晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

ハヤシもあるでよ 2/29

2012-02-29 | 日記・エッセイ・コラム

2012.2.29(水)雪、曇 積雪5cm

じょんのび春の新メニュー  3月1日から
 
P1010216P1010217 





 オムライスセット   850えん
 ハヤシライスセット 850えん
 一部料金の改定をしております。


 「カレー以外に無いのん」という声が多くて軽食メニューを増やすことにしました。
 コーヒー好きの方だけで無く、多くの人に来じょん頂こうということです。
 お約束のドッグランども今夏にはオープンしたいと思っておりますが、積雪が長引   いて工事に取りかかれず、あせっております。P1000803

 オムライス練習中(1月17日)



【作業日誌 2/29】
郵便受け箱作製

今日のじょん:なんとか川から来る鹿の経路を探るべく、じょんと探索する。
P1010208

隣家に続く足跡は小動物のもの。

P1010212

P1010210



堤防からの道に鹿の足跡発見、用水路を越えて小林さんの空き地に獣道が出来ている。

P1010213P1010215   



向かいの薮の方に消えている、このまま府道を渡ってじょんのび玄関坂に向かっていると予想したのだが、、、。

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雪中八策 防獣編(9) 2/28

2012-02-28 | 日記・エッセイ・コラム

2012.2.28(火)曇 積雪5cm

 B,C(里山、山)地域を獣達に明け渡すということは、A’(農地)地域に獣達が入ってこないということでは無くて、人間がA,A’(居住地、農地)地域からB,C地域に出て行かないということである。
 
 一区では昨年まで向山の折山峠道の整備がなされた。かつては忠と念道を結ぶ生活の道であった古道、誰も歩くことの無くなった峠道を倒木を切り、ブッシュを切り開いて整備された。やがて桜の苗木が植えられたり、立派なゲートが立てられたりで一応の完成を見た。この山はかつては生活道が通っており、お宮さんもあり、里山として人の出入りも頻繁であったろう。冬は子供達の竹スキー場であったとも聞く。P1000798
 
折山道の入口。


 わたしの言うB地域の里山で、獣など居なかったことだろう。ところが今やこの山に入るものも無く、地域の獣供給源となっている。
 折山峠の整備がどのような目的で行われたか判らないのだけど、獣達に奪われた里山の奪還のせめてきっかけにでもという目的があったのならとても素晴らしいことと思う。P1000587

折山はかつて典型的な里山だったのだろう。


 峠道の完成後幾人かの人に紹介し、また自分自身も数回訪れたりしたのだが、普段に人の出入りが在るわけで無く、獣達に「人の営みの圧力」をかけるような状態では無かった。そして決定的に人が入らなくなったのが、例のネットでは無いだろうか。
もちろん道の入口部分は開閉できるようになっているのだが、あれを開けて山に入ろうという人は出てこないだろう。あのネットは物理的というより精神的に人と里山を隔離してしまった。
 つまりあのネットは人間の最後の砦であった里山を獣達の手に渡し、もう攻撃はしませんよと言う降参の印、敗北宣言の印なのである。

 隣接する里山が完全に獣達の生息地になったら、あの数ミリのネットで農地が守れると思うのはよほど脳天気な者だろう。例えば動物園の檻があのワイヤメッシュだとしたら誰が見物に行くだろうか、人間は精神的にあのネットから出られず、獣達は物理的にあのネットから侵入してくるだろう。P1000800
 これが獣害を助長する防獣ネットの理由である。つづく

もう鹿入ってるぞ(1.16)


【作業日誌 2/28】
バイクハンガー作製
郵便受け箱作製

今日のじょん:積雪もいずれ無くなりそうなので、機会がある毎に鹿の足跡を追っている。今朝は上林川から上がってきている足跡を追う。最初に見つけた足跡を指さすとそれを嗅いで追いかけて行く。警察犬の要領だ。
 最初は農業用水から続く溝、農道を渡って高橋さんの作業小屋へ、作業小屋から森井さんの畑へ、そして水嶋さんの下の溝に続いている。ここで不鮮明であった足跡がはっきりしている。鹿では無い、小動物である。道理で溝なんか歩いているわけだ。P1010184 P1010185 P1010186 P1010191 P1010195 P1010196

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雪中八策 防獣編(8) 2/27

2012-02-27 | 日記・エッセイ・コラム

2012.2.27(月)雪 積雪10cm 気温1℃

 雪が解けてきて、雪中八策のタイトルも怪しくなってきたがまたしても雪が降り続いて、安心して書き続けることにする。
 「人の営みの圧力」が最大の居住地にも獣が侵入する理由について述べてきたが、ABCDとエリアを分類して考察すると、昨秋から各地に張り巡らされた防獣ネットの功罪が明らかになってきた。
 ご承知のようにこのネットはワイヤメッシュを利用し2mの高さで農地を対象に設置され、資材は補助金で賄われたようである。P1010068
 
念道、上桝ヶ原の防獣ネット。ネット外の獣の行動がよく解る。


P1010127 P1010128




上記の2枚の写真は下桝ヶ原の防獣ネットの写真である。
雪上の足跡がネットを通過している。よく見るとイヌのようである。
イヌならば害は及ぼさないが、ヌートリア、イタチ、テン、アライグマ、アナグマ、
ハクビシンなどの動物に対してこのネットが無力であることは歴然としている。
猿も含めてこれらの動物に無力であるということは、これだけの対策では
集約的な農業を展開することは不可能である。


 大方の人はこのネットが完成したことで、永年悩まされてきた獣侵入による害が無くなると期待されていることだろう。わたしは従前このネットはやがて獣達に破壊されて修理を余儀なくされ、やがて消滅するだろうとなんとも悲観的な見方をしていたのだが、ABCDのエリアによる分類(ABCD理論と呼んでいる)でこのネットを考えると実はもっと怖ろしい結果が導き出されている。
 
