晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

進化する寿命延ウォーク-2 7/26

2018-07-26 | 寿命延ウォーキング

2018.7.26(木)曇り

 2018.3.31始めて地下足袋で歩く。5本指ソックスをはいて、コハゼを留めてとか慣れないので準備が大変。ようやく準備が整ったら、万歩計を忘れていた。家の中に上がるのがまた大変、脱ぎ履きが靴のようにいかないのだ。いつものコース、堤防沿いのダート道と河原のゴーロ歩きを50分ほど行った。歩き方は寿命延ウォーキングの基本通りの歩きをするが、ゴーロ歩きは強烈だ。足裏の痛いこと、石を踏まないようにそろりそろりと進が15m先を見るという基本の目線はとても無理、常に足下を見ている。これではウオーキングの効果が無いなあと先を見ようとするが、石を踏んだり、浮き石に乗ったり、つまずいたり転んだりとまあ初日は惨憺たる様子だった。

4月頃のウオーキングスタイル
 さてその夜横になると足裏がかっかかっかして驚く。いぼいぼの青竹踏みを思い切り体重かけて50分やったようなものだからその刺激はすさまじい。次の日からはゴーロ歩きはスピードを落とし、かかと着地、小指側、親指側の基本荷重をゆっくりと踏みしめるようにして歩く。目線はなるべく前方に持って行き、足で路面の感覚をつかむようにする。数日で慣れてきたが、目的は足に目が着いているような歩きだ、そこまでにはまだまだかかるだろう。

寿命延ゴーロコースと里山コース
 気づいたことは、着地、蹴り出し、足の荷重法、腕の振り、深い呼吸など舗装道路の靴履きでは意識しないと出来ないことが自然に出来ることである。というよりそれをちゃんとしないと歩けないということだ。いったい何のためにそうするのかということが、そうしなければ歩けない、いやあるけばそうなるということか。あくまで裸足に近い地下足袋は人類の本来の歩きに近いということになる。それと靴にはない指で大地をつかむということが自然とでき、足の本来の使い方が出来ると言うことだ。このことは里山歩きで顕著で登り下り、凸凹斜面といったところで至極有効である。以来草刈りや野外作業時にも地下足袋を利用している。指を使わないということは靴の最大の欠点で、現代人の多くが浮き指となり、腰痛や肩こりをはじめとした身体のあらゆる不調に関係していると聞く。指を使える原因は親指の所の切れ目である。下駄や鼻緒と同様の効果があり、地下足袋のひとつの優位点である。

地下足袋での初めての山行、大栗峠へ
(地下足袋の良いところ)
・靴底が薄く、裸足感覚で歩ける。
・鼻緒状の切れ目がある。
・丈が長くスパッツ不要、小石やゴミが入らない。
・膝下まで足がガードされている。
・値段が安い
(地下足袋の良くないところ)
・街歩きには不向き(見栄えもあるが舗装道路は足を痛める)
・防水性無し
・耐久性に難あり
・着脱が面倒
 というような感じだが、理想的なウオーキングができる最良の履き物だといえよう。
 まだまだ試行錯誤の状態なのだが解ってきたこと、現在の到達点を順次紹介していきたい。つづく

おしらせ
パソコン画面の不調のため修理に出します。しばらく記事の更新が出来ませんので悪しからず。

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進化する寿命延ウォーク-1 7/25 

2018-07-25 | 寿命延ウォーキング

2018.7.25(水)晴れ

 本格的に寿命延ウォーキングを始めたのが2016年の春だから、2年半の継続となっている。もともと腰痛対策として取り組んできたが、腰痛は完全に解消した。その間あらゆる書物やマスコミ情報で勉強し、実践を通して体験を積み重ねるうちにウオーキングは腰痛ばかりかあらゆる病気や症状に効果があることがわかり、講習会を開いて多くの人に広めようとしてきたが、効果的で正しいウオーキングは何かと追及してきたときに寿命延ウォーキングが完成されたものでないことに気づいた。人類が二足歩行をするようになってその進化の過程で獲得した果実は彼らが歩いてきた方法でしか結実しない。つまり人類の歴史のほとんどを過ごした狩猟採取時代の歩きこそが人類の代謝に適応しているということである。寿命延ウォーキングの歩き方はほとんど正しいものだが、ひとつ靴で歩くという点だけが理にかなっていない。裸足で歩くのが必須で最良なんだけど、ここ数百年の靴に慣らされた我々の足はそれに耐えることが出来ない。

