晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

鹿事件 2/28

2015-02-28 | 日記・エッセイ・コラム

2015.2.28(土)曇り

 長い間鹿衝突事件は起こらなかった。いや起こっていたけれど気付かないほどの軽微なものだったのかもしれない。今日の0時過ぎ、ドンという音がして車が路上に停まっている。運転の方は車の点検などのために降りてこられていたが、けがなどは無いようである。エアバッグも作動していないようで、しばらくして走り去った。エンジン、電気系統の故障も無いようだ。問題は鹿の遺体である。暗闇で解らないのだが、どうもそこいらに見当たらない。過去に下の府道で5回衝突事故が起きているが、遺体の行方不明が2回、そのうち1回は2年後に竹藪の中から白骨となって出てきた。
 鹿の遺体が見つからないことで問題なのは、その処理のことである。道路上で見つかれば道路管理者が処理してくれるのだが、私有地で発見されたら地主の責任となるわけだ。遺体処理の原則は穴を掘って埋める事のようだが、そんなことが個人で出来るわけが無い。鹿の遺体となると100Kgは越えているだろう。自分の土地で倒れたとしたら、一刻も早く発見して道路に運び出す手だ。落語鹿政談に出てくる奈良の鹿そのものだ。
 とりあえず自分の土地をぐるりと見回る、どこにも見当たらない。次に近所をくまなく見回るがやっぱり見つからない。遺体があればおびただしいカラスが集まってくるのだが、それも無い。うむ、遺体無き殺鹿ということだろうか。
 あらためて現場検証をすることとした。車は奥から走行してきている。衝突現場は隣家との間の道路と向井の空き地の間の府道、これは破損した車のプラスチック片などの状況から想像できる。

衝突現場は歩道の分離帯切れ目のセンターラインあたり。車は左から来ている。
この場所は鹿の通路であり、過去の事故の半数以上はこの場所である。ただ、いつもの場合残っている鹿の血痕や体液などの汚れやスリップ痕は見られない。つまり運転手の方は衝突するまで気付かなかったのだと思われる。衝突後、車は無事に稼働していたしライトも点灯していたので、致命的な故障とはなっていないようである。エアバッグも作動していないようで、鹿も致命傷となっていないとすると、車の端に当たった軽い衝突なのかもしれない。ただし車の破片は50mくらいの拡がりをもっており、ドンというかなり大きな音を聞いていることを思えば、車のスピードはそれなりに出ていたのではないかと想像できる。

 この時期山にも里にも食べ物がないため鹿の出没は強烈である。現場付近の斜面の足跡もいつも以上に多く、我が家の蔦を始め龍のヒゲやそれに類する草がことごとく食べられている。おそらくこれらを食した後、道路に出たところで衝突したのだろう。衝突地点から10m離れた歩道に、車の破片と共に鹿の体毛が束になって落ちていた。おそらく衝突時のものだろう。不思議なのは衝突した後、鹿がどのように逃げたかということである。

食い荒らされた痕、残された鹿毛、歩道部分のみ破片を集める。
 衝突場所から下20mあたりの歩道側にまとまった鹿の糞が残されていた。よく観察すると衝突現場からぽろぽろと落ちており、まとまった糞の周囲にも散らばっている。もし衝突のショックで脱糞しながら移動したものなら、鹿は北側綾部方面に逃げたものと考えられる。例え致命傷を負っていなくても、骨折とかしていれば鹿は生きていけないものだろう。どこかに遺体がないかこの方面を探してみよう。

残された糞、衝突現場までパラパラと続く。
 今回事故に遭われたドライバーの方には大変気の毒に思うが、いつもこの道を通られる方なら、我が家と隣家の間の道路は鹿の危険があるので充分に注意していただきたい。

【作業日誌 2/28】店先バリアフリー完成、経費2,631円
 一応店周りのバリアフリーシリーズはひとまず完了ということにする。もちろん不充分なんだが、なんで新築の際に徹底的にしておかなかったのかと悔やまれる。

コメント (1)
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大唐内のこと(93) 大唐内地名考-8 2/27

