晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

バスで行く大栗峠2-(3) 8/31

2018-08-31 | 山・峠

2018.8.31(金)曇り

 峠にたどり着くときのあの達成感というか安堵感というかあの妙な嬉しさはいったいなんなのだろう。特にこの大栗峠は上林のどの峠にも無い開放感と清涼感がある。荒れて殺伐とした峠や植林が生い茂って陰気な峠が多い中でここは格別である。疎らな闊葉樹と閉塞感の無い広い空間、四方に向かう山道がしっかりと区別でき、古の往来人の姿を彷彿とさせる。しかしなんといっても二体の地蔵様は大栗峠の主人公である。このお地蔵様に会うために登ってきたと言っても過言ではない。遠くに居る恋人に会えたときのような嬉しさがこみ上げてくる。

2013年7月によだれかけを着けた。
 大栗峠自体の謎は数多くあるのだが、既に公表しているのでここでは略そう。ただ気になるのは数年前に桜井さんが着けてあげたあのよだれかけはどうなったんだろうということである。
 そしてこの峠にもうけられた看板にもこれまで同様の傷がある。これはもう間違いない、鹿の食害である。人工の板を食べるかなあといぶかしく思ったが、峠下の林道から山上の峠まですべての道標が同じように傷ついているのは鹿の食害であると納得いく。立っているものはその下側、突き出ているもの(倒れた椅子など)はその突き出た部分を食われているのだ。こんな板がおいしいはずが無いと思うのだが、ご丁寧に塗られたニスがその原因なのではないか。ニスには膠(にかわ)が使われているそうだ、これが鹿の好む臭いを出しているのではないか。こんなものまで食害に遭うとしたらなんともやるせない気がする。


峠東側の四角い平地(2018.4)
 大栗峠の謎については略するとしたが、例の東側の広場について考察しておきたい。この広場については、茶店があったという噂もあり、人馬の休憩場所、荷物のデポジットなどの予測をしていたが、先日清水鋳物師の末裔である井関家の奥さんに「大栗峠の通行証となる木札があったよ」と聴いて新たな想像が沸いてきた。通行証があるということは藩が通行人や物資の管理をしていたということで、関所とまで行かなくても役人が通う簡素な建物があったのではないだろうか。そうすれば城下(しろした)から峠に至る山田道が政治的な道だとする私の説も頷けることとなる。広場のある大栗峠も木住峠も主要街道であり、藩境でもあるのだ。
 そんな思いを残しながら、弓削道への稜線を辿る。つづく

【今日のじょん】今日はじょんの定期検診、体重はやや減少でコントロールの効果あり、問題の
赤血球の値はやや上昇して、鶏肝効果ありかと大喜び。じょんは久々のドライブで喜んでいるが、じょんゲル係数が高くなるのは困りもの。

家帰ってきてぐったりしているところ。

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バスで行く大栗峠2-(2) 8/30

2018-08-30 | 山・峠

2018.8.30(木)曇り

 ようやく大栗峠取り付きに着く。気になっていたやっつけ仕事の登山道も何とか無事に残っている。ところがこの取り付きに立てられた立派な立て看板に妙な傷跡を見つける、看板の下側が剥がれているのだ。ここまでの林道にある道標も倒されて、裏側に妙な傷がある。この間大雨もあったし台風もあったので雨風の影響でついたのかなとさほど気にしなかったのだが、後々驚く結果となる。