ウオーキングシューズとトレッキングシューズ、今まではこれを使用。
 あめゴムズックや体育館シューズなどでの実験は既に照会している所だが、ダートの道など足が痛くて数百メートルも歩けない。諦めていたときにネットで地下足袋登山の記事を見つけた。永年登山やってきたが、地下足袋で登山という意識は無かった。ただ沢登りに地下足袋、わらじというのはあったのを思い出す。裸足で歩くのは無理だけど、地下足袋なら裸足感覚に近いものが得られるのではないだろうか。あまたあるウオーキングの情報にも地下足袋は見つからない。とりあえずワークショップを覗くと、あるわあるわあらゆる種類の地下足袋が並んでいる。店員さんにウオーキングに適した、、、なんて聞いても無理だろうから、自分で色々試してみるしかない。
 まずは色なんだが、白黒紺の三色だが汚れが目立たないのは紺か黒である。見た目は白が良さそうである。大峯の修験者は白を使っているようだし、ウオーキングにもらしさがあっていいかなと思うが、好みのタイプと色が合致しない。タイプは脚絆が要らないように12枚コハゼでエアークッションや先芯などの着いていないオーソドックスなものと決めている。結局、丸五のジョグ、紺、12枚コハゼを購入、値段は1700円程度だったと思う。登山靴、ウオーキングシューズなら2万円するご時世にこれだと10足あまり購入できる。つづく

3月31日地下足袋ウオーキング始める。

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続・クールビズ2018 7/24

2018-07-24 | 健康

2018.7.24(火)快晴

 史上最高の気温が観測されたとしてマスコミでは大騒ぎである。熱中症で多くの方が亡くなられていて心が痛む。未来のある子供や永年生きてきたのに最後に熱にやられて亡くなられた高齢者など悔しい思いであろう。先般の大洪水といいその後の異常高温の気象現象について、マスコミから地球温暖化、特に保温効果ガスによる温暖化などについての報道が一切無いのは不気味である。京都議定書やパリ協定など国際的な協定についても語られることは無くなった。異常高温についての報道は、気圧配置やフェーン現象などの気象現象についてのものと2年後のオリンピックの対策ばかりである。これが数年前だったら地球温暖化一色で大騒ぎだったのではないか。
 地球温暖化が騒がれなくなった理由はなんだろう。温室効果ガス主因説の破綻もしくは原発再開にめどが付いてその必要がなくなったからだろうか。
 地球は確かに温暖化している。しかしそれは氷河期の中の間氷期という大きな気象の流れの一時期であるというのがわたしの考えである。縄文の海進期などもっともっと暑かっただろうが、人類が二酸化炭素を出していたわけではない。恐竜が闊歩していた時代はそれ以上である。その時代に工場から煙が出ていたということはない。大きなスパンだけど地球は暑さと寒さを繰り返しているというだけのことである。
 しかしわたしたちが生きている間はまだまだ暑くなるだろう。暑さに適応した生活を真剣に考えていかなければならない。日本人の生活は衣食住とも欧州の涼しい国の文化が多く導入されている。スーツにネクタイなんてのは最たるもので、これを赤道直下の国々のものに変換する発想が必要である。アロハシャツやサンダル履きなどが普通になればいいわけだ。兼好法師だって「家は夏を旨とすべし」なんていいこと言ってるじゃないか。
 そういう意味で昨日のクールビズに続編をもうけて暑さを楽しむグッズを紹介しよう。ひとつは麦わら帽である。といっても麦で出来てるわけじゃないが、わたしは4種類を使っている。先日テレビで炎天下のお祭りをサーモグラフで撮ってるのがあった。体の中で一番高温になってるのが頭なのである。麦わら帽子で日陰を作ることと通気を良くすること、そして炎天下では濡らしたタオルを間に挟むことである。

左から普段用、お出かけ用、作業用、ウオーキング用
 そしていまひとつは水分と塩分の摂取、水分は麦茶を冷やしておき、のどが渇く前に摂ること。塩分はウィダーの塩タブレットがお気に入りだ。塩分の他にビタミンやカルシュウムなども含まれていて、食べやすい。なお出かけるときはペットボトルの麦茶に岩塩を少し放り込む。塩分だけでなくミネラル類も補充できて理想的。

麦茶は毎日家で沸かすこと。

【今日のじょん】じょんは我々よりも暑さが応えるだろうとかみさんが保冷剤をタオルにくるんで入れてやる。
なんとも気持ちよさそうだ。

冷たいのだワン

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クールビズ2018 7/22

2018-07-22 | 健康

2018.7.22(日)快晴

 クールビズは2013、14、15年と続いて記事にしているが、引き続いて実践していることとやめてしまったことがあって面白い。続いているのはダイコーのズボンとあせしらずパウダーぐらいである。優れものだったニチバンのブルーキックは製造中止となったしあせしらずパウダーを使っているのだが、たまに使うぐらいでなくては困るというほどのものではない。昨年まで使用していたシーブリーズのスーパークールボディシャンプーも特段効果があるわけでないのでやめてしまった。

こんなのは小手先のクールビズ
 ただダイコーのズボンは毎日着用している。4年前にダイコーの店頭で690円で販売していたものを2本買って気に入り、再度店頭に行ったらもう売り切れていた。その後見かけなくなったのだが、先日再び販売されているのを見つけて買ってきたものである。ポリエステルと綿の混紡でぺらぺらですこぶる涼しい、しかも動きやすくて丈夫ときている。値段も税込み700円あまりだったから4年前と変わらない。今度もう一本買っとこう。

