晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

じょんのびDIY大賞’14決定 12/31

2014-12-31 | DIY

2014.12.31(水)曇り

 2014年じょんのびDIY大賞はパンフレットスタンド「丹州行ってき文庫」に決定、努力賞を「芝張りワールド」とした。

2014じょんのびDIY大賞 パンフレットスタンド「丹州行ってき文庫」
12月31日完成 経費5,221円
 店内のパンフレット、フリー雑誌、雑誌、書籍が増え、あちこちに雑然と置かれている。いつかなんとかしたいと思っていたところに、温室扉の塩ビ板が余ってきた。これを利用してパンフレットスタンドを作る事にした。いろんなところで市販のパンフレットスタンドを観察するが、概して見る側の立場に立っていないのが多い。つまり、パンフレットが入り込んでいて、取り出さないと内容が分からないとか背の高いものが折り曲がってお辞儀をしているとかいうものである。これらを解消して、しかも本棚も付いている欲張りなスタンドを考えた。

店内のあちこちにパンフレットや雑誌が、、、
 工夫した点
 内容がよく見えるように前面を透明の塩ビ板にした。
 パンフレットの大きさに合うよう大中小4段とした。
 パンフレットが折り曲がらないよう、傾斜をつけた。
 安定させるため最下部に書棚を設け、厚めの合板で作った。
 書棚は斜め上からのぞき込めるように傾斜をつけた。これは図書館のラックからアイデアを頂いた。

いろいろと試行錯誤
 反省点
 1×6で充分だったが1×8の在庫があったので使用、そりが出てしまった。
 パンフ棚部分の取り付けを行き当たりばったりでやり、L字金具で取り付けたが、イマイチ不安定。
 本棚の周囲やパンフ棚の後ろにデッドスペースがある。要利用。
 1×8、2枚で1,640円これで経費が高く付いた。1×4数枚でできないものか。

 経費 5,221円

 1月4日から店に登場するが、5箇所に散らばっていたものが1箇所に整理できるので、期待している。

とりあえずの完成品、新春3日には店内の様子を披露。

 努力賞 芝張りワールド
 売れ残りの芝生が1束税込み100円で売り出された。18束を買って、テント場予定地、駐車場入口法面、ドッグランどのサイド、ドッグランど内、店先スロープ下、ベランダスロープ下に張った。砂は一昨年の大水で堆積したものを利用、真砂土は井田さんに頂いたものを使用、経費は1,800円のみ。
 経費はかからなかったが、時間的制約があり、特に天気が悪かったので大変だった。よって努力賞とする。
 秋の芝張りはその年は枯れてしまうだけだが、翌年の春が楽しみなのよネ。

これが18束だから、堪らない。

【今日のじょん】今年のじょんのび漢字一文字は「並」だって。寝て待てど暮らせど更に何事も無きこそ人の果報なりけれ(四方赤良)
じょんもさしたる事も無く並みの1年であったことが幸せだったと思~う
てなわけで一緒に年越しそばを頂きました。美味しいもん食い過ぎて、毎朝草を食むのでありまス。


【作業日誌 12/31】カビ根絶作戦最終日、カビ止め処理までやったが、ついにガラス拭きまではできなかった。

カビ止めスプレー二種試用、来年効果のほどを確かめてから報告しよう。

 それでは皆様良いお年を。年賀状は1枚も書いていないので悪しからず。

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じょんのびDIY大賞’14ノミネート 12/30

2014-12-30 | DIY

2014.12.30(火)曇り

 最大の目標であったじてんちゃカフェの小屋が一向に進んでいないので、今年は何もやっていないような感じを受ける。ところが写真集を繰っているといろんな事をやってきたなあと感心する。写真で紹介しよう。
 店のスロープ 1月15日完成、経費770円
足の不自由な方が来店される際に手すり付きのスロープをこしらえた。大変役立っている。


 じょんのシャンプー台 2月14日完成 経費2,196円
腰痛持ちのかみさんが楽にシャンプーできるよう作製、毎月使用している。


 ツールボックス 3月12日完成、経費940円
じてんちゃカフェの一環、村上さんにスチールの箱をいただいたのがきっかけ。キャスター付き。


 エイド給水台 3月18日完成 経費900円
これもじてんちゃカフェの一環、エイドステーションで活躍。


 サイクリスト用看板 3月17日完成、経費2,360円
ちょっと懲りすぎ、じてんちゃカフェの一環


 ベランダワンコスロープ 11月10日完成、経費800円
ベランダ利用のワンコには階段は苦手、じょんも助かってる。


 芝張りワールド 11月20日完成、経費1,800円
売れ残りの芝生が1束100円で売られていた。18束を張る。

この他入口付近、スロープ下、ドッグランど内など

 パンフレットスタンド 明日完成


さて大賞は明日発表、どうなるでしょうか?

【作業日誌 】
じょんシャン、大掃除

【今日のじょん】朝は猛烈な霧で天気は持ちそう。何が何でも年内にシャンプーしないと、、、、。

てなわけで、体重は19.2Kg、昨月と変わらず。
 







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雨読 わが六道の闇夜 12/29

2014-12-29 | 雨読

2014.12.29(月)曇り、雨

 林養賢がなぜ金閣を焼いたか、そんな謎に迫りたくて「金閣寺の燃やし方」( 酒井順子著)「雁の寺」(水上勉著)につづいて、「五番町夕霧楼」と同時に読み始めて、あっという間に読んでしまったのが本書、「わが六道の闇夜」(水上勉著)である。
 
