晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

西国三十三所徒歩巡礼二日目 10/13

2023-10-14 | 徒歩巡礼

2023.10.13(金)曇、晴れ  越すに越されぬ七廻り八峠

巡礼者: 小原、津田
タイム: 成相寺着 8:00    成相寺発 8:15
     参道分岐点8:35    天橋立  9:30
     文殊  10:15   
     カトリック宮津教会着 11:00   発 11:20
     山中十字路着 12:00(昼食)   発 12:30
     小寺国道178線13:40      七廻八峠ロスタイム約60分か?
     由良15:35            丹後由良駅 16:00

https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-6046431.html

 待ちに待った巡礼の日が来た。とは言っても前の日には妙に緊張する。というのは今回のルートは記録では通行不能の峠がいくつか含まれているからだ。
 津田さんの車で成相寺の駐車場まで送ってもらう。津田さんは天橋立に車を置いて、参道を登ってくると言う。成相寺は8時の開門なので受付で待っていると、係の人が出勤してこられたので少し早くに入れてもらう。
  第二十八番 成相山 成相寺
 まだ網の幕が張られている本堂で、作法通り開教偈から本尊真言までお経をあげていると8時になり改めて真言を唱える。納経の朱印をいただき、記念撮影をして成相寺を後にする。下りはかつての参道を下るべく、バス道を降りていく。旧参道は地図には破線で示されているが、心空さんも歩いていないし、加藤淳子さんの参考書「街道を歩く 西国三十三所」でも分岐点が解らなかったとある。バス道は時々視界が開き、阿蘇海側の絶景が素晴らしい。
  下っていくと五重塔があり、やがて阿蘇海の景色が現れる。
 なにより誰一人あうこともなく、心ゆくまで眺められることがいい。やがて右手に災害で荒れた地形が現れ、そこに草深い山道が続いている。
道標も何も無いのだが地図アプリで見るとここが分岐点だ。ザックを下ろして地下足袋に履き替えていると草道の向こうから「小原さ~ん」と声がかかる、津田さんが登ってきたのだ。さっそく草道を降りていくがあまり人が歩いている様子は無い。近畿自然歩道として整備されていただろうロープの柵や道標がある。一ヶ所展望所があり、天橋立とその周囲の景色が最高のところがある。下っていくほどに道はきれいになり、地蔵や板碑など現れて参道らしくなる。旧街道の参道入り口にたどり着くとそこには立派な道標が立っていた。
   