これは優れもの、3本を毎日はき回している。
 さて今年のクールビズ一押しは、裸足と素足である。健康法で始めたのだが暑さ対策にはてきめんである。裸足というのは文字通り裸の足で、素足というのは裸足で履き物を履くということである。要するに靴下を履かないことである。出かけるときは素足にサンダルを履いている。サンダルといっても並のサンダルではなくミズノが今年発売したウオーキング用のサンダルで、鼻緒で履くタイプだ。これも足の健康のために始めたのだが、実に涼しい。当初は五本指ソックスで履いていたが、今では常に素足である。家に居るときは常時裸足、庭やフロアに出るときはスリッパなんだが、昔ながらの布草履を導入しようかと考えている。

 ウオーキングサンダルは優れものだが12,000円もする。ランニング用の五本指ソックスは秋用。
 いまひとつはノーパンツである。ノーパン健康法というのが昔からあって、寝るときにパジャマだけで寝るというものだが、いろんな効果があり結構実践している人が居るらしい。先日テレビでその話題が出て、ゲストに聴いてみたら1/3位が行っていると言っていた。実際やってみるとすこぶる涼しい、しかも体が楽で安眠効果がある。それならば昼間も涼しいかなとやってみるとやっぱり涼しい。さすがに出かけるときは着用しているが、ノーパンに慣れるとこれが結構むさ苦しく感じてくる。一体下着の効用って何なんだろうと思う。冬季の保温効果は当たり前だけど、夏の場合はスポーツやるとき以外は不要なのではないか。一般に汗を吸い取って清潔に保つということが言われているようだが、汗は吸い取るより発散させる方が気化熱が奪われて涼しいに決まっている。清潔云々というのは汗が皮膚に付着して雑菌が繁殖することをいわれているようだが、汗が発散していれば問題ないわけで、薄くて通気性の良いゆったりした服を着ていればいいのではないか。
 と言うわけで、サンダルとノーパンが今年のクールビズの目玉である。

【今日のじょん】じょんのクールビズはこれ、クールタイとクールマット。結構お気に入りみたい。

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浜田知明さん逝く 7/21

2018-07-21 | 文化に触れよう

2018.7.21(土)快晴・猛暑
 版画・彫刻家の浜田知明(はまだちめい)さんが17日に亡くなられた。浜田さんの作品に初めてであったのは2006年9月9日、酒田の本間美術館である。何気なく立ち寄ったのだが、その作品に感激してしまった。作者の意図がはっきり読み取れるのだ。モチーフはほとんどが人間で、その愚かさや哀しさ、喜怒哀楽が作品の中から伝わってくる、そんな作品である。

本間美術館は本間氏別邸の中にある。
 「初年兵哀歌」シリーズはつとに有名で、戦争の不条理、理不尽にこだわられたのは浜田さんの軍隊経験からくるもので、強烈に訴えるものがある。でも本当に好きなのは人間の表情をユーモラスに皮肉っぽく造形されているブロンズ作品で、特に気に入ったのはタイトルは忘れたが、夫婦が食事しているテーブルに稲妻のような切れ目が入っているものである。この作品をもう一度見たくて、翌年熊本県立美術館を訪れる。熊本は浜田さんの活動されている地であり、常設展示もされていると聞いたからだ。

熊本県立美術館、熊本城天守が見える。(2007.3)
常設展示は順次公開されているため展示数が少なくて、目的の作品は無かったが、美術館発行の作品集を買ってきた。県立美術館は熊本城の敷地内にあり、森に囲まれたとても静かで気持ちの良いところにある。その後地震の被害を受けたのだが一体どうなっているだろう。
 作品集の中にもお気に入りの作品は載っていないが、当分じょんのびで見られるようにしよう。

8月一杯公開

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大フィルが来たぞ 7/20

2018-07-20 | 文化に触れよう

2018.7.20(金)快晴

 7月16日のことである。大阪フィルハーモニー交響楽団が舞鶴に来た。地方に住んでると交響曲を生で聴く機会は年に一度くらいである。かといっていつでも聴けるところに住んでいた時は一度も行ったことがない。勝手なもんだが年に一度くらいなので楽しいのかもしれない。あと何回聴けるだろうという歳にもなってきた。
 今回の目玉はピアノの天才、牛田智大(うしだともはる)さんのラフマニノフ3番とムソルグスキーの「展覧会の絵」である。牛田さんは19才というから智大君と呼んでもいいかなと思うが、童顔の青年が弾くピアノに驚いてしまった。ラフマニノフ3番は特に難しい曲だそうで、それが聴けたというのはとても幸せである。ピアノ協奏曲というのは余り好きで無かったのだが、一昨年萩原麻未さんのチャイコフスキーピアノ協奏曲第1番を聴いて大好きになってしまった。ピアノ一台で大楽団と張り合うという感じがとてもいい。ソロの部分になると切なくて、「はやく他の楽器で助けてやってくれよ」という気になるのは正しい聴き方ではないかもしれない。とにかく凄い!のひとことだ。

