晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

ブログ人終了 11/30

2014-11-30 | 日記・エッセイ・コラム

2014.11.30(日)曇り、雨

 ocnのブログ、ブログ人が本日を以て終了した。記事は本ブログに引っ越しを終了しているので、入れ物が変わっただけのことかもしれないが、8年間書き続けてきたブログだけに感慨が深い。最後にアクセスしてアクセス解析などを記録する。
記事開始日 2006.6.27
記事終了日 2014.10.20
記事数   2,638
アクセス数 245,889件

一日平均81人の方がアクセスした勘定になるが、よくぞ飽きること無く読んでいただいたと感謝している。元々日本一周自転車旅行の日記を書くために始めたブログで、今日ならスマホやタブレットなどと軽量化出来るのだがA4サイズのノートパソコンをサイドバックに詰めての旅は苦労した。レッツノートがよくぞ振動や雨風に耐えてくれたものと思う。当時やっと始まった無線LANのサービスに加入し、駅や図書館など公共の場でインターネットが利用できるようにしたのだが、「あなたが初めての利用者です」なんていわれて繋がらなかったこともある。結局これは使わずじまいで、ビジネスホテルの有線のインターネットサービスや個人の無線LANを利用してのブログの書き込みだった。記事を何日分も溜めておくので、書き込みは徹夜になることもあって大変だった。
 さて現在では目も悪くなり、大型のデスクトップで記事を書いているが、一日2~3時間かかるので、ブログの整備をする時間が無い。ブログ人より多くの機能があるようなんだけど、記事を書くだけで精一杯なのがつらい。内容についても引っ越し時に文字化けしているのもあり、カテゴリーを整理したり、写真の整理をしたり一体いつになったら出来ることだろう。
 読者の皆さんには読みにくい、見にくいブログと思われるだろうが、気長につきあっていただきたい。謙虚な気持ちで続けていきたいと思っている。

【作業日誌 11/30】
薪割り、パンフレットスタンド作成

【今日のじょん】久々に念道橋付近に散歩に行った。防獣ネットの開け閉めが面倒でいけない。

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かんばやし里山新聞 11/29

2014-11-29 | 日記・エッセイ・コラム

2014.11.29(土)雨

 下田さんが上林の情報誌を出すぞって、あれよあれよという間に「かんばやし里山新聞」が2号まで出てしまった。創刊号にじょんのびの記事も出していただいて、2号からは「あなしら上林」として連載をすることと相成った。今まで研究してきたことを何かで公表したいと思っていたので、渡りに船とばかりに引き受けたが、うまくまとめないといけないので苦労している。

 というわけで3号の記事が書けるまで本文が手抜きになるので悪しからず。
 「かんばやし里山新聞」はhttp://kanbayashi-club.jp

【作業日誌 11/29】
パンフレットスタンド作成

谷村さんにいただいた塩ビが役立っている。
 【今日のじょん】あさからえらい雷が鳴った。じょんが怖がってるかな~と思っていたらやっぱし、、、。
怖いときにゴミ箱からゴミ出すらしい。

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スイムトレ 11/28

2014-11-28 | 日記・エッセイ・コラム

2014.11.28(金)晴

 ジョギングもサイクリングも登山も思うように出来なくなったが、昨年からコンスタントにプールだけは通い始めた。ちょうど1年になるが、月2回のトレーニングは続けている。10数年のブランクから泳ぎ始めたのが昨年11月で、500m泳ぐのが精一杯の様子だった。毎月少しずつ距離を伸ばし、今年の3月から1,500m、8月から2,000mを泳いでいる。現役時代は3,000mを泳いでいたのだが、今のところは2,000mでいいかと思っている。よく憶えていないのだが、3,000mを1時間と数分で泳いでいたと思うので、2,000mでは40~45分ぐらいかと思うのだが、残念ながら48分ぐらいかかっている。
 今は健康のためのスイミングだからタイムを追うことは意味が無いのだが、45分が切れたら距離を伸ばそうと思っている。タイムや距離より気を遣っているのは泳ぎそのもので、かつては右呼吸一辺倒だったのを左右半分ずつ呼吸するようにしている。それと気になるのは真っ直ぐに泳げなくなっていることだ。これはフォームの問題というより、体幹の筋肉の衰えだと分析している、足が落ちているのもキック力よりも腹筋背筋の問題かと思う。そういう意味ではそれらの筋肉を作ることがタイムに反映するのだろう。現在筋トレをやっているわけではないが、ただ泳ぐだけではトレーニングにならないのかもしれない。
 ところで今日ハプニングが起きた。準備体操を終えてさて泳ぐかというとき、ゴーグルのつなぎの部分にひびが入っている。やばいなあ、今日一日持つかなあと思いつつゴーグルをはめようとすると、ぽろりと折れてしまった。購入して10年以上たっているのだからいたしかたないか。売店で購入すべく、係の人に相談すると備え付けのゴーグルを貸してくれた。ヤレヤレと思い泳ぎ出すと今日はいつになく調子がいい。これはいいタイムが出るかもしれないと気持ちよく泳いでいると、1、500mを越えた辺りからやたらオシッコがしたくなってきた。海でのレース中ならやってしまうんだがプールではそうはいかない。あと500mぐらいがんばれるかなと思いつつ泳ぎ続けるが、こうなると集中できない。1,650mで断念、トイレに行く。そういえば昼食時にノンアルコールビールを飲んだんだ。ビールでなくても利尿作用があるみたいだ。反省、反省。