2015-02-27 | 大唐内のこと

2015.2.27(金)曇り、雪
 
 大唐内が河内地名であると断定したのだが、河内が唐内に転訛した例は他に見られない。どうしても涸地の意味が気にかかる。涸が唐に転訛している例は、唐沢、唐古、唐木田など沢山ある。「地名の語源」(鏡味完二)をみていると、ガラ(1)小石、土と石の混じったもの。〔唐内(ガラチ)〕とある。大唐内には丸山をはじめとする周辺の山々からの崩壊土石の堆積があることは間違いないだろう。丸山の丹波側は風化が進み強烈なガレになっており、丸山の尾根から大唐内谷に降りる斜面もガレ場がいくつかあった。砂防堰堤から上流は完全に岩石土砂に埋まっており、伝説の鬼の洗濯岩も埋没してしまった。しかしこれは堰堤がつくられたことと、28水はじめ強烈な水害によるものと考えられる。
 仮に砂防堰堤などの対策がとられていないとしたら、あの膨大な土砂は大唐内全体に堆積すると考えられる。つまり人々が住み着いて、豊かな耕作地が広がった村を見たら、これは河内集落だなあと思うわけだけど、それは最初に入植した人々から何千年にもわたって住みやすく、豊かな耕作地をつくるために汗してこられた賜であろう。だから大唐内という地名が出来たときには一面小石と岩石の野原であったかもしれない。
 このことは地名の語源を探るとき、現在の姿を見るだけでは不充分なわけで地名が発生しただろう過去の様子も想像しなければならない。最近の採石地などは別として山の形などは太古からそう変わるものではないが、川の流れや水流に伴う土砂の堆積や浸食などは思ったより変化が激しいのではないかと思う。そう考えると地名の語源は幾つかの説が並記されるべきということになる。
 大唐内の風景を漫然と眺めていると、豊かな耕作地に見えるのだが、実際の土壌をつぶさに見たことは無い。肥えた土の中に多くの礫が混ざってないだろうか、すぐに見たくなって大唐内谷に入る。前回来たときには、府道の分岐のところからしっかり雪が積もっていて入れなかった。しかし今日は脇には雪が残っているものの道路には皆無なので入ってみる。

大唐内谷入ってすぐ、狭隘部といえども結構広い。
ところが集落に入っていくと段々雪が多くなる。道の脇は当然、畑も空き地も雪が積もって土壌の様子を見るどころではない。最奥の市営住宅のところからは道路上にも雪が積もっており通行もままならない。土壌の観察は本格的な春が来てからにすることにして、雪の大唐内を後にする。

薬師堂のあたりもこのとおり、広畑は雪の下

【今日のじょん】久々におおいの芝生広場にゆく。ところが凄い風でじょんの垂れ耳も立っている。じょんは風が苦手だが、風そのものでなく風で揺れる草や木が怖いみたい。
向こうは大島。

 

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大唐内のこと(92) 大唐内地名考-7 2/26

2015-02-26 | 大唐内のこと

2015.2.26(木)曇り

 もう少し範囲を拡げて綾部市の河内地名を探す。ざっと目を通すだけなので果たして河内地名なのか解らないのだが、一応挙げてみよう。
名小路(延町)、古路ヶ谷(高津町)、後路(多田町)、荒神段(渕垣町)中小路、荒神下(小西町)、荒神ガナル(内久井町)小路ヶ迫(中筋町)糀ヶ鼻、麹屋谷(七百石町)などと見つかるのだが、肝心の河内、川内などという地名は一向に見つからない。その上上記の地名の中で実際に河内地名なのはどれかというと実に心許ない。例えば荒神地名は他にもいくつでもあるのだが、荒神そのものを表すのか河内(コーチ)地名を表すのか判断がつかない。渕垣町の荒神段には神社のマークがあり、小西町の荒神下も荒神さんの祠がありそうだ。つまり現地でこれらのことを確認しないと何とも言えないのが荒神地名の特色だ。内久井町の荒神ガナルなどは荒神さんがなければ河内を表すものと思っていい地形である。小路、糀地名は荒神地名よりも河内地名に近いという感じがする。しかし極端な河内地形とは言えないので、断定するには無理がある。
 ここでどうしても取り上げておかなければならない地名が、カイチ地名である。この地方のカイチについては「丹波の話」(磯貝勇著)に詳しい。天田郡川合村のカイチ、天田郡菟原村下のカイチ、何鹿郡豊里村鍛冶屋のカイチ、豊里村栗のカイチ、船井郡瑞穂町質美下村のカイチなどについて詳細に書かれている。川合村の上地カイチはわたしの生まれたところで、上地(かみじ)というのは小字ではなく多くの小字を含んだカイチと理解するべきなのだろう。

上地カイチの一画、草深いところデス。

生家の小字はスゲという、この次の停留所が上地。
上川合には区長がいて、上地カイチには総代がいたようである。道造りや葬儀の場合の単位はこのカイチであった。おひまちや山の神などの行事もカイチが単位で、子どもの水泳場所もカイチ毎であったようだ。磯貝氏は、「上地カイチは構成メンバーの大部分が一つの株からなっている云々」と書かれているが、カイチはほとんどが小原姓だったが、株は二つに分かれていたように思う。
 このカイチということばはこの本を読むまで気がつかなかったのだが、そういえば母が時々カイチって言ってたなあと思うくらいである。このカイチと河内が元々は同じところから発しているという説があるようなのだが、果たしてどうなのだろう。少し考えてみたいと思う。つづく

【今日のじょん】念道のポストが撤去されて二ヶ月近くになる。1月の末頃に郵便局に問い合わせたら、「支柱が腐食していまして、取り替えるよう準備しています」という返事だった。そのうち出来るだろうと思っていたらいつまでたってもそのままだ。
 実は会計課にいるときポストの管理をしたことがある。一定期間に点検をし、汚れているものは掃除をし、文字が不鮮明なものは書き換え、一定期間にすべてを塗り替えていた。だから腐食して倒れるおそれなどあるはずないし、交通事故などで壊れた場合、ポストの在庫はいつでもあったし、工事は業者発注で数日あれば更改できていた。時代が変わっているのも解るけど、怠慢としか思えない。
 じょんはカンケー無いかって?なんべん手紙もって行っては帰ってきたことか、、、