演奏中は撮影出来ないので、その前の様子。この時間が楽しいのよね。
 展覧会の絵は学生時代の思い出がある。ロックでこれをやっているというのがあって、凄くいい曲だなあと思っていたのだが、エマーソン・レイク&パーマーと言ったかな。でもフィルハーモニーで聴く方がいいに決まっている。プログラムの絵の紹介を見ながら聞いていると、美術館をめぐっている気がしてくる。曲を聴いて絵が想像できるのだからコンサートと美術館を同時に体験できるのだ。第10曲の「キエフの大門」となると「展覧会の絵」ってこんな凄い曲なんだと感激してしまう。
 帰りがけに同行の工忠君が「あのファゴットの横の馬鹿でかい楽器なんですかねえ?」と聞いてくる。いやあ同じこと考えるんやなあと思って調べてみたら、コントラファゴットといって6m近くあるそうだ。
 今年の大きな楽しみが終わってしまった。

【今日のじょん】
猛暑が続いてワンコが来なくなった。モモちゃんだけがまめに来てくれるので冷房の効いた所を解放、じょんもうれしそう。

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大栗峠考(50) 7/16

2018-07-16 | 地名・山名考

2018.7.16(月)快晴 二つの大栗を訪ねる-4

 十倉と忠の大栗について、その共通点の多さに驚く。
共通点
①上林川の左岸にあり、ゆったりした流れが両岸が狭まり急流となる地点にある。そのため大雨の際は流れが遮られ、災害の原因となっている。
②左岸から谷が流れ込んでいる。
③大栗から下流は流れが速く、屈曲し、大きな岩が見られるようになる。
④古墳がある。

相違する点
①忠の大栗は上林川が狭隘となる地点の上にあり、十倉の大栗は下にある。
②忠の大栗は川沿いの細長い地域、十倉の大栗は川沿いから山の斜面を含んだ広い地域。
③古墳は十倉志茂町大栗にあるが、忠町は堂ノ下にある。
④周囲の小字名に似通ったものはない。

 この二カ所の大栗でもって大栗地名の解明をすることはきわめて危険なことである。ただ、あまりにも似通った二つの大栗を見るとき、確定は出来ないがいくつかの候補を挙げることは許されるだろう。
1.岩床、河川の岩塊
 「クリ・グリ」というのは小石から大きな岩、ひいては崖まで表している。特に日本海側では海中の岩礁や海面に突き出た岩などを~グリと表している。(赤礁、サバ礁、ハナ礁など)漁場としては良いが船の航行には危険な地帯である。ちょうど上林川が瀬に変わって、岩床、顕岩が現れるところが大栗と呼ばれたのではないだろうか。
 古墳時代以前の交通としては河川は重要な手段である。歩くにしても船を使うにしても、大栗は注意すべき地点である。


忠(左)と十倉(右)の大栗付近、増水しても見えるのはそこそこ大きな岩である。
2.急流、曲流

 災害地名ハンドブック(小川豊著)に蛇行地形(曲流)と書かれている。とちぎの地名を探る(塙静夫著)に栃木県栗野町中栗野字大栗(現鹿沼市)という栗地名オンパレードのところが紹介されているが、栗野川が90度曲がっている。漢字の読み方でクリと読ませたものだろうが、ハングルでは曲流はコッリュウ、急流はクウリュウと読まれ、どちらかというと急流の方がクリに近い。

3.古墳石材との関係
 綾部工業団地の中に城山町栗ヶ丘というとこがあり、12基の古墳がある。日本地名大辞典には町名も小字名も出てこないので、新しく作られた地名かもしれない。昔からある地名だとすると古墳に使われた石のことを言っているのかもしれない。ただ古墳が造られた当時は古墳は土に覆われていたと考えられるので、石材が現れてから付けられた地名か石材とする石がその辺りに多くあったためかもしれない。
 忠町の古墳石材は角の取れた川の石というより角張った山の石のようである。大栗の林道を歩いているとその上の斜面にそれらしい石がある。奈良や大阪の古墳のように遠くから石材を運んでくるほどの規模ではないので手近で間に合わせたと思われるが、その場所が大栗だったら、忠町と十倉志茂町の古墳と大栗の関係が見えてくる。

忠の古墳、畑の中にある。
【今日のじょん】おとうの
分別ゴミ箱が完成した。構想2年作製期間2ヶ月、じょんはキョーミなさそう。


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続・小田のこと 7/15

2018-07-15 | 上林地名考

2018.7.15(日)快晴

 上林の小田にも小田川がある。もっとも正式には小田谷川といい、北の山から宝蔵寺のそばを流れ、上林川にそそいでいる。砂防指定地に指定され、いくつかの砂防堰堤が造られているがこの谷に特段砂が出るというものではなさそうだ。府道から眺める小田谷川はコンクリートの河床となっており、その堆積物を確認することは出来ない。いつか自然の河床が見えるところまで遡って確認したいと思っているのだが、おそらく他の谷川と同様岩石や礫の谷だと思っている。