 さて壊れたゴーグルだが、よくフィットしてデザイン、色合いと共に気に入っていたのでショックが大きい。つなぎの部分以外は問題ないのでパーツだけ売っていないか調べてみる。ゴムのバンドなんかは売っているが、このつなぎのパーツは売ってないみたいだ。そういえばメーカーは違うがもう一使っていないゴーグルがあるので、これを外して使ってみようとアイデアが浮かぶ。ゴソゴソ探し出して、パーツを外そうとした瞬間、これもぽろりと折れてしまった。こうなりゃ新品を買うしか無いなあと諦めたが、何となくメーカーの陰謀にはまったようで悔しい。

【今日のじょん】久々の芝生広場で大喜び、かといって走り回るわけではない。いつものように嗅ぎ廻るだけなんだが、こう広いと嗅ぎでがあるぞ。ナナちゃんも嗅ぎ廻るばっかしって言っていたので、そういうもんらしい。
 ところでもうひとつ必ずやるのがうんP、何なんだろうねえ。

向こうに見えるのは青葉山、数日前あの頂上にいたんだねえ。

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推理すること 11/27

2014-11-27 | 雨読

2014.11.27(木)快晴

 読書だけに限らず、推理することは楽しい。今は木曜時代劇「ぼんくら」にはまっている。宮部みゆきさんの作品は以前に新聞連載された「三島屋変調百物語」を読んでいたが、なんだかだらだらときりがなくて途中で止めてしまった。テレビドラマになると話は別で、木曜の夜が楽しみになってきた。最初はちんぷんかんぷん一体何が言いたいのか解らないようなストーリーだったが、ようやく謎が解け始めた。もう結末まで推理しているのだが、とんでもない思い違いだったら恥ずかしいので伏せておく。もし、宮部さんの作品をたくさん読んでいたら、自信を持って推理できるのだと思う。最終回まで見て、わたしの推理が当たっていたかどうかは報告をお約束する。
 30年くらい前横溝正史や森村誠一なんかの推理小説が流行り、片っ端から読んだものだが推理小説とは言え推理をしたかどうかはなはだ怪しい。推理というより読み進めて展開を追うという感じで、推理を楽しむというものではなかった。
 そうなんだ、推理小説の神髄は読者に推理する機会を与えなければならない。最初から匙を投げて、自らの推理も無く、ひたすらストーリーを追うだけでは意味が無い。読み終えてもまだなんだったのか分からない小説もいただけない。「犬神家の一族」、映画にもなり、横溝正史人気の皮切りにもなった作品だが、未だに一体何が言いたい作品なのか解らない。

 今読んでいる「金閣炎上」(水上勉著)は推理小説ではなく、金閣寺放火事件を扱ったノンフィクションのルポルタージュ作品と言える。これだけ重大な事件だけれど、なんで起こったのかだれも解らない。現在事件が起こり、裁判が始まっているところまで読み進めているが、ここに至るまで随分推理をしてきた。ところがその推理は見事に外れているようだ。そしてどうやらわたしがした推理と同様の推理を三島由紀夫がしているような気がするのだ。もっとも三島由紀夫の「金閣寺」を読んでいないので、こんなことを言うのは不遜なんだが、げすの勘ぐりとして許していただきたい。
 そして今、放火犯林養賢がどうして金閣を燃やしたかより、三島の「金閣寺」に遅れること23年後にどうして水上勉が「金閣炎上」を書いたか、この推理の方がおもしろくなってきた。
 そんなわけで「金閣寺の燃やし方」(酒井順子著)を購入した。タイトルが強烈なためか図書館には置いてないのだ。

【作業日誌 11/27】
ドアのカビ除去(4日目)

使用前、使用用具、使用後

【今日のじょん】左足の故障が気になるので、ぽんぽこぽんはドッグランど内の芝生でやることにしている。やっぱりワンコにとって芝はいいみたいだ。

 

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バルコニーから降りてこい 11/26

2014-11-26 | 雨読

2014.11.26(水)曇り

 昨日11月25日は三島由紀夫の命日である。44年前自衛隊市ヶ谷駐屯地のバルコニーで演説をぶった後割腹自殺をした。あの楯の会の制服姿で演説をぶっている姿を憶えておられる方も多いだろう。
 10月25日帰雁忌の席上挨拶で、「三島君そんな高いところで話してないで、降りてきて民衆の中で語りなよ」と語ったという水上先生のエピソードが紹介された。バルコニーの高いところから降りてこいというのが「ブンナよ木からおりてこい」のきっかけになったという風に聞こえたが、これはわたしの聞き間違えだろう。三島とブンナを同一視は出来ない。
 さて、それはともかくわたしがなぜ三島事件の日を憶えているかというと、その日は三島よりもっと高いところにいたからだ。ニュースで知ったのは、冬富士合宿の最中で、宝永火口の上部で幕営していた。当時は山頂のレーダー観測所が有人だったので、日本で一番とは言えないが二番目に高いところにいたこととなる。

