晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

畑口川遡行ー考察編 8/29

2020-08-29 | 上林たんけん隊

2020.8.29(土)晴れ

 畑口川出合いから清水の間で鉄滓(鋳物滓)を一個も発見できなかったのは意外だったのだが、この件に関して考察してみたい。
 2011年4月に念道橋下流上林川右岸堤防で初めての鉄滓を発見して以来、念道周辺ではいくらでも発見でき、流動滓や椀形滓、炭の断片を含むものなど様々な鉄滓が集まった。そしてそれらが清水鋳物師に由来する鋳物滓であることも解った。清水の家々に残され、盆栽の石とされているものと形状が同一であることがその理由である。上林で古代の製鉄が行われていたという夢はあえなく消え、近世の鋳物師に由来するというのは残念ではあるが、信憑性は高い。
 鉄滓集めは止めたが、今でも河原を歩いているとこぶし大の鉄滓を拾うことがある。また清水では前栽に祀られた大きな鉄滓の塊を見つけることも出来た。
 
上林川念道付近で収集した鉄滓、左上のものは忠の河原で拾ったもの。
右二枚の鉄滓は清水で見つけた鉄滓、これほど大きなものは初めてだ。
上林川中流域でこれだけ収集できるのだから、畑口川ならいくらでもあるだろうと思うのは無理も無いことである。それが一個も見つからないのはどういうことだろう。
1.中流域で見つかる鉄滓は清水鋳物師に由来するものではない。
2.鉄滓は比重が軽く、畑口川にあるものはすべて流れてしまった。
3.流れ出て、残ったものは新しい土砂に埋もれてしまった。
 などの理由が考えられる。
1.を証明できるのは、上林川の畑口川出合いより上流、もしくは畑口川清水より上流で鉄滓を発見することである。畑口川上流は今回市志まで遡行したが発見は出来なかった。上林川上流はいずれ遡行してみたいが、予想としては見つからないだろうと思っている。清水で大量の鉄滓が出たことは事実であり、形状も一致している訳だから。
2.はあり得ることと考える。中流域で発見した鉄滓は全て、川岸の高いところ、堤防の外側で発見されている。出水のたびに流れ出て、比重の軽さ故岸の高いところに留まったのではないか。また、畑口川清水から上林川までは傾斜はさほどないが、比較的直線的で蛇行が少なく、出水の際は一気に流れたと推測される。
3.28水以前の畑口川の様子を私は知らないが、どこの川でもそうであったように蛇行あり、瀬あり、淵あり、岩礁あり、砂洲ありの川で、堤防も石や土の貧弱なものであっただろう。そんなだから清水から出た鉄滓も至る所に堆積していたと思われる。明治以降の大水で少しずつ流れたとしても、大きなものや複雑な川の地形に留まる小さな鉄滓もあったと思われる。それが28水以降の河川整備で随所に堰堤が築かれ、かつての河床が埋まってしまいその下に隠れてしまったのではないか。また両岸の護岸工事で岸辺に留まっていた鉄滓もすっかりコンクリートや新しい土砂に埋まってしまったのではないか。畑口川出合いから、市野瀬まで実に同じ景色が続くのである。川床は平たんで広く、両岸はコンクリートの堤防となり、同じ大きさの砂利で埋め尽くされている。水防には完ぺきな条件だが、過去の川の面影はみじんもない。この変化のない砂利の下に清水鋳物師が残した鉄滓が眠っているような気がしてならない。

木住川出合い、典型的な畑口川の景色。
【今日の”のびちゃん”】NO.38
のびちゃん寝てばっかで体重増え気味なので海に連れて行く。いくみちゃんもいくというので若狭の海へと意気込んだが、あいにくの雨。なんで今日だけ、、といいつつおおいのロンドさんで昼食、ここは犬連れOKで嬉しい。諦めて帰ろうとしていたら三松辺りで雨が上がり、三松海岸を楽しむ。

青い海は無かったけど、雨が上がってよかったね。

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畑口川遡行 8/18

2020-08-18 | 上林たんけん隊

2020.8.18(火)曇り

 上林川の鉄滓探しを止めて何年にもなるが、年に一個ぐらいは自然に見つかる。もちろん清水の鋳物師跡から流れ着いたものだろうが、畑口川ならもっと多くの鉄滓が見つかるだろうと考えていた。そして畑口川の清水より上流、あるいは上林川畑口川出合いより上流で鉄滓が見つかれば、これは事件だと思っていた。これらの川の遡行をずっと考えていたのだが、なかなか実現できなかった。元々山行する予定だったが、流石の猛暑で、これ幸いと畑口川遡行に切り替える。
行程 畑口川出合い~市野瀬~市志
メンバー 小原英明 工忠 照之
タイム  いきいきセンター出発 8:25
     畑口川出合い     8:35
     清水         9:35着 10分休憩
     市野瀬       10:45着 20分昼食
     市志        12:25着 
     遡行時間 3時間30分

畑口川出合い、左手が畑口川、正面が上林川本流。大町から5分。
 遡行は地下足袋に草鞋が最高だが、草鞋の準備は出来ていない。工忠君は地下足袋の経験も無いのでニューバランスのジョギングシューズでスタートする。滝登りをするわけではないので二人とも問題なく歩ける。折からの晴天続きで、水は深くて膝ぐらいでバシャバシャと気持ちよく歩ける。面倒なのは数ある堰堤で、腰ぐらいの高さなんだが、周囲は苔でヌルヌル、何とか足がかりを見つけて乗り越すが、遊里の一箇所だけ右岸を高巻きした。
 