 
 

 

 

 

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大唐内のこと(91) 大唐内地名考-6 2/25

2015-02-25 | 大唐内のこと

2015.2.25(水)曇り 大唐内のこと(89)は2015.2.23

 古い記事を繰っていたら、「大唐内のこと」の号数が重複しているのが見つかった、従って今回(91)が正当とする。
 大唐内=河内=小路という構図がにわかに信じられないという方も多いだろう。しかし河内(かわち)=河内ヶ野(こうじがの)なら誰でも信じるだろう。字面のマジックとでも言おうか、これは同じものだと感じるわけだ。小路から直線距離にしたら4Kmあたりのところに河内ヶ野はある。ところがこの地は小路のように河内地形をしているわけではない。つまり河内ヶ野は土師川の湾曲と細見川に囲まれた段丘状の地で、水を得るには両河川ともかなり遠い状況にあると思われる。地理院地図で見ると河内ヶ野の南西部に大きな溜池が見られ、おそらく西部の山水に頼っていたと思われる。つまり同じ河内でも、小路や大唐内とは性格を異にしており、多くの地名研究者がこの二つの河内を同一に扱ったがたために矛盾と混乱が起きていると考える。
 河川の中上流域において土砂が堆積し耕作居住に適した平地が出来上がった河内(河縁)と主に下流域で川と山脈、川と川に囲まれた豊かな土壌の平地である河内を分けて考えることを提唱する。
 三和町の河内ヶ野は京街道が辻から柏田に至る道中にあり、菟原中の別所、柏田から細野峠に至る新旧京街道の探査のために通った道である。(2012.11.8~参照)
このことで、河内がこーじと転訛することが理解できると思う。

三和町辻の京街道は国道九号線の西、細見川を渡り旧街道の街並みを南進、愛宕社の前をとおり、柏田に至る。この部分が河内ヶ野(こうじがの)である。
愛宕社の幟に河内ヶ野中の文字が見える。柏田の道わけ地蔵、右ささ山道、左京と見える。
 大唐内が大河内だとすると、上林周辺に河内地名が他に存在していいものだと思うが、実にこれが見つからない。航空写真で見ると明らかな河内地形は幾つかあるのだが、その地が河内地名とはなっていない。ところが口上林から奥上林まで、荒神、神子という地名が幾つかある。コージン、ミコと読みならしているようだが、どちらもコージと読んでもおかしくない。特に荒神の場合荒神さんが祀ってあればそれにちなむものと思えるが、神子の場合は巫女にちなむと考えるのは違和感がある。つまり荒神、神子地名のところが如何なる地形か調べる必要があるようだ。
 地名の分布は都道府県など行政の境界というよりも、その文化圏に分布するものと考えられる。大唐内であれば、若狭の文化が大きく作用していると考えられるが、実は大唐内のとなりの高浜町の地名を見ても河内地名は見当たらないのが残念である。地名というのは一筋縄でいかないものだ。

【作業日誌 2/25】店先バリアフリー、とにかく出来上がったが、実際に現地にもっていくとサイズは合わないわ、ドアは開かないわで大変。削ったりはつったりでおおわらわ。

【今日のじょん】久々にどんべえに会ったらえらい毛が抜けて、ぼろぼろになっていたぞ。春ですなー。

 
 

 


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里親募集 2/24

2015-02-24 | Dog

2015.2.24(火)曇り
里親募集



名前  レオ
性別  雄(ミックス)
誕生月 2012年5月
体重  約20Kg
予防接種 狂犬病
性格  人なつっこい。力強い。

事情があって飼えなくなったかわいそうな犬です。
とりあえず前川さんが預かっていますが、既にゆきとメーが居ますので里親を探しています。

お問い合わせはじょんのびまでいただければ連絡いたします。

Tel.0773-21-4632 カフェじょんのび



これはゆきちゃんとメー

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大唐内のこと(89) 大唐内地名考-5 2/23

2015-02-23 | 大唐内のこと

2015.2.23(月)曇り

 四條畷市の飯盛山北西にある小路北町、小路南町、小路交差点などが河内ではないかと書いたが、その理由は福知山市三和町草山の小路谷(こうじのたに)を訪れたことによる。この谷の奥にお堂があり、片眼の行者が祀られているという。草山という地名に金属の臭いをかぎつけ、調べていた矢先である。片眼というのは製鉄に関わりがあるというのはよく言われていることで、天目一箇神(あめのまひとつがみ)を始め、鎌倉権五郎景正まで片眼ということで金属関係者に祀られている。
 数年前のこの日は時間も無かったので、小路谷の入口で終わったが、この小路という地名には不思議な感を抱いた。小路というのはそのとおり小さな道で、草山の小路も小さな道なのだが、小さな道といえば村中小さな道で、特段この道を小路と名付ける必要は無いのである。この、現在はお堂の先で道が途絶えているようだが、かつては大内(おおち)に抜ける峠があったそうだ。(郷土資料中巻郷村記)

