晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

バスで行く大栗峠-5 5/23

2018-05-23 | 山・峠

2018.5.23(水)雨 大栗峠考ー46 バスで行く大栗峠-4は2018.5.6

 小気味のよい尾根道を下っていくとやがて植林の斜面をジグザグに下りるようになり、あっという間に林道の出合に着く。実はこの峠の降り口、つまり峠の尾根への取り付きについては興味を持っていた。2011年11月上粟野から大栗峠に登った際はこの尾根末端から左の谷沿いを詰め、適当なところで尾根への斜面をよじ登った。昭和55年に山の家をつなぐハイキング道が整備された際の道なのだが、現実には我々の登った斜面は谷を詰めすぎたようだ。

尾根への取り付き部分はなんとも風情の無い道だ。
  本来の大栗峠への道はと言うとどうも今回整備された尾根末端への道が正当らしい。明治28年陸地測量部の地図では尾根末端に道が着いている。ただし当時の道通りに今回着けられたかは疑問である、林道に下りる部分などは重機で無理やりに作った風で頂けない。大雨でも来たらすぐに壊れてしまいそうだ。しかし写真で見ると上部まで切り崩した形跡があり、本来の道なのかもしれない。

昭和の整備の際の看板(今は無い)と新しい看板
取り付きからは林道を下っていくので、もちろん本来の街道ではない。退屈な林道を下っていくと道が大きく迂回した先にかつての地蔵堂跡がある。この地蔵堂前回来たときは立派に存在していたのだが、今回の整備で取り壊されたのかと憤慨していたら、少し下流の谷が林道をくぐるところに柱などが残っている。どうやらこの間の大雨で押し流されたようだ。地蔵様は既に無かったのだが、古道の位置を示す貴重な建物であっただけに、看板でも残しておいて欲しかった。

2011年11月には存在していた地蔵堂。
 さてこの辺りからバスの時間が気になり始めた。未だ昼食は取っていないのだが、めどが付いてからとることにして先を急ぐ。防獣柵を開けて、最奥の家を過ぎるともう村は近い。舗装道路に地下足袋はきついのでウオーキングシューズに履き替えたいのだが、その時間も惜しい。その甲斐あって9分前にバス停に着いた。

バス停から上粟野の集落、バス車窓の景色は楽しい
 すると偶然大栗峠道の振興に尽力されている田中さんが乗用車で現れた。なんでも峠を挟む上林と上粟野の交流会を開催すべく打ち合わせに来られたそうだ。古道を保存するにはこういった定例行事を開催するのが有効である。桜井克さんが数年前に提唱されたが実現に至らなかった行事である、是非とも実現されるよう期待する。定刻にバスは現れ、子供の時のバス旅行のような楽しい気分で乗り込む。バスからは自家用車では絶対に見られない景色が見え、新しい発見がある、キョロキョロと車窓から覗く。和知駅に着くとすぐに電車が来て、山家駅に着くとバス停まで歩いても10分の余裕ができた。ここでようやく昼弁当を開ける、山で食べる弁当は楽しいのだが、国道沿いのバス停で立ったまま食事するのはなんともさびしい。逆を返せばこの間の交通機関の連絡が見事なほどに合っているということだ。2時半に帰ってきた時に、昼寝をしていたかみさんがびっくりしていた。公共交通機関を利用し6時間で峠を堪能できるこの企画は大成功だった。ただ一般的にはもう少し遅く出て、和知バスも一本遅い時間にすれば余裕のある山行になるだろう。つづく
 

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続・北前船寄港地シンポジウム 5/20

2018-05-20 | 文化に触れよう

2018.5.20(日)曇り

 肝心のシンポジウムだが、小樽、小浜、尾道から各地の状況や取り組みなどの報告があり、学術的に研究しようという一面と街おこしとして売り出していこうという一面があってどちらも北前船というのは有効な素材のようだ。続いて作家の石川好氏の講演があり、北前船について熱く語っておられた。特に各地の学芸員が「北前船の定義について、、、」など言われるもんだから「そんなことは何でもいいんですよ」とおっしゃったのは痛快だった。学者の第一歩は定義付けなんだけど、北前船を売り出そうという立場には関係の無いことだろう。先生が熱く語られた、わらび座のミュージカル「北前ザンブリコ」は司馬遼太郎の高田屋嘉兵衛を主人公にした「菜の花の沖」をモチーフにしたもののようで、観たいのは山々なのだが日曜日の午後ということで行かれない。残念だ。