 木住川出合い、右が畑口川本流。工忠君はこのスタイル。
 さて問題の鉄滓なんだが、予想に反して一個も見つからなかった。沢山落ちていたら袋に詰めて土手に置いておき、後で取りに来ようかとまで皮算用していたのだが、ショックである。そして清水から上流でもそれらしいものは見つからなかった。このことは期待していなかったのでさほど気にはならない。鉄滓に関する考察は後で述べることにして、遡行の様子をお知らせしよう。
 畑口川出合いから市野瀬水梨川(だと思うのだが)出合いまでは両岸の護岸工事が進み川面は広く、直線的で昔の川の面影は無い。淵や瀬や中島もなく蛇行もしていない。そしてこの間川底が現れることはなく、同じ大きさの砂利に覆われている。小さい頃に川遊びをした年代なら憶えているだろう、岩盤あり、砂場あり、大岩あり、背の立たない淵があり、水が渦巻いているような早瀬がありだ。きっと28水以前の畑口川はそうだったのではないか。もちろん水防のためには致し方ないことだが、寂しい気もする。景色も変わり映えしないので退屈だが、清水の辺りで妙な木杭の残骸を発見、100m程か流れに沿って立っている。かつての岸なのか、それとも簗漁の残骸なのかいつか清水の年配の方に聞いてみよう。
 
 清水の謎の木杭、わたしはいつもの行者スタイル。
 水梨川出合いを過ぎても護岸はコンクリートだが、所々途切れて自然が残っているところもある。工忠君自慢の河原は、左岸は砂場で右岸は岩盤となっており、小さな淵あり、木陰ありでなかなかの景色だ。

クチュール淵とでも名付けておこうか。
 工忠君に言わせると「中上林一番ですよ、ひょっとしたら上林一かもしれない」と言うことだが、少なくとも畑口川一番のスポットだろう。というのは市野瀬から上流、市志まで期待していたほどの景観が無いのだ。そして河原歩きに付きものの変わった漂流物、流木や土器、鉄滓、変わった岩石などなにも見つからなかった。以外と早く市志に着いて、橋の少し上流で残りの昼食を食べて今日の遡行は終了。森さんに送ってもらって、クチュールでコーヒーいただいて、ありがとうございました。

今日はここまで、市志の河原、いつもの夏なら子供達の姿も見られたんだけど、、、。
 
  

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大栗峠三角道の謎-9 10/13

2019-10-13 | 上林たんけん隊

2019.10.13(日)曇り

 砕かれた石は石室に使われる他、石室の右手に無造作に置かれている。これらの石の体積を足すと元の大岩の大きさが解るのだが、素人のわたしには見当も付かない。しかしそれなりの大岩だと想像できる。
 峠として相応しい地形であっても、そこにそれだけの大岩があれば通行は困難となる。人はよじ登っても、横を捲いて通ってもいいが、荷車や牛馬となるとそうはいかない。現在の峠は大岩があって通れない、従って旧峠が元々の峠として機能していたと考えられる。

これらの岩塊は元々通行を妨げていた大岩だったのではないか。
 ではその大岩はどの辺りにあったのだろう。気になるのは石室だ、お地蔵様の鎮座する石室の窪みはどう見ても自然のものとは思えない。人工的に窪みを造って、石を積み上げ石室にしたようだ。大岩の一端がこの窪みだと考えればわかりやすい。新峠の道をふさぐ大岩を砕いていけばこの窪み部分まで根が張っている。掘り起こすとその跡が大きな窪みとなった、砕いた石を積み上げ、旧峠付近にあったお地蔵を祀り、旧峠の石標を倒せば新峠ができあがる。なぜ新峠を造る必要があったのかは前に述べたとおりである。

左:志古田から登ってきて写真上の旧峠に向かう
中:旧峠から志古田からの道を見る
右:右わち 左志こだの旧峠
 さてもう一つの課題、志古田道が直接旧峠に繋がっていないかという疑問がある。あくまで想像で考えた道なのだが
実際に旧峠に立って眺めてみるとそんな想像は吹っ飛んだ。旧峠からの志古田側は急斜面であり、道の痕跡も見当たらない。むしろ現峠を無視して志古田道側から旧峠を眺めると、随分趣のある良い峠に見えるのである。

旧峠から志古田側斜面を覗く、急斜面で道があったとは思えない。

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大栗峠三角道の謎-8 10/11

2019-10-12 | 上林たんけん隊

2019.10.11(金)曇り 大栗峠三角道の謎-7は2019.8.15

 大栗峠の石室の石が現在の峠にあった大岩であること、旧峠に直接到達する志古田道がなかったかどうかを目で確認したいものと思っていたが、所用が多くて出かけられなかった。ようやく実現したが、台風19号の前日と言うことと同行の工忠君の都合で13時からの山行となった。工忠君がまだ行ったことが無いというのでシデ山経由で大栗峠を目指したが、日没と台風の影響で峠まで行けるか心配だった。
かみおりと 13:05出発
三の滝   13:17
やすみと  13:42 15分休憩
みと    14:05
シデ山   14:45
大栗峠   15:10 13分休憩
尾根分岐  15:43
やすみと  16:10
かみおりと 16:32着
全行程 3:27 休憩除くと 2:59