天橋立の絶景、一の地蔵そして板碑群
 正式には成相寺参詣道本坂道というようだ。成相寺は観光客も含めて多くの参拝者があり、入山料他いくらかの収入があるだろうから、その極一部でこの参詣道の整備をしてもらえないかと思う。道といい景色と言い絶好の場所なのだから。
 本坂道入り口
 朝の準備に忙がわしい土産物店を横目に天橋立を歩く。10年続いた天橋立トライアスロンの会場だったので、スタッフをしていたわたしは何度ここを歩いたことだろう。あの頃は若かったなあと妙な感傷に浸ってしまう。外国人の観光客が多く、聞き慣れない言葉が飛び交う。わたし達の姿はきっと奇異に映っているだろうが、誰も気に留めている様子はなく、嬉しいような残念なような、、、。「ここは西国巡礼の道中でも随一の景色だろうね」と話ながら歩く。
 文殊から国道を行くと、犬堂の碑という珍しい石碑に出合う。江戸時代に賢い犬が寺用を果たしていたが亡くなったのでその死を憐れんでお堂を建て、やがてお堂が壊れて石碑を建てたという。何とも立派な石碑で、犬のためにそれだけのことをするというのは江戸時代というのは結構豊だったんだなあと感心する。
  犬堂の碑
 国道から宮津の旧市街、街道を行く。古い街並みというのは心がなごむ、やがて旧三上家住宅が南側に現れる。北前船で栄えた豪商の屋敷で、ゆっくり見物していきたいところだが今回はパス。適当に路地を楽しみ、京街道の府道に出、和貴宮神社のある通りに入る。和貴宮神社には大きな楠と水越岩という大岩があり、かつてはここまで海岸線が来ていたという。宮津という地名の語源だという、宮のある津ということだろうが、その宮がどの神社であるかは判然としていない。(京都地名語源辞典)お詣りをしてカトリック宮津教会に向かう。
  旧三上家住宅、和貴神社水越岩
 明治29年に建てられた、現役の教会としては日本でもっとも古い教会ということだ。畳敷きの礼拝堂だそうだが残念ながら閉まっており中は見られない。横に廻ってステンドグラスを見物していると、自転車の婦人が門から飛び出してきて、津田さんと接触しそうになる。「こちらの方ですか?」「中を見せて頂くわけにいきませんか?」偶然に教会の方であって、快く鍵を開け聖堂に案内された。ドアを開けてびっくりしたのは、先程のステンドグラスを通した陽光が床と傘立てに見事に映っているのだ。赤、緑、青とそのグラデーションが美しい。「写真に撮ってもいいですか?」「こちらはもっときれいですよ」噂通りの畳にその光が映っている。立体的なテーブルでなくて平面的な畳に映るその光は、きっと計算されたものに違いない。「朝の光は祭壇の辺りに映るんですよ」などと話を聞いているうちに曇ってきたのか、美しい模様は消えてしまった。
    宮津教会は畳敷きである。
 笈摺(おいずる)に白衣の巡礼スタイルの二人が教会を訪れている姿はなんとも奇妙なものだが、教会のご婦人に巡り会えたのも美しい光景を見られたのも神さまの思し召しかもしれない。津田さんの叔母さんが敬虔なクリスチャンでミサに伺うことを約束して、宮津教会を後にする。
「小原さんは本当に人と会う運があるなあ」前回の四方さんの事を思い出して言っておられるのかもしれないが、確かに巡礼を始めてから偶然の出会いが増えたようだ。つづく

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丹波西国道中記・四日目-2

2023-10-05 | 徒歩巡礼

2023.9.29(金)快晴 塩久~高源寺~岩瀧寺 観音さまが居ない?
 経費 バス代 880円 (京都バス 450円 神姫バス 430円)
    電車代 420円 (石生~福知山)
    駐車  300円
    朱印  600円 (高源寺、岩瀧寺)
    賽銭  100円 高   

    合計 2,300円
 山辺の街道を進み、適当なところで加古川を渡る、氷上西高のところだ。干上がった加古川沿いに歩き、休憩所があったので昼食とする。飯を食いながらいろんな話をするのだが、英樹君の波瀾万丈な生き方に驚く。わたしも大概好きな様に生きてきたが、彼はそれ以上だ。一番驚いたのは、わたしが初めて沖縄に行ったとき、それは沖縄返還の翌年(1973年)の3月なんだが、誰も居ない何も無い川平湾に感動したのだが、彼も同じ時にそこに居たそうだ。誰も居ないはずの川平湾にひとりテントを張って原始生活している学生さんがいた。シャコ貝の殻を鍋にして、あの馬鹿でかいトカゲを煮て食ってるんだから驚きだ。天理大の学生さんだと思ったが、英樹君もその子を知っていたから間違いない。わたしはその後東京に帰ったが、彼は石垣に残り小屋を建て、潜水の免許を取りスキューバダイビングのインストラクターをしていたと言うから凄い。巡礼も二人で行くと面白い話が出てきて楽しい。
 話がそれてしまったが、昼食を終えて一本南の旧街道に出たとき、角に道しるべを見つける。
 左いくの 右由し満
 「左いくの 右由し満」いくのは生野で良いが、由し満とは何処だろう。「丹波の古道」(奥谷高史)によると湯島道中とあって、但馬国湯島が今の城崎温泉だそうだ。この道しるべネットで調べると「左京大坂」とも書かれており、もう一面には年号らしき文言もある。もう少ししっかり見れば良かった。
 加古川に沿って国道427号線を行く、歩道があって歩きやすいが退屈な道だ。商店や農園の看板に足立姓の多いことに気づく。福知山に多い足立姓のふる里なんだろうか。やがて道の両側に紅葉の並木が始まり高源寺の近いことを匂わす。左手に高源寺の駐車場が現れる、紅葉の季節には大型バスが何台も駐まるそうだ。

