晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

ポイントプログラム 2/27

2010-02-27 | 日記・エッセイ・コラム

2010.2.27(土)雨

 最近当ブログへのアクセス数が減っている。どうもわけの解らん地名や石の話ばかり書いてるからか。先日吉右衛門が来じょんした際に、石に磁石のくっつく様を見せたら、「ロマンですねえ、子供の時なら大はしゃぎですよ」と感激していた。男のロマンはどうもご婦人方には受けないようだ。というわけで、今日は受け狙いで下世話な話題とした。
 クレジットカードや携帯電話の通話料、電気代などにはポイントが付いている。ある程度貯まると商品やプリペイドカードと交換してくれるというありがたいものだが、以外と利用している人は少ないのではないかと予想している。ホームセンターやスーパーのカードも同様だ。うまく利用すればお得なんだけど、面倒だから利用しないという人も多いのではないか。ショップのカードは後日にして、クレジットカードのポイントプログラムについてお話ししよう。
 実は今日ニコスとドコモのポイント応募をした。昔ほど利用金額が無いのでいくらも貯まらないが、ポイントが消滅するので仕方なくやったという次第だ。以前羽振りの良いころには何でもクレジットカードを使って、無理矢理ポイントを貯めていたこともある。このころはハイウェイカードや図書カードに代えていたので、商品が手元に残ると言うことは無い。ペットボトルの保温カバーが世に出た頃交換して、これは便利なものを戴いたと実感した。10年近くたった今も使っている。家庭用工具セットなるものも戴いたが、これはちゃちなおもちゃで、今でもあるけれど使ったことはない。
 今日はセンサーライトと蓋付き鉄フライパンを応募した。点数が少ないので、セレクトしようがないというのが実状である。まあそれでも、なんかお得感があるようで良いものだ。
 さてじょんのび村では初夏を思わせる高温がつづいたため、一気に椎茸が育ち、梅の花が開き始めた。このまま春になるとは思わないけど、気配は十分あるぞ。Img_3958 Img_3960





 【作業日誌 2/27】
芝生広場草引き
Img_3961 緑なのが雑草、芝があおくなってきたら解らなくなる。




 今日のじょん:お家にワンちゃんの居る人は知ってると思うけど、犬って寝言言うんだよ。口では真似られるけど、文字には決して表せない寝言である、あえて文字にすれば「フィルルフィルルル」という感じ。夜寝だけでなく、昼寝でも結構やってる。カワイイのよね、寝言って、、、どんな夢見てるのかなって。Img_3959
 

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続・鉄鉱石 2/26

2010-02-26 | 歴史・民俗

2010.2.26(金)雨

 拾ってきた石の内磁石に反応するのはどちらかな?Img_3953




 今日は磁石を持たずに河原に行く。自分の目で見て、らしい石を拾い、どの程度石を見る目があるか確かめてみようという試みだ。もっともじょんの散歩のついでだからじっくり観察などしてられないので、直感で拾ってゆく。帰ってから磁石を当ててみると10個中4個が反応し、6個は反応しなかった。見た目はどれも同じ石なのになぜこんな結果となるのだろう。実はこのタイプの石は上林川にはいくらでもある石なのだ。どうも納得がいかないので、反応しない石の内最も大きいものをハンマーで割ってみる。大きく割れた面は茶色の錆び状の断面となっており、かすかに磁石に反応する。割れた破片が磁石に吸い付いてくる。予想通りだ、鉄鉱石には変わりないのだが、磁鉄鉱の含有率が影響して磁石の反応の有無があったようだ。Img_3954 Img_3955




 磁鉄鉱といえば釜石製鉄所が有名である。釜石、遠野近辺は磁鉄鉱の有数の産地で含有率が65%もあるそうだ。幕末に各地に砲台を造る際、従来の砂鉄による鉄では砲身が割れ、岩鉄による銑鉄が求められたということだ。仙人峠の釜石鉱山のある大橋に大橋高炉が築かれ、翌年には橋野に橋野高炉が築かれている。これは日本で初の洋式高炉と言うことだ。大橋にはかつて磁石岩と言われる名所があり、磁鉄鉱を含む大岩が雷などの影響を受け磁性を帯びたもののようだ。この岩が最初の高炉を造る契機にもなっていたようだ。Img_1245 
Img_1250
橋野高炉入口と笛吹峠。(2006.10.17)


 さて2006年の自転車旅行の際わたしは宮古をスタートして、仙人峠越えで遠野に入る予定をしていた。(2006.10.17参照)ところがとんでもない南風で、南下するのが難しくなり、大槌町から笛吹峠越えをすることになった。仙人峠には大橋高炉が笛吹峠には橋野高炉があったわけだ。ところがその当時高炉のことなど何も知らないし、鉄に関する興味もなかったから何も気にならなかったわけである。橋野高炉跡の入口も通ったが、高炉っていったい何だろうとさえ思っていた。ただそのことが幸いして旅を続けられたわけで、今のように古代の鉄に興味を持っていたら、この地には相当長期間滞在しなければならなかっただろう。
 高炉が出来る以前からも産鉄の地であったことはわたしがたどった道々の地名を見ても解る。大槌、小槌、立石山、青の木、片羽山、笛吹峠、金堀沢、糠前など嬉しくなるほど出てくる。つづく

