晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

日置のこと(32) 日置殿町の謎-5  9/28

2013-09-29 | 上林地名考

2013.9.28(土) 快晴

 日置氏が太陽観測などをしていた品部だと仮定し、日置谷がどのように太陽観測と関わってきたかを探るために訪れたわけである。
 日置谷はどのような位置にあるかといえば、上林川の右岸にあり、南面は流域でももっとも開けている。しかし北面は弥仙山の前衛の山並みがせまっており、特に西面は派生した尾根でふさがれた感じで、とても落日を観測するというような地では無い。
P1010174

 


上林川から日置谷、真ん中に日置谷川が降りている。

  北から日置谷川が流れており、居住地は上林川川面からさほど上がっておらず、低地といってよいだろう。
 日置の語源が、引地同様”低い”から来ているという説もここの場合は頷けるが、一般的、普遍的にそう言えるものでは無いと思う。各地にある日置が必ずしも低地にあるということではないのだ。引地についてはむしろ高地にあることが多い。
 古代に太陽を観測するということは別項で述べたいと思うが、基本的に暦、特に農事暦作成の必要性と思う。そのためには春分、夏至、秋分、冬至の日を確定することだと思う。もちろんこのような節季の用語は無かった時代のことであるが、そのような概念は存在していただろう。
 そのためには日の出、日の入りの位置を観測すべきなのだが、東西とそこから南北に30度の地点を探ることがその地点を探すことになるという。
 日置谷停留所付近の見晴らしの良いところからその方角を探ってみる。
真東は瀬尾谷(しょうだに)と弓削(ゆげ)の間の尾根の斜面、真西は神谷(こうだに)と日置谷(へきだに)の間の尾根の斜面で、南北に30度の地点といっても推して知るべしで、それらの地点に顕著な目標物があるものでもなく、太陽観測にはあまりにも不適と思える位置なのだ。
P1010166P1010167P1010165



停留所の少し下から、真東、真西をみる。

 日置村中という日置谷の集落の中心部にゆくと観測条件は余計悪くなる、北の山がせまってくるばかりなのだ。それならばと南の上林川縁まで行ってみる。
 先ほど八幡神社で見た落日が西の尾根の向こうに残照を残している。日置谷集落よりは見晴らしがよくて好条件とは思われるが、状況は似たり寄ったりだ。もし古代に太陽観測をするとしたら朝夕毎日観測点に通うはずだ。今でこそ上林川の流路は固定しているが、当時の流路はどこかわからないし、常に変わっていたことも考えられる。ましてや増水の際には観測点に通うこともかなわないだろうから、この地点はあり得ない。
P1010175

 


上林川畔から見た西方、ちょうど陽が落ちた直後だ。

 この付近で360度見渡せて川霧も切れるだろう絶好の観測点がある。日置谷の南にそびえる古城山(199m)の還流丘陵だ。
P1010163



日置谷の南、上林川の向こうに古城山はある。360度見渡せるいい位置だが、、。

 しかし難点は上林川を渡って行かなければならないことである。従って古城山の線もあり得ないだろう。古城山で観測がなされていたとしたら、日置そのものも左岸に存在すべきものと思うのである。
つづく
【作業日誌 9/28】
 白菜植え付け、中尾さんに苗を10本もらって、その後6本を植え替えている。
葉の先の方から白く枯れてきてついには溶けたように無くなってしまうのだ。今回畝の準備が間に合わず、定植直前に苦土石灰や肥料を撒いたことが影響しているのかも知れない。P1010339



例年は種から作っていて、このようなことは無かったのだが、、、。
 【今日のじょん】イノシシの襲来がしつこい、芝生中鼻で突いて虫を探している。そう居るわけではなさそうで、小さな穴が一ヶ所ほど残っているだけだが、どうしようもない苛立ちが増幅する。P1010341
P1010342


 
 

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日置のこと(31) 日置殿町の謎-4 9/27

2013-09-29 | 上林地名考

2013.9.27(金)快晴

 寛政十一年丹波國大絵図ではどのように描かれているか日置殿である。何処にも載っていない地名がやっと出てきたと思ったら、隣は西屋神谷(にしやこうだに)となっており、念道小山(ねんどうこやま)もある。西屋神谷村は角川日本地名大辞典にも記載されており、それぞれに庄屋がおりなどと、日置殿村とまったく同様の書き方がしてある。念道小山村については記載は無いが、もともとの小山村から念道村が分村独立したとの記載がある。このように二村併記の村名に共通するのは藤掛藩の知行地であるということだ。そのあたりに理由があるのかも知れないが、そのことは謎と言うほどでは無くて、いずれ判明することと思う。
 謎の本質は「上林風土記」に書かれているように、遊里が日置殿であったのかということである。丹波國大絵図には遊里と書かれている。山争いの古文書を見ても、日置谷と由利(遊里)は相争っている当事者であり、同じ村であるとは考えられない。
 それではなぜ遊里に日置殿町という小字が残っているのか、これは謎である。
 上林風土記編纂会の川端先生や福井さんに聞けば、なーんだということになるのかも知れないが、わからない間は想像たくましくしてしまうものである。
 まず殿(との)であるが、一般的に微高地、段丘というのは理解できるが、上林ならずとも川沿いの集落はそういう地形の所ばかりで、殿が特段というものではない。
 現在日置谷と殿が隣接して存在し、日置殿村と呼ばれていた時代にも日置谷と殿はそれぞれに庄屋が居て、それぞれの村が古文書に登場するので、念道小山、西屋神谷と同様、便宜合同して呼ばれた村名なのではないだろうか。
 そして遊里も由利村として古文書にあるように、以前は日置殿村であったというのは疑わしいと思うのである。
 それでは遊里に残る小字日置殿町はどのように考えるべきなのだろうか。
 その謎を探るべく、日置谷を訪れたのは秋分に先立つこと十日の13日のことである。つづく
P1010159
日置谷に行く手前の八幡神社で夕日が沈んだ。日置谷同様西側は山並みで、観測をするというような場所では無い。