 読売新聞社昭和48年11月10日第四刷 古書
 実は「金閣炎上」を読み終えたときから、林養賢の心の闇については気付いていたことがある。「金閣炎上」のあとがきに水上先生の次の言葉がある。
 だが、本当のことはいまもわからない。当人が死んでしまっているのだからわからない。しかし、いろいろと周囲のことを調べ、事件にかかわった人から話を聞いていくうちに、私なりの考えがまとまっていったことも事実である。
 わたしは養賢が生きていても本当のことはわからないと思っている。養賢自身も本当のことはわからないのではと思っているのだ。このことは詳しく表明するのは時期尚早なのでいずれ別稿で書きたい。
 「雁の寺」の小僧滋念が幼い日の水上少年を表しているとすれば、林養賢に自らの姿を見つけたというのは当然の成り行きである。ただ、水上少年と林養賢の思いのすべてが同一であったとは思えない。
 滋念は小説の中の人間なので、本当の水上先生の少年時代を知りたいと読んだのが本書である。
 林養賢、滋念、水上少年の共通項はと考えると、独りよがりの正義感を持っただだっ子と感じるのだが、これは失礼だろうか。三人の師はそれぞれに渡世の垢に汚れた人物となっているが、仮にその師が仏道にまっとうな人物であったら、彼らは素直に立派な住職となったであろうか。答えは否である。
 滋念は小説上の人物であるのでともかくとして、金閣寺の慈海住職が養賢に制服も買い与え、参拝客の拝観料から充分な小遣いを与えたとしても、養賢は金閣寺を焼いたのではないだろうか。同じように瑞春院や等持院の住職が妻帯することもなく、ひたすら仏道に生き、水上少年を立派な禅僧に育てるべくふるまったとしても、水上少年は僧坊を脱走、還俗して小説家になったのではと思うのである。
 「雁の寺」などの解説として尾崎秀樹(おざきほつき)氏が書いている中に、
「子どもの時のイメージをそのまま小説に移したもので、僕の心にたまりたまった四十年間のウラミツラミを吐き出し、復讐するのが目的でした。云々」とある。
小説の中で、滋念は慈海和尚を殺害し床下に隠すのだが、これが水上先生の復讐であるとしたらなんとも凄絶な話である。修業時代の住職のあり方が、それほどまでにウラミツラミを四十年間も引きずるものだろうか。
 水上先生はこの言葉については、かなり誇張して話しておられるのではと思う。それは「わが六道の闇夜」の最終章、第九章を読めば理解できる。この章はタイトルをつけるなら、「悟りの章」であり、次の文こそ水上先生の悟りではないだろうか。悟りとは絶対無二のものではなくて、一人ひとりに存在する人生の結論のようなものだと思う。
 「五十四歳のアタマでわかったことは、寺院にも守銭の夜叉が住み、弁天が住み、俗界にももちろんそれは住み、世は、不浄と不倫にみち満ち、といって世は枯れるものばかりか、そこここに季節がくれば花の咲く木も草もあるということである。そうして、人間は生きている以上、花を求めてこの濁世をはなれることは出来ない。西方浄土などはなくて、永遠にここは地獄である。それなら、地獄の泥を吸って滋養となし、私は永生したい。」
 寺院に住む守銭、不浄、不倫、つまり不条理なものを憎みつつも、それは常にあるものとして諦観されているのではないだろうか。
 そう考えてみると、「金閣寺の燃やし方」にある、
「慈海師の、そして日本の禅宗、ひいては仏教界を「正したい」と思っていたのは水上であり、その思いを養賢に託したのではないか。」(2014.12.13参照)という酒井氏の見方もやや大仰かとも思うのである。

【今日のじょん】今年最後のスイミング、もっともじょんは車で待っているのだが、その前の芝生の広場での散歩が楽しいのだ。

 
 

 

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日置のこと(75) 続・川端先生に聞く 12/28

2014-12-28 | 上林地名考

2014.12.28(日)曇り

 もちろん先生はお客様としてこられたわけで、所用でこちらの方にいらした際に立ち寄られたということだ。コーヒーを差し上げた後おもむろに質問する。
「先生、なんで日置殿町(へきとのまち)が遊里(ゆり)に存在するのですか?」
「さあ、それがわからんのじゃが」
「日置殿は念道小山(ねんどうこやま)や西屋神谷(にしやこうだに)みたいに二つの村を合併した呼び方とまた違うんですか?」
「日置殿村は明治以降になされたものでなく、江戸時代から日置殿村という名であった。ひょっとすると戦国時代に遡るかもしれないと思っているんだ。」
「古文書など見ていると日置殿と遊里は明らかに別の村で、山論争も沢山起こっていますねえ」
「子ども時分に遊里の日置殿町についての言い伝えを学校の先生から聞いた。山論が盛んなとき、調停のために役人が派遣されてきた。その時に日置殿村は山林の境界争いを有利にするため、遊里の木住谷(きずみだに)の入口に「日置殿町」の看板を立てたそうだ。」
「先生、もっともらしい話ですねえ」
「いやあどうだか、大水の時はオダワ峠から木住谷の水があふれるとか言うようなことも言われていたんだよ」

大町から見た槍ヶ嶽(やりがずく)左の大きなコルがオダワ峠
 なぜ遊里に日置殿町があるのか川端先生も疑問に思っておられる。てことはその理由は分からないということだが、日置殿と遊里の日置殿町の中間に空想の産物、日置氏の観測地点があるということは、なんとかそこに理由を持っていきたいわたしの算用とは裏腹に、江戸時代の山論が遊里日置殿町の存在の理由のような気がする。
 というのは遊里、殿、馬場の三ヶ村入合山と日置谷、神谷、石橋の持山が連なっており、安永年間に複雑な山論が起きている。(綾部市史上巻P424)この複雑な所有関係が奇妙な地名の存在として残ったのではないだろうか。この山論に関しては川端先生が「綾部史談67」に論文を書いておられるので、後ほど調べてみたい。