みやづ歴史の館文化ホール 7月8日(日)14時開演 
 次に待望のシンポジウムだが時間が少なく、質問時間も無くて少し残念だった。もっともわたしの用意した質問はあまりにも細かい話で、その場で回答できるものではないだろうが。
 例えば船主である三上家の屋敷は宮津の鋳物師木崎家と極近所にあるわけで、地金はどのように取引されていたかというようなことである。出雲の鉄は北前船にとって重要な商品だと考えられるが、その取引の状況や流通経路は如何なるものなのだろうか。

シンポジウムの様子
 おいおい本日参加の方々に直接聞くしか無いと思うが、特に由良の歴史を探る会の加藤氏は北前船船主の末裔でもとは由良川の水運を担っていたというから、福知山以南の鋳物師に地金を運んでいたことは間違いない。是非お話を聞きたいところである。最も知りたいことは上林鋳物師井関家に搬入された地金はどのような経路で運ばれたかということである。まずは第一歩の一日であった。

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北前船寄港地シンポジウム 5/18

2018-05-19 | 文化に触れよう

2018.5.18(金)晴れ

 みやづ歴史の館で開催された北前船寄港地シンポジウムに参加する。宮津市が日本遺産「北前船寄港地・船主集落」に追加登録を目指す中で開かれたものだ。

 北前船寄港地と言えば日本一周自転車旅行で日本海沿岸を辿った際に数多く訪れ、酒田の米倉庫や小樽の倉庫群などその施設を見てきたが実はあまり関心が無かった。ところが清水鋳物師の研究をすすめるうちにその原料となる地金(じがね)の搬入経路というのが気になり始めた。特に何鹿郡の鋳物師がなぜ交通不便な上林で操業したかという大きな謎に原料の搬入経路は大きく関係すると思われる。さらに木住峠清水道(舞鶴市岸谷から綾部市清水に至る)が本道の遊里道に比して広くて立派なこと、さらにその延長上にある大栗峠弓削道が同様に広くて立派な産業道路であることに気づき、その先が胡麻の鋳物師勝田家に繋がるのではないかと考えるようになった。詳しくは「大栗峠考」で述べるとして、その地金は何処の港に陸揚げされ、どのような方法で取引されたかと言うことを知りたくなった。それが今回のシンポジウムに参加した理由である。
 もう一つ地名の件で宮津を訪ねたら調べたいことがあったので市役所に立ち寄る。そして昼食を兼ねて市内を散策する。天橋立トライアスロンが開催されているとき、毎年楽しみにしていたのが宮津の鳥貝である。桂馬さんという料理屋さんで他の海の幸と一緒に戴いていたのだが、あの食感は忘れられない。最後に訪れたときはご主人の体の調子が悪いとおっしゃっていたがどうなっただろう。店の辺りを歩いてみるが、見当たらない。隣に旅館があったなと思い、銀水という旅館に寄って聞いてみる。やはり店はしまわれており、家族も転居されたそうだ。

 銀水から四筋ばかり南に和貴宮神社がある。宮津の地名の起こりという看板があったが、宮津郷は奈良時代からあったそうでこの神社の歴史とは合わない。和貴宮神社の創建は応永28年(1421年)とある。社殿の脇に波越岩という大きな岩塊があり、この辺りまでが港であったと言われている。これは事実のようで、北前船の船主などの寄進者の刻まれた石柱が並んでいる。

和貴宮神社の本殿とその脇にある浪越岩

寄進者の中には銭屋五兵衛などの名もみえる。
 神社の東になにやら由緒のありそうな教会がある。カトリック宮津教会で明治29年の建設だそうで、なかなかの風格である。もう少し歩いてみたかったがシンポジウムの時間が迫っているので会場に急ぐ。つづく 
 
 