 「税金を投入して張り巡らされた防獣ネットは防獣どころか獣害を助長する最悪の設備である」
 
 今までに言ってきたことは、獣の生息地域(D)と人間の居住地や隣接する農地(A)は里山など(B),山地(C)といった緩衝地域によって隔離されてきたということである。緩衝地帯の緩衝地帯たる理由は「人の営みの圧力」であると説いてきた。
 今回の防獣ネットがどういう位置づけにあるか考えてみよう。A地域は人の居住地と隣接する農地としていたが、この農地をA’とし、居住地をAとしよう。
 農村の環境として理想的な形態はDCBA’Aであり、現状はDDCA’AもしくはDDDA’Aとなっている。そして今回のネットはA’に張られとりあえずA’に獣が侵入しないようにとなされたものである。P1000903
 
わたしが大好きであった念道橋への風景は、アウシュビッツの収容所を思わせる景色となってしまった。



 農地に獣が侵入しなくなるというこの施策が如何に欺瞞であるか賢明な方なら気付くだろう。仮にネットは破られなくて農地は獣の侵入が防げたとしよう、しかしそれは人間が里山も山も獣たちに譲ろう、その代わり農地にだけは入ってくれるなという敗北宣言だということである。
 彼らが交渉の出来る相手ならそれも意味があるかも知れない、しかし彼らは本能によって行動する動物であって、人間の都合などお構いなしな訳だ。
つづく

【作業日誌 2/27】
雪かきくけこ

今日のじょん:P1010178




 予想外の雪が積もった。黒い土や路面が現れていた矢先なので、元の木阿弥感が強い。しかし北国と違ってこの時期の雪は何となく安堵感がある。気温も高く、日差しも明るいのだ。
じょんの様子で降雪の具合を感じて欲しい。もうすぐ出来なくなる雪山のぽんぽこぽんもアップで写してみた。P1010179 P1010181 

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雪中八策 防獣編(7) 2/26

2012-02-27 | 日記・エッセイ・コラム

2012.2.26(日)

 次に考えられることは動物の学習機能である。猿の学習機能については誰もが認めるところだが、猪だって鹿だって程度の差こそあれ学習機能はあるのだろう。
動物にとって本来入ってはならない危険地帯になんかの拍子で入ってみたら美味しい食べ物があった、危険だと思っていたら別にどうって事無かったなんてことを学習するのでは無いだろうか。
 六甲山で餌付けされた猪などその顕著な例である。本来もっとも怖れるべき人間は少しも怖くなくて、逆に美味しい食べ物をくれると学習したものだから、絶対にあり得ない東灘の街中でも暮らせるようになり、遂には山に帰れなくなってしまった訳だ。
 昨年隣家の屋根に二匹の猿が来てのんびり日向ぼっこしていた。近づいても怖れる様子も無く、兼ねて用意の爆竹を投げつけるのだが知らん顔している。かなり大きな音がするので怖がると思うのだがそうでないのだ。つづいておもちゃのパチンコでプラスチックの玉を飛ばすと、これには凄く驚いて慌てて逃げてしまった。花火や爆竹は怖くないと学習しているのだろう。パチンコだって何の威力もないものだが経験のないものが飛んできたので驚いたのでは無いだろうか。これにだっていずれ慣れてしまうのだろう。このように怖々居住地に入ってきた動物も、そこでなんの抵抗も威嚇もなかったとしたら、なんだここは安全なんだと学習するのでは無いだろうか。P1000426

動物園の猿はともかく、この猿は虐めなければならない。


 もうひとつの問題は獣達の食糧、餌のことである。わたしは地域の人たちは獣害に対し悲壮な感を持っているのに対し、このことに随分無頓着な気がする。獣達は居住地や農地に遊びに来ているわけでは無い、食糧を求めて来ているわけだ。
 柿や栗の季節になると猿がたかっている光景がどこでも見られる。栗の木の下には昼間でも猪が栗をあさっている。もっとも猪というのは元々は昼行性だということだ。柿の木に熊が寄って来ることもよくあることだ。Img_3414
 
毎年更新される爪痕は何ものがつけるのだろう。(家のすぐそばで)


 これ等の果実を出荷して生業としている方は致し方ないが、自家ですべてを消費するわけでも無いのに漫然とこれ等の木々を放置されている家はいくらでもある。広報で、「不要な果樹は伐採しましょう」といわれているのを見たことがあるが、一向に伐採されることは無いようだ。もっとたちが悪いのは転出した家の柿や栗の木である。近所のものが実を採るわけにもいかず、木を切るわけにもいかず、すべて猪や猿に食べて頂いている有様だ。
 そして畑や家の周囲に棄てられた野菜屑なども彼らの絶好の食糧となる。過去にはそれで良かったのだが、獣が居住地の周囲にうろついている現在では御法度である。つづく

今日のじょん:雪が解けてくると獣の動向は解らなくなる。朝一庭に放すじょんの探索のみが頼りとなる。ただじょんが嗅いだだけで獣の侵入とは限らないので要注意。P1010172 P1010175   

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雪中八策 防獣編(6) 2/25

2012-02-25 | 日記・エッセイ・コラム

2012.2.25(土)雨

 集落を取り巻くエリアを分類すると考えやすくなる。
A:居住地、付随する農地。人の営みの圧力が大で獣は立ち入れない。
B:里山と居住地から離れた農地。しょっちゅう人が出入りして獣は立ち入れない。
C:山間。山仕事や猟で人が通い、獣と人の圧力が拮抗する地帯で両者混在地帯。
D:奥山。原生林で人が入ることはまれ。獣の生息地。