 アプローチの林道の道標、妙な傷があるが気にもしなかった。杭は簡単に抜けてしまった。
 
4月に下ったときの取り付き部分、看板はきれいなままである。
 和知側のこの尾根道には多くの謎がある。一つは本来の取り付きはどこだろうと言うことだ。昭和55年に整備された道は現在の取り付きから左の谷の林道に入り、300mぐらいで右の斜面に取り付くというものである。2011年にそのとおり辿ったのだが、斜面の道は発見できず無理やり斜面をよじ登った。その当時の大栗峠からの記録を見ると、斜面に下る地点が見つからずに尾根末端まで下ってしまったというのが多かった。実はその尾根末端の道こそ本来の街道道で、明治28年陸地測量部の地図を見ると現在の道よりやや右寄りの所から取り付いたものではないだろうか。55年の整備がなぜ左の谷を選んだのか不思議だが、尾根末端の傾斜がきついこと、植林が進んでいたことなどが予想される。地蔵堂からの谷沿いの旧道と本来の取り付きはいずれ探してみたい。
 二つ目の謎は尾根に上がったところにあったという茶店の跡である。ちょっと広くなった所にかつては茶店の残骸の木材があったというから、本当に存在したのだろう。そのちょっと広くなった所てのが解らない。いつも気をつけて歩いているのだがそれらしき地形には見当たらない。これもいつか見つけたいと思っているのだが、茶碗のかけらでも見つかれば大発見である。
 三つ目は上部の六地蔵である。「北山の峠」の著者、金久昌業氏が「10年程前は六地蔵があったのに、その後他の五体はどこに行ってしまったのだろう」と書いておられる。この地に放置された瓦を見ると、それなりの建物があったと思われる。平地の広さから見ても六地蔵があったと考えられる。人が歩かなくなって、里に下ろして安置すると言うことはよくあるが、それだと一体だけ残すことは無いだろう。これは歩いているだけでは解決しない。里で古老の話でも聞かなければ解らないことだが、そこまでできそうにない。そしてもうひとつ、この地蔵堂は道を挟んで人馬のくぐれる屋根があったと言うことだ。この噂、伝説がどこから出たものか解らないのだが、いくら場所が広いといってもそこまではないだろうと思われる。残された瓦の数からも六地蔵のお堂分はあるが、おおきな屋根には無理だろう。

左:残された地蔵様にはお堂が作られた。倒れた椅子の脚にも妙な傷がある。
中:地蔵様は苔が生えているが、なかなか良いお顔をされている。
右:残された瓦、鬼瓦もあり立派なものである。
 四つ目はこの尾根道の広さと分岐道の存在である。これは前回
山行の際に書いたので略するが、分岐の道は時間があるときに確認してみたい。
 地蔵堂を過ぎると大栗峠は近い。つづく

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バスで行く大栗峠2 8/28

2018-08-28 | 山・峠

2018.8.28(火)曇り

 4月にバスで行く大栗峠、山田道から和知へを行ったので、今回は和知から弓削道へ下りるコースを行う。

メンバー:小原英明、工忠照幸

タイム:和知中学校前 8:05  下粟野公民館前 8:20 町営バス300円
    バス停出発  8:30   明隆寺参拝  8:45出発
    山の家前着  9:30
    大栗峠取付き10:30   10:40出発
    六地蔵   11:10   11:10出発
    大栗峠着  11:30   12:00出発 昼食
    弓削着   13:10
    あやべ温泉着14:00

 バスで行くったって、和知から上林へのコースは前回のように公共交通機関のみで回れるわけではない。和知駅から仏主方面へのバス始発は8:02でそれに間に合うJR線はあるが、列車に間に合うあやバスが無い。やむなく車で和知に行き、下粟野までバスを利用する。バスを利用したのはこの間だけだ。
 今回は丹波西国三十三カ所巡りも兼ねての山行なので、地下足袋も白い祭り足袋に換え、金剛杖、白手ぬぐいに桧笠の巡礼スタイルにする。
 下粟野公民館前でバスを降りると、拝めない。すぐに丹波西国三十三カ所27番札所の明隆寺である。山号が寿命山というから寿命延ウォーキング主催者として縁を感ずるお寺である。まず隣にある阿上三所神社(あじょうさんしょじんじゃ)にお詣りする。

阿上三所神社は和知町内に4柱あるそうでこの上和知川沿いに2柱(下粟野、細谷)そして坂原と本庄にある。坂原の神社はウオーキングの催しで訪れたので、あとは本庄のみだ。その際この妙な社名のゆかりを訪ねたのだが、解らないとのことだった。
 明隆寺の観音堂は室町後期の創建ということで、随分立派なお堂である。建物が国の重要文化財の指定を受けているというのも頷ける。等身大の観音立像があるそうだが、60年に一度の開帳というので、次は2060年だそうだ。残念ながらわたしは拝めない。

観音堂は実に立派、観音立像は2060年にご開帳。
下粟野から上粟野までの2Km余りの道は上和知川に沿った府道を行く。この府道が51号線で、舞鶴から上林の草壁に繋がっている道なのだ。和知と上林の間の山並みに遮られ途切れてはいるが同じ府道なのだと思うと何か親しいものを感じる。細谷にくると例の阿上三所神社が川向に見える。道路からお参りさせてもらう。きれいな水の上和知川と山と田んぼの風景は日本の原風景のようで嬉しいねえなんてしゃべりなから歩いていると、とっても素敵な藁葺きの一軒家が
現れた。

