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晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

於見のこと-7 9/30

2018-09-30 | 上林地名考

2018.9.30(日)雨

 箕地形の地名発見に気をよくしたのは地名学者の説に「箕」を取り上げるものが居ないからだ。箕という道具が古代からの、恐らく縄文時代からの人々の生活にとって重要な道具であることが、それを地名の語源に使うだろう大きな要素となっていると考える。そんな時地名に関するバイブルともいうべき柳田国男氏の「地名の研究」に箕地名に関する記事を見つけた。
 関東などでは寄居(よりい)といい根古屋(ねごや)といい箕輪(みのわ)というのが、ともに城下の民のことであった。箕輪は突出した丘の周囲を取り囲んだの形が、箕の周囲に似ていたからであろう。
 箕輪といえば長野県伊那谷の箕輪(箕輪町、南箕輪村)が有名である。2006年自転車旅行の際、苦労した木曽町から伊那市に向かう権兵衛峠は南箕輪村の一部である。この箕輪の地名語源がどこから来ているのか解らないが、地形図で見る限りは大きな箕、それも三角形に近い形の箕
のようにもみえる。いずれにせよ箕の形状から地名を考えられたのが柳田国男氏であったことは嬉しく思う。

権兵衛峠を下った伊那谷に箕輪の盆地が広がる。
 箕輪地名を調べていると圧倒的に東北、関東に多く、関西では大阪、奈良、岡山に数箇所あるのみだ。これはどういうことかと思いをめぐらすが、箕地名そのものは西日本にも沢山有るので箕輪という言葉に原因があるようだ。では箕の元だろうムイの地元北海道ではどうだろう。箕地名は見当たらないのだが、ムイを使った山や地形の地名がいくつかある。ムイ・ネ・シリ(箕根山)、ムイ・ノカ(箕の形という意味)、ムイ岩(箕の形の岩)などだが、西日本の呉市の倉橋島東の海上に箕石という岩礁を見つけた。地形図で見ると箕の形をしていそうで、実に楽しくなった。

呉市の箕石
 地名を言葉としての概念で捉えると実に多くの可能性が出てくる。例えば中国、朝鮮からキイー(箕)として入ったはずの言葉はどうなったのだろう、木下や木内などの地名に残っていないだろうかなどと考えると無限に広がってくる。最も収拾がつかなくなるきらいはあるが、、、。とにかく永年探し求めたオオミ(大身、於見など)、ミノ田の由来が発見できたのは大きな収穫だった。おわり

綾部市老富町ミノ田とみの田橋。
 
【今日のじょん】
 気温が下がってくるとふかふかの暖かそーなグッズが続々と出てくる。じょんはこれが大好きでさっそく鍋猫じょんを決め込んでいる。
ってか。

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於見のこと-6 9/20

2018-09-20 | 上林地名考

2018.9.20(木)雨

 箕は不思議な道具である。縄文時代から存在するとしたら、何に使っていたのだろう。穀物は別としても、豆類や栗などを栽培していたことは実証されているので、おそらくそういった作物の選別や運搬に使っていたのだろう。ムイ、ミーと呼ばれて全国的に使われていたと想像してみよう。稲作が大陸や半島から伝わると、それに伴う道具類も入ってくるようになる。その中に箕(キ)もあったのではないだろうか。しかし日本列島には従来からムイが存在し、慣れ親しんだムイはキとは呼ばれなくてミーとなった。と大胆に想像すればこの奇妙な呼び名「みー」が納得できる。
 十日戎の縁起物の中に居るのは恵比寿さんと大黒さんだろうか、箕の中におられるのはどうしてだろう。箕には霊力、呪力があるとする民俗的な信仰があるようだ。子供が一歳の誕生を迎えたときに箕の中に入れて祝うという行事が薩摩にあるそうだ。他の地方でもあるのかと調べていると長野県佐久地方にもあるという。これって縄文の匂いがするのだけど、いかがだろう。

