後地震)で崩壊し、翌年現在地に移された。
 従って現在地の神社で何かを見つけようというのは無理があろうと思える。境内にある石碑は昭和四年の銘があり、韓国神社の由来について書かれているようだ。まだ解析していないのだが、中に楽々
浦岩崎石云々という文言があるのが気になる。
P1040328P1040329



韓国神社と石碑


 神社に行くとその摂社を一番気にする。摂社にこそその神社の元来の姿を見ることがあるし、そうでなくてもその地域の古代の住民や文化についてヒントを与えてくれるからだ。しかし残念ながら摂社に祭神名は記されていなかった。こうなると何か他の方法で調べなければならない。P1040330



3社ある、一つは稲荷社とも聞いたが、、。


 神社に行くと周囲に落ちているもの、置いてあるもの、奉納物、石造物などの観察をする。石造物では盃状穴の有無や刻まれた年号などを見る。盃状穴も見られず、古い年号も見当たらなかった。もっとも時間の関係で詳しく見られないので、見落としもあるかもしれない。
 結局韓国神社で何かを発見することはできなかったが、非常に特徴的な石材が多く使われていることに気づいた。火山性の岩石と思うがやたら穴の開いた灰褐色の岩石である。
P1040333P1040335

 


境内にある特徴的な石と付近の家の庭石。



 神社から帰って行くと、道脇の家の庭にも同様の石が使われている。ちょうど田んぼで鍬打ちをしている方があった。
「この辺は昔石の産地でしたか?」
「そうそう切り出していたらしいよ」
「何か有名な名前が付いていましたか?」
「何か忘れたけど、なんとか石って言っていたみたいだよ」
「ありがとうございます」
その石が、例の石かどうかは解らないが、飯谷川の下流に石材店が今もあるのはその名残だろうか。つづく

【晴徨雨読】205日目(2007.4.19)仁摩滞在、石見銀山訪問
世界遺産登録審査中の石見銀山で、町並みはそれなりに整備されている。そのとってつけたような整備が嫌で、世界遺産には反対だ。最も地元では起死回生の観光開発として重点的に推進しておられる。これも当然のことだろう。旅行中だったか結果が出て、一応選に漏れたようで、内心ほっとしたのだが、再度答申の結果世界遺産となった。
 佐昆売山神社から石銀集落、大規模な間歩が集まる谷を誰にも出会うことなく歩けたのは幸いであった。鉱山好きにとってはもうドキドキハラハラの大興奮であった。今再度訪れたら幻滅するだろうから、多分二度とは行かないだろう。
Img_4484Img_4491



釜屋間歩、こうなると芸術品である。至る所に五輪塔や石碑がある。


【作業日誌 4/19】
紅千鳥(紅梅)、吉野ツツジ?2 白糸濱の植木市で購入、植え付け
P1040352



植えた木にオシッコすんじゃねえよ

【今日のじょん】
狂犬病予防接種、フェラリアの薬購入にキャドックさんに行く。行きがけにジローの家による。痩せてはいるが元気そうで、お土産のおやつもバクバク食ってたのでまだまだ長生きしそうだ。帰りにクチナシの苗をいただく。
P1040348P1040347



ジロやん元気だぜ
   

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飯盛山(4) 飯谷-2 4/18

2013-04-19 | 飯盛山

2013.4.18(木)晴れ

 そこの小屋には農作業中の谷口さんという方がおられ、親切に答えてくれた。
まず、飯谷の地名について聞く。これが驚きで、「イイタニ」ではなく「ハンダニ」というそうだ。P1040325

 



 太古この谷は入り江であって、海水が引いた後、物部眞鳥という地方の長が開墾をした。開墾をした谷なので墾(はり)谷となり、転訛して飯谷(はんたに)となった。
というものである。
 縄文海進時には確かにかなり奥まで海水が浸入していただろう。海進が終わって水が引いた後に開墾されたのも間違いないし、開墾された土地をハリ、ハル、ハンと呼ぶのも一般的で(今治、名張、針田、治田、半田など)、物部眞鳥はともかくこの説は妥当性がある。
 ところが谷口氏はこの谷の米のことについてもお話ししてくれた。
 この地の米は魚沼産にも負けない美味い米で、稲の成長が良いので茎が長く、その藁で作ったムシロは飯谷ムシロといってかつては著名な産地であったということだ。
 「土地が粘土質な訳ですか」と聞くとまさにその通りだという答えであった。となると飯谷の飯(ハン)の語源はハニ(粘土、赤土のこと。)かもしれない。「地名の語源」(鏡味完二)には、ハンダ=粘土地、泥地の田として、判田、飯田、繁田などをあげている。
「飯の字の付く山などはありませんか?」「無いねえ」

