晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

環境トレーニングのススメ-2 9/8

2019-08-19 | 健康

2019.9.8(日)晴れ

 「おきつね山のじょん」執筆が終了したのでようやくブログを始めることができます。長い間失礼しました。

 温冷浴とはおそらく世界一古い健康法で、「過去現在因果経」の中に釈尊誕生に際して温涼の清浄なる水をそそぐとある。(西医学健康原理実践法典)もちろん西健康法の主要な健康法で、効能から温冷浴の方法まで詳しく書かれている。「普通の温浴は、発汗により水分、塩分並びにビタミンCを失わしめ、又、酸塩基の平衡を破る傾きがある。これに対し、現状を維持し、酸塩基の平衡を保つために行うのが、温冷浴である。」というのはなんともいかがわしい。

西式健康法の中には疑わしいものもあるが、健康や医療に関して優れた思想がある。「一には、身を念うて無病を求めず。中略 病苦を持って良薬となす」なんてのは一病息災、生老病死の医療としてふさわしいものである。

 温冷浴法については様々の効能が言われているが、随分怪しげなものもあり、わたしの考える効能は、1.自律神経の調整、2.毛細血管のバイパス(グローミュー)の生成、3.皮膚の新陳代謝促進の三点が重要と考えている。また、最近注目を集めている、褐色脂肪細胞の活性化やミトコンドリアの増殖といったものもあるのかなと期待している。1.については確かに疲労回復に効果があるようだし、2.は寒さに対する抵抗力が増すと思われる。3.については実感しているところで、温冷浴を始めてから石けんで体を洗うことはなくなった。それは2011年頃からの痒疹である。当初はダニに噛まれた痕かなと思っていたのだが、だんだん広がって、やたら痒い。病院に行くと痒疹という原因のわからない皮膚病
で、ステロイド軟膏を処方された。一旦は消えてなくなるのだが、毎年発症してちっとも根治しない。
とても痒いが掻くととんでもないことになる。
 
8年たった今年、思い切って石けんで洗うことを止めて、水洗いだけにした。するとどうだ見事に発症が止まって、その他の部分のガサガサ乾燥肌も無くなった。最初は足だけだったのだが、今では全身石けんやシャンプーを使うことはない。気持ちが悪いと思われるだろうが、温冷浴を行っているためかいつもさっぱりしていて何ら問題は無い。おそらく温冷の水で皮膚が伸縮し、垢が剥がれているのだろう。その上、油分の流失も防げて乾燥肌の心配も無い。こんなこと早く気づけば良かった。つづく

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環境トレーニングのススメ 8/17

2019-08-17 | 健康

2019.8.17(土)
 
暑い日が続いている。先日トライアスロンのオリンピックテストレースで暑さのためラン距離短縮のニュースがあった。
安全第一での処置で、本番でもあり得るということだったが、マラソンならともかくトライアスロンでは疑問符が残る。
 なんでって、トライアスロンはもともと夏のスポーツだからだ。波が高いからスイムのコースを変更するという措置とは基本的に異なる。暑さに対処できる体を作り上げるのが選手の実力だと思うし、自ら危険を察知し、リタイアするなり順位を諦めるのが優秀な選手といえるだろう。これはオリンピックでも一般大会でも同様のことだと思う。
 さて、じょんのびウオーキングを始めて3年あまり、内容的にもずいぶん進化し、究極のアンチエイジングトレーニングとして研究中である。
 トレーニングとしてはじょんのびウオーキングだけですべてをまかなえるものにしたいが、やはり確実な効果をを得るためには、日常的な他のトレーニングが必要である。トレーニングと言えば筋トレと思われるだろうが、筋トレだけでは不十分と言うことを常々説いてきた。
 筋肉トレーニング、骨トレーニング、メンタルトレーニングに環境トレーニングが必要である。以下は「サバイバルボディー」(スコット・カーニー著)に記載されている事項である。
 

