晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

上林の盃状穴(37) 番外編 7/31

2013-07-31 | 歴史・民俗

2013.7.31(水)晴れ 京都帝釈天(21)
上林の盃状穴(36)は2013.7.19

 内林町の垣内八幡神社の盃状穴は鳥居の台石と手水鉢に残る。府道拡幅により神社内の多くの設備が更改された際に、なぜこれらの設備が更改されずに残ったかというのが疑問の出発点である。2013.7.23に2回目の訪問をして調査した。

 当初は盃状穴が存在するがために更改されずに残ったのかもしれないと予想した。そうすると神社関係者が盃状穴の何たるを知っている知らないにかかわらず、そこに歴史的民俗的意義を感じたためと考えられる。つまり先人が神事や祈祷の手段として穿ったものと伝えられているかもしれないのだ。少なくとも子供のいたずらで穿たれたというものなら、真っ先に更改されているだろうと考えるのである。
 ところが鳥居に関しては、園部藩主小出吉親公によって寄進されたものであるということがわかった。それは鳥居の両柱に書かれた銘文によって明らかで、間違いの無いところだろう。こういった歴史的意義のある鳥居なので更改されることなく保存されたのだろう。なお、この鳥居は現在境内の奥、八幡社の石段の下にあるが、道路拡幅前は府道の前の正面に立っていた。
P1040863



現在府道側正面には新しい鳥居が立っている。元々の鳥居は奥の八幡社石段下に見える。


 そしてその時点で既に台石に盃状穴が穿たれていたと考えられる。移転の際には鳥居と台石が同時に移転していると思われ、現在はその台石の下に新しい台石が敷かれている。つまり二枚の台石の上に鳥居が立っているわけだが、よくぞ古い台石を残してくれたものと思う。
P1040866



新しい台石の上に旧の台石ものせられている。

 問題は手水鉢である。この手水鉢は元から現在のところにあるものではなく、1088年4月の写真で見ると、本殿の左の鳥居(おそらく厄神社と思われる)の左に写っているのがそのようだ。現在のものは手水鉢を除いて、手水舎、敷石、水道設備などすべてが新しいものになっている。第1回目の訪問の際に気がつかなかったのだが、手水舎の屋根裏に棟札があり、「奉納 手水舎 十六年一月 矢野敬太郎」と書かれている。その時にすべてが更改され、手水鉢だけが残されたのだろう。つづく
P1040882P1040964



手水舎と棟札。


【作業日誌 7/31】
植木剪定4日目
P1050029



桜切るバカ。

【今日のじょん】じょん語録 越犬行為
良い番犬のじょん君はお客さん以外の訪問者があるととんでもなく吠えるのだが、向かいや隣の家の訪問者の際も吠えるので困っている。「そりゃあ越犬行為やで」
P1040985

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雨読 古代史を解く三角形(2) 7/30

2013-07-31 | インポート

2013.7.30(火)晴れ 古代史を解く三角形(1)は2013.7.20
 

 雨読というタイトルで多くの書評をしてきたが、本の評価などというものはその時点での読者の志向、知識レベル、読解力に左右されるもので不動のものでは無い。ある時点では素晴らしいと感じた本が、読む側の知識レベルが上がり思考能力が高まった結果、実はつまらないものだったということもあるし、その逆もあり得る。特に古代史の研究に関する本はその傾向が強い。その際は再読、再々読として雨読に書いていくので評価が変わっていく様子が理解できると思う。
 本書は不思議な本である。もの凄く興味深くてあっという間に読了したが、さて何が書いてあったか解らないというものである。
 本書が書かれるベースには「大和の原像」(小川光三)、「知られざる古代」(水谷慶一)があるわけだが、測量ということに関しては両者の域の範囲内という感がする。「知られざる古代」については随分前に読み、雨読でも紹介済みである。(2010.1.10~12)ただし、現在では評価は変わっており、再読でいずれ紹介したい。そして「大和の原像」は現在読書中なのだが、これがすべての発端になっている書で、著者小川氏の発想の豊かさ、柔軟さ、そして美しい文章で魅了されてしまい、本書の影が薄くなっている。
P1050024

 


一連のつながりのある三冊


大谷氏が大発見と豪語されているのは、古代の測量、日本の上に描かれた大きな三角形が「古事記」の解明につながるということである。
 難解というより不可解な「古事記」の文を古代測量の所作として解されているのだ。丁寧に解説されているのだが、どうも納得できる雰囲気では無い。中にはそう言われてみればそうかなあと思うぐらいである。それは読者側の知識の未熟、読解力のなさなのかもしれない。将来再読して高い評価をする可能性はありそうだが、今のところはよくわからないなという想いの本である。

【今日のじょん】久々のじょんシャンの日である。体重測定から始まるのだが、おとーがよっこらじょんと抱き上げるのが好きみたいで、体重計を出したら自主的に近づいてくる。じょん件反射かもしれない。
P1050023





【作業日誌 7/30】
草刈り(4-5)

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飯盛山(17) 西光密寺(9) 7/29

2013-07-29 | 飯盛山

2013.7.29(月)雨
飯盛山側
飯盛山コル(峠道)      北緯35度5分59秒
飯盛山             北緯35度5分58秒
西光寺(阿弥陀堂)      北緯35度5分51秒

日置側
官山川側の小山(160m)  北緯35度5分59秒
護国寺              北緯35度5分57秒
大送神社             北緯35度5分51秒

飯盛山の稜線は東北から南西に走っているので日の入りを真東から見た場合どの地点が中心になるのかわからない。一応峠道が通っている部分をコルとして測ったが、真東になるのは官山川と府道の間にある小山が対応する。
 飯盛山は西光寺の上の山と聞いているので三個あるピークの真ん中のものとした。凹部を日の入り確認の地形とした場合飯盛山の緯度はあまり関係ないが、参考のため記した。
 