三和町草山小路谷の入口
 地理院地図で見ると小路の地形が河内地形であることがすぐに解る。河内の意味は川谷の平地と言うことだが、特に上流部で平地がなぜできるかというと、流路に狭隘部が出来流れが悪くなる、その上部に土砂の堆積がおこり平地となる。上高地でも小河内でも地形図を見れば一目瞭然である。大唐内についても同様で、トレーシーさんのアトリエの下から老富会館まで大唐内谷は急に萎むのである。この狭隘部分こそが大唐内の豊かな田畑を作り上げたのだろう。大唐内に広畑という小字があり、どうやら大唐内の最も広がったところにあるようだ、将にそのままの地名だと思うのだが。

聖神社、ここから奥が広い耕地なのだが、現在は休耕田、灌木などが多い。
 またこういうところのように、狭隘で曲がりくねった道を抜け広がった山里に出会うと誰でも桃源郷の想いを受ける。上高地など満員のバスに揺られて入った場合は何も感じないだろうけど、冬期のように島々から歩いて入った時などは将に桃源郷という感がする。上林谷について何鹿郡誌が桃源郷と称するのはそういう地形が大きな理由かもしれない。
 さて三和町草山の小路のことであるが、府道から入って300mあたりに大変狭隘になっているところがある。ここが河内地形を形作る重要な地形で、そこから上流は緩やかな蛇行の脇に豊かな土砂が堆積しているのだと思う。規模的には大唐内よりも小さいが、地形としては同一の条件なので小路は河内のことだと判断するのである。
 なお河内は、カウチ、カッチ、コーチ、ゴーチ、コチなどと訛化し、甲地、甲子、河地、古内など様々な文字で表されている。ただし、唐内、小路と表している説は他に見たことがなく、わたしの説が初かもしれない。つづく

【作業日誌 2/23】店先バリアフリー(床張り)

【今日のじょん】先日からお知らせしている捨て芋がすっかり無くなっている。果たして獣が食ったのか、誰かが片付けたのか?ミステリーではある。

 

 

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大唐内のこと(88) 大唐内地名考-4 2/22

2015-02-22 | 大唐内のこと

2015.2.22(日)曇り

 飯盛山、生守山など「飯の山」について書かれた岩田朱美さんの論文、「飯の山」の秘密に「飯の山」の特徴として河内、小野、大森、比奈、日向、日影、日置、八の字が付くものが周辺の字名に多いとある。岩田さんの主旨にはあまり関係ないためだろうかそのことの根拠は語られていないが、300を越える飯の山の調査を終えられて、実感として語られていることだろう。大唐内の奥にある生守山については、その上林側の下流に日置谷があり、若狭側の下流に日置がある。でもその他の地名は見当たらないぞと思っていたら、真っ先にある河内があるではないか。

四條畷の飯盛山から河内平野を眺める。いつも寝屋川北ICを降りて小路の交差点を南進するのだが、この小路こそ飯盛山に付随する河内ではないかと思っている。
 河内はカワチ、カッチ、コーチ、ゴーチなどと呼ばれるごく一般的な地名である。意味は渓間の小平地と言うことである。(柳田国男)最も一般的なのは大阪府の河内であるが、古代の国名となっている広い地域で、淀川の左岸と生駒山地に抱かれたいわゆる「淀川の内の方」の意としている。(丹羽基二)旧カナではカフチであってカウチではないから「河に囲まれた内側」は疑問で、「河縁」が原義で「川沿いの地」とみるべきだろうという説もある。(楠原佑介)
 こういう広い地域を意識しては理解しにくいが、信州の上高地を思い浮かべるとよく理解できる。上高地は字面だけ見ると梓川上流の高いところとなるのだが、本当のところは上河内なのである。(信府統記)奥山の河の周囲に広がった平地と解するのが妥当である。
 夏期の水不足の際によくニュースに出る小河内ダム、東京の水源となるこの奥多摩の小河内(おごうち)ダムも河内地名である。河内地名は全国各地に無数にあり、原発再開でニュースになっている川内(せんだい)も高知もさらには仙台さえも河内地名ではないかという説もあるそうだ。それらを地形的に見ていくと、大きな平野の大河の湾曲した内側や河に囲まれた内側の平地、いわゆる河内と山間の川沿いに開けた細長い盆地状の河縁に分かれるように思う。そういう説を聞いたことはないが、これらを一緒に論じているのには違和感を感じる。
 この山間部における河内こそ大唐内ではないだろうか。信州の上高地(かみこうち)も奥多摩の小河内(おごうち)も上林の大唐内(おがらち)も実は同じものではないかと思うのである。つづく

【作業日誌 2/22】芝生広場苔むしり
店先バリアフリー作製

【今日のじょん】ロケットニュース見てるとこんな画像よくあるね。

 

 