府道から小田谷川
 航空写真で覗いても、上林川の出合に顕著な砂洲が見られるわけでなく、その上流と下流に大きな砂洲が見られる。上林川の流れを見ているとその多くが急流で瀬音がして白波が立っている。引地、小田、真野あたりがもっとも流れが緩やかで、流域も広い。常に流されていた砂が堆積する条件が整っている。堰堤も堤防も無かった時代には、相当の量の砂が堆積していたのではないだろうか。今では豊かに広がる田園も古代には広い砂洲だったと想像できる。それこそが小田の地名のおこりで、災害地名というより単に砂のあるところという意味での地名であると考える。そう考えると小田谷川があって小田と呼ばれたのではなく、小田にある谷川だから小田谷川と考える方が順当ということになる。

真野橋から小田を望む。宝藏寺山門から上林川方面、古代にはこのあたりまで砂洲だったかもしれない。
 上林川の流れが緩やかになることが、真野の地名と関係があるとよんでいるのだが、その件については後日、「真野のこと」で考証してみたい。
 さて今日では一般に通用しない「オダ、オタ」という言葉は一体どういうものなのだろうか。菅野茂のアイヌ語辞典に「オタ 砂」、地名アイヌ語小辞典(知里真志保著)に「オタ 砂、砂浜」と出ている。事ほどさように北海道にはオタの着く地名が無数にある。ではオタはアイヌ語で、上林にもアイヌ人が住んでいたのかというとそういうことではない。原日本語とも言うべき縄文時代の言葉がアイヌに残っていたと考えるべきものである。では縄文人が小田に住んでいたのかということにもなるが、これはなんともいえない。ただ縄文人が住んでいなくても、オダという地名が付けられたときにオダ、砂という意味を持った言葉があったことは確実だろう。小田という漢字が当てられたのはずっと後のことで、その時には砂という意味はわからなくなっていたかもしれない。おわり

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小田のこと 7/14

2018-07-14 | 上林地名考

2018.7.14(土)快晴・猛暑

 西日本豪雨は実に広範囲に被害を及ぼした。近隣でも家屋の倒壊による死者が出て気の毒なことになっている。上林でも床上、床下浸水、土砂崩れ等が相次ぎ、通行止めの箇所もいくつか出ている。人的被害は聴いていないが家屋、田畑の浸水被害は相当だろう。和歌山の水害、熊本の地震災害、そして今回の豪雨災害で新聞紙上の被災地を見ると実に多くの災害地名が出てくる。古の人が未来の人に教示として災害地名を付けたとは思えない、単にその場所の特徴を名付けたのだろう。週刊誌などで騒がれる、「その地に住んではいけない」とまで言うのはいかがなものかと思う。簡単に引っ越しできるわけでもないし、防災上の措置も執られて安全な地になっている場合もあるだろう。ただ、新しく住まいを得ようとする人が近隣の施設や交通の利便性などを気にするように、その地の地形や気象も考えてほしいし、その際に地名も参考とされるのがよろしいかと思う。
 さて今回の西日本豪雨で多く報道されたのが倉敷市真備町の状況である。水が二階の天井付近まで上がり、屋根のみが姿を現している光景はこんなことが起こるのかという悲惨な姿である。そして小田川が決壊したと聞いたとき、小田川とはどんな川だろうと想像してしまった。オタ、オダは砂、砂地を表す地名である。
 水が引いた真備町の映像を見ると大量の白い砂が堆積している。瀬戸内地方特有の風化した花崗岩の砂、いわゆる真砂である。小田川が砂の川を表していることは間違いないようだ。そして上林の睦合町小田も砂の堆積した所という意味が理解できる。


 真備町被害の報道
 上林の地名を研究してきたが、解明できたのはまだわずかで、一生かかっても全ては解明できないと思う。特に困難なのが小田、山田、清水、山内などといった普通の地名である。小さな田んぼ、山の中の田んぼ、清らかな水源、山の内側などと漢字の意味通り解釈するのなら簡単である。だが地名というのはあらかたが漢字以前のものであり、口語で語り継がれていたものが何時の時代にか漢字で表記されるようになったものである。従って「小田」からは小さな田んぼという意味しかとれないが、「オダ、オタ」という音韻からは何かが読み取れそうである。国語辞典、漢和辞典、韓日辞典、語源大辞典、全国方言大辞典、古語辞典、古代地名語源大辞典、民俗地名語彙事典、日本史辞典、日本地名大辞典、歴史地名体系、地名の語源、アイヌ語辞典、などの辞典類と地名に関する書物などからその言葉を探り、現地の地形や歴史などが一致すれば地名の解明ということになる。

睦合町小田の田園地帯、上林川が向かいの山裾を流れている。
 多くの辞書類に「オダ」の解はある。例えば民俗地名語彙事典には、①狭い耕地 ②砂地、ワダの転、泥田
③尾根の田とある。災害地名ハンドブックには「オダ・オタ」砂浜または砂地の土地。砂質地形は河川が変動して移動することが多い、とある。
 倉敷の小田川が砂の川というのは
良く理解できる。西日本豪雨被害マップに決壊した河川が掲載されていたが、岡山市の東には砂川、広島市の北には太田川などは小田川同様砂地の川というのが予想される。また水の引いた真備町の復興の様子も多く報道されているが、堆積した砂の量には驚かされる。つづく