「一見、人類が自然界に対して勝利を収めたように思えるが、私たちの体が強くなったわけではない。実際は正反対だ。努力しないで快適に過ごせる結果、私たちは太り、怠惰になり、どんどん不健康になっている」

 「今世紀に入って肥満、糖尿病、慢性疼痛、高血圧が爆発的に増加し、おまけに痛風までふたたび増加傾向にある。無数の人びとが自己免疫疾患に苦しんでいる。関節炎、アレルギー、狼瘡からクローン病やパーキンソン病まで体が文字どおり自分で自分を攻撃する病気である。まるで、体の外部には脅威がほとんどないので、持てる力がすべて体の内部に向かって暴走しているかのようだ。」

 「少なくとも半世紀、体を健康に保つ二本の柱は柱は食事と運動だというのが世間一般の常識となってきた。どちらも不可欠には違いないが、同じように重要なのに完全に見落とされている第三の柱がある。何より、環境的なトレーニングを日課に組み込めば、ほんのわずかな時間で成果を挙げられるのだ。」

 
サバイバルボディーについては2019.3.7参照
 連日猛暑が続いている、エアコンはフル稼働で快適に過ごしている。これは我慢しなくていいのだ。充分な睡眠を得るため、快適な日常を過ごすために必要なんだから。同様に冬はと言えばストーブが大活躍し暖かく過ごしている、これもいいのだ。ただ、それだけで過ごしていればわたしたちの体はだんだん弱くなっていく。環境トレーニングの基本は温度に関するトレーニングである。サバイバルボディーに出てくるトレーニングは、氷の湖に飛び込むとか、裸でキリマンジェロに登るとか極端であるが、わたしたち一般人が出来るトレーニングはないものかと探してきた。
 目的は寒さ、暑さに対応できる体の機能を取り戻すことである。寒さを感じると筋肉が運動して熱を発生させる、震えなどはその一例である。暑さを感じると汗をかいて表面温度を下げる。常に快適な環境にいると、そういう機能が低下してくる。秋の北海道に旅行に行ったとき、その強烈な寒さに驚いたが、室内は実に快適、いや暑くてTシャツ一枚で充分なのだ。「北海道人は暑がりで寒がりなのよ」宿のかみさんが言ってたことがよくわかる。
 暑さ寒さに対するトレーニング、しかも我慢しないで出来るトレーニングとして温冷浴を始めた。2019年2月25日が開始日なんだが、日帰り温泉などでサウナを利用する場合はもう何年も前から行っていた。つづく

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大栗峠三角道の謎-7 8/15

2019-08-15 | あなしら上林

2019.8.15(木)台風10号

 大栗峠の謎は数多くあるのだが、「なぜ多くの道が大栗峠に集まっているのか?」「京街道は大栗峠からどう進んでいるのか?」というのが大きな謎である。前者は一応まとまった答が見つかったので、別途まとめてみようと思っているが、後者は大栗峠を訪れるだけでは解決しない問題なのでまだ緒に就いていないのだが、今回の発見で少しめどが立ってきた感がある。
P1010731
地蔵さまはすべてを知って、クスクス笑っておられるようだ
 大きな謎を解くヒントとなるべく小さな謎の多くが今回の発見で解けることとなった。
 ・峠の石室と地蔵さまの謎
 ・横倒しにされた石標の謎
 ・峠の四角い平地の謎
 ・峠の三角道の謎
 ・「右弓削 左京道」道標の謎(未解決)
 ・
消えた五体の地蔵さまの謎(未解決)
 ・六地蔵瓦の謎
 ・上粟野道茶店の謎(未確定)
 ・大栗峠地名の謎

倒れていた石標は立てられた、ここが本来の大栗峠だと思われる。

 しかしまあ、当初は三角道は無く、石標の位置が旧峠だったという単純な発見だけでこれほど多くの謎が解けるとは思ってもいなかった。今後も石室の石材の調査や地蔵さま等の銘文の再確認、「右弓削 左京道」の捜索、六地蔵の瓦の調査など多くの課題が残っている。
 だけど一番思うことは、「わたしの謎解きは、つじつまが合うというだけで確証があるものではない、大栗峠を愛する人それぞれが謎解きをしながら峠を訪れてくれたら素晴らしいなあ」ということである。おわり