おりとの滝、みと、シデ山山頂 

空模様を気にしながら全速力で歩いたが、みとでポツリと降ってきた。合羽を着るがたいした降りにはならなくてガスが濃くなってきた。シデ山山頂の景色もまるで視界が効かなくて、足下しか見えない。大栗峠もガスの中で幻想的な雰囲気たっぷりだ。
 焦る気持ちを抑えて、石室をじっくり観察する。チャートの白い岩塊なのだが、明らかに人の手で砕かれた感がする。ただ花崗岩のように溝を切ってくさびで割るという方法ではなく、大きな槌で叩いて割ったもののようだ。チャートは溝や穴がきれるような岩質ではない。層に沿ってきれいに割れるようで、表面はきれいな平面になっている。シデ山頂上の写真を見てもわかるように、チャートの岩塊は稜線上にいくつも見られるが、自然の状態で大栗峠の石室のように小さな岩塊となっているものは見当たらない。従ってこの石室の石は人工的に割られた石と判断して良いだろう。つづく
  

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大栗峠三角道の謎-2 7/23

2019-07-23 | 上林たんけん隊

2019.7.23(火)晴れ

 大栗峠の現存の資料を年代別に並べてみよう。
 石標(c)     1824年(文政7年) 左志こた 右わち 山田村世話人中
 弓削・山田道分岐石標1824年(文政7年) 右ゆけ道 左志ろ下 山田村 助左エ門
 上粟野道地蔵    1848年(弘化5年) 世話人 上林ユゲ川北 シコタ左堀 
                       施主 村中梅原 ホドス岡本
 石室の地蔵(左・a)1865年(慶応元年) 施主 ワチ川合村中 カンバヤシ志古田村中 
                          同長野村中
 石室の地蔵(右・b)?           右志こた わかさ 左ゆけ 城下  

 山田道取り付き道標 明治?         迷ワン

 1824年の峠は石標(c)の位置で、現在の峠道(A)や石室は無かったと考えると三角道の矛盾や各道標の指し示す方向の矛盾がすべて解決する。地蔵さま(b)は年代がわからないので、A道が無い時ならC道の三叉路付近、A道が出来た後なら現在の位置から志古田道が登り着いた辺りに和知の方向を向いて立てられていたと考えられる。いづれにしても現在の石室の位置は後日移動させられたものと考えられる。
 寛政11年(1799年)の丹波國大絵図には弓削道のみが記されていて、かなり古くから主要街道となっていたと考えられる。

当時の大栗峠想像図を描いてみた。
しかし元々の峠道は志古田道ー上粟野道と考えられる。それは田辺(西舞鶴)、若狭から京を繋ぐ最も合理的な峠道だからである。それはアプローチと距離、登高時間の問題で、あくまで徒歩を主体とした行程である。上記石造物の銘をみても志古田村が峠に関する主導権を持っていたのではないかと想像できる。
 大栗峠が現在の位置ではなくて石標の位置、弓削道とショートカット道の出合、B,C道の交点(旧大栗峠と記す)であったとする根拠は石標の指し示す方向とその位置、地蔵さま(a)の指し示す方向の矛盾、峠に意味の無いショートカット道(C)が存在することがすべて解決するというものだが、現在最も高度が低い鞍部で最も峠らしい大栗峠はどういう状態だったのだろう。その部分が通行不能であったと考えられる。旧大栗峠より高い稜線が存在した、岩石などの障害物の存在が考えられ、そのどちらもあったかもしれない。いづれにしても現大栗峠(A道)は人工的な感が否めない。

右の地蔵さま(a)は何もかも知ってござる。
 もし旧峠と同じ位の高さの稜線が走っていたら、それを取り除いた土砂は相当な量となる。その土砂はどこへ行ったのか。峠東に広がる平坦地、石室周りの小山が考えられるが、岩石説の方がより可能性が大きい。大栗峠からシデ山に向かう稜線、あるいは大栗峠の頭から南東に走る稜線を歩けば、その稜線上にチャートの岩塊を見つけることが出来る。大きなものでは直進が出来ずに捲いて通過するものがある。このような岩塊が大栗峠付近にあったとしてもなんら不思議ではない。つづく

※5月28日から連続で公開の短編小説は応募のため非公開としました、悪しからず。
   

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大栗峠ガイド-6 5/13

2019-05-13 | 上林たんけん隊

2019.5.13(月)晴れ

 金久氏もわたしもお地蔵さまの前を手を合わせて通るのが本筋と考えている。それは至極当然のことだが、それではお地蔵さまの後ろをこっそり通るC道はいったい何なんだということになる。この疑問を解決するひとつのヒントがある。それは二体の地蔵さまの右の地蔵さまだ。頭部の一部の欠けた気の毒な地蔵さまだがその台座には「右 志こた わかさ 左 ゆけ 城下」とある。右は合っているが左は合っていない。

ここを左に行くと和知に行く。
 左は和知の方向にある。つまりこの地蔵さまは元々この位置には無かったことになる。志古田、城下の方向を示すということは和知から上がってきた人に方向を示している。本来の位置としては(1)C道の左右、(2)ACの角、(3)石標の向かい側、(4)ABの角が考えられる。このうち(3)の石標の向かい側は地形が下っており考えにくい。いずれにしても右側の地蔵さまは現在の岩室の中にはおられなかったことは確かである。これほどはっきりしたことを金久氏が気づいておられないことに疑問を感じるかもしれないがそれは無理も無いことだ。わたしが始めて大栗峠を訪れたとき(2011年7月)地蔵さまの台座は完全に土中に埋まっていて、そこに何が書いてあるかは掘り起こさないと読めなかったのである。さすがの金久氏もそこまでしなかったのだろう。