【作業日誌2/26】 
ドッグランどオープン看板づくり

今日のじょん:秘技両手ハイタッチすなぎもバージョンの撮影に成功。Img_39571  

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椎茸防猿柵完成 2/25

2010-02-26 | 日記・エッセイ・コラム

2010.2.25(木)曇

 2月5日に猿に襲来され大根と椎茸をやられてしまった。椎茸は小さいのがそろそろ出始めていたのでかなりショックを受ける。椎茸を作り始めてからいつかは柵を作らなければと思っていたが、お尻に火が点かないと動かないのが人の常である。18日に柱を立てる穴を掘り始めてから一週間、かみさんの応援よろしくわりかし早く出来上がった。将来もう10本ぐらいはホダ木を増やす予定で少し大きめにする。 Img_3831
Img_3951

猿にやられたときと現在。




  防獣ネットで三面と天井を覆い、南側は木小屋と扉になっている。本来は金網にしたかったのだが、できるだけ予算をかけないで造りたかったのでナイロンの防獣ネットとなった。猿が本気で椎茸を食べるとしたら、物理的には簡単に破られるだろう。
 もし、破られたら次は金網を張ることとしよう。それ以上のことは不可能である。椎茸を買った方が安くつく。それにしてもとりたての椎茸はうまいもんだ。少々の苦労は許せる範囲だ。
   さてこの防重柵、如何に経費をかけないで造るかというのがポイント、あるものでやっていこうという主旨だ。工法は例によって丸太掘立行き当たりばったり工法で、買ったものは丁番と扉の取手のみである。しかしながら、あるものといっても以前に買ったものだから、一応目安の値段を出しておこう。
丁番、取手       538円
桟木5本      1,000円  
防腐剤、塗料     500円
ネット          800円
2×4          240円      合計3,078円
まあこれで猿被害が無ければ安いもんかと思うが、獣害のないところではこんな苦労もしなくていいのだから、なんとなく納得のいかないものが残る。Img_3913 Img_3918 Img_3931 Img_3950

【作業日誌 2/25】
椎茸防獣柵完成

19日、21日、22日、25日の様子

今日のじょん:春一番が吹いて家中のものがバタバタガサガサと音を出す。じょんはこれが弱いのよね。今日も尻尾下げて、そわそわ落ち着かない。小屋に出たり入ったり、カーテンの間から外をのぞいては脅えている。なんじゃろなあと表に出ると、足を拭くための段ボールが風に揺れている。片付けるとちょっと落ち着いたかな。Img_3952  

ベランダの段ボールが犯人なのだ。

 

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鉄鉱石 2/24

2010-02-24 | 歴史・民俗

2010.2.24(水)快晴

 タイトルを砂鉄改め、鉄鉱石とする。鉄鉱石探しも四日目になると慣れてきて、やみくもに拾うのではなくてらしいものを拾って磁石を当てるようになる。細かいのは面白くないので、大物を探す。今日は直径15cmの大物を見つけた。5cmぐらいのも見つけ、大満足。Img_3946

左は赤色チャートに酸化鉄が沈着したものか。中の二つは磁鉄鉱を含む花崗岩か。右のひとつは同じような石だが磁石は反応しない。

Img_3947
磁石は写真の部分と下方の黒い帯状の酸化鉄のあたりに反応する。 


 さて、この鉄鉱石は磁鉄鉱というものだが、昨晩色々と鉄鉱石について調べたのだが今ひとつはっきりしない。鉄、Feは地球生成時にはイオンとして大量に存在し、酸素の供給が増えると酸化鉄として沈殿し、結晶するという説明もあるし、フォッサマグマの中で鉄が生成されるというのもある。この辺がよく解らない。とにかくこうして結晶化した鉄を含む石が鉄鉱石である。鉄の結晶を含む花崗岩や変成岩が風化して結晶が河川や海岸に蓄積したのが砂鉄ということである。ちなみに現在、製鉄所で使われているのはほとんど赤鉄鉱であり、国内での生産は無いので輸入に頼っているということだ。古代からのタタラ製鉄では磁鉄鉱が使われており、砂鉄が使われることが多かったが、鉄鉱石を使った例もあるようだ。
 とまあ鉄に関する怪しげな理解だが、上林川流域に鉄の鉱床があることは間違いがない。ただ今の上林川の様子を見る限り大きな砂州があるようには思えない。二八水後の河川改修により川の流れが随分変わったのではないか。上林川中流域の念道でこれだけ大きな鉱石があるとすれば、ひょっとすれば鉱石からのタタラ製鉄の可能性がある。そうすると水車を使った鉱石の砕石が行われていても不思議ではない。などと想像は膨らんでゆく。
 さてもう一つの鉱石、昨日紹介した赤色チャートと思われる石であるが、もしそうであるとしたら、これは堆積岩で、赤い色の原因はやはり酸化鉄だそうだ。丹波にはこの石が多いそうで、三和町でも数個見つけて持ち帰ったことがある。我が家ではガーデニングに沢山使っているが、磁性を示すものはほとんど無い。現在2個ばかり磁石のくっつく石があるが、総ての部分ではなく鉄分が層状に存在し、茶色く変色している部分のみ磁石に反応している。チャートそのものは非常に堅い石だが、鉄の沈着した部分は少し脆いようだ。もう少し鉄鉱石について調べるとともに、鉱石集めも継続してみよう。つづく

【作業日誌 2/24】
椎茸柵作り(ネット張り終了、避難していたホダ木搬入)