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雨のグランフォンド’18 5/13 

2018-05-13 | 自転車

2018.5.13(日)雨

 140Kmを走るサイクルイベント、グランフォンド京都が上林を通過するようになって4年目だろうか、エイドステイションを引き受けて4回目と言うことだ。最初は様子もわからずに、参加者の方々にご迷惑をかけた。トイレが足りなくて大行列になってしまったのだ。不謹慎な話だけど、レースでしかエイドステイションを使ったことのない身ではエイドステイションで用を足すのは女性だけかなと思っていた。尾籠な話国際的なレースでは走りながら小便もしていたし、女性でも野糞してたこともあったのだ。もちろん優勝の絡んだ選手だけど、、、。まあグランフォンドはレースでもないし、マナーのよい方々だからトイレは絶対だよね。そんなわけで昨年から隣家のトイレも借り、何とか長時間並ぶなんてことは無くなったようである。
 ところが今年は朝からの雨で参加者が激減、トイレどころか食料も水もすっかり余ってしまった。今年は特に食料の中身を向上させ、果物の提供も試行していただけに残念である。
 それでも雨の中をひたすら走る方々には熱いエールを送りたい。いろいろ反省事項も有り、来年はもっと充実したじょんのびエイドを提供したい。雨に懲りずに参加してネ。


今年は給水、補給を庭に移し、バイクラックを新設した。

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バスで行く大栗峠-4 5/6

2018-05-06 | 山・峠

2018.5.6(日)曇り 大栗峠考(45)

 大栗峠の地蔵さまや石碑の銘文については既に考察しているので略しシデ山側にある平坦な広場について考えてみたい。どこかで「茶店があったんやで」と聴いたが周囲にその痕跡は無く、建物があったというのは信じがたい。ただし、和知側数百メートルのところの地蔵さまの広場と和知から尾根に登り着いたところの広場には建物があったというのは事実らしい。前者は六地蔵様だったそうだが今では一体である。里に下ろしてお祀りするならすべて下ろすだろうから盗まれたものだろうか。ここには瓦が残っているので、少なくとも六地蔵の小屋はあったようだ。巷間道をまたぐ建物があって、通行人はその下をくぐって通ったということが言われているが、残された瓦はそれほどの数ではないし、そのような建物を作る必要も考えられない。後者の建物は茶店であって村のおばあさんが通って店を出していたと聞いた。この場所は確認できていないが、昭和40年代には柱などの残骸があったそうだから間違いはなさそうだ。(北山の峠 下)さて、峠の広場であるが、このような広場がある峠はわたしが今まで歩いた峠では大栗峠と木住峠だけである。この二つの広場は明らかに人の手によって平らにならされた形跡がある。洞峠も北側が広くなっていたと思うが、自然の広場ではなかったか。

大栗峠地蔵さま向かい側の広場と和知道六地蔵(今は一体のみ)の広場、共にベンチがしつらわれている。
 人が休憩するだけならさほど広い場所は要らない、やはり牛馬、荷車で休憩するならそれなりの広さが必要となる。木住峠の場合は峠自体も狭いので、広場もさして広くはないが、それだけに場所の確保は余計必要となるだろう。もうひとつの考え方は物資の保管場所、デポジットである。物資輸送の盛んな大きな峠では峠の付近に石室があり、麓の村から運び上げた物資をそこに保管し、後日反対の側の村人が登ってきて受け取るというシステムがあったそうだ。時代が下がれば専門の輸送業者も現れ、分業で峠間の輸送を請け負っていたかもしれない。そういう物資の保管場所としてあの広場があったのかもしれない。いずれにしてもあの広場は、両峠の輸送力の大きさを物語っている。

木住峠、狭い峠だが向こう側(岸谷側)の右手に小さな人工の広場がある。
 小栗峠を後にして和知側に下っていくと、山田道とは明らかに違った道のあり方に気づく。それは道幅の取り方とでも言おうか、道の整備の仕方が違うのだ。弓削道について聞いたことなのだが、村人による道造り、いわゆる道の整備の際に牛に横にした角材を牽かせて道をならしたと言うことを聞いた。その方法が弓削道と和知道に残っている。両脇が小さな壁になっており、中央が平らにならされているのだ。これも明らかに牛馬荷車による輸送を意識した索道といえるだろう。

牛に角材を牽かせてならされた和知道、弓削道にも見られる。
 もう一つ和知道で気づいたことは、急峻な箇所などではもう一本別に間道があるようなのだ。時間的に余裕がなかったので一つ一つ確認は出来てないが、いつか歩いてみたいと思う。このことは登り下りの専用道、或いは牛馬荷車道と人のみの道を分けたものかもしれない。