二回目の訪問で読めるようになった。
 さてもう一つの左の地蔵さまは実に良いお顔をされていて、大栗峠を訪れる楽しみの一つとなっている。この
地蔵さまには「慶応元年丑年六月」(1865年)「施主 カンバヤシ志古田 村中 同長野 村中 ワチ川合 村中」の銘がある。道標となるべき案内は無いので位置関係は不明である。
 この岩室だが右の地蔵さまがどこかから持ってこられたとすると、それまでは一体が納まっていたのだろうか。それにしては大きすぎはしまいか。そして和知道の六地蔵が瓦葺きの木造であったのになぜここは岩室なのだろう。C道が地蔵さまの後ろを通り過ぎるというより、なぜC道に背を向けて地蔵さまが安置されているのだろうかと疑問がわいてくる。
 大栗峠の休憩所でベンチに腰掛け、ぼんやりと地蔵さまを眺めているとふとあることに気づいた。地蔵さまの石室もその前を通るA道も元々無かったのではないか。峠道は志古田道と弓削、山田道が石標の位置で出合いC道を通って和知に向かったのではないか。そうすると石標の位置、右の地蔵さまが後々石室に持ってこられたことの説明がつき、通行人は地蔵さまに背を向けて通ることも無いわけだ。右の地蔵さまbはC道の左右いずれか、T字路の手前に立っていたものだろう。左の地蔵さまaは年代も新しく、A道が開通し、石室が作られた際に彫られ、bの地蔵さまと並んで安置されたとすればつじつまが合う。

2011.10月の訪問、この石室は地蔵さま一体では広すぎる。それになぜ石室なのか。 
 ではなぜ新たにA道が作られたのか、石室はどうして作られたのか、謎は謎を呼ぶわけだが、ここからがAIなんかでは太刀打ちできない、人間の想像力の世界となるのだ。つづく

 

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大栗峠ガイド-5 5/7

2019-05-07 | 上林たんけん隊

2019.5.7(火)快晴

 大栗峠に存在する石仏二体(a,b)と石標(c)について検証してみよう。石標は腰の高さぐらいか、従前から横倒しに倒れていて、2017年の整備の際に同位置に立てられたもの。表には梵字と「右わち 左志こた」と書かれている。裏には「文政七申 十月吉辰 本願 山田村世話人中 阿波国 行者 長治郎」とある。文政7年は1824年で、弓削道と山田道の分岐にある南無大師遍昭金剛の石碑と同一年月である。従ってこの二つの石造物は同じ時期の同じ機会に立てられたと考えていいようだ。この年に城下で大きな普請があり、その記念に立てられたものかというのは川端二三三郎先生の言である。

現在の石標
 ということは1824年には弓削道も山田道も存在したということである。ちなみに寛政11年(1799年)の丹波国大絵図には大栗峠を通過する道は弓削道のみが記されている。多分に大まかな地図とはいえ、当時の主要街道が弓削道であったといえるのではないか。

東にシデ山に向かう道があるが、現在の登山道なので無視して頂きたい。
 さてこの石標について金久氏は地蔵様の向かいにあったのではと想像されている。あくまで地蔵様の前を通過するのが本道で(道-A)、道ーCは緊急のショートカット道という考え方だ。また方向も「右 和知 左志ここた」という表示が合ってくる。しかしこの道しるべを誰が見るかと考えたとき地蔵様の前はあり得ないことになる。峠を通過する旅人が地理も方向も解らず、ただ道しるべのみを頼って通過するとすれば、志古田から上がってきた人は弓削、山田に向かう人はいないだろうから、Aの道に入ればそのまま進めば和知に行けると解る。ただBの道に入ってしまうと和知に行くのはどう行くのか解らない。
 次に和知から登ってきた人はというとAとCの道のどちらへ行くのか解らない。仮にA道に入ったとしても志古田に向かう道は解っても弓削、山田に向かう人は解らない。

  最後に弓削、山田から登ってきた人は、Cの道に入ってしまえばどちらに向かえばいいのか解らない。Bの道に入ると志古田と和知の分岐でどちらへ行けばいいのか解らない。この石標は「山田村世話人中」の銘があるように弓削、山田道から来る人を対象に考えられていると思うので地蔵さまの向かいというのは無理がありそうだ。またどうして離れたBCの角の現在地に運ばれたのかも疑問が残る。
 弓削、山田方面から上がってきたときに最も効果的な位置は、現在の位置である。右に行けば和知で、左は志古田方面に行ってしまうよと教えているわけだから。「南無大師遍昭金剛」の石碑が弓削道と山田道を分け、この石標が志古田道と和知道を分けているのだから最もわかりやすい。
 二度目の峠訪問の際に横倒しになった石標の周囲に石標の礎石というか支えとなるべき大きな石材をいくつか発見した。それらが自然のものなのか石標と対のものなのか現在は取り払われて確認できないが、「南無大師遍昭金剛」の石碑付近にも同様の石材があり、石標が現在の位置にあったひとつの参考となるようだ。


2011年10月横倒しの石標の周囲に石材発見、弓削・山田道の分岐の石碑の周囲にも石材がある。
 そうすると山田方面からの人はC道を辿ることとなり、地蔵様を拝んで通るという慣習に反することとなる。つづく