 この四つのエリアは人間が生活を始めることによって生まれた。原始はDDDDですべて獣のエリアで歴史的にはこの期間が最も長い。
 人が居住するようになるとDDDCという形になり、これも何万年も続いただろう。狩猟採取の時代で、居住地といえどもABにならないのは獣がいないと成り立たないからである。縄文時代がこれにあたる。
 やがて農耕が始まるとDCCAからDCBAという形にすすむのだろう。
 DCBAという形は近世に入ると定着しバランスを保って高度経済成長が始まるまで続いたのではと考える。
 このように人の営みの圧力をエリアで分類すると、いままで居ないとさえ思われていた獣達が人里に出没し害を及ぼす理由がはっきりしてくる。
 つまりかつては人の居住地AはDのエリアで棲息していた獣からB,Cという見えない濠で守られていたわけである。見えない濠とは「人の営みの圧力」である。
 上林では鹿は昔は居なくて、若狭から来たとか奈良から来たとか言われる方がおられるが、そうでは無くて奥山Dにひっそりと生存していたのだろう。そのD地域は奥上林方面に多いと思われる。動物の個体数が奥上林に多いのはそのためだろう。Img_3857

念道の集落、耕地が豊富なため集落の周りは里山のみで、古屋や老富などに見られる里山の谷間の田んぼは見当たらない。

Img_3868  
古屋の谷奥、かなり奥まで田の跡がある。小唐内なども同様である。これらがBエリアと言える。



 そして現在、BCにおける人の営みが無くなって、DDCA状態になっており、少なくとも外濠は埋められた状態である。
 山間の集落や過疎化が進んだ地域ではDDDA状態となり、外濠も内濠も埋められた大阪城炎上のような状態である。
 これこそが獣出没、獣害の本質的な解明では無かろうか。そしてそれが解明されれば解決策もおのずと見つかるというものだ。
 
 家の周りや隣接する畑などもしっかりと獣害にあっている。そこには「人の営みの圧力」は充分にあるはずなのにどうしてだろう。
 隣地は獣の独壇場なのに我が家の敷地には入ってこないという風に過去に書いたが、例外はある。この4年間に猿による大根、椎茸の被害1回、猪による掘り返しの被害1回、小動物による野菜の被害数回、そして今鹿が連日侵入し龍のひげや蔦の食害に合っている。なぜ侵入するかというといくら敷地内に人の営みの圧力があったとしても、その周囲は圧力も何も無いいわゆるD地帯だからだ。P1000934

我が家の裏山では容易に鹿の姿を見つけることが出来るし、猪のヌタ場もあればクマらしき爪痕も見つけられる。完璧D地帯だ。


 例えばこの4年間に隣接する裏山に人が入ったのは、間伐の数日間とお墓工事の数日間である。これでは圧力にはならない、つまり獣の生息地と居住地が隣接しているわけで、その間の緩衝地が無いわけである。このことが獣侵入の最大の理由だろう。つづく
 
今日のじょん:夕べ10時前ぐらいかじょんが異常に吠えた。外に何か来ているのかと耳を澄ませるが、じょんの吠え方がうるさくて何も聞き取れない。「やかまっしゃい」と言いながら、外を見渡すが何者も無い。
 朝になって見回ると食害、足跡、鹿の糞、、、、やられた。
P1010165P1010162P1010169



食害(向こう側の蔦)、足跡、糞                                                                                    

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雪中八策 防獣編(5) 2/24

2012-02-24 | 日記・エッセイ・コラム

2012.2.24(金)曇

 わたしの隣家は空き家である。綾部の市街にお住まいで、畑仕事や家の守にしょっちゅう来られて励んでおられるが、住まれては居ない。わたしの家との境界側は20坪ほどの畑だが、今は栽培はしておられない。そして保安林と空き地が境界にあるのだが、実はこのあたりは獣たちの独壇場なのである。猪は掘り返すは鹿は木や草を食べるは猿の通路となっているはで大変である。おまけに柿、栗があるのでシーズンは格好の餌場となっている。P1000163 P1000162

隣地は獣の独壇場


ところが彼らに境界線は判るはずも無いのだが、我が家の土地には入ってこないのだ。しかし隣地の荒らされようを見ると不安なので、申し訳程度のネットを張っている。これは形だけで、隙間はいくらでもあり、接地部分も留めていない。畑もそうなんだが、いまのところ入ってこない。畑の際なんざ獣道となっており、足跡だらけなのだが畑には入ってこないのだ。もちろん例外もあるので、それは後で述べることにする。
 わたしはこれこそが人と動物を分けている「人の営みの圧力」だと思っている。その境界は動物には判るけれども、人間の目には見えない。動物たちの視覚、嗅覚、触覚、聴覚などあらゆる感覚の他に、気配だの予感だのといった動物の持つ本能的な感覚で怖ろしい人間との境界を感じているのだろう。
 もともとは動物たちだけの世界に人間が侵入し、見えない境界をどんどん広げて、動物たちを山に追いやったことだろう。そして動物たちは領域が少なくなる分だけ個体数を減らしたもののその後長い間人間とバランスを保って棲息してきたのでは無いだろうか。
 昔は鹿も猿も居なかったとよく聞くが、居なかったのでは無くて山の奥深く、人の営みの圧力の及ばないところでひっそりと生きていたのだろうと思う。
人の営みの圧力による境界ラインは居住することと農耕によって集落全体を取り囲み、周辺の農地や里山も下草刈りや薪拾い、山菜採り、農耕に毎日通うことによって境界ラインは二重の濠のごとくとなってきたのだろう。
 そして山は本来動物たちの領域なんだが、人が伐採や植林、下刈りや間伐、山菜やきのこ採りなどもあろうかあらゆることで山に入ることとなる。わたしは子供時分の山道を憶えている、随分綺麗で倒木など在るはずも無く、走って上り下りが出来たものだ。それは人々が毎日のように通った道だからだろう。そういう山には人も通うが獣も居るという、人間にとっては緩衝地帯となっていた。Img_3548
 
鳥垣の居住地、里山、山。茅刈をされている頃は稜線近くまで里山としての効果があったのではなかろうか。


 そしてその奥は奥山、深山で人もゆくことのない原生林の地帯である。こここそが動物たちが生き延びた地帯であって、人にとっては怖ろしいところだったのだろう。
つづく

【作業日誌 2/24】
バイクハンガー作製

今日のじょん:バブルさんに爪切りとヒゲ切りと歯磨きを予約して行く。怖がりのじょんが果たしてそんなことさせるかなあと疑問ではあったが、予想どおり出来たのは爪切りだけ。P1010152

ガラスの向こうで爪切ってもらってるのだけど、パピヨンちゃんが喜んで写ってしまった。


  怖い思いをさせて可哀想とばかりにホノホノさんに連れて行く。久々にマック隊長とマウイちゃんに会ってひこひこ。P1010153

うれしそーでしょ。

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雪中八策 防獣編(4) 2/23

2012-02-23 | 日記・エッセイ・コラム

2012.2.23(木)雨

 先日テレビのニュースで、滋賀県が過去に大がかりな鹿の駆除をしたことを報じていた。生息数の何割かの鹿を駆除し、翌年にはさぞかし頭数が減ったことだろうと期待していたところ、なんと従前よりも増えていたという内容だった。メモなどしていなかったので、何時のことか、具体的な数字はどうなのか忘れてしまったが、殺処分による個体減は不可能であることを示している。
 このことは生物学的にどうなのかわたしには解らないが、子供の増え方は両親の頭数に比例するとは言えないということだと思っている。個体数の増減は環境こそが最大の要素だと考える。
 銃で獣害を無くそうと思えば、絶滅に近いほど殺さなければいけないのかもしれない。
 結局のところどの方策も効果が見られないと言うことになるのだが、それぞれが無意味ということでは無くて、各論であるということではないだろうか。総論となるべき本質的な対策がなされていないということだ。Img_1832 Img_1835
 
2010年、我が家の敷地も襲われた、どうやらこの根を掘っているようだ。


 それでは本質的な対策とは何かというとこれがなかなか難しい問題で、日本中の学者や農林業研究機関などがやっきになって研究されているのだろうが未だにこれだというものが示されていないのが現状だろう。
 
 昨年獣害についての当ブログの記事(2011.12.9~10 獣害対策)にある田口教授の「人間の営み」という動物への圧力という説には共感する。そしてそこから本質的な獣害対策が出てくると思うのだ。
 人里に出没する熊に対して次のように述べておられる。

 さて、人里に出没するクマがニュースになっています。弘前藩に残る文書によれば、これは江戸時代初めから起きています。餌となる木の実が少ないから里に下りてくる、と一般に言われますが、そうではありません。人間とクマとの圧力の問題なんです。(讀賣新聞2011.12.2 立命館大講座「日本文化の奔流」より)

つづく

【作業日誌 2/23】
郵便受箱作り

今日のじょん:毎日のようにじょんと獣の足跡を追っているのだが、昨日意外なものを見つけた。猪と鹿の足跡がどうして見分けられるのかと桜井さんに聞かれていた。歩幅と足跡の大きさで判別できると考えていたのだが、猪のものと思っていた足跡のところに鹿の糞が落ちていたのだ。まいったなあ考え直さなくては、、、。P1010122 P1010134   
 
 蹄の間が狭くて、全体に細長いのが鹿かな?

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雪中八策 防獣編(3) 2/22

2012-02-22 | 日記・エッセイ・コラム

2012.2.22(水)曇

 一時期里と山の間の緩衝地帯に木が生い茂り、獣達が身を隠したまま直接里に降りてこられるようになったという説がもてはやされたことがある。テレビや新聞で報道されたのでなるほどなあという思いがした。確かに里と山の間には草原や空き地の緩衝地帯があったようだ。わたしの生家は山に最も近い家だったが、山との間には栗、柿、梅、山椒などの林が帯状に存在し、下刈りなんぞするわけでも無いがブッシュは生えていなかった。その緩衝地帯を獣達は通れないというのだ。姿をさらすことが彼らにとって恐怖だというのだ。そして人々が山に入ることが無くなって、あるいはそこに住まなくなってその緩衝地帯にブッシュが生えてきた。森と里がくっついてしまったのだ。獣達は姿を見られること無く直接里に降りてこられるようになったわけだ。Img_0197

矢印のところが生家でその右手が緩衝地帯だったのだが、いまやジャングルとなっている。(2006,7)


 この説は多くの支持を得たようで、各地の自治体で緩衝地帯の伐採と整備がなされたようである。わたしも森林組合のパンフレットで緩衝地帯の伐採を奨励する記事を見たことがあるが、地域で組織的に取り組まれている様子は無い。
 実施した地域で獣害がなくなったという報告があったとしたらわたしたちの地域でも是が非でも実施するだろう。想像するにこの方策ですべてが解決するというものではなさそうだ。
 わたしの家の山側の斜面は植林されていたようだが、引っ越す前にきれいに伐採され何も無い斜面となっていた。その上部には植林の林があり稜線まで続いている。猿の群れが月に一回程度移動していくのだが、彼らはその林のラインを移動していた。つまりかなり上部を通過していたのだ。
 ところが3,4年たった今その斜面には灌木が生い茂っている。すると猿たちはその茂みにしたがって下方の部分を通過しているのだ。当たり前のことだけど、これが動物の生態、本能なのだろう。見つかるところは避けるというのは確かなようだが、それだけで里に降りてこないということでは無い。Img_0424 Img_3852
 
2007.3月と2011.10月の様子。



 不住である隣家の裏手は栗と柿の植わった畑である。草刈りもされており、ブッシュも無い。林と家との間の緩衝地帯となっている。しかしそこは猪、鹿、猿の独壇場となっている。Img_3640

こういう感じのところ。


 府道からは見えないが、わたしの家からはよく見えて、彼らにとっては危険地帯のはずなんだが、、、。つづく

【作業日誌 2/22】
地図収納箱完成
丸ノコ置き完成
ジグソー置き作製

今日のじょん:積雪が少なくなってきたので今の内にと獣の足跡探索に行く。じょんも必死になるのでついついあちこち行ってしまった。足跡写真は本文でいづれ御紹介しよう。これは猪の足跡。P1010132
 
 

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雪中八策 防獣編(2) 2/21

2012-02-21 | 日記・エッセイ・コラム

2012.2.21(火)曇 朝の気温-3℃

 では根本的な防獣対策ってなんだろうと考えるとこれがまた難しい問題になる。というより首長でも議員でも無く、しかも農業者でも林業者でも無いわたしがこのブログで何を語ってもどういう意味があろうというのだ。豆狸のつぶやき、ごまめの歯ぎしりにしかならない。でも現行の政策、対策を批判する以上対案を出さないというのは橋本大阪市長にも叱られるだろう。というわけで、予言者として本格的な防獣対策について述べてみたい。何十年か後にこういうことを言ってた人がいたのだなあと気付いていただければよいことだ。
Img_1863
2010.12月、イノシシの害で路肩が崩されてしまった。


 昔は獣がいなかったのか?
 皆さん昔は猿や鹿などいなかったとおっしゃる。鹿はどこから来た、猿はどこから来たなどと他地方のせいにしたりしている。ちょうどペストはどこから、インフルエンザはどこからなどと同じように、、。確かに農村に育ったわたしも子供時分に猿や鹿は見たことが無かった。イノシシだけは山で見かけたし、猟師さんが天秤棒で担いで降りてくるのを見たことがある。
 学生時代になって登山をするようになると山中で鹿も猿も見かけた。
 焼畑についての本で壮絶な獣との戦いを読んだことがある。里には獣など居ないときの話である。つまり、昔から鹿も猿も熊も猪も、明治以前には狼さえも居たのだ。だけど特別のことが無い限り人里には降りてこなかった、ということではなかろうか。
 
 なんで人里に出てくるようになったのか?
 この問題を食物で理解しようとする傾向がある。ひとつは人間が獣達の領域に侵入し、彼らの生活の場と食べ物を奪ったという考え方。これは一見当たっているように思えるが、はたしてそうだろうか。住宅開発、工業用地開発などが進み、獣達の居場所である山地を奪っていったように思えるが、それは市街地近郊のことではあるまいか。むしろ山地では廃村や過疎化で人間のすみかを獣達に返しているのが本当では無いだろうか。人間対獣の領土問題とすれば実は獣が勝利しているといえるだろう。
 人間が広葉樹を伐採し、針葉樹を植林したがために獣達の餌が無くなったという意見がある。それがために山に広葉樹を植林したり、団栗を奥山に撒いて獣の餌にしているというような活動がなされていることも聞いた。これは理屈にかなった意見だと思う。Img_3642
 
イノシシは毎夜出て来て、木の根を掘っているようだ。(2011.9月)隣地で。


 わたしが自転車で東北、北海道を訪ねた年、2006年は熊の出没が例年の3倍とかでどこにいっても大騒ぎであった。山中のブナの実が不作であったことがその理由だそうだが、その翌年などはそれほど出没していないのだ。つまり普通に実が成れば獣達も充分に山で生活できるというわけだ。それにもし里に出てこれないとしたら、彼らは餓死したり、子供が出来なかったりで個体数の制限がなされるのだと思う。
 そんな意味で針葉樹植林による餌の減少というのが人里に降りてくる決定的な理由だとも思われない。つづく

【作業日誌 2/21】
バイクハンガー作製
郵便受作製
地図収納箱作製

今日のじょん:朝は寒いけど昼間の気温は高いようで雪は一気に解けてきた。じょんも暖かいのだろう、うらめしじょんが始まった。P1010118
 
 

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雪中八策・防獣編(1) 2/20

2012-02-21 | 日記・エッセイ・コラム

2012.2.20(月)晴 気温0℃

 積雪の多いときは獣は出てこないが、少なくなってくるとあちこちに出てくる。このときにやつらの行動とか生態を見ておく必要がある。昨年は驚くほど獣の襲来が多く、上林川の堤防や農道の土手が掘り返された。その被害は大きく、重機で破壊したような跡がいくつもあった。雪の状態は今年同様だが、山での食糧の問題があるのだろうか。それともこの冬完成した防獣ネットの効果だろうか、考察してみたい。
P1010062 
じょんのびファーム隣の畑、梅の木の横から駆け上りこのところを通る獣道。(2/17)
 

P1010063
足跡は山に続いている。
(2/17)

P1010064 ネットの中の田につづくイノシシの足跡、どこから入っているのか解らない。(2/17)


P1010104
隣のお家の畑、山から直接イノシシが下りてきている、獣道が出来ている。(2/19)

P1010039
念道橋にもゲートができた。かつて橋上に獣の足跡は見たことが無い、彼らは川を直接渡っている。(2/13)


 防獣ネットは補助金で以て京都府中に張られたようである。少なくとも農業をしていないわたしにはなんの問いかけも相談もなく張られてしまった。もちろんわたしの土地に張ったわけでないのでそれで良いのだろうが、上林川の堤防は誰のものでも無い公のものだろう。さすればこの地に住むものに景観を楽しむ権利も散歩する権利もあるだろうに。
 とにかく防獣ネットは張り巡らされて、念道橋に至る道はアウシュビッツの収容所を思わせる様相となってきた。
 そのお蔭で今年は獣の襲来が少ないのだろうか。否、ネットの無いところも被害は少ないのだ。やはり食糧事情の問題なのだろう。
 農業者の獣害に対する思いは十分に理解できる、私など猫の額に野菜を作っていてもなにが腹立つって獣害ほど腹立たしいものはないからだ。しかしこの防獣ネットが獣害に悩まされている者にとって本当に救世主となるのだろうか。
 わたしは予言する、この防獣ネットはやがて飢えた獣達に打ち破られて、人々はその補修に追われることになるだろう。そして遂に朽ちはてて元の木阿弥となるだろう。つまり防獣ネットは応急的なもので、根本対策では無いということだ。ネットが打ち破られ、朽ちはてるまでに根本的な対策をしないと今回のネット張りは単に税金の無駄遣い、単なる徒労に終わってしまう。つづく

今日のじょん:念道橋に向かうネットの通路。じょんはどのように思っているのだろう。P1010114

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雪中八策  2/19

2012-02-21 | 日記・エッセイ・コラム

2012.2.19(日)晴 積雪4cm 気温-4℃

 菅平で-29,2℃、本州での記録だそうだ。菅はスガ、シガで氷のことだそうだ。そういえば、シガコもとけて~って童謡があったなあ。地名というのは凄いなあ、この低温もさもありなんというところである。
 さて我が家の今朝の積雪は4cmでどーってことないのだが、気温が低くてバリバリに凍っている。特にじょんのび坂とその周辺は来じょんのお客さまに事故でもあったら大変なので氷を始末しなければならない。P1010099
 
府道もパンパン。


 石炭スコップでコツコツやるがまるで歯が立たない。安物のアルミ部分が曲がってきそうで中止、倉庫からアイスクライミング用のピッケルを出してきて振ってみる。さすがに往年の逸品だ、上林の氷なんざ一気に割れてしまう。冬の岩壁にぶら下がって日長振り続けていたピッケルが二十数年ぶりに蘇った。よくぞ置いていたものだ、ここで活躍するとは思わなかった。
P1010112

ショイナードだかサレワだか知らないが優れものだ。

 昨日の雪は我が家では30cmに満たないものだったが、福知山、綾部の市街地は40cmほど降ったらしい。普段無いことなので大変みたいだ。大雪に対する用具も設備も心構えも少ないだろうからだ。それでもこの季節になると降り続くこともないし、昼間の気温も上がるのですぐに解けるだろう。
 今冬も嫌というほど雪かきをした、あの雪ハネを何度振り上げたことだろうか。数千回、いや一万回をこえてるかも。
 苦痛を感じないのは考え事をするからだ。ジョギングやマラソンの時も常に考え事をしていると苦痛がない。名前は忘れたが往年の女子マラソンの著名な方が、マラソン走るって大変でしょという応えに「編み物が出来る人は誰だって走れるわよ」って言ってた。
 雪かきの間に間に考えたことは、雪のために壊れた小屋や折れた木々、防獣ネットをどうやって修復するか、雪が解けたらやらなければならないこと、薪の収集やドッグラン土の建設など。P1010057 義務的に考えると堪らないことばかりだが、楽しくやるように考えないと雪かきが余計苦しくなる。

完璧に壊れた椎茸小屋。


【作業日誌 2/19】
ベランダドア修理完成(雪害修復第一号)

今日のじょん:新雪降るもその下は凍ってるので雪山ぽんぽこぽんも簡単、今年始まった新しい遊びだ。P1010106 P1010107  
 

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瀬尾谷のこと(4) 2/18

2012-02-19 | 上林地名考

2012.2.18(土)雪 積雪28cm

 シオ地名で今ひとつ気になることがある。それは”入”と書いてシオと読ませる地名である。秘湯好きの方ならご存じの奈良県吉野郡川上村の入之波温泉(しおのはおんせん)である。大台ヶ原の沢や岩壁に通っていた頃、ちょっと寄り道すればこの温泉に行けるのにと考えていたが、遂に訪れることなく残念に思っている。前述の「地名の語源」では(3)撓んだ土地の中に例として載っている。
 しかし撓(たわ)んだ土地とはどのような土地なんだろうか、あるいはシオがなぜ撓んだ土地を表すのかこの辞書には説明はない。
 ここで一昼夜考えたのだが、撓むはシワムとも読めるわけだ。たわむ、しなう、まがる等と言った意味がある。だからこそ撓んだ土地、川の曲流部などという意味があり、シワムあたりからシオと転化したのかもしれない。しかも漢和辞典(漢語林)では呉音として、ニュウ(ネウ)と読むとある。呉音とは漢音以前に入ってきた音であり、漢音とは奈良朝、平安朝頃に伝えられた音とあるから、より古い読み方と言ってよい。こんなところから入(にゅう)をシオと読むようになったのかも知れない。
 入之波(しおのは)は川の曲流部あるいは塩類泉を表しているのだろう。P1010077

雪の瀬尾谷、雪が解けて瀬音が大きくなったらミズを探しに谷奥へ行ってみたい。 


 もうひとつ、入という漢字は入るということを意味し、象形として入口をかたどる”∧”からきており楔形の谷を表すのに使われている。従ってシオ地形の谷などに入谷(しおだに)として使われることもあろうかと思う。複雑なのは入をニュウと読んで丹生を意味し水銀の産地の場合がある。岐阜県揖斐郡徳山村(現揖斐川町徳山)には入谷、門入、戸入などのにゅう地名があり、実際に水銀鉱山跡を発見している。
「信州の塩地名について」(興津正朔)では、丹生ー乳ー入ー塩として、塩・入地名をもすべて金属関連として、シオ地形には触れられていない。これでは日本中が水銀産出地となる。
 このようにシオ地名はかなり複雑な様相を示している。したがって瀬尾谷についても安易に断定することは問題があるかも知れないが、地形的にははっきりした谷なので、シオ谷→ショウ谷→瀬尾谷(しょうだに)の変化を地名の由来としたい。
 そして瀬尾谷という美しい文字で名付けられた先人のセンスの良さに拍手を送りたい。この項おわり。

【作業日誌 2/18】
雪かきくけこ

今日のじょん:今朝の雪はこんな感じ。キョーコちゃんも尻尾巻いて帰ってったぞ。P1010082 P1010083 P1010084 P1010085

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瀬尾谷のこと(3) 2/17

2012-02-18 | 上林地名考

2012.2.17(金)曇

 上林のシオ谷候補を調べてみた。
 まず佃の塩谷である。武吉側から佃、忠を巡る市道を行くと川向こうに顕著な円い山を望む。これが丸山で、上林側左岸によく見られる環流丘陵ではないかと思う。横に長いので下佃あたりからはどっしりした山に見えるが、十二所神社あたりからはすっきりした三角錐の山に見える。P1000834

丸山、北から見ると長い。


 わたしはこの山に祭祀の跡がないかと予想しているのだが、まだ調査していない。それはともかくその丸山の東が小字塩谷である。394mのピークに遡っている谷が塩谷と思われ、完璧なシオ谷地形である。ここでシオ谷地形とはどのようなものか確認しておきたいのだが、「地名の語源」(鏡味完二)では、
 シオ 塩の山間の地名にはシボむ地形からのものが多い〈松尾俊郎〉。(1)楔形の谷の奥(2)川の流曲部(3)撓んだ土地(北信にみられる)。(4)牛尾菜(シオデ)。(5)塩類泉とある。
 
 わたしが地形的に確認できているのは(1)であって、谷の出合附近は細めの扇状地となっており、谷は比較的直線的になっている場合が多い。
 さて小字塩谷は遡って行くと中ノ坪という字となり、その上流域の広い部分、国土地理院の地形図に山道が二本ある間が塩谷という字になっている。西側は尾根道で東側が塩谷であろう。この道は394mのピーク附近で合流し、和知との境界の稜線に向かっている。そして西河内川から下粟野に出るのだが、その峠がいわゆる稲葉坂のようである。建田三町(武吉、佃、忠)の宝永の直訴を成し遂げた三人の若者を追っ手から逃がすためこの峠から他国に潜伏させたという。その際生の大根、柚子、唐辛子でささやかな宴が開かれたという。秋のこんぴら大祭には今でもこの三種が供えられている。P1000339
 
2011年の大祭、三町回り持ちで1000年続ける事になっている。


 その下粟野から由良川に出て、2Kmほど遡ると塩谷がある。この地も楔状の谷であり、シオ地形といえる。
 老富町のショウガ谷は小唐内の最奥の家を過ぎて左岸からの最初の大きな谷のようで小唐内川河畔からこの谷一帯が小字ショウガ谷である。山間の谷であり、扇状地を作るような規模ではない。
 老富町のもう一つの初ヶ谷は府道を栃から下がってきて右側にある小さな谷辺りを言うのだろうが、読みが解らないのでショガ谷かハツガ谷か解らない。いずれにしてもシオ地形ではない。
 小唐内川を詰めると猪鼻峠となり、若狭側に降りる道を貝坂という。この貝坂に塩に関する伝説がある。丹波の国のものが塩水を汲んでこの坂を上り、転んでこぼしてしまった。すると海水があふれ、波風が立った。それで土中から貝が出てくる。というような話のようだが、なにせ漢文の資料なので定かではない。塩地名に塩伝説という点では、ショウガ谷は塩ガ谷なのかも知れない。Img_3544


小唐内川、正面は丸山。

 また小唐内(こがらち)川というのは大唐内(おがらち)に対応して付けられたという気もするので、もともとはシオガ谷であったということも考えられ無いことはない。さすれば小唐内は塩地形といってもいいのではないだろうか。つづく

【作業日誌 2/17】
ベランダドア修理

今日のじょん:雪も少なくなってきたら、獣どもが出没し始めた。朝はその追跡で大わらわである。念道橋の難関ゲートもなんとかクリアして田んぼの視察もしてくれた。P1010062 P1010063


家の横までイノシシの形跡が、、、。  

  P1010065

ネットの中もしっかり入ってる。

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瀬尾谷のこと(2) 2/16

2012-02-18 | 上林地名考

2012.2.16(木)曇

 瀬尾谷の語源がシオであるとしたら、以外な思いをされる方が多いと思う。しかし地形によるシオ地名は随分多くて一般的なのである。例えば上林でそれらしい小字をひろってみると次のとおりである。
 塩谷(佃町)、ショウガ谷、初ヶ谷(老富町)P1010072_2