遊里の日置殿町、木住谷は豊かな谷である。

 日置殿町の件はこのくらいにして、その他にも興味ある話が幾つかあったのでここで書いておこう。
  日の出の位置が頭巾山や君尾山になる位置があるとお話ししたら、
 「やりがずく(槍ヶ嶽)は行ったことはないが、経塚など遺跡があるかもしれない。ぜひ探してみて欲しい。」

 何鹿郡鋳物師井関氏が虫村の田中に来たという話を聞きましたが、睦志には田中という小字は無いのですが?
 「重一さんの文にある虫村田中というのは睦志の清水との境に田中さんという家が3件あり、その辺りだと思う。」

 栃や青葉山の山麓に集石墓があるのですけど?
 「大きいものなら経塚の可能性もある、上林にももっと出るだろう。」

 両墓制の研究を始めているのですが、念道の三昧のことはご存じないですか?
 「念道については知らない。鳥垣の奥の草壁との尾根に林の中に三昧の跡が幾つかある。」

 このほかにも聞きたいことはいくつもあるのだけれど、聞けば聞いたで新しい疑問が湧いてくるのできりがない。藤元善右衛門の墓と言われている宝篋印塔を見たいとおっしゃっていたので、春になったら是非ご案内したい。

有安の藤元善右衛門の墓と言われる宝篋印塔
【作業日誌 12/28】
パンフレットスタンド作成(子棚取り付け)

【今日のじょん】昨年辺りから気にしていたことが遂に起こった。破れかけのゴミ箱が荒らされたのだ。猫かはたまた小動物か?椅子タイプの頑丈なゴミ箱を作ろうと考えていたのだが、ついつい後になってしまってこのざまだ。とりあえず生ゴミは鍵付き箱へ。


 

 

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日置のこと(74) 川端先生に聞く 12/27

2014-12-27 | 上林地名考

2014.12.27(土)曇り、雨 日置のこと(73)は2014.1.16

 日置と国府とは普遍的に関係があるとは認められられなかった。日置部とは如何なる品部か、各地に存在する日置は如何なる理由で名付けられたのか、日置氏とはどのような関係があるのか、謎は深まるばかりである。測量、暦法、神事、卜占など候補に挙がっている職掌を考えると観測という共通項が現れる。太陽の観測が日置の底辺に存在するならば、各地の日置にその観測地点があるはずだ。四方が見渡せる恰好の地にそれらしい遺跡でも残っていないか、春秋分や夏至冬至に日の出日の入りに特徴的なピークがないか、そんな雲を掴むような調査をし始めてある地点を見つけた。日置谷の奥にあるオダワ峠(大タワの意)の東に3つばかしピークがある。その一番尖ったピークのあたりがその地点である。上林とその周囲を眺めるとき、一体どこが一番見晴らしがいいだろう。古城山の上もよく見渡せるが、如何せん標高が低いので前衛の山々までしか見られない。その点前述の位置はおそらく上林で一番見晴らしがいい地点だと思う。
 しかもそのピーク、槍が嶽(やりがずく)と言うそうだが、の真東に頭巾山(871mときんざん)があり、東北東30度に君尾山(582m)西北西30度は弥仙山のやや北の台地(沢潔氏のいう於成平では?)が存在する。

念道からオダワ峠、槍が嶽方面
すなわちその地点からは、春秋分の日の出は頭巾山となり、夏至の日の出は君尾山、冬至の日の入りは弥仙山となる。トキというのが日の出を表し、ナルというのが太陽を表すという説もあるわけで、例えば宮津市の日置(ひおき)の真東には成生(なりう)岬が存在する。ちょっと出来すぎた話だが、いまだこの地を訪ねていない。この地点にたってこれらの山々がどのように見えるのか確かめてみたいと思っている。

宮津市日置、向山の下から成生岬(遠くの薄い影)

弥仙山の北の肩は平になっており、於成は地形によるものかもしれない。(上杉から)
 さて、これらのことは本稿「日置のこと」で書いてきたことだが、その中でも「日置殿町の謎」(2013.9.13~)は気になるところである。しかしこのことは川端二三三郎(かわばたふささぶろう)先生に聞けばすぐ解決すると思ってきた。なぜなら先生は日置谷の出身であり、上林の生き字引のような方だからである。
 いつかお目にかかって日置殿町のことを聞いてみたいと思っていたがなかなか機会が無くて果たせていなかった。そんなある日ひょこっと先生が訪ねてこられたのである。つづく

【今日のじょん】お腹に効く例の草が少なくなってきた。そのうち雪に覆われてしまうのだが、今なら探せばなんとかある。最近美味しいもんばっか食べてるので必死に探している。リードを放したらとんでもないところまで上がってしまった。

 

 

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じょんのび年末始の営業 12/26

2014-12-26 | イベント情報

2014.12.26(金)曇り

じょんのび年末始の営業について

12月29日(月)休業
   30日(火)定休
   31日(水)休業
 1月 1日(木)休業
    2日(金)定休
    3日(土)休業

 1月4日から平常通り営業いたします。


【今日のじょん】今日は定期の血液検査、赤血球量とかは相変わらず低値安定、極端に下がらなければまあいいかというところなんだけど、異常であることには違いないので、複雑な気持ちである。
 しかしまあ、飯もよく食ってくれるし、元気に遊んでくれるので、ありがたいことだと思っている。今日の積雪は1cmだが、菅坂峠はそこそこ降ったみたい。

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笠木 透さんが亡くなった 12/25

2014-12-25 | 日記・エッセイ・コラム

2014.12.25(木)雨

 笠木透さんが22日に亡くなられたという記事を見つける。77才ということである。といってもあまり知らないだろうけど、マニアックなフォークシンガーというところだろうか。代表曲は「私の子どもたちへ」だろうか、曲を聴けばあーこの曲かってわかるかもしれない。その他にも「我が大地の歌」とか「私に人生というものがあるならば」とか歌っておられる。

