晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

上林の盃状穴(49) 10/31

2015-10-31 | 盃状穴

2015.10.31(土)晴 

 御机神社、国中神社を訪ねる(2)

 石段の登り口に「龍尾寺(りゅうびじ)」とあり、「龍尾というものがあり、寺宝とされています」などと書かれている。1m余りの渦状のもので末尾に剣のようなものがあるという、これはおもしろそうだ。急な石段が続き、盃状穴が無いものか目を皿のようにして歩く。石材は御机神社と同様の花崗岩質の黒っぽいものがほとんどで、盃状穴らしきものは見当たらない。お寺の建物が見え始めた頃、横長の石段の中央に泥の詰まった穴を発見、指で泥を払ってみるが、底は浅く凸凹としている。人工的に穿たれた穴のようだが盃状穴ではない。盃状にはなっていなくて、内側が滑らかでない。少し行くと同様の穴を発見、これも先ほどと同じで盃状穴ではない。ただ、どちらも横長の石材のほぼ中央に穿たれている。

 人工のものだとすると一体何の目的で掘られたものか?この石段の幾つかに矢穴跡の残っているものがいくつか見られる。矢穴とは石の切り出しや加工の際にくさびを打ち込むための細長い穴のことである。丸い穴も加工する際に必要となる穴なのかなと昔の加工技術を調べてみるが、どうも丸い浅い穴は見つからない。丸くて浅くて底面の凸凹した穴は他のところでもちょくちょく見かけることがあるので、その正体がわかるまで記録だけは残しておこう。ひょっとしたら自然のものかもしれないのだ。
 少し行くと四角い石に直径が12,3cmもあろうかという穴が見つかった。

これは明らかに人工のものだが、何かの転用と思われる。礎石であって柱を受ける穴ではないだろうか。このように盃状穴ではないがやたら大きな穴がひとつの石に一個あいているものもたまに見かける。西屋の八幡社で見つけた石垣の穴などもその例で、これも礎石の柱穴と考えればいいのだろうか。

西屋八幡社石垣。
 本堂周辺には鐘楼や庭園があるがそのどこにも盃状穴は見つからなかった。かなり古い石仏や道祖神のようなものもあり、お寺の古さを感じる。
 龍尾寺にも盃状穴は見当たらなかった。この付近に盃状穴を穿つ習慣は無かったようである。下りがけに右手林の中に朽ちた石垣を発見、お寺の遺構なのか、それとも飯盛城の出先なのか、城にしてはきれいに残りすぎだななどと勝手な想像をしながら降りてくる。

石材はいずれも同じものでこの付近に産するものだろう。
そして龍尾を見てくるのを忘れたことに気付く。後で調べたらちょっくらちょいと見せてもらえるものでもなかったそうだ。石造物を探しながら忍ヶ丘に向かうハイキング道を行く。つづく

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上林の盃状穴(48) 10/27

2015-10-27 | 盃状穴

2015.10.27(火)晴 上林の盃状穴(47)は2015.8.25

 まずお断りしておかないといけないのは、「上林の盃状穴」とタイトルを付けながらも上林以外の盃状穴についての記事が多いことである。最終的には上林の盃状穴を網羅したいと考えているのだが、盃状穴とは何か?なぜ、何のために、どのようにして穿たれたのかという本題を解決するためには上林だけの盃状穴を観察してもわからないという理由からである。
 また、前回の記事は書きかけなのだが今回の記事は訪問日にタイムリーに書いた方が良かろうかと割り込ませていただいた。
 
 御机神社、国中神社を訪ねる(1)
 四條畷市は古い町で、街中のあちこちに地蔵さまがあり、古い建物も残っておりとても好きな街だ。交通量は多く、道は狭くて歩きにくいが、中には静かな通りもあって、散策にはうってつけだ。かつて四條畷神社や飯盛山を訪れたとき、御机神社方面にハイキング道があることに気付いた。また
歴史民俗資料館の前を南北に走る道は東高野街道といって東寺から高野山に続くという。また、遊々館、雁屋遺跡から歴史民俗資料館の南を東西に走る道も古い街道ではないかと思い歩くことにする。

