晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

環境トレーニングのススメ-4  2/29

2020-02-29 | 健康

2020.2.29(土)雨 環境トレーニングのススメ-3は2019.9.9

 2月も最終日となり、3月に入ると温かくなるという予報が聞こえる。今冬は暖冬で、降雪も2,3度という一見ありがたい冬だった。ただ、環境トレーニングの成果を自分自身で確かめようというわたしには残念な冬でもあった。
 それでも成果は成果として記録しておこう。
・通年裸足で過ごした。フォーマルな場面などでは靴下着用。
・履き物は基本的にサンダル、雨天時等はトレッキングシューズ
・下着タイツ、厚手のトランクス、セーター、手袋、毛糸の帽子、ダウンコートの着用なし。
 但し、野外作業時は適宜着用、プレゼントにいただいたセーターは一時着用
・湯たんぽ、携帯カイロ、電気ストーブ、ホットマット、毛布など不要
・パジャマ、腹巻き不使用
  とまあ随分寒さには強くなったようだが、大切なことは少しも我慢していないことだ。特に素足のサンダル姿は他人から見ると寒そうに見えるようで、「寒くないですか、鍛えてるのですか?」と声を掛けられるが寒くもないし鍛えているわけでもない、平気なわけ。かつて幼稚園の子どもが半袖、半ズボンで冬を過ごしているのを「寒いだろうなあ、可哀想に」と思っていたのと同様の思いだろう。彼らが本当に寒かったのかそれとも平気だったのか知るよしもないのだが。

愛用のミズノウオーキングサンダル、結構高価なんだがお気に入り。
【今日の”のびちゃん”】NO. 27

2月27日多分今年最後の雪が解けた。紅梅は満開でやっぱ暖冬かね。
最も多い雪がこれだもんね。

 
 

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コンサートはどうなるの? 2/28

2020-02-28 | 文化に触れよう

2020.2.28(金)曇り
クラシックコンサート三昧

 昨年は中丹でクラシックコンサートが少なく、MAFの定期演奏会に行っただけで終った。ところが年が明けると続々とコンサートの案内が届いた。ベートーヴェン生誕50周年とかですべてがベートーヴェンの作品が絡み、2ヶ月毎に舞鶴、綾部、福知山と開催されるのが嬉しい。まずは舞鶴での関西フィルハーモニー管弦楽団で1月26日に行われた。
関西フィルハーモニー管弦楽団 指揮:園田隆一郎  
 モーツアルト/歌劇「フィガロの結婚」序曲
 F.タレガ/アルハンブラの思い出    ギター:村治佳織
  ロドリーゴ/アランフェス協奏曲
 ベートーヴェン/交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」
とポピュラーな作品でありがたい。村治さんのアルハンブラはギターの魅力がたっぷりで、村治さんの演奏を生で聴くことが出来たのは幸せである。
「田園」もレコードや電波を通してしか聴いたことが無く、オーケストラで直に聴くのは初めてのことでとても感激した。コンサートは行く前もワクワクするし、終わった後も満足感が残って楽しい気分になる。これが3月にも5月にもあるのがとても嬉しい。

3月28日 中丹文化会館 大阪交響楽団 
ベートーヴェン「レオノーレ」序曲第3番
       交響曲第5番「運命」  
       交響曲第6番「田園」
5月24日 福知山厚生会館 京都市交響楽団
ベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番「皇帝」 小山実稚恵ピアノ
        交響曲第3番「英雄」
 いやあこんな年はないですぞ。
というような記事を以前に書いていたのだが、今になってコロナウィルスによる自粛騒ぎが気に掛かる。特に3月28日は微妙な日程だ。「運命」も生では聴いたことがないのでこの機会を逃せば一生聴けないかもしれない。それにチケット代金が返ってこないなんて事になればいかれこれやなあ。
【今日の”のびちゃん”】NO.26
フェラリアのチェックにキャドックさんに行くんだけど、その前にうみんぴあ芝生広場を散歩する。本当は先端緑地とかお堅い名前が付いているんだけど、のびはここが好きみたい。じょんも好きだったけどどうもワンコの匂いがするのがいいみたい。飯盛山をバックに写真撮る。
 