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大栗峠ガイド-4 5/1

2019-05-01 | 上林たんけん隊

2019年5月1日(水)曇り

 金久氏の観察眼は鋭い、大栗峠には少なくとも二度訪れておられるようだが、それだけであの謎の三角道に気づいておられるのだ。わたしだって金久氏の文を読んでいたからその三角道に興味を持ったわけで、読んでいなければ何度通っても気にすることもなかっただろう。
 金久氏は三角道の弓削道側の一辺は、急ぎのひとが通るショートカット道と結論付けされ、その角にある横転した石標(現在は同位置に立てられている)はお地蔵様石室の向かいにあったのではと考えておられる。そして志古田から上がってきて地蔵様の前を通過する道が峠道らしい道だと言っておられる。ところが小栗峠の本道は弓削道だと主張されているので、上記の内容はすべて矛盾することになる。
 なぜ峠の大家でもある先生がこのような矛盾に陥るのか。それは目に映る大栗峠を平面的にしか見ていなくて、時間という空間を考慮されていないからだ。

2011年7月24日当時のお地蔵様と石標

 大栗峠の最大の特徴は多くの支道から成り立っているということである。和知側から上粟野道、上林側から弓削道、志古田道が合流しているのだが、弓削道には山田道、瀬尾谷道、竹原道があり、上林からは志古田、弓削、瀬尾谷、竹原、山田の五村から峠に向かうことが出来る。こんな峠は他に例がなく、木住峠に清水道と遊里道が合流しているぐらいである。
 これらの多くの支道は最初から揃って存在したわけでなく、何百年ひょっとしたら何千年もかけてその時代の要請に応じて作られてきたものである。そういう風に考えれば今現在の見た目で弓削道が立派だからそれが本道だというのは時代を無視した乱暴な見方ではないか。確かに江戸時代後期には輸送の幹線道路として弓削道は大活躍したと思われるが、徒歩の旅人や行者などは志古田道を利用しただろう。その関係は本道、脇道と言うものではない。わたしは大栗峠道の元祖は志古田道だと思っている。あまたある支道のなかで最も早く、楽に峠にたどり着けるのが志古田道であり、峠道開拓の原則に則っているのが志古田道なのである。

峠から志古田道、当時はシダが生い茂っていた。(2011.7)
 志古田道は本来の峠道、弓削道は物資輸送が盛んになってきて作られた産業道路、山田道は藩による国境警備や通行管理の政治的道路とわたしは考えている。
 このように時代、時間の流れを考慮すればあの三角道の謎も解けてくるのである。つづく

 
 

 

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大栗峠ガイド-3 4/30

2019-04-30 | 上林たんけん隊

2019.3.4.30(火)曇り

 大栗峠の探訪は「北山の峠」(金久昌業著)から始まった。峠に惹かれて数多くの本を読んだが、これほど優れた文章の本は無い。氏の深い洞察と心地よい文章は、まるで自分自身が峠を彷徨っている感覚になる。大栗峠に行く前にも何度この文章を読んだことだろう。そして大栗峠に通い始めて、悪戯心というか天邪鬼な気持ちがわいてきた。氏は弓削道が京街道の本道だという。本道というのが最も盛んな道というならそれもいいだろう。だけど本来の京街道、大栗道というのならそれは志古田道だというのがわたしの説であり、あまたある大栗峠の道も元々は志古田道一本だっただろうと考えている。氏は大栗峠に関する謎をいくつか書いておられるがこれらについては大栗峠考(7)2011.10.23参照等で報告している。今回の発見は峠の三角道についての謎で過去の見解を覆すものである

 2011年に作製した略図
 登山道などではつづら折れの切り返し部分に直登のショートカット道をこしらえる場合がよくあるが、街道としての峠道にこのような例は見当たらない。大きくショートカッツするのなら通行の合理性として考えられもするが、地蔵様を囲んで図のような道を作るのは不自然である。金久氏はこの三角道について次のように書いている。
 この峠は地形は単純な鞍部だが、道がいささか複雑である。というのは上粟野側から上がってきた場合、峠の手前で二分する。この左の道は石室の背面を通って弓削に赴く尾根道であり、右の道が石室の前面を通って志古田に下る谷道である。反対に弓削から尾根道を上がってきた場合、これも峠の手前で道が二分する。この地点に横転したかなり大きな石標があり、「右わち 左しこた」と記されている。どちらも数十歩で和知ー志古田の石室の前を通る道に合する。

問題のショートカット道と復元された石標 
つまり道は三角形についており、その三角形の中に石室があるということになる。そうすると和知(上粟野)ー弓削の峠道を通る限り石室を見ずして峠越えをしてしまうことになるし、「右わち 左しこた」の石標は弓削から来た旅人のためのものなので、弓削から上がって志古田に下るのはおかしく、「左しこた」は必要がないと思われるが、方向を指示したものだろうか。それとも石標のあった場所が移動したのだろうか。横転しているところを見ると引き抜かれたとも思われる。どうもこの横転石標のある場所は移動されたもののようである。石室の前にあればぴたりと方向が合う。やはり石室の前が峠であろう。この峠越えをしたからには当時の人の感覚としてはお地蔵様に手を合わせて行ったのが至当だと考えられる。だから石室の前が峠の頂点ということになる。ここはまた和知ー志古田の道の上がって下る地点でもある。ここが一番峠らしい。掲載の写真(志古田から峠を登り着いた風景)はこの地点を志古田側から写したものである。弓削へ下る尾根道が本道であったという観点から見れば志古田への道はこれに準ずるものとなり、そんなところに峠があるはずがないということになるが、本道を行く旅人も前記した理由のように背面を通り過ぎただけとは思われない。三角形の二辺を歩いたとしてもごくわずかの違いでしかなく、石室の背面を通る三角形の一辺の道がなかったとしても不自然ではないほどに短い距離である。だから三角形の一辺のこの道は、近道としてこの峠を知悉している旅人や急ぎの旅人が用いたもののように思われる。