【作業日誌 9/27】
集成材搬入、土井さんに集成材があるのであげるでと言われて、じっかんさんの軽トラで3往復する。適当に分けてじっかんさんとこで打上げランチをいただく。
P1010338

もらってきたのはいいけど、置くとこが無いのよね。


【今日のじょん】
じっかんっさんとこのルル君は大きくなって随分落ち着いてきた。というよりじっかんさんに似てきたんでねいかい。
 帰ってからはじょんの嗅ぐこと嗅ぐこと。P1010337

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日置のこと(30) 日置殿町の謎-3 9/26

2013-09-27 | 上林地名考

2013.9.26(木)曇り
 日置殿村(へきどのむら)が江戸期から明治7年までの村名で、日置谷、殿からなっていることは先ほど述べたとおりであり、現在の日置谷、殿に比定されるようだ。従って日置谷、殿には個別の意味があろうと思う。
 日置はともかくとして、殿というのは一般的に地形地名で微高地、段丘地形を表す。上林の居住地の場合ほとんどすべてが上林川に対する微高地、段丘地なので殿だけがいわゆる殿地形だというわけではない。
 日置谷は室町期に初見する古い地名でだが、殿は江戸期より前にはどう呼ばれていたのだろう。角川日本地名大辞典では殿村→日置殿村となっておりそれ以前のことは記されていない。
 角川日本地名大辞典には日置殿村として記しているが、その根拠としている文書には日置谷の名こそあれ日置殿村の記述は何処にも無いのである。本当に日置殿村というのは存在したのだろうか。江戸期に於ける古文書もいくつか見たのだが、すべて日置谷村、殿村となっている。一体何を根拠に角川は日置殿村を書いたのだろう。
 もっと謎なのは、日置殿町(へきとのまち)という小字が五津合町遊里(ゆり)に在ることだ。遊里のど真ん中、木住川が畑口川に出合う極小さなところが日置殿町である。
P1010307P1010308



府道51号舞鶴和知線の木住川橋のあたりが日置殿町、日置谷からは2,2Kmで道中に大町があり、道路を辿る分には別個の地域と思える。またここは室尾谷神社の参道でもある。

 何でこんなに離れたところに日置があるのだと考えるところだが、それは行政区画として別の地域と考えるだけであって、地図で見ると日置谷の裏山の続きといった地域である。
 上林風土記の上林の地名という欄に年代別の地名が表になっており、昭和31年遊里は明治7年遊里村、明治元年遊里村、それ以前呼称日置殿町と書かれている。
 遊里が日置殿町であったとは、これまた何処にも現れない事なのである。同じ上林風土記に江戸時代の山争いの古文書がいくつか出ている。登場する村名は、日置谷村、殿村、由利村(遊里村のこと)で日置殿村も日置殿町も出てこない。つづく
 
 
 

【作業日誌 9/26】
草刈り(6-7)

【今日のじょん】昨晩もセンサライトが点いた。外を見ても何事も無かったのだが、朝おきて見るといやはや大変、またしてもイノシシが襲来している。
P1010328P1010329P1010330



直しておいた庭石が蹴散らかされている。
ドッグランどのドアを閉めておいたら入り口のクチナシ周辺が掘られた。
薪割りの原木周辺が掘られている、センサライトはこのとき点灯したものか。

今までもこの時期に来ることはままあったが、それは単発なのである。連続してくることは無かった。周囲に栗など豊富に食糧がある時期なので余計不気味である。

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日置のこと(29) 日置殿町の謎-2  9/25

2013-09-26 | 上林地名考

2013.9.25(水)曇り、雨

 上林風土記(平成16年)
 八津合町日置谷村二十三戸(明治初年)がある。現在は府道上林線に沿ったもっともひろやかさを感じさせる部分で寺町からの云う波の連なっている場所・・・・倭名抄によって全国の郷名を残す日置の分布を調べてみると、最も多い郷名に入り、諸国に二十例ある。・・・・また日置は、どういう職種の品部かはっきりしない。曰く伴信友が、、、云々
 とつづくのだが、伴信友「戸数を記す地方政治に関係のある品部か」、大田亮「租税徴収の為に戸数調査を任務とする部であろう」の説を紹介している。
 日置に対する諸説の検討は別項に譲ることとして、日置殿町の謎について進めていこう。
 
 

【今日のじょん】昨晩もセンサライトが点いていた。じょんも吠えていたのだが、見たときは何の気配も無かったのだが、朝になるとイノシシの侵入の痕がありありである。さてどうしたものかと途方に暮れる。
P1010324P1010326P1010325

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日置のこと(28) 日置殿町の謎-1

2013-09-25 | 上林地名考


2013.9.24(火)快晴 日置のこと(27)は2013.9.27

 日置の謎といえば、日置はなぜ西日本に集中的に存在しているかとか日置はなぜ山間部に多く存在しているかとか様々あるわけで、自信は無くともそれぞれ答えは持っている。
 いずれの機会にご紹介したいところだが、ここでは上林の日置について謎を提起して解決に向かうアプローチを紹介しよう。
 上林の日置谷(へきだに)は綾部市八津合町にあり、地域名として残っている。角川地名大辞典では室町期に「石橋村のうち」として出ている。江戸期になると日置殿村(へきどのむら)と呼ばれており、日置谷、殿からなり、それぞれに庄屋がいた、とある。殿村に枝村として片山が会ったと書かれているので、それぞれ現在の日置谷、殿、片山に比定されるようだ。
 日置谷には小字として日置、日置村中の名が見える。上林風土記には(ひおき、ひおきむらなか)のルビがふってあるが、現地で聞いたところは、へき、へきむらなかと呼んでおられた。
P1010161
 
日置の旧街道、日置村中の集落が日置殿の中心地である。


P1010162
現在の府道は新道、右手の家も村中という。


  郷土史などに見られる日置は以下のとおりである。
 何鹿郡誌(大正15年7月)
 