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雨読 続・残酷な進化論 2/11 

2020-02-11 | 雨読

2020.2.11(火)晴れ
 この本の中で面白い発見をした。年々悪くなっていく眼を何とかしようと指圧に凝っている。眼のツボが顔面にあるのは当然のことと思えるが、後頭部にも集中しているのはどういうことだろうと常ずね考えていた。
特に脳点という新しく発見されたツボはなんとなく効果がありそうだ。とまあ何の根拠もなく脳点さすりなんぞをつづけていたのだが、本書の中でえらいことを見つけてしまった。私たちの祖先の脊椎動物(遅くとも爬虫類と哺乳類が同じ生物だった頃までには)は眼を3つ持っていたというのだ。頭の横に二つ、頭の上に一つだ。もちろん第三の眼は退化して影もないが、後頭部の眼のツボこそ我々祖先の持っていた第三の眼の名残ではないだろうか。そう考えるとこの後頭部のツボがなんとも愛おしく思えてきた。
 さて前回のなんとも寂しい進化の道筋についてちょっと光明を与える方法を考えついた。生殖が終わると老化が始まって、死に向かって突き進むというなんとも侘しい人生を少しでも明るく希望に満ちたものにするためになすべきこと、それは脳を騙すことである。遺伝子のプログラムは騙しようがないけれど、おっちょこちょいの脳はわりかし簡単に騙せそうだ。つまりまだまだ生殖が必要だと思わせるわけだ。恋多き人は若々しい、例え彼らが不能であっても恋する心、憧れの心を持つ人は若々しいではないか。脳がこの人はまだまだ生殖が可能で必要なのだと勘違いさえすれば、老化も少しはスピードを緩めるんじゃないかと考えている。
 最終章では、「なぜ私たちは死ぬのか」というなんとも哲学的とも思える課題となっている。でも結論は哲学的でも何でも無く、死があるからこそ生物が誕生し、進化してきたというなんとも単純なことにおさまる。中国歴代の皇帝が探し回った不老不死の妙薬、最近のゲノム編集で永遠の命を得ようなんて試みが実は人類の滅亡につながるというパラドックスを見事に解いている。おわり
【今日の”のびちゃん”】NO.25
うっとうしい日々の合間に一日だけ好天が来た。幸い店が休みなので、おおい町のうみんぴあに行く。出かけるのは積極的ではないが、車に乗るのは積極的で、喜んでいるのかなあ。芝生の広場は好きみたいでヒコヒコと歩き回っている。海も空も青く、久々の景色だ。

道中長谷坂の雪景色。青葉山をバックに、こっち向けよな~

 

 

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雨読 残酷な進化論 2/10

2020-02-10 | 雨読

2020.2.10(月)雨

 「残酷な進化論」更科功著 NHK出版新書 2019年発行
 讀賣新聞の書評で「自然は完璧で、人間は進化の頂点に立つ完成品だ、というのは非科学的な思い込みにすぎない。進化はずぼらで、ゆきあたりばったりだ。」という不思議な文に絆されて購入した。読み終えた今でこそ人間が進化の頂点に立っているなどとは思っていないが、それまではそのように考えていたのではないか。ややもすると学校でそのように教わっていないか。今読んでいる別の本の著者、村木弘昌氏(医学博士)も「人間は地球上において他の生物を引き離し、進化の頂点に立っていることはいうまでもない。」と書かれている。人間は植物連鎖の頂点には立っているが、進化の頂点に立っているわけではない。そのことは本書を読めばすぐに理解できる。窒素の処分の仕方ということで動物は尿として放出するわけだが、魚類などはアンモニア、人類などは尿素、鳥類などは尿酸として窒素を処分している。進化という意味では鳥類が最も進んでいるということだ。ただ鳥は飛ぶために多くの水分を保有することができないので、薄めなくても毒性の少ない尿酸になっているというだけのことだ。つまり進化が進んでいるということは環境に適合しているということであって、必ずしも優れているということではないわけだ。
 進化はいろんな意味で残酷なのだが、最も残酷なのは進化は将来の計画を立てたりしない、今現在如何に環境に適合するかということだけだ。それは老化についても言えることである。
 「自然淘汰という進化のメカニズムは、環境に適した形質(を持つ個体)を増やす力がある。それでだいたい正しいのだが、正確には自然淘汰が増やす形質は、子供をより多く残せる形質である。そして、これだけである。ー中略ー一将功成りて万骨枯る。進化における一将は、子供の数だ。子供の数さえ増やせればあとは万骨枯れてもかまわないのだ。いまを生きている私たちは、個体の生存こそが重要であると考えがちである。病気になったり、体が痛かったり、そして何よりも死んだりすることをいやだと思う。でも進化は、個体の生存なんて考えてくれない。いや、個体の生存が子供の数に関係すれば別だけど、そうでなければ考えてくれない。
 つまり生殖が終わればその後の身体について進化は面倒見てくれないと言うことだろう。そういえば産卵を終えた魚が力尽きて死んでいくのを思い出す。カマキリなんて交尾を終えたら雄は食われてしまうと聞く。生殖が終わっても、それまでの何倍も生きていかなければならない人間は確かに残酷である。「お肌の曲がり角」という言葉が流行ったときがあった。20代の半ばから後半というところだろうか、将に生殖が終わって老化が始まる時期なのだ。それまでは保証されていた健康や
元気といったことに進化の保証が無くなり、その後は自前で面倒見なくてはならなくなる。とまあわたしはこのように捉えたのだがいかがだろうか。つづく
【今日の”のびちゃん”】NO.24
6日、待望の積雪となった。今年初めての雪、のびは生まれて初めてかな、雪に喜ぶかななどと考えながら飛び出るが、「別に~」てんで無関心というかいつも通りというか、まあちった~喜べよなあ。

ホントは喜んでるのかもしれないが、表現のしかたがわからないのかも。 

 

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