 高源寺到着、自然石の石段が素晴らしい。紅葉はまだ青々。
 生憎本堂は工事中でシートに覆われている。もう少し石段を登って方丈横の納札所に行く。大黒さんらしきご婦人が朱印を書いてくれるのだが、「ここには観音様はおられないのですよ」と言われる。志保美円照さんの冊子には観世音座像と記してあるのだが、お寺の方がおっしゃるのだからそうなんだろう。代わりに三重塔の毘沙門天にお参りする。
 三重塔の頭だけが望める。
 紅葉の頃はさぞかしと思いつつ高源寺を後にして、元来た道を歩く。国道から分かれて、篠山街道の町並みに入ると、土塀の家や旧い商家らしき家が続き、屋号を着けた薬屋さんや酒屋さんがあってとても嬉しい。カーテンを閉めた多くの家もかつては商売をしていたのだろう。こんな町並みがいつまでも残って欲しいと思うのだが、なかなか難しいのだろう。
 町並みを抜けるとつまらない道になるのだが、道ばたに立派な地蔵堂などあって篠山街道のおもかげが残っている。午後の日差しがきつい上に退屈な道なので二人とも黙って歩く。1リッター用意した梅麦茶も残り少なくなってきた。ようやく岩瀧寺への入り口、香良口に着く。3時15分、バス停で時刻を調べると、柏原(かいばら)行が16:20、岩瀧寺まで2Kmだから微妙な時間である。とにかく急ぎ足で歩くと2Kmがやたら長い、行きすぎたのではと不安になり始めた頃左手に大きな病院が現れ、その先でようやくお寺の雰囲気が出てきた。右手の坂を小走りで登ると本堂に着いた。香良口から30分かかっている、滞在可能時間は5分余り。納経所は人の気配が無く、料金箱と朱印が数枚置いてある。花の寺とか丹波古刹とかの朱印で、丹波西国がない。どうやら丹波西国を巡っている人はあまり居ないようだ。やむなく丹波古刹第八番の朱印をもらい、料金を払いお参りをする。
 丹波西国第七番の印が欲しいのだが。 茅葺きの観音堂は珍しい。
 茅葺きの観音堂でしっかりお参りしたいのだが何しろ時間が無い。手だけ合わせて帰ろうとすると、大黒さんとおぼしきご婦人が出てこられた。先ほどの朱印の件も聞きたかったが、その時間も無い、お礼だけ言って出発する。独鈷(どっこ)の滝とか浅山不動尊とか行きたかったのだがそれどころでは無い。
 元来た道を速歩で下っていく、25分でバス停に到着、間に合った。最後の水を飲みきって今日の巡礼おしまい、次はこの香良口バス停から始まる。復帰目指してリハビリ中の英樹君は痛み止めの薬持参で頑張った。「痛みも出ずに頑張れた、なんか吹っ切れた気がする」と満足の様子。わたしとしては歩きそのものは大満足だが、二つの寺院の参拝が中途半端でちょっと残念。まっ次回に期待しよう。合掌

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丹波西国道中記・四日目-1 ’23.9/29

2023-10-01 | 徒歩巡礼

2023.9.29(金)快晴 観興寺~高源寺~岩瀧寺  彼らはどの峠を越えたのか?
同行者:山本英樹
         
福知山駅前 8:00  バス    8:24 上畑中バス停 
上畑中バス停8:40             8:50 観興寺
観興寺   9:10  休憩10分 10:20塩久峠
佐治休憩所11:55  昼食   13:20 高源寺
高源寺    13:45        16:45  岩瀧寺
岩瀧寺  16:50       17:15 香良口バス停
歩行 8時間35分 27.6Km 