箕そのものより竹に呪力があると考えられたのだろうか。
 唐箕(とうみ)という農業用の用具がある。箕と同じように穀物などの殻や塵をより分ける用具なのだが、こちらは大がかりで、大変進んだ用具である。唐箕の名のとおり中国発祥の用具で、近世に日本に入ってきたようだ。随分優れもので、大量の穀物を少ない労力で処理でき、現在でも使われている用具である。形状は箕とはまるで違うものだが用途が同じなので唐箕と呼ばれているのだろう。

唐箕、右手にある風車を回し流れ落ちる穀物から殻や塵を吹き飛ばす。
 箕が縄文時代からの用具であると仮定して、於見やミノ田の地名を縄文人が付けたのかというとそう言うことではない。箕という農具の形状から後世の人が付けたものと考えるのが妥当だろう。於見にしてもミノ田にしても、口伝の地名が漢字に置き換えられるとき、恐らく中世から近世と思うのだが、もう箕の意味は解っていなかったのだろうと想像する。解っていれば大箕とか箕野田とかの名になっていたかもしれない。
 【今日のじょん】涼しくなってワンコも来じょんするようになってきた。

はれひちゃん10才、グリちゃん2才よいこデスねー。

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於見のこと-5 9/15

2018-09-15 | 上林地名考

2018.9.15(土)曇り

 箕地形について盛んに述べてきたが、箕(み)が如何なるものか御存じでない方もあるのではと不安になってきた。年配の方や農家では御存じと思われるが、都市部や若い方には無縁のものである。竹で編まれていて、三方に縁を付け一方を平らにして、振りながら穀物の殻や塵を分ける農具である。形は丸いものや三角のものなどもあり、材料も竹に限らず木の皮などで作られたものもある。昨今ではプラスチックのものが主流で、かつてはブリキのものもあった。アジア独特のものかと思ったが、有名なミレーの「箕をふるう人」はフランスの風景だろうからヨーロッパにもあるもののようだ。
 穀物の振り分けだけが用途でないことは、稲を作っていない我が家にも3っつもあることでわかる。土や石、草木を運んだり、野菜などの一時的な保管などにも使え、ちり取り代わりにもなる。このように手に持って使う箕を「てみ」と呼んでいる。特に石や砂利などの運搬に使うのを「砂利みー」と呼んでいた。ホームセンターのチラシに「みー」と載っていたことがある。辞書には「み」と書かれているがどうやら「みー」「ミイ」というのが本当らしい。

今はプラスチック製だが本来は竹製(写真は玩具)である。

 箕が古代から存在しないと「於見」「みの田」の箕地形説はあり得ないこととなるので、上代語辞典で調べてみる。播磨風土記や天平の古文書にも登場するのでかなり古い代物であることが解る。ではいつ頃に登場した農具なのかと考えるに、やはり弥生時代あたりに稲作と共に江南地方や朝鮮半島から入ってきたものと考えがちなのだが、どうももっと古くから日本列島に存在したのではないかとみられる事象が出てきた。
 漢和辞典をみると「箕」キ、jiとよみ、字義として「ミ」となっている。韓日辞典でもよみはキ、キイである。今、朝鮮から日本に言葉が入ってきたときにどのように変化するか研究中なのだが、キがミに変わることがありやなしやというところである。それよりも有力な語源を見つけた、アイヌ語で箕はムイなのである。ムイがミイに変化するのは充分に考えられる。アイヌ語が縄文語のガラパゴス的な生き残りとすれば、箕(ムイ)は縄文時代からあったということになり、大陸からキが入ってきても変わらずにミイとなったと考えられる。縄文時代に箕が存在したという直接的な証拠は見つからないが、竹は縄文時代には存在しており、福島県荒屋敷遺跡(縄文後期)からは編まれた竹製品が出土している。孟宗竹の北限は北海道松前町と言われているようだが近世に移植したものとも言われているようだ。縄文時代はもっと気温が高かったので北海道でも竹林があったかもしれないが、アイヌのムイは木の皮などで作られたものだろうと言われている。つづく
 