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大唐内のこと(87) 大唐内地名考-3 2/21

2015-02-21 | 大唐内のこと

2015.2.21(土)晴れ

 大唐内の唐が中国や朝鮮、海外の国や渡来人を表すものでないとしたら、一体何を表すのだろう。最も一般的に考えられるのは、唐=涸で砂利や岩石の堆積のため水流が伏流となり、涸れた土地を表すものである。穂高の涸沢(からさわ)などその最たるもので、唐沢岳なども唐沢が涸れた沢なのだろう。「地名の語源」をみると、カラ (3)「枯れる」「干上がった」。(唐沢、空沢、唐戸、唐風呂、唐川、辛川、涸川、唐州、香良州、唐木田)という風に多くの地名が載せられている。
 わたしが最も信頼している地名に関する書物で「とちぎの地名を探る」塙静夫著には、29 カラ(唐)は「涸・乾」地名、と端的に述べ、那須町の唐木田(からきだ)という地名を分析している。この地も例によって渡来人の居住した地域という説が存在する。しかし塙氏は渡来人説は根拠の薄いものとして、韓来た説を否定し、「カラ(涸・乾)キハ(際)・ダ(接尾語)」と解している。つまり水気の少ない山丘の端部のところという意味である。地図や航空写真で見ると、背部の山は浅く、奈良川から離れた段丘状の山裾かと思われる。おそらく水利が悪く耕作が困難な土地なのだろう。ただし、高山の唐沢、涸沢のように岩や石がごろごろして伏流水となり、まるで水の流れがないというものではなく、山が浅くて段丘状で耕作としての水を得るのが困難というところが多い。大字の芦野(あしの)も芦が生えていたのでは無く、悪し野の意味では無かろうか。その他栃木県の唐地名を15カ所紹介されているが、栃木県は唐地名が多いところだそうだ。
 綾部や上林で唐地名が無いものかと考えてみたのだが、どうも少ないようだ。綾部から大江に抜ける府道9号線と493号線の交わるあたりに枯木(からき)という道標があったのを憶えている。地図で見ると両府道に挟まれたあたりに枯木坪という地名が見える。坪というのは小さな集落の単位であるので、枯木というのが地名なのだが、やはりこれは前記の唐木田に共通する意味合いがあるのだろう。周囲の谷にはほとんど溜池が設置されている。通常の流れだけでは農業用水として足りないからだろう。
 上林の武吉町には唐戸渕という小字がある。上林川が大きく湾曲するところの内側にあるのだが、これは涸、乾の意味ではないような気がするので後述することにする。
 さて本題の大唐内だが、丸山の尾根から大唐内谷に降りたとき、谷はゴーロ(石や岩が堆積しているところ)となり、一瞬大唐内は大涸地の意味かなと思った。ところが下っていくと大きな砂防堰堤が出てきて、そこから先は水の流れもしっかりある。伝説の鬼の洗濯場という鍋滝があったというのは事実で、あのゴーロの下に埋まってるらしい。
 生守山(丸山)の丹波側は風化崩壊が進み、多くの岩石が流れ出ていると考えられるが(生守山北のコルの小川はどうやら大唐内谷に流れているようである。)大唐内が涸・乾を由来とする地名とは考えにくい。大唐内は最奥の地ではあるが、山は深く、高く、降雪量降雨量も多く、常時水不足に悩まされる地では無いのではないか。
では大唐内の地名由来は一体何だろう、思いをめぐらしているところに一つのヒントが現れた。つづく

大唐内は豊かな土地だと思うのだが。

【作業日誌 2/21】店先バリアフリー、床張り、塗装

【今日のじょん】昨晩も鹿がやってきた。芝生広場にくっきり足跡があり、紅葉のところに大量の鹿糞を残している。侵入径路もわかり、ネットもあるんだけど設置する時間が無い。イライラのつのるばかりだ。



  

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大唐内のこと(86) 大唐内地名考-2

2015-02-20 | 大唐内のこと

2015.2.20(金)曇り

 大唐内(おがらち)とは変わった地名である。上林の三大不思議地名は大唐内、睦志(虫)、念道かなと思っている。上林の歴史や民俗、地名の研究を始めたのは、亡くなられた土井さんに「大唐内というところに唐(から)という字が使われているのは唐(とう)、中国と関係があるのかなあ、調べてくれいや」といって奥上林村誌をいただいたことに始まる。光明寺と聖徳太子、穴穂部間人皇女の関係、仏谷や骨谷などという地名は姨捨があったのか、こんなことも調べてくれと言われたのが遺言となった。それから5年あまり随分いろんなことを調べたが、本当のことはなかなか解らない。特に地名のことはその地名が一体何を表すかについて例え答えを出したとしても、その証拠はあり得ない。だからなにを言ってもいいのだと思う。現実に様々な説が飛び交っている、問題はそれが多くの人に納得と共感を得られるかどうかと言うことだと思う。そういう意味では地名の由来とか語源というものは永久に仮説であって、極一部近年の合成地名や実在の人物の所有を表す地名などを除いて確証できるものは少ない。だから多くの地名について各論併記となるのは当然である。あとはその土地の地形や環境、そこに住まいする人々の歴史や民俗あるいは生活などを考慮して、納得のいく説を選び出すということだろう。
 前置きが随分長くなったが、大唐内を始め老富の幾つかの地名について考察していきたい。
1.大唐内
 カラ(加羅、韓、唐)の付く地名は多く、渡来人にちなむものであれば朝鮮を示すのが一般的。唐津や唐古など古代の諸外国と関係があったような地域もあるが、地形説もあって一概には言えないようだ。大唐内に最初に居住したのは誰かと想像すると、若狭湾青郷に定着した海人族が関屋川、黒部谷などを経由して峠を越えて入ってきたなどと考えるとロマンではあるが、そうだとしても地名として残るとは考えにくい。唐(から)であったり狛、高麗(こま)であったりする地名でもよほど歴史的にはっきりした状況が無い限り外国や渡来人にちなむ地名とは言えないだろう。まして、大唐内が中国、唐にちなむ地名だとはとうてい考えられない。つづく