死亡記事と沖縄伊是名島でいただいた名刺。
 笠木透さんとはいまから30年ほど前、沖縄の伊是名島で一晩飲み明かしたことがあり、いまでもその時の光景を憶えている。
 「小原さん悪いけど明日沖縄行ってくれるか?」と布団に入って眠りかけているところへ石橋さんから電話が入った。なんでも伊是名島(いぜなじま)のトライアスロンの審判長をやるつもりの石橋さんが都合で行けなくなったそうだ。二つ返事というわけにはいかないがとりあえず職場の了解を得て沖縄に飛ぶ。恥ずかしい話、伊是名島が一体どこにあるのか、トライアスロンのコースだって何もわからないし、審判を導入するのも大会としては初めてだという。
 準備された飛行機に乗って、バスと船を乗り継いで伊是名島に着く。

伊是名島へは運天港から1時間(2007.2.20)
島の担当者の車で島を一周する。一面サトウキビ畑の島を一周するのにそう時間はかからない。スイム会場の浜はとてもきれいな海岸で、透明な水に珊瑚の白い砂の海底が見えて泳いでいてもとても楽しい。その白い海底に真っ黒の細長い溶岩のようなものが無数に落ちている。火山があったとは聞いていないし不思議だなあと思っていたら、その黒い物体が突然動きだす。驚いたねえ、村の人に聞くと黒ナマコとおっしゃったかなあ、毒も無ければ食用にもならない種類らしい。バイクコースやランコースは一人で原付バイクで廻った。そこでばかでかい亀甲墓や家の前の石敢当を見ることになる。
 さてそれがレース前夜だったのかレース後の夜だったのか定かでないのだが、笠木透さんメンバーと大会のツアーを取りしきる旅行者の某とトライアスロン協会の清水会長とわたしとが同宿のよしみで一杯飲むことになる。
「笠木透です、知ってますか」
「失礼ながら知りませんねえ」
「この歌を聴けばわかるでしょう」と歌ってくれたのが「私の子どもたちへ」である。
高石ともやさんが時々ラジオで歌っているのを聞いていたので、ああこの方が、、、、ということとなる。
 泡盛も入って盛り上がり、下ネタなんぞも出てくるのだが、先ほど見た亀甲墓、石敢当やユタの祈祷、伊是名島には棲息できないハブの話、ウミガメの産卵の話など沖縄の文化の話で盛り上がった。実はこの場に地元の人は居なかったのだが、あらかたが笠木さんの話だったのである。それまで3回沖縄を訪れていて、網膜には亀甲墓や石敢当は映っていたけれど、意識としては何も見ていなかったのだ。笠木さんのおかげで沖縄を見る目が変わった。その帰りに国際通に立ち寄って沖縄の文化と歴史に関する本を買ってきた。京都などでは本屋さんに京都コーナーがあるが、沖縄の沖縄コーナーはこの比では無い。

石敢当は沖縄のどこの家でも見られる。島の方が古いタイプの亀甲墓が見られる。(伊平屋島で 2007.2.21)
 その後30年近く笠木さんにあったことはない。時々労音の広告でコンサートの情報を見ることはあったが、行くことも無かった。
 亡くなられたいま、改めて笠木さんの歌を聴くと実に涙が出てくる。特に「時は流れて」は笠木さんの詩なんだけど、こちらも歳をとったせいかしみじみとしてしまう。あの夜から30年の時が流れた。

2 今はもう私は 年を取って
  今はもう私に 出来ることは少ない
  山や空や海や 広がる草原を
  遠くから遠くから 離れて
  ずっと遠くから たたずんで見ている

  目を開くより つぶっていた方が
  よく見えるような そんな気がして
  遠くから見ている 私の晩年
  時は流れていった

【今日のじょん】じょんはカレンダーが読めるか?
木曜日に豆腐屋さんが来るとワンワン吠えるのだが、その前に豆腐代をレジから出すだけで吠える。ところが今日はレジを開ける前に、何もしてないのに吠え出すのだ。その後5分ほどして豆腐屋さんが来た。カレンダーが読めるとしか考えられない。

写真はカンケーありまセン。

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穴虫考(137) 火葬-9 12/24

2014-12-24 | 地名・山名考

2014.12.24(水)     「中世の葬送・墓制」を読み直す-3

 尋尊が東福寺に立ち寄り兼良の葬火所穴等拝見したという一文を紹介したが、『大乗院社寺雑事記』には兼良の石塔建立つまり造墓は死後11年の後とある。(P170)
 石塔の造立が「御墓なども立て参らせたく候」とあるように、墓を立てると認識されている点である。(P171)
 つまり尋尊が東福寺に立ち寄った際には、石塔は建っていなかった。それでは如何なる状態のものであったのか、遺骨を埋葬し何か目印を置いていたか、あるいは遺骨は他の所に保管し、墓の予定地のみがあったのか。いずれにしてもこれを穴と言うには無理がありそうな気がする。やはり火葬場に穿たれた穴の方が自然である。
 
 庶民の葬送に関し、兵庫県の大覚寺に尼崎墓所の掟が伝えられている。P173にその文が載せられているが、簡略して紹介してみよう。
  
 (一条) 火屋 荒墻 四方幕 引馬 龕 百疋 収骨者五〇文。  (1,000文、収骨5%)
 (二条) 火屋 荒墻 幕 龕      参百文 収骨者二十文。 (300文、収骨7.5%)
 (三条) あらかき こし        十疋  収骨者十文。  (100文、収骨10%) 
 (四条) 定輿 桶に入れ土葬      五十文。
 (五条) 筵に入れ 無縁取り捨て    十文。少愛者十文。
 (六条)以下省略
  ※( )は火葬費用に対する収骨費用の割合 10文=1疋、100疋=1貫
  この掟の日付が天文元年十一月となっているので1532年となり、賢宝の葬送『観智院法印御房中陰記 応永五年』(1398年)とは年代も地域も離れているので単純に比較は出来ないかもしれない。ただ賢宝葬送にあって、掟に無いのは穴賃であり、その逆は収骨者である。
 そもそも収骨者とは何かということになるが、本来収骨とは見内が行うものだから、収骨するための手数料と考えるべきだろうか。あるいは収骨の作業を誰かにさせるための費用かということになる。
 収骨者という費用は火葬に関わる費用とは明らかに独立している。また、穴賃は他の費用が〇〇代となっているのにこれだけが賃となっている。また、見積額が変動した場合も僧に係わる費用同様穴賃は固定している。つまり穴賃=収骨者(費用)なのではないだろうか。
 賢宝の葬送は庶民の葬送とは違い、四貫八〇〇文もかかっている。僧の布施、藁履代、穴賃を引けば三貫一〇〇文となり、穴賃の割合は3.2%となる。上記収骨者の割合の傾向と似ているのは偶然だろうか。
 さて、収骨と穴がどう関連するかということになるが、もし火葬場の下に穿たれた浅い穴のことをいうのであれば答えは単純である。収骨はその穴から為されるからである。
 この火葬場の浅い穴は何のために穿たれているのか考えたとき、空気を取り入れて火力を上げるためということを以前に書いた。しかし空気を取り入れるだけの理由なら穴はもっと深くてもいいはずだ。例え浅くても中に深い溝を掘れば空気はより取り入れやすいと考えられる。しかし張り出し部はあっても溝のようなものは無く発掘される火葬跡の土坑の深さは20~30cmが一般的で底面は平である。(ただしこれは書物で見た写真や図面だけであって、他の例もあるかもしれない。)
 これは空気取り入れの効果と共に火葬後の収骨の便を考えた形状なのではないか。
 これらの理由から穴賃とは収骨に関わる費用で、尋尊が東福寺に立ち寄って見たという葬火所穴等というのは火葬場の浅い穴のことではないだろうか。建物などはその都度普請していたと思われるので、平らな地面に穴だけがあったのかもしれない。
 
 ここまで想像を膨らませてきたが、実はとんでもない勘違いをしているのかもしれない。しかし”穴”が一体何であるかは穴虫=穴蒸し説の重要なキーでもあるのではっきりさせなければならない。そこで思い切って水藤 真教授に尋ねることにした。発行所の吉川弘文館に相談すると、「回答が得られるか否かはわからないが取り次いであげましょう」ということだった。少し時間がかかるが、文章をしたためているところである。おわり

 【作業日誌 12/24】カビ絶滅作戦、残り6窓
 
 【今日のじょん】川に行くと久々に鴨の姿を見た。猟期が始まって撃たれてしまったのかと思っていたら、隠れていたようだ。一時は鵜と鷺だけになっていたのに。
じょんは遠くの鳥には反応しない。

ススキにピントが合ってぼけてしまった、右のは鵜。じょんは知らん顔。 
  

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穴虫考(136) 火葬-8 12/23

2014-12-23 | 地名・山名考

2014.12.23(火・祝)曇り 「中世の葬送・墓制」を読み直す-2

 穴が火葬場の炉に穿たれた浅い穴を意味すると考えたのは、次の二つの文書である。
 一つ目は、七 両墓制について の文中、P156
 文明十六年三月二十日、久々に京都を訪ねた尋尊は奈良への帰途東福寺に立ち寄り、「普門寺ニ参詣、後成恩寺殿御火葬所穴等拝見、則参ニ申常楽院ー了」(『大乗院寺社雑事記』同日条)と、兼良の火葬の所を見た。まれな例ではあるが、葬所も全く返り見られなかったわけではないことが知られる。

  さてこの兼良とは一条兼良(いちじょうかねよし)のことで、文明十三年四月二日に没している。尋尊とはその子で、父の没後3年後に墓のある東福寺を訪れているというものだ。この文では葬所つまり火葬所を訪れているわけだ。問題は「穴等」である、火葬場の炉の穴であれば穴として形状を残しているものだからつじつまは合う。しかし火葬墓のことを穴というものとすれば、穴の形状はなくてもいいわけだ。穴を掘ってそこに遺骨、蔵骨器を埋め穴の形状は無くなっても穴と呼ぶ可能性はなきにしもあらずだ。

 もうひとつは、八 葬送や石塔の費用 の文中、P167~
 さて応永五年(一三九八)六月三十日、東寺観智院の賢宝が亡くなった。その没後の様子は『観智院法印御房中陰記 応永五年』に詳しく記されている。その中に、「一、御荼毘用意事」として
 則注文一紙送レ之、彼注文云、荒壒三連、炭三連、棺百文、穴賃百文、云々
 といって荼毘に関する費用のことを書いている。そしてそれらは直接荼毘に関する費用としているのだ。そしてこの費用の見積もりは火葬所を取りしきる善阿弥から苦情が出て、見直されることとなる。
 僧十五人の布施 一貫五〇〇文
 同藁履代      一〇〇文
 覆天蓋絹代     八〇〇文
 荒壒火屋代     一貫文
 膚付代       五〇〇文
 炭薪代       五〇〇文
 穴賃        一〇〇文
 輿網代       二〇〇文
 棺上結布代     一〇〇文  〆て四貫八〇〇文
 
 見積もりより上がったものは、荒壒火屋代 七〇〇文増、炭薪代 二〇〇文増、輿網代 二〇〇文、膚付代 四〇〇文である。僧の布施と藁履代は僧の取り分だから当初見積もりと変わらない。変わっているのは善阿弥が他所から取り寄せた品物の代金と荒壒火屋代である。このときの火葬場が常設のものであったか否かという問題があるが、おそらくその都度設置していたのではないだろうか。その設備、囲いや柱、天蓋などの仕入れと設置料金がこれにあたるのではないか。
 他所から仕入れる物の値段が高騰しているという風に考えれば、穴賃が見積もり通りだというのは、物
の代金ではなくて何かの作業代、労賃なのではと思われる。他のすべてが〇〇代となっているのにこれだけが穴賃なのである。
 火葬における穴と言えば、炉の下の穴、遺骨を埋める穴しか思い浮かばないのだが、以後の文に参考となる部分が出てくる。つづく