右が本道、左に間道があるようだ。
 6年前山田
道から弓削道に下りた記録を見ていて貴重な写真を見つけた。今年木住峠清水道に要った際に地蔵堂上で見つけた奇妙な平行道路(2018.4.2参照)と同様の平行道路が弓削道にもあることだ。これは明らかに荷車がすれ違うか、追い越しの為の道と思われる。清水道、弓削道が近世の産業道路であり、牛馬荷車が通行し、しかも相当の通行量があったことがうかがえる。

左は清水道地蔵堂、屋根に隠れているがもう一本道がある。
右は弓削道の平行道路。
【今日のじょん】GWはよい天気が続いてワンコもたくさん来じょんしてくれた。全部は紹介できなくてゴメン。

5月5日ポメラニアン ベルちゃん 4才

ミニチュアダックスフンド りゅう君 16才

トイプードル ラテ君 1才

みんなドッグラン喜んでくれてありがとう。

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バスで行く大栗峠-3 5/3

2018-05-03 | 山・峠

2018.5.3(木)曇り 大栗峠考(44)

 地下足袋登山は50年近く登山をしていて初めての経験である。ウオーキングを研究し始めて、5本指ソックス、地下足袋、金剛杖が最も理想的な歩きであることに気づき、実験的に今回歩いたのだが、実際の山行について問題点となる事項を挙げておこう。
 1.舗装道路には合わない。
 人間の本来の歩きに最も近い歩きが出来るが、舗装道路は自動車や自転車のタイヤにあわせた道路であって、地下足袋で歩くのは痛める可能性が大である。従って今回の場合もウオーキングシューズを別に持参しアプローチ等では履き替えることとした。
 2.防水性はゼロ。
 積雪期には絶対無理。無雪期の短期間の登山に限られる。
 3.耐久性に注意
 靴底の接着性、布部分の耐久性、コハゼの留め糸など着用前に確認しておく。古くなって危ないようなら新品に換える、代用を持って行くなどの対策が必要。
 4.ダニ、毒蛇対策には抜群
 12枚ハゼを使っているが、足首からふくらはぎを覆うのでダニ、マムシ対策には効果的。登山靴の場合スパッツを着け、ダニよけのスプレーなどしていたが地下足袋だと不要である。マムシも噛まれるのは踏んづけた際に多いようだが、地下足袋の分厚さなら大丈夫かなと思う。
 歩行についての効用は別項で紹介したい。

地下足袋は長所と短所をわきまえて利用すること、また、改良の余地もある。

 弓削道分岐から大栗峠への道は大栗山(わたしは大栗峠の頭と呼びたい)の下をトラバースする。この部分こそ山田道、弓削道が大栗峠の後進的な道であると言うことを示していると思う。綾部温泉の露天風呂から大栗峠の山並みを古代人の気持ちになって眺めたらすぐに理解できる。どこにも道が無い時代あの山を越えてその先の村に行こうとしたらどこを通るだろうか?志古田道に決まっている。志古田谷なら何も迷う必要は無い、ただひたすらに谷を詰めればあの山稜の一番低いところに到達できるのだ。大栗峠の峠名は志古田の小字大栗に由来する、大栗とは崩壊地名である。地滑り地帯であり、現実に現在も大規模な崩壊が有り通行不能である。直線的で最短である志古田道だが、崩壊が繰り返され傾斜もきついので牛馬、荷車が通行することは不可能である。そこで登場したのが弓削道である。弓削道は傾斜部分の距離は長いが緩やかである。尾根道だから水による崩壊は少ない。岩石の部分が無いので索道も容易である。人の背に担いで通行している時代には志古田道でよかったのだが、産業が発達し大量の物資運搬、つまり牛馬荷車による輸送が必要となったとき、志古田道では間に合わないので弓削道が作られたのだろう。ところが主稜線を越えた先はやはり大栗峠和知道を利用しなければならない。弓削道が主稜線に上り詰めた後辿ったのがこのトラバース道なのである。
 この関係は木住峠における遊里道と清水道と全く同じ状況である。田辺(西舞鶴)ー岸谷ー木住峠ー清水ー大町ー弓削ー大栗峠ー上粟野が近世後半の上林における主要産業道路であったと考えられる。ただ人物のみの移動であれば、
遊里道、志古田道が主流であったことは想像に難くない。
 トラバース道をすぎるといよいよ大栗峠に着く。いつ倒れたのか解らないが例の石柱が今回の整備で立てられていた。大変喜ばしいことだと思う。始めて大栗峠を訪れたときからあの石柱は立てなければと思っていたのだ。つづく

