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晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

大栗峠考(51) 8/16

2018-08-16 | 地名・山名考

2018.8.16(木)曇り

 さて本題の大栗峠であるが、峠を含む山間部に付いている志古田の小字大栗が峠名の由来であることは間違いない。この大栗の地名由来については既に述べたところであるが、「刳る」からきた災害地名というのがあまりにぴったりしていて逆に不審に思っている。確かに大栗は地滑り地帯であって(J-SHIS Map)現実に大規模な崩壊が起こっており、志古田側峠道は通行不能状態である。志古田道はあまたあるルートの中で最も古い、小栗峠の元祖的峠道だと考えているのだが、なぜそんな危険な場所に道を作ったのか疑問を感じざるを得ない。

志古田道の大崩壊(2011.11)峠道は完全に寸断されている。右は谷筋から山腹に移るところの大岩。
 あやべ温泉から、畑口からいやという程大栗峠の山並みを眺め、昔の人の気持ちになって考えてみる。答えは簡単である、大栗峠が一番低いということだ。徒歩で最も早く和知に至れるのが大栗峠なのである。まだ峠道が無い時に人が山並みを越えて彼の地に行こうと思ったら、一番低いところをめがけて谷筋を詰めるのは至極当然である。谷筋は樹木も生えていないし、ルートファインディングの必要も無い。歩いていれば峠に到着する。柳田圀男氏の「峠表裏理論」にぴったりの峠が大栗峠志古田道なのである。峠道の本質からすれば志古田道が最も峠道らしい道で、最も最初に出来た道だろうという根拠はそこである。ただし最初に人が通ったのは志古田から峠まで谷筋であろう。それは峠道とはいえず、単に山脈を越えるルートである。大栗が大昔から崩壊地であっても谷筋ならば問題は無い。そして人が多く歩くようになって谷筋の脇により歩きやすい道をこしらえていったと考えられる。もちろん当初は踏み跡程度のものだったろうが、やがて人が手を入れる様になり、今日のルートに近いものができあがったのだろう。峠道が尾根の中腹に上がると、土砂崩れなどの災害に悩まされたことだろう。大栗は上林でも最大の地滑り地帯である。志古田道は補修を繰り返しながらも、洞峠とともに京街道として多くの通行人を迎え、とりわけ君尾山光明寺への巡礼道として栄えたことだろう。徒歩の通行人だけならそれで良かったかもしれないが、時代が下がって物資輸送が必要な時代になると谷筋と山腹をぬう志古田道は尾根筋主体の弓削道に主要街道の座を譲らなければならなくなったと想像する。おそらく弓削道は志古田道が崩壊した際の迂回路として既に存在していたのではないだろうか。つづく

 

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大栗峠考(50) 7/16

2018-07-16 | 地名・山名考

2018.7.16(月)快晴 二つの大栗を訪ねる-4

 十倉と忠の大栗について、その共通点の多さに驚く。
共通点
①上林川の左岸にあり、ゆったりした流れが両岸が狭まり急流となる地点にある。そのため大雨の際は流れが遮られ、災害の原因となっている。
②左岸から谷が流れ込んでいる。
③大栗から下流は流れが速く、屈曲し、大きな岩が見られるようになる。
④古墳がある。

相違する点
①忠の大栗は上林川が狭隘となる地点の上にあり、十倉の大栗は下にある。
②忠の大栗は川沿いの細長い地域、十倉の大栗は川沿いから山の斜面を含んだ広い地域。
③古墳は十倉志茂町大栗にあるが、忠町は堂ノ下にある。
④周囲の小字名に似通ったものはない。

 この二カ所の大栗でもって大栗地名の解明をすることはきわめて危険なことである。ただ、あまりにも似通った二つの大栗を見るとき、確定は出来ないがいくつかの候補を挙げることは許されるだろう。
1.岩床、河川の岩塊
 「クリ・グリ」というのは小石から大きな岩、ひいては崖まで表している。特に日本海側では海中の岩礁や海面に突き出た岩などを~グリと表している。(赤礁、サバ礁、ハナ礁など)漁場としては良いが船の航行には危険な地帯である。ちょうど上林川が瀬に変わって、岩床、顕岩が現れるところが大栗と呼ばれたのではないだろうか。
 古墳時代以前の交通としては河川は重要な手段である。歩くにしても船を使うにしても、大栗は注意すべき地点である。


忠(左)と十倉(右)の大栗付近、増水しても見えるのはそこそこ大きな岩である。
2.急流、曲流

 災害地名ハンドブック(小川豊著)に蛇行地形(曲流)と書かれている。とちぎの地名を探る(塙静夫著)に栃木県栗野町中栗野字大栗(現鹿沼市)という栗地名オンパレードのところが紹介されているが、栗野川が90度曲がっている。漢字の読み方でクリと読ませたものだろうが、ハングルでは曲流はコッリュウ、急流はクウリュウと読まれ、どちらかというと急流の方がクリに近い。

3.古墳石材との関係
 綾部工業団地の中に城山町栗ヶ丘というとこがあり、12基の古墳がある。日本地名大辞典には町名も小字名も出てこないので、新しく作られた地名かもしれない。昔からある地名だとすると古墳に使われた石のことを言っているのかもしれない。ただ古墳が造られた当時は古墳は土に覆われていたと考えられるので、石材が現れてから付けられた地名か石材とする石がその辺りに多くあったためかもしれない。
 忠町の古墳石材は角の取れた川の石というより角張った山の石のようである。大栗の林道を歩いているとその上の斜面にそれらしい石がある。奈良や大阪の古墳のように遠くから石材を運んでくるほどの規模ではないので手近で間に合わせたと思われるが、その場所が大栗だったら、忠町と十倉志茂町の古墳と大栗の関係が見えてくる。