 【今日のじょん】じょんのびの豪雨被害は鎌谷の土砂流出である。近所の人と取り捨てにかかったがとても人力で出来るものではない。被災地の泥の撤去などがいかに大変かと思う。ここは今日、重機で片付けて頂けるようだ。

被災当日と今日の様子 

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大栗峠考(49) 7/9

2018-07-09 | 山・峠

2018.7.9(月)晴れ 二つの大栗を訪ねる-3

  大栗という地名については大栗峠考36~39(2016.5.26~)に記載している。大栗峠の大栗は、志古田の小字であり、「刳る」(くる)から来た、えぐられたような崩壊地名もしくは谷から斜面に取り付くところの大岩が由来。忠町の大栗は、大水の際に狭隘部で水がせき止められ逆流して渦巻く様子、あるいはその下流から始まる岩礁、いわゆるぐりが由来ではないかと書いた。今回は新たに十倉志茂町の大栗について新たな証言を得たり、現地を見て新たな発見をしたので、あらためて考察してみたい。
 さて次の写真を見比べて頂きたい。

写真中央の遠望が大栗のあるところだ。見なれた人でないとどちらがどちらか解らないだろう。左が十倉志茂、右が忠の大栗である。どちらも上林川による堆積で広がった平地が両岸の山が狭まり狭隘で屈曲した河川となる部分で、ちょうど胃の幽門のようなところである。どちらの大栗も左岸にあるが、忠町大栗は狭隘部分に入る手前、川沿いの細長い所であり、十倉志茂大栗は狭隘部分に入った少しの所、川沿いから山を含んだ広いところである。
 昨年10月の台風は上林に大きな被害を及ぼしたが、十倉でも大栗の狭隘部分の水流が滞り、右岸の田園地帯に押し寄せたということである。これは規模は違うが忠町の28水の時と同じ現象であり、見た目にはさほど狭隘になっているとは思えないのだが、水量が増加したときには、狭隘部分の水位が上がり、水の停滞、逆流現象が起きるのだろう。
 両大栗の共通点はそれだけでなく、その後屈曲したゴルジュ帯が続くこと、左岸から顕著な谷が下っていること、そしてどちらにも複数の古墳が存在することである。一致しない事柄は、忠町大栗の上部は地滑り地形で崩壊跡もあるようだが、十倉志茂大栗の場合はそのようなものは見られないことである。つづく

 

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大栗峠考(48) 7/8

2018-07-08 | 山・峠

2018.7.8(日)曇り  二つの大栗を訪ねる-2

  忠町大栗はマイウオーキングコースでもあり見慣れた景色である。ただいつも天気の良いときにしかこの景色を見ていないので、大雨の大栗を見てみたかった。それは大栗という地名が一般的に水の浸食による崩壊地名とされているからだ。地名の考察は次稿に譲るとして雨の大栗がいつもと違うところは、濁流の白波と轟音だ。特に須呂橋から下流が激しい。この状況は十倉の大栗と共通する。ゴルジュ帯(この表現はちと大げさすぎるが、山がせまって、川幅が小さくなったところと理解して頂きたい)洪水となる場合、この狭隘部で水の流れがせき止められ逆流して平坦部の田んぼや家屋にまで及ぶという証言を得た。これも両方の地域で共通である。どちらも28水(昭和28年の大台風)の経験者に聞いたものだが、昨年の台風でも同様の事態が発生したそうだ。

須呂橋から下流を望む、写真では広く見えるが、28水以前は左の土手が田んぼ二枚分出ていたそうだ。古墳は写真の左手辺りにある。
 忠町大栗のすぐ下、河畔の田中に堂ノ下古墳という古墳が2基ある。水面からさしたる高さもないのだが水害に襲われることもなく現存している。そのことも不思議なのだが古墳時代の人たちはどこに住まいしていたのかということも気になる。既に稲作を行っている時代なので現在同様の地域が妥当と思われるが、そうすると古墳のある地域は墓地、聖地として祭祀の場所と言うことになる。では川のどちら側に住んでいたのだろう。左岸の方が谷は発達していて水の便は良さそうである。しかし流路から考えると水害はこちらの方が確率は高い、でも古墳まで陸路で行ける、大栗はその通路となる。とまあいろいろ想像するんだが、橋の無い時代には両岸の通行は相当困難だし、水が出たとき、例えば今日の様子だと絶対に無理である。

須呂橋から上流。大栗は右手の林の部分。水によって浸食された地形とはいえない。

後日須呂橋からの写真、大岩が現れ岩礁地帯は武吉まで続く。
 これらのことは十倉の大栗にも共通する。大栗には大栗1~3号墳があり、金環なども出土しているので相当の古墳のようだ。上林川が狭隘になった部分の左岸にあり、忠町とまるで同一の位置関係にある。古墳の造り方の共通性かと他の地域も調べてみるがそのような共通性はない。ただ、支流の谷の側にある場合が多く、これは石材が得やすいからなどと想像してみる。大栗という地名を着けたのはおそらくこの古墳を造った辺りの人なのだろう。その人々の気持ちになって考えることが大切だ。現場に立って、当時の人の気持ちになること、これは地名解の王道である。つづく