 


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大栗峠三角道の謎-6 8/12

2019-08-12 | あなしら上林

2019.8.12(月)曇り 大栗峠三角道の謎ー5は2019.8.3

 大栗峠、木住峠に藩の出先機関があるとすれば、それは国境警備かもしれない、特に幕末が近くなると何かと必要性が出てくることだろう。古文書でも調べれば出てくるかもしれないがその時間も能力も無い。
 それなりの建物を建てようとすると、旧峠では無理である。新たに現峠の付近に建てると、例の大岩が邪魔になる。それで大岩を取り崩して新たな道を通したと考えたい。崩した大岩を建物向かいに岩室として使い、旧峠付近にあった地蔵を移転した。また左の地蔵さま(a)はこの時に造られたものかもしれない。そうすると慶応
元年(1865年)の開通ということになる。

 また、四角の平地が公の出先機関跡であったとすると、峠を通行する人馬は例え目と鼻の先であっても旧峠を通られると具合が悪い。あくまで抜け道と言うことになるからだ。石標(C)が引き抜かれて倒されているのはそういう理由があったのではないだろうか。
 「左志こた 右わち」と書かれた石標(c)については、「北山の峠」(下)で金久氏は次のように書かれている。
 それとも石標のあった場所が
それとも石標のあった場所が移動したのだろうか。横転しているところを見ると引き抜かれたとも思われる。どうもこの横転石標のある場所は移動されたもののようである。石室の前にあればぴたりと方向が合う。やはり石室の前が峠であろう。(P80)
 石室の前にあったとすると、倒された石標をなぜ現在の位置に移動する必要があったのか。なぜ倒されたのか。という疑問が解消されない。それに現在はきれいに整理されているが、石標が倒されていた場所には礎石とも思える石がいくつか散在していた等の理由で石標は現在の位置に倒されていたと考えるのが順当なのである。つまり金久氏は往時から現在と同じ状態で峠が存在したと考えられるから無理な発想となるわけで、現在の峠道(A)は無かったとするとすべてが矛盾なく考えられるのである。
P1000079P1000085
石標はこの状態で倒れていた(2011年)
 大栗峠の四角い平地が公の出先機関だとすると、疑問に思うことがある。公の機関だと屋根は瓦葺きだと思われるのだが、その瓦はどこへ行ったんだろう。あちこちの城跡などを見て回ると、戦で倒壊した建物、明治になって壊された建物など千差万別だが、
必ず瓦の破片が落ちているものだ。ところが大栗峠周辺には一片のかけらも見当たらない。
 大胆な想像だが、峠から数分のところにある上粟野道の六地蔵に転用されたのではないだろうか。そこは六地蔵といえども現在は一体だけで、もともと六地蔵で
あったことは金久氏も確認しておられる。残る五体がどこに行ったのか、なぜ一体だけが残っているのか謎なのだが、そこに残されている大量の瓦も気に掛かっていた。
P1000382
一体だけ残された地蔵さまと大量の瓦、鬼瓦も見える。(2011年)
 古い街道には必ず地蔵堂がある。大栗峠上粟野側の取り付きやや下にもあったし(先年の大水で流されてしまった)、木住峠遊里側肥刈谷や清水道にもある。
P1000370
上粟野道の地蔵堂、清水道の地蔵堂。
 それらがどのような状態であったか写真をみて確認するのだが、すべてがトタン葺きになっている。つまり往時は板葺きか藁葺きだったと考えられ、瓦を用いていることは考えにくい。そうすると大栗峠上粟野道の六地蔵跡に残された瓦はかなり不自然なものとなる。
 この瓦が峠の出先機関の建物から転用されたと考えれば一応つじつまがあうのだが。
つづく