忠の古墳、畑の中にある。
【今日のじょん】おとうの
分別ゴミ箱が完成した。構想2年作製期間2ヶ月、じょんはキョーミなさそう。


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風呂地名の謎(4) 11/3

2016-11-03 | 地名・山名考

2016.11.3(木・祝)曇り 風呂地名の謎(3)は2016.10.24 

 風呂の語源は室(むろ)だとされている。風呂地名について意見の分かれる学者たちの間でもこれだけは意見が一致している。石風呂にしても窯風呂にしても元は室といえば誰も異は唱えないだろう。神社の森が風呂だとしている事例には事欠かないのだが、なぜそうなのかと言う説は、柳田圀男氏の例の不可解な文章しか見当たらない。この「風呂の起源」全文を読んではいないので判断のしようがないのだが、柳田氏がいったい何を言わんとしているのか計り知れないものがある。
  「神の森のフロと浴場のフロは無関係ではなかろう・・・・。荒神の独占に任せて常人の侵入を厳禁していた点からこれをフロと名付けたので唯の樹林地ではなかった。」
 ・・・・の部分をよく調べてみると次の文章のようだ。(前文は「全国地名語彙辞典・下」、後文は「風呂と日本人」による。)
「然らば神の森のフロは此(この)風呂と如何なる関係があるかと言うと、是も亦(また)荒神の独占に任せて云々」
 此のフロとは浴場のフロ(石風呂や竃風呂など初期の風呂)のことと思われる。神の森が常人の侵入を厳禁としていたのは理解できるが、石風呂や竃風呂が常人の侵入を厳禁していたというのは素直に受け取れない。「風呂と日本人」筒井功著の中でも「いまひとつ文意が明確でない。」と記しておられる。
 先程紹介した柳田國男氏の文では荒神信仰に因んで常人の侵入を厳禁していた森をフロと名付けたとしている。しかしこれでは森=風呂の説明にはならない。筒井氏は荒神は竈(かまど)の神だから窯(カマ)=風呂と主張されている。長崎県五島、宮崎県東諸県郡、鹿児島県肝属郡などでは竈のことをフロと呼んでいたそうだ。
 語源大辞典(東京堂出版)の風呂の項で、「風呂に入る習慣は、もとは仏教で、僧侶が垢を落とし、心を清めるのに始めた作法である」という一文がある。このことなら先ほどの常人の厳禁を云々という柳田氏の文も理解できる。
 しかし地名というのはその多くは庶民が必要に応じて作ったものであろうから、遠回りしてこじつけたものの信憑性は低い。
 ~袋(ふくろ)という地形地名がある。袋状の小地形をいうのだが、一方だけが開いていて三方がふさがっているいわゆる袋状のところである。池袋や沼袋も元は袋地形だそうだ。この袋は風呂に転訛するのではないかと思っている。袋棚を風呂棚と呼ぶところがいくつかある。
 神社も元は社など無く、木々に囲まれた空間であっただろうと言われている。フボー御嶽も出入り口を残して周囲を木々で囲まれている。

奥上林の神社の森は南方系の木々が多い、モリの文化の影響があるようだ。
天神社(神塚)あたりが南限か。
あるところでは石で囲まれていたり、洞であったり室であったり、さらには木で社を作ってきたのではないか。どの神社に行っても木造の社の中にさらに神を祀る社があるものだ。


拝殿は社の二重構造になっている。(木祖殿神社・綾部市)

この外側の部分が元々木であったり石であったりと考えたらどうだろう。つまり森も室も洞も社も石風呂も、竃風呂も一方だけが開かれていて三方が囲われている形状なのである。そしてそれらが円になっていれば袋である。こういう形状をフロと呼んだのではないかと密かに思っているのだが、確かなことは神社のあるところ、近隣に風呂地名が存在することである。おわり   

 

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風呂地名の謎(3) 10/24

2016-10-24 | 地名・山名考

2016.10.24(月)曇り 

 柳田國男氏の論文は「風呂の起源」で以下のように述べている。
「『美作誌』に美作方言で森をフロという。『雲陽志』には出雲仁田郡石原村に御崎森(ミサキフロ)があり、又石見邑智郡沢谷村の御崎風呂、備中中川郡平川村の疫神風呂、同郡油野村の風神風呂などの小字名がある。林と書いてフロとよませるものに美作真庭郡勝山町大字日田の桑林(クワブロ)、社をフロとよませるものに三河宝飯郡八幡村の中社(ナカブロ)もある。神の森のフロと浴場のフロは無関係ではなかろう・・・・。荒神の独占に任せて常人の侵入を厳禁していた点からこれをフロと名付けたので唯の樹林地ではなかった。西国の茂(シゲ)といい、東国の上げ山、入らず山など呼んだのも同じであろう」
  後半の文面はなんとも不可解なものだが、神社などの森、社がフロと呼ばれていることは事実のようである。このことは従前から知っていたのだが、一部地域の方言だと思い無視してきた。ところが今回の調査で神社と風呂地名が100%隣接、あるいは一致していることを考えると、ごく一般的な用語となるはずなのだが、国語辞典、古語辞典、地名辞典、方言辞典、民俗学辞典などあらゆる辞典には沐浴の風呂しか出てこない。
 「森の神の民俗誌」という森に関する書物に全国各地の森(信仰としての)が掲載されている。その中に前述の森以外に多くのフロと呼ばれる森が出てくる。どうやら神社などの神聖な森がフロと呼ばれるらしい。


 神社というのは元々は、現在のように社があり鳥居がありと言ったものでなく、神聖なる一本の樹木や何もない空間を樹木が取り囲んでいるような状態だった。久高島のフボー御嶽(ウタキ)を見たとき(男子は禁制となっている)原始信仰の様相を垣間見た気分になった。

Img_2831

フボー御嶽の入り口(ここから男子禁制)
それが森、杜、モイ、茂(シゲ)などである。元はそれをフロと呼んだのだろうが、やがて社ができ鳥居が立ち、それらを含めた神聖な神社の域そのものをもフロとよぶようになったのではないだろうか。ではなぜ風呂と呼ぶのだろうか、沐浴の風呂とはずいぶん違ったものなのだが。つづく

【今日のじょん】ニューモモが遊びに来た。誰もいないところで走り回れるのがいいみたい。じょんも出してくれいと言うのだが、出してやるとモモの運動量にはついて行けないみたい。


右の写真はブンナ

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風呂地名の謎(2) 10/21

2016-10-21 | 地名・山名考

2016.10.21(金)曇り

 府道1号線から風呂谷の写真を撮って気づいた。それは左手に神社が写っていることだ。壹鞍神社は十倉四町を氏子圏とする神社である。

左手に壹鞍神社の一部が見える。

 気づいたことは風呂が神社と関係することだ。山家の三神神社といい、この壹鞍神社といい神社のそばに風呂地名があることだ。安栖里の風呂ノ元の近くにあるのは寺院だったけど、神社がないものか調べてみる。元(もと)というのは元々そこにあったか、その上手に神社があるはずだ。上手というのは山側か上流側と言うことになるのだろうが、そういう意味では下流側400m付近に安栖里天王社という神社がある。この神社、十倉氏の氏神でもあるようで、そのそばの十倉は十倉氏の居住地であった可能性が高い。そうすれば風呂ノ元は十倉から見れば下手という見方もできるのではないだろうか。
 次に老富町栃の風呂ノ奥を見に行く。栃の渡辺さんに堂ノ下の上が風呂ノ奥と聞いていたので。ミノ田橋のたもとに車を置き、たまたま渡辺さんの奥さんが歩いてこられたので堂ノ下の位置を聞く。それは目の前の住宅のあるあたりだった。風呂ノ奥についても聞くと、「あの谷のあたり」と言う返事。「確かそのあたりには神社がありましたねえ」「そう八幡さん」やはりここの風呂も神社と関係があった。

堂ノ下、八幡神社、左が堂ノ下で谷があり右手民家奥に神社あり

 ここで睦合町の葛禮本神社(くずれもとじんじゃ)のことを思い出す。葛禮本神社の所在地は睦合町中風呂1だったのだ。もうここまで来れば神社と風呂が関係していることは間違いない。



浅原(あずら)の葛禮本神社、睦合町中風呂1にある。
では風呂はいったい何を表しているのだろう。今で言うところの風呂の元祖、石風呂や竃風呂でないことは確かだ。もし仮にそうだったとしたら、何らかの痕跡が残っているだろうし、神社にお風呂が付随しているなんて話は聞いたこともない。
 実は神社のご神木や森、神聖なる場所を風呂(ふろ)とよぶと言う説を読んだことがある。それはほかでもない柳田国男氏の論文だった。つづく

【今日のじょん】於身のゴンちゃんはどーしてるかな?てんでかみさんが訪ねたら、いたいた広い田んぼで元気しとるぞ。じょんはというと、広い芝生で嗅ぎ回ってばっかし、もっとど~んと遊べよ。

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風呂地名の謎(1) 10/20

2016-10-20 | 地名・山名考

2016.10.20(木)曇り 
 風呂地名について綾部市周辺を調べてみた。
風呂屋(鷹栖町)、風呂ノ谷(下原町)、風呂ノ本(上原町)、風呂谷(十倉志茂町)、中風呂(睦合町)、高風呂(五泉町)、風呂ノ奥(老富町)、本風呂(市茅野)そして井倉新町と味方町の石風呂である。グーグルの地図で掲載されているところを調べてみるが、山中あり川辺あり宅地ありで地形的にも山あり谷あり平地ありで千差万別である。ということは一つのある地形から来たものではなさそうだ。気になるのは風呂ノ本、風呂ノ奥などと位置関係を示す地名が多いことだ。「風呂と日本人」の中には風呂ノ下、風呂ノ前、風呂ノ西など位置関係を示す地名が登場する。ということは風呂という何かが存在して、その前であったり奥であったりするわけだ。その風呂とはいったい何なのだろう。
 筒井氏が言うような石風呂の遺跡や痕跡があれば問題ない、しかしその可能性は薄いだろう。だからといって無視するわけにもいかないし、とりあえず一つ一つ現地を当たってみることにする。 
 安栖里駅の南に風呂ノ元という地名がある(京丹波町安栖里)。由良川沿いに広がった河岸段丘で永正年間(1504~1520)頃には十倉氏が居住したと言われるので、小字十倉はその地なのだろうか。風呂ノ元は駅の南側ののどかな住宅地で緩やかな斜面となりやがて山林となっている。風呂ノ元の上手、山側には竜心寺という寺院があり、堂ノ成という地名はそれに由来するものだろう。もしこの地に風呂があったとしたらこのお寺か十倉氏の居城に由来するものなのかと想像するが、それには何の根拠もない。地形的には上原町の風呂ノ本と一応は共通している。

安栖里駅から南西方面、家の向こうの森の中に龍心寺がある。

 さて次に 鷹栖町の風呂屋を目指す。国道27号線沿いの山家郵便局の裏に三神神社という立派な神社がある。その神社の裏手西側に登り坂がありそのあたりが風呂屋のようだ。小さな谷があって、石風呂などがあっても不思議ではないが、その証拠はまずないだろう。付近に山城があったかどうかはわからない。

三神神社、神社の裏手から斜面を登っていくと風呂屋方面。

 つぎに十倉志茂町の風呂谷を見に行く。府道1号線沿い喫茶轍さんの左手の谷に小字風呂谷はある。おそらくこの谷が風呂谷なのだろう。写真に収めようとファインダーをのぞいたとき、風呂地名のいわれが解明した。やはり現地を訪ねると言うことは大切なことだし、必ず何かのヒントが得られるものだ。つづく

【今日のじょん】丹波の連れしょんという言葉がある。丹波は寒くて一人がおしっこに行くと誰かが続いてしたくなるということと思っているのだが定かではない。朝早くトイレに立ったら、じょんまでついてきた。「おしっこか?」というと盛んにしっぽを振る。面倒だがつれて出るとうれしそうにおしっこしていた。これも丹波の連れしょんか。

夕刻になって、舞鶴から茶々くん来じょん、4歳だって。とっても賢くてカワイイのです。



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訃報 小川光三さん

2016-06-05 | 地名・山名考

2016.6.5(日)穴虫考(155)穴虫考(154)は2915.11.27

 穴虫考を読んでおられる方はご存じかと思うが、写真家の小川光三(おがわこうぞう)氏が亡くなられた。穴虫という奇妙な地名に取り付かれ154回もの記事を書いてきた。その出発点が小川光三氏の「大和の原像」なのである。小川氏は古文化財の撮影を専門的にしてこられ、父の写真家・小川晴暘氏の創業された「飛鳥園」の社長会長を務められた。

写真家だけに使われている写真もすばらしい。箸墓の夕景と訃報記事
 実は「大和の原像」を読んで穴虫を調べ始めたわけではない。当初は日置氏、上林の日置谷(へきだに)について調べるため、「知られざる古代」水谷慶一著を読んで水谷氏のいう「太陽の道」なるものの原点が「大和の原像」にあるというのが出発点である。「知られざる古代」の冒頭にO氏、M氏という諾名の人物が出てくる、O氏は小川光三氏、M氏は松本清張氏である。太陽の道とは奈良から伊勢に続く重要な古代遺跡を直線でつなぐと北緯34度32分の一直線になるというなんとも不思議な話なのだが、このことの最初の提唱者が小川光三氏なのだ。「謎の北緯34度32分をゆくー知られざる古代」は昭和55年2月11日にNHKで放映されたもので、わたしは見ていないのだが反響の大きな番組だったようだ。思い起こせばこれらの本を読むに至った原因はもっと違ったところにあった。歴史を金属で解こうという意識があり、最初に読んだ本が「古代の鉄と神々」真弓常忠著である。その中に小川氏、水谷氏のいう「太陽の道」は実は「鉄の道」いわゆる中央構造線だという強烈な批判文が載っていたのだ。

古代の鉄と神々、金属関連で最初に読んだ本。
真弓氏の批判に対し小川氏、水谷氏の反論は目にしたことはないのだけど、わたしは日神祭祀も古代測量も産鉄をはじめとした古代の金属採取も矛盾するものではないと考えている。日置氏は測量もしたし日神祭祀もしたし、金属の採掘もした部民であると考える。特に測量ということを考えると、器具も機械も無い古代に古墳や大規模な建造物、ついには都の建設までなすという影には正確な測量技術、それをなしうる専門的技術者がいたはずで、日置氏もその一員ではないかと思われる。

次々と読みあさった本
 「大和の現像」を読むに至った経緯はこのようなものだが、なぜ穴虫なのかということになる。太陽の道は奈良県に入ると幾つかの遺跡を通り、桧原神社からやがては穴虫峠を通過することになる。つまり春分秋分には桧原神社から見ると夕日は穴虫峠に落ちることになる。小川氏はこの穴虫の地名について次のように書いている。
 古代の人の考えていた宇宙観では、西海に大穴があり、東から出た太陽は天空を横断してこの穴に入り、翌日ふたたび東より現れると信じられていたという。本州の西端、山口県は長門の国だが書紀には穴門(あなと)の国とある。穴門とは西海にあるこの大穴の入口、最も近い場所を意味している。とすれば大穴道とは太陽の落ちる大穴に至る道の意と考えられる。この穴道(あなみち)がアナムチと発音され、やがてアナムシと変化したのが穴虫の語源ではないだろうか。
 穴虫という奇妙な地名についてはじめて語源を語る文章を見つけた。そしてなんともロマンに満ちた発想と文章である。穴虫峠の大阪側には多くの古墳があり、竹内街道と共に葬送の道となっている。吉備の古代を調べると半島に囲まれた内海は穴と呼ばれその陸地側にやはり多くの古墳が存在する。穴虫が穴道であったなら、そこは黄泉の国への入り口と言うことになる。
 ところが穴虫は各地に存在し、一般的な地名なのである。取り憑かれたように各地をめぐり、現地を見て、様々な文献も目にした。穴虫考をさかのぼって読んでいただければその様子がわかると思うが、小川氏の穴道説は残念ながら賛同できない。もちろん結論に達した訳ではないのだが、小川氏に穴虫研究のきっかけをいただいたことは確かだし、こんな事をお話したかったと思うのである。合掌

【今日のじょん】先日くうちゃんが来じょん、ドッグランどができた頃に来られたそうだ。よい写真が撮れましたぞ。

コーヒー飲んでるみたいでしょ

じょんは必死に覗いてるのだ。

 

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穴虫考(154) 亀岡文化資料館 

2015-11-27 | 地名・山名考

2015.11.27(金)晴  穴虫考(153)は2015.2.9

 亀岡市文化資料館で「亀岡の古代寺院と丹波国府」という特別展を行っている。29日(日)が最終なので慌てて行くことにした。丹波国府は桑田郡にあったとされるが、未だ確定はしていない。元々千代川にあって、屋賀(八木町)に移ったというのが従来の定説だったのだが、最近の発掘で池尻遺跡が有力になってきたという情報もあり、気になるところである。国分寺は亀岡市千歳町国分にあってこれは遺構も残っており間違いないところである。

 穴虫地名は千代川町北ノ庄と河原林町河原尻に存在し、国府推定地付近と国分尼寺の地点となっている。丹後の国府は宮津市にあるのだが、ここにも尾根ひとつ隔てたところに穴虫が存在する。古代の官衙と国分寺等に穴虫が関係しているのではと思わせる部分があるのだが、果たしてどうだろうか。今年は体調が悪くて穴虫の調査がひとつも進まなかったのだが、ここに来てこの特別展でなにかヒントが得られるかもと思いやってきたのである。
 新たな丹波国府の説はどうやら池尻遺跡のようだ。南から国分寺、三日市古墳群、三日市窯、千歳車塚古墳、池尻廃寺、坊主塚古墳、天神塚古墳、池尻古墳群といったふうに重要な地帯であることには間違いない。古代の重要な建物跡からは瓦、土器、武具などの鉄器等が発見されるのだが、梵鐘などを鋳造する設備や坩堝(るつぼ)、鉄滓なども発見され、建物や備品などの金属製品を作り出す施設が付属されているようだ。
 穴虫が金属の精製や加工に関わる渡来人、穴師の居住地とする一般的な説を裏付けるひとつの例となるのかも知れない。
 しかし丹波丹後の国分寺がそうであっても、他の地域の国分寺や国府の近隣に必ず穴虫が存在するというものではなく、亀岡だけをみて断定出来るものではない。
 「情報の発信・受信 それは道」「川東・たんぼの下から郷土のお宝発見!」という冊子を購入する。前者には河原尻村の明治初期の絵地図が載っている。国分寺の建物は載っているが、国分尼寺つまり穴虫周辺は林になっており民家も無い。井尻のあたりに4軒の民家が載せられているばかりである。この地図は明治初めのものだが、近世の状況を示しているのではないだろうか。河原尻村に隠墓集落があり、葬送を取り仕切っていたことはすでに述べたところであるが(近世三昧聖と葬送文化・2015.1.20)火葬を扱っていたこと、火葬の場所がどこかは定かで無い。民家から隔離された穴虫の地に火葬の場所があれば、わたしの穴虫火葬場説の有力な証拠となるのだが、なかなかそうはうまくいかない。
 資料館を出ると石棺の蓋や灯籠など歴史的石造物が幾つか展示されている。昔はなんの興味も無くちらりと眺めて帰っていたのだが、今はそうはいかない。盃状穴らしきものは無いかと必死で眺め、触りまくる。しかしこれとてそう易々と発見できるものでは無い。

 

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穴虫考(153) 穴虫ファイル-5 2/9 

2015-02-09 | 地名・山名考

2015.2.9(月)雪 穴虫ファイル-5 草津市馬場町穴虫

 多くの穴虫が山間地、あるいは山間地から平地に出る地点にあるのだが、前回の河原尻穴虫とここは平地に存在する。山間の三方を山に囲まれた狭隘な地形という地形説はどうも怪しくなる。ここの穴虫は探すのに苦労した。市役所の字配図は既に新住居表示になっていて、地元で聞くしか無い。願信寺を訪ねて地元の年配の方を紹介してもらう。そして作業中の奥村さんに穴虫の位置を聞いた。予想していたのは東側の山間部、あるいは北部の墓地周辺なので意外な場所に当惑する。穴虫地名が古代に由来するとばかり思っていたので、馬場町に古代遺跡が存在せず、穴虫遺跡が中世のものと知って落胆した。
 しかし、穴虫地名が中世以降の地名ではないか、火葬に関係する地名ではないかと思いついて、思い起こしたのが願信寺である。炎天下フラフラになりながら何のあてもなくたどり着いたのが願信寺である。ご住職は不在で、穴虫がどこにあるのかは解らなかったが、檀家さんの奥村さんを紹介して下さった。

願信寺、浄土真宗大谷派、その時は知らなかった。
その奥村さんの家は解らなかったのだが、田圃で道を聞いたのが当人だった。こんな偶然があるだろうか。穴虫の現場からは何も解らなかったが、後日穴虫火葬場説を思い立ったとき、願信寺の宗派が何であったか調べて納得した。浄土真宗だったのだ。琵琶湖周辺が火葬地域だというのは書物で知っていたが、それは浄土真宗の盛んな地域でもあると言うことだ。

馬場町のお墓、おそらくここ一箇所かと思うのだが。
 穴虫火葬場説の出発点はこの馬場町穴虫でもある。もっと偶然は永年の友人山崎君の父方のお墓があの馬場町のお墓だということだ。
 しかしもしかつて火葬が行われていたとして、火葬場はお墓の近くが順当ではないだろうか。願信寺、穴虫、お墓は東西北の三角形の頂点という位置になっている。
 穴虫遺跡もそうだ、中世遺跡というので気にもしなかったのだが、穴虫が中世以降の地名だと考えるとこの遺跡が大きくクローズアップされる。それが何処にあったのか、堤防ならそれはいつできたのか、堤防は自然のものなのか、遺物は表面から出てきたのか地中から出てきたのか、いろんなことが想像される。穴虫に中世以降の火葬場遺跡があったならこれは大変。まさに楽しみの多いところなのである。

穴虫、草津川沿いの薮地

No.5 草津市馬場町穴虫 
①住所(旧住所)
  草津市馬場町穴虫

 

②大字小字、川、谷、橋、池等地名
  小字、草津川

 

③地形
  草津川右岸の堤防上、この堤防は人為的なものと思われるので本来は平地だろうか。堤防がいつの時代にどのようにして出来たか不明。
④近隣の地名
  墓尻、墓前、菖蒲谷、馬場
  穴虫の小分け地名は穴虫、植カケ田、馬場

 

⑤寺院、神社等
 願信寺(浄土真宗大谷派)馬場町で唯一の寺院

 

⑥金属関連、国分寺国府関連、宗教関連、その他
 周囲は製鉄遺跡多いが、この地には無さそうである。

 

⑦その他特記事項
  穴虫遺跡は土師器、須恵器、中世陶器の散布地とある。
  古代遺跡が存在しない。

 

⑧訪問記録
第一回 2014.5.30 市役所に字配図無く地元で聞いて位置を知る。その前に立ち寄ったのが願信寺で、ここでは穴虫の位置は解らなかった。穴虫の位置としては特異な位置である。無理矢理穴虫地形をこじつけたが無理。
次回訪問課題:穴虫遺跡の位置、状況等調べること。奥村さん、願信寺において火葬の歴史がないか聞くこと。寺と墓と穴虫の位置関係は何を表すか?
穴虫に遺物はないかなど

【今日のじょん】

おい、なに向こう向いてんねん
おとーに取られんように食べてんや
取るか、そんなもん
てなわけでよほど気に入ったか、やった途端に向こう向いて食べている。かぼちゃジャーキー

 

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穴虫考(152) 穴虫ファイル-4 2/8 

2015-02-08 | 地名・山名考

2015.2.8(日)曇り 穴虫ファイル-4 亀岡市河原林町河原尻穴虫
 穴虫考(151)は2015.1.26

 千代川町穴虫と同様に最初に訪れた穴虫である。穴虫のなんたるかもわからず、雲を掴むような状況だったが、山本光三氏の穴道説にはぴったりの二箇所だったのでときめくものがあった。千代川の穴虫は丹波国府跡候補地の真西にあり、河原尻穴虫は丹波国分寺の真西にあるわけだ。ところが前者は春秋分の夕日が穴虫に沈むだろうが、後者の場合は夕日が沈むような地形ではない。その後の多くの穴虫を訪れて穴道説が当てはまらないことがわかった。
 しかし始めて河原尻穴虫を訪れたときは、丹波国分寺跡の大きな礎石を見、その西に国分尼寺跡もあることを知って、古代の重要な地域であるということに気付いた。
 その後穴虫火葬場説を唱えるようになって、重要な近世の文書に出会う。河原尻村(かわらじむら)庄屋の遠山家の葬式帳である。遠山家の檀那寺は禅宗で土葬となっていたが、河原尻村の隠墓(三昧聖のこと、丹波ではこのように呼ばれていた)に依頼している。隠墓が居たということは火葬も扱われていたと思われる。隠墓の専門はやはり火葬なのである。そうすると近隣に火葬場が必ず存在するはずである。これが穴虫であったら、穴虫考も大団円というところなんだがそう簡単にはいかないだろう。次の訪問が楽しみである。

丹波国分寺跡の礎石、国分寺跡から府道に出るところ。小さな地蔵など目につく。

No.4 河原尻穴虫
①住所(旧住所)
  亀岡市河原林町河原尻穴虫

②大字小字、川、谷、橋、池等地名
  小字

③地形
 平地、大堰川から東に500m、七谷川から南に500m

④近隣の地名
野本、妙珍原、越シ記、菖蒲、蛇穴 

⑤寺院、神社等
延命寺 浄土宗西山禅林寺派(才ノ本31)超願寺 西山浄土宗(東垣内57)
宝光寺 臨済宗妙心寺派(河原尻29)  地持庵 曹洞宗(北垣内14-1)
妙円寺 日蓮宗(綾垣内23)  日吉神社(才ノ本22)

⑥金属関連、国分寺国府関連、宗教関連、その他
丹波国国分寺跡から200m、国分尼寺は穴虫の西南端付近、古代には相当賑やかなところと想像できる。

⑦その他特記事項
近世の隠墓が河原尻村田中に住居。庄屋遠山家の土葬葬儀を請け負っている。檀那寺は大日寺(禅宗)とある。火葬の例は記録に無いが、隠墓が火葬を得意としている点では河原尻に火葬場があったと想像できる。

⑧訪問記録
第一回2013.8.13 国分寺を中心的に見る。穴虫遺跡があるのだが、どのようなものか未調査。
今後の課題:穴虫に火葬場が存在していないか、寺院を中心に調査。国分尼寺、穴虫遺跡も調査必要

【作業日誌 2/8】薪割り

【今日のじょん】先日お知らせの散らかったジャガイモ、よ~くみればサツマイモが混じっている。どうやら人為的に捨てられたものらしい。一番獣が多い場所なのですぐに喰われると思ったのだが、まるっきり手がつけられていない。ということは、、、、ひょっとすると毒物でもなどと勘ぐってしまう。

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穴虫考(151) 穴虫ファイル-3 1/26 

2015-01-26 | 地名・山名考

2015.1.26(月)雨 穴虫ファイル-3 千代川町北ノ庄穴虫

 最初の穴虫訪問が当地である。2013年8月13日、この後に河原尻穴虫を訪れている。もちろん穴虫のなんたるかは解らず、とにかく現地を見てみたいの一心である。千代川から本梅(ほんめ)に抜ける道はよく知っていたから、穴虫の位置はすぐに解ったが、この穴虫こそ香芝市の穴虫峠、山本光三氏(大和の原像)のいう穴道説にぴったりの地なのである。丹波の国府(候補地)の真西に穴地形の谷があり、春秋分には将にその谷(千々川)の中に夕日が沈むのだ。千々川を遡るとやがて本梅川である。本梅盆地に際立った古墳は見られないが、群集墳が本梅盆地の要所に形成されている。(日本の古代遺跡 京都Ⅰ)そしてその街道こそ古代山陰道の可能性が高いといわれている。山本氏の穴道説にロマンを感じていたので、いきなりこの地を訪れて信奉してしまった。次に行った河原尻穴虫がこれまた、丹波国分寺の真西にあるのだ。その後の穴虫調査ではこのような地形配置は現れず、穴道説は諦める以外無かった。

東からみた北ノ庄穴虫の谷、香芝市の穴虫峠とそっくり。
 しかし穴虫の位置は、谷が山地から村に出てくるあたりにあり、その谷の上流に葬地や葬地地名があるというパターンが多く見られ、穴虫パターンと名付けた。北ノ庄穴虫の場合、上流に青野と言うところがあり、一応葬地地名としたのだが、その証拠はない。なお、捨場という小字は存在している。
 北ノ庄穴虫は谷が平野に出るところの、扇状地の頂点といった感じのところで、岩城神社と薬師堂のみの小さな三角の小字である。火葬に結びつけるのは困難な感がするが、浄土宗と浄土真宗の寺院があり、このあたりから手がかりが無いものか訪ねてみたい。

岩城神社と薬師堂とその奥の林が小字穴虫。


No.3
①住所(旧住所)
  亀岡市千代川町北ノ庄穴虫

②大字小字、川、谷、橋、池等地名
小字、

③地形
穴地形、谷川(千々川谷)が平野に出るところの末端部。
④近隣の地名
鳴滝、千々尾
上流は青野があり、捨谷もある。

⑤寺院、神社等
岩城神社(祭神市杵島比売命)と薬師堂のみが穴虫。
浄土真宗本願寺派光福寺(北ノ庄明谷)
浄土宗嶺松寺(北ノ松東谷)
⑥金属関連、国分寺国府関連、宗教関連、その他
行者山南にはタングステン鉱床の大谷鉱山が在り、神前あたりまで多くの𨫤が在った。黄銅鉱、黄鉄鉱、磁流鉄鉱他の鉱石を含み、行者山周辺には古い縦坑なども残ると聞く。穴虫は同じ岩層上にある。
丹波国府跡候補地西、
旧山陰街道

⑦その他特記事項 

⑧訪問記録
第1回2014.8.13
近所でも穴虫の地名を知らない。両寺院の聞き込み必要か。金属関連の地濃厚。

【作業日誌 1/26】ベッド組み立て、一日仕事

【今日のじょん】数日前からフードにシニア用が混じっている。二月中にはすっかり入れ替わるだろう。だって3月で7歳だもんね。

 写真は記事とはカンケーありまセン

 

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穴虫考(150) 穴虫ファイル-2 1/25 

2015-01-25 | 地名・山名考

2015.1.25(日)晴れ 穴虫考(149)は2015.1.22

 穴虫ファイル2は高島市マキノ町西浜の穴虫である。過去にあちこちの穴虫を何度も訪問したような気がするが、実は一度ずつしか訪問していないのだ。それなのに何度も訪問したような気になるのは、連日地図を眺め、参考資料を探り、地元の資料館や役所に質問をしたり、知り合いになった方に協力を願ったりで机上の調査が進んでいるからだ。そんな意味で西浜の穴虫については、奥野さんという協力者に出会い、最も調査の進んでいる地域となっている。
 何よりも画期的なのは権水遺跡の骨蔵器の発見である。台風による土砂崩れによって偶然に発見されたものだが、奥野さんに教えてもらわなかったら永遠に知ることのなかった事だろう。思えば始めて西浜を訪れたとき、穴虫については何の考えもなくて、ただ現地はどのようなところか見てみたいだけの訪問だった。それが草津や香芝の穴虫を訪ねる度に火葬に関係するのではないかという思いがわいてきた。権水遺跡の骨蔵器がなぜ画期的かといえば、その地で火葬が行われていたという事実の他に、香芝市の穴虫と多くの事柄で一致点があると言うことである。骨蔵器、別所地名、金属関連、真宗寺院などだが、もちろん偶然に一致しているだけのものもあるが、西浜の穴虫はある程度ピンポイントで穴虫地名を絞ることが出来るので、期待するものも多い。