【作業日誌 12/23】一区餅つき大会恒例の餅つきだが、今年は海老を入れた赤餅やよもぎ餅も作られ、豪華になった。区内のお年寄りに配られ、喜ばれている。
パンフレットスタンド作成

ゆげもうもう

【今日のじょん】じょん君珍しいものがあるので気にしておりマス。

いやあ、驚いた、佐々木さんにいただいた仙台の酒勝山と珍味の王様ホヤの塩から、こりゃもうサイコー

じょんはかんけーねいか。そのかわりはなちゃんみしたろ。

 
 

 

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穴虫考(135) 火葬-7 12/22

2014-12-22 | 地名・山名考

2014.12.22(月)曇り   「中世の葬送・墓制」を読み直す-1

 「中世の葬送・墓制」(水藤 真著)には火葬の際に穴、穴賃という文章が見られる。これは火葬場に穿たれた浅い穴を指すものとして穴虫の仮説を進めてきた。ところが中世の葬送に関する書物をいくら読んでも穴という表現は出てこない。火葬場の設備についても、窯、炉などは随所に出てくるのだが穴というのは、土葬墓、火葬骨の穴という表現しか出てこない。いずれの本も借本なのですぐに手にとって調べるわけにいかない。本書を再度借りて、徹底的に穴に関する箇所を読み直すことにした。

ついでに藁葬や積石塚など気になる部分もメモっておくことにした。

P3  藤原良通1188年没、火葬の際藁が使用された。九条兼実『玉葉』ー藁葬
P25 注(1)『吾妻鏡』文治四年十月十日条 「以レ藁火葬云々」ー藁葬
P6  藤原俊成1204年没、『明月記』元久元年十二月一日条 「可レ掘レ穴由下知了、・・・」墓所を選定して墓穴を掘らせた。ー土葬の穴
P37 醍醐天皇930年没、「まず御穴内に地敷を鋪くことにつき先例が調べられ・・・」ー土葬の穴
P43 天台座主権少僧都良源 没後のことを決めていた。『廬山寺文書』生前に石の卒都婆を立てるように望んでいるが、もしそれを為す前に没したときは、まず穴を掘り、骨を置き、土を埋めた上に仮の卒都婆を立て、云々ー火葬墓の穴
P93 栂尾高山寺高弁1232年没、『御葬法作書』「穴底散二土砂一事」ー土葬の穴
P103 藻壁門院(九条兼実の孫道家の子、堀川天皇の后)『明月記』御棺は、北を枕にし、穴の底の石辛櫃の内に奉安され云々ー土葬の穴
P136 梶原景時1200年没、政争に巻き込まれ討たれる。『東関紀行』「猶うちすくるほとに、ある木陰に、石をたかくつみあけて、めにたつさまなる塚あり。」ー集石墓か

 穴が火葬場に穿たれた浅い穴と断定した二つの文書以外のものを挙げてみたのであるが、実に見事に土葬における墓穴、火葬における火葬骨を入れる穴を表している。穴虫=穴蒸し=火葬という仮説がいきなりくつがえりそうな様相である。次に問題の二つの文書を検討してみよう。つづく

【作業日誌 12/22】カビ取り大作戦、店周り終了


【今日のじょん】今日は今期最低気温、-3℃(8時現在)
モモ姉さんが来たのでドッグランどに出しておいたら、寒さのせいかくしゃみばっかしている。?
 

  

 

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あなしら上林-2 12/21

2014-12-21 | あなしら上林

2014.12.21(日)曇り

 かんばやし里山新聞第3号(2014.12.18)が発行されたので、掲載のあなしら上林を公開します。

二、生守山 その一
 生守山(いもりやま)といってもほとんどの方が知らないだろうが、上林の方は丸山と呼んでいる。これなら知っているということになるのだが、丸山というのは上林にいくつもある。上林川が蛇行侵食して取り残された地形が環流丘陵といわれ、志古田や弓削の入口に円い特徴的な山を残している。これらは形から丸山と呼ばれることが多く、神社を祀ったり山城が築かれたりしている。
 ところが今回紹介する丸山は還流丘陵ではなく、海底の岩盤が隆起して、風化に耐え円い形になったもので、老富の渡辺さんに初めて写真を見せてもらったとき、この山には何かあるぞと感じさせる形であった。

生守山研究の発端となった冬の丸山(生守山)の写真、渡辺さん提供
 丸山は老富町と高浜町の境、若丹国境上にある五四五メートルのピークで、三国岳の南東一キロメートルにある。
 この山は文献により生守山、イモリガ嶽、猪森山等と書かれ、いずれもイモリが基調になっている。他にもサントラ山、三俵山などと書かれているものもあり、これは山頂を取り巻く岩、枕状溶岩が桟俵(藁で作った米俵の蓋)に似ているからそう呼ばれている。

生守山を取り巻く枕状溶岩、サンドラ岩
 生守山は謎の山だが、その最たるのは廃村生守村である。若狭の郷土史研究などに廃村生守村が若丹国境に在ったと書かれていて、室町時代には廃村になったという。稜線上を歩いてみたが、人が住めるような処は1ヶ所しかない。それは生守山の北側のコルである。平地と水、そこには小川が流れており、林が開けてまるで桃源郷そのものだ。かわらけでも出ない限り村の存在は証明できないが、もし村があったとして一体何をしていたのだろう。