 
 最も気になるのは西光寺阿弥陀堂と大送神社が同一緯度にあるということだ。日の入り地点と観測地点という意味にはとれないが、何かを感じさせる。
 日置から飯盛山の稜線を眺めてみる必要があるが、途中にある筏森山の稜線がどのように見えるかも心配だ。
 もし日置から飯盛山の稜線がしっかりと観測することが出来るのなら、観測地点として大送神社は有力な候補だと考える。
P1040432

 


大送神社はこの地点を左に入るとすぐなんだが、未訪である。


 和銅元年(708年)の創祀といわれている古社であること、祭神が高皇産霊(たかみむすび)命であること、大送(おおくり)神社の名前などによる。
 高皇産霊命については古代の天体観測や測量に関係する神という説もあるようで、大送(おおくり)という神社名についても”送る”という言葉が、「去りゆくものに別れを惜しんで見送る」(語源大辞典)というふうにとれば、西の山に沈む夕日を想定することも可能では無かろうか。P1040790

 


大送神社と西光寺の間には現在工場が建っていて、この本堂は直接見られないかもしれない。

 西光寺という寺名も、平安京の西の端なんていう理由より日置から見て、西の山稜に光る夕日からとられたとしたら納得もできそうである。
 そしてもう一つ重要な情報を得た。「大和の原像」の二上山に関する説の中で、西に位置する落陽の山は黄泉の山とされ、畝傍山しかり、二上山しかり、その先には多くの古墳や塚が存在するのである。二上山の西には孝徳陵、用明陵、推古陵、敏達陵、などの御陵の他小野妹子墓、聖徳太子御廟所他多くの古墳群がある。
 
  南丹市文化博物館に展示してある経塚の発見された向河原を訪れた。現在は高速道路が出来て破壊されているが、かつてはこの辺りは葬地であったことが言われている。この地点は少し北に偏るかもしれないが、日置方面から見れば西光寺の山の向こうということになるわけだ。
P1040962



向河原の遺跡はこの辺りだと思うのだが、造成のため見当も付かない。

 このことは単なる偶然かもしれない。しかし他の同じような例が出てきた際に参考にすべき事項だと思う。
 いずれにしても日置から飯盛山を眺めることが先決である。つづく

【今日のじょん】夕べからえらい雨が降った。各地で被害が出ているようだが、一瞬にして家も家財も無くなってしまうのだから恐ろしい。じょん君は雨が嫌いで、いつもならちんたら帰ってくるのに今朝はとんで帰ってきた。P1050020


         

 

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飯盛山(16) 西光密寺(8)7/28

2013-07-28 | 飯盛山

2013.7.28(日)晴れ、曇り 飯盛山15)は2013.7.25

 「大和の原像」の中に二上山(ふたかみやま)の落陽という節がある。二上山は奈良県太子町の東、香芝市との境近くにあり、雄岳雌岳の双耳峰で東の三輪山とともに古代の重要な山である。二上山の鞍部から真東に進むと、三輪山の南西に「磯城瑞籬宮跡」(しきのみずがきのみや)と伝えられている天理教敷島大教会がある。この地点から春分秋分の日の落日は二上山の鞍部に沈むということになる。そしてこの地から見ると冬至には富士山型の外鎌山の頂上から、夏至には三輪山の頂上付近から日の出が昇るということだ。
 つまり日の出は山頂が、日の入りは鞍部が観測しやすいということである。暦が無い時代に太陽の観測をして春分や秋分の日を確定するのは国家の重要な仕事であったと思う。農耕にとっては播種などの日取りは収穫に大きく影響するからだ。
 そういう意味で西光寺の上部にある飯森山のコルに注目する。このコルに春分秋分の日が沈むのを観測できるところは、その真東となる。日没が目視できる真東を辿っていくと何とそこは日置の地になるわけだ。
 この地方を初めて訪れた時、最初に訪れたのは日置である。なぜって日置はもっとも興味ある地名であり、この時点では飯盛山のことも気づいていなかった。
P1040430



八木町日置遠望
 日置は上林にも有り日置谷(へきだに)、日置殿町などがある。付近でも夜久野、宮津などにあり、全国各地にある地名なのだ。日置地名については、「ひき、へき、ひおき」など様々に呼ばれ、様々な説があるが、納得のいく答えは出ていない。その中で太陽観測、日読み、測量、浄火の管掌といったものがあり、わたしは現時点ではこういった分野の氏族日置氏にかかわる地というのが妥当だと考えている。現時点というのは、かつては金属に関わる氏族、土地という風に考えていたのだが、それは将に「古代の鉄と神々」(真弓常忠)、「知られざる古代」(水谷慶一)の論争(実際は論争にはなっていないのだが)そのものである。
 そんなだから、飯盛山の真東、つまり春分、秋分に日没を観測できる地点が日置であることに驚愕を覚えたのである。つづく
P1040934



西光寺のコルを西から撮ったものが無い、最も近いのがこれ、西光寺の墓地下の駐車場から見上げたもの。

【今日のじょん】草刈り行進曲
 業者による府道の草刈りが終わった。全然満足はいかないが業者の契約はおそらくこんなものだろう。歩道のペンペン草ぐらいはとってほしかったと思うのである。仕方が無いから溝さらえは我が社でやるか。
P1050019




【作業日誌 7/28】
柳影をやってかい(3日目)

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大栗峠’13夏(2) 7/27

2013-07-27 | 山・峠

2013.7.27(土)晴れ

 シデ山頂上は樹木が整備され、上林側も和知側も最高の眺望だ。シデ山頂上からは、東から主稜線をたどってくるとそのまま稜線が西に続いているように見える。地図で見るとはっきりしているのだが、これは西に張り出たこぶのような尾根で、しかもここには踏み跡もある。上林に帰るつもりで下っていったら和知に下りてしまったという伝説の尾根である。その突き出た尾根の先には上粟野に下りる道がしっかりあるのだ。
 先日キョーコちゃんのパーティも迷ったそうだ。途中で気がつき引き返して事なきを得たそうだが、山なれた者でも間違える尾根道である。大栗峠への道標も設置してあるのだが、念のためにと桜井さんがロープを張って×印の札を下げられた。
P1050004