 今回御机(みつくえ)神社、龍尾(りゅうび)寺、国中神社、福成寺、周辺の地蔵様など観察したのだが盃状穴は存在しなかった。それでもなぜ記録するかと言えば、盃状穴の存在しないところも調べなければならないという思いがあるからだ。つまり盃状穴の謎を探るには盃状穴の分布を調べる必要があるが、それには盃状穴のある所、無い所の分布が必要だということだ。なぜここにあって、あそこにないかということが重要になってくると思うのだ。
 御机神社とは不思議な名前だなと思っていたが、机に関係のある神社ではなく、末社に水神社があることを考えると「水」に関係するのではないかと思う。大山咋神(おおやまくいしん)が山に打つ杭を意味するように水に打つ杭、つまり治水の神様、水咋(みずくい)が御机(みつくえ)となったのではと勝手な想像をしている。由緒書によると古くは現在地の東方宮地というところにあったようだが、変遷を重ね元禄13年(1700年)に当地に移転したということである。時代的には二義的盃状穴があってもおかしくはないが、現在でこそ周囲に家並みが迫っているが、新しい家が目立って、かつては人里離れた神社であったかもしれない。

左:花崗岩質の石材は生駒山系のものだろう、近隣の石垣や庭石も同じものが使われている。
中:末社の水神社はコンクリート造りで盃状穴はあり得ない。
右:本殿のうしろに水神が祀ってあった、これが元々の御机の神様かと想像している。
 鳥居、石段、灯籠など見ていくが盃状穴は見られない。すべてが花崗岩質の硬い石で、しかも新しく更改した石材が多い。直近のものは昭和55年のもので、この年代に盃状穴が穿たれるはずがない。そういうときは廃棄されたり、再利用された石材が無いか調べる。あるいは末社などで昔のままで残っていないかを調べる。しかしそれでも盃状穴は見つからなかった。御机神社には盃状穴は無いと断定する。
帰り道を下っていくと権現川の対岸になにやら石段が登っている。由緒のあるものらしく、訪問してみようという気になる。つづく

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

腰痛続く 10/24

2015-10-24 | 日記・エッセイ・コラム

2015.10.24(土)快晴

 ほぼ治りかけたと思った腰痛がまたしてもぶり返し、座っているのもままならない。書き溜めたブログの記事も10日分ほどあるんだが、座ってキーボードをたたくことが出来ないのだ。悲しいのはこの腰痛の数週間実に良い天気が続いたことだ。イライラカリカリするところだが、さすがに何度も経験しておれば、「しょーがねえな」っと達観するところである。一旦治りかけた頃、「腰痛を楽しむ」なーんて原稿を書いて、ご満悦となっていた。ところが、再発してくるとショックは大きい、「これが永遠に続くんじゃないか」という恐怖に耐えながら忍々と唱えるばかりである。今少し記事が途絶えるのを勘弁いただきたい。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

坪坂峠から三国岳(2) 10/22

2015-10-22 | 上林たんけん隊

2015.10.22(木)曇り

 市茅野公民館前に駐車させてもらおうとしていたら隣の方が「うちに駐めときないな」とおっしゃってくれたのであまえることにする。そそくさと準備をして歩き始める、雨男の工忠くんにしては完敗のスカ天である。「この前と違って随分きれいな道ですねえ」「だまされたらあかんで、先は凄いことになってると思うよ」などといいながら林道を歩いて行く。すぐに右手に山の神の社が現れる、鳥居の代わりに巨大な枯れた杉が並んでいる。この杉は28水(昭和28年13号台風、上林最大の災害)の際に幹が折れて枯れてしまったそうだ。有名な市茅野杉はこの木から種子をとって生産出荷されたという。(若狭のふれあいNo.117)枯れた木の向こうに杉が育っていて市茅野杉の二世ということである。村の人の杉に対する想いが伝わってくる。