最初の文化はあの峠を越えて入ってきた。(胡麻峠方面)
【今日のじょん】じょんの散歩に出ようとしたら、事件が起きた。リュックを担いだ迷彩服の何者かが府道を歩いてきて、隣家との堺を山の方に入っていったのだ。手に銃らしき物を持っていたので猟師かと思った。かみさんも二階から見ていて、「おとーさん怪しい人が登っていったで」と言う。「大丈夫、猟師さんだろう」なんて言っていたが、よく考えると猟師はオレンジ色の服を着ているはずだ。じょんを連れて追っていく、山菜泥棒かな、、なんて考えながら。すると木小屋裏の桧林の中に迷彩色のテントが張ってある。
「なにやってんですか」
「わあびっくりした」
「びっくりするのはこっちやわ、一体何してんですか?」
「府の依頼で猿の調査をしています。捕まえて首輪をつけるんです。麻酔銃を使うんですが、射程距離が短いのでこうして隠れて待ってます」
顔を出すと女性であることが解って余計びっくり。
「昨日なら群れが来ていましたが、たぶんもう来ませんよ、追ったから」
「そうですか、下の方からもう一人入ってますのでもう少し待っています」
てなわけで、猿情報を伝えて、散歩に行く。それにしても、空き家ならともかく人が居る家には一言あってもいいんじゃないか、普通巡査呼ぶで、、、。

確かここ登っていったよね。
府道にこんな車が駐めてあった。
この林にテント張っていたんだけど、1時間ぐらいでいなくなった。

【今日のトレーニング】SWIM3,000m 74分

 

 

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大唐内のこと(85) 大唐内地名考-1

2015-02-19 | 大唐内のこと

2015.2.19(木)曇り 大唐内のこと(84)は2013.2.12

 「大唐内のこと」を書くのは実に2年ぶりである。生守村で行き詰まってしまったという感じである。そこで稿がとまっている。岩田さんの「飯の山」測量基準点説(これはわたしが勝手につけた説なんだけど)を信じると、生守山(丸山)は上林どころか綾部、丹波、京都、いや日本中の研究者が誰も気付かなかった歴史上重要な地点の一つに考えられる。伝説上の廃村生守村もその存在価値が問われてくることとなる。
 しかし「飯の山測量」の論文やその他の書物から「飯の山」、生守山などが基準点になっているというのを確信することが出来ていないのも事実である。
 岩田さんを生守山に案内した2013年の4月、偶然2カ所の「飯の山」に行くこととなった。これは以前から決めていたことで、岩田さんに聞いたのは、城崎の対岸に飯谷と言うところがあるということと四條畷市には著名な飯盛山が存在するということである。この二カ所の「飯の山」については既に報告しているので略するが、前者については楽々浦(ささうら)と韓国神社(からくにじんじゃ)、気比(けひ)と白山神社、後者については鼻橋という地名を見つけたことである。その他八木町の飯盛山西光密寺にも通った。
 こういった民俗調査で岩田さんのお手伝いは出来るのだが、無数の三角形を描いて地図をつくるということは彼女にしか出来ない。新たな論文を執筆中だというので、そこで「飯の山」の白黒を判断したい。大唐内のことの執筆が止まっていたのはそのためである。
 岩田さんの論文を読み直していると、「飯の山」の共通の特徴が11点示されている。そのなかで生守山に関して共通することは、鉱山の近く、周辺の小字地名(日置、河内他)、行基伝説の3つである。これが多いか少ないかは別として、それらの共通項についてなぜそうなのかということは岩田さんは詳しくは語っておられない。そういった民俗学的な調査から飯の山の謎にも迫れるのではないだろうか。
 だからこそ2年ぶりに「大唐内のこと」を再開したわけである。生守山に関連してあるいは無関係に大唐内の地名や民俗を探ってみたいと思う。そのうちに岩田さんの新説も登場するだろうし、大唐内のみならず市茅野、栃もあわせて老富は不思議な魅力に富んだところである。

中上林はすっかり雪も無くなったが、老富はこんな感じ。

【今日のじょん】山にも野にも食べるものが無いせいか連日鹿の襲来である。じょんも嗅ぐのに大変だが、この後家に入ってから事件が起きた。
猿の群れがドッグランどの付近にやってきた。たまたま灰を捨てに外に出たところに出くわしたのである。慌てて追ったら山に逃げたが、残党が畑にいて、これも追う。それにしても丸々太って見えるのは冬毛のせいだろうか。問題は例のウィーウィーという鳴き声がしないことである。閉めきっていても寝ていても気付くあの鳴き声が、一切無くて音なしの構えである。これって知恵つけたのかなー。