今日のじょん:秘技両手ハイタッチの写真を撮るべく努力しているがうまく行かない。シャッタースピードが遅いので、タイミングが合わないのだ。いまのところすなぎもをやるときだけの芸なのでチャンスは一日一回しかない。これは両手ハイタッチが終わって、しまおうとしているところ。Img_3933  


 

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続々・砂鉄 2/23

2010-02-23 | 歴史・民俗

2010.2.23(火)晴

 今日も河原で砂鉄を拾う。大きい粒子が欲しいものだと、それらしい石に磁石を当てて行くが一向に反応しない。砂が溜まっているところで適当に混ぜるのが一番確実だ。先日同様黒い砂状の粒子と1cm程度の小石がびっしりくっついてくる。持ち帰って磁石から外し、観察する。なんか少年時代のワクワクする気持を思い出す。黒い小さな粒子は理科の実験で砂から取り出した針状のものとは明らかに違い、円い粒子である。それより大きい2,3mmの粒は黒色だけでなく茶色、赤色等の石も混じっている。そして最も大きい2cmぐらいの粒は緑と白の紋状になっており、その間に黒っぽい粒子が混じっている。ここに来て鉱物に対する知識の無い自分に気付く。博物館で嫌というほど鉱石を見てきたし、ついこの間の大江町鬼の交流館でも河守鉱山の展示があり各種の鉱物を見てきたのだけれど、実はちっとも頭に残っていないわけだ。人間、関心の有る無しでこうも見方が違うものかと感心する。鉱物についてはいづれ勉強するとして、これらの砂鉄や粒子はどこから来るのだろう。上林川の上流域にあることは間違いないが、どういった形で存在しているのだろう。これは興味ある問題である。Img_3923 Img_3922
20日、最初のサンプルを採取したところ、念道橋上流100m、右岸の河原である。

 河原にある石に磁石を近づけても一向に反応はなかった。上林特有の赤い石、チャートというらしいが、この石も全然反応しない。庭に転がっている石はどうだろうとひとつづつチェックする。味噌石といわれる粘板岩や砂岩は問題外のようだ。工事のため運び込まれた砕石などの黒い岩の破片も問題外。この地は上林川の河岸段丘であり、鎌谷(じょんのび谷)の扇状地でもある。土の中からとんでもなく大きな石が出てくる。小さなものは砂岩が主だが、大きなものは水成岩らしい、例の赤いチャートも出てくる。これらにひとつずつ磁石を当てて行く。反応もなく、諦めかけた頃、掘り起こし途中の大きな石に磁石が吸い付く。50cm弱の大きな石だ。見た目は堅い水成岩のようだが、一部が欠けて、錆のように茶色くなっている部分に磁石がくっついている。石のどの部分でもくっつくというわけではない。割れた断面あたりと、その下の部分だけがくっついている。なにか宝物を見つけたような嬉しい気分となる。そしてその後、河原から持ってきた赤いチャートの割れた石にも鉄分のあることが判明、これは10cm程度か。Img_3944 Img_3943

庭の石も鉄分を含んでいた、磁石がくっつく様は感激もの。



 続々と出てくるので、不安も感じる。なにも上林だけでなくどこにでも鉄分を含んだ石なんて出てくるんじゃ無いだろうか。観察を続けることが大切、どんな結果が出てくるか楽しみでもある。

【作業日誌 2/22】
椎茸柵作り(ネット張り)

今日のじょん:天気が良いのでドッグランに連れて行こうと思う。ネットで調べると日吉の府民の森は3月いっぱい閉鎖のこと。同じく「おかげさんで」さんも火曜日が定休だとのこと。やむなくホノホノさんにゆく。マック隊長もマウイちゃんも冬太りだって、、、、。じょんは大喜び。Img_3936 Img_3941初めて一人で自動車に飛び乗れるようになった。

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続・砂鉄 2/22

2010-02-22 | 歴史・民俗

2010.2.22(月)晴

 小学校の理科の時間に永久磁石で砂の中から砂鉄をとりだし、下敷きの上に撒いて下から磁石をあてがい、磁石の実験をしたことがあるだろう。鉄棒の下の砂場からは黒くて細かい砂鉄が取れ、下敷きの上で踊る様子が目に浮かぶ。この砂鉄が日本刀に代表される優秀な鉄製品を造ってきたことは、小学校で学ぶことである。
 松田壽男氏の「古代の朱」では各地の調査をされた場合に、几帳面な手書きの絵地図に参考となるべき事項をびっしりと記入され、その地の土壌の水銀含有量を調べておられる。100分の数パーセントという非常に細かい率なので、おそらく検体を持ち帰られ実験室のようなところで算出された含有率だろう。ひょっとしたら専門的なところに依頼されているかもしれない。その地の鉱物含有率が高いことがそのままその地が鉱山、あるいは鉱物の産地であったという証拠にはならないが、可能性は高くなる。必要充分条件ではないが必要条件とは成り得る。
 こういう鉱物の含有率を測ることが出来れば、古代の金属産地としての信憑性はかなり高まる。しかし、水銀や銅の含有率をどうやって測るのか、素人でも簡単に測ることが出来るのか、総て未知数である。
 色々と考えたあげく、鉄に関しては含有率は解らなくても、磁石で砂鉄を採集することによって含有する鉄の量的比較は可能である。すなわち、各地の砂を集めて、一定の量から一定の方法で鉄分を採取し、その量を比較することは出来そうだ。
 まづその測定方法を確定しなければならない。永久磁石だって今やいろんな種類があるみたいだ。ネオジウムなんてのは強力な磁力があるそうだ。しかしここでは、磁力が安定していることが大切である。そういう意味でフェライト磁石を選ぶ。ホームセンターで320円で売っていた。
 最初に採取方法、測定方法を確定しなければならない。その前に河原の砂から砂鉄なんて取れるのだろうか。20日のことであるが、じょんの散歩がてらに河原におり砂が溜まっているところを磁石で2,3回擦ってみる。泥やゴミがいっぱい着き、なんだか解らない。川の流れで洗ってみると、黒い粒々の砂鉄に混じって小石がいっぱいくっついている。大きなものでは2cmぐらいあり、これが磁鉄鉱というやつだろうか。予想以上の成果に大感激、上林川は鉄の宝庫だぜ。Img_3921
 といっても、他の川のサンプルが無い以上比較のしようがない。ただ上林川の流域に鉄の鉱石があることは確かだ。今後いろんな流域、支流、源頭などのサンプルを集めて比較できたら、古代金属文化を探るひとつの手がかりになるかもしれない。