「カゴン谷遺跡に行ってみたいのですが、どちらですか?」
「その遺跡は道路工事かなんかで無くなってしまったよ」
「どの辺にあったんですか?」
「あの下の竹藪のところ」P1040326



カゴン谷遺跡は竹藪のところにあったそうだが、現在は無い。



「その向こうの形の良い山はなんて言うのですか?」
「あの山にはお城があったので城山と呼んでるよ」
「他の呼び名は無いですか?」
「城山としか呼んでないねえ」
P1040321



城山、二眉城祉か?

「橋のところの岩盤が真っ赤になってますねえ」
「あれは金気が強くて染まってるわけ、この辺は金気が大変強いんだよ」P1040323




橋の下の岩は金気で真っ赤である。

「これから韓国神社(からくに神社)に行ってみたいのですが、なんで韓国神社と言うんですか?」
「物部眞鳥が朝鮮に渡って、刀なんかを持ち込んだとも言われているが、韓国連の姓を賜ったからだそうだ。一時は韓国と関係があるとかで韓国人のお参りなどが増えたときもあったが、物部氏なんだから韓国とは関係ないと思うよ」

 こんな感じで聞き取りをして韓国(からくに)神社に向かう。つづく

【晴徨雨読】204日目(2007.4.18)浜田~太田市仁摩町
温泉津では久々にらしい温泉に入る。この町で不思議な人物に出会う、といっても嘉永3年の生まれというから江戸時代の人物である。
 それは浅原才市(あさはらさいち)というのだが、町には生家が残っており、顕彰碑があったり、才市の湯なんて温泉らしきものもある。
Img_4392Img_4391Img_4390




 ところがこの方、いったい何をした人なんだか解らない。解らないから本文記事に書いていないのだけど、下駄職人をしていて、えらく信心深い人とはあるが、それだけで名が残るとは思えない。思えば二宮尊徳だって薪背負って本読んでる姿は知っているが、いったい何をした人か、あんた知ってるかい?Img_5153



(2007.5.7)


【作業日誌 4/18】
ドッグランど、柵作りP1040346




【今日のじょん】一時ウォーりーを探せなんてパズルゲームがあった。さてこの写真から探してほしい。何かな???P1040295

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飯盛山(3) 飯谷-1 4/17

2013-04-18 | 飯盛山

2013.4.17(水)曇り

 豊岡市飯谷
昨日(2013.4.16)城崎温泉の1日入浴券があったので家族で訪れる。御所の湯に入浴し、昼食をとり再度入浴しようという時間に一人で飯谷を訪れる。岩田女史が上林に来られた時、飯の山の候補地だと聞いたからだ。ところが車の中で運転中に聞いたものだからはっきりそこであったか不安は残っている。地図で見る限りそのあたりに飯(いい)のつく地名は他に見当たらない。
 飯について素人の私には十分な調査はできないし、いったい何を調査すればいいのかもわからないのでとりあえずやみくもに訪問して岩田女史に報告しようと思う。
 

  城崎温泉から城崎大橋を渡って左折、保養所や老人施設のあるところを通りすぎる。楽々浦という地名らしく、どこかで見た地名だなあと思うが思い出せず、先を急ぐ。実は城崎温泉で昼食をしているとき円山川の向こうによく目立つ神奈備の山を見つけており、この山が飯の山かもしれないなあと思いつつハンドルを持っているのだが、いざその麓に来るといったいどれがその山か判らない。
P1040317

 