これは藤波園の最奥から撮った谷である。この地を訪れる前に高島市役所で字配図を確認してきたのだが、手書きで写してきたものでこの谷が穴虫だと思っていた。しかし後々奥野さんからいただいた地籍図の写しなど見ると、ここは別所で穴虫は右手の尾根の更に東側だと解った。(2014.5.13)

No.2 西浜穴虫             
①住所(旧住所)
高島市マキノ町西浜穴虫

②大字小字、川、谷、橋、池等地名
小字、印内川

③地形
山地、山崎山(307m)から南西に下る広い谷(凹部)の平地に至る地域がピンポイントの穴虫と思われる。小字穴虫は尾根と尾根の間の広い地域である。

④近隣の地名
別所、長谷、印内前(印内には江戸期までには陰陽師が居住していたー別所事典)
御墓

⑤寺院、神社等
海津天神社(菅原道真、大鍬神社、小野神社等の境内社有り)
権水寺(真言宗だがもとは天台という説有り、2011年骨蔵器出土)
真宗(斎栄寺、誓行寺、蓮光寺)浄土宗(青行院)
⑥金属関連、国分寺国府関連、宗教関連、その他
マキノ製鉄地帯
権水遺跡の骨蔵器は室町期の壺
海津天神社裏山に鉄滓出土ー別所事典

⑦その他特記事項
権水遺跡の骨蔵器は穴虫から900m、小字別所は西隣、ベッソはすぐ隣、これらは香芝市穴虫に類似。
穴虫の真北尾根上に御墓が有り三基の石塔有り(未確認) 

⑧訪問記録
2014、5,13別所、穴虫を訪問。位置確認のみ。奥野氏に出会い情報を頂く。マキノ製鉄遺跡、澤の古墳等訪問。
次回訪問課題:骨蔵器、五輪塔及び出土地、権水寺と真宗各寺と火葬場確認
海津天神社裏山鉄滓確認、穴虫現地確認、御墓の石塔確認

【作業日誌 1/25】ベランダ踏み台ほぼ完成(あと上部に滑り止めを貼るだけ)

行ってき文庫引き出し完成(経費、取っ手105円、内張化粧紙105円、計210円)


【今日のじょん】今朝は妙にいろんなとこ嗅ぎ廻るなあと思っていたら、ヘイヘイが飛び出してきた。離れて夜中中ウロウロしていたみたい。

こんなところも行きたがるのは?

 

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穴虫考(149) 火葬-19 1/22 

2015-01-22 | 地名・山名考

2015.1.22(木)雨 近世三昧聖と葬送文化を読む-3

 穴ぬりに関して他の文書が出てきた。堺の三昧聖について書かれているところで、堺今市町の山家屋利兵衛家文書に残る葬式帳が紹介されている。(P194)
 中略ーこれも五月一八日付で「向井領三昧聖中」が山家屋利兵衛に差し出した受納書の「掃除穴ぬり料・木藁料」青銅三貫七〇〇文と同一とみていいだろう。

 また、貝塚の西之町に住む吉村家の葬式帳について次のようにある。(P196)
 たとえば、天保六年に亡くなった「たけ」(生後七日で死亡)の葬送では、杉本に対して礼銀一匁五分と「木わらぬり代」(火葬料であろう)二匁五分五厘云々

 上ぬり内の穴、穴ぬり料、ぬり代というように変化しているのだが、先に予想したように既に上塗りされた上等の火葬穴を使用したというより、その都度何かの作用を施したという風に考えられないか。固定の火葬炉を使い回す場合、焼かれた後は収骨、灰のかきすてなどで炉内表面が荒れることが想像される。それを掃除し、表面を粘土等で塗ってきれいに仕上げるということが上等の火葬炉として貸し出せるのではないだろうか。そう考えると「たけ」の葬送の「木わらぬり代」というのは木わら代とぬり代と分かれているのだろうし、前文の「掃除穴ぬり料・木藁料」という文言で納得がいく。
 なぜ穴ぬりにこだわるのかといえば、葬送が華美になってきたという考えも出来るが、火葬技術の向上発展の一例となる可能性もあるという思いである。しかしこれらのことについてはあくまで想像の域を出ないので、より多くの資料を読む必要がある。
 著者の意図とは裏腹に重箱の隅を突くようなことをしているのだが、中世近世の葬送、特に火葬の実態を知るには恰好の本であった。また世間一般には知られていない三昧聖の実態もかくも詳細に記されている本はないだろう。
 穢とか死穢などの民俗学的問題や中世近世に対する考察も実に鋭い視線で展開されている。ただ穴虫考で書くべきは上記の重箱の隅の事柄なので、これらについては省略する。おわり

マキノ町別所穴虫方面、このあたりに火葬場遺跡は見つかっていないかと歴民資料館に問い合わせる。
残念ながら見つかっていないとのこと。

 【今日のじょん】だんだん飼い主に似てくるとはよく言われることだが、じょんは最近随分寝坊になってきた。朝はかみさんが先に降りるのだが、サークルの中で尻尾ぴこぴことするだけ、ちっとも出てこないと言っている。今朝など極めつけで、雨のためレインコート着せたら、またサークル入ってしまったとか、、、。
おとーが降りてきたらしゃーないから出てきたところ。
 

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穴虫考(148) 火葬-18 1/21 

2015-01-21 | 地名・山名考

2015.1.21(水)曇り 近世三昧聖と葬送文化を読む-2

 著者の意図に沿うことなく、発見した事はやはり穴のことである。下八田村(現亀岡市)庄屋の杉原家の文政六年葬式帳に次の一文がある。
一拾五匁 西野々火屋ノ穴埋、真中壱ツ新拵候日雇賃、西ノ庄八へ遣
一拾匁  焼斗代