日置殿(へきどの)中上林村字八津合小字日置殿
 古く一村をなす。日置はへきとよむ。應神天応の皇子大山守命より出でし一族に弊岐(へき)君あり。此の族黨の住居せし所ならんか。姓氏録考証證にも「承平二年、丹波多紀郡國老日置公、檢校日置公、擬大領日置公」とあれば本郡にも住せしか。


 中上林村誌(昭和三十二年三月)
 
何鹿郡誌と同様

 綾部市史(昭和51年3月)
 
日置(部)八津合町に日置・日置村中の小字がある。五津合町にも日置殿があり、町村制施行までは日置殿村であった。
日置は日置部から出た名称で職業は明らかではないが、伴信友は、「日は戸(へ)なり、戸数を記しおく地方政治に関係ある品部か」といっている。恐らく租税徴収のためのための戸数調査を任務とする部であろう。(太田亮)この部は近畿・出雲に多く、丹波には多紀郡にも日置郷があり、東寺承平三年(九三三)文書に、「丹波国多紀郡国老日置公」と出ており、丹後には与謝郡に日置郷、但馬気多郡に日置郷と日置神社がある。各国々に日置郷があるところをみると、何鹿郡にも日置部の小規模のものが置かれていたのではなかろうか。
つづく

【今日のじょん】獣害対策の決定版として鳴り物入りで張り巡らされたワイヤメッシュ、これが根本解決にならないことは常々説いてきた。その一つの現れと言えるのが小動物の侵入である。何度も写真におさめてきたのだが、決定的なものがあったので公開しよう。P1010286
P1010287
P1010288


 
  
 

これだけでもう野菜は作れない。 

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じょんのびアラカルト’13.9  9/23

2013-09-24 | 日記・エッセイ・コラム

2013.9.23(月・祝)曇り

 うり坊現る
先日からドッグランどや芝生広場の周辺に何か異変が起きていた。芝生の境の置き石が乱れていたり、芝のあちこちにへこみがある。また極小さな掘り痕などもあり、種を採った後のゴーヤの位置が変わったりしており、てっきりアナグマなどの小動物かなと思っていた。
P1010283P1010284



石をめくって虫など探しているようだ。芝の窪みは鼻で虫など探索しているのだろう。

 昨晩センサライトが点いているというので外を見ると、じょんぐらいの生き物が数匹ウロウロしている。体型と尻尾の様子からうり坊と判断、大人のイノシシなら警戒心が強いがうり坊は平気でいる。外に出て行ってもまだウロウロとしているので、「コラッ!!」と大声を出して追い払ったら、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
 特段被害は無いのだが、畑でも入られたら大変なのでまた来るようなら対策を考えねばならない。数年前芝生広場全面に嗅いだ後の窪みを作った犯人がうり坊だというのもわかった。しかしまあ、いろいろやってくれわなあ。

 上林川堰崩壊
 先般の18号台風の被害が予想以上に大きかったことに驚いている。雨量は多かったが降雨時間が短かったために上流地域より中流、下流地域の被害が大きいと思っているのだがどうだろう。
上林周辺では大規模な土砂崩れが起きているというのも聞かないが、広域農道の旭町の土砂崩れはかなり強烈だそうだ。上林を巡る道路が開通してきている現在、広域農道のみ通行止めで、しかも当分続きそうなのは重大な問題だ。
P1010203

 


台風翌日の光景、水量が多くてよく事態がのみ込めない。

 忠町の堰の崩壊は上林川では最大の被害だと思うのだが、水が引いてきてその全貌が見えてきた。稲作は終わっているのだが、来年のシーズンまでにどのように補修されるのだろう。
P1010293P1010294



右半分が崩壊して、コンクリート塊が流されている。水位が下がって異様な光景。


宿儺カボチャ事件
 宿儺カボチャは高山市丹生川町の特産ということだ。その地の伝統の品種ということだが、果たして飛騨カボチャとどう違うのだろうか。宿儺カボチャは2,000円近い値がつき飛騨カボチャは250円で売っているという。
P1010182
なんとも愛嬌のあるスタイル。


P1010261
こうなるわけ。


 作った憶えが無いという中尾種苗の苗を植えたらこれが出てきたというカボチャをいただいたところ、スープによし、煮てよし、最高のカボチャであった。ほくほくタイプで上品な甘さがたまらない。じょんも大喜びの味で、お腹いっぱい食べても食べきれず、冷凍にして保存してある。こんなにおいしいのなら宿儺カボチャにしておこうと思うがとりあえず種を採って来年作ってみようと思うのだが、、はて。

山水水道は通じたが、、、
 台風で崩壊した取水口を再度作り直し開通した。今回は集荷カゴで大きなゴミを除き、ペットボトルを切ったものに防虫ネットを切ってくるみホースを繋いだ。すべてを廃品でまかない、造りも超シンプルにしたところ随分使い勝手は向上した。
問題は谷のゴミである。ゴミったって街で出るゴミでなく間伐材や倒木のことである。一本下の谷ではこれが詰まって水があふれ出たそうだ。決壊すれば鉄砲水である。こうなると谷の屈曲点にある我が家はかなり危険だ。今後予想を上回る大水もありそうだし、なんとか一度掃除したいものだと考えている。しかし谷の管理者である京都府には責任は無いのだろうか?
P1010187
16日の水位でも大丈夫



P1010252
でも倒木ゴミが詰まったら、、、。





【作業日誌 9/23】
草刈り(6-6)あと一日

【今日のじょん】今日もラブちゃんが来た。散歩時の引っ張りが強烈だと聞いていたので、リードを持ってみた。予想以上の力にびっくり、easywalkハーネスぐらいで何とかなるようなレベルでは無い。心待ちしているマーブルママには気の毒だが、散歩が困難と思われる。P1010301