左のえくぼが宝永火口、この写真奇しくも2006年の11月25日、三島由紀夫命日の撮影なのだ。
 そのことはさておき、この事件は衝撃的な事件であった。といっても割腹が為されたことが衝撃であって、それがなければ単なる侵入事件ということなのだろう。なぜあのような事件を起こしたかは今もって不明であるし、永遠に解けることのない謎だろう。壇上でクーデターを呼びかけて、自衛隊員達が決起すると考えたのだろうか。いや、そんなことはあり得ない事は解っているだろうし、演説の後すぐに割腹したのは単に自己満足、ナルシストと言ってしまえばそれまでだ。
 河野先輩が「大変だ、三島由紀夫が死んだ」と叫んだことを憶えているが、別段驚くこともなかった。三島由紀夫も楯の会もその存在は知っていたが、三島作品を読んだこともなく、彼らの思想について知っていることも無かった。前文で衝撃的と云っているのは一般的なことで、私自身は何も感じなかった。
 先日青葉山に登り、高野の分教場跡を訪ねたことから「金閣炎上」(水上勉著)を読んでみたくなり、現在半分程度を読んでいる。

杉山峠から子供達が鹿が寝ているようだといった岬はこの正面崎(写真上手)かと思うのだが、青葉山山頂からは鹿のようには見えない。
金閣寺放火事件は成生(なりゅう 舞鶴市)のお寺出身の修行僧、林が金閣寺に放火し全焼させるという実際にあった事件だが、これも三島事件同様謎だらけの事件なのである。何が謎だって、それは人間の心の闇が見えないということだろう。三島由紀夫は金閣寺放火事件をモチーフにして代表作「金閣寺」を書いている。

金閣寺放火事件 1950年7月2日(昭和25年)
「金閣寺」発行 1956年(昭和31年)
三島事件    1970年11月25日(昭和45年)
「金閣炎上」発行1979年(昭和54年)

 「金閣寺」は創作的部分が見られるが、「金閣炎上」はノンフィクションのルポルタージュ的内容で、地名や氏名も実名である。今日読んだ部分にも、天龍寺管長の関牧翁氏が登場し、憶えのある名前だと思っていたら、昭和49年に会社の研修として同寺で生活し講義を受けた事がある。高校野球の真っ最中で、「野球見やんなんから講義はおしまい」なんて豪放な住職であった。「男子百勝」という本を出しておられて、購入した。
 「金閣炎上」もまだ読み終えていないが、「金閣寺」もいつか読んでみたいと思う。林青年と三島由紀夫の繋がる部分があるのではないかと思っている。

【作業日誌 11/26】
窓掃除(店入口)
パンフレットスタンド作成

【今日のじょん】
ゴミを整理してたら、ボジョレヌーボーの空き瓶とラスクの空き箱が出てきた。先日ラスクやチーズでカナッペを作って、ワインをいただいたものである。庶民はこんなちょっとしたことが嬉しいのよね。じょんはかんけーねえってか、ちょっぴりチーズなんかお相伴になってるかもよ。
  

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奇妙奇天烈展 11/25

2014-11-25 | 歴史・民俗

2014.11.25(火)雨

 「縄文奇妙奇天烈 弥生摩訶不思議」というタイトルの綾部市資料館特別展に行く。由良川周辺で出土した用途不明、意味不明な遺物を紹介している展示だ。
以前、鳥取の青谷上寺地遺跡に行ったときに何かわからない遺物についてのアイデアや論文を募集していた。(2007.5.16参照)応募したが残念ながら入選しなかった。いただいた論文集を見たらいやはや本格的な考察がしてあって驚いた。とてもおもしろいイベントだと思う。
 今回のはそういった応募は無いのだけど、とにかく訳の分からない遺物の現物が展示されているのでおもしろい。一応すべて説明がしてあって、用途のわかる物もあるが、一体全体なんだろうというものがほとんどである。

 じっくりと展示品の前で考えるのは楽しい、しかしアイデアは湧いてこない。縄文人や弥生人が笑ってそうだ。
 この特別展は今月末までで、会期中は無休なので是非行ってみてほしい。どうしても行けない人は特別展の小冊子を手に入れることも出来そうだし、あやべ市民新聞社発行の「タカラガイの壺」(1,200円)にも掲載されている。近澤豊明先生のウィットに富んだ文章で楽しく読める。当分の間、じょんのびにも置いておくので参考にしてちょうだい。

 葛禮本神社の石棒について担当の三好さんに教えていただく。単体で存在する縄文期の遺物だけに詳しくは解らないのだが、詳細の載っている館報があったので購入する。雨の一日を楽しく過ごさせていただいた。

【今日のじょん】カメムシが最後の力を振り絞って出没しているが、それよりもテントウムシの発生時期になって困っている。壁や天井に見つけると大声で吠えまくるのだ。音はしないだろうから、嗅覚と視覚で見つけるんだろうけど、やかましいので疲れる。教えたわけでは無いけれど、捕まえては捨ててるので協力しているのだろう。