 大栗峠を訪れたことのない人はわかりにくいと思うが、略図と見比べてよく読み返して欲しい。氏はおそらく数回訪れただけだろうけど、ものすごい観察眼である。また、この三角道によほど興味を示されたことと思う。しかし氏の想像は残念ながら当たっていないのである。つづく

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大栗峠ガイド-2 4/29

2019-04-29 | 上林たんけん隊

2019.4.29(月・祝)曇り

 日時:2019.4.20(土)快晴
 コース:大栗峠上粟野道~山田道
 メンバー:お客様1名 工忠照幸 小原英明
 タイム:上粟野山の家広場出発 10:20
     地蔵の広場着     12:00 発12:10
     大栗峠着       12:20 発13:35
     観光センター着    13:35

 本来は和知からバスを利用する予定だったがお客様が一人だったので車を観光センター(中上林)において、上粟野まで送りそこから歩くことにする。途中下粟野の寿命山明隆寺に立ち寄る。丹波西国三十三所二十七番で二十八番が光明寺である。つまり大栗峠は信仰の道、巡礼の道でもあったのだ。その際は峠から先は志古田道が使われたと考えられる。荷物の少ない巡礼者にとって、早くて楽に光明寺に至るのは志古田道だからだ。
それにしても明隆寺の観音堂は圧巻である。室町時代後期の創建で国の重要文化財に指定されている。光明寺の二王像がこのたび重文に指定され、大栗峠を挟んで二ヵ所の重文、さらには二王門の国宝が存在することとなった。

明隆寺観音堂、実に立派なお堂である。ご本尊世観世音菩薩は2060年に開帳とか。生きてません。
観音堂から下粟野の集落

 さて大栗峠をガイドするにあたって、テーマを設けている。それは「大栗峠の謎を探る」であるが初めて大栗峠を訪れる人にどれだけわかってもらえるかというのが課題である。やはり大栗峠の謎について冊子の発行を急ぐべきと考えている。
 そんな謎を話しながら峠を登ってゆく、工忠君はネイチャーガイドよろしく木々の名前や鳥の名前を披露して歩いている。上粟野道の茶店跡や六地蔵の謎などまだ解明されない謎を考えながら歩くのは楽しい。

茶店跡はここではないかというところ。道中の尾根から長老ヶ岳方面
そうこうしているうちに峠に着いた。休憩所には数名のマウンテンバイクのライダーが休憩していた。思わず「登山道を荒らさないでください」と口に出る。実はマウンテンバイクの登山には苦い思い出がある。30年ほど前、まだマウンテンバイクがそう出回っていない頃、京都MTBクラブてのを立ち上げて月に一回北山や西山をトレイルしていた。また一人で毎週のように北山の峠を走り回っていた。そしてクラブで亀岡の半国山に行ったときのこと、登山道が滅茶苦茶に壊れているのを目撃した。犯人はオフロードのモーターバイクだったが、マウンテンバイクでもフルブレーキで下ったりしたら舗装されていない登山道は簡単に壊れてしまう。ちょっとした溝が出来ても次の雨で道は壊れてしまう。それ以来マウンテンバイクはアプローチや林道に使用、登山道は歩いて転がすようにしてきた。大栗峠でマウンテンバイクを見たという情報は以前から知っていたが、いざ目撃してみると無性に腹が立ってきた。幸い今回のパーティは「解っています、気をつけて下ります」と言ってくれたが、皆が皆そういうわけにもいくまい。大栗峠の各入り口に「マウンテンバイク、オフロードバイク入山禁止」の看板を上げて頂きたい。
 さて峠ではかるな庵さんの特注弁当をいただき、シデ山寄りの展望台に行ったりして過ごす。天気の良いときには舞鶴湾から丹後半島まで見渡せ、気持ちの良い展望台だ。

これからも頼みます。
 さてこの大栗峠で永年の謎のひとつが解けることとなった。現場百回という言葉があるが今回で確か10回目の峠だと思う。つづく


     

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大栗峠ガイド 4/20

2019-04-20 | 上林たんけん隊

2019.4.20(土)快晴

 大栗峠の峠道が桜井さんたちの努力で整備され、一昨年には公の資金でもって山田道と和知側の道が整備された。八年前、各道を歩き始めた頃の様子からすれば雲泥の差がある。その当時は倒木と生い茂ったブッシュと分岐の解らない作業道の連続でまるで探検だった。今はおかげさまですいすいと歩けて道も迷わないように案内がしてある。しかし道というのは人が歩かないとすぐに荒れてしまう。整備するのは大変だけど、荒れるのはあっという間なのだ。桜井さんも整備を続ける後継者がないものかと心を痛めておられるが、なかなか思うように行かないようだ。わたしも桜井さんの真似はとても出来ない、それほど熱心に整備に取り組んでおられたのだ。
 そこで考えたのが大栗峠専門ガイドだ。峠道を守る最高の方法はいかに多くの人に歩いてもらうかだ。もう実効的用途の無くなった峠道は、景色や歴史や自然を楽しむ人たちがファンとなってリピートして歩いてもらうほかにない。大栗峠はそれに値する峠である。山田道、志古田道、弓削道、シデ山道などひとつづつ歩いても四回かかるわけだ。大栗峠の魅力は多くの謎があることだ。訪れるたびに新たな発見があり、また新たな謎が生まれる。そして何度も通っているとその謎が解けていくのだ。こんな楽しい峠は他に無い。そんな峠道をガイドできれば、峠道の保全の一助となることは間違いない。単発のイベントより根気よくお客様を案内することが峠道を守ることになるのではないだろうか。
 そんなわけで初めてのお客様を工忠君の企画で迎えることが出来た。
 