大江戸温泉物語から円山川方面に特異な山が見える。


 すぐに飯谷峠への分岐点に着き車を置く。少し離れたところで椎茸菌の打ち込みをしている方が見えたので聞き取りに行く。といっても何を聞いていいか判らないので、韓国神社(からくにじんじゃ)への道を聞く。
 普通車では道が狭すぎて無理なので公民館において歩いて行くよう教えていただく。お礼を言って元の分岐のところに帰ってくると、橋のたもとにこの地区の遺跡などの案内看板がある。
P1040322
P1040324

 

飯谷峠への分岐に車を置く、その橋の上手に遺跡の案内板があった。


 カゴン谷遺跡(字塩坪)
 カゴン庵伝承の地、現在二㎡の敷石とそれに至る90cm×170cmの通路と思われる敷石が存在する。須恵器、鉄製直刀・矛等が出土した。

 神社跡(字ミヤズ)
 昭和二年三月の山崩れで倒壊し、昭和三年十一月現在地に移転、延喜式神名帳によれば、物部神社と記されているが祖神真鳥命が韓国連の姓
を賜ったことから韓国大明神と呼ばれるようになる。明治初年、韓国神社と改称した。

 
 鐘堀田伝承の明窓庵址(字明祖庵)など興味深い遺跡が並んでいる。

 時間的制約もあるのでカゴン谷遺跡と韓国神社を訪ねてみたいと分岐のあたりにある作業小屋を訪ねてみる。つづく

【作業日誌 4/17】
たんぽぽ撲滅作戦
ドッグランど柵作り

【晴徨雨読】203日目(2007.4.17)津和野~浜田
 現在では大変興味深い地域で、2日間は逗留しているだろうと思う。残念ながら行き当たりばったりの旅では面白いものも見つけられず、唐音の蛇岩なる標識を国道で見つけ立ち寄ったぐらいである。浜田でも行くところが無くて浜田城址をくまなく探索しているが、今となってはあまり興味もない。Img_4340
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天然記念物唐音の蛇岩、浜田城出丸石垣


【今日のじょん】1日留守にしたら刈り取ったはずのタンポポが一面に咲いていた。刈り取りだけなら納得もするが、根を抜いたものでもチコッと残った根からつぼみや花が開いている。阪神も見習え
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法面、じょんのび坂、坂左、あきれるぜ。 

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飯盛山(2) 4/16

2013-04-17 | 飯盛山

2013.4.16(火) 飯盛山(1)は2013,4,14

 岩田女史がイモリガ嶽を見に上林に来られて、飯盛山に関して熱く語っていただいた。そして女史が出された論文の掲載されている磐座学会編著の「古代巨石文明の謎に迫る」という本をいただいた。その中に女史の書かれた「「飯の山」の秘密」という論文があるのだが、一度や二度読んだだけで理解できる内容ではない。ただし、古代において「飯の山」が測量の基点となっていたことについては理解できる。老富町のイモリガ嶽についてもこの線で調べていこうという新たな希望がわいてきた。
 女史に初めてお目にかかったのが4月7日である。その際に見せていただいた近畿地方の飯山ネットの地図を見て驚いたことがある。四條畷市の飯盛山(314m)がハブ空港のようにラインが集中しているのだ。女史に聞くと、「関西の中心は伊勢なんですよ」と言っておられたが、四條畷もそれに次ぐ集中度だった。
 もう一つは車の中で聞いたことだけれど、城崎温泉の近くに「飯」に関連するところがあるようで調査してみたいという旨を聞いたのだ。
 この二カ所にドキリとすることがあったのだが、それはわたし自身が4月9日に四條畷、4月16日に城崎温泉に行く予定をしていたからだ。昨年1年間の間に中丹を出たのは大津市1回だけだったから、今回立て続けに両地を訪れるのは偶然には違いないのだけれど、不思議な縁を感じずにはいられない。
 もちろん他に用事があって出かけるわけだから、飯盛山の調査に行くわけでは無いのだが、なにかわくわくさせるものがあった。一つの記念でもあるので報告しておこう。
 四條畷市飯盛山(314m)2013.4.9(火)
 かみさんの主治医が移動したので四條畷市に行く。後にも先にも訪れたことのない街だ。事前に調べると病院から2Km弱のところに飯盛山があり、途中遮るものもないのでよく見えるだろうと期待する。道が解らないので第二京阪の寝屋川北で降りて、寝屋川南あたりから国道163号線を東進する。この街道は大阪から奈良を経由し木津川沿いから津に至る古い街道のようである。清滝街道、伊賀街道、木津街道などとも言われるそうである。
 その国道が寝屋川を渡るあたりに猪鼻橋という地名を見つける。とにかく交差点の名前を必死に見ながら運転していたので判ったのだが、その看板を見つけたときはドキリとした。上林のイモリガ嶽の隣にも猪鼻峠、猪鼻岳があるのだ。これは単なる偶然かもしれないが、今後の調査によっては新たな発見があるかもしれないので、ここで明記しておこう。
 さて無事に病院に到着し、受付などを済まし飯盛山を見に外に出る。地図では南東にしっかり望めるはずなんだが、ビルや住宅に阻まれて一部しか望めない。病院に帰って屋上に上がれないか交渉するが、屋上は閉鎖されていて入れず断念、再度外に出て山の見える場所を探しに行く。P1040261