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カビ林をやっつけろ 11/24

2014-11-24 | 日記・エッセイ・コラム

2014.11.24(月)快晴

 上林は湿気が多い、乾燥した冬でも60%は越えていると思う。それはいいこともあるんだぜ。京都にいるとき冬になると顔はガサガサ、ほっぺたから粉吹いていた。若いときでそれだから今なら大変だろうなと思う。東京はもっと凄かった、20%ぐらいになるんじゃないか。これも若い時分だったから問題なかったけど、水分の無い年寄りにはつらいだろうなあ。
 てなわけで上林にいて膚がガサガサすることはなくなった。でも寄る年波ってえのはあるわけで、手指のひび割れ、あかぎれってやつに悩んできた。冬にしか起こらなかったのが年中になって、慌てて医者に行く。年齢もあるが水仕事も大いに影響してそうだ。もらった薬、ヒルロイドソフト軟膏を半信半疑で塗り続けていたら、この夏にはほぼ治って、この時期になっても割れてこない。保湿剤でなんとかなるって事はやっぱり膚が乾燥してるってことだ。
 そんな意味では上林の湿気もいい面もあるのだけど、悪いこともある。とにかくそこいら中カビだらけになること。靴や衣類は見るのも嫌になるくらい。革製品、革ジャンやバッグは救いがたい状態になっている。
 冬場は乾燥しているから大丈夫だろうというとあに図らんや、暖房による窓際の露でこれまた恐ろしいカビが発生する。あまりにおぞましいので画像は略するが、いよいよこのカビどもをやっつける必要が出てきた。露が床を腐らし、カビが真っ黒に変色させるおそれが出てきたのである。
 乾いたタオルで徹底的に拭き取るが、サッシはきれいになっても床の黒ずみはとれない。これは根が深くてサンダーで擦ってもとれない。つまり手遅れということだ。やむなくここまでにして、住宅用防水スプレーを床に吹き付ける。そしてサッシとガラスの部分にはけつろ抗カビスプレーを吹き付ける。床が乾燥したら同様に抗カビスプレーを吹き付ける。

一日一窓やったとして年末までには終了する塩梅だ。それまでに効果のほどが解ろうってもんだ。だめなときはまた考えよう。
 なお、「上林はカビ林だもんなー」ったのはサーキさんである。

【今日のじょん】ドッグランどに来られるワンちゃんが小型犬がつづいている。常連のナナちゃんには慣れてきたけれど、初めての子なんかにはえらそうにするようになった。だれでも一緒に遊べないとホストはつとまらんぞ。

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今年の熊は? 11/23

2014-11-23 | 日記・エッセイ・コラム

2014.11.23 曇り

 例年よりも熊の情報が少ない気がするのだが、どうなんだろう。上林で出没した場合はオフトーク(有線放送)で放送されるらしいが、我が家は加入していないので解らない。新聞やテレビの地方向け放送などではやはり情報は少ないように感じる。
 昨年熊が襲来したと思われる隣家の柿の木を調べに行く。渋柿なんだが今年も良くなって連日鳥が来て突いていた。
 近づくとじょんが嗅ぎ始める、何物かがやってきていることは確かだ。

 柿の木の下に行くと数本枝が折られて落ちている。折れた根元から30cmほど先に爪の跡らしき疵がある。落ちているどの枝も同様の状態になっているので、何物かによって意図的に折られたことは間違いない。糞でも落ちていないかと見回すがそれらしきものは無い。果たして熊なんだろうか、熊以外によじ登って枝を折る生き物がいるのだろうか。

この柿の木も伐採の許可を得ているので、いつか切ってしまおう。とにかく鈴なりになっていた柿は見事に無くなった。
 そんなとき古和木から帰ってこられたお客さんが、古和木に熊が出たという話をしておられた。
 軽井沢の熊被害のニュースで、一度襲われた家のゴミ箱は何度でも襲われるといっていた。やっぱり切るっきゃないかね。