市茅野山の神
 少し行くと林道は終わり、回転用の広場となる、軽トラならここまで入っても来られそうだ。山道はすぐに二股となる。ここでまたしても読図に失敗した。二万五千「東舞鶴」の林道終点の二股と勘違いしてしまったのだ。その二股だと峠に行くには左股に入らないといけない。実際には左股には道は無く、右股には細々と道が続いている。釈然としないが右股を進んでいく。正確な読図をするとこの二股は高度350の表示のあるところの二股であって、右股が正解である。
 道はこれがかつての主要道かと思うほど荒れている。ややもすれば獣道じゃないかというほど細くて、途切れ途切れである。その上数年前の大雪による倒木をくぐったりまたいだりで悲惨な状況。人が歩かないとなるとこうまで道は荒廃するわけだ、獣によってかろうじて通れるというのも情けないことである。概ね左岸を登り、峠が見え始めた頃に右岸を歩く。やがて見覚えのあるお地蔵様の雪囲いが現れ、登ってきた道がただしかったことがわかる。

左:林道終点 中:これがかつての街道か? 右:峠には道標が残っている
 峠で一休みして、若狭側の山道を丸山に向かうとすぐに鼻峠に出る。鼻峠は小唐内から登ってくる峠で、峠道が使われていた頃に若狭に行くにはこの道が主に使われていたようだ。坪坂峠を使うのは市茅野の人だけだろうが、鼻峠は小唐内はもちろん大唐内や栃、それより下流の人々も使ったと予想される。老富のお年寄りが「子供時分はこの峠を越えて高浜に海水浴に行ったものだ」とおっしゃっていた。鼻峠には「小唐内→」の看板がある。

【今日のじょん】ブログが飛び飛びで来じょんワンの紹介が遅れがち。
10月18日 西舞からお越しのチョビ君3才

19日ご存じゲンタと小麦ちゃん、じょんも久々に遊べるのだ。
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

坪坂峠から三国岳(1) 10/20

2015-10-20 | 上林たんけん隊

2015.10.20(火)快晴

 坪坂峠は市茅野(いちかや・老富町)から関屋(高浜町)に越える峠で、鼻峠からの道と合流して関屋の坪に至るので坪坂峠と呼称するのだろう。またこの若狭側の道には貝坂と呼ばれるところがあり、丹波の人が塩を汲んで帰る途中転倒し、器があふれたと同時に暴風雨となったという伝説がある。そのあたりには土中に沢山の貝殻があって、そのため貝坂と呼ばれている。(若狭縣郡志)土中に貝殻が沢山ある場所がどこかわからないのだが、そこはおそらく古代海進時のの汀線かと思っていたのだが、先日「高浜原発近く津波痕」という新聞記事を見つけ、それが貝殻などが混じった
砂層だということで、貝坂の正体も実は津波痕ではないかと思っている。
 ともかくこの峠道はおそらく上林でも最も古いもので、若狭から文化の到来した道であろうと考えている。丸山に何度も通いながらも坪坂峠の地蔵さまを横目にこの峠道をたどることはなかった。いつかはたどってみたいと思っていたのがやっと実現することとなった。

お地蔵さんだけでははかれないが、鼻峠に無くて坪坂峠にあるのはこちらの方が主要な峠だったのだろうか。

メンバーは工忠くんと二人で、彼の仕事の都合で昼前からのスタートとなった。
じょんのび発  11:00 車
市茅野公民館着 11:30 発11:38
林道終点着   11:45 発11:50(途中山の神に立ち寄る)
坪坂峠着    12:21 発12:30
丸山ピーク   13:03 発13:30(昼食)
三国岳     14:07 発14:15
胡麻峠     14:33 発14:37
老富の水源着  15:08 発15:10
市茅野駐車場所 15:58        つづく

 

  

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

じょんのび九不思議 10/15

2015-10-15 | 日記・エッセイ・コラム

2015.10.15(木)晴

 じょんのび七不思議はすでにご紹介済でそのすべてが科学的に解明されている。八不思議も2014.5.24に紹介しているところだが、新たに九不思議が勃発した。13日の朝のことである、じょんの散歩がてらに何気なく畑を覗いて、なにか違和感を感じる。「あれ、白菜のネットが無いぞ」二畝作っているうちのひとつが見事に姿を消しているのだ。

