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晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

黄金山に登る 2/24

2007-02-27 | 旅行記

 2007.2.24(土)快晴
 7:45 起床
10:00 民宿海山木発~金剛石林山~茅打バンタ(かやうちばんた)~黄金山登山
16:00 民宿海山木着

 やんばると呼ばれる沖縄北部は山深く、亜熱帯の樹林が果てしなく続いている。そんな山を眺めたくて、奥の裏山に登ってみる。民宿から港に出、山に続く細い道を行けばいいみたいだ。港にオランダ船の錨が展示されている。昨日西海岸で見たオランダ墓と関連のあるものか。Img_2711 Img_2713 Img_2723





左:奥の港  中:オランダ錨  右:裏山から南に広がるやんばるの森

 山に分け入ると牧場が点在している、飼われているのは牛でかなり大規模な様子だ。また茶畑も沢山あり、お茶は奥の重要な産物ということだ。もう芽が出始めている畑もあり、3月には茶摘みをするというから、全国でも最も早い茶摘みであろう。
畑仕事をしているおばさんに聞くと若い人が減ってお茶の栽培が難しくなり、みかん畑に代わっているそうだ。シークアーサーのことだろうか。ついでに国道に出る道も尋ねたのだが、すぐに国道に出るよといわれたものの何キロもあって、田舎のすぐは大変なものだ。Img_2720 Img_2721

山の中にあるお茶畑、黄緑の部分はもう新芽が出ている。


 金剛石林山に近づくと岩壁が覆い被さってくるようで迫力がある。Img_2725 Img_2726

村道から見上げる岩壁、どれが金剛石林山かわからない。


 昨日奥の民具資料館で割引券をもらったので入山料は640円になった。シャトルバスに乗せてもらって精気小屋に着く。晴天の土曜日とあって人出も多く、観光バスの団体さんまで来ている。ここから歩くわけだが、絶景コース、奇岩巨岩コース、森林コースと車いすでも廻れるバリアフリーコースがある。金剛石林山は熱帯カルストの山で、世界最北端になるそうだ。熱帯カルストの特徴は円錐カルストということである。登山道は奇妙な形の巨岩と熱帯性の木々でなかなか面白い。10分程で展望台に着く、頂上かと思ったらどうもそうではなく、展望も360度は無い、登山道がジャングルの中を通っているのでよく解らないのだ。しかし展望はよく、先日まで居た伊平屋島や伊是名島、与論島も見える。  Img_2727
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左:展望台から辺戸岬、その先に与論島が見える。 中:展望台から上部に山が見えるので、そこは頂上ではない。  右:金剛岩烏帽子、円錐カルスト
 
 次に奇岩巨岩コース悟空岩だの烏帽子岩だの名前が付いていて野暮ったいが、岩は見ていて飽きない。随所に拝所があり、信仰の山でもあるようだ。森林コースを通って帰るのだが、結構距離がありソテツ群落や御願ガジュマルという大きなガジュマルがあり、みものである。なおソテツは戦時中に食用のため植林されたと言うことである。中毒の危険性さえあるソテツを食用のため栽培するとは、厳しい時代であったのだ。Img_2739 Img_2741
Img_2747



 
左:ひっそりとたたずむ拝所  中:御願ガジュマル  右:振り返る金剛石林山

 頂上を踏まなかったので不満が残るが、ジャングルの中から一番高い頂きに展望台のような建物が見えた所がある。つまりどこからか登山道が着いているに違いない。入山の発券のスタッフに聞くと、「よく解らないけど登山道はあるようです。鎖場なんかもあって急な登りらしいですよ」との返事だ。どうも地元の人ではないようだ。
 登山道は後で探すとして、茅打バンタに行く。バンタとは断崖のことで、茅の束を崖の上から放り投げても、海からの強風で束がほどけて舞い上がるという例えから付いた名前だそうだ。昨日この下を通ったのだが、トンネルになっていて気がつかなかったのだ。なるほど高い崖である。展望台から海の景色も絶景だ。
  茅打バンタのやや北方に北国小学校があり、その校門前の百メートル程の通路に桜が満開、いや少し過ぎた頃だろうか。やんばるで最も桜の美しい場所ではないか。しばし見とれる。Img_2748 Img_2752


北国小学校の桜並木と茅打ちバンタから宜名真を見下ろす。




 さて登山道のことだが、昨日奥へ通じる峠の途中に「登山者のための駐車場です」とベニヤに書かれた看板があったのを思い出す。もしやと思いその向かい側の急坂を登ってみる。少し行くと広場があって祭祀の跡がある。そして「辺戸岬の御天軸は神々の大聖地である云々」の立て看板があり、森の中に祠や拝所があり、黄金山と書いた石碑がある。間違いなく登山道であるが、少し気味が悪い。金剛林山と違いこちらには誰も来ない。六根清浄を唱えながら走るように登る。洞窟に拝所があり、ゾクッとしたら鎖場に着く。ぐいぐい登るとジャングルを抜け明るい尾根に出る。左側は垂直の壁で高度感抜群、右側は樹林帯だが結構急である。慎重に登るとそこは頂上、金剛石林山の展望台なんて問題にならないぐらいの360度の眺望、大満足の山頂だ。よくぞ登山道を探し、気味悪いのを我慢して登ってきた。ちなみに山頂には三つの祠があり、そのうち白い祠が金剛石林山から見えた展望台の様なものだったのだ。山頂で充分眺望を楽しんだら早速下山、転がるようにして下る。あっという間に登山道入口に到着、時間は15時、40分間の登山であった。Img_2771Img_2758 Img_2763 





左:やっと見つけた登山道入口  中:山頂の祠のひとつ  右:頂上から辺戸岬方面

 58号線の峠を少し登ると北国小学校発祥の地の碑がある。恐ろしく山深い、何でもないところである。ちょっと想像できない。Img_2770 Img_2777

下山時に見つけた呪文?と北国小学校発祥の地


 宿に着くとお風呂が沸いている。嬉しいですね。夜はこの宿「海山木」のファンクラブが例会の宴会をするとか。この宿が好きなだけで、北は北海道から南は沖縄まで6,7名の人が集まるのだ。たった一晩飲むだけに沖縄の北の端まで来られる根性というか、余裕というかよく理解できないものがある。それにしても愉快な方達ばかりですっかり御相伴にあずかって、酔っぱらってしまった。ビール、泡盛、ウィスキー、日本酒のオンパレードだから無理も無い。抱きかかえられながら、部屋への通路でひっくり返ったのは憶えているが後は記憶がない。