佃町塩谷方面、写真ではよく解らないが、地形図ではシオ谷地形である。


 小字になっていなくても谷の名前を探ればもっと出てくると思う。上林ではないが上原町に惣谷という小字がある。いづれも地形を確認してみたいと思っている。
 全国的にも塩地名は多く、塩竃(宮城県)、塩原(栃木県)、塩尻(長野県)、塩見岳(南アルプス)
などが著名で、京都府では洛西大原野に小塩山(おしおやま)、京北町(現京都市右京区)に小塩(こしお)などが有名である。概して海沿いのところは塩(salt)や潮に関する語源が多いのだろうが、問題は山間部の塩地名だ。
 内陸に塩が出るはずが無いと思えば、塩原温泉のように塩泉が湧いているところもあるわけだ。そして塩を運んだ道とか塩の市場があったとか、塩に関する伝説、いわれが必ずと言っていいほどついてまわる。例えば長野県の塩尻は北の塩と南の塩、つまり日本海と太平洋の塩が運ばれてその採集到着地点だと言われている。洛西の小塩山は難波から運んだ海水で製塩をしたと言われ、京北の小塩は塩を売りさばいたところと言われている。
 これらの話には矛盾があり、やはり地形から来た塩地名があって出来上がった話だろうと思う。
 琵琶湖の最北に塩津という歴史的な港がある。ここから敦賀までを塩津街道と言って、古代の重要な街道となっている。朝鮮から敦賀、塩津街道を南下し、琵琶湖を船で渡り都へ向かう国際的なルートであったのだ。その塩津については、若狭の塩が都に運ばれた港だから塩津という説がある。(日本地名ルーツ辞典など)
 しかしわたしはこの地はシオ地形説をとりたい。確かに塩も運ばれただろうけど、それがすべてでも無いし、主な交易物だったとも思えない。それこそ様々な物と文化や宗教と言ったもの、そして半島の人々も通った道のはずである。塩津を地図で見ると琵琶湖が深く切れ込んでいて、ちょうどフィヨルドを思わせる。そして港として重要視されたということは水深も在るのでは無いだろうか。そうだとするとこの入江はもともと侵食された谷つまりシオ谷であって、沈降して今の形になったのではないだろうか。琵琶湖は長い年月をかけて北進しているという。だからこそ琵琶湖の北辺に切れ込んだ入江がいくつもあるのかも知れない。言ってみればリアス式海岸の沈降谷のようなところなのだろう。そんな地形を古代の人が塩津と呼んだのに違いないと思うのである。
 そんな時ニュースで琵琶湖にも津波があったようだというのを聞いた。塩津港の神社遺跡で柱が湖面と反対側に傾いており、神体の一部があり得ないところから発見されたというもので、平安期に起きた大地震による津波の被害を受けたようだと報じていた。琵琶湖では津波は起きないという説が一般的であったので、重要な発見だということだ。Img_0110
 塩津が沈降谷であることに確信をもつと共に、古代の人がその地形を見定めて命名したのならその観察眼と知恵に感服したい。海岸沿いに塩津という地名があれば、津波の可能性が大きいといえるだろう。つづく

今日のじょん:雪の上でうんPするときは探しやすくていいんだけど、とにかく時間がかかる。場所が定まるまでクルクルクルクル4,5分歩き回り、さてとなったら足がズコッと雪に沈んでまたいちから、、、、、。P1010052



 

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瀬尾谷のこと(1) 2/15 

2012-02-15 | 上林地名考

2012.2.15(水)雨

 瀬尾谷はしょうだにと読む。上林に住んで、浅原をあずら、神谷をこうだに、瀬尾谷をしょうだにというのは不思議であった。瀬尾谷は綾部市八津合町に属する地域で
上林川と畑口川の出合いの下流500m程の所から上林川左岸に南東に直線状に伸びる瀬尾谷に沿った地域である。上野古墳、後ヶ谷古墳などの古墳や瀬尾谷城址なども存在し歴史的にも重要な地域である。
 2011年秋、大栗峠(おぐりとうげ)から弓削道(ゆげみち)を通り、途中分岐して瀬尾谷に降りた。谷に降りて真っ直ぐな林道歩きは植林のため展望はきかないが、村に入ってくると弥仙山の前衛の山並みが見え始め、やがて開けた景色が現れる。右岸の府道からの眺めに慣れていると、なにか遠くの村に来ているような錯覚に陥る。P1000095
 
瀬尾谷を下ってくると視界が開けてくる。


 古墳などの遺跡があることから古代から開けたところだと思うが、歴史の探索は別として、瀬尾谷という地名について考えることにしよう。
 瀬尾谷をしょうだにというのはこの地方のなまりでそう呼んでいるのだと思っていたのだが、それならば瀬尾とは一体どういう意味だろうかと考えていた。瀬は川の浅いところ、流れの速いところなどの意味があり、暗礁つまり水面下の岩石などという意味もあるようだ。尾は尾根、峰、尻尾などの意味がある。瀬尾というのは一見ありそうな地名なんだけど意味が繋がらないのである。
 大栗峠に行くために国土地理院の地形図(丹波大町)を見ていて、この地名の謎が一気に解ける。瀬尾谷がしょうだにと訛っていたのではなくて、しょうだにという地名が瀬尾谷と記されたのである。つまりもともとしょうだにであって瀬尾谷は佳字を持ってきたのであろう。
 ではしょうだにとはなんだろうか。しょうだにはしおだに(塩谷、入谷)である。山間部にあるシオ地名(塩、入)というのはほとんどの場合「楔形の谷の奥、徐々にすぼまった地形」を表す。(地名の語源等)
 瀬尾谷を地形図で見るとまさにその典型のような地形なのである。
地形図丹波大町の南、地形図和知を見ると、大野ダムの西に塩谷(しおたに)というところがある。これも地形図で見る限り典型的なシオ地形であり、瀬尾谷と兄弟地名であろう。つづく


【作業日誌 2/15】
ベランダゲート補修(雪害復旧第一弾)

今日のじょん:念道橋に取り付けられたゲートをよう通りよらへんねんでと言うので確かめてみた。人が通り抜ける隙間はあるのだが押しても引いても通らない。うーむ困ったなあ、もう念道橋渡れへんやんけ。(一太郎に関西弁辞書がついているので便利)P1010043  
 

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