左が7日、右が13日その違いがよくおわかりだろう。少しの風は吹いたが、ネットを吹き飛ばすほどでは無い。人為的ないたずらか、はてまた盗みか?いたずらをするような人物も見当たらないし、盗む価値のあろうものでは無い。
 よく見ると中身の白菜は荒らされてなく、押さえに使っている重しの石もほとんどが元の位置にある。いずれにしてもこのネットが府道にでも移動していたら、交通の邪魔になる。府道をざっと見渡すがそれらしいものは見当たらない。
 状況から見て、バッとめくられたものではなく、するすると引き抜かれた感じだ。畑の東側、山椒の木のあたりをよく見ると、何者かの踏み跡がある。鹿ネットも破られてはいないが、外側に引っ張られた感がある。
 
 これは小動物が鹿ネットの隙間から防虫ネットの端を咥えてゆっくりと引っ張っていったに違いない。そうだとするとネットは隣家の方向にもって行かれたに違いない。
 じょんと探索に行く。現場から20m離れた柚子の木の下、桜の枝が積んであるところに置かれていた。
咥えた痕は無いか、毛など付いていないか、破れていないか、汚れていないか、つぶさに観察するが証拠になるようなものは残されていない。唯一苔の破片が幾つか付着していたが、これは道中に生えているもので、何らかの拍子に付いたものだろう。
 小動物がここまで引っ張ってきたとして、一体何のためにこのでかいネットを持ってきたのだろう。よくカラスが巣作りのためにいろんなものを持ち帰ると言うがこのでかいネットは考えにくい。小動物でも巣穴の保温用に持っていくものなのだろうか。もって行く途中で諦めてここに放置したのだろうか。それにしても上手に引っ張り出したものである。
 ネットの中に美味しいものでもあると思ったか。それならこんな遠くまで運ぶ必要は無いし、ネットの中に潜り込む方が手っ取り早い。
今朝、放棄位置のすぐ近くに糞を発見、アナグマかとも思われるがこいつが犯人の可能性は大きい。


【作業日誌 10/15】
焼却炉、コンクリート打ち。うまくいかねえでイライラ。

10月8日はまだこのとおり

【今日のじょん】本文に登場

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雨読「越の道」その1 10/11

2015-10-11 | 雨読

2015.10.11(日)曇り

 京都新聞2015年9月21日の地域面丹波の中に「かやぶきの客人」という美山町のそば処もりしげのご主人森茂明氏の一文を見つけた。それは20年ほど前、水上先生がもりしげを訪れ、同席したいという当時の町長と対峙する場面である。当時の町長はいわゆる開発促進派というのだろうか、鉄筋とコンクリートで村の活性化を図りたいという人物であったそうだ。若狭原発の資金で芦生原生林にダムを造ろうかという御仁なので相当なものである。しかしこの町長、水上先生の名声はご存じだったのだろうが、先生が原発をはじめとする開発や自然破壊に批判的なことはご存じなかったようで、両者のやりとりが実に面白く書かれている。
 「水上先生、過疎地の起死回生の妙案に、これぞというものはありまへんか」
 先生が苦労して育て上げられた竹紙のことを話されると、「先生、そんな紙ッ切のようなもので村おこしはなりまへん」とまあ町長ご機嫌ななめ。
 その後もやりとりがあったと思うが最後に、「これからは一滴文庫の門前で、原発アラレを売ろうと思うとります」と謎めいたことばを残して水上先生は席を立たれたそうだ。
 いやはや何とも痛快な一幕である。

一滴文庫の門前には原発アラレは売ってなかった
 「越の道」は「丹波・丹後」に続いて読んだ紀行文学コレクションのひとつだが、この道は9年前に自転車で旅をした道筋でもあるので大変興味深く読むことが出来た。

日本の風景を歩く「越の道」越前・越中・越後 水上勉著 2000年3月10日初版発行 古書

【今日のじょん】じょんは鍋が大好きである、今夜は飯で飯食うきりたんぽ。もうそわそわでカメラでもとらえられない。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雨読「山椒庵日記」その3 10/10

2015-10-10 | 雨読

2015.10.10(土)曇り

 渡辺淳(すなお)先生の絵画展「佐分利川」を見に行く。展覧会というのは一定の期間があるものなので、ついつい先延ばしになって、遂に終わってしまうという経験がよくある。前回の「谷の人」展もそうだった。今回はそうならないよう、早い目に見に行った。