ほんとによい子なんだけど、、。

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雨読 「知られざる古代」再読(2) 9/22

2013-09-23 | 雨読

2013.9.22(日)曇り

 「古代の鉄と神々」(真弓常忠)の八章「太陽の道と鉄」の最終部分には次のように書かれている。
 かくして北緯34度32分の線上に「太陽の道」を想定して、そこに日置氏の足跡のあるところから、これを古代測量師とみた水谷慶一・小川光三氏らの仮説は失当といわざるを得ず、鉄こそが「太陽の道」の正体であった。

 何とも強烈な文章である。この強烈な批判文の尻馬に乗り、批判的な先入観を持って「知られざる古代」を読んだ、3年前のことである。そして今冷静でかつ客観的に再読した結果、日置氏の正体がわかったとは言えないが、正体を掴むきっかけを得たような気がしている。
  真弓氏が日置氏は測量師ではなくて製鉄に関わった氏族であるという根拠は、五十瓊敷命が川上宮で大刀一千口を作らせたとき、参加した十の品部の中に日置部が見られる、という事だけなのである。確かに日置氏は製鉄に長けていたと思う。しかし大刀一千口の製作に参加した倭文部、弓削部など他の品部も刀を仕上げるほどに製鉄や精製に長けていたと思われる。そしてそれ以外の忌部なども製鉄に関わっていたという記録がある。つまり製鉄、精錬は特に渡来系の氏族、品部にとっては必須事項のようなもので、特段一つの氏族に限っての事ではないようだ。製鉄専門の品部というのは在りそうで実はないのではないか。
 となると日置部の所掌というのは何だろうとなると、やはり太陽を主とした天体の観測、陸地の測量、そしてそれらから発展した建造物の設計、施工あたりまで行ったのではと想像する。
P1010282

 


ただこの二冊の本を読むだけでは、国政選挙の公報を見て候補者を選ぶようなもので、何が本当かはわからない。

 太陽の道という大和から伊勢に至り、西は淡路島まで到達する東西のラインがあることは間違いないが(もちろん学界には認められていないようだが)、それを測量した人々が必ず居るはずで、それがライン上にいくつも現れる日置だとしたら、日置氏は蔭の測量師という水谷氏の主張はより真実に近いものと思われる。
 真弓氏の批判が起こった最大の理由は、「太陽の道」が中央構造線に沿っていたことであろう。鉄、銅、水銀、金、銀といったあらゆる有用金属の鉱脈であったことだ。そして日置氏が製鉄など金属に関連したことも理由となろう。
 ただ、「太陽の道」は東西に真っ直ぐな線である必要があるけれど、「鉄の道」なら直線である必要はまるで無いわけである。
 本書の中で、古代人が測量したと思われる具体的なテクニックを多く示されており、納得できる内容なのだが、読者の不満は日置氏は蔭の測量師であるという直接的な証拠が示されていないことである。永久に不可能なことかも知れないが、もう一歩真実に近づく方法を示してもらいたいと思う。
 ここのところを水谷氏はうまく言い表されている。

 
ジャーナリストは、つねに第一走者であるべきです。第一走者にとってゴールは存在しません。胸でテープを切る栄光の瞬間とは永遠に無縁です。ですから今度の場合も通常の著者のような感慨などは持ちようがありません。まだ、リレーは始まったばかりなのですから。(あとがきより)
 水谷氏が第一走者なら、小川光三氏はスターターといえるでしょう。そしてアンカーにはなれないけれどバトンを繋ぐ走者の一人にはなりたいものだと思うのである。おわり

P1010168
上林の日置谷(へきだに)、日置氏の謎はこの奥の山、畑口川沿いのある山にヒントがあると考えている。続きは「日置のこと」で。



  【作業日誌 9/22】
白菜2本植え付け、春菊2本植え付け

【今日のじょん】福知山から小山さん一家が来じょんされた。ワンワン運動会でお見受けしたときより黒ラブが増えている。なんでも可哀想な子で預かっているとのこと、寂しがっているマーブルママに逢ってもらったのだがさてどうなることやら、、。
P1010273
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P1010281



ラブちゃんは2才、じょんともすぐ仲良しに。
一人で遊ぶてんちゃんは身体が弱く、気になる子
じょんのびドッグランど、一番遊んでくれた一家。

コメント (3)
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雨読 「知られざる古代」再読(1) 9/21

2013-09-21 | 雨読

2013.9.21(土)快晴

 「知られざる古代 謎の北緯三四度三二分をゆく」(水谷慶一著)日本放送出版協会発行
P1050024



 三年前に読んだ本だが、今回再読してこれほどまで評価の変わった本は他にない。その経緯は何度か書いてきたので略するが、今では水谷、真弓両氏の説は両立するものと考えている。(2010.1.10~11、2013.9.12関連記事)
 今改めて「古代の鉄と神々」(真弓常忠)の「太陽の道」批判を読んでみると、その文章に悪意さえ感じるのである。

 
それによると箸墓を貫通する東西の直線上になぜか古代遺跡が点々と並ぶ。いずれも太陽神の祭祀のあとがうかがわれるところから、この歴史の謎に挑んで、ご苦労な踏査を重ねた末、「古代国家成立の秘密をにぎる蔭の測量師がいた。それが日置氏である。」とされるものである。わたしは水谷氏や小川氏の着眼の奇抜さにむしろ敬意を表し、かつまたこのような経費と資財を費やして踏査のできるNHKディレクターの立場を羨望をもした。しかし残念なことに両氏とも、古代祭祀の蔭に「鉄」の文化があったということへの視点がまったく欠落している。

 考え方こそ違え、お互い古代の謎に挑もうとする者同士が発する文章ではない。
まず、「古代国家成立の秘密をにぎる蔭の測量師」と書かれているが、蔭の測量師という言い方は水谷氏もされているところだが、古代国家成立の云々ということは、少なくとも「第十四章 蔭の測量師」の中には見当たらない。むしろ「彼ら日置はまた、現代のテクノクラートにも似て、権力の表面には決して立つことのない「蔭の測量師」でもあったのではないか。」と書かれている。
 真弓氏が水谷氏や小川(光三)氏に敬意を表されているとはとても思えないし、これは皮肉以外の何でもない文章と思える。
 NHKディレクターの立場に羨望されているというのも皮肉で、皇學館大学教授の真弓氏だってこの程度の調査や実験はできるだろう。かつて真弓氏の主張される高師小僧、スズ
いわゆる褐鉄鉱からの製鉄こそ、なぜ実験しないのかと書いたことがある。(2012.4.23参照)高師小僧からの製鉄など高校生の部活動でもやっている。
P1010160




上林の日置は本書には出てこないが、関係するのは太陽か鉄か?