走行距離 24Km    累計 6、497Km   経費 1,665円

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沖縄最北端辺戸岬へ 2/23

2007-02-27 | 旅行記

 2007.2.23(金)快晴
 6:45 起床
 8:30 民宿中間荘発~前泊9:00~運天港10:20~R505~R58~大宜味村(おおぎみそん)~国頭村(くにがみそん)~辺戸岬(へどみさき)~奥民具資料館
17:00 民宿海山木(国頭村奥)着

 伊平屋航路はよく荒れるそうだ。特に二月は二月廻しといって地元の海人もおそれているそうだ。今日も風が強く波が高い。港を出ると先日訪れた屋蔵墓の海岸、米崎のビーチや野甫島が見え始めなつかしい思いがする。伊是名島を通り過ぎる頃眠ってしまった。
運天港に着き下船するが、車は五台、原付が一台と寂しい乗客である。やがて飛行場が出来るそうだが、そうなると船の客も減り、運営も大変になるだろう。Img_2673
 今日は久々に長距離を走るので緊張する。国道58号線に出るともの凄い西風が吹いている。塩屋大橋の上などロウギヤで立ち漕ぎである、時速8Kmぐらいしか出ない。海からの風は潮を含み、沖縄の車が錆びるはずだ。風は直角に左から吹いているのだが、岬というか尾根の出っ張りの南側ではまともにアゲンストとなる。風が尾根に当たって北風となるのだ。出っ張りを越えると追い風となって、漕がなくても進む事が出来る。
 道路の所々に拝所がある。自転車でなかったら、あるいは興味がなかったら絶対に見つからない程ひっそりと存在している。Img_2677 Img_2681

道ばたにそっとある拝所と墓場の脇にあるオランダ墓


 宜名真のあたりの墓地の中にオランダ墓というのがあり、明治7年に英国船が遭難しこの海岸に漂着した。生存者は5名で他は総て溺死して、4名の死体が漂着したそうである。その墓であり、オランダというよりイギリスとなるのだが、外国は総てオランダであったのかも知れない。
 辺戸岬は沖縄本島最北端の岬である。ネコハウスに同宿のまさる君が「辺戸岬は沖縄じゃない、あそこは日本海ですよ」と言っていたが、確かに沖縄の風景ではない。遠浅のリーフではなく波も高い、日本海とはよく言ったものだ。岬に祖国復帰闘争碑というのがあり、碑文には「全国のそして全世界の友人に贈る」で始まる強烈な文章が記されている。 Img_2685 Img_2690  
Img_2688




左:辺戸岬  中:祖国復帰闘争碑  右:碑文(クリックして拡大すること)

 海よりも反対の山、特に白い断崖の山が気になる、あれが石灰岩の金剛石林山なのだろう。さっそく登山口に行ってみるが、そこでは客引きがなされ入山料800円を取っている。ばかばかしくなり宿泊地奥へ向かう。ところがその道中、見上げる岩山は雄大で神秘的ある。やはり明日登ってみよう。Img_2684
 

逆光に映える岩壁の山


 奥への下りに桜並木がある。紅い花のヒカンザクラである。盛りは終わって葉桜になっているのもあるが、桜を見ると心がうきうきするものだ。またヤンバルクイナや山亀の横断注意の標識がやたら出てくるが、カラスしか出てこない。Img_2691 Img_2692

 奥の中心部に民具資料館や宿泊施設があり、資料館による。宿は国道58号線の終点近くにある。58号線は沖縄の西海岸を那覇からここ奥まで走っている幹線国道であるが、実は鹿児島市を始点とし奄美大島を通り、沖縄に続いている海上国道でもあるのだ。Img_2708 Img_2709

海上国道58号線の碑と奥川橋起点の印



 今日の宿泊地、民宿海山木(みやぎ)は茅葺き屋根の食堂で趣がある。何よりもありがたいのは薪で涌かすお風呂があること。北谷以来シャワーばかりなので湯船のお風呂は本当にありがたい。

走行距離 73Km    累計 6、473Km   経費 12,845円

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村史を読む 2/22

2007-02-25 | 旅行記

 2007.2.22(木)雨、曇り
 7:55 起床
15:30 民宿中間荘発~歴史民俗資料館~東線

 朝にかけて雨の音が激しく鳴り、いつまでたっても断続的に降っている。昨夜よくぞキャンプしなかったことか。今日は一番船で本島に戻り行けるところまで行く予定だったがこの雨では走る気もしない。朝食の後再度宿泊を決め、雨読とする。女将に図書館はないかと聞くが、残念ながら無いそうだ。ごろごろしていたら、女将が立派な「伊平屋村史」を持ってきてくれた。実は昨日島中を巡ったのだが、島の民俗や習慣について疑問がいくつかあってもやもやしていたのだ。早速読み始めるがなにしろ538ページにわたる大作である、読破まで6時間もかかってしまった。その間泡盛が一瓶開いたのも言うまでもない。この島の泡盛は照島という銘柄で沖縄返還(昭和47年5月15日)までは伊平屋島でしか飲めなかった代物だ。Img_2669
Img_2670_2
伊平屋村史(昭和56年12月25日発行)と照島





 伊平屋には驚くほどの多くの風俗行事、年中行事や宗教的行事が残っている。有名なものは旧暦7月に行われるウンジャミ(海神祭)で一日がかりの海神をお迎えして海の幸を祈願する祭りである。月の内10日ぐらいは行事があり、事細かにしきたりがあるようだ。
勿論今日では廃れている行事もあるが、かなりのものが残っているということだ。まさに民俗学の宝庫である。
 もう一つ興味深いのは沖縄戦における米軍の占領である。守備隊の存在しない離島における沖縄戦はどのようなものであったか知るよしもなかったのだが、村史あるいは歴史民族資料館の資料で悲惨な占領の事実を知ることとなった。伊平屋村に米軍が上陸したのは昭和20年6月3日のことである。島民は島の東海岸を航行する米艦隊百数十隻を見て、奄美大島か本土に向かうものと思ったそうである。ところがいきなり艦隊に包囲され攻撃が始まったのである。島中大騒ぎになるが、住民ばかりなのであっという間に占領され、3日後には総ての島民は田名に集められ、捕虜生活を余儀なくされたのである。この辺の戦前、戦中、占領時、米軍撤退後の様子がその後村長を務められた新垣安助氏の名文で具体的に事細かに記されてある。41ぺーじにわたる大作だが一気に読んでしまった。実は住民ばかりでなく、不時着した特攻隊員の生き残りや特務機関の軍属が村民の中に隠れており、ついには米軍に発見されることとなる。そのあたりのいきさつはまさに息を呑む状況なのだが、結果は殺されることはなく本土に帰還することとなる。民族資料館には米軍提供の占領下の伊平屋村の写真が数百枚展示してあり島民の悲惨な様子(本島や伊江島など戦闘地域とは比べるべくもないが)や荒垣氏の文章を裏付ける貴重な資料となっている。
 その他亀甲墓に代表する沖縄における葬祭制度について詳しい内容が村史に載っていた。これらについては後日改めてご紹介したい。
 夕方雨が上がったので、いつものようにビールを買いに農協へ行き、腹ごなしのために東海岸を少し走ってみる。島の道路はどこも立派で、広い歩道と花壇が着いている。初めて宮古島に行ったときに、島の案内の方が、「島の第一の産業は何かと思います、サトウキビでも観光でもないのです、それは島に落ちる離島振興対策費という補助金で行う土木や建築なんです。」と言っておられた。どことも同様で例え車が通らなくても道路は整備されていくのだろう。Img_2667 Img_2668 Img_2666