 
 


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大栗峠考(47) 7/7

2018-07-07 | 山・峠

2018.7.7(土)雨 二つの大栗を訪ねるー1

 歴史的な大雨が全国に被害をもたらしている。この雨の中を上林の二カ所の大栗を訪ねる。大雨の時にしか発見できない何かがあると思っていたので、被害に遭われた方には申し訳ないがわたしにとってはチャンスなのだ。
 2018.6.6(金)11:30~13:00
 十倉志茂町大栗
 MTBで中十倉から上林側添いの農道を走る。農道の取り付き、張田は縄文の遺物が発見されているところで、この辺りに縄文人が居たんだと思うと何か楽しい。左岸に渡る橋のところで大栗方面の写真を撮る。

大栗は川が狭まった部分の左岸やや下流。右は上流を望む、十倉一帯は縄文以降の多くの遺跡がある。
 大栗は十倉の広い河内地形のところが急に狭まり、上林側が狭くて屈曲したゴルジュ地帯に入るところの左岸の山間斜面である。川沿いに大栗林道が走っており、最初の谷、神子谷には地域の方々が開発された不動の滝がある。今日の目的ではないので先を急ぐ。

大栗林道起点、起点から100m程かしっかり川が見えるのはここまで、大きな砂洲が見える。
 

神子谷、不動の滝の取り付き。上林側の様子は林間で見にくい。 

 一番見たいのは川の様子なのだが植林の合間に濁流が少し見えるだけだ。山側に崩壊などが見られるところはない。400mほどで最初の屈曲部分に着く。川幅が狭くなり急流になるかと予想していたがさほどではない。しかし十倉の平地を流れているときとは明らかに違うことがある。それは水面に白波が立っていることとザーザーという水音が常にしていることである。帰りがけに水面をよく見ると、所々に大きな岩があり、おそらく河床は岩床となっているのではないだろうか。

よく見ると白波が立ち、川音が激しい。
 続いて忠町大栗を目指す。左岸の農道が続いていそうなので走ってみるが使われていない道はぬかるみと雑草でひどい目に遭った。十倉向町の水無月神社に寄ってみる。この小松谷については後日「上林の澗地名」として紹介したい。武吉町、佃町を越えて忠町大栗に着く。つづく

水無月神社と、そこから小松谷を望む。  


 

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雨読 「縄文語の発掘」-2 7/3

2018-07-02 | 雨読

2018.7.3(月)晴れ

 大友氏のいうとおり言語学界での日本語の起源に関するアイヌ語の位置は低い。低いというより日本語とはまるで関係ない、異質の言語だという意見が大半である。全国にアイヌ語起源の地名があるじゃないかという意見はあるにはあるが、完全に無視されていて日本語がアイヌの中に取り入れられたという風に考える説もある。
 アイヌ語だけでなくアイヌ文化についてもいくつか読んだのだが、日本人とは違う、日本文化とは異質の文化という見方が多いようだ。古い文献にはその傾向が強く、差別的な表現も見受けられる。その中でR・ヒッチコック(セントルイス出身の化学者)の「アイヌ人とその文化」-明治中期のアイヌの村からー、は数多くの写真や絵があり、客観的に科学的に明治時代のアイヌの様子を紹介している。それは将に縄文人の末裔ではないかという生活である。全国に残る伝説に登場する「土蜘蛛」という大和政権に侮蔑されたおそらく縄文人であろう人々の生活がそこに残っているのだ。
 話がそれてしまったのだが、バチラー、金田一京助などアイヌ語を世に紹介した功績は大きいが、彼らはアイヌ人は日本人とは別の人種、アイヌ語も日本語とは別の言語という考えに基づいている。後に続く研究者も同様の態度で臨み、その傾向に拍車をかけたのが、戦前の国粋主義である。現在問題になっている、アイヌの遺骨返還問題などはアイヌ人は日本人とは別の人種であることを証明すべく戦前の大学が収集したもので、京大だけがその返還に応じていないという極めて由々しき問題である。
 そんな中で始めてアイヌ語と日本語祖語(縄文語と呼んでおられる)との関係を主張される本に出会ったのが本書である。
 「縄文語の発掘」鈴木健著 新読書社 借本



 縄文語というのは「縄文語の発見」小泉保著が使われた表現かとも思うのだが、大友氏がアイヌ語系言語と呼ばれているものと同じであり、3世紀以降朝鮮半島から渡来人と共に入ってきた古代朝鮮語以前の言葉として、日本固有の言語として縄文語はわかりやすい呼び方だと思う。学者によってこの呼び方は違っていて、言語学界で統一されないものかと思うが、この言葉であれどこからか入ってきたもので、それについてはおそろしいほど多くの説があり、追求し始めるときりが無い。
 ともあれ本書は借本なので、購入して精読した後に内容について報告したい。終わり