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じょん語録 8/8

2019-08-08 | Dog

2019.8.8(木)快晴

 「じょん捨離」
 じょんが亡くなって十日余り、多くの方が弔問に来られたりお花を送ってくださったり、本当にじょんは幸せ者だったと思う。

じょんのまわりはお花で一杯、モモちゃんも来てくれたけどじょんがいないので淋しそう。
 じょんの遺品は、使えるものはすべてボランティア活動をされている方に使ってもらった。そのために洗ったり消毒したりする作業がこれがまたつらい。ひとつひとつのものに思いでがあり、涙が流れてくる。特にじょんが来た日から使っていたサークルはつらかった。
 じょんが来る前、かみさんと二人でサークルやら食器やらペットシートやらつぐらやらありとあらゆる店を回って見つけてきた。サークルには入ってくれるかなあと心配だったけど、自分からさっさと入ってくれて大喜び、それから11年ここがじょんのねぐらになった。亡くなった日も、このサークルまで連れて帰ってやりたかったが、かなわず道中で亡くなってしまった。
 11年間使い続けたサークルだから、柵の隅なんかにこびりついた油脂や埃がなかなか大変、洗剤を使ってブラシでゴシゴシ。かみさんも洋服やシーツ、クッション、おやつ、フードなどなどあらゆるものをかたづけている。「じょん捨離やなあ」う~む、これが最後のじょん語録となりそうだ。

 サークル最後の写真(今年1月)いっぱい暖かいものを入れてもらってる。
それをじょん捨離するのはいかにも辛い。

 「じょんゲル係数」
かつてこのブログで、じょん語録を紹介していたがどうやら途中で止まってしまって多くが未紹介のようである。ダブるかもしれないが思い出すままに紹介したい。じょんゲル係数は言わずと知れたエンゲル係数のしゃれなんだが、「おとうさん、じょんの前でじょんゲル係数じょんゲル係数っていうからじょんが気にして逝ってしもたん違うか」なんて責められている。うむ困ったなあ。

 現在「おきつね山のじょん」という童話を執筆中で、このブログも途切れ途切れになろうかと思うが悪しからず。
 

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大栗峠三角道の謎-5 8/3

2019-08-02 | あなしら上林

2019.8.3(土)晴れ

 なぜ大岩を切り崩してまで峠道を変更する必要があったのか。1824年(文政7年)以降のことなのだが産業道路として牛馬による運搬も盛んになり、そのデポ地としてあるいは休憩地として広い場所が必要になったことが考えられる。旧峠だと稜線の幅が狭く、広い場所が確保できない。現峠の東側なら充分な広さが確保できる。現にその部分は広い休憩地となっている。

大栗峠東の平坦地
 もう一つは藩の出先機関があったのではないかという想像である。それは広場の中にある四角の平坦地である。茶屋があったという話も聞いたことがあるが、確証は無い。関所とまでは言わないが公の出先機関があったとする理由は、何鹿郡鋳物師の清水家に残る大栗峠通行札である。こういったものがあるというのは清水鋳物師井関八左衛門(文化2年)の末裔故井関重一先生の奥様にお聞きしたものである。是非現物を見たいものだとお願いしているのだが、まだ実現していない。鋳物師の通行は完成品の輸送のみならず、原材料(地金)の輸送が大規模であったと考えている。

出荷用木箱(鋼)とこも包み(鉄)、10貫目の重量がある。(胡麻高原探訪に掲載)
 それは一国一座の鋳物師鋳物師が田辺引土国松家、何鹿郡上林井関家、船井郡胡麻新町勝田家、園部、八木、馬路などと街道、水路に沿って存在していることに関係してはいまいか。鉄、鋼の地金の生産は出雲や伯耆で冬季に行われ、北前船で宮津や田辺の港に荷揚げされる。そうすれば田辺ー上林ー胡麻ー園部ー八木ー馬路と順次輸送されたのではと想像できる。その傍証として田辺から上林に越える木住峠であるが、峠から上林遊里に下る道は本来の道で荷車等の通行は困難であるが、清水に向かう実に立派な道が峠から派生しているのである。その道の末端はなんと清水鋳物師村の中心地を通り、金屋のある八左衛門宅に至っているのだ。木住峠は小さな峠なんだが、その北側田辺側に小さな四角い平坦地を見つけた。