 


桜井さんから遠望する山の説明を聞く。

  大栗峠への道は頂上から北に向かって斜面を下って行く。右下にすずゆわが見える頃になると尾根道となってきて安心する。
 ここから大栗峠までの尾根道はもっとも好きなコースで、わたしは「こしあぶらの路」と呼んでいる。
 大栗峠には大好きなお地蔵さんが待っている。大栗峠の魅力はその周囲の雰囲気もさることながら、この二体の地蔵さまにかかっている。今回甚佑さんのお母さんが赤い前掛けを作ってくれたのでかけることになった。寒くて長く、雪に埋もれしまう冬を二人で頑張っている地蔵さまに最高のプレゼントである。
 お地蔵さんの台石に書いてある道しるべや道標の銘の名前など、みんながわいわいやっている。わたしは「大栗峠考」のなかでこれらを明らかにしたつもりだが、こうなんだと決め付けるよりも、みんなの想像でいろいろ考えてしゃべってもらう方が楽しいのかもと思い、黙っていた。P1050008

 



 三角点のある大栗峠の頭(681m)に希望者が登り、「南無大師遍照金剛」の石碑のある山田道、弓削道の合流点で集合、弓削道に向かう。
 弓削道は「北山の峠」の金久昌業氏を持って峠道の神髄と語らしめた道である。今日で5回目の弓削道だが、最初に来たときには倒木や枯れ葉で荒れていて随分歩きにくい道だった。先日弓削自治会の有志と桜井さんらで登山口の橋を架けられた。そのあと弓削道の倒木の処理などをされたそうだが、それにしても全体的に歩きやすくなっている。おそらく私たちが登り初めて、通る人が増えてきたのではないだろうか。道はいくら頑張って整備しても、通る人が無ければ寂れてしまう。整備されなくても通る人があればなんとか保っていけるというものだろう。P1050012

 


長い弓削道を下ると、弓削の里が見えてくるところがある。地滑りの跡地なのだが、下りてきたという実感が湧く。

 長い弓削道を下りてくると新しい橋が待っていた。古い朽ち果てた橋では興ざめだったのだが、この橋はありがたい。
 弓削の公民館でお礼を言って解散する。今回新しく整備されたところに感謝するとともに嬉しいことがいくつかあった山行だった。P1050013
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【今日のじょん】鹿は雑草を食べるか?
鹿の食害に辟易している人々は、「鹿が雑草食べてくれたらええのになあ」とぼやいている。なぜだか知らないが鹿が囓った木や野菜は枯れてしまうことが多いそうだ。雑草を食べてくれたら越したことはないのだが、まさかそんなことは無いだろうと皆思っているわけである。ところが今日発見した何者かが侵入した草むらをよく見ると、イネ科の雑草の上部が見事に喰われているのだ。草食の動物というのは鹿ぐらいしか考えられない。ある意味で衝撃的な光景ではある。P1050015
P1050017



ワカルカナ?

 

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大栗峠’13夏(1) 7/26

2013-07-26 | 山・峠

2013.7.26(金)晴れ 

 鳥垣自治会や鳥垣渓谷を整備する会が永年鳥垣渓谷やシデ山周辺を整備されてこられ、一応のコース整備が完成した。広く皆さんに紹介するため、広報により参加者を募集し、本日決行、無事終了した。

コース:鳥垣渓谷~みと~シデ山~弓削道~弓削
参加者:22名(長岡京市、舞鶴市、綾部市等)
タイム:  9:00 鳥垣小野田橋集合~車で獅子鼻移動
       9:30 出発
       9:35 おりとの滝
      10:05 F6
      10:30 やすみと  出発 10:45
      11:30 みと、昼食 出発 12:20
      13:05 シデ山ピーク  出発 13:20
      13:50 大栗峠   出発 14:20
      16:00 弓削到着

 今年はドッグランどの建設に集中するため山行を控えていたのだが、ようやく目処が付いたため今回の山行にはリキを入れて取り組んだ。桜井さんからあそこが歩きやすくなったとか、どこどこに看板を付けたとか常々聞いていたので、今回は特に楽しみである。
 市民新聞などでも広報していただき、参加も過去最高の22名となった。じょんのびの定休日に合わせて設定していただいたのだと思うが、各種のイベントが土日に限られている現在、ウィークディの行事というのが値打ちがあると思っている。世の中には土日が仕事で動けないという人も沢山居るのだ。
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小野田橋9時集合、静かな里も大賑わい。

 獅子鼻公園の整備もさることながら、鳥垣渓谷も随分歩きやすくなっている。特に滝を見るための遊歩道はこの季節にはありがたい。
P1040990



鳥垣渓谷取り付き地点、おりとの滝も案内板が出来てバッチリ。
P1040997




従来見えなかった第三の滝上部も遊歩道が出来、第六の滝など見ることが出来るようになった。

 もっともよく整備されたのは、おおだんからみとに通じる元茅場の樹林帯斜面である。尾根道や谷道のようにコースが一定していないため、人為的に道を造らない限りばらばらに登ってしまう。そのために歩きにくく、迷いやすい。これを解消してジグザグの歩きやすい道を造っていただいた。コース中一番の難所が、今までの登りより随分楽になった。
 みとで昼食とする。いつもなら頂上まで行くのだが、今日の人数では広い場所が必要となる。ここで調子の悪い人が出て、誰かを附けて林道から下山すべく思案していたのだが、丁度仕事明けの村上さんが差し入れを持って、車で駆けつけてくれた。偶然のことなのだが、地獄に仏とはこのことである。
 惜しむらくはみと自慢の眺望なんだが、夏の湿った空気で丹丹、若丹国境稜線までぐらいだ。
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眺望抜群みとの広場と開通した新ルート。