【作業日誌 2/22】
椎茸柵作り(ドア完成、ネット張り)Img_3931

ドアは完璧な仕上がりだが、ネットがじじむさい。



 今日のじょん:ドッグランどが完成したらジャンプ台や平均台、トンネルやポールなど遊び道具を作ってあげたい。杉やヒマラヤ杉の大木が余っているので、おしゃれな遊び道具を作ってあげたいと思っている。今はとりあえずゲートの柱でダブルジャンプの練習をしている。Img_39281

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砂鉄 2/21

2010-02-21 | 歴史・民俗

2010.2.21(日)曇、晴

 奥上林のI鼻さんが2冊の本を貸してくれた。ススムさんにも2冊借りているところで大変苦しいのだが、一冊は読了したのでまあいいかという感じである。お借りした本は「逆説の日本史」1,2で小学館から出版され、人気のシリーズである。ともすれば本や教科書を鵜呑みにしてしまいがちな私たちに、ちょっと視点を変えて歴史を総点検しようという主旨だそうだ。私の場合元々斜にしか見ないので必要はないのだけれど、視点を変えた歴史をのぞいてみたいという気はある。読み始めてすぐに疲れてしまった。古代史の古典的な書物ばかり読んでいるので、理屈をこねくり回したようなこの本がとても苦痛である。それでもいつかは面白くなると信じて読み進んでいるのだが、果たして読了の自信は無い。
 この本の中で、現在の歴史学を批判しているひとつが「実証主義」である。つまり、実証を重んじるあまりに、証拠がないものは、存在しなかったあるいは無かったとする態度である。これは一見なるほどと思うが、歴史の事実なんて実証されるのはほんの一部分であって、ほとんどの部分は人びとの了解というか納得で成り立っているのではないか。かつては学会の中での納得であったのが、今や世界中での納得という風になってきているのではないだろうか。納得させようとするのなら、証拠集めはしなくてはならないし、例え証拠があり得ないという状況であっても、状況証拠でもいいから収集しようという態度がなければならないと思う。
 話がマキシマムになってきたが、身近に振り返ってみると、わたしの上林メタルバレイ説も地名や神名ばかりで一向に具体性がないという風に感じていた。いくら蘊蓄をばらまいてみたところで、それは所詮マスターベーションであって、大衆の納得を得ることは出来ない。古代金属文化存在の証拠って一体何だろう。タタラ跡、鉄滓、羽口などの部品、坑道跡などが発見されることが最も信憑性が高い。しかしそれらの発見の可能性は確率的には極わずかだし、それらしい現場に行ってトレンチをするとか、工事現場に遭遇するとかの努力をしなければならない。今の私に出来ることは毎日上林川の河原に降りて、何かそういう物が流れ着いていないか探すことである。Img_3848

この辺に降りていくのだ。


 念道は上林川の中流にあり、堰があって流れが緩やかになっているところである。何かが流れ着いて留まる絶好の位置だ。じょんの散歩ついでに出来ることであって、それだけをやり続けることは不可能だろう。 つづく
Img_3917
これなーんだ?

【作業日誌 2/21】
椎茸柵作り(梁完了、ドア取り付け)

今日のじょん:今夜もけたたましく吠えた。ベランダに飛び出すが、何者かの気配は無し。ベビーチェアの雨除けのため掛けているビニールが風に揺れて、ガサガサと音を立てていた。音がしないように片付けると吠えるのは止んだ。ん~。


 

 