左:昨日登った腰岳 中:前泊のシヌグ堂  右:東線

Img_2672Img_2578_1Img_2658




左:港の正面にある虎頭岩  中:中間荘の宿泊棟  右:前泊の内



走行距離 5Km    累計 6、400Km   経費 800円

★民宿中間荘 国頭郡伊平屋村前泊 1泊2食6,000円 広い敷地の平屋で、トイレ
 シャワー付 コインランドリーもあって旅には便利。 

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伊平屋島めぐり 2/21

2007-02-25 | 旅行記

 2007.2.21(水)雨、晴れ
 7:40 起床
10:00 民宿中間荘発~屋蔵墓(やぐらばか)~米崎海岸(よねざきかいがん)~野甫島(のほじま)~念頭平松(ねんとうひらまつ)~クマヤ洞窟~久葉山(くばやま)~ヤヘー岩~腰岳~神アシャギ~
18:00 民宿中間荘着

 夜来雨の音、憂鬱なことこの上ない、準備をしている間は晴れていたが出発時にはまたしてもびちびちと降っている。合羽を着て出発、屋蔵墓入口のあたりでは止んできた。屋蔵墓は沖縄第一尚氏、尚巴志王の先祖にあたる屋蔵大王の墓と言われる。昭和10年に6個の石厨子が発見されている。休憩所と案内板はしっかりあるのだがコンクリートの通路は波に洗われずたずたに壊れている。一体どこにあるのだ。まづ南の海岸を探す、500m程歩くと砂浜の端に突き当たる、何もない。砂浜は綺麗な風景で珊瑚や貝殻がうずたかく寄せている。海の漂流物もかなり打ち寄せ、浮きなどの漁具に混じって中国語で書かれたペットボトルも多く打ち上げられている。元の位置に戻ると北側にコンクリートの手すりが見える。海岸の岩を飛び越え飛び越え行くと、あったあった二つの岩の間に洞窟の部分は小石で塞いである。小石の間に「第一尚氏」と掘られた香炉が置かれている。また右手には「屋蔵大王陵墓」という黒御影の石柱が建っている。実はこれは墓の持ち主や村による設置ではなく、誰かによって知らない間に建てられたもので、文化財の破壊と見なし撤去を要請しているものだそうだ。Img_2581 
Img_2582  

屋蔵墓付近の海岸と漂流物、ほとんど中国語

Img_2584

Img_2585屋蔵墓と問題の石柱

 前泊から伊平屋漁港までの南向き斜面は門中墓(もんちゅうばか)が並ぶいわばご先祖街道である。この構図は伊江島と同一で風の穏やかな南向きの斜面にお墓が並んでいる。住居も同様で北側、西側の風の強い方面には一軒も居住していない。当然と言えば当然である。最も奥に古い亀甲墓があり、手前の新しいものは切り妻型のものとなっている。墓の形状に何らかの決まりがあるのか、いつか確認したい。また、よく見ると四角いだけの墓がいくつかある。かつてあまり見なかった形である。あまりに単純な形状だけに、いかなるものなのか気になるところだ。
 米崎海岸に着く、キャンプ場があり気持ちよければキャンプしようと思っていたのだが
シーズンオフのキャンプ場ほど寂しいものはない。キャンプは諦め野甫大橋を渡り、野甫島を一周する。Img_2590
Img_2595
米崎ビーチと御産土井戸




 野甫の畑は総てサトウキビである。南面には古い亀甲墓が多く草の緑に覆われた美しいものもある。途中小さな石像物を見つける。寄ってみるとそこは深い井戸で「御産土井戸」(ウフマーガー)といい、かなり古い井戸でその由来が石版に刻んである。島で唯一の水源であったようだが、塩分が混ざり飲料水としては適さないものであったようである。飲料水はもっと遠い森の井戸に汲みに行っていたそうだが、雨が降らないとすぐにかれてしまう井戸だったそうだ。小さな島では水源は貴重な存在であったのだろう。
 北面は伊平屋島同様サトウキビ畑ばかりで殺伐としている。あっという間に野甫大橋に戻る。ここからの景色は北には珊瑚礁と碧い東シナ海、野甫島と伊平屋島のビーチ、南面には具志川島と伊是名島が遠望でき最高である。Img_2596Img_2600 

野甫島北部のサトウキビ畑、右は野甫大橋

伊是名島と伊平屋島はかつては伊平屋村というひとつの村であり、役所は伊是名島にあった。具志川灘という両島の間は潮流が大変速く遭難も起こっており、分村の運動が起き昭和6年に分村された。なお、猛毒で有名なハブは伊是名島には生息して居らず、他島から何らかの事由で入ってきても死んでしまうそうである。ある学者が調査すべく本土に持ち帰ろうとしたが、輸送の途中で死んでしまったとの記事もあった。不思議なことである。磁場が関係しているという説もあるそうだ。ちなみに野甫島にもハブは生息していないそうだ。宮古島もそうである。
 伊平屋島に戻り島の西側を北上するアッチャビシ線を走る。県道ではないので村道と言うことなのだろうが、広く、美しく、通行量のない道路である。サイクリングには最高だ。荷物を民宿に置くために我喜屋を通って前泊に戻る。前泊で唯一食事の出来るまいど食堂へ行く。沖縄そばの大盛りを注文、600円は高いのか安いのか。沖縄そばは食した人はご存じだろうが、うどんでなくラーメンでなく、なんとも表現しがたい麺類である。これに豚の角煮、卵、かまぼこ、紅ショウガを入れたものがこの島の定番らしい。決して旨くはないのだが、沖縄に来てから昼食は大抵これである。事前調査の沖縄学では、沖縄には日本そば、ラーメンは育たないとあったのだが、中々どうしてラーメン屋は沖縄そば屋をしのぐ勢いだ。ただし那覇から北谷あたりまでのことだが。日本そばの専門店も出始め、北谷では沖縄そばを探してしまった。沖縄に来てからは沖縄そばに徹している。この気候、この風景にはあっているのだろう。島とうがらしという小さな唐辛子を泡盛に漬けた沖縄独特の調味料をどばっと入れて食するとこれまた旨いのだ。Img_2603
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前泊で唯一の食堂、右は念頭平松