【作業日誌 11/23】
パンフレットスタンド作成
 【今日のじょん】本文に登場のためおやすみ。

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上林の紅葉 11/22

2014-11-22 | 日記・エッセイ・コラム

2014.11.22(土)快晴

 上林は桜もそうであるように一面の紅葉ということがない。一本一本は誠に美しく、見とれるような樹もあるのだけれど山全体として燃え立つような紅葉とはならない。しかし上林をこよなく愛する旅人(こういう方もおられるのだ)は山奥の上林ならさぞかし美しい紅葉が見られるだろうと期待を込めて観に来られる。そして府道界隈をぐるぐると廻って、失望してお帰りになる。そんなお客様が時々立ち寄られて、
「上林にいい紅葉のきれいなところはありませんか?」
「残念ながら、高雄や嵐山のような一面紅葉というのはありませんよ」
「・・・・」
「一本二本ならきれいなのがありますが、山中まっ赤になるというのはありません。赤よりも黄色が多いのですよ。」
「京都の周辺はきれいなところがありますが、人が多くて何を見に行ってるのか解りません」
「それで上林に来られたのですね。上林にそんなところがあったら、やっぱり人が多くなるわけですよ」
「なるほど、、、、」
 ではなぜ高雄や嵐山の紅葉が美しいのだろう。そりゃあ山に入って寒暖の差が激しいから、、、。では街中の東福寺や永観堂はどうなのよ。???
大山奥の上林の方がきれいなはずなのに、そうではない。ここで妙な思いが湧いてくる。紅葉の名所の樹々は自然のものなのだろうか?。
 山の高いところなどは別として寺院や神社の周辺、通りや谷川の周囲などどう考えても人の手によって植えられたものと思う。と考えるとこれら名所と上林を同列に比較することは無意味なこととなる。上林だってお寺や神社の境内には手植えの紅葉があるが、山にはそれは無い。山には将来の収入を夢見てせっせと植えた杉、桧と植え残ったところの雑木だけである。貧しい農山村では、紅い紅葉を愛でるなどと悠長なことを言ってられるはずも無く、将来の観光対策になどと云う考えも湧こうはずもない。一部植林されなかった雑木が黄色く色づいているぐらいである。そう考えるとその中にぽつりぽつりとある紅い紅葉は貴重である。
 なぜって実生で自力で紅葉している樹だから。

 先日渡辺淳先生にいただいた、木っ端に書かれた絵、「根ずいたところで咲いてます」ってのはまさにこのことだろう。根付いたところで紅葉している上林の紅葉、これもいいものだ。

念道の紅葉、これでいいのだ。

【今日のじょん】久々にゲンタ君来じょん、おやつもらってる写真ばっか。

 

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穴虫考(133) 火葬-5 11/21

2014-11-21 | 地名・山名考

2014.11.21(金)快晴 穴虫考132は2014.11.19
 「日本中世の墓と葬送」を読む(3)

 (1)(2)で書いたことは本書の極一部であって、私自身が関心を持った事項のみであり、他にも重要な論文が収録されている。それは死体遺棄、屋敷墓、共同墓地、触穢、葬送儀礼などである。
 死体遺棄、遺棄葬などについては各書物でもとらえてあったが、本書が特に細部にわたり詳しく研究されている。死体遺棄、遺棄葬、風葬など言葉として錯綜している感があるが、本書では死体遺棄という風に使われている。例えば餓鬼草紙にあるように、棺に入れて埋葬することなく安置されている遺体は遺棄ではなく風葬と考えるべきだろう。大徳寺の西北に太鼓石なる石があり、その石の上に遺体を葬るという文書がある。これなどは風葬と言えるだろう。文書では林葬という表現がされているが、実際には獣や鳥によって処理されるものだから林葬という表現は的確かもしれない。
 中世は火葬の時代とも云われるのだが、絶対数は圧倒的に死体遺棄が多いのではないだろうか。つまり土葬にしても火葬にしても大変物入りで、一般大衆には手の出ない葬法だったと思われる。特に死穢の問題で、死体の処理はその家族に限られていたため、貧しい家、夫婦だけの家族あるいは一人の家などで死人が出ると遺棄せざるを得ないこととなる。
 また、貧しい家族では死んだ後の処理に家族が困るため、生きている内に山野に出かけて死を待つといういわゆる姥捨て伝説のような話がいくつも残されている。遠野のデンデラ野のように一定の年齢になると家族を離れ老人どおしが共同生活をするという制度はあったかもしれないが、楢山節考のように一定の年齢になれば山に捨てられるという棄老伝説はあり得ないことと思っていた。ただ、自らが山野に赴いて死を待つということはある程度あったようで、そういった場面から棄老伝説が出来上がったのかもしれない。
 風葬から両墓制への展開という部分も興味深い。
 また火葬というのが最も経費のかかる葬法で、上級の武士や僧、貴族、裕福な層でなければ出来なかったといっている。これはわたしの従来の考えが裏付けされてありがたい。そうすると今日までつづいた真宗における火葬が如何に困難であったか推し量られるところだが、その件については本書では取り上げていない。真宗の一部で無常講という講が広まり論争が在ったようだが、これなどは葬礼互助の組織であろう。
 後には株や村で葬儀を互助するようになり、村八分といえども火災と葬儀は面倒が見てもらえる様になった。これなどは葬儀は個人だけで対応できるものではないという証左であろう。こういう組織が出来上がったことが遺棄葬の減少に関わっていることは間違いないだろう。
 屋敷墓と杜、ニソの杜の関連については興味深いところだったが、完全に理解できなかった。本書全体を通じてであるが、葬地を表す地名や葬送語彙について解りやすくその由来を説明されている。他の本ではこれらが羅列してあるだけで、隔靴掻痒の思いだったのがすっきりした。
 以上思いつくことのみを書いてみたが、何度も熟読しないと理解することは難しい。おわり

【作業日誌 11/21】
畑草引き、チューリップ植え付け、水回り清掃

【今日のじょん】11月度体重測定&シャンプー
19.2Kg、まずまずってところか、腹下した割に減っとらんなあ。

未だに草喰ってるのだが、、、
 
 
 

 