 みとから稜線までの新ルートも広葉樹の明るい斜面で、旧ルートのシダの道よりも断然快適だ。
 稜線に上がるとシデ山頂まで、ポコンポコンと小突起がつづく、このルート中第二の難所と言っていいだろう。初めて来たときにはこの突起の登りが堪らなく辛かったが、今では平気である。体力が着いたというよりルートになれたと言うことだろう。山登りってこんなものである。つづく 


【今日のじょん】今朝は山行きで急いでいる、かみさんは弁当作りにかかりっきりだし、こんな時ほどじょんの動作がのろいのだ。イライラして「はよ来いよ」なーんてどなってしまうと、座り込んでカイカイしている。
 こちらの気持ちが伝わってそうなっているのか、別に普段通りなんだがこちらがそう感じるのか、ビミョーな心理合戦である。P1040891
 

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飯盛山(15) 西光密寺(7) 7/25

2013-07-26 | 飯盛山

2013.7.25(木)晴れ

 荒井神社が明治記念碑の位置から現在地に移転したかどうかもわからないのに、その理由を探るというのも変だが、明治記念碑の広場からすぐ下方に西光寺本堂の屋根を見下ろしたときに、移転があったとしたらこういう理由だろうなあと感じた。
それは西光寺が隆盛になるとともに、その本堂の更に上部にある荒井神社がさわりに感じたのではないだろうか。両寺社が一体のものであったとしても、西光寺が神職を派遣しているのだから、立場としては西光寺が上位である。立場上下位である社殿が本堂の上部に存在するのは堪らない。そういった考えで参道入り口脇に位置を変えたのではないかと想像するのである。そう考えると荒井神社は西光寺が創建される前から存在したことになる。
P1040782

 


庫裡の右の石段を登ると本堂の阿弥陀堂、明治記念碑は更に右の尾根に取り付き本堂の斜め上部になる。

現在の荒井神社は八木町美里荒井1に存在する。美里は雀部、神田、広垣内、三地区の合成地名だが、荒井は地名が先なのか、神社が先なのかわからない。一般的には地名が先の場合が多いが、そうすると「三代実録」の元慶六年(882年)には現在地に存在したこととなる。それ以前に移転していたとしたら、何らかの文書でも無い限りわからない話である。
 ただ明治記念碑の地に散在する瓦が、明治24年以前のものとわかれば、そこに何らかの建物が存在したということになるので、元荒井神社の可能性は出てくるが、少なくとも8世紀、9世紀というような代物ではなさそうだ。
P1040973

 


明治記念碑付近に散在する瓦片、専門家なら年代も特定出来るそうだ。

ネット上の不確かな情報のせいで随分遠回りしたが、荒井神社が移転したか否かというのはわたしの探究することとはあまり縁がなさそうである。
 わたしが真に知りたいと思うのは飯盛山の本質である。なぜ飯盛山と呼ばれたか、飯盛山はどのような役割を果たしたかという点である。
 気になるのは飯盛山の形状である。一般的に飯盛山というのは三角錐の神奈備山状なのである。中には見る方向によってそうで無い場合もあるが、ある方向から見るとしっかり神奈備山状を呈しているものである。きれいな三角錐ばかりではなくドーム状であったりする場合もあるのだが、この八木町の飯盛山はどうもそれらしい形が見られない。地形図で見ると西側に当たる園部町小山東町方面から見ればそれらしくなるかもしれないが、東北、東、南、南東から見る限り飯盛山の特徴は無い。
P1040933



桂川新庄橋から(東北)右からの稜線の末端のピーク。
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園部川神田橋から(南東)
P1040960



八木西I.C入り口から(南)P1040958




住職が、玉泉の水を引いて、玉泉紅葉の滝という庭園を造られている。

 飯盛山の形状に不審を抱いているとき、読書中の「大和の原像」(小川光三著)の中に気になる文章を発見した。つづく

【作業日誌 7/25】
植木屋さん柳影を?んでかい(3日目)

【今日のじょん】爆発南京の葉が鹿に襲われている。深夜に雨が降ったので、今朝は泥の上に鹿の足跡がくっきり、どうする?
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飯盛山(14) 西光密寺(6) 7/24

2013-07-24 | 飯盛山


2013.7.24(水)雨、曇り

 西光寺の創建は天平勝宝八年(756年)と伝えられ、荒井神社は「三代実録」に元慶6年(882年)十月九日条に記事がありこの年には存在していたことがわかる。
荒井神社は延喜式内社の嶋物部神社の有力候補とされており、明治の神仏分離までは西光寺禅学院の両部僧が神職をつとめていたということである。(両寺社案内板等)
 このことは西光寺、荒井神社ともにこの地方でもっとも古い寺社であり、神仏分離までは同一のものであったと考えられることである。飯盛山と物部一族がどの様に関わりがあったのかわからないが、将来その関係が発見されるかもしれないという期待を持って、今記憶にとどめておきたいと思うのである。
 荒井神社が元々明治祈念碑の位置にあったという情報は、某サイトで見かけたのみで、西光寺住職も聞いたことがないとおっしゃっておられる。
 明治祈念碑が明治24年(1891年)に建てられた際に、元神社の跡が残っていたとするとそれはあり得ることと思う。祈念碑の周辺には周囲の石垣が残されている。祈念碑の付近にはいくつかの瓦の破片が落ちている。普通の瓦なのだが、一部丸瓦の破片が落ちていた。それが明治24年以前のものとわかれば、そこに何かの建物が存在していたと考えられる。
 西光寺住職に瓦の件を話すと、「それは土塀の瓦です、わたしが小さい頃には土塀があった記憶があります」ということだった。土塀という意識はなかったのでよく観察はしていないのだが、土塀が朽ち果てたものなら、塀の土や柱などの一部が残っていても良さそうなのだが、その気配は無かったように思う。
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石垣は割合しっかり残っている、瓦の破片は基壇左奥に集中している。 