 田名を迂回し東に向かうと俗称ネント原と言うところに念頭平松(ねんとうひらまつ)という銘木がある。琉球松という種類なのだそうだがこの枝振りは凄い、内地には決してない枝振りだ。
 さらに北に進み、眼前に大きな岩壁が見えると思ったらクマヤ洞窟である。籠穴とも書き、神が籠もる穴といわれている。江戸時代の学者藤井貞幹が「天の岩戸はこのクマヤだ」発表し、昭和43年に天の岩戸開きの神事が挙行されたということだ。チャートで構成された大岩壁にできた大きな洞穴で入口は天の岩戸を思わせるチョックストーンがあり入るのには苦労する。中は広く、海砂が堆積している。海岸から50mは登っているのにこれだけの砂が運ばれるのは相当強い風が吹くのだろう。これは吹上砂といい洞の横の山腹にも砂が堆積している。洞の奥は左右に分かれており細くなって続いている。その分岐点に社殿が祭ってあり、おそらく天照大神が祭ってあるのだろう。そういえば伊江島の城山御嶽にも天照大神が祭ってあった。御嶽(ウタキ)の性格から言えば矛盾だと思うが。事ほど左様にこの社殿についても村が設置したものではなく、建設者も不明で新聞等で撤去を呼びかけても誰も申し出ないという、いわゆる文化財の破壊の一種なのだそうだ。山の西側にも同様の洞穴があり、クマヤ洞穴と繋がっているという伝説があるが、私は社殿以上入る勇気は無い。誰もいない洞窟で薄暗い穴に入るのは気味悪いぜ。ここまで入っただけで結構勇気があると思う。逃げるようにして外に出ると珊瑚礁の美しい海が広がっている。引き潮時期と見えてリーフとラグーンが海岸沿いに果てしなく続いている。Img_2622
Img_2612Img_2615


 





左:手前から見たクマヤ洞穴、大岩の向こう側に洞穴がある。 中:道路から50m程階段を登る。 右:入口部分はかなり狭い

Img_2618 Img_2621
洞窟の中はかなり広く、砂が堆積している。出てきてほっとしている私。



 左方にはもこもことした久葉山(くばやま)と伊平屋島灯台がある。田名の御嶽はこの久葉山にあるということで、急な坂が見えているが行ってみることとする。山頂からの景色は格別である。Img_2624_1 Img_2627

クバ山とクバの木






 山を下り西海岸を気分よく走る。誰も通らないのに道は抜群である。無蔵水(むぞうすい)、ヤヘー岩など伝説の残る名所を訪ねる。ヤヘー岩には太古築城の跡があるということだが、半分水に浸かるこの地に城を築く意味は何なのだろうか。一説には海から攻めてくる外敵に対する備えということである。確かに海から見るヤヘー岩の写真を見ると強烈に切り立っており効果がありそうである。Img_2632
 伊平屋島は伊江島と違い山が沢山ある。南から阿波岳(212m)、賀陽山(293m)、腰岳(227m)、アサ岳(218m)、後岳(230m)、タンナ岳(236m)、そして最北久葉山(94m)である。標高は低いが海からいきなりなので大きく見える。腰岳は林道が上がっており簡単に行けそうなので行くことにする。地図を見ると田名から林道が入っているようなので探すがそれらしいものはない。県道179号線からの道も見つからない。ついには前泊まで帰ってしまい、役場横の道を上がってゆくと林道に行き着いた。
自転車では登れないほどの急登を自転車を押しながら30分ほど登ると頂上への山道に出逢った。自転車をおいて歩いてゆくが、これも急登で息が切れる。南国の山らしくまるでジャングルだ。そういえばところどころ「ハブに注意」の立看板がある。どう注意すればよいのか、ハブはマムシの比じゃないときく。やっと着いた山頂もジャングルの中で、視界も展望も無い。一応石で造った拝所の様なものがあり、記念撮影をしてさっさと下山にかかる。おまけに雨も落ちてきた。くわばらくわばら。Img_2640
Img_2637 Img_2638





左:腰岳登山道、ジャングルの中を行く。 中:山頂の拝所  右:一応登頂記念

 最後に島尻の神アシャギに行く。神アシャギというのは古来海から来られるニライカナイという神々を迎える場所で、床や壁のない茅葺きの小屋である。島尻の神アシャギはガジュマルの茂る広い庭にあり下に珊瑚や貝が敷き詰めてある。かつては海上にあって床を高くして設けていたそうである。珊瑚や貝はその名残なのだろう。沖縄本島や各離島にも存在するのだが、伊平屋島が最も数が多いとの資料が名護の博物館にあった。(伊平屋島の拝所の数は33カ所)Img_2652

島尻の神アシャギ


走行距離 67Km    累計 6、395Km   経費 6,800円

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伊平屋島へ 2/20

2007-02-25 | 旅行記

 2007.2.20(火)曇り、雨
 7:30 起床
 9:20 民宿渚発~伊江港10:00~本部港10:30~R505~本部町歴史博物館~      今帰仁村(なきじんそん)歴史文化センター~運天港(うんてんこう)15:00~前泊港16:20~伊平屋村歴史民俗資料館(いへやそん)~
17:30 民宿中間荘着