上和知川沿いの風景の良さは車やバスからでは解らない。

 上粟野の集落から林道を入っていくと防獣柵がある。ここで嫌な舗装道路ともお別れだ。登山靴でも地下足袋でも舗装道路は足にくる。特に膝に疲れがたまるので、どうやらその硬さが原因のようだ。上粟野から大栗峠の取り付きまで一時間、実に退屈な林道歩きだ。せめて流されて無くなった地蔵堂からの谷筋の道でも整備して頂ければこの退屈さから解放されるのになあと思うが、まあ望むべくもないところだ。つづく

 
 


 

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真夏の狂言大作戦 8/25

2018-08-25 | 文化に触れよう

2018.8.25(土)晴れ

 えふさんのプレゼントが当たって茂山一門の「真夏の狂言大作戦」という花形狂言を観に行った。花形狂言って何?

開演前の案内から面白い。
 コント、芝居、演芸、マイム、歌舞伎etc・・・あらゆる「おもしろさ」のエッセンスを土台となる”狂言”の手法に乗せてお贈りする、まさに新感覚の舞台!(パンフレットより)てのが花形狂言らしい。
 というわけで本来の古典の狂言は『蝸牛』(かぎゅう)だけであとの「伝統はたえた」「すなの、しろ」「守り神」「山伏と死にかけ」はいわゆる花形狂言なのだろう。
 いや~これが実に面白い。腹から笑える作品ばかり、もとい「すなの、しろ」だけはよくわからなかったが。

終わったらサイン会が始まる。
 「すなの、しろ」はタイトルの意味も解らなかったので、帰りがけに茂さんかに聞いてみたのだが、「僕もわからんのです、童司に聞いてみてください」とのことだった。童司さんのところはお客さんが多くて結局聞けなかったのだが、まさか「砂の城」の意味では無かろうと思うのだが思うのだが、さて。
 大満足で帰りには手ぬぐい買って、千五郎さんと逸平さんにサインもらってきた。

【今日のじょん】先日サチの家に寄ったら、いつもの場所に姿が見えない。小屋も妙に片付いている。
近所で聞いたら14日に亡くなったとのこと、17才だったそうだ。運の強い子だったけど17才なら大往生かな。じょんともがだんだん少なくなってさみしいことだ。


 

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地球環境と縄文文化 8/21

2018-08-21 | 文化に触れよう

2018.8.21(火)晴れ

 ふるさとミュージアム丹後(宮津市)で開催されている企画展のタイトルである。26日までの開催なので今日が最後のチャンスなのだ。縄文時代とはどのような時代であったのか、地名や言葉を研究する際にそれを知ることはつとに重要である。今、東京国立博物館で「縄文ー一万年の美の鼓動」展が開かれている。縄文時代の著名な土器や土偶などが一堂に展示されており、縄文文化の美術的な面や縄文人の精神性をうかがうのに最高の機会である。残念ながら東京まで行けないので、宮津に出かけたわけだが、この企画展では縄文期の自然環境、特に気象変動についての視点で縄文文化をとらえており、大変参考となるところが多く有意義な企画であった。

ミュージアム丹後から阿蘇海の景色はお気に入り。
 縄文時代の季候と言えばやはり縄文海進である。三内丸山遺跡を訪れた際に、その地がかつて海岸沿いであったと聴いて縄文海進を実感したのであるが、実際に気温や海進の度合いはどのようなものだったのか自分自身定かでない。
 1万6千年前から今日までの気温変化の表があり、意外なことがわかる。日本列島における人類の活動は間氷期といわれる温暖な気候に支えられていて、それ以前は現在より10℃ほど気温が低く、海水面は100mも低かったということだ。縄文時代早期では随分気温が低く、当時の遺跡は海底にあるかもしれないということである。さらに超高温と言われる縄文海進時でも現在より3,4℃気温が高く、海水面は4,5m高かったということである。なんだたった4,5℃の差かと思うのだが、それはとても大変なことのようだ。意外なことと言ったのは、グラフで見る限り平均気温は大きなスパンで見ると下降気味だと言うことだ。温室効果ガスによる地球温暖化などという怪しげな論が出てくるまで、多くの気象学者が地球は寒冷化に向かっていると唱えていたのはこの辺りのデータを基にしていたのだろう。