「鉄」文化への視点が欠落しているというのは確かにそのとおりだが、水谷氏は鉄や金属のにおいを掴んではおられなかったのだろうか。
 真弓氏の「太陽の道」批判が出版物の一項を設けてまでなされているのは、水谷氏に対し御壺山の件などについて忠言されたにもかかわらず無視されたことにご立腹なさった結果ではないだろうか。
 水谷氏が取り合わなかったのは、実は金属について気づきつつもそのことに首を突っ込むと収拾がつかないと感じられたか、日置氏にとって測量が主で金属が従であると思われたのではなかろうか。つづく

【作業日誌 9/21】
草刈り(6-5)
オクラ、ゴーヤ、宿儺カボチャ、UFOピーマン採種

【今日のじょん】レオが来じょんした。自由に走り回るのは初めてみたいで、ぎこちないけど楽しそうだ。じょんは偉そうに唸っていたが、いづれ仲良くできそうだ。
P1010267P1010269



 
 

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上林の盃状穴(44) 善福寺(6) 9/20

2013-09-20 | 盃状穴

2013.9.20(金)快晴

  盃状穴存在の特徴
いくつかの寺社をめぐり盃状穴を探してきたが、存在するところにはいくつでもあり、無いところはもちろん皆無であるという傾向がある。これは盃状穴を穿つ習慣があるところと無いところがはっきりしていると言うことではないだろうか。ほぼ全国的に存在するわけだが、どの地域にもその習慣があったとは思われない。
 また、多数存在するか皆無かと言うことなので、坂尾呂神社の盃状穴(2013.3.30)について悩ましい感を持っている。境内の中に石段のこの一角だけに4個、それも不完全な形であるのだ。何度も写真を眺めているのだが、再度訪れて結論を出したい。
P1040147

坂尾呂神社石段の盃状穴 



 今までに発見した盃状穴はそのすべてが、集落の中心地にある。江戸時代には門前町であったり、宿場町であるケースが多い。村はずれや辺鄙なところには見つかっていない。また盃状穴のある所は人目につく、賑やかなところが多い。例えば神社や社務所の裏手といった人目につかないところには見つかったケースはない。
P1030654P1040247



盃状穴を発見した壱鞍神社(左)八幡神社(右)そして善福寺ともに集落の中にある。

 このことは盃状穴を穿つことが公認された行為であること、集落の中で日常的な風景として行われていたのではないだろうか。
 善福寺の百段を超える石段について、盃状穴の存在は下部の20段に集中しており、特に最下段の4,5段に大きいものなどが集中していることはどう考えたらいいのだろう。
  盃状穴を穿つことが祈りの一形態だとしたら、人々は一体何を祈ったのだろう。手水鉢の縁に穿たれたものは雨乞い、水乞いではないかと想像した。(南丹市八木町鳥羽八幡神社、園部町内林町八幡神社)
P1040762P1040880



鳥羽の八幡神社(左)、内林町の八幡神社(右)手水鉢の盃状穴は強烈である。

 一般的な石段や灯籠などに穿たれたものは、安産あるいは男児出産の祈りではないと想像している。祈りの主体が妊婦であるとしたら、善福寺の急な石段の上部に盃状穴が少ないのが理解できる。また、昔なら例え妊婦であっても昼間は忙しく働いていただろうから、夜に盃状穴を穿ったということも考えられる。そうすれば民家があって灯りのもれる最下段の部分は絶好の場所となるだろう。 善福寺終わり
P1010117



善福寺の石段は急で、手前には両側に民家がある。

【作業日誌 9/20】
山内薪集め終了
草刈り(6-4)
P1010260

軽トラ8往復お疲れ様。


【今日のじょん】プー助死す。
P1010256P1010257



ありゃあ、道の真ん中になんだい?
近寄ってみると、イタチのプー助じゃねいかい、ナムアミダブツ。

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上林の盃状穴(43) 善福寺-5 9/19

2013-09-19 | 盃状穴


2013.9.19(木)快晴  考察の続き

 水抜き線と表示したが、そういう言葉が盃状穴研究者の間にあるわけではない。あくまでわたしの造語であるので悪しからず。
 古代の遺跡である盃状穴いわゆる一義的盃状穴に穴と穴を結ぶ線のあるものが報告されていたのを思い出す。ちょうど飛鳥の酒船石の線のような感じである。
  インターネットで集めた各地の盃状穴の画像にもまれではあるがそういう線が見られる。この線も今まで見てきた盃状穴には存在せず、今回が初見である。
 下段石段の最上段のものは盃状穴もいびつで穴の面が滑らかでなく、水抜き線も他のものとは線刻の方法が違っている。
No1l1

 



一段目左の穴と線、穴はいびつで線ははっきりしている。

後で述べる中段最上段の「小田」の落書きと同一の方法、おそらく釘などの金属を使用して穿たれたものではないだろうか。釘だと回転による穿孔ができないので、いびつでごつごつした穴になるだろう。また線は深くはっきりしたものとなる。従ってこの穴は子供のいたずらと思われるが、それにしても他の盃状穴と水抜き線を意識したものであるには違いない。
 他の水抜き線はすべてが浅く漠然とした溝で、判断しにくいものも多い。踏石の外部に水を抜くがごとく穿たれているが、線というより溝といった方が適切かも知れない。外部に向かわず、穴と穴を連結しているものが2本見つかったが、判断しにくい状態である。
P1010135