生守山北側のコル、若丹両側に谷があり、清水が流れている。 

 当初は祭祀の場、葬送の場などを考えたが、それらしき伝説などもなく、祠や地蔵、五輪塔などの遺物もない。
 次に考えたのが産鉄の村である。日本における原始的な産鉄は考古学界でも謎である。大陸や半島から原料を輸入して鉄を生産しただろうというのは確かなところとなっているが、それ以前に極原始的な方法で鉄の生産が極小さな規模で行われていただろうというのも予想されている。そんな原始的な産鉄がこの地で行われていたのではないかと考えたのである。
 民俗学的には、生守山の丹波側に鬼の穴という岩窟があり、大唐内の谷には鬼の洗濯岩というナベ滝(釜のことか)があった。また、大唐内には聖神社に大蜘蛛伝説があり、これらは産鉄の地に存在する鬼伝説の一環であると思われる。つづく

【作業日誌 12/21】パンフレットスタンド作成、年内完成を目指す。

【今日のじょん】なんか必死に嗅いでるなあと思いきや、天ぷら油捨てたところだった。これって獣も来るのよね。

 

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雨読 続・雁の寺 12/20

2014-12-20 | 雨読

2014.12.20(土)雨

 「雁の寺」を読み終えたとき、金閣寺と同じではないかと感じた。林養賢と金閣寺の慈海、滋念と孤峯庵の慈海、前者は寺の放火、後者は殺害という事件となった。前者はノンフィクションで後者はフィクションである。
杉山峠の出会い    1944年8月(昭和19年)
金閣寺放火事件    1950年7月2日(昭和25年)
「金閣寺」発行    1956年(昭和31年)
「金閣炎上」書き始め 1959年?
「雁の寺」発表    1961年(昭和36年) 
三島事件       1970年11月25日(昭和45年)
「金閣炎上」発行   1979年(昭和54年)
 以前に書いた金閣寺放火事件関連の年表に「雁の寺」の発表を入れてみた。
 「雁の寺」を発表される時には既に「金閣炎上」の構想は出来ていたのではないかと思う。水上先生と瑞春院の松庵和尚、滋念、林養賢と両慈海和尚、この虚実入り交じった葛藤こそが一連の作品のモチーフとなっているのではないだろうか。
 「雁の寺」はフィクションの小説だから、とんでもない色欲坊主を描くことが出来る。ところが「金閣炎上」はノンフィクションを基本としているので事実のみを書く必要がある。そのために理解しにくい部分が出てくるのである。孤峯庵の慈海和尚は殺されても仕方のない人物に描かれているが、金閣寺の住職慈海は寺を焼かれなければならないほどの人物には見えない。ケチン坊で小僧に小遣いも与えない、養賢には自分のお古の学生服をあたえる、自分だけ酒を吞んで小僧にはろくなものを食べさせない、こんなことで寺を焼かれていたら日本中の寺は燃えてしまう。慈海師は水上先生の大嫌いな禅僧の妻帯もしておられない。辰ちゃんの事だって陳公博亡命の件だって目くじらたてていきまくほどのことではないように思うのだが、、。
 水上先生は「金閣炎上」のあとがきに、「しかしいろいろと周囲のことを調べ、事件にかかわった人から話をきいていくうちに、私なりの考えがまとまっていったことも事実である。」と書かれている。「雁の寺」を読み終えると、実はこの頃既に林養賢と自分自身の共通項を見いだしておられて、その立証と確認のため事実を拾い上げられたのではないかと思えるのである。
 「ブンナよ、木からおりてこい」は1972年(昭和47年)の「蛙よ、木からおりてこい」が元になっている。この鳶の餌の貯蔵所となっている椎の木は孤峯庵の庭にあって、てっぺんまで登って穴の中に蛇や魚や鼠がうごめいているのを見たと滋念は里子に話しているのである。
 「雁の寺」がこれらの作品の元になっており、金閣寺住職の慈海という名を架空の孤峯庵にも使ったのはそれなりの意味があったのではないだろうか。

「雁の寺」「ブンナ」「金閣」みんな繋がっている、もちろん「五番町」も

【今日のじょん】昨日の高温と雨で一気に雪も解けてきた。途端に鹿の来襲である。足跡が残るので、頭数、サイズ、侵入径路がよく解る。じょんと一緒に探索する。頭数は東から二頭、西から二頭、西は親子。東は隣家お墓よこの林道から畑下の法面をトラバース、西は隣家裏庭からドッグランどよこの谷を飛び越え、芝生広場、帰り道不明。 

 

 

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雨読 雁の寺 12/19

2014-12-19 | 雨読

2014.12.19(金)曇り

  金閣寺放火事件で林養賢がなぜ犯行に及んだかを考えるには、「金閣炎上」を読むだけでは済まない。もちろんそれは誰にも解らないことなんだが、考えを及ぼすことは出来る。「金閣炎上」の中で水上先生は金閣寺の慈海住職に対する反抗心を考えておられる。佐波賀養徳寺の江上大量氏への取材に端的に表れている。(雨読2014.12.13参照)
 ところが水上先生は自らの思いを林養賢に託して書いたのではないかというわたしの考えが、「金閣寺の燃やし方」(酒井順子著)にもはっきり書かれていてとても心強く感じているところである。問題は水上先生の自らの思いであり、それは「禅宗坊主の虚偽世界に倦きがきた」(「わが六道の闇夜」)と言わしめている、禅宗の僧侶の色欲、金銭欲などのことである。禅宗僧侶の妻帯に対し強烈な批判意識があり、だいこくに対して性具という言い方がしばしば現れる。「山寺」に登場する加奈子さんも、林養賢の母志満子でさえ性具という表現がなされている。これはひとえに妻帯する住職に対しての強烈な批判なんだけど、わたしは性具という表現には嫌悪感を憶えてしまう。
 先生そりゃあ言いすぎではないですかという風に思うのだが、それほどに水上先生の禅宗僧侶の腐敗ぶりには辛辣な思想がある。それが何なのか、「雁の寺」を読む理由はその一端に迫りたかったからである。
 新潮日本文学59 「水上勉集」 昭和47年1月発行 古書 霧と影、雁の寺、五番町夕霧楼、越前竹人形を収納