 大栗峠の地蔵様、これに感激しない人はいない。

【今日のじょん】舞鶴の小梅ちゃん2歳、じょんは出してくれ~と覗いているノダ。

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睦合町花便り 4/8

2019-04-08 | 上林たんけん隊

2019.4.8(月)晴れのち曇り
 中上林では桜が満開の今日、睦合町内をめぐる機会があったので、この際町内の桜を紹介しようと思う。「上林はさぞ桜がきれいでしょうね」とよく言われるのだが、残念ながらそうは思わない。一本一本はきれいなんだがなにしろ数が少ない。群生しているところが少ないのだ。それでも頑張って咲いている花たちに敬意を表してご紹介しておきたい。ただ時間的に制約があったため構図やアングルなどお構いなしに撮ったので悪しからず。なお写真は縮小しているのでアップにして見てちょうだい。
(花の一区)
 

左:御存知じょん桜、レンギョウ、ハナモモなどと相まってカラフルNO.1
中:しまだ屋さん自慢の桜、店閉まったのが残念
右:福井酒店の桜、かつてはライトアップされていた。
(浅原)

左:浅原から城下に抜ける峠道の取り付きに植えられた一本、道しるべの役目をしている。
右:浅原の上と下を繋ぐ道筋の並木、奥の双耳峰が天狗岩のピーク、上林で最も美形の山。
(真野)

左:誰もが知ってるこの坂、冬はイルミネーションで有名。
右:木は若いがビーチクルーザーとよく似あう、生野運送さんの桜
(小田)

今回一番のお気に入り、なんとも可憐な枝垂桜。誰にも見つからないところにある。
(引地)

左:堤防沿いの老木、やや花が少ない感があるが独り占めできる一本。
右:善福寺、常緑樹の陰で見られない、チラリズム桜。急な階段を登った者だけが楽しめる。

とまあこうやって観れば結構マニアックに楽しめる、睦合町の桜は今が盛り!! 

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四塚-7 2/13

2018-02-13 | 上林たんけん隊

2018.2.13(火)晴れ 四塚-6は2018.1.6

 前回平安京の朱雀大路について書いていたのだが、櫛笥小路(くしげこうじ)について面白い新聞記事を見つけたので紹介しよう。櫛笥小路(通)は大宮通と壬生通りの間にある南北の通りである。記事は2月2日の京都新聞「みやこ今昔 大路小路から」という歴史の記事だ。

 実はその櫛笥小路は東寺のど真ん中を通っているのだ。八条通の北総門から北大門までの間が平安京当時のままの幅で残っているというものである。平安時代の定めのまま12mの幅で残っているというのだ。ちなみに大路は24m以上と言われている。なーんだそれだけのことかと思われそうだが、平安時代の大路小路はその後蚕食されつくされ、(耕地や宅地とされた道路は巷所・こうしょと呼ばれる)当時の幅が残っているのはおそらくここだけじゃないかと思うのだ。
 四塚を訪問した際に偶然にこの通りに入り込んだことが不思議に思える。もちろんその時には平安時代の道巾が残っているなんて知らなかったことである。旅に出たり、歴史の調査に出かけたときに、何気なく訪れたところが後から重要な場所だったりすることがよくある。
 櫛笥小路は北総門から自由に入れるので、平安時代の小路を体験して頂きたい。なお、石畳となっているがこれは明治になって寄進されたものだそうだ。櫛笥通りは八条通北にも続いているが、見事に巷所化しておりその差を見るのも楽しいものだ。
【今日のじょん】長く続いた寒気がようやく治まるそうだ。この間のじょん写真を公開しておこう。

これは雪の中で頑張ってるゴンちゃんとぬくぬく車の中から覗いているじょん。(2月2日)

まだ雪の残ってるおおいの芝生広場。(2月2日) 

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浅原を訪ねる-2 1/20

2018-01-20 | 上林たんけん隊

2018.1.20(土)曇り

 今回の目的の一つは、通谷から石橋(上林城城下)まで峠を歩いてみたいというものだった。特に石橋側の谷が足谷というらしいので、どのような谷か見てみたいという気持ちだった。だからミスコースは大きな痛手で、後から地図を開いてがっくりきた。それにしてもその峠道の取り付き付近で最初の休憩をしていたようだ。もちろん道標など有るはずも無いのだから解らなかったのだが、瀬名の三叉路の所にあった大石と同様の石が道ばたにあったのを思い出す。

周囲に見当たらない石が置いてある。
 ひょっとしたらそれが道標代わりだったのだろうか。角の取れた庭石にでも良さそうな石だったのだが、通谷の上流には結構転がっているようだ。通谷の途中にはもう一本馬場に向かう峠道が合流しているのだが、これも気にしていなかったためか見つからなかった。次回は石橋に抜けて馬場から帰ってこようかとも思うが、果たしてルートは見つかるだろうか。