47段目右 左の溝ははっきりしている。右の溝はわかりにくいが、中の二つもつながっているようにも見える。


P1010142P1010143

82,83段目、割合はっきり見える。

P1010146

85段目 左のものは真っ直ぐの溝と左に出ている溝が見える。


P1010150
89段目 最も大きい穴から真下へ、そして左の穴へ、左の穴から斜め右に溝がある。

P1010151
 
90段目 こういうのが一般的。



  これらの溝が人工のものか、水流による自然のものかという事については、人工のものと判断して良いだろう。水流でほれるものならすべての盃状穴にあってもいいし、他の地域の盃状穴にも存在するだろうから。
 ただその溝が盃状穴と同時に作られたものか、あるいは後日草搗き遊びなどの際にほられたものかは判断できない。わたしは後者の可能性が高い気がする。

 
 「小田」の落書きについて
P1010124

 



 子供のいたずらであることには違いないが、見つからないように短時間で仕上げるにはやはり釘などの金属片を使用したと思われる。
 逆に釘などを使えば、柔らかい石材には簡単に彫れることを証明している。ちなみに小田の姓は上林の電話帳にはない。古文書に小田某の名前を見たことがあるのでかつては小田家があったのかも知れない。はたまた、隣の地域の小田の誰かが彫ったのかも知れない。つづく

【作業日誌 9/19】
じょんのび谷水道整備
P1010250



取水箱のあった位置、完全に崩壊。

【今日のじょん】読売新聞のあやべうおっ知の取材に来られた。じょんも載るかもよ。(10月1日、折り込み)
P1010253
涼しくなったぞ、遊びに来てくれい!



【お知らせ】9月22日開催予定の2013里山サイクリングが、18号台風によるコースの不良のため中止となりました。残念ですが致し方の無いことです。
 

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上林の盃状穴(42) 善福寺-4  9/18

2013-09-18 | 盃状穴

2013.9.18(水)快晴 上林の盃状穴(41)は2013.9.15

 善福寺石段の盃状穴を一覧で公表したが、いつも悩むのはどこから盃状穴とするのかということである。盃状穴の定義というものがはっきりしていない今、それなりに基準を設けて記録しているわけだが、真円であること、穴が盃状であること、穿面が滑らかで明らかに人工のものであることがわかるものということにしている。
 ところが現実にはこれらの条件を満たしていても、非常に浅くどうも制作途中のようなもの、人工のようであるが盃状でなく円筒状のものなど悩ましいものがいくつかある。今回のように圧倒的に数が多い場合、これら怪しげなものはすべて省いたので実際の数はもっと多いものと思われる。ほとんどを写真に収めているがすべてを公開しても意味が無いので、特徴的なものをご紹介しよう。
 下の石段を上から数えたもので、方向も上から見た右左と表示している。
No1l1

最上段左、形状に問題があるが、水抜き線がはっきりしている。

P1010142
82段目 左 径4cm、水抜き線がよく写っている。


P1010141
83段目 右 径8cm深5cm、完璧な盃状穴


P1010148
88段目 中1個 左7個、この辺り最も多いところ。


P1010150
89段目 中 径8cm、深8cm以上、深さは最高、そこまで泥を除けない、かすかに水抜き線らしきものも。右の2個は段違いになっている。
P1010151
90段目 右 大きさとしては最大9cm、深5cm、水切り線有り。



 考察
 寺院で発見したのは初めてである。神社主体に調査しているので当然のことだが、少なくとも上林、南丹などで訪れた寺院では皆無であった。
 

 数、大きさ深さなどで過去最高である。
 大きいもの、深いものを穿つことができる要因はやはり石の材質だろうと思う。石段の部分は凝灰岩質のかなり柔らかいものなので、大きく、深く穿つことが可能なのだろう。
灯籠基礎や石柱のものは上林では初見だが、自然石で材質が硬いためか大きく深いものは見当たらない。つづく

【作業日誌 9/18】
崩壊した谷水道の修復
ドッグランど、清掃

【今日のじょん】よみがえったサチ
 事故で入院手術したサチが何ヶ月ぶりかに来じょんした。もう歩けないようになるかもと思っていただけに、その回復力に驚く。ちょっとぎこちない感じもするが、普通に散歩もできるそうで、走ることもできるそうだ。ドッグランの完成を心待ちしていた矢先の事故だから、今日こんなして楽しんでもらえるのがとても嬉しい。
P1010233
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P1010235



じょんは相手にしてもらえなくてイジケていたようだ。


 


 

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台風18号じょんのび情報2 9/17

2013-09-17 | 日記・エッセイ・コラム

2013.9.17(火)快晴
 台風一過とはまさにこのとおりという天気になった。じょんの散歩を兼ねて上林川の状況を見に行く。水は引いているが、泥色の水が轟々と流れている。堤防に残された草木の残骸で昨日の水位がわかる。少なくともこの5年間の間では最高である。
P1010202P1010204



一夜明けた上林川、念道橋方面、忠の堰。

 足を伸ばして忠の堰の所まで行ってみる。濁流が渦巻き何とも豪快な景色だ。見れば以前に見たこともない岩が濁流の中に立っている。どうやら上流から流れてきたようだ。
P1010205



あんな岩在ったけなー

 居なくなって、また戻ってきたというオオサンショウウオのことが気にかかる。戻ってきたと聞いたとき見ておけば良かった、この大水で流れてしまうのではないかと思う。
つらつら考えれば、秋から冬にかけて居なくなったというのは、冬眠のせいではないだろうか。サンショウウオが冬眠するか否か知らないのだが、鴎外の「山椒魚」では冬眠する間に身体が成長して穴から出られなくなるのではなかったか。そうであれば大水でも穴の中で頑張っている可能性もある。水が引いたら確かめてみよう。
 河原に下りられるところに戻って流木の様子を見に行こう。以前に大雨があった際の流木の位置と比べるためだ。
P1010211