【今日のじょん】

 キャドック(動物病院)さんに行ったときは沢山のお友達に会えるので興奮気味、だって近所にはワンコが居なくなって、匂いも
無いんだもの。でも医療費、シャンプー代、フード、おやつ、シートや身の回りのものでじょんゲル係数高いのよね。

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雨読 「縄文語の発掘」-1 7/2

2018-07-02 | 雨読

2018.7.2(月)快晴

 地名について研究を始め10数年がたち、ようやく自分で考えられるようになった。当初は先生方の本を読んで、なるほどこういう地名にはこういう意味があるのかと知識を増やすばかりの方法だったのだが、それは単にうんちく家というにすぎない。やがて現地調査や関連分野の研究、例えば地質や鉱物、民俗や考古なども研究するようになりいくつかの地名について解明するようになったが、身近にある普通の地名、例えば小田、前田、於見、平林など多くの地名がわけがわからない。それに上林にある草壁、日置谷、弓削といった部民に関する地名というのも果たしてそうなのか疑問もわいてきた。そんな時にアイヌ語で解くと多くの地名が解明できることに気づいた。

日本語の起源というのは難しい、なにせ形のないものだから。
 実はアイヌ語地名については当初から興味があり、知里真志保さんの地名アイヌ語辞典、アイヌ語入門など購入していた。ところが一般の地名辞典のようにすぐに身近な地名に結びつくようなものでなく、あくまで北海道などアイヌ居住地の地名に関する書物だと判断してしまった。同時にその頃に読んだ本がいけなかった。「古地名の謎」(2010.7.20参照)「九州の先住民はアイヌ」(2010.8.15参照)などは本州にもアイヌ人が居たという位置づけで、前者などは恐ろしいほどの語呂合わせの地名解であきれてしまった。そんなわけでアイヌ語の研究は遠ざかってしまったのだが、大友幸男氏の「日本のアイヌ語地名」「日本の地名散歩」でまたアイヌ語を研究しようと言う気になった。大友氏は原日本語ともいえる縄文から弥生初期の言葉がアイヌに残ったと言う考え方で、前述のようにアイヌが日本全国に居たということではないわけだ。
 この考え方に理解が出来るのは、埴原和郎氏らのアイヌ原日本人論で科学的にアイヌは原日本人であることを証明している本を読んだからだろう。ところが、大友氏の本の中に「自論は学会の中では異端である」というふうな書き方がされていた。では学界ではどういう考え方をしているのだろうということで、日本語の発祥に関するあまたの本を読みあさることとなったのである。つづく

 【今日のじょん】モモちゃんがきたらおかあにくっつき回っている。なんでっておいしいもんくれるからやろう。

 

入れんようにしといたらずっとこうやって覗いてんだぜ、おもろいねえ。


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ハングルを始める 7/1

2018-07-01 | 日記・エッセイ・コラム

2018.7.1(日)晴れ

 ブログの記事が進まないので困っている。今まで記事を書いていた時間がハングル講座の復習に当てられていたことと、歳のせいか夜になると眠くて集中力がまるで無くなってしまったことである。
 さてそのハングル講座だが、ラジオの講座で、毎日15分ある。4月から始めたのだが、3ヶ月ともなると中身が濃くて記憶力が衰えているこの年齢ではとても大変。15分の短時間だが、基本表現、単語、読み書きと内容が多くて、本来ならとっくにケツヲワッテいるわけだが、単語を憶えることと書くことは諦めて、読めることと理解だけしようとして続けている。過去何度も語学学習の挫折を味わっているが、それは何でも完璧にこなさなければという強迫観念が原因である。その反省を活かしてズボラ学習を決め込んでいる。それでも15分の講座内容を理解するのに1時間はかかり、現在6課遅れて学習しているところだ。これではブログの記事を書いている暇は無い。そこで妙案を思いつき、朝早く起きてブログを書くこととした。夜はつらいが朝なら集中力も高まる、それにラジオ講座は8時に始まるのでその日の学習と録音が続きに出来るという利点もある。

ハングル学習、三種の神器
 何でハングル講座を始めたのか、「韓国旅行でもいくのかい?」と良く聞かれるが、そういう予定はなくて別のところに目的がある。偉そうに言えば「日本語の起源を調べるため」である。日本語の起源については別項で述べるとして、日本語ができあがる過程で朝鮮語が影響していることは定説となっている。そのためには古代朝鮮語を学ばないといけないのだが、その本もハングルで説明されている部分が多い。外国人が日本の古文を学習する場合だってまず現代文を学習するんじゃないだろうか。

この本を理解するためにはハングルが必要、肩のこらない本もハングルを知ってればよりわかりやすい。
まあそのようなことなんだが、ハングルを学んで毎日のように気づくことがある。2007.3.27の記事を見てもらいたい、「おめく、ちんぐ」なんて妙な島原方言を紹介しているが、おめくはなんだかわからないのだが「ちんぐ」は明らかに朝鮮語で友達のことである。前述のケツヲワルだってケッチョワルという朝鮮語だと何かで読んだが、これはまだ確認できていない。

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