 内地は暖かく好天が予想されている、3月下旬の気温とか。こちらはどんよりとし薄ら寒い。昨日までの半袖ではもたないので冬の長袖とする。北側の部屋からは伊江島タッチューが見える。ゲストハウスでは新聞が読めないのでこの際に読みあさる。沖縄の二大紙
琉球新報と沖縄タイムスを昨日分と合わせて読む。嘉手納基地へのF22ステルス戦闘機の配備が大記事、米軍演習が住民や国道に銃を向けた問題、民間地域に不時着した米ヘリコプターの問題、そして伊江島で戦時中の遺骨が発見されたという記事、沖縄の新聞は迫力がある。同時に戦争も戦後もまだ終わっていないぞという気がする。
 伊江島には今でも米軍の施設が残っている。補助飛行場と通信隊等である。私が伊江島を去るフェリーにも20名ほどの海兵隊員が乗って上陸してきた。迷彩服の兵隊達は島の人にとっては日常茶飯事でなにも感じないのだろうか。慣れない私にとっては不気味で腹立たしい思いなのだが。 Img_2560 Img_2563

瀬底大橋と本部町の博物館

  観光バスやわナンバーの行く海洋博の会場となった海洋博公園には何の魅力もない。国道を今帰仁村(なきじんそん)に向かって走る、このあたりでようやく沖縄の本来の民家が現れる。那覇からこのあたりまで国道沿いでは古い家屋は無くなり、鉄筋コンクリートの四角い家屋ばかりになっている。もちろん、風に強く居住性のいい家に取って代わるのは当然のことであるが、なにか寂しい気がする。内地で言えば茅葺き家屋の様なものなのだろう。古い家をよく観察すると規模は違っても普天間の中村家と同様の配置となっているようだ。
 具志堅西あたりで雨が強くなって、バス停で一時間あまり雨宿りする。このあたりの丘陵も墓が多くあり、よく見ると亀甲と切り妻の中間タイプの墓が混じっている。しかし亀甲墓は無いのだ。古いうち捨てられたような墓の中に、崖に横穴式の墓を設けたものがいくつかある。ひょっとしたらこれが亀甲墓の原型なのではないだろうか。
 晴れてきたので走り出すが今帰仁城址入口の辺でまた降ってきた。雨宿りに今帰仁村歴史文化センターに寄る。今帰仁城跡は広大な遺跡だが過去に訪れているので割愛し文化センターだけ寄ろうと思う。雨をしのげる建物に自転車を駐車するが、入口が解らない。
よくみると団体出口と書いてある。入口を探している間におしっこがしたくなった。なんと団体出口が開くではないか、さっそくトイレに行って、ついでに展示も見て回る。いくらか知らないが入館料を払わず、無銭入場してしまった。ごめんなさい。決して悪気でやりました。
 小降りの雨の中を運天港に急ぐ。運天港は、伊豆に流されていた源為朝が嵐にあって漂流し、運を天に任せて流れ着いたという伝説のある港だ。Img_2569 Img_2572

運天港のターミナルと古宇利大橋



 運天港から右手に古宇利大橋を見ながら80分の船旅、ビール飲んで昼寝して最高である。伊平屋島前泊港に着いたら目の前に伊平屋村歴史民俗資料館がある。30分しか無いが寄ってみる。一日に3件の博物館を廻ったのは初めてだ。

走行距離 29Km    累計 6、328Km   経費 13,623円

★民宿渚 (国頭郡伊江村) 一泊二食4,500円 伊江港すぐの高台にある民宿、暖か  
  いもてなしでこの値段はお得。部屋の窓からタッチューが見える。
Img_2556

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伊江島 2/19

2007-02-25 | 旅行記

 2007.2.19(月)曇り
 7:45 起床
 9:24 ビーチバムパラダイス発~R449~本部港11:00~伊江港(いえ)11:30~民宿渚12:00~伊江島タッチュー、湧出(わーじ)、団結道場、ニャテヤ洞、ミンカザントウ、アーンーパイル記念碑、伊江島郷土資料館、ヌチドウタカラの家、公益質屋跡、島村屋敷

  夕べから断続的に雨が降っている。朝はどんよりとしており憂鬱である。伊江島行きのフェリーが11時発というので行ってみることとする。国道449号線は名護の市街地では狭くて走りにくい。とにかくダンプの走行が多いのだ。海洋博に向かう道路なのだが今頃になってやっと拡張している。ダンプが続く理由はその先に大規模な採石場があるからだ。半島の形が変わるほどの大規模な採石場で、山は削り取られ悲惨な姿をさらしている。沖縄で最も美しかった地域が最も醜く変わっている。開発ってのはそう言うものなのか。Img_2485
Img_2487

左:削り取られた本部半島の山々
右:船上から伊江島

 伊江島は初めて沖縄を訪れた時から行ってみたい島であった。遠くから眺めたその姿はまるで軍艦みたいでそのブリッジとも思われる部分がタッチューである。フェリーから伊江島が近づくにつれてタッチュー(正式には城山グスクヤマ)の中腹まで建物があるのに
少しがっかりする。伊江港に降り立つとすぐに民宿に向かう。船で知り合った人に教えてもらった民宿に行くと満室とのこと、次の民宿も同様に断られる。シーズンでも休日でもないのになんてこったい。四軒目でようやく予約がとれて、荷物を預けタッチューに行く。
中腹まで自転車で登り、見上げるが一体どうして登るのかと心配なほど急な岩山だ。標高は172mなのだが海からいきなりなので結構高度感がある。北側が少し緩い斜面でカジュマルなどの亜熱帯の木々のジャングルとなっている。その間を家の階段のような急なコンクリートの階段が続いている。心臓が飛び出すかと思う頃頂上にたどり着く。遮るものは何もないから島中が見渡せる。なんと平べったい島なのか。それ故に沖縄戦の激戦地区となったのだろう。占領すればそのまま飛行場にできるからだろう。北には遠く伊是名島、東には背の低くなった本部半島、西には碧い東シナ海が広がる。Img_2490
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タッチューとその頂上、西側の風景

 タッチューを降りると北に向かう。広い畑が続き、丁度サトウキビの収穫が終盤となりたばこの植え付けが行われている時期である。手作業でサトウキビの刈り取りを行っている畑もあり、大変そうである。昨日まで口ずさんでいた歌は島唄だが、今はざわわである。
この小さな島で五千人もの戦死者を出し、島中を焼け野原にし、戦後も住民全員を移住させた戦争って一体なんなのだろう。私は明日この地を去ることが出来るが、戦争でこの地に送られた兵士は生きて帰れないことを自覚していたのではないか。ざわわざわわ一日中口ずさんでいた。
 湧出(わじー)は断崖と打ち寄せる波が凄い景色をつくっている。特に周りには誰も居らず、この景色を独り占め出来るのは最高である。波打ち際からは真水が湧きだし昔から重要な島の水源となっている。湧出の語源もこのことにあるという。今でも遊歩道の終点に水道設備が稼働している。あまりに美しいので海岸に降りる道へも行ってみる。断崖を下から見上げるのも一興だ。Img_2504
Img_2510