例のきれいな石がごろごろしている。
 さて帰りは左岸に古い道を探すべく下っていく。明治24年陸地測量部の地図では左岸の道は現在の一区小山方面からの道と西河内(京丹波町)に向かう堀尾峠への道があるのみで、浅原の主要道はやはり右岸である。近世後半の道はこの通りと思われるので、それ以前の道を探すのは困難なようである。
 余談だがこの堀尾峠、浅原の小字堀尾に由来するものかと思っていたら、和知の西河内にも堀尾がある。峠の両端に同名の地名のあるのも珍しい、単なる偶然だろうか。
 すると田んぼの上になにやら道状の段が見える。あわててMTBを置き、斜面をよじ登る。この時期は草茫々の心配も蛇や虫の心配も無い。期待の道はやっぱり用水路だった、しかも水路はポリの筒で出来ており、最近のものと解る。

林の中に道発見、水管が通っていて残念。
 もっとももとは溝を水が流れていたのだろうが、そのもとが道と判断するには無理がある。妙に水平に走りすぎているのだ。やはりもともと右岸の道が主要道なのだろうか。平安京のように古地図が残っているところは何かと調べやすいが、地方の山奥となると昔のことは想像するしかないようだ。おわり

【今日のじょん】今年の雪はこの地方は幸い、回数は多いが積雪量が少なくすぐに解ける。

14日今冬最大の積雪、5cmが16日には皆無となる。でもゆめゆめ油断めさ
るな。

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浅原を訪ねる-1 1/12

2018-01-12 | 上林たんけん隊

2018.1.12(金)快晴

 各地で大雪が伝えられているがどういうわけか中丹地方は好天続きだ。折角の休みなので午前中をMTBで浅原探訪にあてる。執筆中の浅原の地名考の取材や確認のためだ。
10:40 じょんのび出発

11:15 通谷出合い
11:52 堰堤先林道崩壊部分で折り返し
12:50 帰宅
 勢名(せな)から下りてきた三叉路先で小さな洞穴といくつかの地蔵さまを発見、何度も通っているところなのに気がつかなかった。洞穴は貯蔵庫としては小さく、どうやら水場らしい。

道の脇に大石と洞窟と地蔵様を発見。
 現在浅原の主要道は浅原川右岸である。近世の後半には此路があったと思われるが、それ以前はどうだっただろう。右岸は川と山腹が近く、しかも表土の下はすぐ岩盤で索道はかなり困難だと思われる。それに比べ左岸は、傾斜が緩く、表土も厚そうだ。当初の道が造られるとしたら左岸ではないかと考えている。なにか道の跡らしきものが左岸にないものかと常に考えている。今回発見の地蔵は右岸にある。この場所は忠(ただ)から峠を越えて降りてきたところだ、城下に向かうには、この地蔵さまのところを右折し、岩ノ元から通谷の峠を越えて行ったと思われる。 道標でもあればと思うのだがそこに有る大石には何も書いていない。公民館を過ぎて桜並木の辺りに来ると道の上部にユリ道が見える。ひょっとしたらこれが昔の街道かなと写真に納める。道はどんどん登っていき、ユリ道らしきものは段々近づいてくる。やがて合流してその正体がわかった。用水路である。

上部に古いユリ道らしきもの発見、でもそれは用水路だった。
やはり右岸に古い道はなかったのだと安心する。続いて左手に三宇の祠があるところに着く。その向かいにある二対の岩が陰陽を表しているように思えるのだが、考えすぎだろうか。葛禮本神社に陽物の石棒があるのだが、これが縄文時代から浅原に在ったかどうかは別として、石棒が縄文時代に遡る信仰あることは間違いない。この大岩が陰陽を表しているとすれば、古い信仰が残っているといえる。

 気になるのは、この新しい三宇の祠はあちこちに祀られているものを持ち寄って建てられたという事を聴いていることだ。新たなお祀りの場所だとすれば古い信仰なんて関係なくなる。とそのとき、見上げた先に朽ちかけた二宇の祠を囲んだ建物が眼に入った。この場所も何度も訪れているのだが、この祠には気がつかなかった。この二つの神様は古くからこの地に祀られていたようだ。

陰陽を表しているか?新しい祠の上部に古い祠を発見。

 岩ノ元まで来て周囲の山を見渡す。その地名の謂われとなりそうな岩がないか見るためだ。冬になって広葉樹の葉が落ち山肌が見やすくなっている、それでも岩は見つからなかった。顕著な大岩はなさそうだ。続いて通谷に入っていく。林道が続いており、MTBで充分行けるが、先の台風で道が荒れており、倒木もあって乗っていくのは厳しい。

岩ノ元の上部に大きな岩は見当たらない。 
 帰宅後に地図を開いて解ったことだが、実は大きな勘違いをしていたのだ。大栗峠方面に伸びている大きな谷が本谷で、上林城下の石橋に向かう峠道が通谷かと思っていたのだ。峠道に向かう林道かと思い、どんどん進むがきりが無い。とっくに峠に着いている距離なのに、未だに谷川のそばの林道を歩いている。

通谷の林道、通谷から本谷方面を望む。
 地図もコンパスも持っていたが、ついぞ開くことはなかった。見ればすぐに解ることだったのだが、思い込みとは怖ろしい。やがて道が大きく崩れ、雪も深くなってきた。午前中の予定だったので、ここで引き返す。

けども行けども林道は続く、ついに崩壊して引き返す。
つづく
【今日のじょん】冬にはドッグランどの訪問犬が無いのでさびしい。唯一ニューモモちゃんだけが来てくれるのだが、腹ぺこじょんがモモのご飯を食ってしまった。モモのあきれた顔。

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