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芝張りワールド-4 11/20

2014-11-20 | 違いのわからん農学士

2014.11.20(木)快晴 芝張りワールド-3は2014.11.13

 11月5日にかれた芝生を安売りしていることに気付き、都合18束の芝張り大作戦が始まった。いくらでも張れるんだが労力の関係でこのくらいの数が適当と判断結果である。芝生は1束100円と格安の値で手に入るのだが、問題は砂と真砂土である。これらにお金がかかれば意味が無い。と言うわけで、砂は2年前の大水で河原に降りる道路に打ち上げられた砂を清掃を兼ねて使うことにする。この砂だけで真砂土を使うことなくやれば経費はかからないのだけど、井田組の社長が山積みの真砂あるから使っていいよと言ってくれたので、土嚢に6杯いただく。下地は川砂を使っているのでこれで充分だ。とにかく芝生18束、1,800円で施工することが出来た。

11月4日最初の3束、11月5日じょんのび坂周辺、11月10日じょんじょんスロープ下

 
11月13日キャンプ場東半分、キャンプ場全体の写真、11月15日店玄関入り口下

11月20日じょんじょんロード完成。
 いやはや芝生18束よくぞ張ったと思うが予定していなかった作業だけに他の作業、薪割り、防腐塗装、従来の芝生の整備、じてんちゃカフェ建設などの作業がその分遅れてきたのが気になるところである。特に雪が降る前にやってしまわなければならない作業についてはつらいものがある。

【今日のじょん】足の痛がっている様子を動画に撮っておくようキャドックの先生に言われていた。歩いているときに痛くなるときは、頭を上下してピョコタンピョコタンと歩くので解る。すぐに動画のボタンを押すのだが、作動し始めるときには治っている。今朝撮った動画も削除した。残っているのはこの写真の足を挙げているところだけ。ところがよーく見ると右前足を挙げている。悪いのは確か左だったねえ???


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穴虫考(132) 火葬-4 11/19

2014-11-19 | 地名・山名考

2014.11.19(水)曇り
 「日本中世の墓と葬送」を読む(2)

 四塚は現在も四ツ塚町の町名が残っており、東寺の西、千本九条の辺りと想像されている。九条通に面して矢取地蔵堂や羅生門跡がある。古文書により、四塚というのが狐塚、光明塚、経塚、もう一つ不明の塚と4つの塚があるためかとも書いている。狐塚は八条通が新幹線ガード下と出会うようになった少し西、唐橋井園町にあり、八条通からよく目に付く大きな墓地である。その墓地から南に針小路を越えた所に、小さな区画だが高台状になった古い墓地がある。これが光明塚に付定されるようだ。実はこれらの地域も仕事上の営業エリアであったときがあり、これらの墓地はよく見ていたし、矢取地蔵堂の隣の焼き肉屋さんは仕事帰りによく利用していた。経塚は現在地が不明だそうだが、よく似た町名を憶えていたので調べてみたら、羅城門跡から南に九条通を越え、千本通りの西に唐橋経田町(けいでんちょう)というのがあった。
位置的には四塚の一つがあってもおかしくない位置だが、墓地は見当たらなかった。
 これらの塚と四塚の名称が関連するものかは判断が難しいようである。狐塚にも火葬場があり、「狐が岡は東寺の西に有、此処と西院とが焼料心やすきにより、云々」という近世の文書があり、近世では狐塚と西院(最勝河原)が火葬料金が安かったようだ。
 地域を熟知している二つの三昧を紹介したが、もちろん最大で意義の深い三昧は鳥辺野なのだがここでは省略したい。京師五三昧の研究は初めて目にするもので興味深いものだが、今回の読書の目的はそこでは無かった。
 一連の中世の葬送、墓制の書物を読む最も大きな目的は、「中世の葬送・墓制」(水藤真著)の中に、 
1.『大乗院社寺雑事記』に、御葬火所穴等拝見という文がある。
2.『観智院法印御房中陰記』の当初の見積もりと、火葬所を取りしきる善阿弥の苦情後の見積もりの中に穴賃100文とある。
 文から、穴とは火葬場に関連する装置、場所などと考え、それが何かを確認したかったことである。
 火葬に関する語彙のほとんどが明らかになり、火葬の葬法も充分に理解できたのであるが、後読の本からは火葬に関して「穴」という言葉は遂に見つからなかったのである。
 本書の中で唯一穴について書かれたものは、第三章鳥辺野考3南無地蔵の中にある。
 近世の書であるが、『京師順見記』明和四年(1767)閏九月十四日
 鳥辺野左の方乞食小屋有レ之。右小屋の後に南無地蔵と云う穴有レ之由。是は当所にて心中にて果、或は行倒者など打込候穴也由、見不レ申候。
 幕府巡見使の記録だが、南無地蔵という穴は心中者行路死人を葬る穴だということである。
 南無地蔵の火葬場は元は六波羅蜜寺の東、東大路より東にあったと目されているが、やがて移転し建仁寺西門ゑびす神社の南、旧新道小学校の辺りかと思われる。それも移転して、西三条、西院のむしょの北と言われている。当時南無地蔵付近にあった鶴林が西院の北に在るのはそのためであろう。
 