  祈念碑が出来た際に土塀も作られたとすると、120数年でここまで跡形もなく朽ち果てるものだろうかという疑問も出てくる。
 石垣、石段はこの付近の山石を利用したもののようだが、割合よく残っており、崩壊しているような風もない。
 考えれば 謎だらけなんだが、果たして石垣、土塀はいつ出来上がったものなのだろう。
 荒井神社の案内板に以下の文章がある。
「明治八年の『寺社取調帳』に「永禄9年十月吉日造作」の板札が一枚あると記されていることから室町時代後の建立と考えられる」というものである。これは現位置にある荒井神社の本殿に関する事項なので、荒井神社が移転したとしても室町時代以前のこととなる。そうすると明治24年に元荒井神社の石垣や土塀が残っていたとはとうてい考えられないのである。
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荒井神社と本殿案内板。


 瓦の破片は祈念碑の左奥周辺に集中している。もし土塀の瓦であれば広範囲に分散している方が自然である。
 元荒井神社がその地にあったとしても、跡地をそのまま放っておくのではなく、小さな祠でも建ててひっそりとお祀りしていたのではないだろうか。その祠の瓦が破片となって残っており、石垣などは明治の時期に新たに造られたと考えれば少しは矛盾が解消する。土地の広さだって、祈念碑のためにはぴったりの広さだが、神社があったとしたらこれでは狭すぎる。
 では元荒井神社がこの地にあったと仮定して、なぜ現在の西光寺参道脇に移転しなければならないのか考えてみよう。つづく


【今日のじょん】久々のレインコート着せたら、ちょいとオシッコしただけでとんで帰ってきた。その後庇の下でぼーっとしているのである。見て、この情けない顔。P1040975
P1040977

 

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飯盛山(13) 西光密寺(5) 7/23

2013-07-24 | 飯盛山

2013.7.23(火)晴れ 

 再度西光寺を訪れる。何としても明治記念碑の鏡とやらを見てみたいという気持ちと荒井神社が元々その地に遷座していたという情報を確かめてみたかった。前回訪問時に西光寺住職から、道が荒れているとか、マムシがいるかもとか聞いていたので、登山靴にステッキと完全装備で臨む。自宅で熊に遭遇して以来ナーバスになっている。
  庫裡の横のところみに「明治記念碑」の案内板があり、軽トラが停まっている。山仕事している人が居るのかなと思っていたら、廃車のトラックだった。そういえば以前来たときも停まっていたようだ。坂を少し登ると広い尾根道が真っ直ぐに登っている、倒木も下草もなくきれいな道だ。すぐに前方に白っぽいものが見える、どうやらそれが記念碑らしい。なんてことはない、ものの5分で着いてしまった。拍子抜けだ。
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 明治記念碑は3段の基壇の上に乗った5mほどのオベリスク状の塔である。壇の周囲に西南戦争で亡くなられた方の氏名が市区、郡ごとに書かれている。長文の銘があるが、「明治二十四年三月 京都府知事云々」とあり、明治24年に京都府によって建てられたことがわかる。
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銘文と鏡

 さて問題の鏡であるがオベリスクの上部に円盤の鏡がはめ込まれている。西光寺住職の話によると、元々ガラスの鏡がはめ込まれていたが自然現象か子供達のいたずかで割れてしまってそのままになっていたのを、あるとき有志で補修しようということになり、ステンレスの代用品をはめ込んだそうである。ここでコンパスを持ってこなかったことを悔やむ、鏡がいったいどの方向を向いているか知りたかったのだ。
 基壇の上に登って老の坂方面を望むが、植林が成長しており、隙間から桂川方面の里が少し見えるのみである。鏡は桂川方面より北を向いていたように思うし、登ってきた尾根の方向だったので地形図で確かめると、どうも愛宕山の方向かもしれない。老の坂から反射光が見えたという伝承があったとしてもなにも鏡が老の坂を向いていなくてもいいわけだ。
P1040941



唯一景色が見えるのは東南の方向で、しかも枝の隙間だけである。
 

 愛宕山の方向を先に進むと京都御所に突き当たる。ひょっとするとこの鏡は京都御所に向けられたものかもしれない。
 もう一つの懸案は荒井神社の元々の位置がこの場所であるということだ。つづく

【今日のじょん】最近暑さのせいか集中力が無くなっている。もちろんじょんのことである。以前のぽんぽこぽんならボールをとってすぐに帰ってくるのだが今ではぽいっと放りだしてくんくん嗅ぎ廻っている。もうワンワン運動会もあきらめた。P1040923

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文房具屋さん 7/22

2013-07-23 | 日記・エッセイ・コラム

2013.7.22(月)曇り

 明日再度園部町内林町の八幡、厄神社を訪れようと思っている。鳥居の前回判読できなかった銘の部分を拓本を使って判読しようというもくろみである。手水鉢だって年号が入ってるかもしれない。
 インターネットで拓本の取り方を調べてみるが、面倒な行程があり道具もなにかと必要なようだ。こりゃあかなわんと思っていたら、乾拓(かんたく)という方法が書いてあった。
子供の頃に10円玉などに紙を当てて鉛筆で擦ると文字の輪郭が浮き出る遊びをしたことがあるだろう、その原理である。鉛筆の代わりに松煙(しょうえん)をロウで固めた釣鐘墨(つりがねずみ)というのを使うらしい。何で釣鐘かって、、、釣鐘を平たくした形をしているのだ。しかもご丁寧に釣鐘の柄も入っている。
P1040919P1040921_2

 