建物の間からはよく望めない

清滝川沿いから忍ヶ丘駅のあたりまで歩くが、いまいち全体が見えない。一部田んぼが残っているところがあり、古い地蔵様も残っている。おそらくこういった田園地帯だったのだろう。P1040263

 


手前は広い田んぼ

 病院に帰る途中で病院の建物を見ると南側中央部分が各階ガラスの開かれた部屋になっている。エレベータで上がると、入院患者さんが食事をとったりしている。お構いなしに窓際に行き心置きなく写真を撮る。今回はこれだけしかできないが、秋に再度四條畷に行くのでそのときは登ってみたいと思っている。調査すべき事項もいくつか出てくるだろう。つづくP1040266



病院の5階から飯盛山


 【晴徨雨読】202日目(2007.4.16)津和野滞在
 長崎で知った乙女峠に行く。乙女峠はキリシタン弾圧の舞台であるが、長崎の原爆被災者の治療に献身された永井隆博士の遺作でもある。内容については本文を見ていただければいいが、井出孫六氏の「峠を歩く」にこの乙女峠が登場し、森鴎外が故郷津和野を語ることも帰ることもなかったのは、この乙女峠の事件が影を落としているのはないかと大胆な予想をされている。(2011.11.22参照)Img_4281




キリシタンが真冬に拷問を受けた池


【今日のじょん】今日は一日お留守番、しかも大好きないくみちゃんも帰ってしまったので大いにショックを受けたみたい。帰ったらゴミ箱掘り出していた。P1040341
P1040310



ゴミ掘り出しも可愛いもんだけど、、、。朝はこんなに遊んでいたのに。
   
 

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たんぽぽ撲滅作戦 4/15

2013-04-16 | 違いのわからん農学士

2013.4.15(月)晴れ

 先日からたんぽぽ撲滅作戦を展開している。じょんのび村入植当時、庭にぽつんと咲いていたタンポポがとても可憐で写真に撮ったりしていた。ところがそのタンポポが年々歳々増えてきて、庭中タンポポだらけになってきた。黄色い花が咲いているとき、結構きれいで絵になるのだが、その期間は短くすぐに綿毛を放出して、化け物みたいに成長する。あの綿毛の一つ一つが新しい個体になるとしたら、この増えようもさもありなんというところだ。P1040299
P1040301

 


刈っても刈ってもこうなるわけ


 こうなってくると可愛いなんて言ってられない、憎さだけが先に立ち、撲滅作戦を展開することになる。
 芝生のタンポポは根から引き抜く、法面やドッグランのタンポポは綿毛ができる前に刈り取る作戦だ。
 その前にタンポポについて調べてみる。薬効があったり食用になったり随分と有用な植物なのである。今はびこっているタンポポは西洋タンポポで在来種を駆逐して拡がっているという風に思いがちだが、どうもそうでもないようだ。在来種よりも適用できる地域が広いということで、そこいら中にはびこると思いがちだが、在来種は在来種でしっかり存在しているということである。最もどれが在来種かってのは解らない。
 ともかくじょんのびの領土からタンポポの黄色を見えなくすること、これに徹することにした。
 ところがこのタンポポの生命力というのは驚きものである。その根は最大1mにも及ぶというが、そうでなくても先端まで引き抜くことは難しい。すると翌日その根の残った部分の脇から新しい花となる緑の球ができているのである。ちょうど鶏の卵が連なっているようなものである。P1040298
P1040302