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万引き家族を観る 9/14 

2018-09-14 | 文化に触れよう

2018.9.14(金)雨

 久々のカンヌ作品賞というので「万引き家族」を観に行く。地方のこととて遅い配給なんだが、待っている間が楽しいというものだ。前回受賞の「うなぎ」は観ていないのでその前の「楢山節考」は1983年の受賞だそうだ。30数年前に観た映画だが、がっかりしたのを憶えている。ストーリーは知っていたので期待して観たのだが、情景がやたら明るく、登場人物も肥え太っていてとても姥捨てをしなくてはならない貧しい村に見えないのだ。映画の見方としてそういうことは関係ないのだろうか。

 さて今回の「万引き家族」だが、現代の社会、家族の問題を赤裸々にえぐり出した優れた作品だと感じた。さすがにパルムドール受賞作品だ。ただわたしの場合どうしても小姑的な見方をしてしまい、納得のいかない場面がいくつかあった。例えば家族の生活は極貧という設定なのだが、夫婦二人の稼ぎとおばあちゃんの年金であの生活ぶりなら決して極貧では無いはずなのだ。風景やストーリーからみると現代の話だと思うのだが、信代がクリーニング店を失職しても他にいくらでも働き先はあるだろうと思うのだ。かみさんは「そんな重箱の端をつつくような、、、」というが、そういうことって作品の信頼度という意味では大切なことだと思う。例えば時代物などで出てくる場面の時代考証のなってないものなどいくらストーリーが良くても感動することは無い。
 そんなこんなでこの映画のモチーフを確認すべく本を購入することにした。

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於見のことー4 9/10

2018-09-10 | 上林地名考

2018.9.10(月)雨

 地名探究をするとき、同じ地名、似かよった地名を各地に探すのだが、対象となる地名の場所から近いところ、現地に出向いて見ることができる範囲を重要視する。それは遠く離れた地域では言葉の意味が変わることがあること、狭い範囲だと同じ文化、同じ言葉で暮らしている人たちが同じ意味の地名を付けるだろうという発想からである。従って於見(おおみ)という地名についても奥上林を中心に類似地名を探した。

綾部市老富町のミノ田、典型的な箕地形だ。みのだ橋の向こうがミノ田。
 老富町栃にミノ田というところがあり、府道からみのだ橋という橋が架かっている。何の変哲も無い橋なのだが実はこの橋はフォーク歌手の岡林信康さん作詞作曲の「橋~”実録”仁義なき寄合い」というとてつもなく面白い歌の舞台となった橋なのである。登場する人物、長さんも綱ちゃんも栃に実在された人物で、その最後の綱さんが昨年亡くなられた。栃に住まいしていた岡林さんは小学校の校歌とこの橋を残して上林を去られたわけだが、先日この校歌を生で聴いて実にいい曲だと感激した。

上林小中一貫校の体育館にかかっている岡林信康作曲の校歌
 みのだ橋の先がミノ田で現在二軒の民家がある。一軒が綱さんのお宅で、上林の古いことは何でも聞いていたので亡くなられたのはとても残念だ。ミノ田の北には栃の墓地があり、謎の石盛がある。橋のたもとの公民館では大唐内の人々が座談会を開いてくれたり、その横の谷は風呂地名の研究で訪れたりとにかく縁の深い場所である。そのミノ田、みのだ橋について一体どういう意味だろうと十年近く考えてきたのだが、簑が先に立って少しも考えが進まなかった。今回箕地名を探すに当たってミノ田を思い出し、地理院地図を開いて驚いた。ミノ田こそ正真正銘の箕地形なのである。ミノ田は簑ではなく、箕の田だったのだ。田は田圃ではなくところを表す言葉で、箕の形をしたところという意味になる。於見のすぐ近くに箕地名を見つけ、ひょっとしたら同じ人物が命名したのではないかとさえ想像できる。「そんなことは無いだろう」と誰もが思われるかもしれないが、地名といえどももとから付いているわけでなし、誰かがどこかで命名するものなのだ。
 次に箕とは如何なるものか、箕という言葉についても検証してみたい。つづく