 問題はそれをどこで買うかだ。スーパーやホームセンターの文具売り場でおいているはずがない。京都などの都会なら墨の専門店もあるだろうが綾部では望むべくも無い。まあ一般的にはネット通販ということになる。種類は多くないので同じ商品だろうが500円台から売っている。ところが1日で届くものはなく、商品以上の送料を払えば届くものもあった。
 ばかばかしいから今回はあきらめてゆっくり購入しようかと思ったが、綾部の老舗の文具屋さんに電話してみる。少し待ってご主人とおぼしき方に代わられて、「ありますよ、釣鐘墨ですね」という返事だ。いやー正直これは驚きである。値段を聞いてなお驚き、360円というのだ。ネットで最も安いのが525円(送料込み)なのである。
 喜び勇んでお店に行くと、奥から木箱を出してこられて、中には拓本道具が紙も含めて詰まっているのだ。
「よくぞおいておられましたねえ」
「(商売としては)度胸のいることです、売れるかどうかわからないものを仕入れるのですから。それでも聞いてこられる方があるものですから。拓本についても勉強したんですよ」
 拓本について書いてある冊子も入っている。将に商売人の鏡である。
 「値段についてもネット販売より安いのですけど」
 「それは商品が違うのでしょう、ネット販売なら320円ぐらいで出せるんじゃないですか、うちが決して安いと言うことは無いです」
 と言っておられたが、帰宅後品番を調べると同じ商品であった。
 つまりこの店だと、現物が見られて、説明も聞けて、すぐに手に入って、しかもネットより値段が安い、といういいことづくめなのである。P1040918

 なんでもネットで買ってしまう風潮になって、小売店の良さを忘れてしまっている。
店の方だってネットにお客を獲られて充分な品揃えやサービスも出来なくなってくる。こういう悪循環が余計小売店の立場を悪くしている。
 だけどこうやって頑張っている商店もあるわけだ。こういう嬉しい店が地元にあるのは幸せなことである。文房具屋さんって子供の頃行くのがすごぐ楽しみだった記憶が誰でもあるんでないかい。

【作業日誌 7/22】
トウモロコシの防鳥ネット張り
P1040922



鹿ネットに防鳥ネット、将にネット社会になってきたじょんのびファーム。

【今日のじょん】
植木屋さんはいいけれど、枝や葉を片付ける暇が無い。じょんの通路だけでも開けてやらないと、、、。P1040916
P1040917




葉っぱひらひらコワイノヨネ。

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植木屋さん、柳影を?んでかい 7/21

2013-07-22 | 日記・エッセイ・コラム

2013.7.21(日)快晴

 「植木屋さん、柳影を?んでかい」、ご存じ(でないかもしれないが、、)落語「青菜」の一節である。炎天下に庭木の剪定をしているとこの風景が浮かんでくる。
 昼の時間に「植木屋さん云々」とやると、「何べん言うのやいな、これ?んどき」と麦茶のペットボトルが出てきた。
 う~む、「その名も九郎判官義経」と言ってしまった長屋の女将さんの方がまだ情緒があるんでねいかい。
  この柳影なるお酒、如何なるものかと言えば、焼酎と味醂をブレンドしたもので冷やして暑気払いに?まれたという。決して高級なものではなかったそうだが、昼間から庶民が呑めるようなものでもなかったようだ。ネット販売で見ていると、柳かげと称して1万数千円で販売されているものがあった。味醂がどうのって説明されているので、柳影を意識して作られているものなんだろうが、文化破壊の感がある。

 てなわけで、連日炎天下で植木屋さんをやっている。涼しくなってやればいいのだけど、今度は蚊やブヨが堪らない。本日はカナメの剪定をやってしまい、その他の低木にもかかってきたのだが、メインの白樫にたどり着くまで何日かかることだろうか。
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カナメのやりかけとアフター
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こちらは完璧ビフォーアフター

 それにしても庭木の剪定というのは面白い、自分の好きなように形を整えていくわけだから、うまくいくいかないは別として、芸術的かつクリエイティブだ。近所の剪定の済んだ庭を見るのも参考になるし、こうなると今まで退屈でしかなかった、社寺の名園なども興味深く見ることが出来そうだ。
 ただ、いつもなら頼りにしているネット上のハウツーものを見る気もしないのはなぜだろう。
 まあ締め切りがあるわけでないので、あせらずに柳影、もといのどごし生がおいしい間にやればいいわけだ。

【今日のじょん】こうやって見ると我が家のガーデンも緑が多くなってきたのだが、実はこの部分がもっとも条件がいいようである。國松さんにもらった南京ハゼもしまだやさんでもらったカナメも村上さんにもらったコニファーも恐ろしく成長してしまった。じょんは落ちている枝や葉っぱがチョー苦手。P1040909

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雨読 古代史を解く三角形(1) 7/20

2013-07-21 | 雨読

2013.7.20(土)晴れ

 古代の文化を考える場合、稲すなわち農耕と鉄すなわち金属というのが底流としてあるように思う。農耕と金属は車の両輪の関係だと考えている。もちろんベースは農耕なのだろうが、古代の国家の成立や権力の集中という意味では金属が大きく寄与するのではないだろうか。農耕は収量の多寡は地方差があったとしても、どこでも何らかの収穫は得られるものである。ところが金属は産地も限られるし、権力が能動的に力を入れないと獲得できない。
 農作物の保存期間は数年で、金属は半永久的である。権力が力点を置くのは金属ではないだろうか。
 古代史を研究する人たちの間では農耕文化を基調にする方と金属を基調にする方の論争がよく見られる。車の両輪と考えれば対争うことは無いように思うのだが。
 ところが世の中というのはそれほど単純なものでなく、測量という分野が出てきた。測量というだけではさほど注目されないのだろうが、根底には祭祀という古代ではもっとも重要視されたものがあるので無視できない。
 この金属分野と測量分野の葛藤が「古代の鉄と神々」(真弓常忠)と「知られざる古代」(水谷慶一)の論争である。論争といっても真弓氏の一方的な水谷氏への批判であるが、金属一辺倒の考え方のあったわたしは、真弓氏の立場に立った記事を書いた。(2010.1.10~12日)
P1040911