 


やっぱり今回の方が断然高い位置まで来ている。
 実は今日は興(おき)の阿毘地神社と戸田の浦嶋神社に行く予定をしていたのだ。昨日テレビで盛んに映像を流していた地域である。通行止めの可能性があろうかと思うので自転車を積んでいく予定だったが、かみさんも行きたいというので自転車は止めて行けるところまで行こうということになった。
 いきなり旭町の広域農道が通行止めになっていた。聞けば峠の先が土砂崩れということだ。まだ手つかずの状態だそうだから、相当長期間かかりそうだ。
 府道を福知山に向かうと、妙に交通量が多い。広域農道は車は走っているが、その数は少ない。
 高津や石原(いさ)の辺りでも道端に草木、ゴミ、泥が溜まっているところもあるが、これは水がついたというより水に流されて溜まったもののようだ。当初目的としていた阿昆地神社の周辺は渋滞が起こっていたので今回省略する。
 土(つち)のところから広域農道に向かう。テレビの映像では完全に水没していた府道の一角にはテレビ各社の報道車が集まっている。
P1010213P1010218P1010220



報道各社集合、無残な畑と戸田の集落、稲もこのとおり。

思えば花火大会爆発事故の際もその翌日に報道各社の集まる現場を通過した。決して野次馬じゃなくて、予定していた行動なのだ。なぜか翌日が定休日になっているのも奇遇である。
 広域農道は戸田までは通行できたのだが、その先綾部側で通行止めになっていた。浦嶋神社には行けそうもないので、石原に廻って帰ることにする。
 昨日濁流の海となっていた田んぼや畑は一応水は引いているが、悲惨な姿となっている。戸田の家々も片付けの人や工事の人でごった返している。目の前の大豆畑は泥で埋まっているし、稲刈りの済んでいない田んぼは稲がぺしゃんこになっている。耕作者としては堪らない気持ちだろう。
 石原に向かう農道も一部アスファルトが流されている。数年前の23号台風の時も広域農道のアスファルトが剥がされて散乱していた。自然の力は恐ろしい。

【作業日誌 9/17】
白菜植え付け

【今日のじょん】本文登場のためお休み
P1010221

イワンさんとこで昼食、情けない顔で待ってるところ。

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台風18号じょんのび情報 9/16 

2013-09-16 | 日記・エッセイ・コラム

2013.9.16(月・祝)雨のち晴れ

 「あれ~風かい雨かい?」てんで飛び起きたのは4時頃だろうか。階下に降りてゆくとじょんがおびえてウロウロしている。外を見ると風もあるが、きついのは雨だ、こんなの聞いてないぜ。台風が来るって聞いてはいたけど、太平洋側にそれるっていうので、まるで無警戒で眠っていた。
 ザアザザゴウゴウ凄い音がしているのでじょんがおびえるのも無理はない、しばらく一緒に居てやったがキリが無い。再度眠りにつくが、かみさんが明け方まで添い寝していたようだ。
P1010188P1010190



7:34、このあたりがマックスか。二階のベランダから念道橋付近。

 「上林川がえらいことになってるで」という声で目を覚まし、ベランダから覗いてみる。数年前にも強烈な雨があったのでさほど驚くことはないのだが、じょんのび谷(鎌谷)の府道出合はとんでもないことになっている。とにかく防火用水の池があふれ、消防団の方だろうか、土嚢を積み道路上の土砂を整理している。通行に困難な状態な訳だ。
P1010192P1010197



消防団必死の土砂撤去作業、雨が上がってもこのとおり。

 大体、鎌谷の末端は防火水槽になっているのだが、その先は簡単な用水路といった感じで、谷の流量から言うと完全にキャパシティが不足している。防災対策として谷には3基の砂防堰堤が築かれたが、府道を渡る装置は作られなかった。これは完全に欠陥である。近所の谷を見ても府道から上林川に抜ける部分は容量の大きい土管などで施工されている。
 この部分は地元の要望などがあり、昨年綾部市の担当課が調査に来ていた。しかし予算がないのだろうか、「様子を見る」な~んて、藪医者の診断みたいなことを言ってごまかしていた。
 そうこうする間に災害が発生したらどう責任とるつもりなのだろう。実際に隣家は通行不能になっているし、じょんのびのお客様も進入を躊躇している。お向かいの工場だっていつ浸水するかわからない。府道に溜まった土砂は通行を阻害しているばかりか、夜など交通事故の原因ともなりかねない。
P1010200_2



夕方の様子、この土砂どうする?

 夜になっても土砂が撤去される様子もないし、通行危険などの看板が設置される様子もない。災害対策のモットーは「転ばぬ先の杖」だと思うのだけど。

【作業日誌 6/16】
中尾種苗から白菜苗がとどいた、植え付けの準備をする。

【今日のじょん】宿儺かぼちゃじょん
宿儺(すくな)カボチャは1個2、000円弱で取引されている。ところが同じ物と思われる飛騨カボチャは250円で売られているという中尾さんの情報。無名のものは250円でブランド名がつくと9倍になるのか、はたまた別物なのか、悩ましいところである。ひょんな事から宿儺カボチャがじょんのびにある。
かみさんがじょんに似てるというので写真に撮ったが、ナルホド似ている。P1010182
P1010185

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上林の盃状穴(41) 善福寺-3 9/15

2013-09-15 | 盃状穴

2013.9.15(日)雨

 善福寺の階段は108段と聞く、下段が94段、上段が12段、本殿前が2段というところだろうか。上段の12段は石の段は下から二段と最上段で、あとは木で仕切られた階段で、粗末なものである。そしてここに盃状穴らしきものは見当たらない。ただ最上段に落書きを発見、「小田」と彫られている。石原町の三柱神社に盃状穴とともに「大」という字が彫られているというので是非見てみたいと思っていた矢先である。
 「大」なら何かまじないの意味でもあろうかと思うのだが、「小田」ではいたずらとしか思えない。P1010124