気温変化のグラフ、右端が現在。
 ともあれ縄文時代を考えるとき、4,5mの海進があったと想定することは大変重要なことである。ただし縄文時代全般がそうであったわけでなく、早期はずっと寒冷化していたし、中期には現在に近い気温の頃もあったということだ。その都度海面は上下していたことを考慮しなければならない。
 こういった気候の変動に伴い、人類の移動があったり、土器の形状が変わったりしていることが今回の企画展でよくわかった。また、水月湖(福井県)の年縞堆積物により気候の変動や地殻の変動など過去7万年の変化が正確に示されることは奇跡的なことであり、炭素同位体年代測定の世界標準に指定されたのは画期的なことである。その博物館が9月に開設されると言うことも嬉しいことだ。

年縞堆積物は地球の年輪、気候変動や地殻変動がよくわかる。
 宮津を訪れるに当たって地図を持ってきたのだが、新たな発見があった。このミュージアム丹後の隣に小松というところがあり、また6Kmあまり丹後半島を進んだ
日置に小松浜と言うところがあるのを発見した。小松地名は現在研究中で、海岸、河岸にあるだろうと予測している。両方とも訪ねてみたのだが見事に汀線から5~10m高いところに存在している。小松という地名が付いたときには汀線はそこにあったのではないかと秘かに満足しているのである。

小松と小松浜、小松浜から宮津湾を望む。かつてはここが浜だったのだろう。


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大栗峠考(51) 8/16

2018-08-16 | 地名・山名考

2018.8.16(木)曇り

 さて本題の大栗峠であるが、峠を含む山間部に付いている志古田の小字大栗が峠名の由来であることは間違いない。この大栗の地名由来については既に述べたところであるが、「刳る」からきた災害地名というのがあまりにぴったりしていて逆に不審に思っている。確かに大栗は地滑り地帯であって(J-SHIS Map)現実に大規模な崩壊が起こっており、志古田側峠道は通行不能状態である。志古田道はあまたあるルートの中で最も古い、小栗峠の元祖的峠道だと考えているのだが、なぜそんな危険な場所に道を作ったのか疑問を感じざるを得ない。

志古田道の大崩壊(2011.11)峠道は完全に寸断されている。右は谷筋から山腹に移るところの大岩。
 あやべ温泉から、畑口からいやという程大栗峠の山並みを眺め、昔の人の気持ちになって考えてみる。答えは簡単である、大栗峠が一番低いということだ。徒歩で最も早く和知に至れるのが大栗峠なのである。まだ峠道が無い時に人が山並みを越えて彼の地に行こうと思ったら、一番低いところをめがけて谷筋を詰めるのは至極当然である。谷筋は樹木も生えていないし、ルートファインディングの必要も無い。歩いていれば峠に到着する。柳田圀男氏の「峠表裏理論」にぴったりの峠が大栗峠志古田道なのである。峠道の本質からすれば志古田道が最も峠道らしい道で、最も最初に出来た道だろうという根拠はそこである。ただし最初に人が通ったのは志古田から峠まで谷筋であろう。それは峠道とはいえず、単に山脈を越えるルートである。大栗が大昔から崩壊地であっても谷筋ならば問題は無い。そして人が多く歩くようになって谷筋の脇により歩きやすい道をこしらえていったと考えられる。もちろん当初は踏み跡程度のものだったろうが、やがて人が手を入れる様になり、今日のルートに近いものができあがったのだろう。峠道が尾根の中腹に上がると、土砂崩れなどの災害に悩まされたことだろう。大栗は上林でも最大の地滑り地帯である。志古田道は補修を繰り返しながらも、洞峠とともに京街道として多くの通行人を迎え、とりわけ君尾山光明寺への巡礼道として栄えたことだろう。徒歩の通行人だけならそれで良かったかもしれないが、時代が下がって物資輸送が必要な時代になると谷筋と山腹をぬう志古田道は尾根筋主体の弓削道に主要街道の座を譲らなければならなくなったと想像する。おそらく弓削道は志古田道が崩壊した際の迂回路として既に存在していたのではないだろうか。つづく