(国土地理院福知山) 
 仁和寺の法師の如く、1368年の宝篋印塔を見ずして帰ってしまった。観興寺を再度訪れたのはそのためだけではない、同行の山本英樹君にお詣りして御朱印を貰ってもうらうためでもある。住職は先月訪れたわたしを憶えておられたようだ、早速例の宝篋印塔を案内して頂く。前回訪問時にはお墓や境内をくまなく探したのだが、見つけられなかった。それは観音堂に続く渡り廊下の奥にあった。宝篋印塔にまつわるお話しを聞き、観音堂にお参りする。勤行次第に則って開経偈、懺悔文、心経、観音経、本尊真言等唱えていく。その間に英樹君の納経帳が書き上がり、住職に峠越えの道を尋ねる。古文書(丹波西国三十七所道中記 嘉永五年)には「是より氷上郡小倉村高源寺へ三里大峠あり奥塩久村通る小川二つあり」と記するばかりで蓮根(はすね)峠か塩久(しおく)峠かいずれを越えたかは解らない。
住職は蓮根峠を越えるものとおっしゃっている。蓮根峠には村から登る道の他に観興寺から直接登る道もあり、巡礼道としてはこの峠が使われたものと思う。ただ地図上の表記では蓮根峠は塩久より一本東の谷、東芦田に下りるもので、塩久に下りるのはもう一つ西の峠である。地図には表記されていないがこれも蓮根峠なのかもしれない。樽水から都合三本の道が上っており、往時はこちらが主流であったとも考えられる。住職はわたしたちが塩久峠を越えるといったら怪訝な顔をされていたが、こちらの方が直線的に越えており、林道が奥深くまで入っていて歩き良さそうだから選んだまでである。
    仁和寺の法師が見忘れた宝篋印塔
 住職にお礼を言って出発する。峠取り付きまでは下見をしているので問題ない。蓮根峠との分岐の辺りで地下足袋に履き替える。オフロードはサンダルでは堪らない。そして用意したダニよけスプレーを二人ともしっかり振りかける。英樹君はトレールランナーなので七分裾パンツ、素足だ。真ダニの害は死に至る場合もあると認識してもらいたい。しばらく林道を進み、山道に入るが道らしい道は無い、「サバイバル巡礼やなあ」なんていいながら登っていく。地図上の破線を外さないように、適当に登って行くのだが倒木やぬかるみがあるばかりで、ブッシュは少なく歩きやすい。やがて小さな尾根上の広場に出る。驚いたのはそこに斜めに作業道が上がってきているのだ。どうやら最初の林道が大回りして上っている様だ。
 広場に出たら林道が上がってきていた。 
 その後も作業道は続いており、結局峠を越えている。峠で記念撮影、一つの目標は達成した。塩久峠は地形的には峠らしい峠だが、街道としての痕跡は何も無い。道しるべか地蔵さんでもあれば絵になるんだが、、。
 変哲も無い峠
 塩久側は植林の道で、やはり作業道が下っている。ジグザグに下る作業道の間を直線的に下っていく。やがて防獣柵が現れ、かんぬきを外して、下界に出る。快晴の奥塩久は稲刈り後の田んぼと曼珠沙華、草の道がうねうねと続き牧歌的である。
 輪郭は一級品の塩久峠  奥塩久の村が見えてきた。
 道中六地蔵や御大師さんが祀られていて街道の雰囲気充分だ。しばらく行くと待望の道しるべが現れた。「右ふくち山 左むらゑ」とあり、案内板に「佐治から郡境の塩久峠を通り福知山へ行く云々」とある。巡礼道としては蓮根峠が使われたと思うが、福知山への往来はやはり塩久峠が主流だったのではないか。この地には地蔵堂や六地蔵もあり村境(矢の内村)であったそうだ。
   

 古道を歩いて気づいたことだが、昔の街道は山辺を水平に走り、谷の部分は入り込み、尾根の部分は出っ張ってうねうねと曲がりながら進んでいるケースが多い。陽当たりの良い平野部を耕地としたことと、道造りの便が良いことだろう。土砂を持ってくることなく、山側の土を削れば道が出来るだろうから。こんなことを考えながら歩くのは実に楽しい。つづく
 

 

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