この2冊は読み比べると面白い。

 現在少し考え方が変わってきている、古代人が呪術的、宗教的なものを日常生活から政治の分野でも重要視していたことは誰もが認めることである。それでいながらレイラインだの陰陽五行説は非科学的だと言って無視、排斥するのは矛盾である。
「飯の山の秘密」の岩田女史に逢ったことは、大きな転換であった。上林老富の生守山は金属由来で解こうとしても限界を感じていたところである。
 「飯の山の秘密」は画期的な論文であるが、理解するのは難しい。何度も読み返しているのだが理解できない部分もある。それならば同様のジャンルの本を読んだほうが楽しく学習できるのではと思い買った本が本書である。
「古代史を解く三角形」大谷幸市著 中日新聞社 昭和57年3月第一刷 古書
P1040912



実は既に3冊の本を読んでいる。 

【作業日誌 7/20】
庭木剪定2日目(かなめ、1/3)P1040905



カナメだけでなく、ユーカリもばっさり。

  【今日のじょん】上林の草刈りは超一流である。綾部のホームセンターの草刈り用品の売り上げは上林で持っているという、何とも怪しげな噂があるぐらいだ。ところが最近草刈りのレベルを落としている連中が居る。シルバー人材センターと年一度の府道の草刈りである。府道の草刈りは落札業者が変わるので一概に言えないが、ここ3年は低レベルである。今日も散歩中に、じょんが「この草刈り変やで」というので見てみると、これは地元の人の手ではない。いよいよ府道の草刈りが始まったかとわかるのである。P1040901

 
 

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上林の盃状穴(36) 番外編 7/19

2013-07-20 | インポート

2013.7.19(金)曇り 京都帝釈天(20)八幡・厄神社の盃状穴

 神社巡りの好きな方ならどなたでも気づかれると思うが、ほとんどの神社で手水鉢は新旧あって、旧のものは社務所の脇などに置かれている場合が多い。これは特に手水鉢がよく更改されるということではなくて、古い手水鉢が何かに流用出来にくいということだろうと思う。
 新旧残っているということは更改がなされたという事であって、どこの神社でも更改なされるというのが一般的なのだろうが、旧のものでも使用に耐えるものである。そのことは奉納されるケースが多いことをうかがわせる。

P1040630

 


例えばこれは八木町の久留守神社である。新しい手水鉢があり、古いものは社務所の右に放置してある。石垣や石段に古い石材が使われているが、手水鉢は再利用が効かないためだろうか。(2013.6.18)

それにしてもこの八幡・厄神社の手水鉢は、周囲の敷石や建物などすべてが新しい物なのにそれだけが旧のままなのだろう。
 八幡社の鳥居と一緒に小出公から奉納されたものならば答えは明白である。そこのところも博物館には問い合わせているが、果たして答えは出るだろうか。少なくとも手水鉢に銘は無かったように思うのだ。次回再度調べてみたいと思う。
手水鉢の考察はそれ以降にして、今ひとつ重大な疑問がある。
 それはこの神社の境内で鉄滓が見つかり、12世紀の製鉄所があったという事である。角川の「日本地名大辞典」に書かれていることなので、何らかの根拠があるのだろう。
 どのような経緯で鉄滓が発見され、12世紀の製鉄所跡と断定されたのか、是非知りたいところである。その件も博物館に問い合わせた。来週の訪問が楽しみである。
P1040904



南丹市立文化博物館の博物館だよりにある垣内古墳の復元図である。南西から東北に走っているのが日吉町に向かう府道19号線で、神社の参道鳥居部分が拡幅工事で後退したことがわかる。境内が古墳の後円部の重要な位置を占めていることもわかる。

4世紀頃と言われる巨大な古墳と12世紀の製鉄遺跡とは無関係だとは思われるが、古墳の遺物には多くの鉄製品が存在し、近隣で生産された可能性はあるだろう。この周辺が鉄生産の拠点であったと考えてもおかしくはない。
 ただ8世紀の開きがあるとは言え、古墳の後円部に製鉄遺跡があるというのはなんとも不思議な感がする。
 垣内古墳のある内林町は今林村と垣内村の合併による合成地名である。博物館の地図模型に今林牧というのがある。調べてもらうと文献に現れるのは中世だったろうか、この牧が製鉄所と関連するのではないかと考えるところである。

【今日のじょん】網張りが終了して、とりあえずドッグランどが完成した。勝手にドッグランを5年間もしているじょんにとってはあまり関係ないのだが、結構気に入ってるようなので、まずは安心ってところか。P1040894


えっナニ、床下の網が張れたって、、、カンケーねえよ

【作業日誌 7/19】
草刈り(4-3)
ドッグランど網張り完成
庭木剪定初日(コニファーなど)
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今年からこういう機械を導入して、庭木がおしゃれに仕上がるのだ。

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上林の盃状穴(35) 番外編 7/18

2013-07-19 | 歴史・民俗

2013.7.18(木)曇り 京都帝釈天(19)八幡・厄神社の盃状穴

  手水鉢は遠目には新しそうなので覗く気もしなかったのだが、最後に少し見ておこうとばかりに覗いて驚いたのである。八木町鳥羽の八幡様同様、強烈な盃状穴が周囲に穿たれている。材質は花崗岩のようで、屋根付きの建物に収まっており、乾燥した場所にあるので苔など付いておらず新しそうに見えたのだろう。銘など入っておらず確かな年代はわからないが、少なくとも江戸時代のものだろう。
盃状穴の状態は縁の周囲に隙間なく穿たれており、直径は最大10cm程度、個数は28個である。
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建物も敷石も新しいのに手水鉢だけが古いものだ。