 天保六年葬式帳には
一弐拾目 西のゝ火屋之内、上ぬり内ノ穴、真中壱ツ拵候日雇賃、西ノ庄八ヘ遣ス
一拾匁  焼斗代遣ス

と記されている。「火屋ノ穴埋、真中壱ツ新拵」あるいは「上ぬり内ノ穴、真中壱ツ拵」とは、西野々の火屋内に複数の火葬穴があって、そのうち中央のーおそらく最上等のー火葬穴を用いた状況を示しているのであろう。(P169)

 これで穴というのが火葬穴、つまり火葬の炉、釜を示すものだということがわかる。「中世の葬送・墓制」に登場する「穴等拝見」の穴とは火屋(火葬場)の中にある火葬炉だろう。また、「穴賃」こそ拵候日雇賃のことだろう。
 穴虫仮説を出して以来悩んできた穴の意味がここにきてはっきりしたわけだが、新たな問題も出てきた。
 焼斗代とは、著者木下氏は火葬穴拵料とは別立ての火葬料を指すものと思われる、という風に書かれているがそれが何を意味するかは分からないようだ。他の文献にも焼斗代というものは出てこない、燃料費あるいは一晩火の番をする手数料だろうか。そのうち判明するだろうと思っているのだが、問題は「火屋ノ穴埋、上ぬり内ノ穴」である。
 穴埋は穴と同じ事なのかもしれないが、埋とは解せない言葉である。火葬炉を埋める事はあり得ないからだ。また、上ぬり内ノ穴、上ぬりとは一体何のことだろう。
 もともと火葬は平地に燃料を積んで遺体を燃やしていただけだろうが、やがて浅い穴を掘る、その穴部分を平らな石などをはめ、常設となる、という風に進化し、近代になると屋根があり、石はレンガなどに変わってくる。とまあ遺跡の写真などで想像しているのだが、この石張りの底や壁部分が粘土等で上塗りされているものではないだろうか。これらの進化は燃焼効率、保温性、収骨のしやすさなどの向上が考えられるが、炉の表面をきれいに仕上げるのは喪家により高級な火葬を選んでもらえるという効果もあるのではないだろうか。つづく

【作業日誌 1/21】ベランダ踏み台作り、引き出しまで完成

【今日のじょん】暖かい日が続くともうこれで春が来るのではと錯覚する。雪遊びももう出来なくなるかもと、雪山ぽんぽこをする。そういえば散歩道にはもうふきのとうが出ていた。いやいや節分が済むまでは油断したらあかんで。
 

 

 

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穴虫考(147) 火葬-17 1/20 

2015-01-20 | 地名・山名考

2015.1.20(火)雨 近世三昧聖と葬送文化を読む-1 
              
穴虫考 火葬-17は2015.1.15

 中世の葬送に関する本を軒並み読んで、穴が火葬場を表すらしいことを一番最初に読んだ「中世の葬送・墓制」の中に見つけた。これはどの文献にも出てくるぞとばかりに読み続けても一向に出てこなかった。著者の水藤先生に直接問い合わせてもよく解らない結果だった。中世がだめなら近世の葬送に関する本を読もうと最初に手を取ったのが本書である。そしてその中で、穴が火葬炉を表す事を見つけるのである。このことは既に書いたのだが、もう一度確かめておこう。
 「近世三昧聖と葬送文化」(木下光生著)塙書房 2010年9月5日第一版発行 府立図書館借本

これほどポストイットを使った本もめずらしい。
 本書を読む目的は、穴について書かれていることを探すこと、火葬の技術的なこと、特にその発展の様子を探ることであって、これは著者の意図するところとはまるで関係ない。本をどのような目的で読もうと読者の勝手だといえばそのとおりだが、著者に対してはあまりにも失礼で申し訳ないと思っている。「中世の葬送・墓制」では著者の水藤先生の意図とはまるで関係ないことを質問してご迷惑を掛けた。にもかかわらず丁寧にお手紙を頂き、励ましの言葉までもらって恐縮している。
 そんなことだから、どの本を読むときもまえがき、あとがき、著者略歴は先に目を通して、著者の目的、意図を把握し、それに沿って読んでいくことにしている。だから自分の目的が達せられた後も最後まで読むことにしている。
 本書は序章の中にそのことが書かれているのだが、実に30ページを超える長文で、理路整然と葬送文化の研究分野における課題が書かれている。一読しただけでは難解な部分もあるが、端的に研究に対する著者の見解が示されていて価値のある文章である。といっても何のことかわからないだろうから、最初の文を紹介しておこう。
 「本書は、近世日本の畿内近国社会で埋火葬・墓地管理の専門家として生きた、三昧聖(さんまいひじり・おんぼう)の実態解明を通して、日本近世史研究の中で三昧聖・葬送・死という分析対象を取り扱うことの積極的意義を模索するものである。」

 過去に読んできた葬送に関する書物では、墓地、火葬場、葬送、費用、仏教、寺、遺棄葬に関しての記述が主で、三昧聖については古文書の中に顔を出す程度であった。本書ではそれが主人公であり、三昧聖の実態、三昧聖からみた喪主、喪主からみた三昧聖、行政との絡み、相続や婚姻関係、居住、日常生活、近代への移行、賤視との戦い、灰や煙の公害、葬具業者等々あらゆる方面から三昧聖を見つめて書かれている。
 大坂、堺など都市部の墓所について書かれているものがほとんどなのは、三昧聖が本来火葬の技術職である事を示している。大坂道頓堀墓所の火葬人数が年1万人を超える年があるというのは驚きである。そのうち火葬は90%程度だということだ。則ち都市部では火葬がほとんどで、三昧聖の仕事は大部分火葬の処理と言うことだろう。
 本当は地方のことが知りたいと思っているのだが、第四章は「口丹波地方における隠墓の存在形態」というもので、旧桑田郡(亀岡市周辺)の隠墓(三昧聖のこと)や葬送の様子が詳しく書かれている。近世後半ではあるが、地方においても隠墓や葬具業者が居て、葬送の外注化がなされていたことは意外である。
 河原尻村(かわらじむら)庄屋の遠山家の葬式帳には隠墓や葬具業者までが登場し、土葬で行っているのだが、隠墓が居ることは火葬も行われていたとみるべきで、穴虫との関連も想像可能である。つづく

【作業日誌 1/20】ベランダ踏み台作り、丹州行ってき文庫引き出し作り

本当は薪割りしたかったんだけど、雨のため工作となる。

【今日のじょん】雪が解けてきたら、じょんのうんPがいっぱい出てきた。なんと18回分出てきたぞ。



 

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