 前記1,2の火葬は僧や貴族など高級な層の話であるので、南無地蔵の場合とは無縁ではあるが、穴というのが火葬骨を納める穴という意味にとることもできよう。
わたしの仮説では穴は火葬場に穿たれた浅い窪みのこととして、穴虫は穴蒸しという風に考えたのだが、火葬骨を納める穴となれば穴虫=穴墓所ということになる。
多くの文書の中で火葬における装置や葬法について事細かに書かれているのに、火葬場の浅い穴のことについて一言も書かれていないのはやはり不審である。

【作業日誌 11/19】
芝生張り

【今日のじょん】
やっぱりじょんじょんロードを歩くのデス
   

 

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穴虫考(131) 火葬-3 11/18

2014-11-18 | 地名・山名考

2014.11.18(火)雨 穴虫考(130)は2014.10.28
「日本中世の墓と葬送」を読む(1)

 火葬を考えるとき、中世を主に考えるべきである。仏教伝来と共に行われるようになった火葬という葬法が、天皇や僧、高級官僚から武士や富裕層、都市住民にまで広まったのはやはり中世であり、遺跡の発掘に加えて多くの文献にも現れてくるので理解しやすい。事細かな葬法の内容や火葬に関わる人びと、葬儀代金などまでも文献に現れてくる。
 この間多くの書物を紐解いたが、同じ中世の葬制に付いて書かれていてもそれぞれ特徴がある。
 「中世の葬送・墓制」(水藤真著) 文献史学的
 「墓と葬送の中世」(狭川真一著) 考古学的
 「日本中世の墓と葬送」(勝田至著) 両方を統合したもの
 という感じがする。すべて図書館等で借りて読んだのだが、学術的な本だからなのか購入するとなると高価である。もともと葬送や墓制に関する本は読者も少なく、発行数も少ないのだろうか高価である。従って読み直すことも出来ず、細かなところの理解は満足に出来ていないのだが、3冊を連続して読めば、中世の火葬について大まかな概念というものはつかめたつもりでいる。

日本中世の墓と葬送」「死者たちの中世」は勝田至氏の姉妹本というところか、後者は未読
  本書の中には火葬のみを取り上げた項はないのだが、都市部や文献に残る中世の葬制の多くが火葬であるので、火葬についての事項を多く読み取ることが出来る。
 本書の中で、他の書物に無い興味深い事項は、京師五三昧に関する論考である。平安京に存在した五ヶ所の三昧、火葬地についての論考である。実はこの章から読み始めたくらい優れた論考である。。鳥辺野、蓮台野などは周知の方も多いだろうが、中山、四塚、最勝河原となると一体どこにあったのか解らないだろう。特に最勝河原は三条河原といわれ、鴨川の三条あたりと誰もが思うだろう。あに図らんや、三条河原(最勝河原)は三条ではあるが御土居
の外と言われているので、西土居通り三条南付近に付定されている。京福電鉄西大路三条駅付近と思えばいいようだ。河原というからには川があるのだろうが、やはり天神川(紙屋川)がそれにあたるのだろう。西院の地蔵(高山寺)、鶴林、西土手刑場、宿紙など葬地、刑場等の研究がなされているが、これらはその時代時代の京洛外という地理関係となる。
 この辺りはわたしの最終の職場のテリトリーであり、就職した当時は西大路四条の高山寺から最勝河原付近を通り自転車で通勤していたので実に懐かしいところである。もちろん中世の面影が残っていようはずもない。つづく

 【作業日誌 11/18】じょんじょんロード作成、溝掘り、砂入れ
雨に濡れたまま置いていた芝生が土が軟らかくなってぼろぼろになってきた。慌ててドッグランどに植えるが着くかなあ。
 

 【今日のじょん】教えたわけでもないのにじょんじょんロードを歩いている。

 


 

 

 

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地方の「負」 11/17

2014-11-17 | 日記・エッセイ・コラム

2014.11.17(月)曇り、雨

 讀賣新聞の日曜版は毎週楽しみにしている記事がある。名言巡礼といって文学作品や戯曲、映画などから名言を抽出して、その作品や舞台となる町を紹介する記事だ。11月9日の名言は「どんどん変わっていくのもいいが、こうして変わらんのもいい」2002年の映画「なごり雪」の中の台詞である。記事のタイトルは、地方の「負」は文化になる、というものだ。

 大分県臼杵市(うすきし)は2007年3月18日に訪れた。その日は佐伯市の宿を出て、津久見市、臼杵市、佐賀関半島をまわって大分市まで96Kmのロングランをしている。もちろん自転車だからロングなんだが。その日の訪問先はというと鯨魚塔、暁嵐公園、源兵衛翁碑、佐賀関半島、築山古墳など道端にあるものばかりで、走り続けた一日だった。臼杵市で訪れたところは何も無いし、町の印象も残っていない。それはバイパスを走ったのでどこでも同じ光景しか映らなかったかもしれない。臼杵市の写真が1枚もないのがそのことをよく表している。