考察
 八幡、厄神社に盃状穴を発見したのは意外な結果であった。府道から見る限り、すっかり新しくなっているだろう神社に見えたからだ。訊ねてみると新しい設備の中にいくつか古いままのものが残り、その部分に盃状穴を発見した。
 設備が新しくなった真の理由はわからないが、この地が垣内古墳という口丹波最大の前方後円墳であり、1972年に大規模な発掘調査が行われたこと、あるいは府道の整備によって神社自体も整備されたのではと考えられる。
 いずれにしても多くの設備が更改されているのに、盃状穴のある鳥居の台石、手水鉢が旧のまま残されているのは如何なる事だろう。
 当初その理由が盃状穴ではないかと考えた。そこに盃状穴が穿たれているので、その事由が何であるかわからなくても何か意味のあることとして残したのでは無いだろうかと考えたのである。しかしそのことを確認するのは難しいだろう、当時神社の設備更改に関与した神社の世話役に尋ねるしかないだろうし、そういう人物を探し出すのは相当困難だろう。
 そんなときインターネットの神社に関するサイトで有力な情報を見つけた。「寛文6年(1666年)園部藩租小出吉親が鳥居を奉納」というものだ。慌てて判読できなかった鳥居の銘を写真で読み直す。「船井郡垣内村今林村氏神」の文字が読み取れる。おそらくその右に書かれた文が小出公の奉納に関わる文なのだろう。この件に関しては南丹市立博物館に問い合わせてみた。来週再度訪れるのでその際に回答があろうかと思うが、まず間違いないだろう。
P1040875

 


右が八幡社、左が厄神社、何もかも新しいのに八幡の鳥居だけが昔のままだ。

  この鳥居をよく見ると、盃状穴の台石の下にもう一つ新しい台石がある。発掘調査の際か何かに一度移動しているのではないだろうか。そういった際にただの古い鳥居であったならば更改されているのだろう。ところが小出公奉納の由緒ある鳥居なのでそのまま残したと考えるのが妥当であろう。
 そうなると手水鉢が問題である。盃状穴研究者には貴重な代物だが一般的には何ともみっともない形状なのである。それが残されて丁寧に屋根付きの建物に存在しているということは相当の理由があろうかと思われる。つづく

【今日のじょん】爆発南瓜
中尾種苗の苗はなんでもよく育つが、特に南瓜は強烈である。一晩で1m以上蔓が伸び、小蔓がどうの剪定がどうのっていってる暇が無い。あれよあれよと言ってる間に畑を占領して、外にまで蔓を伸ばし、でかい実をつけている。実質支配という意味ではどこかの国によく似ている。我が家では爆発かぼちゃと呼んでいる。中尾種苗には悪いが、このかぼちゃ、ほとんどがじょんの食糧となっている。P1040886



 
 

 

 

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上林の盃状穴(34) 番外編 7/17

2013-07-18 | 歴史・民俗


2013.7.17(水)曇り 京都帝釈天(18)八幡・厄神社の盃状穴

 道の駅新光悦村で食事をとり、厄神社の場所を聞く。「今日オープンのファミリーマートさんの向かいですよ」、やっぱり道中で見たあの神社だと気づくが、どう見ても設備が新しく、盃状穴や遺物が見つかるような情況ではなさそうだ。
 ファミマの駐車場はオープンのお客さんで混んでいて、長時間の駐車はひんしゅくものだ。神社の周りを走ってみると境内に入れそうな道がある。境内の一部が内林の公民館になっており、車が入れるようだ。
 垣内古墳は全長84mの前方後円墳で4世紀頃の築造と考えられるこの地方最大の古墳である。道路や住宅に代わり古墳の形状は跡形もないが、後円部のほとんどがこの神社の境内と道路となっている。1972年に発掘調査がなされ、豊富な遺物は南丹市の博物館に保管されている。その調査の際や道路拡張の際などに神社の施設が新設されたのだろうか。P1040878

 


古墳は跡形もなく、記念碑が残るばかり。

 境内から12世紀の鉄滓が発見されたと「別所事典」に書かれており、少し期待したのだが、この状態では無理だろう。境内にひかれた砂利も新しく外部から搬入されたものである。鳥居や石段なども新調されたものが多く、盃状穴も期待できない。
 とその時八幡社本殿下の鳥居の台石を見てびっくり、その周囲にしっかりと盃状穴が穿たれているのである。
 持参の用具で調査を始める。
 鳥居には年号などが書かれているようだが目視では読み取れない。拓本の取り方を学ぶ必要を感じる。次回拓本をとって調べてみたいと思っているが、江戸時代のものには違いないだろう。
P1040865



鳥居の銘は読み取れない。

 鳥居の風化も進んでいるが台石も同様である、小さな盃状穴は見た目ではわかりにくいが、自然の穴との見分け方を発見する。それは指先で触ってみることだ。盃状穴の場合は摩耗のため滑らかになっており、自然のものはざらざらしていて明確に判別できる。問題は明らかに盃状穴だけど、やたら小さくて浅く、途中で穿つのを止めたような穴の扱いである。これらを個数に算入するか、あるいは擬盃状穴としてあげるか、などと迷ってしまう。それによって調査の個数が変わってくるからだ。
 今までの調査とは変わってくるが、こういうのは「浅」として分けることにした。
 南丹市園部町内林町八幡神社本殿下鳥居台石の盃状穴
 一辺約60cmの花崗岩質の台石で手前と奥の2枚組となっている。
 本殿向かって右手前 1個(約4cm、右端) 浅ー1個
 本殿向かって右奥  浅-1個 鏨跡4個所
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鳥居右手前と奥

本殿向かって左手前 4個 浅-4個
本殿向かって左奥 メモが不明で再調査とする。
P1040870P1040871



左手前と左奥
その後、厄神社周辺、石段、石垣など石造物全般を見るが発見できない。古い石など残っていそうな場所では鉄滓も含めて目をこらすがそう簡単に見つかるものではない。最後に手水鉢を見て驚くこととなる。つづく

【今日のじょん】やっと阪神が勝って溜飲が下がる思いである。頭にきて記事の書けなかった15日、サリーちゃんが来たので報告。じょんとは仲良く遊べるようになったが、ドッグランどは暑いのでまたいい季節に来てちょうだい。P1040855

 


おしりばっかにおいでんじゃねえよ

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