11月9日まで、お早い目に、、
佐分利川は上林川が若丹国境の長谷坂峠を乗っ越した川であり、かなり直線的にいきなり日本海に注ぐ川である。上林断層がこの佐分利川流域まで続いているのではないかという説があるそうだが、直線的な流れがそういう説を生んでいるのかも知れない。

じょんも一滴文庫に行ったのだ。おおいの芝生も久しぶり。

 淳先生の佐分利川の絵がこんなに沢山あろうとは思わなかったが、やはり川上の村を出なかった先生にとって佐分利川は常に身近にある川だった。佐分利川の絵の多くはある決まった風景で、あの稜線は宝尾の尾根だろうと前回書いたのだが、実はそれは自信のあることではなかった。先生にお会いしたら聞いてみたいと思っているのだが、自分の目でも確かめてみようと思いつつ佐分利川沿いの県道1号線を走るのだがついつい忘れてしまう。宝尾に向かう川は佐分利川の支流なんだが、本流は護岸工事などですっかり昔の面影が無いのではないかと勘ぐっている。そういえば現在の佐分利川は川岸の桜並木が立派に育ち、豪壮な景色となっているが、先生の絵には登場してこない。先生にとって佐分利川は宝尾に向かうあの支流なんじゃないかと想像している。
 さて山椒庵のことなんだが、現在は取り壊されて更地になっている。じっかんさんと先生のアトリエを訪れたとき、その奥に趣のある藁葺き屋根の古民家が建っていた。「先生あれは何ですか?」「以前住んでたところで、林道が出来るので取り壊すんですよ」「ふ~ん」なんて気楽に話していた。山椒庵のことをまだ知らなかったのである。山椒庵のことを知ったのは夏に小浜の図書館で先生の展示会があった時である。先生が本を書いておられるのを知ったのもその時である。そしてその時には山椒庵は無くなっていた。過去の写真を必死で探してみる、どこかで写真を撮っていないか。どこにも見つからない、残念だけど山椒庵はわたしの怪しげな脳裏に記憶されているだけで、まあそれでいいかと慰めている。おわり

【今日のじょん】バーニーズのレオ(6才)ゴールデンリトリーバのエリザベス(9ヶ月)、メイ(10ヶ月)が来じょん、かみさんが写真に撮ったのでアップロードしてよなんていってるが、画像じゃなくて動画になっている。以前は動画もアップロードできたんだけど新しくgooになってからやり方がわからない。てなわけで当分ご覧に入れることが出来ないのでごめんなさい。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雨読「山椒庵日記」その2 10/7

2015-10-07 | 雨読

2015.10.7(水)晴

 わたしが火葬のことを研究していることに気付かれ「隣村で火葬を続けてきた村があるで」と教えて下さった。真宗の村なのかと思ったが禅宗だった。「そこは武士の居住していた地域ではないですか?」と聞くと、「山上に城があり戦いで多くの戦死者が出て大きな穴を掘って焼いた」ということである。「火葬場の跡もあるで」とおっしゃっていたので是非行ってみたいと思っているのだがそのままになっている。この火葬の村のことも本書に収められている。
 本書にちりばめられている淳先生の挿絵も川にしても山にしてもどこそこというのがわかるのはとても親近感を憶える。「京への道」という淳先生の家の絵など小屋の庇も家の裏の大木も今とかわらず、月に二回は通る道そのものである。佐分利川の絵も、あれは宝尾方面を描いたものではなかろうか、左のぴょこんと尖ったピークは鳥とまらずと言ったろうか、廃村宝尾を日置峠から鳥とまらずまで彷徨った日を思い出す。

佐分利川、宝尾を観る、菓子箱の蓋に描かれている。
 淳先生の絵が凄いなと思うのは貧しくて画材が入手できなかった時代に、セメント袋や餅箱の裏に描いたり、葦などの茎で絵筆を作り、草木の汁で絵の具を作ったりして描いてこられたことである。広い世間にこんな画家がいるだろうか。そして画材の入手に苦労しない現在でも、菓子箱の裏、かまぼこ板、木っ端などに描き続けておられる。