何でも無いこの写真が時間的に臼杵市かもしれない。(2007.3.18)
 ところが記事に載っている町の風景はわたしの最も好きな古い町の姿である。歴史的に古いというのではなくて、変わらない風景といえばいいのだろうか。再度この町を訪ねてみたい、訪ねられなかったら「なごり雪」を観てみたい。
 大林宣彦監督はこの町を訪ねて、当時の市長後藤国俊さんに、「この街で映画を撮りたい」とおっしゃったときのことである。「静かな街作りを始めたのに、観光客にたくさん来られたら困る」と一旦断られることとなるのである。大河ドラマの誘致に躍起になっている丹波丹後の市長さん達には解らないだろうなあ。
 後藤市長が目指したのは「街残し」。古いものを壊して新しく造り替えるのではなく、古くからある街並みを伝統的な暮らしと共に残していくことだったそうだ。
実はこういった考えが大林監督も同じくするところであって、結局ありのままの臼杵を表現した「なごり雪」が出来上がったということだ。
 採算を度外視して工場を誘致する、いつまでたっても売れない団地を造成する、観光客を誘致すると言って程度の低い箱物を作る、無理矢理に特産物を作り上げる、大河ドラマの誘致や世界遺産の指定に血道を上げる、あなたの町、こんなんじゃありませんか?

【今日のじょん】猟期が始まると川はカワウとサギばかりになって、鴨や雉の親子連れは姿を消す。危険を察知して隠れているのか、はたまた撃たれてしまったのか、
鳥より、鹿や猪撃ってくれよなあ。

川辺に残された薬きょう。

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続々・青葉山縦走 11/16

2014-11-16 | 山・峠

2014.11.16(日)晴 金閣炎上

 1950年に放火によって金閣寺が焼失したことはご存じのことと思うが、と書くところだが実はあまり知られていないことかもしれない。金閣寺は誰でも知っているがこの事件についてはあまり知られていないようである。わたし自身もこの事件を知ったのはそう古いことでは無い。かといっていつ、何で知ったのか解らない。三島由紀夫の「金閣寺」は知識として知っていただけで、読んだことはない。
 水上先生の「金閣炎上」を知ったのは実に上林に越してきてからである。水上先生もこの事件について書いておられるのだという不思議な気がしたのだが、書かれた動機のひとつが、高野の分教場に勤めているときに大それた事件を起こした修行僧、林養賢の少年期に会っているということである。
 先日渡辺淳先生にお会いしたとき、「高野の分教場はまだ残っているのでしょうか、水上先生が林少年に会ったというのは本当のことだったのでしょうか」と訪ねてみた。
 「分教場は随分傷んでるが残ってますよ、先生が会ったというのはそう書いておられるのだから事実でしょう」これを聞いて高野分教場に何としても行ってみたいという気になった。実は今回山行の目的の大部分はここだったのだ。
 青葉山東峰から眼下に分教場を見つけたとき、一挙に6,70年の時代が遡り、そこで国民服で教鞭を執っている先生と着物にわら草履の子供達の姿が目に浮かんだ。その建物は赤い屋根といかにも校舎という感じの建物だった。

 青葉山を下ると一目散に分教場、旧高野分校跡を訪ねる。丘を越えてたどり着いたそこは蔦や蔓が絡んで屋根まで這い上り、屋根は一部がめくれあがり、板壁は腐ったところがトタンに変わっていた。しかしそれでも何十年という風雪に耐えよくぞ残っていてくれたかと思う。中を覗くと農機具小屋となっていたが、教場を思わせる部屋も残っていた。
 教場の裏で水上先生と林少年が出会ったという風に思っていたが、後日知ったのは、出会ったのは青葉山の裏ということだ。となると一体どこで、どのような理由で出会ったのだろうかとても気にかかる。

青葉山の裏、内浦湾
まず「金閣炎上」を読んでみることにした。読めばその辺りの シチュエーションは理解できるだろう。そしてその場所が解ったら是非とも行ってみたい。青葉山の裏というからには、青葉山の北側になるのだろう、高野教場は南麓にあるのだから。
 青葉山の裏とはどんなところだろう、そこから青葉山はどのように見えるのだろう。思い出せば青葉山の裏、県道21号線は自転車の練習で何度も走っていた。舞から塩汲峠を越え難波江から田ノ浦に至るコースはアップダウンにとんだいい練習コースである。ただ競争することが目的なので、周りの景色も青葉山の様相も網膜に映っても記憶に残ることは無かった。水上先生と林少年の出会いの場所が解ったら、そこへ自転車で行ってみよう。自転車なら景色も季節も感じることが出来るし、青葉山だってじっくり眺めることも出来るから。

林少年の生まれは左上にかすんでいる正面崎の向こうにある成生(なりう)である。
おわり

【今日のじょん】いくぶん軟便はつづいているが、食欲も戻ってきた。今日は久々の好天で舞ちゃん、サリーちゃん、ナナちゃん、ゆきちゃんと女の子ばかし来じょんしたんだが、自重して遊べなかった。

舞ちゃんは人なつっこいのだ。

おしゃまなサリーちゃんも田んぼや畑を走り回ってすっかり田舎犬になったぞ。

コメント (1)
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