根から抜くとあっという間にこんなに溜まり、草引きの用具も数日で壊れてしまう


 ましてや刈り取りで根も茎も残っているものは、翌朝にはしっかり花が咲いている。刈り取った花も数日すると綿毛となって飛んでいる。
 つまりやるべきことは、できるだけ根を引き抜くこと、根の周りの花の元の球体はとっておくこと。切り取った花はすぐに集めて焼却すること、毎日刈り取りをすることだろうか。コンクラーベとなるが、イタドリもスギナもあれほど驚異だったのが姿をひそめてきたのだから、成せば成る。

【晴徨雨読 】201日目(2007.4.15)山口~津和野
山口~津和野の自転車版である。しかも長門峡を自転車で走破するという快挙である。といっても自転車で走った者は幾人かあると思う。ところがツーリング仕様ののMTBでサイドバッグに荷物ぱんぱんに積んでの走破は、ひょっとしたら日本初かもと思っているのだが、、、。鈴が茶屋手前あたりから人影もなくなり、まるで冒険であった。Img_4246
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難関特集写真集

【作業日誌 4/15】
たんぽぽ撲滅作戦
薪割り

【今日のじょん】いくみちゃんが来たら大喜び、お尻尾ちぎれんばかりで暴れまくる。写真は情けない顔のように見えるが、実は「来はったで、来はったで」と喜びを表しているのだ。P1040305

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飯盛山(1) 4/14

2013-04-15 | 飯盛山

2013.4.14(日)曇り

 老富町の丸山(イモリガ嶽、生守山、三俵山、サントウ山)とまぼろしのイモリ村について調べて行くにつれて驚くべき説が現れた。またその説の主唱者の岩田女史が老富のイモリガ嶽をみたいと訪ねてこられた。
 飯盛山については様々な表記があり、飯森山、飯守山、猪森山、生守山などいくつにも書かれるがすべて同じもので、最も多いのが飯盛山なので一般的には代表してこの表記を使うが固有の山名、地名を表す場合は固有のものを使うことにする。
 岩田女史の飯盛山に関する説については順次ご紹介することとするが、わたしが飯盛山に関心を持ち始めた理由から述べていきたい。
 老富町、若丹国境の丸山(545m)は文献によるとイモリガ嶽、生守山などとも呼ばれており、同じく国境稜線上に生守村がかつて存在したという伝説がある。ところがその真東、小浜市にも飯盛山(584m)があり、南川を下ったところに生守(いごもり)というところがあるのだ。これは単なる偶然とは思えないのだが、さりとてどういう意味があるのかもわからない。P1010836

 


雨のイモリガ嶽、坪坂峠付近から(2012.5.29)

 そもそも飯盛山については北山、大森の奥に飯森山(798m)があるのは知っていたし、各地に存在することも知っていた。しかしそれ以上深く追求しなかった理由は、その多くがいわゆる飯を盛った形であり、そのために付いた山名ぐらいにしか考えなかったからだ。
 ところが引地、別所、ユリなどの地名の探索や金属、鉱山の探索を地図上でしていると飯盛山に突き当たってしまうことがよくあった。特に最近では盃状穴に関する探求で播磨地方を調べているとこれでもかとばかりに飯盛山が出てくるのだ。
 古代祭祀の山、金属に関連する山という方向で調べていこうとするが、いったいどうすればいいのか解らない、そして老富のイモリガ嶽に結びつきそうにもなくて困っていたところだ。つづく

【晴徨雨読】200日目(2007.4.14)津和野~山口
津和野は西の京都とか言われて人気の観光の町だが、どうもそういうところは苦手だ。それらしいところへ行ってはみるが印象に残らない。津和野と云えば何だと聞かれたら、乙女峠、津和野城址、幻の大間欠泉と答える。
再度山口に戻って、明日から自転車の旅が始まる。Img_4233