一人と言ったか、この絵裏返すとかまぼこ板となる。
 先生の苦労時代に友達がベニヤ板を持ってきてくれて、後日その家に行くと玄関の窓の一枚に新聞紙がはり付けてあったという話は本書に何度も登場する話で、先生ならずとも熱いものがこみ上げるところである。
 先生が生き物に対して深い愛情を持っておられること、だからこそ動物であれ植物であれ事細かな観察眼を持っておられる。それらが実にさわやかな文章で書かれているので読んでいてとてもいい気分になる。こんなことを言うのも何なんだが、奥の細道文学賞に選ばれた本田さんの文章が淳先生の普段着の文章なのに比して妙に着飾った、構えた文章に思えるのはわたしだけだろうか。つづく

【作業日誌 10/7】焼却炉作製1日目、土台つくり

【今日のじょん】お隣の蔵が取り壊されてすっかり更地になってしまった。周囲もきれいにされたと思ったら、ご主人の訃報を聞く。傾きかけた蔵をなんとか潰したいんやけどなあと言っておられたご主人は、写真で更地になったところを見られたそうである。
 
ビフォアアフター

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雨読「山椒庵日記」その1 10/4

2015-10-04 | 雨読

2015.10.4(日)晴

 渡辺淳(すなお)先生の絵には虫たちがさかんに登場するのだが、「ランプの詩」という絵が一番好きで、小さな額に入ったのをいただいてきた。赤い光の色と白く光る蛾のコントラストがなんともいえない怪しさをかもし出している。水上先生の本のさし絵かと思っていたのだが、どうもそうではないようで、一度真相を聞いてみたいと思っている。山椒庵日記の中に、「昔、家で使っていたという石油ランプを口小屋につるして、本を読んだりスケッチをしたりしたものだった。」とある。口小屋というのは炭焼き窯の焚き口の前に立てられた粗末な作業小屋のことで窯に火を入れたら数日は泊まり込むところである。わたしも子供時分に父親がその口小屋で生活していたのを憶えている。ランプは記憶にないので、おそらく蝋燭で灯りを採っていたのだろう。ススで真っ黒になったヤカンだけが妙に記憶に残っている。

 日本画家の速見御舟(はやみぎょしゅう)の炎舞という絵は重要文化財にもなっていてつとに有名なのでご存じの方も多いかと思うが、実は淳先生この絵をご覧になって参考にされたのではないかとついつい不遜なことを考えてしまった。どちらも赤い炎の中に白い蛾が舞うというモチーフなのである。ところが本書を読んでいくと淳先生の「ランプの詩」にはとてつもない深遠なモチーフがあることに気付く。炭焼き小屋で窯の番をしながら孤独な夜を虫たちと話をしながら過ごしておられたのである。今の人たちは山で夜を過ごすなんて事は無いだろうからわからないと思うが、とにかく真っ暗なのである。特に炭焼き小屋は谷間であったり山の中腹なので星空や月夜であっても真っ暗なのだろう。山の影、木々の影というのは黒よりも暗くて、漆黒の闇というのはこういうものかと思う。岩穴に閉じ込められた山椒魚が「寒いほどひとりぼっちだ」と言うほどの暗くて孤独な世界で、ランプが灯す小さな灯りは太陽よりも心強く感じられただろうし、そこに集まって飛び回る虫たちはまさに友達ではなかったか。
 「僕の青春の日を支えて呉れたのは山の蛾や虫達だったともいえよう。だから、窯とランプと蛾の絵ばかり描いていた。」
「ランプの詩」は重文ではないが、貧しくて炭焼きをしていた一介の画家と優雅に襖絵など描いていた著名な画家が炎と蛾の絵を描いたとしてもその出発点はまるで違っているのだろう。

「山椒庵日記」絵と文 渡辺淳 古書 つづく

【今日のじょん】
本日の来じょん 

ダックスフント ブンタ♂1才、ピアノ♀8才


ニコ君一家がきたぞ、なかなかこっち向かない、ムリヤリ・・・・ゴールデンレトリーバ♂5ヶ月

これは出してもらえないでイライラのじょん君、トホホ

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする