晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

あなしら上林(21) 9/30

2016-09-30 | あなしら上林
2016.9.30(金)曇り
三、上林の盃状穴、その十 善福寺④
 古の人の祈りの形態として盃状穴があるとしたらいったい何を祈ったのだろう。記録も言い伝えも残っていない盃状穴のこととて想像するしかないのだが、安産祈願としたらどうだろう。実は盃状穴は諸外国にも存在していて、性シンボルとされている場合が多く、子孫繁栄、男子出産祈願などの言い伝えのある国が多い。縄文期以降の石棒が男性シンボルとして子孫繁栄、五穀豊穣を祈られたと同様に、石盤に穴の穿たれた女性シンボルも存在しているのだ。盃状穴がそれらを引き継いだものだとしたら、安産祈願の対象となることは考えられることである。安産祈願とすればそれは女性の手になるもので、盃状穴が居住地の近くに多いこと、善福寺の石段の極下段に集中していることも納得がいく。あの急な石段の上部には妊婦が上がるのは危険きわまり
ない。

(善福寺の盃状穴は石段下方、民家の近くに集中している)
 上林には確認していないが、手水鉢の縁に穿たれた盃状穴は異質なものを感じる。石質は堅く、穴は異様に大きく深いのだ。これは妊婦が安産祈願のために祈る行為とはとても思えない。どう考えても男手の仕業と思われるのだ。男衆が公認で盃状穴を穿つとすれば、手水鉢という特殊性も考慮すると、雨乞いの祈願、神事とすればどうだろう。
 龍の口からほとばしる水を満々とたたえた手水鉢の縁を、降水を願い必死に穿っている若者を想像してみよう。手水鉢の力強い盃状穴を見るとき、そういう光景が目に浮かんでくる。

(園部町内林町の八幡・厄神社、八木町鳥羽の八幡社)

 そんなとき引地の方からうれしい情報が入った。地元のお年寄りが「善福寺の石段の穴は子供のいたずらだ、私も穴をあけて遊んだ」というものだ。盃状穴の製作方法について関心を持っていたわたしにはこの上ない貴重な情報だ。というのは数ある文献にも盃状穴で遊んだという人はあるのだが、盃状穴を穿ったという情報は無いのだ。この聞き取りは未だ行っていない。いずれ整理してご紹介したい。つづく
                                     上林たんけん隊(カフェじょんのび内)
【今日のじょん】昨日からいくみちゃんが来てるので表情も行動もいつもとまるで違う。明るく活動的でいったい何なんだ。

 
 
 
 
 

 

 

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雨読 「日本の地名」 9/28

2016-09-28 | 雨読
2016.9.28(水)雨
 
 「日本の地名」60の謎の地名を追って  筒井功著 河出書房新社2011年1月初版 綾部図書館借本
 
 地名に関する本は数多あり、瞬く間に本棚が一杯になってしまった。中には怪しげな内容のものもあり、なぜそんなものがまかり通るのかといえば、地名についてはどんな解釈をしても確証は得られないからだ。
「もちろん、地名の解釈に確証を求めるのは酷だといえる。ほとんどの地名がいつごろ、どんな動機で名付けられたかを示す資料など残っていないので、おおかたは比較や傍証にもとづく合理的推測をもって、よしとするほかないからである。」(P173)
「その中で地名研究は、どうも影がうすいようである。労の多い割に、確かな手ごたえの成果が得にくいことが一因かもしれない。実際、地名の解釈には逃げ水のようなところがある。一度はたしかにつかんだと思っていても、ふと見なおしたら掌中に何も残っていないような気になることが珍しくない。ときには、これまでの一切が幻想にすぎないのではないかと不安にかられることもある。」(P184)
 実はこのような思いはわたしも常に抱いていて、読んでいてドキリとした。筒井氏が地名研究に如何に真摯に取り組んでおられるかということがひしと伝わる。
 氏の地名解釈の基本は古語であるとされているようで、弥生時代の日本語と現代日本語は同形の言語だろうと推測されている。わたしも同感で、日本の地名は基本的に日本語で解釈すべきと考える。アイヌ語、朝鮮語、その他の言語に発する地名もいくつかあるのだが、それらを提唱する研究者の欠点はすべての地名をそれで解釈しようとしていることだ。ましてやほとんど残っていないという古代朝鮮語やレプチャ語なんて聞いたことも無いような言語で解釈しようというのは無理があろうというものだ。
 本書に登場する気になる地名は、生野、下呂、石風呂、古氷、六呂師、設楽、斑鳩、歌、桜、姥ヶ懐、矢作、市ヶ谷、沓掛である。中には結論の出ていないものもあるが、従来の説とは随分違うものもある。わたしとしても納得のいくものもいかないものも、判断のしようがないものもある。受け入れがたいのが斑鳩(いかるが)である。「この地名が付いたころ、そのあたりににはイカル(鳥)が群れ飛んでいたのだろう。」(P118)これは失望である。
 嬉しいのは市、一(いち)に関する考察である。市については従来説の多くが市場という解釈で、一については一番目という解釈が多い。氏は市についても市が立つような場所では無いところも多く、一についても山中の寂しいところが多く、二、三とつづく地名も見当たらないと従来の説に疑問を抱いている。上林地区にも市茅野(いちかや)、市志(いちし)、一ノ瀬(いちのせ)などあるが、いづれも山間部である。氏はイチは神と人を繋ぐ人、つまりシャーマン、巫女のことではないかと説いている。これもそのまま合点するわけでもないのだけど、市、一(イチ)というどこにでもいくらでもある地名に焦点を当てられたのは他の研究者に見られない姿勢である。
【今日のじょん】アレルギー体質でお腹や口内、肉球など真っ赤になってただれていた。どういうわけか今まで副作用のきつかったステロイド剤が飲めるようになり、かなり治ってきた。昨日そろそろ薬やめようかとキャドックさんに行く。久々の外出のためか妙に興奮し、車の中でも緊張しっぱなしだった。するとどうだろう、白かったお腹が又しても赤くなってきたのだ。テナ訳でしばらく薬続けるんだって。


キャドックさん遠望、怖いよ~腰引けてるで、やっと終わったウンチしとこ
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今日のじょん 9/25

2016-09-25 | Dog

2016.9.25(日)雨

 長らく休んでいたので今日のじょん特集をご覧あれ。
ニューモモ現る! 
9月15日
 なんと言ってもビッグニュースはモモちゃんの生まれ変わりニューモモちゃん、ジャックラッセルテリア、2ヶ月、♀だって。かわいいこと、おかーがかわいがるのでじょんはやきもちやいている。


9日後に来たらちょっと変わった感じ。

盲導犬チャリティTシャツ
 いるまんさんで買った盲導犬チャリティTシャツ、以前はいやがったのに最近は平気、なかなか似合うのダ。


名前ど忘れ、舞鶴のカイ君やったかな~、ミニチュアシュナウザー9月19日

今日の来じょんは憶えてるで。

たいが♂2さい、ピピちゃん♀4さい、たいが君は超元気で大変!




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ブログ再会 9/23

2016-09-23 | 自転車

2016.9.23(金)曇り

 長らくお待たせしました、本日よりブログ再開します。

パソコンは修理に出した結果54,000円の修理見積もりになり買い換えたのだが購入から3年しか持たなかった高価なパソコンはいったい何だったのだろう。「ディスクの交換が必要ですからこのくらいかかります」と簡単に言われても、こちらの言い分も聞いてくれ、NECは3年で壊れる不良品を作り、ジョーシン電気はそれを売りつけたってことじゃないのか?だれかすみませんでしたとひとこと言ってくれ。

 さて今日はお久しぶりの里山サイクリングである。台風や何やらで雨続きだったのだがようやく明かって初恋号7世のデビューとなった。FMいかるの井関さんが来ておられるので、さっそく取材してもらう。以前には日本一周の初恋号6世を取材してもらったのだが今回は幻のフレームビルダー萩原草さんのフレームだぞと言ってもどうもインパクトが無い。京都と言えばエルバだろうと息巻いても誰も知らない。往年の自転車オタクはどこへいったのだ。

 ゼッケン1は初めて、福山さんご苦労様。
 まあとにかくのんびりと市志まで走る。市志ではおなじみの面々が休憩所で迎えてくれる。さっそく前回見つけられなかった舞鶴要塞の石柱を取材に行く。石段に使われているとばかり思っていたのが、側の石材として使われていたのだ。稲荷神社と言っただろうか、盃状穴の有無も確認のため社殿まで登る。石材はすべて硬そうなものばかりで盃状穴は見つからない。民家から近いという条件は満たしているが、柔らかい石材が存在するという条件は無い。これは大唐内の聖神社と同様の結果だ。

舞鶴要塞の石柱がこんなところに使われている。本殿周辺に盃状穴は無い。

 午後に所用があったので早々に帰還する。老富のとち餅ぜんざいをいただいて、帰宅入浴したら大雨になってきた。ロングタイプの方は気の毒なことだが、大会本部はラッキーな天候だったかもしれない。何しろ開催の前後はすべて雨だったのだから。

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もう駄目だ 9/12

2016-09-12 | 日記・エッセイ・コラム

2016.9.12(月)曇り

 再度リカバリをしても使い物にならない。このブログにたどり着くまで約5分はかかる。最低一度は再起動が必要であり、ついにはブログにたどり着くまでにフリーズすることもある。こうやって書いている間もいつ止まるやら冷や冷やしながら書いている。1時間の作業をする間に2時間ほどの保守作業が必要となる。もう勘弁してくれ。あきらめてシャットダウンしたら一晩たってもディスクが稼働している。やむなく強制終了すると、翌日はスキャンや自動修復で10分は立ち上がらない。購入してまだ三年だぜ、10万円もしたのにどうしてくれるんだ。とにかく明日修理に出すことにする。3年保証が切れたとたんに具合悪くなると言うのも頭にくる。この上修理代がかさむようなら、思い切って新品にしよう。ストレス溜めて病気になるより安上がりだ。
 というわけで本ブログもしばらくお休みと言うことになるので悪しからず。かみさんのタブレットで更新できないこともないけど、あのタッチパネルはどうも性に合わないのネ。

「今日のじょん」じょんも具合が悪く、動作がにぶく、歩くのがつらい、おなかの皮膚病は広がり、その上食事がとりにくくなってきたのだ。嚥下が難しいのか口の中に食べ物がたまっている。食べたいのに食べられないという感じだ。これは由々しいことだ。これもとにかく病院に行ってみよう。

これは固まって動かない様子。
 
 

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あなしら上林(20) 9/8

2016-09-08 | あなしら上林

2016.9.8(木)雨

 三、上林の盃状穴、その九 善福寺③
 盃状穴の最大の謎はなぜ、なんのために穿たれたかということだ。古代のもの(一義的盃状穴)は別として昭和初期頃までに穿たれたもの(二義的盃状穴)はこれほど近年まで穿たれており各地で普遍的に存在しているにもかかわらず、その目的や方法は文献にも言い伝えにも残っていない。このことは盃状穴穿孔は極一般的で、世間に認められた、当たり前で日常的な所作だったのではないだろうか。研究者の間では、民衆の祈りのための所作といわれている。しかし巷間では子供の悪戯だろうという意見が圧倒的である。
 確かにあの盃状穴で遊んだという人はあるだろう、草搗き遊びといって一種のままごとのような遊びである。実際に掘ったという人もあるかも知れない。でもそれは目的があって掘ったのではなく、以前からあった穴を真似て掘ったのではないだろうか。
 善福寺のように大きな穴や手水鉢が壊れてしまうほどの穴、歴史的に重要な鳥居や石碑、宗教的に大切にされている仏像や地蔵さまにも穿たれているのである。それらは人目に付かないどころか堂々と建物の正面や通りに面したところにある。子供が悪戯でやっていたとしたらどんな時代でも諫めることになるだろう。例えば園部町内林町の八幡・厄神社の手水鉢など、これを子供が掘っていたら大人はそれを許すだろうか。隠れて密かにやる悪戯ではなくて、世間に認められた行為だったとすると合点がいく。

園部町内林町八幡神社手水鉢
 今まで調査した神社仏閣で特徴的なことは、盃状穴が存在する確率が高いのは、住居の密集したところで、集落から離れたところには見つかっていないことである。ここで大胆な想像をしてみたのだが、盃状穴は夜に穿たれたのではないだろうか。もし大人による祈りの行為だとしたら、江戸時代など男も女も昼間から石に穴なんぞ掘ってられない。お百度参りのように夜な夜な少しずつ掘っていったのではないだろうか。掘りかけの盃状穴も多く見られるが、途中で願いが叶ったのかもしれないし、諦めたのかも知れない。
 大胆な想像をしてみたのだが、盃状穴は夜に穿たれたのではないだろうか。もし大人による祈りの行為だとしたら、江戸時代など男も女も昼間から石に穴なんぞ掘ってられない。お百度参りのように夜な夜な少しずつ掘っていったのではないだろうか。掘りかけの盃状穴も多く見られるが、途中で願いが叶ったのかもしれないし、諦めたのかも知れない。
 住居の近くに多いのも、善福寺の長い石段の極下部の住居脇に偏っているのも現地への行きやすさ、家の灯りを考えれば、夜穿孔説が妥当性を帯びてくる。

 京都帝釈天(八木町船枝)の参道入り口民家脇に盃状穴があるのに、山道を1Km近く登った本堂に一切見られないのもうなずける。

京都帝釈天では参道入り口に盃状穴があり、山を登った本堂には見られない。
 では古の人々は一体何を祈ったのだろう。つづく

                                         上林たんけん隊(カフェじょんのび内)

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雨読 病気の9割は歩くだけで治る 9/7

2016-09-07 | 雨読

2016.9.7(水)

 腰痛を歩いて治す方法を研究してきたのでこの本が出版されていることは知っていたが、読むつもりは無かった。簡単に答を得るより、自分で考えて答を出したかったからだ。舞鶴市の書店で他の本を探していたとき、ふとこの本に気づき、ぱらりとめくったときに腕の振り方について書かれていた。わたしの歩き方の基本はデューク更家氏の「ウオーキング考」に依っているのだが、腕の振り方に関してどうも納得いかない部分があった。それが本書ではデューク更家氏の例を出して腕を後ろに振ることは肩胛骨を動かすことだと解説してある。肘をお腹より前に出さないという腕の振り方がようやく理解できた。
 「病気の9割は歩くだけで治る」長尾和宏著 山と渓谷社2016.2初版第4刷 購入1200円

 オリンピック関連の番組で競歩が取りあげられていた。腰痛の研究を始めてからスポーツ観戦の場合でも選手の体形、筋肉、フォームなどを注視するようになった。競歩ではあの独特の足の送りが興味あるところだが、気になる腕の振りを見逃さなかった。腕は後ろに振られている、更家氏のいう腕振りは美しさだけではなかったのだ。歩くために合理的な振り方なのだろう。ランニングにおける腕の振り方とは明らかに違うものである。 
 本書では生活習慣病、認知症、うつ病、不眠症、便秘、逆流性食道炎、線維筋痛症、がんなど特に近年注目されている病気を主になぜ歩くだけで治るか解いている。セロトニンやノルアドレナリンといった脳内ホルモン、免疫系、自律神経系など分かり易く書かれているが、歩いて治るというより歩かなくなってこれらの病気が出て来たと言っても良さそうである。そして現代の薬に頼った医療を鋭く批判している。健康になるための歩き方を紹介し、歩くことで人生まで変えてしまうというだれもに読んで頂きたい一冊である。

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雨読 笑うとなぜいいか? 9/5

2016-09-05 | 雨読

2016.9.5(月)曇り

 ストレスを減少させる方法は「つくり笑い」と「ため息」というのをある健康番組で聞いたのだが、どちらも一般的にはあまり良くは思われていない行為である。ため息は深い呼吸となり、体内に酸素を十分に取り込む効果があるそうである。なるほどと思うのだが「つくり笑い」というのは何とも不可解な感がするが、要は「笑い」に効果があるようだ。ストレスをためている人が笑うことはできない、だから無理にでも笑え、つまりつくり笑いをしようということらしい。
 でもなぜ笑いがストレス減少となるのだろう。じょんのびメソッドをし始めて笑い、笑顔が怒りやイライラを鎮め、痛みさえも軽減することがわかった。セロトニンが分泌されるのだろうということはおぼろげながらわかるのだけれど、笑顔になるとなぜそうなるのかはわからない。科学的にどういうことなのか知りたくて、この本を選んだ。

 「笑うとなぜいいか?」斎藤茂太著 2015年12月第3刷新講社発行 綾部市図書館借本
 ところが本書は私が求めているような内容の本ではなかった。少し近いものは下記の文である。
「医者として、少々専門的なことをいおう。眉毛を吊り上げて、うんうん唸っていると、脳の中にノルアドレナリンという物質が出てきて、気持ちが圧迫されたような状態になる。これはいけない。一方「笑い」には精神を緩和させる作用がある。脳の中にベータ・エンドルフィンという物質が分泌されて気持ちいい。リラックスした状態を作り出してくれる。この状態がいいのである。」(P55)
 あとはいかにして笑うか、いかにして笑わせるか、いろんな話がこれでもかと出てくる。読みながらひとりで「わっはっは」と笑ってしまう。あっという間に読んでしまった一冊である。なぜか次の話が一番気に入った。普通はあまりどうってことない話なんだけど、茂太先生と感性を一にするような気がしてうれしくなった。
「第二次世界大戦中、ナチスからバンバン爆弾を打ち込まれた際に、イギリスの宰相であったチャーチルは防空壕の中で側近の将校たちに『もう少し、笑ったらどうかね』といった。」
 心が沈んで笑うことができなくなったあなた、是非この本を読んでもらいたい。

「今日のじょん」 9月1日にもも姉さんが4回目の最後のお別れに来た。前回と違ってずいぶん弱っていたので本当に最後になるかも、、と思っていたら2日に亡くなってしまった。18歳の大往生である。かみさんは「可哀想に可哀想に」と言っているが、わたしの母と同様で充分な年になれば生きていることが可哀想なのであって、亡くなることは目出度いことなのである。「おめでとう、良かったね、ゆっくりしいや」と言ってあげたい。

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