 

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朝ご飯を大切に 8/14

2018-08-14 | 健康

2018.8.13(火)快晴

 

 これは昨日の朝食で、いつもよりちょっと贅沢なメニューとなったので紹介している。いつもと違う点はヒロコちゃんにいただいた城陽のイチジクとドンクのフランスパンである。あとはいつもの朝食なんだが、実はこれがずいぶんヘルシーなのだ。例えばバナナ、アマニ油、ヨーグルト、シナモンなどは昨今の健康番組でも盛んに言ってるように健康にいいものである。
 さらに最近よく言われる食順も大切である。まず野菜サラダ、次に牛乳入りコーヒー、バナナ、パンを食し最後にアマニ油、シナモンをかけたヨーグルトを食べておしまい。パンは普段は食パンなんだがバターやマーガリンはつけない。もちろんもっと改善の余地はあるのだろうけど、今のところこんな感じで毎朝を過ごしている。現役で働いているときは、夏など漬け物とお茶漬けで過ごしていたこともあったけど、朝に時間的余裕が出来た今はこういう贅沢な食事が摂れる。ありがたいことデス。

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布草履づくり 8/6

2018-08-06 | 健康

2018.8.6(月)晴れ

  京丹波町で布ぞうり作り体験会が行われた。以前からやってみたいと思っていたところであり、用具も自分の目で見たかったので参加する。昨日と2回開催されたので、本日はウイークディのためか参加者はやや少ない。それでも夏休み中の子供たちや親子連れも多くて盛況だった。参加費200円を払って材料をいただく。芯材となるPPロープと木綿の布で、いづれもすぐ出来るように切られている。用具はロープをかける台と鼻緒を通す竹串、ピンチ、裁ちばさみぐらいか。生徒より多くの先生がいるので、ひとりづつ個人指導してもらえる。

 簡単な道具で出来るぞ。
 芯材のロープの結び方、台にかける方法、編み始めの処理、編み方と順に教えてもらうのだが、ここは丸結びにするんやで、ここは三回捲いて、二つ飛ばして三回ほど編んでなんてやってみ見せてくれるんだけど何でそうするのか解らないからちっとも頭に入らない。第一編み始めの部分がつま先になるのか、かかとになるのかも解らないのだ。
 
こういうふうにかけるんだけど、構造が解らないから理解できない。
 それでもとにかく編んでいくと「いや~上手上手、器用やね~」なんて褒めてくれる。すっかりその気になって、どんどん編んでいくと、なんやら指が痛い、左手は編み目を詰めるために力を入れて引いているのだ。ちょうど布を織るときに櫛のような板でトントンやっている事を指でやっているわけ。見ると小指と薬指の側がずるんとむけている。布との摩擦はそうとうらしい。なんとも情けないが、バンドエイドで手当てして編み始める。そしたら今度は「あっ、一つ編み飛ばしてる」なんて言われてほどいて編み直し、なかなか難しい。特に鼻緒の付け方は先生がサッサとやられて、こちとらちっとも理解できない。そのくらいでいいでしょうてんで、ロープを台から外して中の二本をグーっと引っ張る。いやはやこれはびっくり、草履の形が出来あがるんデス。ところがすっかり縮んでしまって、子供の草履になってしまった。

第一号は自分で履けない、トホホ
 やはり二時間あまりの講習では、ザーッとこうやってやるんだなという体験だけで後は自分で勉強するしかない。道具も単純で作れそうだし、材料もなんとか手に入りそうだし、後はやってみようということだ。
 草履は家での履き物としては最高のものだと思う。それを自分でこしらえるとなればこんな楽しいことは無い。わら草履を目標にして気長にやってみたいと思う。

最終目標はこれだ。
 【今日のじょん】真夏なのでドッグランのお客様は無いだろうと思っていたら、舞鶴のモモちゃんが来じょん、日が落ちて影になってから使ってもらう。スプリンクラーも用意して結構楽しんでいたみたい。
 

 