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於見のこと-3 9/8

2018-09-08 | 上林地名考

2018.9.8(土)雨

 次に行う作業は、各地のミ地名のところを検証することである。それらが箕の形をしていればミ=箕説が正しいことが解る。
 三和町大身は大字なので地域が広い。全体が箕の形をしていると言うことはなく、小さな箕地形もはっきりしたものは見当たらない。ただ前述したように川畔の袋地形は見つかる。考えてみれば袋地形の入り口が広がったものが箕地形だから、袋状のところを箕と呼んだのかもしれない。そうすると鏡味完二氏の言うところの「オーミ=川畔の袋地」というのも当を得ていることとなる。
 大原大見町も顕著な箕地形は見られない。ただ大見川の上流部分は四方が山で遮られており、南東に大見川が抜けている。河川により作られた袋地形とはいえないが口の閉じられた袋のような地形である。
 園部町大戸に大見谷という谷が流れている。桂川に注ぐこの谷間にも箕地形らしきものは無い。谷の両脇は200m程度の尾根が連なり、出口付近はやや狭まっている。谷全体を大きな箕とみることは出来るがそれは地形図で見てのことであって、この谷の命名をしたおそらく古代人の目にどのように映っていたかは解らない。面白いのは谷を詰めて峠を越えて園部川に下ったところに、八木町室河原大見谷(大美谷)という地名がある。ちょうど園部安全自動車学校があるところだが、谷の様子はなく、大見谷に抜ける道という意味では無かろうか。
 和知町に大簾(おおみす)というところがある。京都縦貫道の大簾トンネルの下にある谷間の集落であるが、かつては田辺(西舞鶴)から京に向かう街道の村で、京に向かう草尾峠や七谷峠、大原(三和町)に向かう奥山峠などをひかえる交通の要所といえる村である。同地にある熊野皇神社はかなり古い信仰地であるようだ。大簾とはなにやら古い伝説でもありそうな地名であるが、大箕州(棲)の意味ではないかと想像していた。期待しながら地形図を見るが、典型的な箕地形は見られないし全体の形も箕とは無関係だ。ミのつく小字はないものかと探すがそれも無い。大字の地名を研究するときその中の小字を探す、小字の地名が大字の地名になることがあり、小字の地形が重要になってくるからだ。そしてもう一つ、その村のかつての中心地を探るときには神社を参考にすることがある。

2012年大簾を訪れたときは神社ばかり見て、向かいの州には意識が無かった。
 大簾の熊野皇神社を見ると、その前に広々とした田圃が広がっている。地形図で見ると大簾川の蛇行によって出来た三角形の州である。広いと言ってもこの谷の中では広いという意味だが、この形状は箕と言えなくはなさそうだ。神社の近くにミヤノワキ、宮の向という地名があるので神社の位置や流路は古代と変化していないと考えられる。もし大簾の由来がこの神社前の州であれば「大箕州」あるいは神社に対する敬称を重ねて、「大御州」となるのかもしれない。

大簾(京丹波町)の熊野神社の向かいは三角形の州になっている。

 明らかに箕の形状の地を発見できず少なからず落胆していたとき、決定的な箕地名を発見した。つづく


 

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於見のこと-2 9/7

2018-09-07 | 上林地名考

2018.9.7(金)雨

 ウオーキングの研究を始めて三年目、あらゆる資料や書物を調べたが歩きや足について最もわかりやすく、理論的に納得のいくものは、近藤四郎著「足の話」岩波新書だった。1979刊の古典であるが、裸足、素足が最も良いというはっきり書いているのはこの本だけである。この本の中に坐位として12態の座り方の写真がある。(入沢達吉、1921による)と書かれているので実に100年近く前の写真だろうか。正坐に始まりあぐら、跪坐とつづくのだが(4)箕踞(なげ足)が目についた。両足を少し開いて投げ出して座るのが箕踞なのだが、なんで箕なのか、なんて読むのか気になった。