乙女峠資料館

【作業日誌 4/14】
たんぽぽ撲滅作戦P1040296



みてくれこのタンポポの量

【今日のじょん】先日ヘイヘイが脱走してそこいら中おしっこかけまくったので、朝はひとしきりチェックが大変である。チコがいなくなって、闖入犬もいなくなったと思いきや、時たまヘイヘイが飛び込んで大騒ぎとなる。P1040291



   

コメント (1)
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鉄滓(9) 鳥垣-3 4/13

2013-04-14 | 歴史・民俗

2013.4.13(土)快晴 鉄滓(8)は2013.4.4

 桜井さん宅の庭で発見した鉄滓らしきものは、溶岩か鉄滓だろうと予想したのだが、予想通り富士山の溶岩だった。
 あれほどはっきりした形の溶岩が自然に上林に存在するはずはなく、あるとしたらどこからか持ち込んだものだろうと考えた。ところが同じ形状のものが別の草の中にもあったので、もしやこのあたりに自然にあったものではないかと想像したのだ。それならば鉄滓でしかないと思ったのだが、残念ながら富士山の溶岩だった。登山の記念に持ち帰ったとの証言にがっくりくる。
P1040249
 



お騒がせの鉄滓ならぬ富士山の溶岩


 「もっと他にもあるで」と言って箱の中から新聞紙にくるんだ大小の石が出てくる。年月日と山名が書いてある。おそらく山頂の石なのだろう、気持ちは理解できるが、チリ紙一枚でも軽量化に努めていたわたしには考えられないことであった。
 庭にもどこそこの山から持ち帰ったという大きな石がある。いくら弁当の分軽くなると言っても、往路より帰路の方がザックが重いというのはいかがなものだろう。
 溶岩にも磁性があることが解った。青木ヶ原で磁石が効かなくなるというのはそういうことだろう。また、若丹国境イモリガ嶽(丸山)のサンドラ岩は枕状溶岩ということだがこれも磁性がある。
 となるとその前に鳥垣で発見した空洞があり磁性のある鉄滓かもという岩石も怪しくなってくる。
 鑑定できる人に見てもらわないことには、いくら手元に置いていても解決しない。
 P1040018




これも溶岩の可能性もある。そうだとすると物好きな人がどこかから持ち帰ったことになる。

  そうこうしているうちに上林の仏師渋谷さんに会うことができた。平凡社地名体系、光野村に文政4年(1821年)に金の試掘が行われたという記事があり、その場所はわからないものかと光野の山々に詳しい渋谷さんに会いたいと願っていたところである。
 渋谷さんに会うと、その位置はすぐに解り、明治の時代になっても村人による試掘がなされていたようである。いずれ現地を訪れて坑口を見つけてみたいと思うが、それ以上に興味あることを聞いた。
 それはわたしの収集する鉄滓の一部を見てもらったところ、畑口川上流市志の上で同じような石を拾ったということだ。それが鉄滓であったら、清水鋳物師による鉄滓以外のものであることがわかる。
 P1020611




井関家たたら跡(左方の平地)、市志はこれより上流だから、この地の鉄滓はあり得ない。(2012.8.31)

  清水鋳物師、井関氏がなぜ清水で操業したかを考える上で重要なヒントを得ることになるからだ。
 鉄滓への夢は広がる。

【晴徨雨読】199日目(2007.4.13)萩~津和野
萩は観光で何回も訪れているところだが、萩焼の釜元や武家屋敷などおもしろくもないところを当たり前のように回ってきた。今回もそういうところを回っていたのだがやっぱり面白くない。
 日本で一番小さい火山、笠山は面白い。高さは112m、火口は30cmだが、火山のすべての要素はそろっており、約1万年前の釣鐘状スコリア丘単成火山と言うことで立派な火山なのだ。萩を訪れる人は多々あれどもここを訪れる人はそういないだろう。満足、満足。