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引地のこと(14-2) 2/20

2010-02-21 | 歴史・民俗

2010.2.20(土)晴

 長澤村の金山比古神社については創建が1456年(室町時代中頃)に長澤村の開発者近藤与左衛門宗重らによってなされたとある。これははっきりした棟札があり、棟梁や願主名が記されている。創建時は蔵王権現社と呼んだ。蔵王権現は吉野の金峰山寺の本尊で開祖は役戸角であり、修験道の本山である。近藤与左衛門は釜口村からヒヤリ峠を越えて長澤の地に至ったとある。与左衛門は吉野の蔵王権現の信仰が厚く、長澤の地を吉野に見立てて蔵王権現を祀ったそうだ。明治3年にその蔵王権現から金山比古命に祭神を代えている。これは文書には説明がないが、明治の廃仏毀釈(1868年4月に発した太政官布告「神仏分離令」、明治3年1月3日(1870年2月3日)に出された詔書「大教宣布」などの政策によって引き起こされた仏教施設の破壊などを指す。)に対応する措置だと思う。金山比古神社の東に中の森、伊勢の森両神社があるが瑣小川(さおがわ)神社、豊受神社といい生穂賀茂神社の末社になったこと、金山比古神社の国有林払い下げの古文書などが記載されており、最後に同神社の的矢神事のことが書いてある。
 さて、親切に送っていただいたこれらの文書を見る限り、金山比古命は明治になって急遽奉られたため、古代の金属文化とは関係のない神社であると言える。
 ところが室町時代以前の長澤村はどのようなところだったのだろう。与左衛門が長澤の地に来て蔵王権現を創建したとき、村の様子は如何ばかりなのか。如何に山深いとはいえ、淡路のこの地が未開の地であったとは思えないのだが。そして与左衛門は何を求めて、何のためにこの地を訪れて開拓をしたのだろう。もちろん戴いた資料ではそれらをうかがい知る術もない。
 淡路の金属産地のひとつは南あわじ市の賀集(かぞ)周辺である。一帯には鍛冶屋、タタラ神、鍛冶ヶ渕、鋳屋敷、などの地名が残っているそうだ。また「吹子の口」「ノロ」などが発見されているそうだ。「黄金と百足」若尾五雄著に詳しい。西に進むと伊加利、湯の川など金属地名らしきところもある。淡路島南部は中央構造線上にあり、金属文化が栄えていても不思議ではない。淡路島の全体が領家変成帯に属し、鉄や銅の鉱物が豊だなあと考えていた矢先、淡路市の垣内遺跡のニュースを見つける。昨年の4月のことだが、淡路市で国内最大の弥生時代後半の鍛冶遺跡が発見されたということである。ややもすると古代金属文化の古典ばかり追いかけていると、最近のニュースに疎くなる。つづく

【作業日誌 2/21】
椎茸柵作り(柱、梁、ドア取り付け等)Img_3918

柱を立てて、ドアを付けて、周りと天井にネットを張る予定。



 今日のじょん:夜にじょんが吠える対象を突きとめたいという願望は日増しにふくらんでいる。向かいの竹藪に獣が来ていることと、下の府道に人が歩いていることぐらいしか解明していないのだ。連日連夜吠える対象は何なのか。
 今夜ストーブの熱を効率的にするため、店側のドアと二階のドアを開けていた。突然じょんが吠えだした。店の方を向いて吠えている。外を見ても何も居ない。数回繰り返すと、二階でガサガサ音がする。かみさんが探し物をしていた。どーもこの音に反応していたようだ。音、臭い、気配、何でも反応しているみたいだ。 

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引地のこと(14-1) 2/19

2010-02-19 | 日記・エッセイ・コラム

2010.2.19(金)晴、曇

 引地とは水車の水を引いたところ、あるいは水車で何かを挽いたところではないかという推理のひとつの根拠は、「鉄の生活史」(窪田蔵郎著)の技術革新と鉄の量産という項に下記の記述があったことである。
 
この時代の製鉄に関する記録としては、「日本書紀」の天智天皇の条に「同天皇九年(670)に水碓(みずうす)を造りて鉄を冶す」との記載がある。この水碓なるものがどのようなものかわからないが、「信貴山縁起」によると農業用の水車の絵が描かれており、少し時代は下がるが、淳和期(824-832)ごろには、諸国に令して農業用の水車を造らせているので、相当普及したことが想像できる。中略
しかし「日本書紀」の記載では、水車を利用したというのであるから、使用されたとすればこれを石臼に連動させて、岩鉄鉱を粉鉱として溶融しやすい形にさせたものか、あるいは吹子を連結して鉄冶をおこなった記録があるから、その原始的な形がこのようなものであったかもしれない。

  まさにわたしの想像と一致する記述があり、驚いている次第だ。そして淡路市の引地水車についての回答があった。引地(ひきじり)というのは地名だそうだ。地図にも載っていないので小さな小字なのだろう。淡路市長沢引地となるのだろうが、郵便番号検索も長沢までしか出てこない。長沢にある金山比古神社が鉄に関連のある神社ではないかとの質問には、地元の人に確認したが、製鉄や鉱山の話は聞いたことがない、という回答だった。まあ、当然のことと諦めるが、神社に関して文書があるので郵送してあげようと親切にしていただいた。かくも古代の金属文化というものが今日には伝わらないものなのかと思うが、引地の近所に金山比古神社という構図だけで満足しよう。
 後日北淡路歴史民俗資料館の担当者の方から、引地水車の写真と金山比古神社に関する資料が郵送されてきた。電話で問い合わせなどしてきたが、これほど親切にしていただいたのは初めてである。お礼の手紙を送っておこう。 
 さて、淡路の金山比古神社については次回で御紹介しよう。つづく

【作業日誌 2/19】
椎茸柵作り(穴掘り完成、ドア作製)

今日のじょん:火曜日が雨だったのでシャンプーが今日に延びた。結構大変なので冬場は3週間に一度で良いようだ。最近よく食べるので体重が心配だったが、果たして18Kgとなっていた。20Kgまでは良いかと思うが、体重を下げるというのも難しそうだから、少しコントロールの必要有りだ。Img_3907
Img_3908



気温は低いが日差しが暖かく、昼寝にはぴったりみたい。 


 