湧出を上からと下からと見たところ。

 次の訪問地ニャテヤ洞に向かう途中に団結道場というのがある。戦後10年もたってから米軍に土地を接収された伊江島農民の戦いを私は知らなかった。Img_2514
ニャテヤ洞は御嶽としての宗教的意味もあるが、戦時中に軍属村民が避難した場所としての意味が深い。別名千人洞(センニンガマ)と言われるガマに一人で入っていると暗闇の中に避難民が居るようで気味悪くなった。中にはニジル石という伝説の石があり、子授けの神様だそうだ。持ち上げて軽く感じたら女の子、重ければ男の子を授かるそうである。私も持ってみたが、軽く感じましたなあ。海岸への出口が近づくと波の寄せるポコポコという音が洞内に響き、何とも神聖な気分となる。海岸に出ると、段丘が黄緑の海草に覆われ、その先に珊瑚礁の海が広がる、驚くほど碧い海が広がっているのだ。Img_2527
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左:ニャティヤ洞入口  中:洞内ニジル石  右:海岸に出ると碧い海

 ニャティヤ洞から伊江港までの南面は広大な畑が続いている。北面と同様たばこの植え付けの最中である。夫婦でトラクターに取り付けた植え付け機(何というのか解らない)に腰掛け手乗り、苗を送り込んでいる。ほほえましく見えるのだが、お母さんの後ろに子供が乗っているのを見つけた。子供にとっては楽しい事と思う。サトウキビとタバコの他にはハウスで花卉の栽培が行われている。よく見ると菊の栽培である。人を使って大々的にやっている農家もあるようだ。畑の続く中にミンカザントウという貯水設備を見つけた。
岩盤を利用して雨水を集める設備で、戦前のものらしい。今でこそ地下ダムや灌漑設備の充実で水を得ることは出来るのだろうが、かつての島では水を得ることが大変なことであったのだろう。また、この南の段丘には門中墓(ムンチュウバカ)が密集している。北面、湧出のあたりでは一区画三件の墓しか見られなかったが、やはり墓の設置については何らかの決まりがあるようである。伊江島では切り妻型の墓ばかりで本島の浦添、宜野湾、北谷あたりで見た亀甲墓は見あたらない。Img_2530
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タバコの植え付け風景(クリックして拡大すること)とミンカザントウ(左の部分は自然石で平にして集水出来るようにしてある)

 港に戻り、無料の歴史資料館を訪れるが、考古や自然が主流で私の好きな民俗関係の展示が無く、沖縄戦に関する資料も無いので早々に退散し、ヌチドウタカラの家に急ぐ。命は宝という意味である。
 ヌチドウタカラの家は島の南西部にあり、その名は昔から知っていたが実はその内容は
無知であった、伊江島にあることさえ知らなかったのである。おぼろげに第二次世界大戦の沖縄戦に関する情報発信源という気はしていたのだが実はそうではなく、戦後10年以上たってからの土地強制収容に対する運動の拠点というかコアのようである。無知な己を恥じ阿波根昌鴻氏の「米軍と農民」岩波新書を買った。展示は強烈なものである、ガマの防空壕の中で自決のため殺した我が子の衣服や戦後生活のため米軍代弾薬の処理をしていて爆死した村民の写真など生々しい。戦争というものが如何に非人間的な行為であるか、展示物は語る。
 最後に村役場の近くにある公益質屋跡を訪ねる。破壊尽くされた伊江島の建造物の中で唯一残った建物である。木造の建物が多い中でコンクリートの建物であったためだろうか、それでも爆撃と銃痕の跡が悲惨である。Img_2551    
Img_2548Img_2554 



左:ヌチドタカラの家  中:銃弾、爆弾の山  右:公益質屋跡

走行距離 44Km    累計 6、299Km   経費 3,514円

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懐かしい名護の街 2/18

2007-02-25 | 旅行記

 2007.2.18(日)曇り、雨
 8:00 起床
 9:30 ネコハウス発~R58~県道~残波岬(ざんぱみさき)~R58~万座毛(ま          んざもう)~名護市球場~
15:30  ビーチバムパラダイス着~名護市博物館

  暑く寝苦しい夜を過ごし、今日は走るぞという緊張感がある。ネコハウスの同宿のまゆとまさるのペアは宜野座の阪神キャンプを見に行くという。ちなみに彼らは一ヶ月滞在するそうだ。今日が宜野座キャンプ最後のチャンスなのだ。てっきり2月一杯と勘違いしていて来週ぐらいに見に行けると思っていたのだが、今日で打ち上げなんて残念だ。しっかり写真撮ってきますなんて言いながら楽しそうに出かける二人を見送って、ボスの入れてくれたコーヒーで朝食をとる。「ボス質問、僕みたいなおじさんはネコハウスに来たことありますか?」「30才以上の人は初めてです、それにチャリンコの人も初めて」「やっぱりね」楽しい思い出ありがとう。Img_2444
Img_2441

MMペアと改装中のネコハウス新館

 喧噪の58号線を避け、ハンビータウンの通りを北上する。国道に出ても走りやすい、左側車線の軽車両等の指定は嘉手納の手前で無くなり、代わりに歩道が自転車通行可になり、内地と同様となってきた。しかし路肩も広く歩道を走る必要はまったくない。日曜日とあってロードレーサーでの走行もかなり多い、みんな追い越しながら声を掛けてくれる。残波岬への県道でも同様で車道をスイスイ走れる。途中読谷村では昨日のショップに出合う。残波岬周辺は日航や大和ロイヤルズの大手によるリゾート開発がなされ、ゴルフや散歩を楽しむ人々で賑わっている。灯台の周辺はゴツゴツした断崖が続き、豪快な景色となっている。折からの風で潮吹き岩も高い波を上げている。Img_2456Img_2455
残波岬の風景、潮吹きも凄い

 そのまま県道を北上し恩納村を通過する。34年前の恩納村の面影が湧いてこない。雑木林ばかりの砂利道を歩いたような気がするのだが、今はホテルや施設が建ち並び、昔の面影は微塵もない。国道に戻ると多くのビーチが次々と現れる。かつては米軍の専用ビーチとなっていたものもあったと思うが、今では総て使えるようだ。自転車も走れる遊歩道が続いており気持ちのよいことこの上もない。
 万座毛は以前にも行ったので気が進まないが時間的余裕があるので行ってみる。以前と同じ土産物屋と風景で安心する。でも北の浜にあるでかいリゾートホテルはきっと無かったのではないか。Img_2465
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ご存じ万座毛と国道沿いの遊歩道