右わち 左志こだの石柱、文政7年(1824)の銘があり、倒れていたものが今回の整備で立てられた。
【今日のじょん】29日に来じょんの大
くんバーニーズの8ヶ月、でかいから大くんかと思ったら五山送り火の日に生まれたからだって。

一緒に来たのはご存じももちゃん。

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バスで行く大栗峠-2 5/1

2018-05-01 | 山・峠

2018.5.1(火)快晴

 10年近く綾部をめぐる山や峠をめぐっているが、公共交通機関を利用して行った憶えは無い。自家用車、チャーターされたマイクロバスがすべてで、公共交通機関を利用しようという意識が最初から無い。7年前に和知から大栗峠を越えて上林に帰ってきた際も佐々木さんの自家用車で上粟野まで送ってもらったものだ。モータリゼーションに毒されたこの山行形態はいかにもいびつである。便利に便利に楽に楽に山や峠を楽しもうという姿勢からは往時の山に生きた人や峠を越えた人の心情は理解できない。おおいに反省して今回の峠行を行った。先に紹介した行程と経費をよく観察して欲しい。車で行くとしたら、まず二台の車で上粟野まで行って1台を駐車しておき、上林に戻って登るという行程になる。その労力を考えればバス電車を使った山行がいかに効率的で有意義であるかが解る。最初から車を利用することしか考えていない山行を今一度考え直してみることが必要だ。
 さて、偉そうなことを息巻いたが準備をしていると山田さんから電話があり、観光センターまで車で行くから迎えに行くということだ。バスで5,6分のことだからまあいいかと甘えることにする。バスで行ったと同様の時間に歩き始めることとした。6年前山田道を歩いたとき(2012.5.18参照)は6名の人数だったのでアプローチもよく憶えていない。林道目白線の入り口が解らずに、谷の右岸の方まで行ってしまった。元々の道はそれでいいのかもしれないが、林道に入るには左岸のフェンスゲートを開けて入らなければならない。このあたりアプローチの道標が見当たらない。始めて来る人にはまず解らないだろう。それに地元では承知の防獣フェンスも、開閉の作法があるのでその辺も注意書きしておくといいだろう。

フェンスを開けて入る、「迷ワン」の絵文字石柱、道標はしっかり。
 山田道取り付きから先は植林の中の作業道を歩くのだが、実に立派な道標が分岐ごとに立っていて、間違うことはない。6年前は随分ルートファインディングに苦労したものだ。植林地帯を過ぎると気持ちのよい古道をキリキリと登っていく。竹原道の分岐を見つけたかったが解らずじまいだった。

気持ちのよい尾根道、道幅は170cm、展望台からは弥仙山
 やがて今回の整備で作られた展望台に着き、小休止。城山周辺の集落と上林川右岸の前衛峰、その向こうに弥仙山が見える。気持ちのよいところだ。その後も尾根上の気持ちのよい道が続くが、もう一つの目標の街道ウォッチングをする。「大栗峠考」で書いてきたが、弓削道、和知道は荷車の通る産業道路、山田道は城下をむすぶ政治的な道路、志古田道は本来の大栗峠道だと考えている。そのためには山田道は弓削道のように広い必要は無い、荷車通行の無理な部分があってもいいという見方が出来るはずだ。しかしながら領主の権威の道であるから貧相であってはならないとも思える。概ね予想通りの道だと感じられ満足する。
 この尾根道に気になるところがある。道の真ん中に実生の大木があるのだ。このような状況は他の道には見られない。これは山田道が荷車道ではなくて歩き道であったという風にとることも出来るが、明治以降いち早く使われなくなった道であると考えればよいかと思う。弓削以奥の集落では戦後まで大栗峠が使われており、上粟野、仏主(ほどす)などが通婚圏だったようだ。それに対して山田、石橋などのいわゆる城下(しろした)は上林街道、あるいは堀尾峠方面の利用が重きをなしてきたのでは無いだろうか。これは少し考えすぎかもしれない。
 思いをめぐらしているうちに弓削道との分岐にでる。「南無大師遍照金剛」の石碑のところで写真を撮る。初めての行者歩きの記念である。つづく

地下足袋に金剛杖

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