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晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

雨読 「中世の非人と遊女」 7/30

2015-07-30 | 雨読

2015.7.30(木)曇り

 古代国家の設立と発展に多大な貢献をした金属に関係する職人、鉱山師、坑夫、鍛冶師、鋳物師などが賤視されていることに疑問を持った。それどころか農民以外の職人、漁民、猟師、商人、工人、芸人、聖などの僧、運輸にあたる人々などすべてが賤視されていたわけだ。今日では尊敬されている医者でさえ賤視の対象であったという。先日TVのクイズ番組で、「家康公に触ることの出来ない御殿医はどのようにして脈を測ったか?」という問題があった。家康公の位が高かったから触れなかったのではなくて、御殿医といえども医者が触れることが出来なかった、いわゆる触穢とされていたと言うことだろう。賤視、差別の発生は穢の観念にもとづくものが多い。葬送に関わるもの、動物の生死に関わるもの、癩病など病気に関わるものなどである。根底に仏教思想の影響があると考えられるが、例えば芸人はどうだろう、鍛冶師や鋳物師はどうだろう、仏教思想にもとづく穢の観念によるものばかりではないようだ。近世身分制の源は中世にあるとするのが今日の学説である。しかし被差別民はいかにしてうまれたか、古代とは脈絡は無いのか、とにかく謎が多い。この間読んできた同様の本とはちょっと違った考え方が示されており、それなりに納得のいくものなので紹介したい。
 「中世のと遊女」 網野善彦著 1994年8月 明石書店 第2刷 古書

両方ともポストイット貼りたおし。
 「日本の聖と賤 中世篇」(2015.2.2雨読参照)を読んでもらえばわかるとおり、商人や鍛冶師、鋳物師、芸人、聖などが賤視されたのは、彼らが全てが非定住性で各地を巡回し情報伝達機能、宗教伝播機能をを持っていたためと考えられる。為政者は農民と彼らが対等に接触することを畏れたのである。中世における為政者とは武士である。彼らもまたそれ以前は賤視される身分であったのだ。武士階級が朝廷、貴族から権力を奪取する過程ではやはり漂泊者の機能を充分に利用したのではないだろうか。
 本書の論点は、これら近世においてはとして差別される人々も、中世のはじめには差別されていなかったとしている。武士の台頭と共に賤視されるようになって、近世にいたっては身分制度として固定されてしまう。武士の台頭というのは朝廷の衰退ということであり、職人であったり、芸人であったりは古代においては朝廷の専有の民であったと言うことだ。古代の部民制などみればそのことがよく理解できる。朝廷直属の職人などが朝廷の衰退と共に賤視されるようになったという説は前述の非定住者分断説と矛盾するものでは無い。
 近世真継家が朝廷の名を借りて鋳物師の支配をしたこと、木地師が菊の御紋の入った免許状を配布したことなど、元をただせばこのような脈絡があるのかもしれない。
 また本書は中世の女性についても論じておられ、自由闊達で奔放な様子は近世以降の女性像からは考えられないほどである。

【作業日誌 7/30】草刈り、もう何回目だろう。

【今日のじょん】こないだ、久々に写真載せたらお尻だったので、正面を見せろって、、、

ハイッ

 

 

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クールビズ2015パウダー編 7/27

2015-07-27 | 日記・エッセイ・コラム

2015.7.27(月)晴れ

 いよいよ暑い夏がやってきた。年を重ねるごとに暑さ寒さに対する抵抗力は衰えてくるだろうし、それなりに対策を練っていかねばならない。昨年紹介したダイコーの作業ズボンは優れものである。(2014.10.16参照)今年も6月頃から大活躍していて、未だ破れたりほころびたりといった故障は無い。問題はボディパウダーである。
 永年使用してきたニチバンのブルーキックがいよいよ終わりに近づいてきた。すでに製造中止となっており二度と手に入れることの無い優れものである。昨年紹介した「あせしらず」は安価でいいが、使用感はイマイチ、ブルーキックには及ばない。仕方が無いので現行の商品でありとあらゆる物を試してみることにした。
 従来のボディパウダーに代わるものとしてアイスボディシートとかボディペーパーなるものが主流となっているようだ。これでパウダーと同等あるいはそれ以上の効果があるのならそれはそれで良い。製品の名称としては「拭き取り用化粧水」という風になるようだ。どの製品にもメントールなどが入っており、清涼感はある。そのままさらりとした感触が継続するならこれに越したことは無い。パウダーの場合、事前にタオルなどで汗を拭いて、乾燥させたあとパウダーを塗布するもので、ボディシートはこれに代わるものである。拭き取った直後は清涼感があるが、やがて拭き取ったあたりがべたべたとしてくる。タオルで拭き取る余裕の無いときなどは有効だが、タオル拭き取り+ボディパウダーがやはり王道である。
 暑くなってようやくパウダーも店頭に並ぶようになってきた。スプレータイプが多いようで、店頭で比較してギャツビーのパウダーデオドラントスプレークリアオーシャンなどという御大層な商品を選ぶ。スプレータイプなので使い勝手はいいが、使用感はブルーキックに劣る。しばらくするとさらり感が無くなり、触ってみてもべっとりしているのである。ネットで調べてみるとコールドオーシャンというタイプがあることに気付く。無くなったらこれ買ってみよう。

ブルーキックを越えるものはいない
 やっぱりパウダーは塗布するタイプが一番と探していたら、「直ぬりCool 薬用ディオナテュレ 男さっぱりパウダー 制汗」とどれが製品名か分からない昔ながらのパウダーがあった。壇蜜の「殿方のお作法 裸にまぶす。」というキャッチフレーズも貼ってある。チト高いが、スチールの缶でレトロ感もあり思わず買ってしまう。楽しみに使ってみたが、これまたブルーキックには劣る。
 ブルーキックが製造中止になったばかりに、たかがパウダーでこんなに苦労するわけだ。ニチバンさんなんとかしてくれ。ちなみにブルーキックとの出会いは、30年ほど前だろうか気錬という自転車チームでコーチ兼トレーナーをされていた八代正氏にクールダウンの方法として紹介してもらったものである。
ブルーキック  (ℓ-メントール、サリチル酸、パラベン、香料)

男さっぱりパウダー(焼ミョウバン、ヒドロキシアパタイト、メントール、メンチルグリセリルエーテル、メチルハイドロジェンポリシロキサン、ヒノキチオール、アラントイン、無水ケイ酸)

パウダードドラントスプレー(クロルヒドロキシアルミニウム、イソプロビルメチルフェノール、ミリスチン酸イソプロピル、タルク、無水ケイ酸、メチル
ハイドロジェンポリシロキサン、無水エタノール、ℓ-メントール、メチルフェニルポリシロキサン、ジブチルヒドロキシトルエン、チャ乾留液など)

新あせしらず(酸化亜鉛、沈降炭酸カルシウム、タルク、トウモロコシデンプン香料)

う~む、いっぱい入ってりゃいいってもんじゃねえぞ。でもあかんからって捨てるわけにもいかず、数年はもちそうだ。

【今日のじょん】あじ~

 

 

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雨読 「風の王国」-(2) 7/25

2015-07-25 | 雨読

2015.7.25(土)晴れ

 サンカについては当ブログでずいぶんと書いてきたので、古い読者の方はご存じかと思うが始めてみられる方は一体何なのかわからないと思う。「定住しないで山間に瀬降り(せぶり、仮小屋や天幕生活をすること)しながら、漂泊していた人々」といってもよく理解できないだろうか。その多くは徐々に市民生活に同化してきたが、一部は1950年代頃まで漂泊生活を続けるものもあったそうだ。
 始めてサンカのことを知ったのは今から40年も前のことだが、丹波の山間で細々と田畑を耕していたわたしの母に尋ねたことがある。
「箕(みー)とか笊とかを行商に来ていた人はおらんかったか?」
「毎年決まった時期に歩いて売りに来ていた。重宝なので買っていた」
「それは知ってる人か?」
「いやどこのだれだか知らなかった、村の人なら分かるはずだからどこかから来てたんやろ」
 それがサンカだったのか、それとも単なる竹製品の行商人なのか今となってはわからないのだが、母はサンカという言葉は知らなかった。
   明治の時代に確かにサンカはいた。しかし明治新政府以来、昭和27年の住民登録制に至るまで無籍の漂泊民を政府は放ってはいなかった。彼らは納税、徴兵、教育の義務の埒外にいたからだ。戸籍に登録され、一般社会に同化するいわゆる<トケコミ>の歴史、その側面を小説にしたのが「風の王国」だと思う。本書に出てくるサンカ狩り、強制労働などが実際にあったのか否かは分からないのだけど、明治新政府の野蛮性を追求している点には共感を得る。北海道の開拓工事に囚人を狩り出した事などは事実であり、明治新政府がいかに野蛮で非人間性であったかは明らかである。
 五木氏と沖浦氏の出会いについて決定的な文章を見つけた。それは五木氏の「サンカの民と被差別の世界」116頁~120頁に書かれている。沖浦氏が中国山地のサンカの末裔に会うのだが、実は彼らが「風の王国」の熱烈な読者であったと言うことである。サンカの末裔とされる人たちが書いた記録の中に「風の王国」からサンカの歴史とアイデンティティーをめぐる重要な箇所が5頁分抜き書きされていたという。サンカに対する奇異な目で書かれたもの、犯罪者のごとく書かれているものなどはいくつもあったのだが、そもそも自分たちの起源が分からない人々が自らのアイデンティティーとして「風の王国」を持っていたということだ。そのことが沖浦氏と五木氏の結びつきの原点であると考える。「風の王国」「幻の漂流民・サンカ」「サンカの民と被差別の世界」は三冊を読んで始めて理解できる不思議な世界のような気がする。
 それにしても二上山はなんと縁のあるところだろう。日置の研究、穴虫の研究、古墳石材やサヌカイトの研究、火葬墓の研究、古代葬送の研究そして今回のサンカの小説の舞台と何とも縁の深いことか。
 主人公速見卓が近鉄特急で二上山に向かう場面がある。大和郡山を過ぎたあたりから西の方角に見え隠れする特異な山容を追いかける様子は、わたしが始めて二上山に向かった時と景色も感情も同じであって驚いた。最も彼の相方は謎の天台僧なのだが、わたしの横では娘がグウグウ居眠っていたのである。
 穴虫、二上山、竹内街道、矢も盾もたまらない思いである。

いつでも撮れると思っていたら遂に機会を逃してしまった二上山。
 南無阿弥陀 佛の御名を呼ぶ小鳥 あやしや たれか ふたかみの山


【今日のじょん】じょん君が登場しないので心配、、、という方に最近のじょん君お見せしましょう。

往年の元気は無くなったが、兄妹が亡くなってから2年がたとうとしている。夏はこれからだのに長い影が寂しいねえ。そういえばじょんの先生、マック隊長の訃報を聞く。やっぱりあのお見舞いの日が最後になってしまった。合掌 

 

 

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雨読 「風の王国」-(1) 7/24

2015-07-24 | 雨読

2015.7.24(木)曇り

 「サンカの民と被差別の世界」を紹介した際(2015.7.5)に、「この本を先に読むべきであった」と書いたが、意外にも早く読む機会が訪れた。三角寛の低俗サンカ小説始め、サンカに関する本というのは文芸であれ研究書であれ、古本市場では驚くほど安価で取引されている。それだけ世間に認知されていないということだろう。それでもサンカ小説がブームになったことがあるようで、三角寛が書きまくったというのもそういう時期であったのだろう。
 本書は三角サンカ小説とは正反対のサンカに対して好意的な小説である。400ページに及ぶ大作だが、3日間で読み切ってしまった。その間に「幻の漂流民・サンカ」の著者、沖浦和光氏の訃報を新聞紙上に見つける。7月8日88才で亡くなられたと言うことだが、
本書に登場するサンカの初代<オヤ>葛城遍浪氏も偶然とは言え88才で<おカクレ>になったのでは無かったか。
「風の王国」五木寛之著 新潮社 古書

 沖浦氏と五木氏がサンカについてお互いに影響し合って研究を進めてこられたようだが、その発端は沖浦氏が本書を読まれたことではないだろうか。ただ科学的にサンカや漂流民を追究されている沖浦氏がフィクションの小説になぜ興味をもたれたかという点は不思議である。両氏の作品を発表年代別に並べてみよう。

日本民衆文化の原郷(沖浦)    1984年  家船を紹介
風の王国     (五木)    1985年  古代からの種族
幻の漂流民・サンカ(沖浦)    2001年  近世末期に発生
サンカの民と被差別の世界(五木)  2005年 沖浦説を紹介

 

 五木氏はこの本を書くに当たってサンカについてかなり研究をされている。巻末には数多くの参考文献が載せられている。論文ならいざ知らず、小説にこれだけの参考文献のあるものは他にない。
 小説の中で五木氏はサンカ(ここではケンシ、世間師のことと呼んでいる)の起源は大津皇子の事件にまで遡り、古代からのものとなっている。沖浦氏の説は近世末期の飢饉の際に村を捨て山に籠もった人々がサンカであると言うもので、現実的な説と思われる。両者の作品の年代に注目すると、「風の王国」が発行された時にはまだ沖浦サンカ論は世に出ていなかったと考えられる。「サンカの民と被差別の世界」で五木氏は沖浦氏の説を肯定的に紹介している。そして家船(えぶね)の民が水軍の末裔だという沖浦氏の説についてははっきりと肯定しているのである。さて、それでは自身の説とは異なる「風の王国」を読んで沖浦氏はなぜ五木氏に共感を覚えたのだろう。
 それは両者に共通するサンカに対する愛情というか思いやりが両者を繋げたのではないだろうか。両者とも官憲の側に立ってサンカを悪者に仕立て上げた三角寛を鋭く批判している。そして被差別者の立場に立って小説なり論文を書き上げているのである。つづく

 

 

 

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三国岳山行(5) 7/22

2015-07-22 | 上林たんけん隊

2015.7.22(水)曇り 三国岳山行(4)は2015.7.18

 なんとも嫌な気分で三国岳山頂を後にする。工忠夫婦に残念な景色しか見せられなかったので、丸山コルの素敵な風景やサンドラ岩の豪快な風景を見せた

くて、「大唐内へ」という道標の指す道を下る。

「大唐内」という看板の道を下る。とこんな倒木の谷に出る。
4年前もこの道を下り、イワカガミの群生する尾根を丸山に向かった。プラスチックの足場が切ってあり、「こんなんやったかなあ」と訝しく思いながら下っていくと、いつまでもプラスチックの階段が続く。そしていつまでたっても尾根状の道にならないのだ。左手の稜線が段々高くなっていき、やがてせせらぎの音が聞こえてくる。行きたい道と間違っていることに気付く、また間違ったかとがっくりするがもう戻る気はしない。大唐内谷の本谷に向かうことは分かっていたし、道そのものはしっかりしているのでそのまま下ることにする。それにしても4年前は何も考えずに迷うことなく歩けたんだが、、、、。これも後日地図を確認したところ三国岳頂上から少し下ったところで左に稜線をたどるべきだったようだ。
 やがて二股状になったところで本谷に降りる。谷は往路の谷と同様倒木流木が散乱堆積し歩きにくいことこの上ない。倒木をまたいで何度も徒渉しながらやがて河原が広くなり、林道が現れた。鬼の岩屋や鬼の洗濯場の話などしながらちんたら歩いて行く。やがて朝通った林道に出合い、駐車した君尾林道の出合に着く。
 今回の山行は反省すべきことが多くあったが、道に迷ったのは、送電線に絡む新しい道が出来ているにもかかわらず道標が設置されていないことがひとつの原因かと思う。そのことが事前に分かっていれば地図とコンパスを頼りにルートファインディング出来たかもしれない。4年前の経験を頼りに適当に歩いたのが敗因であった。山を舐めたらあかんねえ。

【今日のじょん】こないだいくみちゃんが来た。縦貫道開通のウォーキングに行ったかとかで「長老」の冷酒をお土産にもらった。人に贈るばっかりで、自分で飲めるのは初めてで、ちょっと早めのウナギでいただく。いやー美味いですなあ。

 さてじょんは、「早く降りてこないかなあ」「ひこひこ」

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三国岳山行(4) 7/18

2015-07-18 | 上林たんけん隊

2015.7.18(土)曇り 三国岳山行(3)は2015.7.13

 さてこの三国岳への簡単なルートのミスコースが如何なるものだったのか、しかと地図を眺めてみる。胡麻峠から三国岳への稜線はまず北東に100mほど進み、そこで南南東に方向を変え、また100mあまり進んで鉄塔のある小ピークに着く。そこで再び向きを北東に変え、400mあまりで三国岳に至るというものだ。わたしたちは鉄塔のところで向きを変えずにまっすぐ行ってしまったわけだ。その道は大唐内谷本谷に向かう尾根であり、次に選んだ道はその左股とも言うべき、元来た谷に向かう道だったのだ。この道が三国岳とはまるで反対の方向を向いていることも地図ですぐに解る。
 なぜミスコースをしたか?胡麻峠から単純に北東に進めばよいという既成概念があったからだ。しかし4年前に初めてのコースで、地図を拡げるわけでもなく簡単にピークにたどり着いたのはどうしてだろう。4年前の山行記録を見てみると「送電線の鉄塔を捲く舞側のトラバース道が最高の眺めで、、」とある。この舞側の景色の良いところは鉄塔から少し下ったところにある。

ここの景色は4年前も同じ、多門院から舞鶴方面を望む。
どうやら4年前は鉄塔のピークを通っていないようだ。つまり捲き道の踏み跡がしっかりしていて自然にそちらに行ったのでは無いだろうか。ついでに4年前のタイムを見て驚いた。水源から胡麻峠までは30分、三国岳まではさらに30分で登っているのだ。今回ロスタイムが多かったとは言え3時間10分はかかりすぎと言えよう。大雪による倒木のため人が入れなくなり、踏み跡が消えてしまったことが大きな原因である。過去には何も考えずに踏み跡をたどれば自然と導かれたのだが、今日では随所でルートファインディングを強いられる。あらためてしっかりした道標を着け直すことが肝要かと思われる。
 そして頂上に至る数百メートルが4年前とうって変わっているのに驚く。そこは照葉樹林のプロムナードコースであり、心和む部分だったのだが、送電線の下の広い範囲がすっかり伐採されているのだ。伐採は三国岳頂上を越えて続き、かつては井戸の底のようだった頂上も山肌がむき出しで、送電線の鉄塔も建っている。頂上の周囲にあった道標が荒墓の卒塔婆のように空しく立っている。

送電線を走らすのにここまでしなければならないのか。
「ナパーム弾が落ちたようですね」と工忠君が言う。「展望が良くなって素晴らしい」と新聞に投稿された御仁の感性を疑う。つづく

【今日のじょん】台風後の草刈りをしようかという時に来じょんの桜井ミルクちゃん、この秋2才とか。とても喜んでくれて、また来てね。


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再度蒼島へ 7/16

2015-07-16 | 上林たんけん隊

2015.7.16(木)雨

 7月15日は小浜市加斗の蒼島神社の祭礼である。神社の催しが人集めのために休日に変更されるところが多い中で、毎年決まった日に祭礼を行っているところは嬉しい。祭礼の日はそれなりに謂われがあるのだろうから、勝手に変えられるのには抵抗がある。文化的な行事でもほとんどが土日の開催になっていて、仕事の都合で土日が困難な人は永久に参加できないことになる。商業的なイベントならともかく、市やその関連団体の開催する文化的行事などであればウィークディに開催されるものがもう少しあってもいいのではないか。つまり市民の税で維持されている行事に一部の人たちは永久に出席できないのでは、不公平な思いがあるわけだ。わたしが市長なら月に一度ぐらい、ウィークディの行事を設ける事にする。専業主婦や退職後の人など土日にこだわらない人も数多くあるだろうし、人を集めるだけが目的でない行事もあることだろうから。
 そんな意味もあって、日付で行事を開催しておられるこの例祭がとても楽しみなのである。蒼島神社は弁天さまが祀られており、年に一度加斗の人たちが参道や祠を整備し、神主さんを招いて祭礼をされるのである。わたしは氏子でもなく、余所者だがお願いをしたら快く引き受けて下さって、現地でもとても心やすく親切にしていただいている。今年はこの地先の無人島で行われるささやかな行事がいい写真になるかもしれないと思い四方さんを誘っての参加である。

神主さんとともに蒼島に向かう。段々近くなる。
 詳細は昨年の記録(2014.7.15~18)に譲るとして、今年はちょいと奥まで探検できたことと、ナタオレノキが確認できたことが収穫である。
 祭礼が始まる前の少しの時間に、「島の奥には行けますか?」と聞くと「道がありますよ、ナタオレノキには札が付いてます」教えてくれた。神社の右手から尾根伝いに踏み跡があるが、それは道として残ったのではなく単に尖った尾根だからそのようになったもののようだ。歩きながら「蛇はいますか?」と聞かなかったことを悔やむ。草の中で足が見えないのは気味の悪いものだ。やがて尾根は人一人が立てるぐらいのナイフリッジ状のエッジとなる。丸く見える島は実は南北に細長く、南端から2/3くらいのところのようだ。両側とも断崖となっており、木々の間に海面が見える。本当は北面の岩のところまで行きたいのだが、時間の都合もあるので引き返すこととなる。

神社の裏手から尾根を進む。一番細いところ、落ちたら海まで行ってしまう。
 谷川健一氏が言うように、海人、死者に関係があるとしたらあの岩の岬の可能性が高い。沖縄の奥武(おお)の島と同様のものだとしたら、あの部分に祭祀の跡が見つかるかもしれない。谷川氏が調査の必要のがあると書いておられるあの洞窟も覗いてみたいものだ。

谷川氏の言う洞窟、行ったのは木々の窪みがあるところ。

 「ナタオレは分かりませんでした、あの先に何か建造物とか遺跡とかありますか?」
 「ナタオレは帰り道にもありますので見てください。建物跡などはありません」ということだった。
 まだ当分は通うことになりそう。

これがナタオレノキ、島全体が天然記念物。

 

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三国岳山行(3) 7/13

2015-07-13 | 上林たんけん隊

2015.7.13(月)曇り

 鉄塔の先の小広場に真っ直ぐと右手に下っていく道が見える。方向的には真っ直ぐの方だが、テープや紐の目印は右手の道に付いている。灌木の隙間から正面のピークの右手に送電線の走っているのが見える。地図では三国岳の手前の稜線の右手に送電線が書かれているので、てっきりこれだっと思い真っ直ぐ進む。ところが幾ら行っても道は下っている。やがて道そのものも怪しくなってきて、こりゃあ違うぞということになり元の広場に登り返す。

鉄塔の側を真っ直ぐ進むと小広場に出る。その先の道を降りていくと、やがて道は怪しくなる。
道の真ん中に、「陸軍省」「舞要塞〇地帯」という石柱が現れる。
再度地図を出すがどうも様子が解らない。現在地が確定できないのだ。テープの印を頼りにもうひとつの道を下ってみる。

二人がいる右手を下る。赤テープと黄色いクレモナロープの印がある。
 これもどんどこ下るばかりで、右手の尾根が段々高くなる。これもどうやら違うらしい、こうなりゃさっきの鉄塔に戻ってみよう。てんで再度登りなおして、鉄塔の傍で弁当を開く。「腹が減っては戦は出来ぬ」居直ってゆっくり弁当食べていたら、なんとそこにもうひとつ道があるではないか。入口には表示らしき印は何も無いが、ちょっと先に赤テープが見える。胡麻峠から来る道と直角に左に曲がっている。これが三国岳への道とすると先程の広場から見えていた山は何だ、そうまるで正反対の養老山方面になるわけだ。コンパスはきっちりその方向を指している。送電線と一緒に見えていた山は養老山に向かう655mのピークだ。

鉄塔のところ、×と〇、道標は無い。
 道に迷うというのは恐ろしいものだ、目的地に向かって進んでいるつもりがまるで反対方向へ進むのだから。学生時代に剣北面から剱岳に向かって縦走したことがある。小窓ノ王という岩峰の側を下って三ノ窓のコルで幕営する予定だった。すっかりガスって周りは何も見えなかったがもうその地点に居ることは認識していた。この雪面を下ればコルに到達するとばかりに下り始めるが、さほどの距離は無いはずなのにどんどん下ってゆく。おかしいなあっと思ってコンパスを覗く。南に向かっているはずが北を指しているのだ、心臓が高鳴って冷や汗が出てくる。戻るしか無い、20Kgの荷を背負っている後輩たちの目は明らかにミスコースをした私たちに不信を現している。這々の体で稜線に戻ったときには夜も更けて、天幕を張る平地も無い。ポールを立てること無くテントをかぶってビバークする、食事がとれたかどうかは憶えが無い。翌朝、目の前のすっかり晴れた青空の中にチンネがデンと居座っていた。そう小窓王の横の雪壁でビバークしていたのだ。笑った笑った、自然のいたずらの前に人間の行動なんてなんてちっぽけなものなのか、思い知らされた。あとからガスに捲かれて降りていった雪渓を地図で見ると、小窓雪渓に下る支沢であることが容易に分かる。迷うということはそんなもんなんだが、最大の原因は小窓王の横の雪壁は上り下りした経験があるし、三ノ窓コルやチンネからしょっちゅう眺めている景色であったと言うことだ。
 山のレベルは随分違うが、今回の失敗は学生時代の思いでと実は同じものだということが解る。経験があるが故の思い込み、胡麻峠から三国岳まで真っ直ぐに快適な道を進めばいいという思い込みがとんだミスに繋がった。つづく

 


 

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三国岳山行(2) 7/12

2015-07-12 | 上林たんけん隊

2015.7.12(日)曇り

 老富水源の広場をスタートするとすぐに谷や山道が荒れていることに気づく。それでも通行を妨げていた倒木は通り抜ける部分だけ切り落とされている。谷には倒木や枝葉が散乱しており、被害前の面影もない。かつては谷筋のナメや滝を横目に楽しみながら歩いたものだ。何度も渡渉を繰り返すのだが、その部分に倒木や枝葉が堆積していて渡渉地点を隠している。登山者が迷って歩くもんだから、踏み跡がいくつも出来て渡渉地点のルートファインディングを難しくしている。できる限り黄色のテープを灌木に巻いて印したが、テープよりリボンの方がわかりやすいかと思う。

左:徒渉地点は倒木のたまり場となっている。
中:落差のある滝の落ち口、元は見応えのある景色だったんだけど、、。
右:山道の倒木は人が通れるよう切られている。

 やがて右岸の道が斜面をジグザグに登り始める。谷筋をはずれると山道は安定していて、あっという間に峠の大きな倒木をくぐる。この倒木は以前からあるものだ。
 胡麻峠は多聞院(たもいん・舞鶴市)の小字胡麻に由来するもので、修験者が護摩をたいたなどというのはまゆつば物だと思われる。峠には板碑風のものと、首のない地蔵さまが半分砂利に埋まって鎮座している。有名な愛宕山の首無地蔵は博労(ばくろう)が博打のお守りにと盗っていったという話を読んだことがあるが、胡麻峠の地蔵さまもそんなところではないかと思っている。丹波丹後をむすぶこの峠道もかつては博労道であったと思われるし、大唐内の神社の辺りをマヤゴというのも案外その辺りの事情から来ているのでは無いかと勘ぐっている。

胡麻峠の地蔵さんと倒木、この倒木は許せる。
 3年前このルートを通ったとき、胡麻峠から三国岳山頂に到る道は照葉樹林のプロムナードで、最も好ましい道であった。峠からすこしのところに送電線の鉄塔があるのは憶えていたが、その先の小広場でとんでもないミスを犯すことになった。つづく

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三国岳山行 7/11

2015-07-11 | 上林たんけん隊

2015.7.11(土)曇り

 7月10日(金)に三国岳(616m)に二度目の登山を行う。
 7月10日(金)天気 快晴
 10:15 じょんのびを車で出発
 10:50 大唐内君尾山林道終点に車を置いて出発
 11:00 老富の水源(林道終点)出発
 11:13 滝
 11:30 二股状のところ休憩 35分出発
 12:00 胡麻峠到着 12:15出発
 12:30~13:35 鉄塔先広場で道を迷い、鉄塔に戻る
 13:35~13:50 鉄塔で休憩、ルートを見つける
 14:10 三国岳山頂 14:15出発
 14:40 大唐内谷出合
 14:55 最奥の堰堤
 15:05 林道出合駐車位置

 2012年の大雪による倒木の影響で老富の各谷筋は通行が不能になっていた。多くの登山者が知ってか知らずかアタックして引き返したことを聞いている。先月だろうかあやべ市民新聞投稿欄に、「三国岳は頂上付近がきれいに伐採されて展望もよく素晴らしかった」という風な記事があった。どうやら登山道の倒木も整備され、通行できるようになっているらしい。頂上だって前に行ったときには灌木に囲まれた井戸の底のような感じだったので、どのように整備されたのか楽しみである。今回工忠君と二人で行く予定だったが、奥さんのえりちゃんが飛び入り参加し、3人で行くことになった。

 駐車場所を西田さんに確認したところ、君尾山林道の出合が最適とのこと、道の部分だけでも3,4台は駐車可能で胡麻峠に行くにはここか、もう一つ先の林道終点地がいいようだ。
 さて、君尾山林道出合から大唐内谷を進むとすぐに左に分岐し、「胡麻峠入口」の道標がある。

そこを左に進みすぐに林道終点に着く。そこには「老富の水源」という看板があるのだが、無残に倒れており、何者かに壊されたような雰囲気がしている。熊かなあとやや不安になる。

つづく

 

 
 

  

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雨読 「味噌・醤油・酒の来た道」 7/8

2015-07-08 | 雨読

2015.7.8(水)雨

 森浩一氏などが主催されてきた日本海文化を考えるシンポジウムの第四回(昭和六一年富山市)をまとめたものである。一回、二回はすでに紹介しているが、第三回「東アジアと日本海文化」は未読なので、飛ばして第四回の紹介となった。
 実は読了したのが5月のことなので、内容をほとんど忘れてしまっている。そういう風だからあまり、強烈な印象のない内容だったようである。本に線を引くのが嫌いなわたしはポストイットを貼り付けているのだが、多い本なら2,30枚貼ってしまうのだが、本書は3枚である。それだけ印象が薄かったということ(わたしの興味が薄かったということで、内容的に低レベルであったと言うことでは無い)で、とりあえず読みましたよという雨読である。
 日本海沿岸諸民族の食文化と日本「味噌・醤油・酒の来た道」森浩一編 小学館 昭和62年10月初版 古書

 タイトルからすると日本古来の食材や技術がどのように伝播してきたかを示しているようなのだが、例によってシンポジウムでの発表を編集されたものだから、各分野例えば中国、蝦夷、漢民族、縄文人、すし、酒などの食文化について書かれており、しかもかなり専門的な内容であって読みづらかった。
 特に期待した小泉武夫氏の文、「日本の酒・高志(こし)の酒ーその起源」についても専門的であり、一般には難しい内容であった。もっともこのシンポジウムが一般的な聴衆というより、専門家や研究者を対象としているようだからやむを得ないと思われる。
 そのなかで面白かったのは陳舜臣(ちん しゅんしん)氏の「中国の食物史」である。どういう方かと思いきや小説家であり、中国の歴史小説など書かれているので、面白いはずである。
 王を補佐する総理大臣のことを宰相というが、宰という字は家の中で刀を持っている人を表しているという。つまり調理人である、調理人は肉を上手に切り分ける、民に公平に分配できるものが宰相なのである。(どこかの総理大臣は耳が痛い、いや腹が痛いかもしれないが、、、)
 料理長というのはかつては王を補佐するという重要な位置にあったそうだ。ところが君子が厨房から遠ざかるようになると料理長の地位が下がってくる。「孟子」のなかに「君子は厨房(くりや)より遠ざかる」という言葉があるそうだ。孟子の説明では、鳥や豚を殺す際の悲鳴が耐えられないからという。
そのくせ調理されたものを食べるのだからという皮肉を言いたいのだろうか。
 とにかくこのように面白い話が続く。
 小泉氏の酒の話は、日本の酒いわゆる日本酒は大陸や半島から伝わったものではなく、国内で発達した優れた発見や技術にもとづくオリジナルな酒であるということを書かれている。内容は本書に譲るとして、その技術は素晴らしいものがあり、「灰に謎あり」(2015.4.13雨読)などでも紹介しているが、パスツールが発見したという低温殺菌法も日本ではその300年前から使用されていたというから驚きである。

【今日のじょん】先日マック隊長のお見舞いに行ったとき、その前にイルマンさんに寄った。勘兵衛がなんとも成長して光秀より大きくなってるではないか。店番もしっかり出来るようになっておりマスゾ。

まっくろけでワカラナイノダ。

 

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蟻とキリギリシャ 7/7

2015-07-07 | 日記・エッセイ・コラム

2015.7.7(火)雨

 「雨読」が延々と続くのだが、退屈されると思うので時事問題を一発。
いやはや驚きましたな-、反対票が勝つとしても僅差かと思ったのだが、、、、
日本人の感覚だと、国全体で頑張って再興しようと考えるのだがそうではないみたいだね。国民性の違いというのはこんなものかと見せつけられた感がする。「今が良けりゃ、明日なんてどうでもいい、何とかなるさ」というようなもんだろうか。まあそんなだからこんなになったということなんだろうけど、イソップの「蟻とキリギリス」によく似ている。夏は来たるべき冬のことなど考えず、歌ってばかりいたキリギリス、それを横目に炎天下をせっせと働いていた蟻君
。やがて寒い冬が来て食べるものも無く、蟻たちに食べ物を乞うが断られる。「夏の間に遊んでばかりいたむくいだよ」と言われてやがて死んでしまう訳なんだが、蟻って残酷じゃないかという声もあるそうだ。
 そのままギリシャとEUに当てはまりそうだけど、EU蟻はまたしても手助けするんじゃないかと勘ぐっている。ギリシャは財政的には何度も破綻しているわけで、債権国はその都度忠告してると思うんだけど、ちっとも反省努力してこなかったということだろう。それで今回最後通告みたいに言ってたけれど、いざ国民投票が終わるとどうもそんな雰囲気ではない。
 国民投票が行われると聞いて、「そんな事したら、どっち転んでも不利な状況になるのでは、、なんでそんなことするんだ」と思ったが「ひょっとしたら深遠な作戦があるのでは、、」とも感じた。どうやらそういう雰囲気だ。チプラス首相は国民の声をバックにEUから大きな譲歩を引き出し、またぞろ借金を重ねるというのがわたしの予想である。
 「蟻さん、わたしにも家族があるのです、冬が明けたらまじめに働きますから食べ物を分けて下さい」「しょーがねーなー」って感じかな。
冬が明けてもキリギリスはまた歌ってばかりいました、とさ。
 国家規模ではないけれど、財政破綻した夕張市の記憶はまだ生々しい。ところが30才でこの財政再生団体の夕張市市長になった鈴木直道さんが頑張っておられる。条件的には最悪の自治体を知恵と汗で再生させるべく取り組んでおられる。講談社から「夕張再生市長」1,400円で出版されている。キリギリシャさんにも読んでもらいたい。

【今日のじょん】ビタミンCを止めて、お腹も便も通常になってきた。食欲も戻りホッとしている。足の方は以前ほどではないのだが、動作が鈍い。長丁場で治るのを待つしかないみたい。それにしても薬に弱いなあ、致命的な病気になったら治療のしようがないということか。
 河原に散歩くるのも久しぶりである、写真撮っていたら対岸にバンビちゃんがいた。傍目にはのどかな風景なんだが、、、。


 

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雨読 「サンカの民と被差別の世界」 7/5

2015-07-05 | 雨読

2015.7.5(日)曇り

 五木寛之氏といえば「青春の門」「蒼ざめた馬を見よ」などの小説が有名だが、「風の王国」でサンカについて書かれている。小説だからといって荒唐無稽というものでは無く、数多くの文献などを調査した上で書かれているようだ。それが沖浦和光氏に影響を与えているという一文が出てくる。沖浦氏の著書は「竹の民俗史」「日本民衆文化の原郷」「日本の聖と賤 中世篇」(雨読2015.2.2)「幻の漂流民サンカ」(雨読2013.6.20)などを読んでいるが、それらの中にも「風の王国」について書かれていたように思う。そういう意味では本書より先に「風の王国」を読むべきではあった。
 「サンカの民と被差別の世界」五木之著 講談社2005年10月第一刷発行 古書

 沖浦氏と五木氏は随分親交があったようで、本書の内容は沖浦氏の各誌と同じ流れの中で書かれている。ただし、小説家の場合発想が自由で、奔放であることが魅力である。学者の場合は同じように発想しても確たる証拠が揃わないと発表するのは難しい。下手をすると学者としての地位を失いかねない状況となる。その点小説家であれば大胆な発想ほど受け入れられる。無責任といえば言い過ぎだが、読者にとってはその方が魅力的だし楽しいわけだ。松本清張氏や黒岩重吾氏の古代史に関するものなど一気に読んでしまう楽しさがある。そして実際その方が真実に迫っていることもあるのではないだろうか。
 五木寛之氏の本書においてそういう箇所を幾つか紹介してみよう。
 「小説家の発想というか、直感にすぎないのだが、私は何となく海の民は曲線的、農民は直線的、という印象を持っている。」(P44)農民にとって忌み嫌われる蝮や蛇などを崇拝しているのが海民とか船乗りなのだと書いている。曲線といえば隼人の盾の渦巻きをまず思い出した。これなどは南方海洋民族の流れを汲むものなのだろうか。

沖縄県南城市玉泉洞に展示されている船。蛇は海洋民族のトーテムである。(2007.3.3撮影)
 「水軍の船は木造船だったが、鉄も要所要所で使われていた。そのため鍛冶業が発展したのだった。考えてみれば、雑賀衆も鉄砲をつくる技術を持った鍛冶の専門家集団である。熱烈な真宗門徒だった両者に「鉄」という共通点があるのは興味深い。」(P51)
 真宗と「鉄」を結びつける発想には始めて出会った。わたしの研究中の何鹿郡鋳物師集団も敬虔な真宗門徒であり、歴史的にも鋳物師、鍛冶師が真宗と関係深いことはいわれている。真宗寺院の近隣にかつての鋳物師、鍛冶師が居住している例が多いこともうすうす気付いていた。五木氏の「鉄」の発想は本書ではそれ以上に発展するものでは無かったが、発想、着想には特異なものがあると感じた。おわり

【今日のじょん】マック隊長の具合が悪いと連絡が入った。6月23日見舞いに行ったときは食事はしっかり取っていたみたいだったけど、今では流動食になってるそうだ。じょんにとっては社会性をつける先生だったし、海に山に活動的だっただけにつらいなあ。

寝たきりになっても愛想振りまいて、けなげな隊長である。(6/23)

【作業日誌 7/5】畑のネット張りまくり。

 

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雨読 「親鸞と被差別民衆」

2015-07-04 | 雨読

2015.7.4(土)曇り

 実はこの間沢山の本を読んだのだが、雨読に書かないので記憶が無くなってしまっている。だから余計筆が進まない状況となりどんどん溜まり、将に悪循環となっている。当面思い出しながら書いていこうと思うので、興味の無い方には誠に面白くもない記事となるだろうが、おつきあい願いたい。
 「親鸞と被差別民衆」河田光夫著 明石書店 1994年11月第一刷発行 古書

 「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。」「歎異抄」(たんにしょう)に出てくる親鸞のことば、いわゆる悪人正因説は誰もが聞いたことのあることばだろう。歴史の授業では必ず出てきたし、一体何のことだろうと考え込んだり、チンプンカンプンな先生の説明を聞いていたことが思い出される。それから数十年そのことについて考えることもなく、ましてや研究をするでもなく過ごしてきた。
 本書は実に丁寧にその意を明らかにされている。まず悪人とはなにかということが重要になってくるのだけれど、河田氏はケガレ差別(室町期)より以前に悪人差別(鎌倉期)があったと説かれている。文献に出てくることばを丁寧に拾って時代別に検証すると確かに悪人という差別が考えられる。後半に資料があるのだが文献で悪人と書かれているものは、蝦夷(えみし)、濫僧(ろうそう)、、犬神人(いぬじにん)、癩者、屠児(とに)、狩人、漁民、商人、女性、武士(平安期)、悪党などとあり、農民以外はすべてが悪人になりそうである。ちなみに悪人善人というのは今で言う悪い人、良い人でないことは言うまでも無い。
 悪人が往生を遂げる確かな原因であるという親鸞の思想は実に素直に書かれているのだけど、ここでは伏せておこう。知りたい方はいつでも本書をお貸しするので読んでいただきたい。ヒントは「他力をたのみたてまつる」ということだろう。

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一世紀を生きるということ 7/2

2015-07-02 | 日記・エッセイ・コラム

2015.7.2(木)晴れ

 わたしの母親は昨日100才を迎えた。その前日にお祝いに行ったのだが、百才を生きるかっと言うのが実感である。「風雪百年」と書いたのは9年前で、百才まで頑張れという思いで書いたのだが、ほんとに百才を迎えるとは想像だにしなかった。このつたない書と水上勉先生の「ブンナよ木からおりてこい」をプレゼントしてきた。

 車いすの世話になることもなく、認知症の疑いもなく、本や新聞を読んでいる百才というのは何なのだろうか。今日ではめずらしくもないことなんだが、少なくともわたしの周囲にはこのような人物はいない。
 帰りに山ちゃんと中野ちゃんに会ってきたのだけど、やっぱり誰が亡くなったなんて話が出る。百才まで30年以上の歳月が残っているが、わたしどもはそうもいくまい、そろそろ準備の準備でもはじめようか。

【作業日誌 7/2】終日草刈り
【今日のじょん】外に出るとすぐに草食っている、やっと胃腸の調子は良くなったようなのだが、、。薬を止めたせいなのか足の調子はよろしくないようで、ままならないことである。この騒然たる草は今日きれいに刈り取られた。

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