 名護の街に到着、きれいな街である。以前に来たときには寂しい田舎町という印象だったのだが、今は好感の持てる街だ。ごみごみしていないし、コンビニやマクドナルドなどの店が無い、いや少ない。それだけで街としては最高である。煉瓦とシーサーの市役所は昔のままで、いい建物である。Img_2469
Img_2482

名護市役所と博物館

 宿は人気の名護ゲストハウスが満室で、系列のトレーラーハウス、ビーチバムパラダイスを照会してもらう。7名使用のドミトリーと炊事場、シャワー、ついでにビーチまで独り占めして1,500円は安い。スタッフの女性は神戸出身の移住希望者で、ここにきて十ヶ月ということである。昨日は旧正月の前日でいろんなイベントがあったと言っている。沖縄では旧正月がいきているのだ。ちなみに新年のあいさつは「いいしょうがちでーびる」と言うそうだ。
 明日は休館であろう博物館に行く。名護、やんばるの自然と生活を現物や剥製を使ってわかりやすく展示してある。一昨日中村家で見た豚小屋は予想通り便所兼用で、ウワーフルというものらしい。中国では人糞を豚が食べると聞いていたが、まさにその通りであった。また沖縄在来の黒豚をアーグという。外来種におされて今では絶滅寸前ということである。Img_2476

走行距離 83Km(名護博物館往復6Km含む)

    累計 6、255Km   経費 6,498円

★ビーチバムパラダイス(名護市宮里)名護ゲストハウスの姉妹店のトレーラーハウス
 7名泊まれるドミトリーで1,500円。自炊設備などしっかりあって、海は目の前。Img_2484

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フリーマーケットめぐり 2/17

2007-02-25 | 旅行記

 2007.2.17(土)曇り
 5:40 起床
 6:00 ネコハウス発~嘉手納基地フリーマーケット~読谷村(よみたん)の店~
12:00  ネコハウス着
      掃除洗濯etc
18:00 ネコハウス~北谷(ちゃたん)ハンビーのフリーマーケット

  ネコハウスのヘルパー山田君がフリーマーケットの仕入れをしに米軍キャンプのフリーマーケットに行くというので主、宿泊者共々6人で行くこととなった。オープンは7時ということだが、掘り出し物はすぐに売れてしまうとのことで6時過ぎからゲートの前で並ぶ。ネット越しに品定めをするのだと山田君は言う。山田君はウチナーの学生さんだが商才があるようで、土日のフリーマーケットで結構稼いでいるらしい。ちなみに山田という姓は内地ではありきたりだが、沖縄では少数派だということだ。まだ雪を見たことがないというので、真冬の信州あたりの温泉でも連れて行ったらどうなるか見てみたいものだ。 経度の関係で京都なら明るい時刻なのに真っ暗である。よく解らないが1時間ほどの差があるのだろうか。逆に日没はそれだけ遅くて6時を過ぎてもまだ明るい、なんとなく得した気分である。ここのキャンプ内のフリマは第二、第三の土日にあり、衣類、家具、靴、電化製品、玩具、家庭用品などがあり、多いときは千人を超える人だかりだそうだ。基地を出て坂を下ったところの路上のフリマは沖縄の人の出店で、毎週土日開催され、衣類や靴の他にアンティーク、古本、古道具、野菜、米軍放出品等がありこちらの方がおもしろい。米軍放出品など驚くような安さで、その上値切ったりおまけを付けてもらったり大変楽しい。米軍放出品大好きの中野君に買ってやろうかと電話するが不在で繋がらなかった。写真でもと思いメールで送ってやる。その後読谷の店にも立ち寄り、みな思い思いに買い物をする。Img_2428 Img_2433

基地とその近所のフリーマーケット

私は米軍放出のバッグと自動車のナンバープレート、空軍の灰皿とフォークを買った。しめて1,500円使ったがゆうパックで京都に送ったら、1,050円取られた。なんとなく解せない。Img_2440
 ハウスに帰ってからは洗濯をしたり、ビールを飲んだり昼寝をしたり、なんとなくけだるい。全然自転車を漕ぐ気にはならない。沖縄2日目にしてナンギーのウチナーチュになってしまった。
 夜はハンビーのフリマに食事がてら出かける。ハンビーというのは地名で、このあたりは元米軍基地で射撃場跡だそうだ。ハンビーというのは基地関係者の名前だそうだ。郵便局もハンビー郵便局という名称である。通りの両側に五カ所のフリーマーケットがあり、土曜日曜の夜に開催されている。衣類、装飾品、靴、バッグなどが主で山田君の店もいい場所で出店している。スニーカー専門で店構えも凝っており人気がありそうだ。食べ物の店もいくつかあって、食事をして帰る。Img_2442

走行距離 5Km    累計 6、172Km               
経費 8,711円

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沖縄上陸 2/16

2007-02-25 | 旅行記

 2007.2.16(金)曇り
 8:00 起床
 9:00  那覇港着
 9:45 那覇港発~国道58号線~伊佐~県道~普天間天満宮~北中城村中村家~
      石平~瑞慶覧~北谷~
15:00 ネコハウス着~美浜の湯往復