 本書を読む動機は別にもあった。「金閣寺炎上」の金閣寺住職も「雁の寺」の孤峯庵住職も同じ慈海なのだ。前者は実在の人物であり、後者は架空の人物である。しかし水上先生の意図が両者を同名にしたのか確かめたい気がしたのだ。
 「雁の寺」はずいぶん後味の悪い読み物であった。救われる者がいないのである。好色の限りを尽くす住職慈海、こき使われるだけの滋念、そして滋念は巧妙な手口で慈海を殺し、闇に葬る。内妻の里子こそ性具と表現されてもいたしかたない。新しい住職が来て滋念も里子も孤峯庵にはおられなくなる。誰も救われない哀しい話だ「雁の寺」は第45回の直木賞に選ばれている。ひとつの再出発でもあるのだろう。本書のことをミステリーとして評する者もいる。ミステリーとして読むにはあまりにもお粗末である。殺害の方法や遺体の処理についてもアイデアは奇抜だが、成立しない筋書きである。水上先生は本作品について「子どもの時のイメージをそのまま小説に移したもので、僕の心にたまりたまった四十年間のウラミツラミを吐き出し、復讐するのが目的でした。」と述懐している。(解説、尾崎秀樹から)
 舞台となる孤峯庵は水上先生が10才のおり最初に入山した相国寺(しょうこくじ)の塔頭(たっちゅう)、瑞春院(ずいしゅんいん)で、住職は山森松庵(しょうあん)といった。この瑞春院は上立売烏丸を東に入ったところにあり、立派な建物である。小説とは言え、好色な住職が居て殺害されるというなんとも不名誉な立場にされ、憤慨されていると思いきや、門標には「瑞春院 雁の寺」と小説をも売り物にされている。なんとも京の寺の商魂を垣間見るような気がするのである。つづく


【今日のじょん】じょんはいくみちゃんが大好き。でも猫がいるので一晩しか居られない。散歩も遊びも全然覇気が違う。

 

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鬼もあきれる新年会 12/18 

2014-12-18 | イベント情報

2014.12.18(水)雪

 来年のことをいうと鬼も笑うそうだが、あきれるほどの新年会の案内をいたします。
 
 ごぞんじ じょんのび新年会
 
 日時:2015年1月27日(火)13:30開宴
 場所:イワンの里
 会費:4,500円 夫婦割引二人で8,000円
    ノンアル送迎割引3,500円(アルコールを飲まずに送迎に尽力される方、人数限りあり)

 二次会:カラオケ、会費実費

 1月20日までに参加申し込みをして下さい。

前回新年会の様子、盛り上がってますねえ。
今夜はしまだやさんでプライベートの忘年会一人変な人がおりますねえ。


 【今日のじょん】我が社の積雪は19cm、吹きだまりで30cmくらいあり、要雪かき。じょんはいくみちゃんが来てヒコヒコしてるが、いきなり忘年会に行かれてお留守番。

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寒波到来 12/17

2014-12-17 | 日記・エッセイ・コラム

2014.12.17(水)曇り

 昨日の終日の雨は自転車旅行中の最も寒かった日を思い起こす。川湯温泉から白浜に向かう一日は終日冬の雨に打たれ、最も困ったことは手指の感覚が無くて、ギヤチェンジやブレーキ操作ができないことだ。郵便橋付近で宿の予約のため電話するんだが、指の感覚が無いためボタンが押せない状態だった。(2006.12.14参照)
 さて現実の生活にも寒さの影響が現れてきた。この時期では精神的にも装備面でも厳冬期使用にはなっていない。そのためかやたら寒く感じられる。確かに氷も張って、霜柱も立って北風が吹きまくっているのだが、気温はと言うと0℃なのだ。-7℃をこの地で体験しているものにとっては、なんだ0℃かって思いなんだが、それにしては寒い。やはりまだ寒さに身体が慣れていないせいか、それとも歳を重ねているせいかもしれない。
 さてついこの間今年のクールビズを紹介したところだが、ウオームビズを紹介したい。ただし、これは結果が出ていないので果たしていい物かどうかわからないことである。わたしのウオームビズは政府の言うところの二酸化炭素排出量の減少などという怪しげな理由ではなくて、経費を削減しつつ如何に暖かく過ごすかということである、念のため。

 裏フリースのジャージ
 一本持っているがどうしても替えがいるので購入、ダイコーで799円。材質は裏表ともポリエステル100%、前ファスナー、紐付き

 ボア付きサンダル
 有名ブランドだと2,000円くらいしている。バッタもんのため599円、温けりゃいいのよ。

 温泉ウォーカーあたたかプラス保温腹巻き 唯一日本製で、新素材を混紡した優れものらしい、、、980円
 アクリル46%、レーヨン32%、指定外繊維ルネスα12%、ナイロン9%、ポリウレタン1%

 フリーノットのネックウォーマー もらい物

 ユニクロヒートテックの帽子 1,000円くらいらしい。

 テントシューズ
 冬山で使っていたもの、素材はデュポン社のダクロンで室内で使えばどんな寒さも平気、素足で履くと余計効果あり。


 まあこんな感じで安くて暖かい工夫をすると寒い冬も楽しくなろうってもんだ。なんて書いてるとしんしんと雪が降ってきた。気温が低いだけに積もりそうだ。

【今日のじょん】靴下も靴も履かないのに冷たくないのかなあ。

これ霜柱 
 
 

 

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