1979年発行の「足の話」の中に座り方の種類が載っている。右:これが箕だ。
  国語辞典、漢和辞典で調べると読み方は「ききょ」、箕は三方に縁をつけ、前方を平らにしてそこから塵などを吹き飛ばす、、、などと書かれている。要するに投げ足の投げ出した足が箕の縁と同様の形だと言うことだ。これって於見の地形と一緒じゃないかと気づき、早速現地を見に行く。地形図や航空写真で解るのだが、地名をつけた古代の人々は自分たちの目で観るしかないはずだ。
 高鳴る胸を抑えて車を降りる。予想通りだ、集落の上から左右に尾根が下りてきて、大きな箕の中に集落がある感じだ。

左足、右足、真ん中に集落がある。
 やっぱり於見の見(み)は箕だったのだ。多くの地名学者が”み”は水と捉えて実態と合わない説を唱えている。箕と捉えたのはわたしが初めてだろうと悦に入る。しかし喜んでばかりはいられない、他のオオミ地名でも実証しなければならないし、箕という言葉についても調べなければならない。例えばオオミ地名は古代に付いたものと考えられるから、箕がそれ以降出現した品物であればミ=箕は成り立たないこととなる。つづく

【今日のじょん】久々にマイちゃんが遊びに来てくれたのだが哀しいニュース。じょんの初恋のサリーちゃんが昨年亡くなったんだって。またじょんともが少なくなった。こうなったら最後のONEまで生き延びるぞ。

サリーちゃんとサチの写真は探しとくね。

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於見のこと-1 9/6

2018-09-06 | 上林地名考

2018.9.6(木)晴れ


 綾部市光野町にある集落於身(おおみ)はあやバスの終点で、バスの案内表示を見て誰もがその地名を知っていると思うが、地元の方以外は「なんて読むのだろう」と思われたに違いない。

あやバスの終点於見集落
 子供の頃京都でバスの行き先を見て、「物集女」「玄琢」ってなんて読むのだろうと思っていた。わたしのふるさと三和町には大身と言うところがあり、気になっていた。金属地名にかぶれていた頃、「おおみの”み”は実のことで鉱脈のこと」という説を読んで大身や於見を調べてみた。大身には石灰岩が採れたそうで、かつては石灰(いしばい)が生産されていたこと、於見では文政年間に近在で金の試掘があったと言うことを知った。やっぱり鉱脈かという思いもしなくはないが、古くからの大きな鉱山ならともかく近世に至っての試掘では地名として残るものではない。むしろその地名をもとに試掘や採掘が行われることはあり得る。瑞穂町や三和町の保井谷、京北町などの足谷などは地名から鉱脈を探した跡が見られる。もっともこれらは丹波に著名なマンガン鉱である。

綾部市光野町於見(クリックして拡大)

 おおみは一般的な地名で、上記の他に左京区大原大見町や大見谷の地名は各地にある。於見もかつては於見谷村と呼ばれた。一般的な地名だけに地名に関する辞書、事典にしっかり掲載されている。
 地名研究者のバイブル「地名の語源」鏡味完二著では次のように書かれている。
 オミ・オーミ (1)オー(大)ミ(水)川畔の袋地(2)谷奥・湾の奥(原意はオクミか)(3)アマミ

 アマミとはなにかといえば(1)アマ(海)ミ(水)(2)アマミ神にちなむものとある。

 他の地名関係書籍も鏡味氏の説に倣っているようで同様の意味が書かれている。実際のオオミを見るとき、(2)、(3)はいずれも該当しなくて(1)だけが一部一致している。大原大見町と三和町大身に袋地形らしきところがあるにはある。袋地形というのは河川の蛇行によって土地が袋状になっているところを言い、池袋、袋田、袋、沼袋などといった地名となっている。袋田の滝で有名な茨城県久慈郡大子町袋田など典型的な袋地形がある。