木住峠上林側、右に行くと清水鋳物師村、左は遊里。
向こう側の右手に視覚資格の平地がある四角い平地がある。
 胡麻の勝田家に向かってそれから先の分まで運ぶとするとものすごい量の物資となる。大栗峠が単なる通行路から産業道路に変革したのはこの鋳物師の地金輸送が大きなウェイトを占めたのではないだろうか。清水から胡麻までどのように運んだのかと思われるが、実は胡麻には由良川ー高屋川ー畑川という立派な水路があり、
胡麻新町のすぐそばの塩ヤ淵まで船が通っていたのである。大量の地金は、清水ー弓削道ー大栗峠ー上粟野ー上和知川ー由良川ー黒瀬ー畑川ー胡麻ー殿田ー大堰川と運ばれたのではないだろうか。

上和知川に水運の跡はないものだろうか。
 胡麻、殿田間は陸路水路(胡麻川)とも考えられるが胡麻鋳物師勝田家が多頭の馬を所有し、運送業を営んでいたという報告もある。京街道は篠原から大迫、岩江戸と由良川沿いに東進した模様だが、鉄地金や物資の輸送は川運を利用したと考えるのが順当である。つづく

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大栗峠三角道の謎-4 8/2

2019-08-02 | あなしら上林

2019.8.2(金)快晴

 忠町と十倉志茂町の大栗は地形的に類似する以外に、はっきりとした共通点がある。それは古墳であり、前者には隣地に堂ノ下1,2号墳、後者には大栗1,2,3号墳がある。小規模な古墳だが自然石を使って造られている。小規模といっても石材は大岩でその付近で調達したものと考えられる。

忠町の堂ノ下古墳、大きな岩が使われている。
 綾部市城山町には多くの古墳があるが工業団地の造成で残存しているものかわからない。そこは大栗ではないが栗ヶ丘という地名である。
 河原や山地に大岩があるだけでは地名とはならない。地名は人びとの生活に影響のある事柄こそがなり得るものだと考える。さすれば古墳に使用する大岩があるところを大栗と呼んだとして納得がいく。ところが志古田には古墳は無い、ところが志古田で最も顕著な場所、大栗峠に大岩があったとしたら、これを地名とするのは必然である。そうだとすると小字の大栗より先に大栗峠の名が付いたのかもしれない。
 永年追い求めてきた大栗地名がようやく決着が付いたように思える。

クリックして拡大のこと 
永年追い求めてきたと言えば奥上林村誌(昭和31年発行)に、今も志古田の山中に「左・京道 右・弓削」と書いてある石碑が残り、云々という文がある。この石碑を図分探し回ったが遂に見つけられずにいる。
 大栗峠付近にこの石碑が無いとなると、志古田道の道中に弓削道に向かう分岐があるかもしれないと探索した。志古田から弓削に向かうのに使用することは無いだろうが、志古田道が災害で崩壊した際に弓削道を迂回するするかもしれないと考えたからだ。しかしそんな道は無かったし、あったとしても臨時的な道に石碑を建てるはずも無い。やはり峠付近にあるのが順当と考える。旧大栗峠と考えるとC道の両サイドどちらでも、志古田の方を向いておれば方向は成り立つが、ここにはbの地蔵さまや現存の石標があるのでちと奇妙な状態になる。さてここで、旧大栗峠があったとすると志古田道は現在のとおり走っていたのだろうか。クランク状に峠に至るのは不自然である、旧峠に直接か或いは近接して合流するのが普通ではないか。その部分は現在植林の斜面で、かつて道があったかどうか確認するのは困難な気がする。というのもこの考えは最近気づいたもので、その斜面をそれなりの観察をしていたわけではないからだ。ここで明治28年陸地測量部の地図を見てみる。残念ながら現在の地形図と同様なのだが、志古田道の記載がどうも現実と違うような気がする。地図上では沢筋を真っ直ぐ下っているようだが、実際は左に降って尾根上を下り、最後にジグザグに降って谷をトラバースして右の尾根を捲くように下っていくのである。
IMG_3363.JPG
志古田道の降り口、今はシダは無い。
 この下りは2回の経験しかなく特段何も考えずに歩いたので記憶が定かでは無いのだが、もし左よりに降って尾根を下っているとしたら、その尾根を直登すれば旧峠辺りにたどり着くのではないか。もしそんな古い道(D)があったとしたら、その道の道中、或いは登り着いたところに「左京道 右弓削」の石碑があってもおかしくない。なにか夢のような話だがもし古道の痕跡でもあれば、そしてそこに例の石碑でもあれば大発見となるのだが、そうは甘くなさそうだ。
 なにか現実離れした話になってきたが、現在の峠道は無くて、旧大栗峠通行説は信頼できそうだ。さすればどうして新しい峠道が開通したかという問題が重要になってくる。つづく