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厄神の頃 2/18

2010-02-19 | 日記・エッセイ・コラム

2010.2.18(木)曇、晴

 上林では「厄神さんの頃は雪が降るで」と言われるが、確かに昨年も一昨年も雪が降っている。ただ順次雪の量は減っており、今朝はうっすら白いだけ。気温もしっかり低いのだけど、身体が慣れているせいかちっとも苦にならない。むしろ日差しが明るくなった分だけ暖かく感じるから不思議である。
 春の兆しはあちこちにあり、梅がほころんだり、フキノトウが出てきたり、気の早い花が咲いたりしている。雪は少なくなったけど、春は待ち遠しいものだ。今だ雪が数メートルも積もっている東北や最低気温が-18℃なんて言ってる北海道なんかではいかばかりかと思う。Img_3912 Img_3909 Img_3911




 フキノトウ、梅、草花、春の兆しである。

 春は待ち遠しいけど、嫌なもののある、雑草や虫たちである。特に書いておかなければいけないのはカメムシのことだ。一昨年の秋の最盛期を過ぎた後、彼らの出現はどうだったのだろう。ブログを見直しても出てこないのだ。今シーズン真冬になっても2,3日に一度は室内に出てきている。ストーブのついている暖かい部屋で動き回っているケースや押し入れやタンスのなかで仮死状態になっているものなど居るということだ。春秋に出てくるだけというわたしの常識は常識でなかった。
 春になったらじょんのびファームも再開しなければならない。とりあえず生姜の跡地を掘り起こして、アスパラガスを植え付ける。アスパラガスはこれで三本目だ。すべて失敗で、食したのは一本だけである。冬の間に根腐れをおこして居るようだ。解決策を練らないままに植え付けるのはいかばかりかとも思うが、いわばやけくそのような植え付けだ。Img_3903 Img_3904
 昨年間引いた白菜や大根を端に植えていたのだが、ここにきて育ってきた。大根は余り太くなりそうにないが、白菜は巻いてくればいいのだが、巻かなければじょんにやるか。
 昨年植え付けたタキイの売れ残り品、右は今回植え付けたもの。

【作業日誌 2/18】
椎茸の柵作り(柱の穴掘り)Img_3913


石が出てきて穴掘りも大変。


 今日のじょん:最近寝静まってからの吠えや唸り声が多くなった。それも長時間にわたっているので、何者かがうろついているのだろうけど、物音もしないしセンサライトが点くこともない。じょんの守備範囲が広すぎるので、一体何が来ているのか確認が出来ない。泥棒でも来たひには大騒ぎするだろうから、立派な番犬になっている。
 

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雨読 鉄の生活史 2/17

2010-02-17 | 歴史・民俗

2010.2.17(水)

 「鉄の生活史」(窪田蔵郎著)角川新書 昭和41年初版 270円(古書価格600円)を読了。鉄や金属の古典を沢山読んできたが、地名や神名、祭祀などの考察に関するものがほとんどで、技術的なものに関する本を探していた。タタラ製鉄の操業や技術などが網羅されている本書は最適であった。もちろん歴史的なことも書いてあるのだが、他の古典に見られなかったのは、鉄の生産についてその従事者からの視点で書いてあることだった。例えば次のような項目を見ると解ると思う。「悲しき捕虜工人」「古代国家建設と民衆の苦しみ」「庶民にはほどとうかった鉄」「タタラ場残酷物語と幕府・藩の鉄山干渉」などである。
 古代においては鉄というものが権力に直結する重要なものであったにかかわらず、それを生産する者は身分的には虐げられていたこと、タタラ場のように専業化してきたとき、そこに従事するものは奴隷的な生活をおくっていたとかいうことである。こういった見方は今までの本に見られなかっただけに、もう少し窪田氏の著書を読んでみようと思う。
 古代製鉄の地にその痕跡が残っていない理由のひとつとして、タタラ従事者が虐げられていたという事実があるのではないだろうか。地方によっては先祖がタタラ者であったことを非常に不名誉なこととしているところもある、と氏は書いている。
 本書で気になった事柄を列記してみよう。

(1)石上神宮に残る刀剣類に彫られている銘に俘囚云々というのがある。金属製錬技術者が一般的に身分的に虐げられており、冷遇されていたことが解る。三韓遠征による捕虜として金属関係の技術者が使われていたのだろうか。あるいは蝦夷征伐の俘囚かもしれない。いずれにしても遠征や征伐という侵略が鉄やその技術者の争奪というのが目的であったのかもしれない。

(2)淘汰という言葉が盛んに使われている。
先日(2010.1.31参照)「黄金と百足」の雨読欄で淘汰という言葉が、タタラの場で使われていただろうかという疑問を提起していたが、本書の中に盛んに使われていて、意外な感がしている。淘汰という言葉が古文書などに出てきているというわけではないが、例えば「川砂鉄は、川の流れにより自然淘汰されて云々」「なるほど泥鰌掬いは、その身ぶりが土壌を淘汰する身ぶり云々」などと一般的な使い方で出てくるわけだが、淘汰という言葉が通常使われるような言葉ではないというわたしの意見は、間違っているのかもしれない。淘汰という言葉が、製鉄や金属生産の現場で、実は普通に使われていたのかもしれない。

(3)風呂の語源は?
浅原のこと(2)(2010.2.8参照)で風呂は鞴を意味し云々と書いた。ところが本書ではタタラ場や鞴についてかなり詳しく書いているものの、鞴=風呂というのは見あたらない。確認のため再度風呂塔(ふろんと・1402m)について調べてみる。風呂塔の中腹に「鍛冶屋の窪」という銅の柄実(からみ)遺跡があり、銅の精錬に使用した鞴のふろから来ているとある。風呂というのは本書に記載は無いが、鞴と炉を繋ぐ送風管を木呂(きろ)と呼んでおり、鞴のパーツとして風呂というのがあるかも知れないし、木呂のことを風呂と呼ぶところがあるのかも知れない。