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淳先生追悼展 8/5

2018-08-05 | イベント情報

2018.8.5(日)快晴

渡辺淳(すなお)追悼展 「この風に吹かれて」

 8月11日、12日 川上公民館(おおい町川上)
  10:00~17:00

渡辺淳回顧展

 8月20日(月)まで 若州一滴文庫(おおい町岡田)
  火曜日休館

  8月12日(日)11:00~、14:00~

  「とうすけさん笛を吹いて」~ある少年とチョウケンボウのものがたり~
   の紙芝居上映

 行けない人はじょんのびに絵本あり、挿絵は淳先生のもの 
 淳先生が亡くなられてもうすぐ一年が経つ。永遠に存在されるような気がしていたから亡くなられたということが不思議な気がするんだけど、先生の絵には一滴文庫に行けばいつでも会える。いやじょんのびの店でもいつでも会える。絵が残せる人って幸せなんだなあと思ってしまう。

赤と黒の林の絵は「ひとり」というタイトルだったか、随分気に入られた絵だったようで、あちこちに使われている。この林の風景は古和木の山やでとおっしゃっていた。

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進化する寿命延ウォーク-3 8/4

2018-08-04 | 寿命延ウォーキング

2018.8.4(土)快晴 猛暑

 裸足で歩くわけにいかないので、なるべく近い状況をと地下足袋歩行を始めたのだが、元々ウオーキング用に作られたものでないので、よりベストなものを選択しなければならない。作業用品店でもいろんな種類が並んでるのに、メーカーで作られている種類はさらに多いので履いて試す以外に方法はない。
 基本的なチョイスの条件は、なるべく底が薄いもの、12枚コハゼ、親指が独立しているもの(靴状のものもある)、エアークッションや保護金具などの付いていないもの、底ゴムのフリクションが効きそうなものとして店頭で選んだ。5本指ソックスを履いて試着する。はき慣れていないのでやたらときつい、26cmを選んだが、これは失敗。通常の靴は25.5cmを履いているのだが、ミズノで計測したらお勧めは25cmということだ。通常より0.5cm大きい地下足袋で、はき慣れると、もう指はごそごそで、かかとも余るのでハゼが外れてくる。山道を歩いていても足が地下足袋の中で踊っている。やむなくインナーを入れて履く始末となり、第一号はサイズミス。サイズはミスだったが、生地の丈夫なこと、底のフィリクション、接着状態は最高で品名は丸五ジョグという定番商品である。

 2018.3.31地下足袋ウオーキングの始まりは丸五ジョグから
丸五のジョグは理想的な地下足袋と思われるが、白色が無いのが欠点で修験道では使えない。従って第二号は丸五の万年縫付の白色を購入、もちろんサイズは25.5cmとする。これはジョグよりは造りがちゃちで底の貼り付けも生地の縫い目も弱そう、ただ値段は安くて1,400円台だったと思う。サイズはぴったりである着心地もよかったが、数回の使用でつま先がほつれてきた。接着剤で補修して履いているが、この種類は奨められない。

5,6回の使用でつま先がほつれてきた、接着も弱い。
 第三号は丸五の祭りジョグ、白色である。サイズは25.0cm、というのはこの頃は五本指ソックスはやめて素足で地下足袋を履いていたもんだからワンサイズ落としたものである。なぜ素足で履くかというと、それはより縄文の歩きに近くするためである。サイズを落としたことで不都合なことが出てきた。甲高の調節の出来ない地下足袋では甲の部分がきついのだ。わたしの足は極標準的な形だと思うのだが初めて履いたときには甲がきつかった。はき慣れるとやや緩んでくるので大事はないが、甲高の人にはつらいだろう。それともう一つ、祭りジョグにはかかとの部分にクッションが入っている。これは名のとおり祭りの際に履くために入れられているのだろう。つまりこのクッションがないと舗装路では足の負担がすこぶる大なのだ。

 第二号は万年縫付、第三号は祭りジョグ、いずれも白
 例えばジョグ(ジョグにはクッションは無い)で
山行する場合、山道やダートの林道はジョグで、その他の舗装道路ではウオーキングシューズを履くように持参していたのである。逆を返せば、祭りジョグだとこれだけで山道も舗装路も歩けるわけだ。しかし本来の地下足袋ウオーキングの目的からするとかかとのクッションは不要である。
 というようなわけですべての条件をクリアする地下足袋にたどり着かないが、今のところは日常のトレーニングはジョグを、山行には祭りジョグを使うのがベストかと考えている。

左からジョグ、万年縫付、祭りジョグ、ゴム底の性能と接着はジョグ、祭りジョグとも良好。

 

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