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大栗峠三角道の謎-3 8/1

2019-08-01 | あなしら上林

2019.8.1(木)快晴

 なぜ大岩があったと想像したかというと、それは二体のお地蔵さまの収まった石室である。何気なく見てきたが、上林の峠で地蔵さまが石室に収まっているのは大栗峠だけではあるまいか。この石室の石は同じ石材で、大小30個ほどの石がきれいに整形されるわけでもなく積まれている。石室を作るためにわざわざ麓から運び上げるとか、現地で石材を切り出したとは考えにくい。この石材はその箇所にあった通行を阻害していた大岩を切り崩したものではないだろうか。石室のところは小山の一部が抉られたようになっており、丁度この部分から峠道Aにかけて大岩が存在していたと想像できる。この石材が人工的に作られた現地のものであること、根が張っている岩なら峠の土中にまだ残っている部分があるかもしれない。これらのことは地質学的に証明できる事であるから今後の課題としよう。

大栗峠の石室(2011年7月24日)台座はこのとき掘り起こしたもの
 大栗峠の地名についてはかねてから考察を重ねてきたところであるが、結論が出せずにいた。大栗峠は綾部市睦寄町志古田大栗にある峠で大栗地名は上林に3ヶ所
ある。栗地名は「刳る(くる)」から来た侵食、崩壊地名というのが一般的な解釈であり、志古田道の大崩壊を見てもっともだと考えていた。しかし他の大栗地名を訪ねると一概に侵食、崩壊地名とは言えないところばかりなのである忠町大栗、十倉志茂町大栗はともに上林川左岸にあるが上林川の侵食がきついということもなく、崩壊が激しいと言うこともない。ただ両大栗とも上林川出水の際、水流が停滞し渦を巻いて氾濫する地域である。渦巻く濁流が岸を浸食する様子を「おおぐり」と呼んだとすると最もらしく思えるが、そういう状況は何百年何十年に一度の現象であって日常的な光景では無いわけだ。そんな状況を地名にするだろうか。

左:十倉志茂、右:忠の大栗 中央に上林川が流れていて、両側の山で狭隘部分となっている辺り。
 十倉志茂町、忠町の大栗付近を何度も歩いていると、河原の大石、川中の岩礁が目に付く。グリとは海中の暗礁のことをいう(アカグリ、ササグリ、サバグリ等)、また建材のクリ石はこぶし大に割った石で基礎工事などによく使われる。もともとクリ、グリは石、岩のことをいうらしい。(民俗地名語彙事典)志古田大栗にも大きな岩石があることは気づいていた。志古田道崩壊部分の下部、道が谷に下りるところにとてつもない大岩がある。またそれより下った谷の岸にも立派な岩が座っている。大栗に共通する現象は大岩が存在することである。大栗とは大岩のことではないだろうか。

十倉志茂、忠大栗付近の河川中の大岩
p1000398.jpg
志古田大栗の大岩


つづく

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