Img_4207Img_4208Img_4206



一丁前に火口も火口壁もある、歩いても数分で一周する。


【作業日誌 4/13】
ウッドデッキ手すり取り付け
たんぽぽ撲滅作戦

【今日のじょん】じょんを堤防の上に繋いで、コゴミをとるため河原に降りるとなかなかどうしてよく育っている。もう食べられないぐらい育っているものも多い。周囲は鹿の足跡だらけで、よくぞ食べられないで残ったかと感心していたら、実は少し食べられているのだ。いくつかの茎がその痕を残している。不思議なのはすっかり食べられていないことだ。どうも彼らにとってはイマイチおいしくないようだ。試食という段階なのだろうか。そうだとすると今にすべてが襲われてしまう。こんなところまで柵をするようになれば、世の中おしまいだ。
 とにかく夜には食卓に上がることとなった。
P1040286P1040289



じょんは堤防の上で待っていたので写真なし   

 

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大唐内のこと(84) 丸山とイモリ村 4/12

2013-04-13 | 大唐内のこと


2013.4.12(金)晴れ

 そのイイモリ山研究者は岩田さんという女性の方である。事前に連絡をいただいていたのだが、イイモリ山は大和朝廷が地図を作るための測量点として所有した山であるというのがその主旨のようだ。単に地図を作ると言うことではなく、領土、支配の確定、確認というようなことも言っておられ、結界という風に宗教的なものもあるかもしれないと言っておられる。いずれにしても中国の古代国家を源とする発想と手法でその測量は陰陽道による角度を使用しているというのである。
 岩田さん(以下岩田女史と呼ぶ)は本文「丸山とイモリ村」を見つけられ、是非見てみたいと東京から駆けつけてこられた。もっとも仕事をお持ちの関係で、関西に出張があったのでということだった。
 4月7日日曜日、雨のそぼ降る中を、小唐内に向かう。雨でイモリガ嶽が見えなかったらと過去の写真を数枚用意していたのだが幸い晴れ間もあったりして山が見えないと言うことはなかった。P1040256

 


小雨の中、イモリガ嶽の写真を撮る岩田さん、小唐内で

行き帰りの車中に飯盛山(様々な呼び方があるのだが飯盛山というのは最も多いようなので以下こう記述する)に関する研究内容をお聞きし、じょんのびに帰ってからも飯盛山を繋いだ地図を開けて説明を受ける。
 陰陽道だの風水だのといってもにわかに理解できるわけではないのだが、少なくとも飯盛山が測量の基準点として使われたことは信頼できることのようだ。むしろ基準点となった山を飯盛山と名付けたようだ。
 女史はそのことに気づいて以来飯盛山にとりつかれ、ここ10数年300カ所以上の飯盛山を訪れ、地図上に線を引き続けられた。
 永年にわたって集中してこられた成果がとても数時間で語り尽くせぬものではないだろう。最初に論文にされたものが出版されているということで、いただけることとなった。
 本が届いたら理解できるまで読み尽くそうと思う。疑問がいっぱい出てくると思う、すべてを納得いくまで追求して、イモリガ嶽の真実が解明できたとしたらそれは上林の歴史にとって画期的な発見となるだろう。

【晴徨雨読】198日目(2007.4.12)山口~萩
 自転車ではなく車で秋芳洞、秋吉台、青海島、金子みすゞ記念館などを訪ねる。本文の中に20年ほど前に秋芳洞を訪れたとあるが、確かに訪れているのだがどのような経緯で訪れたのか定かでない。景色や内容も覚えていない。自転車で訪れたところは、例えばカンカン石のような路傍の小さな名所でも確実に覚えているのに、バスや車で訪れた旅行は何も記憶に無い。自分の足で路面をみつめながら行く旅がいかに素晴らしい旅なのかよくわかる。Img_4184



金子みすゞ記念館、金子文英堂

【作業日誌  4/12】
ウッドデッキ手すり取り付け、柱立て
P1040285



取り付けた手すりは塗装のため再度取り外し

【今日のじょん】田村さんから2013Wan’s Game in みわ(3.31)のDVDが送ってきた。実行委員会からのプレゼントなんだが、ズッコケじょんの姿を見るのは何ともつらい。他のわんちゃんたちは笑ってみられるのに、、、。
 じょんがおしっこしまくってる何ともみっともない映像も映っている。最もとっくにおしっこは無くなってかっこばかりなんだが、しつけが悪くてスイマセン。
P1040290  

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