  琉球エキスプレスは名瀬(奄美大島)、亀徳(徳之島)、和泊(沖永良部島)と寄港するのでそのたびに起こされる。乗船する客もかなり居て船室が騒がしい。眠い目をこすりながらも旅立ちの緊張感が湧いてくる。下船できたのはもう九時となっている。Img_2392_4旅客案内所で荷物を整え、朝食を取れるところを探す。本格的なレストランは11時からの開店が多く、ラーメン屋、コンビニぐらいしか開いていない。4食の間自販機の食べ物であったので本格的な食事がしたいのだが、なかなかやっていない。やっと国道沿いにレストランを見つけ、奥のテーブルに案内される。ウェイトレスが来て、「バイキングは11時からご利用いただけます」と言う。時間は10時30分である。「それでは一品を頼むからメニューを頂戴」「食事も11時からです」ええかげんにせいよ。それなら店空けて、客を座らせるなよな。「11時から食事できますから、それまで飲み物でも上がっていてください」むかついて店を出たが、これが沖縄のテーゲーとか沖縄タイムとか言う奴だと気付く。これから一月近く付き合わなければならない。のんびり行こうぜ。 結局スーパーでおにぎり弁当を買って、国道を北上する。国道58号線は沖縄の幹線道路で那覇から片側三車線が続く。歩道も広く、ゴミなどが落ちていなくてとても綺麗である。本土なら歩道は自転車走行可となっているところだが、こちらでは自転車は走れない。その代わり一番左車線は自動車・二輪車・軽車両と書かれている。同じなら自動車は書かないで欲しい。結局自動車が威張って走っている。しかし路肩も広いので走りやすいのは確かである。地元の自転車はほとんど歩道を走っている。片側2車線となった330号線も同様の表示であったので、どうやらこれが沖縄の流儀らしい。自動車は概して自転車に対して優しく、頭に来るような運転は無かった。Img_2423_2 伊佐というところで「普天間天満宮洞穴、中村家住宅、中城城」などの案内板があり、時間的にも余裕があるので行ってみる。先程買った弁当をゆっくり広げる場所もありそうだ。
 普天間天満宮は沖縄では珍しい神社で洞窟の中に奥社があり、宜野湾市指定名勝を受けている旨看板がある。ところがどう探してもそれらしいものがない。巫女さんに聞くとあっさり案内してくれた。本殿の左奥に神妙に鍵が掛けられており、自由に入ることは出来ない。「洞内ではお賽銭とかはできません」という嬉しいお言葉付きである。洞穴は鍾乳洞の立派なもので、石筍が発達しなかなかの圧巻である。沖縄の神社って歴史的にはいつ頃のものなのだろうか、大抵由来の書いたものがあるのだがそれらしいものは見あたらない。先程の巫女さんに聞こうと思ったらさっさと引っ込んでしまった。寄進の石柱など見ると大正2年の記入がある。なにがしかの歴史はありそうだ。Img_2395_1 Img_2401_1
Img_2400Img_2398_1Img_2397_1   

 もう少し時間があるので、中村家とやらを見に行く。沖縄は戦争の為に歴史的建造物や遺産が少ないと言われるが、こうして残っているものを大切にしたい。中村家は約280年前の上層農家の住宅と言われている。質素な中に凛とした風格を備えており、白い石と紅い瓦、漆喰が対照的で美しい建物である。Img_2405 Img_2414

中村家住宅正面からと裏庭から

  中村家から国道330号線に向かう途中、チブガーとイリヌカーという共同井戸がある今もこんこんと水が湧いているのだが、あまり利用されているようで無く、ちょっと飲む気になれない。沖縄には名水ブームは無いのだろうか。内地だと行列の出来るような景色なのだが。Img_2417
 ネコハウスに着いた後は予定どおり美浜の湯に行く。料金は高いが、大変いいお湯でプールやジャグジーなども利用でき、基地が近いせいかアメリカ人の利用も多く、ハワイのリゾート気分も満喫できる。なお、すぐ隣に野球場があり中日のキャンプが張られている。練習風景を覗いてみたが、背番号が無いので誰が誰だかわからない。Img_2426 Img_2427

北谷は一軍、読谷には二軍がキャンプしている。

右は美浜の湯、無料の足湯もある。

走行距離 35Km(美浜往復等8Km含む)     累計 6、167Km               
経費 6,254円

★ネコハウス(北谷)大阪生まれのタクジがポリシーをもってやっているゲストハウス
 新館を整備中で、できあがるのが楽しみ。ドミトリー2,000円(今回は工事中で1, 500円にまけてもらった)    

★ちゃたん恵み温泉美浜の湯(北谷町美浜)立ち寄り平日1,000円
 Na-炭酸水素塩泉 露天風呂のみ温泉、サウナ、プール、ジャグジーなど併設でリゾ ート雰囲気。ヌルヌルのお湯で源泉掛け流しがうたい。

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再出発に向けて 2/5

2007-02-13 | 旅行記

 2007.2.5(月) 快晴

 今年は暖冬ということで連日の好天が続いている。昨年末に京都に帰ってから年金や健保の手続き、確定申告など煩わしい事務処理を片付けて、2月の初めには西日本に向けて出発の予定であったのだが元旦から腰痛が発症、昨年10月頃から怪しげであった右肩の痛みが続き、どうも体調が思わしくない。歯の治療も含めて完璧な状態で旅立とうと医者や鍼灸に通っている内にパソコンが壊れインターネットが繋がらなくなった。本日パソコンはなんとか回復し、明日歯医者に行き、腰と肩はいまいち不安だが携帯の針と温灸を用意してなんとか出発の用意は出来そうだ。自転車は昨年の反省を活かしいくつかの改良を加えると共にオーバーホールし、今週中には仕上がる予定だ。
 ブログを覗いて応援して頂いている方々から「昨年から更新していないぞ」というお叱りや「身体がどうかしちゃったのか」というご心配の声が届いている。大変申し訳ないのだが、第三週には出発できると思うので今少しお待ち頂きたい。なお、この間前半の旅を「晴徨雨読旅情編」として2,000枚に及ぶ写真を公開しているので参考にして頂ければ幸いである。今年の旅はその後の生活、仕事、生き甲斐を探す旅でもあるので「晴徨雨読独立編」と名付けることとする。
 
 旅情編における自転車の不具合と改良について
パンク2回、バルブ破損2回これが5ヶ月に及ぶ走行中に起こったトラブルである。パンクはいずれも金属片を踏んだもので致し方の無い事と思う。むしろ6,000Km以上走ってこの回数は少ないといえる。26×1.95の太いタイヤを使用したこと、ガラスや
ゴミの多いところを走った際は必ず停車し、タイヤ点検をしたことが功を奏したといえる。
バルブ破損は完全な私のミスで、米式バルブのリムに仏式バルブを使用していたのだ。インフレーターで空気を入れている際にバルブの根本が壊れてしまった。
 今回の改良点
(1)前輪ハブダイナモリムを普通のリムに取り替える。バルブ穴が相違していた件もあるが、リムの径がタイヤとマッチせずタイヤの付け替えが大変だったのだ。ライトは乾電池式のものとなるが、使用頻度等考えれば充分と思われる。
(2)SPDのペダルを登山靴用のフラットペダルに変更する。SPDの方が私は好きなのだが、登山用のSPDシューズでは山は登れない。いくつかの山を登ってきたがそれは悲惨なものであった。また、町歩き用に換え靴を持ち歩いていたのでその分軽量化となる。
(3)フロントバッグを大型に替える。サイドバッグは出し入れが出来ないので、カメラや携帯電話、行動食の他着替え等を収納するには大型のものが必要である。12月の間に購入していたが、今回ベニヤの底板を入れたり、取り付け具合を改良したりした。

コメント (2)
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