(4)罔象女命(みずはめのみこと)は農耕神か?
「神社の変遷」(2010.1.8参照)や「浅原のこと(3)」(2010.2.9参照)で金属神丹生都姫が水の神、農耕の神罔象女命に取って代わられるという話を書いた。
本書ではタタラ場の詳しい内容が記述してあり、鉄池(かないけ・鉧の塊を水冷する池)には通常罔象女命が祀ってあるとのことである。となると、この神様は金属とは関係のない、水を司る農耕に関する神様というよりは、もともと金属生産加工の水を使用する部署の神様であったのが、金属生産加工が廃業となり農耕主体となったときに、農耕の水の神様という風に転換したと考えて良いのではないだろうか。

(5)こんなことが許されるのか。
講談社学術文庫として「鉄から読む日本の歴史」という本が出版されている。今回読了した「鉄の生活史」のサブタイトルは「鉄が語る日本歴史」である。著者はどちらも窪田氏だが、タイトルは違うものである。ところが内容はまるで同じで、使われている写真や序文まで同じである。通信販売で買っているわたしは、そんなことはつゆ知らず、どちらも買ってしまった。書店で選んでいたらこんなことは起きなかったのだが、致し方ない。それにしてもタイトルを異にして、同一内容の本を出版するとは、納得のいかないことである。内容が良かっただけに、余計残念に思う。Img_3905

【作業日誌 2/17】
アスパラガス植え付け
ドッグランどゲート前コニファー植え付け

今日のじょん:猟期が終わった途端、イノシシ君が堤防を走り回っているようだ。うっすらと積もった雪に無数の足跡、掘った跡、オシッコの跡、臭ぎまわって散歩にならない。Img_3872 帰ったら寝てますが、、、、、、、。


 

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雨読 限界集落と地域再生 2/16

2010-02-16 | 雨読

2010.2.16(火)雨、雪

 ススムさんにお借りした「限界集落と地域再生」(大野 晃著)を読み終える。限界集落という概念を作り出した大野先生の著である。65才以上の高齢者が集落人口の5割を超え、冠婚葬祭を始め集落の共同生活が困難な集落ということだが、この中でも格差があり、住民が一人、二人という消滅集落直前の集落も多くある。限界集落の実状と再生のプログラムが書かれているが、農山村の人口減少、消滅は産業の構造的な問題であり、地域再生プログラムといっても対処療法でしかないと思う。それでは根本的解決があるのかと言えば、現在の政治状況、経済状況から見ると、残念ながら解決の可能性は無い。対処療法を積み重ねて滅び行くものの寿命を少しでも延ばすことしかないようだ。Img_3901
 水源の里条例の施行など綾部市の取り組みも大きく取りあげられている。私たちをはじめ多くの人が綾部に移住されていることを見ると、定住推進の活動は効果を上げているようだが、その子供達が田舎に残るかというといかにも心許ない。しかし考えようによって、50代60代の人が入れ替わり立ち替わり移住することとなると、集落内の年齢構造は変わらなくても、集落が存続することは可能である。なんとも情けない形ではあるが、根本解決の道がない以上、こういった対処療法が効果を上げる環境造りを住民も自治体も考えなければならないと考える。

今日のじょん:じょん語録(48)連獅子じょん
歌舞伎の連獅子ごとく、ものを咥えて首を振り回すのだが、あまりに強烈なので首を捻挫しないか心配でさえある。咥えものは当初はゴジラのぬいぐるみだったのだが、はらわたを抜いてしまって軽くなってリズムがとりにくくなったため、最近は枕でやっている。Img_3898 Img_3900  

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船の旅 2/15

2010-02-15 | 日記・エッセイ・コラム

2010.2.15(月)雨、曇

 宇高フェリーが廃業することが新聞に載っていた。今から四十数年前、高校一年だったか二年だったか、わたしの初めての一人旅は四国一周である。周遊券が2,7000円だったろうか、一週間の貴重な体験だった。スタートは宇高連絡船で、高松に降り立ったとき、凄く緊張したことを憶えている。自転車旅行の際には高松から宇野に渡った、これが最後の宇高航路になるとは思っても見なかった。
 思い起こせば三年前の今日、丸一日沖縄航路の船上にいた。自転車旅行後半戦のスタートであった。思えば初めて宇高航路で四国に渡って以来いろんな島を訪れた。沖縄、石垣島、竹富島、屋久島、利尻島、礼文島、宮古島、小豆島、淡路島、奄美大島、伊是名島、佐渡、伊江島、伊平屋島、久高島、徳之島、船で一晩かけて行く島もあれば、渡し船でちょいと渡る島、いろんな島に行ったけれど、船の旅はワクワクする。橋でつながったり、飛行機で行く島に は魅力が沸かない。Img_2387 Img_0426 Img_2488