鹿の跡を追う。

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本文休稿 2/18

2015-02-18 | 日記・エッセイ・コラム

2015.2.18(水)雪、雨

 「あなしら上林」執筆に付き本文休稿します。

【今日のじょん】昨日のことなんだけど、川向かいの草むらでガサガサって音がすると思ったら鹿が4頭土手に上がっていった。猟期は終わったのだが、害獣については1ヶ月延長とのこと。かつては猟期には姿を見せなかったのだが、いまやお構いなし。近所でもスイセンがしっかりやられたのこと。スイセンって毒じゃないの?じょんもあきれておったのだ。

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ほのほのじょん 2/17

2015-02-17 | Dog

2015.2.17(火)曇り

 おおいのプールがメンテナンスで閉館中なので福知山のプレート田村に行く。かみさんがじょんのぎっくり腰の件やレオの里親捜しのことも相談したかったみたい。
いつものように浮き世小路のわくわく通りを入っていくと、マックとまういの歓迎のワンワンが聞こえてくる。12才になったかとかで往年の馬力は無いかも知れないが、なかなかどーして元気なものだ。じょんもじょうずに遊べるのはマックのおかげだと思う。まういちゃんは相変わらずあいそよしだし、マックはでかいのだけどかわいい仕草があってかみさんは大喜び。
 さてぎっくり腰の件だけど、やっぱり雪や氷でズボッといったり、滑ったりするのは足腰に悪いらしい。人間みたいに予想しないから変に力が入ったり、関節や筋肉が対応できないのだろう。北極圏で犬ぞり引っ張ってる訳じゃないんだから、気をつけてやらねばならないのかもしれない。そうでなくても雪にははしゃいでしまうんだから、、、。
 レオの件はもう少し様子を見て、対処しようかと思う。そばめしとお好み焼き、ノンアルコールで昼食して帰ったが、じょんは結構疲れたみたい。
 
 駐車場が広くなって駐めやすくなった。 わくわくドキドキ浮き世小路。 マック若いワ。

 よく遊び

よく眠る

【作業日誌 2/17】店先バリアフリー、スロープ部分作製

 

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丹州行ってき文庫 2/16

2015-02-16 | イベント情報

2015.2.16(月)曇り

 丹州行ってき文庫では水上勉作品を主に展示していますが、このほどご要望により貸出を始めることとしました。展示はしていなくても「雨読」で紹介の本も貸出します。但し「雨読」のなかでも借本となっているものは図書館の本なので、図書館を紹介します。貸出には次のことを守って下さい。

 貸出帳に日付、氏名、連絡先を記入
 貸出期間は1ヶ月、延長もあり
 複写厳禁(本が傷むため)

 丹州行ってき文庫にじょんのびのスケッチ葉書用意しました。来店の方に差し上げます。


【今日のじょん】怖がりのじょんも最近カーテンには慣れてきた。玄関のカーテン、通り抜けることは出来なかったのだが、今は通り抜けられるのだ。ふつーの犬には何でも無いことだけど、じょんには進歩である。写真はおかーが帰ってきて尻尾振ってるところ。

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あなしら上林-4 2/14

2015-02-15 | あなしら上林

2015.2.14(日) 曇り あなしら上林-3は2015.1.17
かんばやし里山新聞第五号が発行されたので、あなしら上林を公開する。あなしら上林はあなたのしらない上林のこと。

 二 生守山 その三

 鼻(いのはな)という地名は全国各地にあって、地形的にも様々なところである。地名に関する学者達も様々な論を展開しているが、最も古典的なものは柳田國男「地名の研究」に載せられている”竹鼻、鼻”である。竹の生えた塙という意味で軍略の意があるだろうというもので、鼻も似たような場所と書いている。竹鼻(たけはな)はそれで理解できようが、鼻については何のことかわからない。
 京丹波町の鼻を聞き取りしながら廻っていると、土地の古老が書いた門外不出の記録なるものを見つけた。「産土今昔夜話」(うぶすなこんじゃくやわ)という。鼻の伝説や神社のいわれ、鼻に住まいする氏族のいわれなど自筆で書かれた冊子であるが、その中に鼻地名の由来が書かれている。古い人ではあるが賢明な見方をしておられて、イは水を表すと解かれている。
 ハナは端や崖、高いところなどを表すので、解りやすくいえば水の流れ出るところ、水源という風なところを表すのだろう。上林から関屋(せきや)に越える鼻峠も関屋川の源流にあたり、関屋の小字として鼻峠、猪森ヶ嶽が存在し、これらの語源が水に関係するとするのが最も妥当であろう。

(写真1 関屋川から生守山)
 地名から生守山を金属に結びつけるのは難しいようだ。ただ無理矢理なら考えられないこともない。確かに各地の鼻地名のところをたどると金属の臭いがするし、鉱物の露頭をハナというらしい。マンガン鉱の露頭をマンガンのハナ(花)というそうだ。マンガン鉱山地帯の京北町(現京都市右京区)にも井ノ花という地名がある。
 大江山の鉄滓が出ていて古いたたらの跡らしきところを魔谷という。鼻峠に向かう小唐内谷の上流は二股になっており、左股は生守山の北のコルに向かっている。家本(かもと)さんに「この谷は何というのですか?」と訪ねたら「マタンやがな」と答えられてドキリとした。