 


 このいたずら書きについて、上林風土記資料集(平成16年12月)石造物の欄に記述がある。
 
石段 所在地 善福寺の参道石段 最上段の踏石 中央(上)「小田」
〔夏休みに寺で小学校の児童が勉強していたときの悪さ書きとのこと〕


 と書かれている。内容的はさもありなんというものだが、二条河原の落書でもあるまいに、歴史的にも民俗学的にも意味の無い落書きを立派な郷土史に載せる必要はないと思う。逆に盃状穴については何の記載も無い。筆者編者が盃状穴についての見識が無いことは理解できるが、「小田」の落書きを見つける人に無数とも言える盃状穴は目に映らなかったのだろうか。それが如何なるものかわからなくても、記録に残す価値はあったと思うのだが。
P1010123

 


上段の部分は石段が少なく、従って盃状穴もあり得ない。

 さていよいよメインの下段部分だが、詳細については後ほど述べることにして、盃状穴の一覧を記録しておこう。この部分は上から観察して降りたので、最上段から一段目、二段目と数え、一段三枚ある踏石を上から見て右、中、左とした。
P1010122



90数段の石段をどう調査するか途方に暮れる。

1段目  左
1個 水抜き線付き 
36段目 中1個 3cm
46段目 左2個 やや不完全
47段目 右1個 水抜き付き5cm、周囲に不完全5個
70段目 右1個 3cm
73段目 左1個 5cm
76段目 中4個
80段目 中1個
82段目 左1個 水抜き付き
83段目 右2個 右 2個8cm、深さ5cm有り
      中2個 1個は水抜き付き
      左3個
84段目 中6個
85段目 右2個 水抜き2本有り、深さ5cm
               中2個
      左2個
86,87段目 やや不完全
88段目 中1個 
      左7個
89段目 右2個
      中9個 最大のものは8cm、深さ8cm?水抜き有り
      左3個
90段目 右3個 最大9cm、深さ5cm、水切り有り
      中6個 コンクリート補修有り
      左2個
91段目 中2個、左1個、いずれも不完全
92段目 不完全多数
以下はコンクリートとなっている。つづく
P1010121



休憩すると城山から山田の方面の景色がいい。


【作業日誌 9/15】
マガジンラック補修

【今日のじょん】マーブル追悼写真集
じょんならともかくマーブルがご飯食べないというのは異常である。遂に入院するから見てやってくれといってやってきた。歩いたりしていたので安心したが、病名を聞いてもう見納めかなという気もした。マーブルの写真はこれが最後である。次に会ったときには既に亡くなっていたのだが、シャッターを押そうという気にはならなかった。
P1050038
P1050039
P1050041

   


 

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上林の盃状穴(40) 善福寺-2 9/14

2013-09-14 | 盃状穴

2013.9.14(土)晴れ

 善福寺の石段を観察して驚いた。あるはあるは、完全な盃状穴が、大きくてしかも深い盃状穴がいたるところにあるのだ。しかもその石段は、天空にとどけとばかり続いているのだ。ここで、一体どのように記録に残せばいいのか考えてしまう。下部の数段だけでも数十個の盃状穴があるのに、百段以上ある石段に同じように穿たれていればその数は数百個となる。それをいちいち記録していれば数日かかるし、それがどれだけの意味があるのかと言うこともある。
P1010117P1010118



一体何段あるのだろう。取り付きの数段だけでも2,30個は見受けられる。

 しかしまあ、観察しながら石段を登ってみることにする。石段は下段部が93段、上段部が13段、本殿前が2段あるようだ。幸いというか残念というか、途中の盃状穴はまばらで、数を拾い撮影するぐらいなら可能なようだ。いずれにしても今までに出会った盃状穴の中で、数の上でも形状の完全性という意味でも最高の盃状穴存在地であることは間違いない。
  観察は本堂から下りながら行うことにする。盃状穴の所在地と数を記録していくが、上からの段数であり、方向も上から見た方向である。
  本尊は十一面観音菩薩ということだが、綾部の神社仏閣を訪ねるとき、必ず一人であるということが嬉しい。今夏は南丹市、亀岡市方面を巡ったが、ウイークデイにもかかわらず、来訪者に出会う事が多かった。特に妙なものを探してうろうろしているだけに後ろめたさを感じてしまう。追いかけられるようにその場を離れ、後でもっとしっかり見ておけばと後悔することしばしである。綾部では人に出会うことはないが、結構不気味に感じることもある。特に昨今熊や獣の出没が騒がれているので、音がするとドキリとする。少なくとも地面には獣の足跡が縦横についている。
 もう一つめげるものがヤブ蚊である。特に季節が最悪なのだが、自転車で訪問する場合は裸同然のスタイルである。本堂の西側にいくつかの、お堂があるのだが、勘弁してもらった。五輪塔、板碑、カラトなどが見え、相当古いものかと思われるが、ヤブ蚊の襲来には勝てない。本堂や庫裡の裏手もいつもなら観察するが今回は省略とした。
P1010128



本堂西側のお堂群、手前の石が伝説の泣き石か。

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本堂と庫裡、本堂向かって右手の手洗石。
P1010126



 

本堂周辺にはこの一個だけ発見。

 それというのも本堂周辺で見つかったのは、本堂前石段の上段右手(本堂に向かって)の一個だけなのである。その部分の石材を除いて、後の石材はチャートを含む自然石で相当硬いものと思われる。文化五年(1808年)の銘がある手洗石にも盃状穴は見当たらない。つづく

【作業日誌 9/14】
薪搬出
P1010181



あと2日ぐらいかかりそう。

【今日のじょん】マーブル追悼写真集
その後来じょんしても道で会ったりしても写真まで撮ることは無かった。五月に来じょんしたときは元気で遊んでいたが、ドッグランどが未完成の時で、ついに使うことなく逝ってしまったのが残念だ。P1040438
P1040436


2013.5.12
 

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