袋田、袋田温泉のところは典型的な袋地形である。
田というのは田圃ではなくてところを表すのが一般的である。

それに川畔の袋地形がなぜオーミなのか判らない。大水というのはいったい何なのだ。まして川畔の袋地形ならオーミでなくて袋地名をつければいいことであって、オーミ=川畔の袋地形というにはなんの説明にもなっていない。そういうわけで於見、大身の地名は納得がいかないまま何年も過ぎることとなってしまった。そして今年の春、意外なところでその語源を発見することが出来たのだ。つづく


 

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バスで行く大栗峠2-(4)

2018-09-03 | 山・峠

2018.9.3(月)晴れ

 小栗峠から山田弓削分岐までは稜線下のトラバース道である。峠から谷に下りずに稜線を辿る道の作りが木住峠清水道と同様でしかも広くて立派である。

右ゆげ道、左志ろ下(山田道)、行者スタイルも板についてきた。
「北山の峠」の金久昌業氏はどちらもそれが本道である旨書いておられるが、本道が本来の道という意味ならそれは間違いであろう。弓削道、清水道は後から必要に迫られて作られた産業道路だろうと考えている。どちらの道も峠に達するには遠回りである。しかし傾斜は緩く急なところはつづら折れになっている。そして牛馬、荷車の通行できる広い道なのだ。特に清水道は田辺(舞鶴)から京に向かう道としてはまるで逆方向に向かっているのだ。金久氏のただ道の広さだけをもって「本道かもしれない」というのは短絡的である。木住峠清水道は明らかに清水鋳物師の原料、製品の運搬用道路であると考えられる。井関家に大栗峠の通行証の木札が残っているというのは、大栗峠弓削道も清水鋳物師にとっては重要な輸送路であったに違いない。

こんなに広い峠道は弓削道、清水道だけである。
 今回の山行で弓削道に新たな発見があった。弓削道の中間点辺りに道が二手に分かれ十数メートル続いているところがある。その道は並行に並んでおり、その間は土手状の土盛りとなっている。この場所があることは従前から気づいていたが、特段気にも留めていなかった。ただ清水道を歩いたときに、尾根を登り切った地蔵堂の所に同じ状態の道を見つけ、弓削道にもあったことを確認したかったわけだ。
 これは休憩場所だと考えられる。歩くだけの通行人ならどこでも休むことは出来るが、牛馬、荷車となると行き交う人の邪魔になる。まして何台も荷車を連ねていたらなおさらである。脇道に荷車を並べておけば支障は無い。清水道では急な尾根を登り切った地蔵堂の所であり、弓削道では中間点辺りの傾斜が緩くなった所で休憩場所としては絶好の位置である。

パーキングエリヤか?
 もちろんすれ違いの牛馬荷車の待避場所としても利用されたと思うのだが、そうなると時間的な調整はどうしていたのだろう。いくら道が広いからといってもつづら折れの部分など牛馬荷車ではすれ違いは困難である。待避場所で待っていればいいのだが、相手はいつやってくるか分からない。列車のように時間が決まっている、峠や麓で狼煙を上げて出発時間を知らせる、先行の者を走らせて相手に知らせるなど色々考えるのは楽しいが、実際にどうやっていたかは判らない。
 長い下りで膝がガクガク言い出した頃に弓削の家並みが見えてくる。谷にコンクリートの白い橋がかかっている。桜井さんが「新しい橋をかけたで」とおっしゃっていたが、なんとも立派な永久橋だ。初めてこの峠道を下ったとき、腐れかかった土橋を倒木の桜を頼りにおそるおそる渡ったのが懐かしい。

防獣ネットは開けたら閉めること
 当初の予定では光明寺まで参って観音巡礼のまねごとでもしようかとしていたのだが、山道はともかく舗装道路を歩くのは強烈に疲れる。あっさりあやべ温泉で諦めて今回の山行はおしまいとする。おわり

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