(写真2 小唐内谷二股、左がまたん)
 しかし鉄の製錬、金属の採掘を証明する手立ては鉱滓の発見しかない。上林川で拾うことの出来た鉄滓は清水の鋳物師(いもじ)の炉から出たものらしい。これが上林川本流上流域で見つかればまた希望も出てくるのだが、と考えていたとき思いもしない方から電話がかかってきた。2013年3月のことである。

  (写真3 上林川念道付近で発見した鉄滓)


 その方は飯盛山の研究者で、わたしが生守山の研究をしていることを知って、是非その山に行ってみたいということだった。東京在住の女性で仕事の都合で関西に行くのでという申し出だったが、生守山に登るには半日はかかるし、下から眺めることは可能だと答えておいたが、実は半信半疑だった。つづく

 上林たんけんたい(カフェじょんのび内) 小原英明

【作業日誌 2/14】店先バリアフリー、スロープ部分作製

【今日のじょん】久々にモモ姉さんが来た。京都には無いだろう雪を楽しんでくれたかな。ところで姉さん先般京都市から表彰されたんだって。人命救助、犯罪防止、いやいやそんな勇ましいもんじゃなくて長寿で表彰、それも代表で表彰されたんだって。ちなみに京都市では16才で表彰されるそうだ。人間でいえば100才に値するんだろうか。他のお客さんも「よいこやねえ」と褒めていたぞ。
 

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雨読 「地名随想」・続々編 2/14

2015-02-14 | 雨読

2015.2.14(水)曇り

 「川合村一村断絶について」という驚くべき記事がある。自分の生まれた村に断絶の歴史があるとしたら何とも気になる話だ。この話の元も「丹波志」である。
 「河合村ハ天正年中惣村断絶ス 後岼村(本村ナリ)始ル寺モ同シ 領主帳面ニ河合一村ナリ 後岼村ヨリ出戸シ六箇ト成 岼村ニ村長アリ樋口氏一人ナリ 寺モ當楽寺斗也、、、」と続く。
 天正年間に何らかの事情で断絶し村がつぶれたので村内六か村がひとつとなり、河合村と呼ばれ、村長(むらおさと読むのだろう)も一人、寺も一か寺(當楽寺は常楽寺のことか)とされた。

村で唯一の食料品店だった土佐商店は閉まっていた。(2012.10)土佐坊と縁が有りや無しや。
 本書では、明智光秀、小野木縫殿介による断絶、豊臣秀吉の検地、刀狩りによる断絶など候補に挙げられているが、河合村断絶と関係すると見られる資料は無い。三和町史にも光秀、小野木氏や秀吉の検地についての記述はあるが、河合村断絶に関する記述は見当たらない。
 三和町史は近隣の地方史の中でも編集年度が浅く大変よくできた地方史だと思っている。その中で「丹波志」の記述は多く利用されているが、河合村断絶の記事は無い。嘘か誠かは別として、一村の断絶に関する記事が見られないのは、そのことに関してあまりにも資料が乏しいということだろうか。
 歴史を探っていると各村の微妙な差異が感じられる事があり、川合について思うことは二つある。一つは川合の地名に準拠した姓が見当たらないことだ。上林の場合、もちろん他所からこの地に入ってきた人々の姓が多いのだが、よく観察すると地元の地名と同じ、あるいは関連のある姓が見受けられる。ところが川合にはそれが見受けられない。かといって地名は新しいものばかりではない。

加用から上川合に出てきたところ、向こうに見える坂が岼との堺。その先を遡ると綾部市の田野町に出る。
 もう一つは岼と上川合の関係で、実はこの二つの村に寺、神社が一つなのであり、どちらも岼に在る。これは川合のどの村をみても無いことで、そのことによって様々な論争がおこっており、三和町史に詳しい。神社は渋谷神社、寺は常楽寺である。「丹波志」にある河合村断絶中の村は河合村で本来の村は大原、台頭(だいと)、岼、下川合、加用(かよ)の地域で呼ばれており、上川合は無い。
 これらのことを考えると、かつて断絶があったが為の現象かなと思わないでもないが、なにしろそれを示す証拠、資料が何も無いので軽々に判断を下すわけにはいかない。
 しかし普通の歴史家や郷土史家が取り上げない面白い話をよくぞ研究されたものだ、わたしごのみの本である。おわり

【今日のじょん】予想はしていたがやはり積雪はあった。除雪車が入っていたので20cmはあるかなと思ったが、果たして19cmの積雪だった。これで今年の雪は例年以上のお墨付きが出そうだ。ただ降り方が一気であったり継続的でないため根雪にならない。だから積もっては消え、消えては積もりしている。ある意味では助かっているのだが、正月以降天候が悪いのははっきりしている。いくら山陰といえども晴れの暖かい日は何日かあるのだが、それが無い。ただ気温は驚くような低温は無く、最低でも-2℃だった。まあいいのか悪いのか知らないが、春に憧れて暮らすというのもそれはそれで風情がある。

じょんは喜んでいるのダ。

 

 

 

 

 

 

 

 

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