 悪石島遠望、佐渡島、伊江島

 2007年の今日、船室でゴロゴロしながら本を読んでいた。他になすすべもないから本を読むしかない、こんな時間がもっともっとあって、読みたかった本を総て読めたらなあとさえ思う。沖縄に行く船で見るものはそんなに無い、トカラ列島は最高のプレゼントである。帰りには寄ってみようと思いつつ果たせなかった。悪石島なんて魅惑的な名前だ。この列島だけは寒い甲板に出て眺めていた。
 島の旅は例えそこが近くであっても、隔絶感があるわけだ。なんか遠くに来たような、異文化の国に来たような、妙に郷愁を誘う何かがある。今回の旅で小笠原列島、伊豆諸島、トカラ列島、壱岐に行かなかったのがなんか心残りである。そして船の旅も、3,40年前とすっかり変わっているのが寂しくもあった。Img_2570
Img_2902_2Img_3080




運天港(沖縄)、徳仁港(久高島)、亀徳港(徳之島)

【作業日誌 2/15】
ドッグランど看板作製

今日のじょん:相変わらずの固まりじょん。随分ましになったとはいえ、固まったままジッとしている。きっかけを与えると普通に動きだすのだが、、、、、。Img_3897
 

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バレンタインディー 2/14

2010-02-15 | 日記・エッセイ・コラム

2010.2.14(日)曇

 バレンタインディーったって、そんなの関係ねえわけだが、じょん君だけがプレゼントを貰っていた。そういうことなので今日はじょん特集としよう。
 「マーブルに逢う。」
 朝の散歩時に念道橋のところにマーブルがいる。見つけたじょんは大喜び、近づいてゆくその時間を楽しんでいるようだ。長いこと見なかったマーブルがえらい太っている。30Kgになったと言うことだ。マーブルママの言うことには、真剣にダイエットに取り組むそうだ。早くドッグランどを完成して運動させてやりたい。
 
 「最近うんPが増えてきた。」
 あさのうんPは庭で一回、散歩中は無し、帰ってきてたまに一回、夕方の散歩時に一回というパターンだったのだが、最近回数が増えてきた。今日なんか庭で一回、散歩中に一回、帰ってきて一回、夕方に一回、都合四回となっている。一回ごとの量もそこそこで、始末が大変。二缶つくったバイオトイレもあっという間に満杯となり、コンポストを使って発酵させることにする。ススムさんの言うには臭いも形も跡形もなく分解するという話だったが、そうならなかったらコンポストいっぱいのうんPは大変なことになりそうだ。

 「ジローが遊びに来る。」
 舞鶴のジローが遊びに来た。じょんの一番のお友だちみたいだ。ジローは12才ということだが随分若く見える。ジローママがじょんにバレンタインのおやつをプレゼントしてくれた。Img_3891 Img_3896

耳立ってんのがジロー君。


 「アミエミ来じょん」
 アミエミはよく来るが、アミエミママはお久しぶり。ママはじょんが大好きで、しかも犬語が解るという。

 「チコに遭遇」
 夕方の散歩ではチコに遭遇して、もう大変ということだ。年齢が近いせいかお互い遊びたいみたい。

今日のじょんは当然お休み。

 
 

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続・スキー 2/13

2010-02-14 | 日記・エッセイ・コラム

2010.2.13(土)雪、曇

 今季7回目の降雪である。積雪は数センチでしれているが奥から出てくる車の屋根にはしっかり積もっており、相当の降雪があったのかも知れない。土井さんが「正月までの雪は奥も口も変わらないけど、年明けてからの雪は差が出るなあ」と言っておられた。上林を知り尽くした人の言である。
  とにかく、上林の今年の冬の雪はたいしたこと無かった。昨冬は3回程度雪かきをしたが、今冬は一度もしていない。じょんのび坂を少しかいたぐらいだ。
 わたしがスキーに戸隠に通っているときは凄かった。一晩に何メートルも降り続き、除雪が出来なくて孤立したこともあった。戸隠は長野市からバスで1時間ほど入ったところで、この道が閉ざされると孤立する。北に抜ける道は黒姫に抜ける道でもっと凄い。孤立して2日ほど宿に泊まり、ようよう開通して長野に出て、信越本線で直江津に出たが、汽車の両脇は雪の壁で、駅のホームだけが開けていたのを思い出す。
 猪谷先生は戸隠でパラレルスキー学校を開いておられ、毎冬通っていたのである。ボーゲンをしないで、いきなりパラレルから始めるスキーの教室も珍しかったが、そのスクールの専用ゲレンデがあるのが魅力だった。宿舎の近くのそのゲレンデにはスノウバーというリフトがあり、先生の考案で、自作のものであった。何でも自分で作ってしまう先生ならではの設備だった。その時先生はお歳が86才だったと思う、足の具合が悪くて宿舎では一人で歩くことが出来ず、介助されて歩いておられたが、スキーを履いた途端に自由自在に滑っておられた。一人ひとりに丁寧に指導され、夜は夜で楽しいお話を聞かせていただいた。というわけで何シーズンかを戸隠で過ごすことになった。長いときは2週間ほどを戸隠で過ごし、有給休暇も少なかったので給料を差し引かれ、手取りが2万円にも満たないときがあった。
 そういうことで、わたしは猪谷六合雄氏にスキーを習ったということが誇りでもあり、自慢でもある。
 雪の上林ではクロスカントリースキーでも始めようかと思っていたが、どうもそれほどの積雪が無さそうだ。Img_3882
  
今朝の雪、これじゃあスキーも出来ない。

今日のじょん:かみさんがジュンテンドーのバーゲン品を買ってきた。ちょっと柄が気にくわないなあと思っていたら、じょんはたいそうお気に入りで、さっそく丸まっていた。Img_3887  

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